私的ページ:山田晴通

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 合衆国中西部・南部日記:

 2010年 8月27日〜 9月16日 

   
            
      
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 今回の旅行は、「ポピュラー音楽にみるローカルアイデンティティの日米比較研究」をテーマとした科研費の補助を受けた現地調査が目的でした。
 今回の旅には、身内が同行しています。文中にある料金のうち、宿泊費は2人で泊まる場合の金額です。この旅行では、1米ドルは85円くらいでした。

 見出しに示した地名のうち、青字はその日に訪れた主な場所緑字は宿泊地です。
 また、途中で現れる血圧の測定値は「高-低-脈拍」です。

 このページは、2010年9月25日に、とりあえず文章だけを掲出し、その後10月5日に画像を追加しました。(2010.10.05.)
■ 2010/08/26 (Thu)
出発前日、成田前泊

成田市
成田Uーシティホテル
 今回は、科研費による出張で、旅程の前半は、共同研究者の現地調査の支援というか、共同調査という形をとっている。出発便は昼なので、当日朝早くに国分寺を出れば間に合うのだが、成田で前泊して、研究代表者のT氏と打ち合わせをかねて会食することになった。午前中は、研究課での諸手続きをしたり、荷造りをして、昼過ぎに国分寺を出発する。連れの買い物につきあって六本木のハードロック・カフェに立寄り、昼食を済ませた後、HRCの上野店にも立ち寄り、珍しく京成を使って成田へ行く。北総線を延長して新しくできた空港へ直行する「スカイアクセス線」ではなく、京成本線の快速特急で成田へ向かい、6時過ぎに成田駅に到着した。JR駅西口にある宿、成田Uーシティホテルの806号室にチェックインし、ざっくりと風呂に入って一休みしてから、午後8時ころに宿を出てイオンモール成田へ向かった。イオンモールでは、ブックオフやダイソーで買い物をした後、ハードロック・カフェで夕食をとった。当初の予定ではT氏とここで合流するつもりだったのだが、途中に連絡が入り、トラブルがあったということで成田への到着が大幅に遅れるということが判明した。結局、閉店時刻の10時を過ぎるまで居座ったが、その後は近くのココスに移動して、車で来るというT氏を待ち続け、ようやく午後11時過ぎにココスで合流できた。
 そのまま午前1時過ぎまで、研究組織全体の進行や、個別テーマについての具体的な議論まで、資料や情報を交換しながら、T氏といろいろ話を続けた。最後は、宿まで車で送ってもらった。部屋に戻ると、連れはすぐにベッドに入って眠り始めた。こちらは、すぐには横にならずに、デジカメのデータを整理したりしているうちに午前2時半になり、ようやくベッドに入った。
 就寝直前:138-84-73
■ 2010/08/27 (Fri)
長い長い移動日

UA838/UA662

Bloomington, MN:
Microtel Bloomington
 朝は8時前に目が覚めてきたが、すっきりとは起きられずに、8時過ぎになってから起き出して風呂に入る。連れは体調がやや悪いので、まだベッドの中でグズグズしている。テレビでは小沢一郎の民主党代表選居出馬の話題をやっている。しばらくぼんやりとテレビを見ながら血圧を測ると、151-106-76 と高めになっている。
 10時少し前にチェックアウトし、荷物を曳いて京成成田のバス停まで行き、イオンモール成田まで直行バスで行く。ハードロック・カフェの開店時間である11時まではまだ少し時間があったので、ミスドで一息入れ、11時を回ってからT氏に電話を入れて連絡を取り、11時半頃に店に入ってランチを三種類注文する。正午過ぎにT氏も合流し、一緒にブランチを楽しみ、1時半頃に第一ターミナルまで車で送ってもらった。
 今回の渡米はユナイテッド航空で、久々に南ウィングからの出発になった。自動チェックインに色々戸惑いながらも、順調に手続きを済ませ、TCの両替をしてから出国手続きに進む。35番ゲートには搭乗開始より小一時間ほど早く到着し、しばしベンチでうたた寝する。やがて午後3時15分頃から搭乗が始まったが、例によって荷物は前の座席下に置ける分しかないので、のんびり列が短くなるのを待ってから乗り込んだ。B747-400の41D/Eなので、外が見えないのは覚悟していたが、背もたれがほとんど倒せないというのは厳しく感じた。エンターテイメントもなく、映画を眺めるよりほかはない。離陸後しばらくして、食事が終わった後は、もらった日経の夕刊を読みながら、ちらちらとジャッキー・チェンの『ベストキッド』を(音声は聞かず)眺めていた。英語の台詞には中国語の、中国語の台詞には英語の字幕がつくという具合だが、もう視力が衰えているので、台詞はほとんど見ていなかった。連れはブラディ・マリーを頼んで出てきたブラディ・マリー・ミックス(トマトジュースにソースやスパイスを加えたもの:Mr&Mrs.T)がいたく気に入ったようで、3缶もお代わりをもらい、ウォッカ(ABSOLUT)抜きでも飲んでいた。
 東行きの長距離フライトは時差調整が難しい。今日は一日が38時間もあるという計算になるが、フライト中に上手に一眠りしておかなければならない。しかしこれがなかなか難しい。日本時間で午後6時くらいから機内は暗くなるのだが、リクライニングできないこともあって、少しうとうとする程度で眠れない。大西洋を2/3ほど来た頃、日本時間で午後10時を回って少し眠気が来たが、後もう少しでサンフランシスコで乗り継ぐことになるので、熟睡とはいかない。しばらく資料をみたり、パソコンをいじったりする。こうしているうちに、海洋生物のドキュメンタリー映画や、シュレックの新作などがスクリーンに流れてゆき、やがて「朝食」にあたる軽食が出された。食べ終わると間もなく、サンフランシスコへの着陸態勢が告げられ、無事定刻でSFOに到着した。まだ朝ということもあるが、外の気温は15℃しかないらしい。
 サンフランシスコでは、入国手続きをしたが、入国のたびに米国のセキュリティはうるさくなっているようで、手続き時には、両手のすべての指の諮問をとり、顔写真を撮影する。幸い、日系人とおぼしき初老の審査官が担当だったので、やりとりはほとんど日本語で済ませてしまった。回転台で荷物を受け取り、指示されるままに再度荷物を預け直し、セキュリティを通過してターミナル3の搭乗口74番までたどり着いた。乗り継ぐ飛行機はエアバスA-320、ジャンボが並ぶ中では思いのほか小型に見える。
 サンフランシスコを飛び立った662便では、幸い左側の窓側の席に座れた。カリフォルニアからロッキーにかけての乾燥地形を眼下に眺めつつ、改めて日本との自然環境の違いを実感する。この便はちょうど昼食時間にかかるフライトだが、機内食はサーブされず、軽食が販売されただけだった。価格は9ドル前後で駅弁並みの料金である。飲み物も、ソフトドリンクは無料だったが、連れはどうしてもビールを飲みたがり、結局7ドルでハイネケンを買った。日本時間で既に午前4時を回っているので、さすがに少しまどろむ。連れはしっかり眠っていた。

Minneapolis, MN
 ミネアポリスには定刻より早く到着し、着陸したのだが、ゲートが空いていないということで、しばらく待機させられると機長からのアナウンスがあり、その通りに滑走路の間に配された待機場でしばしとどまることになった。ここはデルタ航空の拠点空港なので、次から次へとデルタの機材が離着陸している。やがてゲートに進み、スムーズに荷物を受け取ってシャトルでライトレールの駅へ行く。駅には窓口がなく、自動の券売機しかないので、クレジット・カードでデイパス(購入から24時間使用できる:ひとり6ドル)を購入し、ちょうど折よくやってきたモール・オブ・アメリカ行きに乗り込む。程なくして終点のモール・オブ・アメリカに到着した。ここは北米最大と言われる巨大なショッピング・モールなのだが、店内には入らずに、地図を頼りにホテルを目指して歩き出す。西に傾いたとはいえまだ日差しは強く、荷物を曳いて歩くのは結構厳しい。また地図を読み違えることも何度かあり、途中で、モールからタクシーに乗るべきだったと後悔しながら、結局30分くらいもかかってようやくホテルに到着した。インターステイトのハイウェイに面したこの辺りは、中級以下のホテルがいろいろ並んでいるが、隣のクオリティ・インの敷地にはデニーズが店を構えている。店構えの雰囲気は、日本のデニーズとは違うが、一部のロゴは同じだ。
 今日から4泊するマイクロテルは、こざっぱりした感じの安宿。事前にネットで予約し、税込みで一泊55ドルほどで泊まれた。割り当てられた321号室は禁煙室で、米国のホテルとしては気持ち狭めで、スイートとして続きの間にして使うこともできるようになっているとなりの部屋の音が筒抜け(ということはこちらの音も向こうに筒抜け)だが、窓際に補助ベッド代わりのマットレスが置かれていて、空調もちゃんと効いている。居心地自体は悪くなさそうだ。さっそく浅い湯船に湯をためて体を洗う。
 一息入れてから、ユニクロのサッカー柄のTシャツに着替え、まだ明るい7時頃に部屋を出て、都心にあるハードロック・カフェへ向かうことにする。最初は歩いてモールへと向かったのだが、途中のバス停で待っている黒人女性がいたので、どれくらい待つのかと聞いてみたところ、十分くらいだと思う、という答えだった。連れは体調があまり良くないので、ここでバスを待つことにした。7時半頃にやってきた540番バスに乗り込み、モールでライトレールに乗り継いだ。モールのライトレールの乗り場には、セグウェイ(ジンジャー)に乗った警官が警戒に当たっていた。現物を生で見るのは初めてだったが。視点が数十センチ高くなる分、こうした監視業務には向いているのかと思った。ライトレール内ではさすがに疲れが出たのか、短時間ながら熟睡し、気づくとミネアポリスの中心市街地の外れにあるメトロドームまで来ていた。ハードロック・カフェに近い、終点の一つ手前、倉庫地区/ヘンネピン通りで下車して、少しだらだらと歩き、ハードロック・カフェにたどり着いた。
 ミネアポリスのHRCは、ビルの1階、交差点に面した角に入っていて、レストランの中央のバーの頭上にはキャデラック?が置いてある。連れはいつものように、まず売店でピン類などを見つくろい、Tシャツなどと併せて百ドル以上の買い物をする。レストランでは、黒人男性のサーバーがなかなか陽気な感じで給仕をしてくれ、定番にしているナチョスとコブサラダを注文した。ナチョスは盛り方は雑だが、なかなかの大盛りで食べ応えがあった。レストランの壁面にボブ・ディランのジャケットが掲げられていたので、プリンスのメモラビリアはあるのかと尋ねると、2階にあると言われ、売店の奥の階段を上がるように促された。言われるままに階段を上がると、2階はショッピング・モールのようになっていて,そちら側に開けられた入り口の脇に、プリンス関係の品々をならべたショーウィンドウが設けられていた。
 HRCを出たのは午後11時近くになっていたが、金曜日の夜とあって街頭には大勢の人出があった。夕方店に入ったときには閑散としていたのが嘘のようである。7番街とニコレット通りを進んで、8番街とニコレット通りの交差点に行き、ここで5番のバスを待つことにした。少し遅れてやってきたバスの運転手は黒髪の白人女性だった。乗客はわれわれを入れて十名程度で、半数は黒人である。途中で時刻表に記されたコースから外れるところがあり、ひやひやしたが、宿のすぐ裏手のバス停で無事下車することができた。宿の向かい側のウォールマートがまだ開いていたので、買い物に行ってみると、深夜0時の閉店時刻の10分前だった。急いで、飲み物(ミニッツメイドのライムエイド)と苺、そしてシャンプーを買った。
 連れに続いて風呂の湯船に浸かったのだが、そのまま寝込んでしまい、目が覚めて風呂から出たら既に午前1時半。連れはベッドで眠っていた。そのまま、しばらく起きていて、資料を読んだりパソコンをいじったりしているうちに午前5時近くになり、ベッドに潜り込んだ。
■ 2010/08/28 (Sat)
セント・ポール訪問

Minneapolis, MN:
St.Paul, MN:

Bloomington, MN:
Microtel Bloomington
 7時過ぎにトイレに立つ。血圧を測ると、164-124-75 と極めて高い。昨日、時間が変則的になっていたので、薬を呑みそびれていたためか。朝食前だが、ひと通り服薬する。既に、朝食が用意されている時間なので、連れと1階に下りて、ベーグル、マフィン、コーンフレークなどをとって、部屋に持ち帰って食べる。後でもう一度コーヒーをとりに行った。テレビを点けるとCNNでハリケーン・カトリーナ5周年の報道をやっていて、小雨が降るニューオリンズからの中継をやっていた。
 9時頃に部屋を出て、5番バスでミネアポリス中心部へ向かう。昨日乗ったときは夜だったので、風景が見えなかったのだが、南から北へと中心部に近づいていくにつれ住宅の形態や住民の様子が変わるのがなかなか面白い。道路工事の関係で何カ所か本来のルートから外れている臨時ルートで運行されていることもよく分かった。途中で、ハイビズの蛍光色に身を包んだ道路清掃にあたっている数人のグループがいて、その指揮者と思しき一人がセグウェイに乗っているのを見かけた。屋外でも使っているのには、ちょっと驚くというか、感心をした。
 ハードロック・カフェ近くのバス停で下車し、ひとブロックほど歩いてグレイハウンドの駅に行き、ディスカバリー・パスのことをいろいろ質問する。パス自体はここですぐに買えることが分かり、早速購入する。二人分で7ドルちょっとだった。乗車券は、実際に乗車する都市の駅で、乗車の2時間前から購入できるようになるのだという。たまたまそのときカウンターにいた二人の黒人女性の職員は、ディスカバリー・パスの発行をした事があまりないようで(一人はやった事がないと言っていた)、型通りを住所や電話番号を尋ねられたときに、日本の住所でいいのか?というと、外国人に発券するのは初めてだと笑っていた。たまたまほかに客がいない暇な時間帯だったようで、最後は、事務所から白人女性の職員も出てきて見守る中、無事、パスを受け取ることができた。ミネアポリスのターミナルは、2000年に再開発されたもので、構内にはそれ以前のミネアポリスの駅や、他の都市の駅やバスの古い写真が多数展示されていた。
 グレイハウンドを出てHRCの前まで戻ったら、既に音楽が流れはじめている。もう開店かと思ったのだが、ドアは閉まっていた。まだ10時半で開店まで30分ほどある。そのまま進んでライトレールの駅へ行きいったん空港に戻ってからセント・ポール行きのバスに乗り継ごうかと考えた。ライトレールに乗ってから時刻表をとってチェックし、フランクリン通り駅のあたりからセント・ポール方面へ行くバスがつかまえられるのではないかと思い、フランクリン通り駅で下車してみた。東行きのバス停でしばらく待っていると、ミネソタ大学行きの2番バスが来たので、ドライバーにこのバス停にセント・ポール方面行きが来るかと尋ねると、接続があるところまで行くからこのバスに乗れと指示される。乗り込んだバスは、いったんミネアポリス市街の方へ戻っていくように進んだ後、川を渡り、広い範囲に施設が広がるミネソタ大学の一帯を走ってゆく。途中で下車するように言われ、ここで16番バスに乗り継げと言われる。指示通りに下車したところ、程なく16番のバスがやってきた。乗り込んでみると、満員に近い人々が乗車している。こちらに来て、こんなに混んだバスを見るのは初めてだ。乗り換えたバスは、やがて大学通りと名付けられた広い道をひたすらまっすぐ進んでいく。途中の沿道には、大きなショッピング・モールや、逆に衰退したかつての商業地区の一角とおぼしきところなどが散見された。結局、乗り換えてから30分ほどかかってようやくセントポールの中心市街地にたどり着き、エクスチェンジ通りで下車した。
 下車した場所は、ちょうどマクナリー・スミス・カレッジとセント・ポール音楽院の間だった。事前にウェブを見て、MSCが週末も開いているのではないかと思ってきたのだが、建物は閉まっている。とりあえず、外にある看板など、とりあえず写真をとる。しばらく辺りを歩き、マクドナルドの看板が見えたので、ビルの二階でマクドナルドとサブウェイが並んで店を出しているところに行き、ひと休みする。連れがハッピーミールのおまけ(マダム・アレキサンダーの人形)に惹かれたので、セットを注文すると、バーガーとポテトに、アップル・スライスにキャラメル・ディップが付いたものが出てきた。リンゴにキャラメル・ディップというのは、初めて食べる取り合わせだった。
 一息入れてから、再びマクナリー・スミス・カレッジに戻って、開いている入り口がないかと周りを歩いていると、中から作業着姿の人物が出てきたので、週末は開いていないのかと尋ねてみた。すると、学期中なら開いているが、いまは休み中で週末は閉まっているということだった。
 そうこうしているうちに、連れがちゃんとした昼食を食べたいというので、ガイドブックをたよりに、ひとブロックほど離れたミッキーズという食堂車?の車両を使った食堂へ行ってみたのだが、何と超満員である。観光のスポットにもなっている場所らしく、入店(乗車?)は断念して、観光案内所のあるランドマーク・センターという建物の方へ歩いてゆくと、左手にレストランが並んでいる一角が目に留まり、スヌーピーのオブジェが置かれた ワイルド・タイムズ(Wild Thymes:野生のタイム=ハーブの一種 という意味だが「ワイルドな時間」と掛詞になっているのだろう)という店に入る。担当したウェイトレスは、夏休みアルバイト?という感じのブロンドの少女で、入り口のディスプレイにあったTシャツの値段を聞くと「高いわよ、25ドルもするの」と答えたのだが、後になってからまたやってきて「20ドルだった」と訂正していた。ここではマッシュルームの揚げ物とシェフサラダに、地元のサミットという銘柄のビールとルートビアをとり、お土産に店名が刺繍されたTシャツ20ドルを買った。席に着いている途中で、連れをテーブルに残し、道の反対側にあるランドマーク・センターに行き、市街地の地図を手に入れ、ガイドブックに載っていたピーナッツ(作者シュルツはミネアポリス生まれ、セント・ポール育ち)のキャラクターのオブジェがある場所を質問する。観光案内所に一人だけいた白髪の白人女性は、目の前の公園にブロンズがあることと、ほかにも彩色されたものがいくつかあるはずだと教えてくれたが、それ以上の事は分からなかった。
 レストランを出てから、菓子屋の前にある彩色されたオブジェを見た後、ランドマーク・センター前の小公園に置かれたブロンズ3点を見て回ってから、急行バスの乗り方を確認しに、センター内の観光案内所へ行く。先ほどの白髪の女性がちょっと席を外すというタイミングだったが、すぐに戻るのでまっていて、と言われ、しばらく案内所のベンチでひと休みするが、そうしているうちにバスの時刻表が目に入り、あと5分ほどの午後2時23分に、次の急行バスが出る事がわかった。ちょうど担当者の女性が戻ってきたところで、センターを出て、やや急ぎ足気味でバスの乗り場であるミネソタ通りまで行くと、丁度、急行バス(94番)と来るときに乗ってきた鈍行バス(16番)が乗客を乗せているところだった。無事に間に合った急行バスは、ほぼ満席となった状態で、ミネアポリス方面へ進んだ。車中ではうたた寝をしてしまい、荷物を膝から落としたりと失態も演じた。下車する直前にもメトロドームの辺りで連れに起こされた。午後3時ころにミネアポリス中心部で下車し、まずHRCに立ち寄って、連れの用を足し、さらに進んで南行きの5番バスに乗って宿に戻る。
 4時頃に部屋に戻ると、二人とも疲れていたので、とりあえず昼寝をすることにした。連れは6時半頃には目が覚め、宿の前のウォールマートへ買い物に行きたかったらしいのだが、こちらは9時過ぎまで眠ってしまった。9時半頃にようやく起き出して、一緒に買い物に行く。飲み物類とローストビーフのスライスを買って、さらに酒屋へ行こうと、ウォールマートの買い物をもったまま、10時半頃にさらに西隣のヴィレッジ・センターという小規模な近隣センターへいったのだが、2軒ある酒屋はどちらも午後10時で閉まったばかりだった。宿へと取って返し、宿の東隣のデニーズへ行くと、ここは24時間営業だとわかったので、とりあえず連れを席に着かせて、ウォールマートでの買い物を部屋に置きにいった。ほっとして、ナチョスのサラダ、具入りオムレツ、ケサディーリャに、ドクター・ペッパーとアイス・ティーを注文し、そのまま深夜1時半過ぎまでのんびりしていた。連れは、ドクターペッパーにチェリー風味を加えるのが気に入ったようだった。われわれが入ったときには、さほど混んでいなかったのだが、その後、ミネソタ・バイキングスのユニフォーム姿の家族やカップルが何組か入ってきて、食事をして出て行ったので、ピークの頃にはかなりのテーブル稼働率になっていた。それが帰る頃には元に戻った感じだった。
 部屋に戻ってからは、風呂にも入らずすぐに寝た。
■ 2010/08/29 (Sun)
健全な家族のためのショッピングの殿堂

Bloomington, MN: Mall of America

Bloomington, MN:
Microtel Bloomington
 朝は6時過ぎに起きる。血圧は、159-102-78。朝食前だが薬を呑む。定刻の朝食は6時半からだが、部屋に残っていたイチゴなどをぼちぼち食べ始める。7時前に朝食をとりに1階に下りる。昨日、ウォールマートで買ったローストビーフを挟んだベーグルなどで朝食を済ませてから、締切が迫っている来年度の国際学会用のアブストラクトを仕上げるのに集中する。その間、連れはベッドで休み出した。結局、9時半頃までかかって何とか250語のレジュメを仕上げた。締切は9月1日付なので、一日置いて再点検してから送信する事にする。テレビをCNNにあわせると、ハリケーン・カトリーナ5周年の報道を今日もやっていて、ハリー・コニックJr.がインタビューに応じていた。その後も、しばらくベッドでテレビを眺めたり、ネットにつないでいろいろいじった後、10時半頃に風呂に入る。風呂から出てしばらくは、ネットをいじり、テレビを見る。その間に連れが風呂を済ませた。
 正午を少し過ぎた頃に部屋を出て、バスでモール・オブ・アメリカへ行こうとしたのだが、5番バスがなかなか来ない。今日は日曜日なので、本数が減らされているようだ。ようやくいたバスに乗り込んで、20ドル札で運賃を支払おうとしたら、黒人女性の運転手に「おつりは出ないのよ!」と注意される。財布の中を見るが、ちょうどよい小銭がない。とりあえず下車して、目の前のウォールマートで買い物をして小銭を作ることにした。ウォールマートでは、飲み物やパンなどを買ったが、結局、いろいろあって、ようやくバスに乗り込んだのは午後1時半を回った頃だった。
 前回、ライトレールでここに降りたときには、モール・オブ・アメリカ本体には入館しなかったので、初めて、東側の入り口から入館する。巨大なアトリウムが中央にあって屋内遊園地になっているのは、ソウルのロッテワールドのような感じだ。アトリウムを取り囲む建物は、概ね3−4階のフロアがあり、中央のアトリウムを囲む正方形に近い長方形の角にあたる位置には、百貨店が4店舗も配されている。巨大な商業集積だが、食品スーパーや酒屋は入っておらず、アウトレット的な店舗もない。土産物なども含め、付加価値の高い高級ショッピング・モールである。入館はしなかったが、地下には水族館、最上階には映画館や劇場が配されており、健全な家族サービスの場所という性格が伝わってくる。ミネソタが、スカンジナビア系移民などのプロテスタンティズムと、湖での釣りや狩猟に象徴される自然の中での生活によってアイデンティファイされる地域である事を踏まえて考えると、このモールの文化的な戦略性もはっきりある種の意図的なものとして感じ取られる。
 結局、午後2時頃から7時過ぎまで、6時間以上も滞在して歩き回り、連れの買い物につきあった。途中で体調が悪くなり、ふらついたり、頭痛がしたりしていたのだが、入り口に近い1階のスターバックスで1時間ちょっと休み、途中20分くらいは熟睡して、少し元気を取り戻した。自分の買い物は、スタバのシティ・マグだけだった。午後7時頃、ちょうど連れをスタバで待たせて、筋向かいの本屋で地元関係の出版物を漁っていたところ、午後7時で閉店する旨のアナウンスが流れた。スタバに戻って、本屋の隣のモール・オブ・アメリカの名入りグッズを売っている店を見ようと思ったら、既にシャッターが降りている。7時きっかりで閉めたようだ。連れはもう一軒行くと言って2階に上がり、まだ閉店していなかった洋服店でワンピースを見つけた。一斉に7時閉店といっても、いろいろばらつきはあるのだろう。
 バスで宿まで戻ったが、まだ明るい。ウォールマートでハムなどを買い、部屋に戻ったのは8時過ぎだった。買ってきたハムと、昼に買ったパンなど、有り合わせで夕食を済ませ、ベッドで休む。2時間ほど寝たのだが、体調が悪いときにありがちな、悪夢に近い夢を見続ける浅い眠りで、10時過ぎには起きて、風呂に入る。明後日の朝は出発が早くなる可能性が高いので、明日の夜は洗濯ができない。昨日の分とあわせて二日分の洗濯を済ませる。
 パソコンに向かって、いろいろ作業し、1時前には寝たのだが、2時半頃に目が覚めてしまい、しばらく荷物を整理したり、ネットをやったりするうち、そのまま朝まで起きてしまう。
■ 2010/08/30 (Mon)
ボブ・ディランが育った町へ

St.Paul, MN:: McNally Smith College
Hibbing, Minnesota
Bloomington, Minnesota

Bloomington, MN:
Microtel Bloomington

Zimmy's Restaurant
 今日は、T氏が朝7時過ぎにミネアポリスに到着し、合流することになっている日である。今日から4日間は、T氏の現地調査に同行して支援するという形になっている。T氏は、朝のうちに協力者J氏の車で、こちらのホテルまで迎えにきてくれる手はずになっているが、何時にということは決めていない。いつ来てもよいように朝7時頃には朝食を済ませて、フロントにも来客が来る旨を伝えておいた。部屋で朝食をとり、出かける準備を整え、やってくるのを待っていたが、そのうち寝不足がたたって眠くなり、連れ共々ベッドの上で寝てしまう。うとうとしていると、不意にドアがノックされ、慌ててドアを開けると、両氏がそこにいた。9時近くになっていた。
 J氏の運転する車は早速出発し、ミネアポリス市街地の東側を北上した。当初はそのまま北上していく予定だったのだが、セント・ポールの市街地近くを通るということだったので、予定外だったが先だって休みで入れなかったマクナリー・スミス・カレッジに立ち寄り、簡単に内部を見学することができた。10時過ぎにセントポールを出てから、車はインターステイト35号線をひたすら北上していく。そのまま行けは、ディランの生まれ故郷であるダルースへ着くが、今回は時間的に余裕はないので、途中で州道に入って、ほぼ真北へ北上を続け、さらに枝道に入って、午後1時過ぎにヒビングにたどり着いた。車に乗ったまま、ゆっくり市街地を走り回り、ディランをテーマにした店であるZimmy's Restaurantに入って昼食をとる。
 この店は、ナチョス、バターガーリック風味のチキン、マッシュルームの揚げ物、サーモンのサラダをとる。料理はいずれも美味だったが、ボリュームもしっかりしていて食べきれず、最後は持ち帰りにした。小ぶりの瓶で出てきた昔風のルートビアもおいしかった。幸いここでは、食事後に、オーナー店主である女性に簡単に話を聞くことができた。1980年代に東部から当地にやってきて、レストランをはじめたそうだが、最初は普通の店だったのを、1990年に現在のようにディランのテーマ・レストランにしたのだという。元々この店の場所は、古くは1920年代の路面電車の車庫で、その後ディランがこの街にいた頃には、ガソリンスタンドとなっていたものだという。地元制作のディランに関わるドキュメンタリーのDVDを買い、来客がどこから来たのかを示す地図のボードにピンを押し(既に東京と九州あたりにピンが立っていたので、長野県あたりに1本ピンを追加した)、最後はわれわれ全員がそれぞれ店主と「ミネソタ・ハグ」をして店を出た。
 次に、ディランに関する常設展示をしているという市立図書館へ行く。カウンターには一人しか職員がおらず、子供たちが次々用事を足しにくるので、なかなか声をかけづらかったが、しばらくしてから男性の司書に声をかけて、地下にある展示の場所を教えてもらう。ディランに関する展示は、地下の会議室のような場所の壁面を使っている。基本的にはパネル展示によるディランの年譜の紹介と、レコード類が主なのだが、地元の人が作ったディランの肖像を織り込んだキルトだとか、文化祭の出し物のような等身大の人形とかもあり、手作り感がとても強く出ている。ひと通り展示を見てから、ディラン関係のことを扱っている関係者の一人である女性司書氏の話を聞き、コレクションのこと、ネット上で記述されていることに関すること、ディランに対する地元住民の思い、地元メディアのこと(ヒビングでは週6回刊の体制で日刊紙 Hibbing Daily Tribune が存続している)、などを教えてもらう。ここでは、ジミーズの店主に会ったかと聞かれて、簡単に話をしてきたと答えると、もうひとり本屋の女性店主にも会っておくようにとアドバイスされた。
 何やかやと図書館には1時間以上滞在し、出たときには4時を回っていたが、市街地の北のはずれにあるグレイハウンド博物館が5時までなので、ここにも立ち寄ることにした。今回の旅行の後半で大いに利用するグレイハウンドは、もともと、ここヒビングと、南方にあるアリスの間で、片道15セントの運賃での営業を1910年代に始めたのが起源である。既にグレイハンドは1980年代にヒビングから撤退しているが、十年間くらい「記念館」という形で簡単な施設が置かれていた後、12年ほど前に現在の博物館ができたということだ。施設自体は資料展示室1室と、屋内のバス展示室、さらに屋外にバス展示のスペースがあるという簡単なもので、入り口の土産物のカウンターにいたかなり高齢の男性(明らかにグレイハウンドOB)と、最後の方でちらりと姿を現した若い男性職員の二人だけで切り盛りしているようだった。ここは、バス好きなら何時間でも時間が過ごせそうな場所だが、幸いわれわれ4人の中にバッチャンはいなかったので、滞在40分ほどで閉館時間直前に出ることができた。

ディランが育った家
 ヒビングの町中に戻り、市の公式ウェブサイトでも紹介されていたウォーキング・ツアーの経路をなぞるように車で移動しながら、ランドマークを確認していく。途中で、図書館でアドバイスされた店主のいる本屋にも立ち寄ったが、あいにく本人はおらず、店番の人に名刺を渡して、簡単に話を聞く。ディランが家族で通っていたシナゴグの跡、高校時代に演奏をした事もあった公会堂、この街にいた当時の自宅、卒業した高校などをひと回りした。こうして6時近くまでヒビングに滞在した後、ミネアポリスに戻ることになったが、帰路はすぐに熟睡し、モール・オブ・アメリカの近くで目が覚めるまで、3時間ほど後部座席で高鼾をかいていたようだ。
 9時過ぎにT氏の宿に到着し、チェックインをしてから、敷地内にあるIHOPの店に入った。店員がジョークで鼻眼鏡をかけて出迎えたのだが、われわれが何の反応もしなかったので、ちょっとがっかりされてしまったようだった。ここではフィリーステーキを注文し、連れは角切りステーキを注文したのだが、フィリーステーキのバンがパンケーキになっていて、ちょっと驚きながらもさすがだと感心した。食事後、T氏とは店で別れ、J氏に宿まで送っていただいた。10時過ぎになっていた。
 明日はチェックアウトだが、荷物もまだちゃんとはできていない。しかし、とにかく疲れていたので、先に休むことにしてベッドに入り、すぐに眠りに落ちた。

■ 2010/08/31 (Tue)
巨大キャンパスをうろうろ

Minneapolis, MN:: Minnesota University
St.Paul, MN:

Chicago, IL:
Travelodge Hotel Downtown
 今朝も3時半過ぎに目覚めたが、すぐには起床できなかった。先にベッドから出た連れが、ネットができなくなっているという。いろいろいじったが、確かに繋がらない。とりあえず連れがまたベッドに戻ったので、昨日の日記をつけたり、ヒビングでもらってきた資料の片付けをしたりするうちに、5時を回る。ヒビングで買ってきたDVDを見ながら、少し荷造りをする。ちょっと頭痛がするので、血圧を測ってみたら183-114-77と結構高い。昨日は昼も夜も4人での外食で、薬を呑みそびれていた。7時頃風呂に入り、朝食をとりに1階に下りていく。今日は部屋ではなく、1階の狭いロビーに置かれた丸テーブルでテレビを眺めながら朝食を済ませる。この4日間、定番となったベーグルにクリームチーズ、そしてマフィンという組み合わせである。
 8時頃、チェックアウトして、荷物をフロントに預け(というか、フロントの奥の部屋に指示された通りに自分で運び入れ)、純然たる観光で、彫刻庭園に出かけた。5番バスで市内まで行く。乗り込んだバスでデイパスを買おうとしたのだが、機械が壊れているということで、フリーライドになった。いつものようにハードロック・カフェの近くで下車し、少しバス停を見つけるのに手間取りながら6番バスをつかまえて、改めてデイパスを購入、9時ころに現地に到着した。ここは美術館に付属する無料公開されている庭園だが、きれいに整えられた緑と、背景になる都市のスカイラインの調和もなかなか良い雰囲気になっている。小一時間、有名なチェリーとスプーンの噴水をはじめ、屋外に置かれたオブジェを見て回った。帰りも、バス停を見つけるのに少し手間取ったが、バシリカの前から6番に乗って中心部に戻り、立ち並ぶ建物を2階部分の連絡通路で結んでいるスカイウェイのネットワークを、しばらく歩き回る。10時半頃にハードロック・カフェのマーチャンダイズで連れがピンを買い足した。手持ちの現金が心細くなってきたので、ここではトラベラーズ・チェックを使い、税別20ドル分の買い物で30ドル弱の現金を手に入れる。
 連れはもう一つ、日本にハガキを送る切手も買いたがっていたのだが、郵便局がなかなか見つからない。トラムでモール・オブ・アメリカに戻る途中で、空港なら郵便局があるだろうと判断し、ターミナル1-リンドバーグで下車し、発券カウンターのあるフロアのインフォメーションにいた、かなり高齢で白髪の白人男性に質問すると、何と、空港内に郵便局はないという返事。切手はセキュリティ・コントロールの先にある店で売っているという。モール・オブ・アメリカならどこかで売っているだろうとも言われたが、昨日モールに郵便局がないことは確認済みだと答えると、ホテルのフロントが売ってくれるかも、などと仰る。とりあえず、空港では切手が買えないと判断し、モールへ向かい直すことにする。
 T氏とは、彼が泊まっているモールのすぐ南隣のホテルに、正午ということで待ち合わせをしていたのだが、モールに着いた時点で11時40分になっていた。モールの入り口のインフォメーションにいた黒人女性の職員に確認すると、やはり郵便局はないとのことだったが、3階南側にあるホールマークのカード店で切手も扱っているという返事だった。入り口近くのモール・オブ・アメリカのグッズを扱う店で、大急ぎにロゴ入りのTシャツなどを買ってから、3階南へ向かう。ところが、着いてみると3階南というのはフードコートになっている。一瞬、聞き間違ったかとも思ったが、よくよく探すと確かにファーストフード店やレストランが並ぶ中に、なぜかホールマークの店があった。早速、店に入って居合わせた白人と黒人の女性店員2人に切手が欲しいというと、どこに送るのかと尋ねられ、日本だと答えると、国外向け用の切手はない、とつれなく答えられる。実は、急いでホールマークへ向かう途中で、国内用しか切手がないと言われたらどうしよう(以前、オーストラリアで似た経験をしている)と話をしていたのだが、その予感通りになってしまった。モール内の移動にて間取り、既に正午になっている。仕方なく買い物をあきらめ、T氏の宿へ向かう。ところが、建物の南側正面出口に出て目と鼻の先に見えるのに、そこから地上へ歩いて降りる通路がない。しかたなく、東側の駐車場まで戻り、バストとラムの乗り場がある地上階に降りてから、南へ向かったのだが、最終的に駐車場を横切り、コンクリートの壁の隙間を抜け、信号がない片側3車線の道路を横切るという荒技で(もっとも同じことをする人が多いようで踏み跡があったのだが)、何とか10分ほどの遅刻でT氏のホテルにたどり着いた。
 合流してから、さっそく歩いて(先ほどのルートを逆行して)モールにもどり、ライトレールからフランクリン通りで乗り継ぎ、2番バスでミネソタ大学のウェスト・バンク地区にたどり着いた。早速、地図を頼りに、音楽学部が入っているファーガソン・ホールに向かい、その中に入っている図書館へ行く。入り口から図書館まで練習室が連なる一角を通ったのだが、練習室の中は通路から見えるようになっており、オルガンの練習室で練習する白人男性や、元々受け付けのブースだったところを改装したと思しき小さな部屋で練習する白人男性などに混じって、東洋人の女性が練習する姿が目立っていた。図書館では、白人男性の若い司書が、応対してくれて、図書館の概要を説明してくれた。ここは教育用の図書館という性格が強い位置づけで全面開架となっており、貴重書などアーカイブ扱いされているものは、こことは別に中央図書館に移されているという話であった。戦前のバラエティやメトロノームなどもそちらにあるという。学部全体の比重は圧倒的にクラシック系に重点が置かれているので、当然資料もそちらが充実している。それでもポピュラー音楽系や、現代音楽、民族音楽などの雑誌類もそこそこ揃っているのは、さすがだと思った。T氏はしばらく書架を慎重に眺めていたが、期待していたものとはちょっとズレていたようで、資料をもらい、小一時間ほどで退出することになった。
 ファーガソン・ホールを出て、しばらくキャンパスを散策する。新学期の開始直前とあって、あちこちに新入生のオリエンテーションをやっているという感じのグループが集まっている。町中の、というより、大学自体が都市の一角を形成している巨大キャンパスに、熱心な学生が行き来しているという、アメリカの大学らしい雰囲気が感じられた。3人とも昼食をとりそびれていたので、ふたたびバスで(今度は16番だった)ミシシッピ川を渡り、イースト・バンクのユニオンの建物へ行き、食堂を探した。既に2時を回っており、入り口近くにあったスタバのブースは既に閉店していた。奥の大きな書店兼大学グッズの店で買い物でもしようかと進んでゆくと、不意に、スタバの裏というか奥に、目立たない形で郵便局があることに気づいた。何と、大学が運営するれっきとした郵便局があったのだ。ここではトラベラーズ・チェックが使えたので、98セント切手10枚を買って40ドルちょっとを現金で手に入れる。その後で、書店兼売店に入ったのだが、日本でいえばちょっとした食品スーパーの2-3倍はありそうな巨大な売り場である。それが本と文具類と、大学グッズの衣料品などだけで占められているのだから、壮観としか言いようがない。買い物の後で、閉まっているスタバの前に戻り、連れとT氏はハガキを書いて投函する準備をしはじめた。その間に少しあたりを探検して、奥にフードコートがあるのを見つける。2人がハガキを出してから、3人でフードコートへ向かったのだが、3時を回ったということで、ほんの数分前とは少し感じが違って閉店モードになりかけている。いくつかある店も既に閉めているものが多い。結局、中華風?のアジアン・フードを弁当風にテイクアウト用の容器に入れてもらい、既に閑散としている学食らしい雰囲気のテーブルが並ぶホールで、遅い昼食をとった。

公共バス(自転車ラックに注意)
 4時過ぎに、バスで都心部方向へ向かいライトレールに乗ろうとしたのだが、どのバスでもどこかの駅で接続するだろうと高を括ったのが間違いで、どうやら市街地を迂回する急行バスに乗ってしまったようで、気づくと午前中に訪れた彫刻庭園の近くを通り、その先(南側)にまで到達している。慌てて下車し、ダウンタウン行きの6番バスに乗り込んだ。ほっとしたのもつかの間、今度は夕方のラッシュにつかまって、バスがなかなか進まなくなってしまった。バス・レーンがあるうちはまだよかったのだが、中心部では歩いた方が早い状態になってしまう。結局、10番通りあたりで下車し、ライトレールの駅まで4ブロックほどを歩くことにした。ライトレールの駅にたどり着いたのは午後5時ちょうど。ライトレールとバスを乗り継いでホテルに戻り、荷物をとって空港に行くことを考えると、時間にはほとんど余裕がない。幸い、ライトレールは順調に運行され、モールでT氏と別れた後の5番バスへの乗り継ぎもスムーズだったので、6時少し前に宿に戻ることができた。
 ホテルでは朝とはフロントの人物が朝とは別の眼鏡をかけた白人青年で、バッグの特徴を言うように言われて一瞬とまどったが、今度は、一つ一つ荷物を奥から出してきたもらえた。時間がないので、すぐにバス停に戻ろうとしたのだが、目の前で5番バスが行ってしまう。次のバスまでは定刻で15分待たなければならない。時間はまだ大丈夫だが、少し焦りながらバス停でまっていると、5分ほどで、500番台の(5番ではない)バスが来て、乗ることができた。ちょっとだけだが、ほっとし、モールでもスムーズにライトレールに乗り継いで、6時半過ぎに空港へ着いた。アメリカン航空のカウンターへ行くと、ちょうどT氏がチェックインしているところだった。客はわれわれだけ、職員も対応してくれた白人女性一人である。荷物を預け、これまたわれわれ以外にほとんど乗客がいない閑散としたセキュリティを通過し、E12番ゲートへ行く。途中で、ミネアポリスに到着したときのE8番ゲートの前を通り、既に4日経ったのかと思う。ゲート辺りにはまだ職員も客もいない。8時15分が定刻のフライトで、7時少し前に着いたのでこんなものかと思いながら、近くにある喫茶コーナーが7時半までやっているというので、飲み物だけをとってしばし談笑する。7時半に店が閉まるので、ゲートに戻ったが、少し客がいたものの職員の姿はない。のんびり待つことにして、少しうたた寝をする。ところが、機材の到着が大幅に遅れ、出発予定時間は8時40分になり、さらに8時40分を過ぎてから8時50分と表示され直すという呆れたことになった。結局、搭乗が終わってゲートが閉じられたのは9時過ぎだった。搭乗前からうたた寝をしていたが、機上では、眠るか、機内誌の数独をするかして過ごした。後で聞いたT氏の話だと、乗客は16人しかおらず、黒人スチュワーデスは、サービスが終わった後、自分の席で居眠りをしていたそうである。アメリカン航空は大丈夫なのだろうか?という思いになる。
 シカゴ到着は11時半ころ。中心部へ急ぎたいところだったのだが、荷物を受け取ると、何と把手がなくなっている。アメリカン航空の窓口を探してクレームを言いに行く。対応してくれた若い黒人男性の職員は、30日以内に日本に戻るのなら、東京に戻ってクレームを言ってくれれば修理の対処をさせると言って、証明書を出してくれた。これで何とかなるかどうかはなはだ疑問だが、とりあえず、時間も気になったので矛を収める。
 12時近くなってようやくCTAのブルーラインに乗り込み、中心部へ向かう。途中で乗り換えるT氏と分かれ、こちらはジャクソンでレッドラインに乗り換え(乗り換え通路には、黒人男性4人組の達者なアカペラのバスキングがいた)、ハリソンで下車した。今夜から2泊するトラベロッジはひとブロック先にあった。近くには24時間営業のダンキン・ドーナッツもある。チェックインできたのは12時45分頃。部屋はそこそこの広さがあり、悪くない感じがした。ここは実は、今回の旅で一番高い宿で、一泊95ドル支払っている。疲れていた事もあり、また人通りがさほど多くない様子だったので、夜食に出歩くのは断念して、手持ちのスナック類を夕食代わりに食べる。風呂に入って洗濯をしてから、床に就く。2時近くになっていたはずだ。
■ 2010/09/01 (Wed)
充実した図書館の片鱗を見る

Chicago, IL: Chciago University

Chicago, IL:
Travelodge
 6時半に目が覚め、血圧を測る。158-112-80 と相変わらず高い。前日の日記を付け始める。結局、2時間くらいだらだらと日記を書いていた。その間に連れも起き出した。
 9時頃に宿を出て、CTAレッドラインのハリソン駅へ行き、連れとそれぞれ5ドル分をデポジットして、レイク駅まで3駅分北上する。レイク駅から東へ少し歩いて、ハードロック・ホテルへ行く。ここはカーバイト・アンド・カーボン・ビルディングという歴史的なスカイスクレーパーの一部をホテルにしているところだ。ここで連れはピン約20本を買う。店員に、ハードロック・カフェまでどう行けばよいかと聞いたところ、歩いて十分ちょっとだという答えだったので、歩いて行くことにする。ワバシュ街、キンジー通り、ステイト街、オンタリオ通りと、時々立ち止まって写真を撮りながら進み、30分近くかけてハードロック・カフェにたどり着いた。レストランはまだやっていないが、ショップは既に開いていたので、連れはピンを数本、こちらはTシャツ1枚を買った。
 ハードロック・カフェを出て、道を渡り、西隣の敷地にあるロックンロール・マクドナルドに入る。ここは、1955年にシカゴ郊外に開店したマクドナルド1号店のデザインを模した2階建ての店舗だが、隣に小さな展示ブースがあって、エルビスやチャック・ベリーのギターや1950年代のクラシックなコルベットがガラス越しに眺められるようになっている。11時直前に入店したので、モーニング・メニューだったが、われわれの注文が通った直後に、通常メニューへの切り替えが行われていた。
 朝食のプレートと、オートミール、それにコーヒーとドクター・ペッパーを買う。少々驚いたことに、店員はほとんどヒスパニックらしく店員同士の会話が全部といっていいくらいスペイン語だった。エスカレーターで二階にあがって、スタバ並みのふかふかのソファの席を占領してゆっくりブランチをとる。予想に反して、BGMは、ストレートアヘッドなモダン・ジャズのスタンダードばかりがかかる。ジャズ祭期間と関係があるのだろうか? 途中で2階の南側にあるガジェットの展示を眺め、土産物で売っていたTシャツと帽子を買う。店内に映像だけ流れているCNNでは、イラクからの米兵の帰還を大々的に流していた。11時40分頃に店を出て、駐車場にある展示ブースを見に行く。学生風の白人男女がいてレポート用紙に何やらメモを熱心にとっている。話しかけてみると、2人はロヨラ大学の学生で、この辺りの面白いものを見つけてレポートするという課題をやっていたらしい。レポートのネタになればと、ここに展示されている石膏像風のビートルズの像のことなどを少し話す(全体のポーズと足もとだけは「アビーロード」風だが、あとは初期のスーツ姿に作ってある、等々)。T氏の宿であるホリデイ・インへ向かったのだが、最後の最後で、最寄りの駅のマーチャンダイズ・マートから先、建物の中を通って行くところで時間をかなりロスしてしまい、午後0時20分ころにようやくホテルのロビー階にたどりついた。部屋に電話を入れていると、本人が現れて合流できた。

Regenstein Library, University of Chicago
 今日の訪問先である、シカゴ大学リージェンシュテイン図書館までは、コンシャルジュのアドバイスでタクシーで行くことにする。川に面した南側の正面入口のタクシー溜まりでやや高齢の白人男性ドライバーの車に乗り込み(6人乗りの車両だったが、料金は普通の車と変わらないらしい)、湖岸のバイパスを経由してシカゴ大学へ向かった。メーターは21ドルちょっと、チップ込みで24ドルだった。途中、スモール・トークで点いていたFMのことを尋ねると、ずっと同じ局=オールディーズ(1950年代のロックンロールのことではなく、単に古い、例えば1970年代前後のロックという意味)を聴いているという話だった。
 図書館の受付で、訪問先の司書の名を告げて来意を説明すると、利用者登録のカウンターへ行くように言われ、そこで臨時の利用証明(紙片一枚)を出してもらい、訪問先の特別コレクション部門へと向かった。ここでは事前に連絡を取っていた白人女性のG氏が丁寧に対応してくれて、コレクションの概要説明と、検索のガイダンスをしてくれた。試みにハンプトン・ホーズのファイルのあるボックスを出してもらうと、数点の切り抜きが出てきただけだったが、たまたま同じボックスにあったコールマン・ホーキンスのファイルには、手書きのメモを含む相当量の資料が挟み込まれていた。予想以上に価値の高いコレクションという印象を持った。G氏の説明では、このジャズ・アーカイブを管理している専任司書B氏は、折悪しく不在ということだったので、名刺とメッセージを託して可能であれば明日また来るということにする。
 いろいろと質問をしていく中で、T氏の研究テーマとの関係で5階の東アジア部門にも行っておいた方がよいだろうとアドバイスされ、続けてエレベータで5階に上がり、東アジア部門の責任者である中国系男性Z氏にアポなしで面会する。事情を説明すると、直後に別のアポイントが入っていたということだったが、大変協力的に対応してくれて、巨大な閉架書架に立ち入らせてもらった。ワンフロアに、日本の小規模な大学図書館の数館分に匹敵しそうな量の中日韓文の書籍が収蔵されている。日本関係の書籍に関していは、万博記念財団の基金の果実などからコンスタントに購入が続けられているということだった。日本人の専任スタッフも一人いるということだったが、たまたま「2時間前に」休暇に入っていないという話だった。ここでも、図書館の充実ぶりに大いに感心する。
 結局、2時間以上図書館内にいて、午後3時過ぎに図書館を出て遅い昼食をとれる場所を探す。図書館の受付席にいた白人女性に食事ができるところがどこかにないかと尋ね、大学内の食堂はもう閉まっているかもしれないと言われたのだが、キャンパス内の古い一角を見てまわりがてら、学内で食堂を探していると、飲み物を手に出てきた学生がいたので、それを手がかりにぎりぎり閉店寸前(午後3時半閉店)のカフェを見つけ、ベーグルなどをテイクアウトして、中庭のテーブルでゆっくり食事をしながら、T氏としばらく科研費の研究計画のことから、単なる雑談まで、いろいろな話をする。蔦に覆われた雰囲気のある建物に囲まれて、非常によい雰囲気があるせいなのか、普段はなかなか話す機会がもてない突っ込んだ話もいろいろ出た。結局、5時近くまで2時間近く話し込んでいた。
 帰路は、郊外電車であるMETRAの駅まで57丁目通りを東へ進み、時間があれば冷やかしたい雰囲気の本屋の前を何軒も素通りして、ようやく駅にたどりついた。電車の運転間隔はCTAよりずっと長いと聞いていたのだが、運良くすぐに北行きの電車がやってきたので、2階建て車両の1階部分に席を取って終点のミレニアム駅まで行く。ミレニアム駅では北側の出口に出て、地下道から階段で上がって、午後5時50分ころにハードロック・ホテルの正面に出た。ここでタクシーをつかまえて、夕食をとりにハードロック・カフェへ向かう。ちなみに、このときの白人中年男性ドラーバーは、ラジオ局はコマーシャルになるとどんどん変えて行くと言っていたが、一番好きなのはクラシック専門局ということだった。チップ込みで8ドルを支払う。
 午後6時20分頃、この日2回目のハードロック・カフェに入ると、ショップの東洋系の女性店員(朝はいなかった)が連れのピンバッグを目敏く見つけて話しかけてきた。早速ピン・トレードになっている。その後、席についてからも、何人かのサーバーがやってきて、ピン・トレードに応じてくれた。いつものように、ナチョスを手始めに、料理を頼み、途中で連れに留守番をさせてT氏を案内してマクドナルドをひと回りした。ことろが、席に戻ってしばらくして体調が悪くなり、しばし、ソファに座ったまま仮眠するほどになってしまう。結局9時40分頃まで、3時間以上も店にいた。
 店を出て、オンタリオ通り、ステイト街と進んでグランド・レッド駅に降りて行く。ところがここで、朝5ドル分をチャージしたカードが、残高ゼロになっていることに気づく。2ドル75セントが消えてしまったのだ。仕方なくチャージし直して入場したが、体調が悪いところに泣きっ面に蜂という感じになり、がっかりした。プラットフォームに降りて行くと、バイオリンのバスカーがいたのだが、達者な演奏だったにも関わらず、体調のせいか音の響きがしんどく感じられた。しかも、程なくして、実は北行きと南行きの乗り場をとり違えていたことに気づき、慌てて移動した。
 宿に戻ったのは午後10時半頃だったが、部屋に入ろうとして、カードキーが不具合を起こしていることに気づく。フロントですぐに対応してもらえたが、どうやらカードキーとCTAのカードで磁気の乱れが起こったようだ。部屋に入ってほっとはしたが、体調は優れない。疲れていて風呂に入る気にもなれず、最低限必要なメールのチェックなどをした後、午後11時半ころにはベッドに入ってすぐに眠りに落ちた。

Rock'n'Roll McDonald's

Hard Rock Cafe Chicago
■ 2010/09/02 (Thu)
ブルースからピザまで

Chicago, IL:

Greyhound 1219:
Chicago to Memphis
 午前2時40分ころに目が覚め、そのまま起きてメールへの対処をする。シカゴ大学の司書B氏からは、ジャズ祭関係の仕事があり面会できない旨のメッセージが来ていたが、T氏の研究課題との関連でいろいろアドバイスが書き込まれていて、こちらも勉強になるような内容のメールだった。いずれにせよ、シカゴ大学に再度足を運ぶ必要はなくなった。
 4時頃に、連れが起きてきたので、今日の行動計画を詰める。もっとも5時過ぎには連れがまた寝てしまったので、こちらは日記の続きをだらだらと書く。7時頃にシャワーを浴び、8時近くなってから朝食をとりに角のダンキンドーナツへ出かける、外は雨が降っていて、途行く人の中にも傘をさしている人がいる。雨脚は微妙に強くなったり弱くなったりしている。横断歩道を渡ってダンキンドーナツに入り、ベーグルとラップとコーヒーで朝食にする。ちなみに、この店はバスキンロビンスも兼営しているが、アイスには食指が動かない程度に涼しい(寒い?)朝だった。
 食後は宿まで連れと戻り、先に連れを部屋に返して、同じブロックにあるコロンビア・カレッジの黒人音楽研究センターの場所を確認しに行く。最初に入った角の建物は、現代写真博物館と称する展示コーナーがあり、ハリソン通り側の入口にコロンビア・カレッジと記されていたが、中の受付にいた年配の白人男性警備員に尋ねると、目指すセンターはミシガン街の方に出て右へ2軒先の6階にあるという。ミシガン街の出口から出て、変わったファサードの現代建築になっているユダヤ研究センターを挟んだ先に、コロンビア・カレッジと記された別の建物があった。元々の用途は分からないが、建物1階の広いショーウィンドウには、服飾関係の作品展示がされていて、遠目には洋装店のように見える。受付の若い黒人女性警備員に、後で来るのだがこの建物でよいかと確認すると、6階に図書館があると教えてくれた。
 連れが荷造りの仕上げをしている間に小一時間眠ってから、10時20分頃チェックアウトして、荷物を三つフロントに預ける。ここでは荷物一つにつき1ドルという料金がかかった。連れと一緒に、黒人音楽研究センターへ向かう。6階へ上がると、透明なドアの先に受付係がいて、インターホンを鳴らすよう指示書きがある。指示通りにインターホンをいじろうとしたら、中の受付にいた黒人女性が手招きしてドアを開けたことを知らせているので、そのまま中へ入る。連絡のない突然の訪問を詫びた上で、午後に同僚と立ち寄りたいのだがと尋ねると、奥から白髪の女性司書がやってきて、その場で少し立ち話ができた。そこでわかったのは、ネットで公開されている開館時間は午後5時までなのだが、今日は会議があって臨時に3時で閉めてしまうということだった。最初は、遅めの時間に回ることを考えていたので、事前に来ておいてよかった。午後2時頃に改めて訪問すると告げて、ひとまず引き上げる。

旧チェス・スタジオ
 レッドラインのハリソン駅から、レイク駅で乗り継いで、T氏のホテルに近いマーチャンダイス・マート駅へ向かったのだが、ブラウンラインに乗るべきところを間違えてグリーンラインに乗ってしまい、慌てて戻るというバタバタをしながら、11時過ぎにT氏と合流し、タクシーでブルース・ヘヴン財団チェス・レコードのスタジオ跡を改装した展示施設)に向かった。到着したのは正午前だった。この辺りは、バージェスの言う「ブラックベルト」にあたる。昼まで人通りは少ないが、そのほとんどは黒人である。正面のドアは、ここでも透明で閉まっており、呼び鈴を押して中から開けてもらうのを待つという形になっている。
 呼び鈴を押すとドアが自動的に開いて、がっしりした長身の若い黒人男性が奥から玄関ホールへ出てきた。入館料10ドルで2階に上がってビデをを見てから自由に見学してもらい、質問があれば自分にしてくれ、とぶっきらぼうに口上を述べる。トラベラーズチェックが使えるかと確認すると使えるということだったので、入館料を支払い、釣りを現金で受け取る。2階の元の録音スタジオに上がると、3人連れの白人の家族と思しき一行がいて、サムスンのフラットスクリーン・テレビでビデオが上映されていた。既に、ビデオは最後の方の部分に入っていたので、終わり際に先ほどの黒人青年(ケヴィンと名乗っていた)が上がってきて、簡単に前のグループの質問に答え、ビデオを再スタートさせた。後で聞いたところでは「Sweet Home Chicago」という1990年代に作成されたドキュメンタリー映画だった。結局1時間ほどビデオを見た後、ここで録音したチェス・レーベルのスターたち、ウィリー・ディクソン、マディ・ウォーターズバディ・ガイらブルースマンたちや、チャック・ベリーボ・ディドリー、さらにこの場所でレコーディングしたローリング・ストーンズなどに関わるメモラビリアの展示を見た。展示物は特に目を見張るようなものは少なかったが、2階から1階へ、建物奥の細い階段で下りてすぐの壁面に、38人のデスマスクが並べられていたのには、強い印象を受けた。その中には、オデッタやボ・ディドリーも入っていて、写真とはまた違う生々しさを感じた。最後に入口に戻り、そこで売っているTシャツを買った。今夕には、ブルースの演奏会があるので来ないかと、ケヴィンに誘われるが、6時から7時ということで、時間的には厳しいなと思いながら、詳しいことを聞くと、入場料はドネーションで一定額は決まっておらず、ディクソンの娘の肝いりのブルースマンが演奏するらしい。晴れていれば敷地の隣の庭で、雨になればスタジオでパフォーマンスをするという。余裕があればぜひ行きたいところだったが、今回は断念する。建物を出ると、南側に庭があるのが分かった。今夕はここで演奏があるのだろう。
 せっかくブラック・ベルトにたどりついているので、ミシガン街をひとブロックほど南下してみる。すると「モーター・ロウ」と呼ばれたブロックになり、歴史的建造物としての案内板がついている建物がいくつかある一角になった。ひとブロックほど先まで行くと、ディフェンダーという黒人新聞の社屋跡(もともとは自動車クラブの建物)にたどり着いた。現在は別の場所にあるらしいが、20世紀後半を通じてこの場所を拠点に、黒人の人権擁護を訴え続けた「世界最大の黒人新聞」があったという解説板の記述があり、これは呼ばれていたかなと改めて感じた。既に1時半を回っているので、バスで戻るかタクシーにするかと考えながら歩いていたのだが、実はタクシーがほとんど通らない。湖岸の方にあるスタジアムの前にハイアットホテルがあるから、そちらまで行けば確実にタクシーがあるだろうというT氏の提案で、そちらへ向かうためミシガン街を北上し始めたら、折よく一台のタクシーが通りかかったので、さっそくそれで北上することにする。このタクシーの黒人運転手は、われわれが乗り込んだときから、降りるときまで、ずっと奥さん?と携帯で話し続け、ずっと片手運転だった。何語なのか最初はさっぱり分からなかったが、所々断片的に英語まじりになっていることは分かったが、訛りの強い英語ということではなく、明らかに別の言語にピジン的な英語が入っているということのようだった。ちなみに、後部座席に座った連れの話だと、後部座席の床にはガラス片が落ちていたという。2時少し前に、コロンビア・カレッジとは道を挟んで反対側にあたる公園側で下車し、8ドルちょっとの料金に10ドル札を出したら、律儀に1ドル釣りを出してくれた(これくらいだと請求しないと釣りが来ないこともありそうだが)。

コロンビア・カレッジ黒人音楽研究センター
 コロンビア・カレッジ黒人音楽研究センターでは、あらかじめ予告しておいてこともあり、主任司書の白髪の白人女性をはじめ、黒人女性司書の方などに丁寧な応対をしてもらった。時間があまりないなか、閉架のアーカイブの状況や、楽譜類や録音資料の扱いなど、かなり突っ込んだ話をすることができた。この図書館は、研究センターの受付組織となっているが、実際にはセンター全体の一部でしかなく、研究組織としてはより大きなものであるそうだ。センターは実はさほど歴史は古くなく、1980年代に、クラシック系の黒人音楽家(特に作曲家)に関する資料の収集にあたる組織として産声を上げた後、ロックフェラー財団の手厚い支援を得て(現在は終了している)、1990年代以降、急速に充実してきたという経緯なども興味深かった。ちなみに、世界最初の黒人作曲家は16世紀にポルトガルで曲を書き残した、ポルトガル人の父とアフリカ人の母の間に生まれた人物だったそうだ。また、米国内でも18世紀から黒人の作曲した楽曲の記録はあり、それをめぐる面白い話もいくつか聞くことができた。臨時に3時閉館ということで最後は慌ただしくなってしまったが、別れ際にわれわれがこの後メンフィスに行くと言うと、「ブルースの父」と自称したW・C・ハンディ(「ヘンディ」と発音され、最初は誰だか分からなかった)の家をぜひちゃんと見ていけと黒人司書さんにアドバイスされた。グレースランドだけがメンフィスではないということだ。
 結局、3時15分頃にセンターを辞し、現代写真美術館と訳すと大げさだが、ちょっとした写真ギャラリーになっている、コロンビア・カレッジの施設でやっている展示を少し眺め、タクシーでいったんT氏の宿に戻ることにする。トラベロッジの近くでタクシーを拾い、ホリデイ・インに向かう。若い黒人の運転手は、何やらしきりにディレクトリらしき冊子を見ながら、てきぱきと車を進めていた。食事に行く前にちょっと時間が要るということだったので、ホテルのロビーで、無料WiFiに、電源もつないで、しばらくメール・チェックや調べものをする。そうこうしているうちに、T氏がロビーに戻ってきたのは4時になっていた。まだ4時半が、もう4時でもある。まだ昼食をとっていなかったので、3人で近くの有名なピザ屋「Lou Malnati's」へ行く。店内のテーブル席がよいというと、店の奥の一室に通されたが、ほかに客はほとんどおらず、閑散とした感じだった。食べ残した場合に持ち帰れるかと確認した上で、名物の大きな分厚いピザを注文すると、30分から40分かかりますと言われる。その間にサラダなどいかがでしょうか、と上手に勧められ、それに乗って時間つなぎにサラダも注文した。飲み物、サラダ、ピザの順に出てきたが、どれも超大盛りで、いかにもアメリカ風である。結局、6時15分くらいまでゆっくりと店内で過ごしてから、再度、T氏の宿のロビーへ行き、3人でパソコンからデータを吸い上げたり、いろいろ作業をする。その合間に30分くらいはロビーの心地よいソファーで眠っていた。ここまでで、今回の出張の前半はおしまいである。T氏の研究支援という形だったが、いろいろと示唆に富む経験をしたと思う。
 7時20分頃、ホテルからタクシーに乗り、トラベロッジへ荷物をとりに行く。黒人のタクシー運転手が、どこから来たのかと尋ねてきたので、東京だというと「サンコンサン!」と言い出した。聞けば、彼はガーナ出身で、オスマン・サンコンが日本で有名人だということをよく知っているらしい。日本人は笑わないが、その日本人を笑わせることができるのはサンコンさんだけだよ、と笑っていた。トラベロッジに着いて、連れを車内に残し、預けた荷物を引き上げ、3ドルを支払う。日本んものよりずいぶんと大きくできているタクシーの後部ハッチに荷物を入れ、グレイハウンドのターミナルまで行った。支払いは11ドルちょっとだったが、20ドルを渡したところ8ドル戻ってきたので、もう2ドル、チップをのせた。
 ターミナル内はごった返していて、発券カウンターも長い列ができていた。ようやく順番が来て発券してもらったが、行き先のテネシー州ジャクソンがミシシッピ州ジャクソンに間違っていたりと、嫌な予感がしたが、クレームを言って無事にチケットを受け取り、20番ゲートに並ぶことになった。ところが、この時点でロビーの端から端まで長蛇の列ができている。これだけ発券しているということは複数のバスが出るということだ。並ばなくても同じと判断し、体調が優れずに立っているのがしんどかったので、列が見える位置でしばらくテーブル付きの椅子にへたり込んでいた。ところが出発の定刻である9時30分になっても、いっこうに搭乗が始まる気配がない。おかしいなと思って見ていたが、20分ほどしてからようやく1号車の搭乗が始まり、出発後すぐに2号車がやってきてそれも定刻45分後ほどで出発した。そろそろ行列が短くなってきたので最後尾に着いた。ところが、3号車がやってきたのは11時近くになってから、それもなぜかすぐに搭乗が始まらず、しばらく間があってようやく搭乗が始まったが、われわれの3人前までで、締め切られ、4号車が来るらしいということになる。このタイミングでは、メンフィスでジャクソン行きに乗り継ぐことは絶望的だ。半ばあきらめつつ、発券カウンターでジャクソンからのバスの扱いを確認しようとしたのだが、発券カウンターの入口にいた白人男性のセキュリティーにカスタマーサービスへ行けと言われ、そちらへ行くとその入口にいた黒人男性の職員に、少なからず不愉快な対応をされてしまった。やりとりの途中で若い黒人女性の職員が現れて、きちんとした言葉遣いで、乗り遅れた場合は、メンフィスで発券し直して、後続の便に乗ることになるので、発券手続きが必要になると説明された。最初の対応はいったいなんだったのだろうという感じだった。
 4号車の搭乗が始まったのは、深夜0時近くになってからだった。われわれあの後ろには、ずっと4人くらいしか人がいなかったのに、いつの間にかバス一台分くらいの人が並んでいる。最初からこうしたことを見越して遅いタイミングで来る人もいるのだろう。バスは2号車までは新しい車両だったが、3号車以降は年季が入った感じの車両で、連れの席はリクライニングできたが、こちらはできなかったし、座席のエアダクトは壊れていた。また、シートベルトは最初からなかった。知り合いの長野県在住の米国人にちょっと感じが似ている白人の男性ドライバーは、出発時にチケットの確認を厳密にやってから発車した。0時を結構回っていたと思うが、車が動き出してすぐにこちらはあっさりと眠りに落ちた。
■ 2010/09/03 (Fri)
多難なグレイハンドでメンフィス入り

Memphis, TN

Memphis, TN:
Days Inn & Suites

グレイハウンドの車両
 0時を回って、ようやく動き出した車内で、多少は窮屈ながら眠りに就けたのもつかの間、1時半頃に車が停まって車内が明るくなり、起こされた。何でも、車内で喫煙した者がいるということで、ドライバーは州警察に引き渡すと息巻いている。どういう経緯だったのかは理解できなかったが、その後再びしばらく走行した後、バスは人気のない場所に停まり、そこにパトカーがやってきて、喫煙を認めた黒人男性の乗客がバスから降ろされて、しばらく、警察官が尋問らしきことをしはじめた。ドライバーと、もう独り別の黒人女性の乗客がいったん下車し、やはり何か証言したというかたちになっていたようだ。結局、喫煙した乗客は警察に引き渡され、バスは発車したが、さらに小一時間が余分にかかったことになる。4時40分頃、バスは最初の休憩地(地名は聞き取れなかったがまだイリノイ州)に到着し、トイレのために下車した。ここはスーパーに近い価格の良心的?なコンビニだったが、結局何も買わなかった。20分ほどの休憩の後、バスは同じ町の中を少し移動し、ドライバーが黒人男性に交代した。この時点でメンフィスへの到着見込み時間は11時15分と告げられる。パソコンを取り出し、座席で使えるようにした上で、しばらく閉じて、少し眠る。
 6時を過ぎてだんだん明るくなってきた頃から、もう眠らずに日記を書き始める。そうこうしている間に、バスは、イリノイ州を出て、ミズーリ州の町(Miner ?)など数カ所に停車しながら南下を続ける。ところが、途中で渋滞がおきていて、バスは先へ進まなくなった。何のことか分からなかったのだが、実は大型トレーラーの横転事故が起きていて、そこを抜けるのに時間がかかかっていたのである。
 10時半頃、アーカンソー州の町(これも聞き折れなかった)で停車したが、このときは連れをトイレに行かせ、自分は車に残っていた。いよいよ南部である。ここでは、ネイティブ・アメリカン(あるいは東洋系?)と思しき視覚障害者の男性が、介助者の黒人男性とともに乗り込んできたが、ドライバーは進行方向右側最前列の客をどかせて、そこにこの男性を誘導して座らせていた。車が再び動きだし、ドライバーは11時45分メンフィス到着予定と告げた。制限時速70マイル(112キロ)の直線道路のインターステイト55号線をひたすら進む車窓からは、水田や綿花畑が広大な平原に広がっている様子が見える。メンフィスが近づいてくると、55号線は東に向きを変えた。リボン・デベロップメントのモチーフはこんな感じかななどと考える。工事中の道に誘導されて少し速度を落としながら、バスはミシシッピ川を超え、メンフィス市内に入っていった。
 メンフィスはミシシッピ川の左岸にある小高い丘の上に中心地が位置が広がっている。右岸側はまったくの氾濫原なので、土地利用は対照的だ。バスは橋を渡り、河岸段丘の下の面を少し南へ走ってから坂を上がって、いきなり路面電車の線路が走る中心市街地内に入った。4列ほどの到着便のバス溜まりのひとつにバスが入り、メンフィス到着である。当初の計画から4時間45分の遅れでの到着で、当然ジャクソンへの往復は断念しなければならない。

Hard Rock Cafe Memphis

W.C.Handy's Memphis Home

STAX Museum
 グレイハウンドの駅を出て、歩いていける距離にあるビール通りのハードロック・カフェを目指す。この辺りはかなり最近に再開発がなされたようで、ピカピカのモールの裏側を通っていく感じだ。HRCはすぐに見つかり、まず入り口にいた黒人女性のサーバーに声をかけて席に着く。昼間はヒマなのか、店内は割合閑散としている。1階は天井が高めで、簡単なステージもある。壁面にはアルバート・キングや、ブルース・ブラザースとしてのジョン・ベルーシの衣装がある。また、ルーファス・トーマスのブーツが目を引いた。荷物は入り口近くに置き、心身ともにほっとする。連れは、席を確保した上で売店の方へ行き、プレスリーの絵柄のものなどピンを8本買い、さらに席に戻ってからはサーバーたちとピントレードをしていた。こちらは、飲み物だけ飲んで一息入れてから、カメラをもってビール通りからギブソンの博物館のあたりを回って写真を撮ってくる。宿へ向かうバスのバス停の場所がよくわからなかったので、いったんHRCにもどり、WiFiを利用して検索してバス停の位置を確認し直す。ビール通り一帯も、近年の再開発でかなりきれいになっている感じだ。W・C・ハンディの銅像があるハンディ・パークも、かなりきれいに整備されていた。
 また通りのはずれに、W・C・ハンディの旧居が置かれている(後で聞いたところでは、これは1980年代に、数ブロックはなれた場所から曳いてきたものだという)。いったんHRCにもどり、再び出かけてW・C・ハンディの旧居に行く。ここは入館料3ドルで、小さなショットガン・ハウスの中に写真や文書類がいろいろ展示されている。ほかに客はいなかったので、「キュレーター」といっても一人で留守番をしている黒人女性のBさんと、しばし話し込む。たまたま小銭だけしかもっていなかったので、またHRCにもどり、トラベラーズ・チェックと財布をとってきて、Tシャツとハンディの自伝、晩年の本人の語りを記録したCDを買った。
 午後3時頃にHRCを出て、ピーボディ通りとフロント街のバス停まで行き、4番バスに乗ってデイパスを買い、スタックス博物館まで行く。ここは元のスタックス・レコードの社屋後だが、一度博物館として開館したもののいったん閉鎖され、再度開館して現在に至っている。入ってみると、思った以上にお金がかけられた感じの施設で、展示の仕方もあか抜けている。売店のグッズもHRC並の強気の値段がついている。ここはスタックスのみならず、アトランティックなどソウル音楽を牽引したインディーズの動きを全体として顕彰するという趣が強く、(ファンク・ブラザースとは違う意味で)「In the shasow of Mowtown」というフレーズがぴったりくる(もちろん、モータウンのアーティストにも言及がある)。また、ブッカーT&MGズなど、黒白混合バンドのサウンドがメンフィスの特徴だと強調されているところも面白かった。最後にTシャツを買って、4時過ぎに博物館を出て、あたりの写真を撮る。博物館の隣は、スタックス・アカデミーという音楽学校になっているが、その周囲は緑が多い郊外住宅地であり、白人の姿はまったくと言ってよいほど見られない。実際、バスの中でも、白人の姿は滅多に見かけないし、この日、中心部からスタックス博物館まで乗った4番バスも、次に宿まで乗った17番バスも、乗客、乗員とも黒人ばかりだった。スタックスの前のバス停では、30分くらい待ちぼうけになってしまったが、その間も通行人はすべて黒人だった。
 スタックスから17番バスに乗り、宿のあるアメリカン・ウェイへ行く。途中ずっと黒人ばかりの郊外住宅地を縫って行くのだが、やがてほとんど乗客がいなくなり、ドライバーとセキュリティの女性に、われわれだけになった。最後は宿の近くで停車をリクエストする紐を引いたのだが、ドライバーは減速しながら、どこへ行くのかと尋ね、この先のモーテルだというと、何とバス停ではないのに、その真ん前で下車させてくれた。ほかに客がいなかったからなのかもしれないが、重い荷物を持っていたので大変助かった。
 デイズ・インは、一泊45ドルちょっとで予約した安宿だが、改装したばかりの建物で、周りは木が生い茂っており、町からは隔離された感じの場所だ。フロントでは、車は?と聞かれ、車で来なかったことを少々驚かれた。101号室は、モーテルとしては標準的な広い部屋で、ベッドも三人寝られるくらいの大きさがあり、冷蔵庫や電子レンジ、アイロンなども揃っている。さっそく風呂に入り、洗濯をする。ネットでバスの時刻を調べ、これからビール通りへ出かけて、帰りはタクシーで帰ってこようと計画する。午後7時45分頃に宿を出て、アメリカン・ウェイを東へ進み、バスの中継ターミナルへ行く。誰もいないし、建物も閉まっているが、明かりは煌煌と点いているので、ここで待つことにするが、まだバスの時間まで余裕があると判断して角のガソリンスタンドのコンビニまで行き、アイスクリームを買って、ターミナルに戻った。ところが、時間が過ぎてもバスは来ない。どうやら、この時間帯はターミナルではなく、先ほどのガソリンスタンドの前からバスが出たということらしい。まだ市内へ行くバスは残っているが、なんだかケチがついたようで出かける気が失せてしまい、宿に戻る。近くの草むらの向こうには水路があるのだろう。カエルの鳴き声が聞こえる。夏休みの終わりの日本と同じような感じだ。
 結局、精神的にかなり凹んだ状態で9時少し前に宿に戻ってからは、少しネットを見たくらいで、すぐにベッドに入った。久々の早い就寝である。
■ 2010/09/04(Sat)
グレイスランドへ

Memphis, TN

Memphis, TN:
Days Inn & Suites
 朝7時少し前に起き、トイレに立つ。連れを起こし、昨日風呂に入ったときにやりかけていた洗濯物を仕上げて干し、7時半頃、朝食に行く。デニッシュとマフィンにコーヒーの軽い朝食である。朝食がサービスされているホールの外には、プールがあるが、これは午前9時から午後9時までが利用時間である。

アーケイド・レストラン
 朝食後、8時過ぎのバスに乗るため、昨夜空振りしたターミナルまで行く。幸い今朝は、先に待っている乗客たちがいてほっとする。定刻にやってきた56番バスに乗り、中心部へ向かう。グレイハウンドの駅があるユニオン街からサード通りへ折れるところで降りそびれてしまい、ずっと北のターミナルまで行って戻ってくるまで乗り続けていた。結局、セカンド通りからユニオン街に曲がったところで下車し、メイン通りに上がる。ちょうどフォークロア系のイベントの期間にあたっていて、その準備中だった。半分封鎖されている路面電車沿いにメイン通りを南西へ下ってゆく。中心部の整備されたところを抜けると、周りの建物がなくなって空き地になっている劇場、封鎖されたままの巨大なホテル、商店の跡を埋めていると思しき、キリスト教の特定宗派の書店、やはり商店跡を利用したと思しき人権博物館、空き店舗が続き中を歩き続け、目的地であるユニオン駅に近い「Arcade」というカフェにたどりついた。
 ドアを開けて入店すると、店内は満員に近い繁盛ぶりである。しかし、これまで入ってきたメンフィスの店とはまったく違って、ほとんど黒人がいない。客では1人だけ、働いている側も下働きで皿を下げる男性たちだけが黒人で、黄色人種は私たちだけ。後は白人ばかりである。ここはプレスリーが通っていたカフェということになっていて、彼のお気に入りの席だった窓際の一番奥の席には、ささやかな写真の展示もある。ここでは、(通常とは異なる)独特のスタイルで出されるフレンチ・トーストと、スウィート・ポテト・パンケーキを注文する。どちらも南部風ということか、香辛料が利いていて、美味しかった。プレスリーお気に入りの席には、白人の男女3人連れが座っていたが、連れがその席の写真を撮りたいというので、食事に区切りがついたことを見計らって声をかけ、その席の写真を撮らせてもらった。ここでは、店名の入った、店員が来ているのと同じデザインのTシャツを買う。
 当初は9時半頃までにカフェを出て、市バスでグレースランドへ行こうと考えていたのだが、到着が遅れた上に思いのほか長居をしてしまい、バスに間に合わなくなってしまった。毎時30分にロック・アンド・ソウル博物館前から出発する、サン・スタジオの無料シャトル便をあてにして、メイン・ストリートをフォークロア・フェスティバルが始まっている(始まりかけている?)中心分まで戻り、そこからフェデックス・フォーラムの前にあるロック・アンド・ソウル博物館前に行く。幸い10時15分ころにたどり着くことができたので、しばらくシャトルを待つ。その間に博物館の開館時刻や、ギブソンの工場ツアーの時刻を確認する。
 10時半にやってきたシャトルは、二十人ちょっとが乗れるくらいのバンで、黒い車体にサン・レコードのスターたちが描き込まれている上品なペインティングになっている。車中では、前方のスクリーンに映像が映し出され、ひたすらプレスリーの曲がかかる。ほとんどが、映画の一場面やテレビ出演時の映像で、1950年代の白黒映像に始まり、最後は1968年のカムバック特番だった。もし渋滞していたら、ラズべガスのプレスリーも見れたのかもしれない。グレースランドは、エルビス・プレスリー大通りを名付けられた道を挟んで反対側がビジター・センターのようになっており、ここで入場券を買って、こちら側から出発する白い車体のシャトルに乗って、道を横切り、グレースランド本体へ向かうという形をとっている。土産物屋や売店、また、関連した展示施設なども、本来のグレースランドとは反対側の道の西側にある。3種類あるチケットの中から、一番標準的と思われる「プラチナ」チケットを買い、連絡バスの乗り場に行くが、まだ12時のツアー2番が呼ばれている段階で、われわれが持っている4番のチケットが呼ばれるのはまだ先らしい。連れと交互に、一方がベンチに座り、もう一方が複数ある土産物屋を冷やかしに行く。とこにいてもプレスリーの音楽を流しているが、時折女性の金切り声入りの音源も流れるので、雰囲気は遊園地の順番待ちをしているときのようだ。

グレイスランド正面入口

プレスリーの墓

ギブソン・メンフィス工場(3日撮影)

サン・スタジオ
 やがて、順番が来て、列に並び、人数が乗り込み次第、順次出発するシャトルで、一挙にグレースランドの正面玄関に連れて行かれる。グレースランドは、もともと1919年に地元の有力者が建てた郊外の農場付きの屋敷だったが、プレスリーは成功すると間もなく、この場所を購入し、両親と一緒に住み始めたのだという。屋敷とは言っても、建物自体は驚くような広さがある訳ではない。敷地は住宅としては広大だが、母屋は二階建ての普通の規模の家で、決して驚くような大きさではない。広大な屋敷ではなく、林の中に立派な普通の家がぽつりとある、という感じが正しいかと思う。プレスリーはこの家をかなりの手をかけて改装し、地下にテレビ室や撞球室を造り、家の背後、キッチンの裏にジャングル・ルームと称されるプレイ・ルームを追加した。キッチンから増築された部屋へのドアは、元々の屋外へのドアの感じがよく残っていた。母屋は1階と地下のみが公開され、もともとプレスリーのプライベート空間だったという2階は公開されていない(娘のリサ=マリーは、父は階下へ降りてくるときは外出するのと同じように装身具を身につけきちんとした格好をしていた、と述べている)。
 母屋を出た後は、順路に従って、プレスリーの父バーノンがオフィスに使っていた平屋の質素な小屋、物置などを見て、トロフィー・ルームと呼ばれる数々の顕彰の品を壁面いっぱいに展示した施設(元々あったものではない)を通り、晩年のプレスリーが入れ込んで作ったラケットボール場に至る。ただし、こちらも、トロフィー・ルームの延長のような展示空間になっていて、天井の高い空間の壁面に、死後も増え続ける記念品類(死後発表された作品のゴールドディスクなど)がこれでもかと展示されている。ラケット・ルームを出るとその先が、プレスリー一家の墓になっている。手前から、出生直後になくなった双子の兄、母親、父親、プレスリー本人、祖母の順に、扇型に金属のパネルが置かれている。改めて生没年を見ると、兄はもちろん、母親もプレスリーに先立ったが、父親は3年、祖母は何とさらに1年、それぞれの息子より生き延びたことが分かる。
 墓参りが終わると、もうツアーは終わりである。シャトルに乗り、道の反対側に戻ったのは、2時少し前だった。最初は、すぐにシャトルでサン・スタジオに向かうことも考えたが、考え直し、ここで少し買い物をし、プレスリー所有の飛行機なども見てから、3時発のシャトルでサン・スタジオへ向かう。来るときプレスリー一色だった車内は、今度はカール・パーキンスやジェリー・リー・ルイスジョニー・キャッシュといった面々に焦点を当てたドキュメンタリーに切り替わっていた。このシャトルはサン・スタジオが運営しているので、サン・スタジオ前で時間調整があり、ドライバーもしばらく下車したが、ひと呼吸入ってから3時半に、ロック・アンド・ソウル博物館前に到着した。今日最後のギブソンの工場見学は4時からなので、これ以上遅れた便では間に合わないところだった。
 ギブソンの工場は、週末なので当然休業中なのだが、ツアーは午前から毎正時に行われていて、今日は4時が最後である。見学中、もちろん工場内はいっさい撮影禁止だが、特に見学用のコースが設けられているということではなく、実際に作業者が働いているフロアを歩き回るもので、ほかではなかなか見られない形のツアーだ。この工場はセミホローのギターを生産していて、案内者はその行程を順番に淡々と説明していく。シンプルだが、下手にショーアップされていない分、勉強になった感じのあるツアーだった。また、ツアーの途中や最後に質問を募るところでは、一般客対象のツアーであるにもかかわらず、積極的に質の高い質問が出て、アメリカ人のコミュニケーション能力の鍛えられ方の片鱗を見た覚えがした。
 ツアー終了後、建物の外に出たのは午後4時40分を回っており、既に午後4時半のシャトルは出て行った後だった(最初から予想していた通りだが)。ハードロック・カフェの前まで行って、電波が漏れているWiFiを使って市バスでサン・スタジオまで行く方法を検索し、フェデックス・フォーラム裏のバス停で43番バスを待った。ところが定刻を過ぎてもバスが来る気配がない。しびれを切らして、歩き出そうとした矢先にバスがきて、慌ててバス停に戻った。黒人女性ドライバーの操るバスは、ビール通りからユニオン通りに出て、しばらく西へ進む。やがて、サン・スタジオが見えてきたので、ワイヤーを引いて停車をシグナルし、停車するとのサインも点灯したのだが、バスはなぜか減速もせずにバス停を通り過ぎる。慌てて再度ワイヤーを引いたのだが、隣にいた黒人男性が大きな声で、降りたがってるぞ!と叫んでくれて、ようやくバスは停まった。強い日差しの中、バス停一つ分位を歩いて戻り、5時15分頃ようやくサン・スタジオにたどりついた。最後のツアーが5時半から始まるが、無事間に合ったわけだ。受付はカフェのようにカウンターやテーブルがあって、ツアー開始を待つ間、レモネードを注文して一息入れる。連れはエルビス・プレスリーと書かれたスツールにずっと座っていた。
 ツアーは、受付兼売店の上にあたる2階の展示から始まった。案内役の若い白人女性(胸に鮮やかな文字のタトゥーをしている)はきわめてショーマンシップ豊かに立て板に水のごとくしゃべるので、実はほとんど理解できない。2階の展示の説明が終わった後は、1階のスタジオで更に説明がある。ここは、歴史的建造物に指定されている唯一の現役のスタジオだ、という説明が興味深かった。実際、スタジオ内にはドラムスやいろいろな楽器が置かれ、近年でも録音が行われている。スタジオ内で撮影されたボノの写真がひときわ目を引いた。最後は、プレスリーがレコーディングに使ったのと同じマイクを握ってポーズをとれますよ、ということで、客が次々と写真を撮っていた。最後に案内役の女性にいくつか質問をしていたり、土産物を選びそびれて時間を使ったりしているうちに、無料シャトルの最終便が出てしまった。慌てて、市バスで戻ってみたが、既に6時半頃になっていてロック・アンド・ソウル博物館の最終入館時間である6時15分は過ぎていたので、入館は断念する。
 週末とあって、ビール通り一帯はとんでもないくらいの人出である。ひとつひとつの店から、大音量の音楽が流れてくる。しばらくビール通りを行ったり来たりしながら、土産物屋などを冷やかす。どこに入るか大いに迷ったあげく、目を付けた店がどこも大行列なのにあきれ果て、行列ができていないHRCに7時半頃に入店し、通されたのは南西の角の席で、アルバート・キングとアイザック・ヘイズのメモラビリアの間であった。飲み物とサラダをとり、しばし、疲れた心身を休める。
 9時過ぎに再度ビール通りに出ると、何と通り一帯が警察に封鎖されていて、後から入ろうという人々を規制している。それも、中途半端な規模ではない。通りの中央の空間ができているところでは、黒人の少年が、拍手喝采の中、連続後転の技を見せてバスキングしている。連れが土産物を見ている間にB・B・キングの売店でまずTシャツを買う。その後、B・B・キング・ブルース・クラブに入るか、ブルース・シティ・カフェに入るかで大いに悩み、前者の列の後尾についた。店内では、大音響でバンドが演奏している。少しだけ待ってメニューを受け取り、2階に上がる。ここでテーブルが開くまでしばらく待ち、ようやく席に着いてプラッターを注文する。あいにく名物のリブは切らしているということで、リブなしでもよいと答えると、BBQウィング、ナマズのフライ、ピクルスのフライの盛り合わせが出てきた。バンドは魅力的な演奏していた。ボーカルとリズムセクションは若手という感じだが、ギターとホーンは年季の入った感じだ。ブルース、ソウルから、白っぽい「スイート・キャロライン」のような曲まで、達者にこなしていく。ボーカルも目一杯の感じでよく歌い続けられるものだと呆れるくらいタフなパフォーマンスだった。アル・グリーンのラブ・アンド・ハピネスを最後にやったのだが、こうした路線が一番特異なボーカリストなのかなと感じた。意外なことに、ライブの後はディスコ状態で、懐かしいビージーズなどが流れ、少々拍子抜けしたが、客の多くが白人ということを踏まえてのことなのだろう。
 11時頃、B・B・キング・ブルース・クラブを出て、どこに入ろうかと思案しながら、まだ封鎖が続いているビール通りをくだっていく。昼間からあまり聞いてもらえない感じでHRCの先で演奏していた白人の若いブルースマンのところにも、人が集まっていて、なんだかこちらもほっとした。カウンターで女性が踊っているコヨーテ・アグリー・サルーンの前にも人だかりができていたが、結局、ハンディ公園へ行って、白黒混合バンドの、ちょっとレゲエが入った感じの演奏を、使われていない大ステージに向いたイスに座って後ろから聞きながら、しばしささやかな幸福感に浸る。深夜0時頃に、ブルース・シティ・カフェに入るつもりになってまた、ビール通りを上っていったのだが、何と、今日はもう締め切ったと言われてしまう(通常は深夜3時までやっているはずだが)。そのままホテルにタクシーで戻ることにして、すぐ先に並んでいたタクシーの中から1台に声をかけ、ホテルに向かった。聞けばエチオピア人の移民なのだという。ホテルについたのは0時半頃、料金はチップ込みで30ドル支払った。
 明日は出発が早いが、荷物の整理が終わっていない。連れに作業を任せて、先にベッドに沈んでしまった。
■ 2010/09/05 (Sun)
久々の顔面蒼白

Memphis, TN

GLI3868/COP669
 今朝は、いよいよメンフィスを出て、さらに南へ向かう旅に出る日だ。朝6時に目覚ましをかけて起き出し、6時45分頃に朝食会場のロビーへ行き、朝食をとる。7時34分にターミナル発の56番バスで、グレイハウンドのターミナルへ向かう予定で、20分頃にはターミナルに着いていた。もう一人、黒人女性がバスを待っていたのだが、何と、また定刻にバスが来ない。それらしいバスは、ほぼ定刻でアメリカン・ウェイを東から進んできて、ターミナルに入らずに、そのまま右折していった。何ということだ。次のバスでは、もう間に合わないので、泊まった所とは別の、近くのモーテルに飛び込み、インド人の支配人にタクシーを呼んでもらうよう頼み込む。タクシーが来るまでしばしの間、日本の経済はどうなんだ、とか、インドにある資産の管理を二人いる息子の一方に任せたいのだが、親の思い通りにはならないとか、いろいろ愚痴を聞かされる。そうこうしているうちに、20分ほどして、タクシーが到着し、一路グレイハウンドのターミナルへ急行する。無事、間に合うタイミングでターミナルにたどり着いた。タクシー代はチップ込みで27ドルだった。
 ところがここで大変なことになった。ディスカバリー・パスで乗車券の発券をしてもらおうとして、パスポートが見当たらないことに気づいたのである。その場で荷物をすべて開き、どこかにまぎれていないかと2回点検するが見当たらない。当然、ギリギリだったトゥペロ行きのバスには間に合わない。それより何より、パスポートがなければ、グレイハウンドにも乗れないし、クレジット・カードでの買い物も拒絶される可能性がある。グレイハウンドに乗れないとなるとナッシュビルにある日本領事館に行ってパスポートを再発行してもらうこともできない。久々に本気で慌て、顔面蒼白になっていたと思う。公衆電話からクレジット・カードで通話して、朝出た部屋に忘れていないかを確認してもらうが、しばらく間を置いて再度かけたときの返事は、見当たらないという答えだった。それでも、自分で確かめに行くことにして、ハードロック・カフェが開店するのを待って、連れをそちらに残し、バスで往復しよう、などと段取りを考えた。店の開店はほとんどが11時頃なのでまだ少し間がある。それまでに、昨晩立ち寄ったところを片っ端から聞いて回ったらどうか、と連れにアドバイスされ、まず、昨晩の最後に立ち寄ったB・B・キング・ブルース・クラブに行った。ドアは開いていたが、当然ながら準備中で仕込みをしている白人男性の厨房スタッフがちらちら見えるだけだった。しかも、イヤホンで音楽を聴いているのか、声をかけても反応してくれない。ようやく奥の方にいた別の黒人男性の厨房スタッフがこちらに気づいてくれた。落とし物がなかったか、と尋ねると、別の体格の良い黒人男性スタッフが現れ、「あるよ」と言われる。一瞬耳を疑ったが、いったん奥へ引っ込んだ後、戻ってきて名を尋ねられ、無事パスポートが戻ってきた。昨晩食事の後の支払いの際に、IDとしてパスポートを用意し、そのままテーブルに忘れてしまったようだった。店では、これをなくした奴はトラブルになってるぞ、と心配していたそうだ。ともかく一件落着で、急いでターミナルに戻り、連れもほっとさせたが、こうなるまで2時間あまりの間、生きた心地がしなかった。

Rock'n'Soul Museum

B.B.King Blues Club のリブ
 パスポートは無事戻ってきたものの、今日はもうトゥペロへは行けないし、モンゴメリー行きのバスは午後9時30分の出発である。それまで、荷物を抱えてどう過ごしたものか。10時近くになっていたので、とりあえず昨日行きそびれたロック・ン・ソウル博物館に行くと、ちょうど開館したところだった。ひとり12ドルの入館料を払い、受付に荷物を預けて入館する。ここの展示は、実はあまり期待していなかったのだが、展示スペースはさほど大きくないものの、社会的背景などにも目配りが行き届いた、工夫のあるよい展示がなされていると感じた。かなり時間をゆっくりかけて、しっかり解説文を読みながら順路を回った。出口の売店では、職員の制服とまったく同じシャツを売っていたので、1着購入する。
 既に12時になっていたので、次にHRCに行き、昨日と同じ南西の角の席に通される。HRCには、結局、3日間の滞在中、毎日通ったことになるが、勝手が分かっている店があるというのは本当に安心できるものだと痛感した。5時近くになってから、HRCを出て、再度B・B・キング・ブルース・クラブに行く。昨日は売り切れだったリブを注文し、ゆっくり時間をかけて食べる。席は1階のステージ脇だったが、電子オルガンが置かれているので、ステージ上の様子はまったく見えない位置なのだが、ともかくステージには、どちらも白人の、ギターを抱えたブルースマンとがいて丸々とした体型のハープ吹きがいて、時々笑いも取りながら演奏している。彼らはカバーチャージではなく、客からのチップを受け取るという形のようだ。パフォーマンスの中では、「B.B.King says...」のように、B・B・キングやハウリング・ウルフの名を引き合いに出しながら有名な曲のパフォーマンスを真似てみせたり、「Lean On Me」のような曲でシング・アロングさせたりと、なかなか面白い。結局、そのまま7時半まで居座り、白人コンビのステージを2回も通して見てから店を出た。ちょうどセッティングをはじめた今日のバンドのカバーチャージは3ドルで、昨夜の5ドルよりは少ない。出演者によって、いろいろな値段になるということだ。
 グレイハウンドのターミナルまで、また今日も人出が多いビール通りを通って行く。思えば、メンフィスではいろいろなことがあったが、結果的に音楽関係の資料館・博物館的な施設はひと通り回りきれた。結果オーライと考えておいた方が、精神衛生上はよいと思う。ただし、さすがに疲れが溜まってきているのか、咳が出たりし始めている。免疫力が落ちている感じだ。しかし、今夜からは2晩連続の車中泊である。何とか乗り切らなければならない。
 グレイハウンドのターミナルでは、今度は何の問題もなく、モンゴメリーまでの乗車券を発券してもらい、定刻までロビーで乗車を待つ。ここからアラバマ州バーミンガムまでは、メンフィス発バーミンガム行きなので、眠っていても大丈夫だ。しかも今回は、列の先頭に並ぶことになった。乗車を待つ間、ロビーの充電コーナーでパソコンとカメラの電池を充電した。乗り込む前に、車内持ち込み荷物を厳重にチェックしていた。われわれは何も問題なく済んだが、なんだか分からないが、いろいろと有無を言わせず捨てられてしまっていた人ともいて、少々緊張する。やがて乗り込んだバスは、最新式の深緑の車体で、座席には電源もあるし、どういう仕掛けかは分からないが、WiFiもついている(ただし、実際に接続はしてみると安定性は今ひとつだった)。定刻の9時30分にバスが出発すると、すぐに眠りについた。
 午後11時少し前にどこかで停車した際に一度目が覚め、次はトゥペロという声を聞いて、しばらく起きていた。トゥペロでは、短時間の休憩(喫煙者の喫煙タイム)がとられ、下車して周りを見回したが、タクシーが来る気配も何もない。また、この時間には待合室も閉められている。あたりにはホテルなどがあるが、土地利用はスカスカの状態で車がすべての前提になっていることが分かる。
 トゥペロを出てからは、また眠ることができた。終点のバーミンガムには午前2時15分の定刻に到着した。
■ 2010/09/06 (Mon)
レイバー・デーのハンク詣で

Montgomery, AL

GLI0571
 20分の乗り継ぎ時間で、セントルイスとフロリダのタラハシを結ぶバスに乗り継ぎ、こちらも2時35分のほぼ定刻で出発した。モンゴメリーは、バーミンガムを出て最初の停車場なので、眠らないように心がけて、昨日の日記を少し書く。そうこうしているうちにバスはモンゴメリーに到着した。まだ4時15分で辺りは真っ暗である。とりあえず、明るくなるまでは動かない方が無難だと判断し、そのままロビーで椅子に座り、ウトウトしていた。やがて、早朝の出発便が全部出発し終わり、まだ暗いうちに、職員もすっかりいなくなった。ホールに残ったのは、われわれ同様、どこへ行くということもない感じの乗客6-7人だけだ。まだ暗い6時少し前に、連れを残して100メートルほど先の「カンガルー」と看板を掲げたガソリンスタンドへ行き、飲み物とアイスクリームを買ってくる。
 外が少し明るくなってきたので、荷物を曳いて建物の正面に出ると、タクシーランクから回ってきた黄色いタクシーの男性ドライバーに、タクシーに乗るよう勧められる。ヒスパニック風の風貌のこの男性は、不思議なことには奥さんらしい白人女性を助手席に乗せている。最初は、別の客と相乗りをさせようとしているのかと思ったが、そういうことではないようだった。いずれにせよ、ちょっと嫌な感じがしたので、この申し出は断り、改めて、ガソリンスタンドのコンビニに行って、地図を買い、どうすべきかと店の白人女性店員に質問してみた。すると、今日はレイバー・デーなので、バスはいっさい動いていないという。何ということだ。タクシーを呼んであげるてもいいけどどうする?という話になり、いったんグレイハウンドに戻って連れと相談してから、もう一度コンビニに行き、タクシーを呼んでもらった。しばらくして、やってきたのは、先ほどわざわざパスした、あのドライバーのタクシーだった。いやはや。荷物を載せるため後部のハッチを開けると、普段の自分車と変わらないくらい、雑然と日用品やゴミ同然のものなどが散らかっている。その上に、荷物を載せて、行き先としてハンク・ウィリアムズ博物館の場所を告げ、車は市内へ向かった。車内では、こちらのことはおかまいなしという感じで、ドライバーはぼそぼそと女性に話し続けている。車は、南からの一方通行になっているコート通りを北上し、丘を登り、やがてなだらかにダウンタウンへと降りて行く。途中で見かける家々や、大きな建築物を見て、この町の建物は美しいと思った。
 ハンク・ウィリアムズ博物館の前で荷物を抱えて降ろされたものの、まだ8時にもなっていない。博物館は普段は9時からだが、今日はレイバー・デーで10時から2時までと貼り紙がしてある。連れがガイドブックをいろいろ見て、旧駅舎にある観光案内所が8時半からやっているはずだというので、いったん荷物をすべて抱えて、2ブロックほどを移動する。この旧駅舎は、19世紀末の建物を2000年に改装したものだと銘板がはめ込んである。ところが、ここでもレイバー・デーは10時から2時と記されているではないか。心身ともにほとほと疲れ果て、観光案内所(つまり旧駅舎のロビー)への正面入口の数段のステップに荷物を置き、へたり込んでしばらく休んだ。連れは最初寒がっていたので、日差しのあたるところに座っていたが、そのうち日差しが強くなり、日陰へ移動した。旧駅舎の前には、なぜかスポーツをするような姿の人々(ほとんどが白人)が集まっている。最初はなんだか分からなかったのだが、どうやら「Annual Labor Day Run」というイベントらしく、老若男女いろいろなランナーが楽しそうに走っていた。ただし、ほとんどが白人というところは気になった。このイベントはわれわれが駅に着いたときからやっていたのだが、朝のうちに終わってしまい、9時頃にはきれいにすべてが撤去されて、辺りには誰もいなくなった。ちなみに、イベントがまだ行われているときに、近くにいた警官に聞いてみたのだが、やはりレイバー・デーでバスは(モンゴメリー名物の「トロリー」を含め)動かない、という。9時を過ぎて辺りに誰もいなくなってから、意を決して石段で横になって眠ることにした。車中泊だったので、短時間だけでも、石の上でも、横になっておいた方がよいだろうと思ったのである。石のひんやりした感触と日陰を流れる心地よい風ですぐに眠りに落ち、短時間だが熟睡することができた。

ハンク・ウィリアムズ博物館

公会堂を見つめるハンク・ウィリアムズ像

ハンク・ウィリアムズ夫妻の墓
 10時に観光案内所が開いたので、事情を話し、かなり呆れられながら、責任は持てないけど荷物を隅に置いておいてもよい、と言ってもらう。ロビーの南の角に荷物をまとめて置き、案内所の奥で簡単な町の紹介ビデオをみてから、身軽になって出かけることになった。2時前に戻らないと荷物が閉め込まれてしまうので、正味3時間半ほどの時間の使い方が問題だ。レイバー・デーとあって、多くの施設が今日は休館だという。ロサ・パークス博物館も、公民権運動のモニュメントもやっていない。とりあえず、今回のモンゴメリー訪問の最大の目的であるハンク・ウィリアムズ博物館に行き、それから考えることにして、先ほど最初にタクシーで降り立ったコマース通り118番地へ向かう。
 ハンク・ウィリアムズ博物館の受付には白髪の白人女性がいて、ひとりで店番をしているようだった。入場料は8ドル。既に開館から20分ほど経っていて、先客が数組いた。展示スペースはさほど広くないが、実際にハンク・ウィリアムズSr.やその家族が使っていたものなどが数多く、息子であるハンク・ウィリアムズJr.の寄託という形で展示されており、いろいろと興味をそそられるものも多かった。ここの展示は、プロフェッショナルというよりも、エンスージアスティックな感じで、肖像写真などに基づいて後年に描かれた油絵などが数多く展示されていたりしていて、NPOによる手作り感が強く感じられる。その一方で、展示ケースは、頑丈な木枠に音符の装飾があしらわれた特注品で、手間がかけられている贅沢なものだと感じた。落命したときに乗っていたという車は、1980年代にリノベイトされたということで、ピカピカの状態だった。展示のあちこちに、ハンクの業績が世界に知れ渡っていることを示すかのように、日本語の本やレコードが展示されていたのも印象的であった。ひと通り展示を見た後、Tシャツを1枚買い、銅像と墓地への行き方を尋ねる。墓地の方は、1マイルはあるわよ、歩くのは無理でしょう、と言われる。ちなみに、この町にいた当時の住居は、現在は取り壊されて残っていないという。また、この博物館は、最初は旧駅舎内で開館し、現在地に移動したもので、いずれの立地も直接の縁がある場所ではないということだった。
 とりあえず、博物館を出て、まず、市の公会堂前にある銅像を見に行く。これは1990年代に建立されたもののようだ。ここで2時までの残り時間を考えると2時間と少しだったので、意を決して墓地まで歩いて行くことにする。日差しは強く、容赦ない感じで肌に刺さってくる。少しでも日陰を選びながらジェファーソン通りの緩やかな坂道を登っていく。途中で連れが根をあげてしまい、近くに看板の見えたウェンディーズで待っているから一人で行ってくれと言い出す。結局、一緒に先へ進むことになったが、確かにかなりきつい歩きである。やがて坂を上りきり、警察署の先で墓地が広がる一帯が見えてきた。近くには競技場らしい施設がいろいろ見える。案内書きにしたがってようやくハンクとその妻オードリーの墓に到着したのは、午後0時35分くらいだった。そこへ、車で乗り付けた、白人の母親と子供3人連れ(男の子2人、女の子1人)がやってきて、言葉を交わした。何でも、母親と長男は特にハンク・ウィリアムズJr.の大ファンだそうである。二人の墓の背後には碑が立ててあり、「I saw the light」の歌詞の一部が刻まれている。二人の墓の間には「この神聖な場所を荒らさないでください」というハンク・ウィリアムズJr.のメッセージが刻まれていた。
 午後2時までに、観光案内所に戻らなければならないので、0時45分くらいには、もう市内へ向かうことにした。帰路は緩い下り坂が多いとはいえ、日差しはきつい。連れがウェンディーズで飲み物を買ってほしいというので、一本南側のマディソン街に回り、ウェンディーズに行ったのだが、どうやら休業しているようだった。一つとなりのバーガー・キングの店が開いていたので、そちらへ入り、ドクター・ペッパーのラージをとり、休憩する。ひと息入れてから、また歩き始め、1時40分頃には旧駅前広場までたどり着いた。ここで、荷物を回収して動きづらくなる前に、ロサ・パークス博物館の前に行っておくことにして、最終的には1時55分頃に案内所に戻ってきた。案内所の女性は既にいなくなっていたが、売店の、やはり白髪の白人女性が建物を閉める当番らしく、やんわりと荷物を持ち出すよう促される。こうして再び、案内所前の石段に荷物を置いてホームレス状態に戻ってしまったわけだが、ここでもう一度横になって熟睡する。われながらよく休めるものである。誰か、警官にでも起きてどこかへ行けと言われるかとも思っていただのが、意外にもそういうことにはならなかった。やってきたのは、観光案内所が閉まっていることを知らなかった観光客2組だけであった(韓国人?と思しき中年夫婦と、若い白人の女性2人組)。
 3時40分くらいになって、ようやく起き上がって動く気になり、連れの希望で、ふくよかな黒人店主のキャラクターが看板になっている「Dreamland」というリブの店に入る。ここではまず飲み物を注文し、次にナチョスをとってゆっくり食べながら時間を潰す。途中で、連れを席に残して、デクスター通りの辺りを少し歩いてくる。店内は冷房が聞きすぎているくらい効いているがが、外へ出ると一瞬サウナに入ったような感じがするほど暑い。ただし、湿度はさほどでもないようで、日本の基準からすれば乾燥している方に入るだろう。店に戻って飲み物を取り直し、さらに、この店の売りであるリブのプレートをとって食べる。体調が思わしくなく、こちらはあまりたくさんは食べなかった。午後8時40分頃に、清算を済ませてタクシーを呼んでもらう。40分くらいかかると言われたので、そのまま席に着いていた。午後9時15分頃に閉店だからと店外に追い出され、店の前で荷物を並べてタクシーを待っていた。ところが、60分以上経過しても、一向にやってくる気配もない。既に店の正面は閉められていたが、脇のドアが開いていたので、再び店に入り、申し訳ないが再度確認してもらえないかと頼む。その場で電話をしてくれた様子だと、後8分と言われたようである。実際にはちょうど10時頃になってから、朝乗ったのと同じ会社の黄色い車体のタクシーがやってきた。ドライバーは若い黒人青年である。走り出したタクシーは10分ほどでグレイハウンドに到着した。チップはやや少なめにして16ドルを渡す。
 今夜の移動は、モービル行きで終点まで行き、継いでニューオリンズ行きで終点まで行くというもので、いずれも始発ではないので、座席の確保に運不運がありそうだ。ともかくも無事、グレイハウンドのターミナルに戻って来れたことをよしとすべきだろう。ターミナルに着いてすぐに発券手続きをとり、搭乗の列の先頭に並べた。モービル行きの定刻は11時5分だったが、バスは30分ほど遅れて到着した。シカゴからのときと同じような古い車体であるが、メインテナンスの状態は比較的ましな感じだった。幸い車中はさほど混んでおらず、これまでと同様に2人並んだ席に座れた。乗車後、黒人男性ドライバーからの車中のアナウンスで、本日の運行はモービルから先はニューオリンズ行きとなる、ニューオリンズまで行く者はモービルでいったん下車してもらうが、荷物は車内に残してよい、と告げられる。車中では日記を付けようとしたが、すぐに相当眠くなったので、眠ることにする。しっかり目が覚めたのは、モービル到着直前のアナウンスを聞いてからだった。到着は深夜2時の予定が30分遅れになったが、ここではもともと乗り継ぎに1時間以上の余裕があったので、定刻通り3時10分の出発となった。いったん下車し、搭乗口に並ばなければならないので、考えようによっては行列する時間が短くなってくれたということだ。定刻直前に搭乗口が開き、再び同じ席に座り直した。このバスのドライバーは、黒人女性だった。ニューオリンズへ向かう車内でもすぐに眠りについた。

■ 2010/09/07 (Tue)
充実したフレンチ・クオーターでの一日

New Orleans, LA

New Orleans, LA:
Hotel St.Marie
 バスはニューオリンズには定刻の5時30分に到着した。ニューオリンズのターミナルは、アムトラックの駅と共用になっていてホールが広い。ただしさすがに店は開いていない。荷物を連れに見てもらい、ターミナルの前に出てみると、さすがに蒸し暑い感じがする。緯度から考えても、北海道くらいのところから沖縄と変わらないところまで南下してきたわけだ。広い駅前は街頭が煌々としており、その先には高層ビル群が見える。タクシーランクもきちんとできていて、列の先頭で乗るよう指示書きも設けられている。しかし、タクシーはいない。宿のあるフレンチ・クォーターまでは、バスもあるはずだが、バス停は少し探しても見当たらなかった。結局、バスが動く時間を待たずに、もう少し明るくなったらタクシーで移動しようと考え、連れに状況を説明しにいったん戻る。連れも同意したので、しばらく時間つぶしに駅舎の写真でも撮ろうと思い、カメラをもって外へ出たら、タクシーランクにミニバンが2台停車している。念のため近づいてみると、確かにタクシーであった。すぐに連れのところに戻り、荷物を持ってタクシーランクへ向かう。黒人男性のドライバーは、行き先を書いた紙を見せると、おもむろに頷き、番地を復唱して、すぐに車を動かした。ところが、動き出してから、メーターがない(あるいは、メーターのスイッチが入っていない)ことに気づく。これは吹っかけられるかと覚悟する。コースの前半はかなり自動車の交通量は多い大通りを進んだが、途中から危うげな小路に入り、フレンチ・クォーター内は一方通行を縫って、宿の前に到着した。12ドルを請求されたので(正当なのはその半額くらいか?)、そのままチップを乗せずに支払う。

Hotel St.Marie, Room 509
 今夜1泊だけするホテル・サン・マリーは、表向きの建値では、今回の旅の宿の中で一番値が張る(実際に支払った金額は70ドル弱で、シカゴのトラベロッジの方が高い)。こじんまりとした古い施設をきれいに使っているブティック・ホテルという感じのところだ。到着したのは6時前だったが、フロントで荷物を預かってもらいたいというと、もちろん預かるし、午前7時からなら部屋を使ってもよいと説明された。なぜ7時からなのかはよく分からなかったが、とりあえず、荷物を預け、さほど広い訳でもない玄関ロビーに置かれた(ソファーではなく)椅子に座って、そのまま寝てしまった。7時頃に声をかけられて起こされ、509号室の鍵を2本渡される。5階建てなので最上階、あるいは屋根裏ということになる。部屋には、2人で十分眠れるサイズのベッドが2台置かれている。さっそく、風呂に入りながら2泊連続車中泊だった間に着ていた衣類を洗濯してから、8時頃からベッドで休む。
 10時半頃に目覚め、11時頃には部屋を出て、マルディ・グラ・ワールドへ向かう。ガイドブックにはフェリーに乗って対岸へ渡ると書いてあったので、その乗り場へ歩いて向かう。途中、ちょうどハードロック・カフェの並びにあった観光案内のブースで地図をもらい、町並みや路面電車の写真を撮ったりしながら、11時35分頃に、観光案内所で迎えが来ると教えてもらったマルディ・グラの衣装の人物の像のところまでたどりついた。その辺りでうろうろしていると、マルディ・グラ・ワールドの名を付けたミニバンがやってきて、黒人男性のドライバーが手招きしている。早速乗り込むと、この後、バーボン通りのホテルまで客を迎えに行き、その後、マルディ・グラ・ワールドへ向かうと説明される。その言葉通り、ひと回りして白髪の白人夫妻を拾ってから、さっき、われわれを拾った場所をもう一度通って、マルディ・グラ・ワールドへと向かった。てっきり川を渡るのかと思っていたら、そうではなく、ミシシッピ川沿いに左岸をさかのぼっていった、コンベンションセンターの先にあった。

ミュージシャンを飾ったフロート(誰?

the Preservation Hall
 マルディ・グラ・ワールドは、ニューオリンズのカーニバルである「マルディ・グラ」の山車(フロート)の実に8割を手がけているというブレイン・カーンズ社が、その作業場兼倉庫を公開しているところで、以前は確かにフェリーで渡った先にあったようだ。入場料は1人18ドル50セントで、観光案内所でもらった地図についていたクーポンで、1人分だけ3ドル割引になった(そうと分かっていれば地図を2枚もらっていたのに!)。最初にビデオ上映の部屋に通され、始まるまで、そこにある衣装や被り物を着けて写真をとっても構いませんよ、自由にコーヒー、紅茶なども飲んでくださいと言われ、さらにマルディ・グラのときに振る舞われるというキングケーキというデニッシュパンのような物が出される。そうしてツアー参加者が少しまとまったところで、ビデオ上映があり、マルディ・グラの概要が分かりやすく説明される。ビデオの後、案内役の白人男性について、冷房の効いたショップから出て、倉庫兼工場の建屋へと移動するが、その出入り口のところで、ミネラル・ウォーターが無料で振る舞われた。一歩席へ進むと、確かに確実に暑い。所狭しと、様々な山車や、それに乗せる巨大な像(紙を芯にした張りぼてもあれば、グラスファイバー製のものもある)などが並んでいる。こうしたものは、いろいろ加工してリユースすることも結構あるそうで、具体的な例などを分かりやすく見せてもらう。逆に定番で毎年出すことになっている山車なども、飾りを外して塗装し直すなどのメインテナンスをやっているという。建屋の中には、明後日のNFL開幕戦(セインツ対ミネソタ・バイキングス)のときのキック・オフ・パレード用の山車も並べられていた。これも、まったくこれのために用意する山車もあれば、マルディ・グラの山車を流用して使う山車もあるそうだ。山車に乗っていろいろなものを群衆に放る役を務める「ライダー」になるのは1500ドルくらいかかるとか、放る物は自前で用意するとか、特に祭り好きではない人間には、とんでもない話に聞こえることがいろいろ出てくる。特に、仮面を付けて山車に乗って君臨する「王様」をやるには、何百万もかかるというのだから、祝祭というのは本当に恐ろしいものだ。ひと通り展示を見終えて、ショップでTシャツを買い、すぐに戻ってきたシャトルで往路にも一緒になったご夫婦と一緒に、バーボン通りの入口にあたるカナル通りのホテルまで戻った。
 レイバー・デー翌日で、夏休み気分はおしまいなのかと思っていたが、ニューオリンズでは木曜日がNFLの開幕ゲームということもあり、その準備というか前祝いというか、フレンチ・クォーター周辺では、平日なのに人出が感じられる。もちろん、メンフィスなどよりずっと大都会ということもあるだろうし、もともとこの一帯が観光地で観光客が多いせいもあろう。バーボン通りを通っていったんホテルに戻り、一息入れてハードロック・カフェに出かける仕度をして、午後2時に再びホテルを出た。まずニューオリンズ・ジャズ・コレクションがある州立博物館へ向かった。途中で、ガイドブックの情報では木曜日以降の週末しか開いていないはずの(今回の滞在中は開いていない)プリザベーション・ホールの前を通り、写真だけでも撮影しようと立ち寄ったところ、ここを拠点とするプリザベーション・ホール・ジャズ・バンドではないが、別のバンドの演奏が今日の夜あることがわかる。現時点ではお休みは毎週水曜日のようだ。ここには夜また戻ってくることにする。

Acme Oyster House
 プリザベーション・ホール前からそのまま南下して、フレンチ・クォーターの中心に位置するジャクソン広場に出て、その北に面している州立博物館の本館(旧スペイン政庁の建物=カビルド)に行き、ニューオリンズ・ジャズ・コレクションについて受付で確認する。これは、もともと独立した民間のコレクションとして、ニューオリンズで展示されていたものが、州立博物館に移管されたもので、アームストロングをはじめニューオリンズ出身のジャズ・ミュージシャンたちが使った楽器などが多数含まれているコレクションなのだが、実は、ネット上の記述でもどうなっているのかが今ひとつよく分からなかったのである。結論から言えば、現時点では公開されていないということだった。現時点で既に、州立博物館の分館となっている旧連邦造幣局の建物に保管されていて、近い将来の展示再開を予定しているが、確定的なことは公表されていないということだった。覚悟はしていたが、やはり少しばかり落胆する。
 HRCへ行く前に、遅い昼ご飯に、名物の生ガキが食べたいと連れが言うので、「アクメ・オイスター・ハウス」という創業百周年のカキの店に行く。ここでは生ガキとシーフード・ガンボを食べた。食事の後、すぐ近くのスーパーマーケット(本来はドラッグストア)の「ウォルグリーンズ」に入り、お土産になりそうな食品類(おもに調味料など)を探す。結局、ある程度の見当をつけた上で、今日のところは買わずに、明日また来ることにした。この店ではマルチャン(旧・東洋水産)の「ヤキソバ」も売っていた。さらに、HRCへ入る直前に、隣のレコード店「ピーチズ」に立ち寄る。ここは半分は土産物屋のような雰囲気もあるが、古いアナログ盤の中古品も扱っており、音楽関係の書籍も置いている。見出すときりがないので、新刊書だけを眺め、目星を付け、これも今日は買わずに短時間で店を出た。こうして午後5時頃にHRCについた訳だが、やはり知らない町で、勝手が分かる店がある安心感というのは大きい。いつものように、飲み物とコブ・サラダを注文する。しばらくして、連れはサーバーたちとピン・トレードを始めた。ここではWiFiがあるので、少し作業をする。

the New Birth Brass Band @ the Preservation Hall
 プリザベーション・ホールの開演が午後8時なので、7時40分頃に移動したのだが、既に結構な行列ができている。入場料はひとり12ドル。まだ空席もパラパラあったが、2人で並べる席はなかったので、最後列に座った連れの背後に立って見ることにした。最初にMCが、フラッシュの使用と録音録画の禁止、そして喫煙の禁止を求め、入場券があれば今夜のうちは再入場が可能なこと、トイレはないので、隣のレストランに入場券を見せて借りに行くこと、などを説明する。そして、ニュー・バース・ブラス・バンドというバンドが紹介された。(後列向かって右から)スーザホン、バスドラム(右手で叩く)とパーカッション(おもに左手で叩く)、スネアとタム、(前列向かって右から)テナーサックス(唯一の白人メンバー、助っ人?)、トランペット兼ボーカリスト、トロンボーン、という6人編成である。簡単な挨拶の後、演奏が始まり5-6曲ほどややモダンな感じのものも含め、トラディショナル風の演奏が続いた。途中でいろいろ冗談を行っているらしいのだが、正直よく分からない。ただし、休憩前の最後の曲に行く前に、誰もリクエストしてくれないの? 仕方ないから自分でリクエストするかと言って10ドル札をだしてチップの洗面器に入れてみせるところは素直に笑えた。客の方も心得たもので、ここで10ドル出してリクエストする人がいて、お決まりの「聖者の行進」を演奏し、第一部が終わった。正味50分超のステージである。ここで15分の休憩がアナウンスされたので、いったんホテルに荷物を置きに行くことにして、ホールを出て部屋に戻る。ここで半息くらいついたので、ホールに戻ったときには、第二部が始まっていた。第一部と違って、R&B系であるルイ・ジョーダンの「カルドニア」のような曲や、「リル・ライザ・ジェーン」のように客に歌わせる曲などが盛り込まれる。客の方もリクエストを言うのだが、無茶を言う人もいるようで「こんな曲だったっけ?」と少し歌い出しを口ずさんで、やっぱり無理だからこれで勘弁して、と別の曲(「スタンド・バイ・ミー」だった)を弾き始めたり、「この素晴らしき世界」の「赤ん坊の泣く声が聞こえる...」というところで、バスドラムが鼻をつまんで泣き声を出して笑わせたりと、客とのコミュニケーションがさらに密度が高い感じがする。最後はまた「聖者の行進」だが、前列の三人が会場内を行進し、トロンボーンが洗面器をもってチップを集めて回る、という趣向だった。こうしてすべて終了したのは午後10時過ぎだった。

Maison Bourbon
 プリザベーション・ホールを出て、すぐ先にあるバーボン通りのメゾン・バーボンに行く。ここは、扉を開け放して路上からも演奏が見聞きできるようにしているが、中ではトランペット兼ボーカリストの黒人以外は全員白人という5人編成(b、pf、d、tp、cl)のバンドが演奏していた。中に入って、テーブルにつきたいと言うと、サーバーの小柄な白人女性は、この後すぐ休憩です、と告げ、正面のよい席に案内してくれた。しばしの休憩中、こちらは飲み物を飲み、のんびりと待っていた。やがて始まった次のセットで、バンドは、いろいろウィットに飛んだくすぐりのあるパフォーマンスを見せてくれた。先ほどプリザベーション・ホールで見たバンドに比べ、ドラム以外はメンバーの年齢がずっと上だが、その渋みがよく出ていた。ひとステージおわったところで、バーボン・ストリートの中でも店がある最も東の端に近いフリッツェルズという「ヨーロピアン・ジャズ・パブ」と看板を掲げたところへ足を伸ばし入ってみたが、既に11時をかなり回っており、今日の演奏はすべて終わっていたようで、ミュージシャンの一部が帰ろうとしているところだった。しかし、せっかく来たので、飲み物を注文し、店内の雰囲気を感じながらしばしくつろぐ。店内には、演奏が終わったばかりのミュージシャンたちの一部がまだ残っていて、賄い飯で振る舞われたピラフのようなものを食べている。この店は1969年創業で昨年が40周年だったようだ。ヨーロピアンを謳っているのは、店主がドイツ系(ドイツ人?)で、ドイツ・ビールなどを揃えているからのようだ。店のTシャツはドイツの国章を思わせる鷲のデザインで、およそニューオリンズらしくないが、15ドルと良心的な値段で、妙に気になったので買うことにした。
 深夜0時半を回った頃、店を出てホテルに向かった。今回は、フレンチ・クォーターしか見ていないが、その雰囲気はかなり生々しく掴むことができたと思う。充実した一日だった。部屋に戻ってからは、有線でつないで少しネットをいじり、2時過ぎにベッドに入った。
 
■ 2010/09/08 (Wed)
ニューオリンズ文化の深みを覗く

New Orleans, LA

GLI1254/0598
 朝は6時過ぎに起きて、昨夜の続きでネットをいじったり、日記を書いたりする。7時になって連れが目覚めたので、朝食へ降りて行くことにしたのだが、連れが身繕いをしている間にこちらが眠気に襲われ、一瞬ベッドに倒れ込む。どたばたしつつ7時半頃には1階の朝食会場へ行く。ここで無料で置かれていた地元紙「ザ・タイムズ-ピカユーン」をとり、朝食のクロワッサン(日本のものより大振りで、もちもちしており、普通のパンに近い)を齧りながら、今日がルイジアナの独裁者とまで言われたポピュリスト政治家、ヒューイ・ロング上院議員の暗殺事件75周年にあたることを知った(撃たれたのが8日で、死んだのは10日)。ロングについては三宅昭良の『アメリカン・ファシズム』で読んだことがあるくらいだが、その「暗殺」をめぐるミステリーは今でも多くの人の興味を弾くのであろう。丸々1ページちょっとの特集記事を、ゆっくり時間をかけて読み進む。途中で連れは食事を済ませて先に部屋に戻ってしまったが、そのまま朝食会場でコーヒーを飲みながら最後までその記事を読んでいた。
 ホテルのチェックアウトは午前11時だが、フレンチ・マーケットの一番東側でやっているフリー・マーケットに行きたい、と連れが言うので、ガイドブックに9時からと書いているのを確認して、ひと通り荷物のパッキングを済ませてから、9時に、チェックアウトをせずにホテルを出た。朝方とあって、ゴミの収集作業なども見かけたが、一方で、深夜まで開いていたはずの土産物屋がもう店を開いているのも見かけた。商売熱心なことだ。フレンチ・マーケットへたどり着くと、開いている店もあるが、まだ閉まっていたり、開店準備中のところも多い。常設展の部分を抜けて次のブロックへ行くと、フリーマーケットの出店者が場所代を納める窓口があり、開いていた2つの窓口にそれぞれ数人が並んでいる状態だった。既に9時はかなり回っているが、まだまだ営業体制の店は少ない。それでも、いろいろ面白そうなものがあった。Tシャツ類も、土産物屋と同じ(ような?)ものを2-3割安く売っているようだ。しかし結局ここでは何も買わず、ホテルに戻ることにした。
 ホテルへ向かう途中で「ニューオリンズ・ジャズ国立歴史公園」なる標識を見つけた。実は事前にはまったく意識していなかったのだが、ニューオリンズにあるジャズ関係の諸施設が、国立歴史公園として管理されているのである。その管理事務所の前を、たまたま通りかかったのである。単なる事務所か、展示施設なのかも分からないまま、入口のドアを開けようとすると、施錠されている。営業時間を見ると9時からとなっていて、休みでなければもうやっているはずの時間だ、戸惑っていると中から自然公園のと同じ格好をしたレンジャーが扉を開けてくれた。そこは事務室のほか、60名ほどが収容できるホールになっていて、ステージにはアップライト・ピアノが置かれている。壁には、ニューオリンズのジャズの歴史に関わった人々の写真がいろいろ掲げてあるが、展示としては大したものではない。しかし、ジャズに関わりのある史跡をめぐるウォーキング・ツアーのパンフレット等がいろいろあり、さっそくひと通り確保する。扉を開けてくれた長身の白人レンジャーの話では、今日の正午からピアノの演奏があり、無料だというので、後でそれに合わせて戻ってきてから必要な質問をすることにして、事務所を出た。
 事務所を出てジャクソン公園の東の縁に沿って歩いて行くと、タバスコの専門店があった。昨日、ウォルグリーンズで、タバスコの日本風味の2品を見つけ、土産の候補にしていたので、他のバリエーションがあるのかを確かめるつもりで店に入ってみる。たまたま客が少なく、手が空いていたので、オーナー夫妻のご亭主の方がカウンターにいて、こちらの質問にてきぱきと答えてくれた。この店はタバスコの直営店ではなく、夫婦で経営している独立店だが、ライセンス契約をして店名に使い、シャツ類等のロゴ入り商品の共同開発をしている、ということだった。なるほど、なかなか上手な商売である。タバスコ商品の価格は、スーパーよりも3割以上安かったので、土産用はここで買うことにしたが、あとでまた昼に来るとご亭主に告げて、ホテルに戻った。

Bill Malchow
 部屋に戻ると、既に、10時15分になっていた。シャワーを浴び、荷物をまとめ、11時ぎりぎりでチェックアウトし、大きな荷物を預けて出かけた。タバスコに戻ると、店主夫妻が揃ってカウンターにいた。タバスコ商品だけでなく、名前入りの食器類を買うお客さんもいて、結構繁盛しているようだ。先ほど声をかけていたので、買ったお土産用のタバスコを、手際よく丁寧に梱包してくれた。タバスコを出て、フレンチ・マーケットのフリー・マーケットへ再度足を運ぶ。ざっくりひと回りして連れは満足したようで、結局、何もここでは買わなかった。正午から、ビル・マルショウというピアニストの演奏をやっている国立公園事務所へ行くと、ちょうど演奏が始まったところだった。若い頃のドクター・ジョン?と思わせる白人のピアニストがステージのアップライト・ピアノに向かい、ニューオリンズのピアノ・ブルースについて、曲を弾きながら解説を加えるというもので、大変勉強になった。彼自身が東部出身で、ニューオリンズの音楽に魅せられ、移住して三十年以上になるということで、いわば外の目から見たニューオリンス音楽の魅力や、演奏者の目からニューオリンズ流ピアノの奏法の特徴を、大変分かりやすく説明してもらえたのは、望外の収穫であった。ドクター・ジョンプロフェッサー・ロングヘア辺りは知っていたが、ジェイムズ・ブッカーについては正直なところ具体的なことは何も知らなかったので、その重要性を再認識した。また、マーチ、ラグタイム、ジャズなどの影響や、ブギウギ、リズム・アンド・ブルース、さらにロックへの展開という中でのピアノ奏法の多様性も改めて確認できる講義に近い内容のコンサートだった。聞いている客は20人ほどで、居合わせてレンジャー数人を除くと、白髪の白人たちばかりである。来職者が夫婦で旅行しているという風情の人が圧倒的に多い。最後に、質問がありますか?ということになり、前列に座った男性がいくつか質問をし、質問の最後がアンコールはあるのか?だった。笑いながらピアノに向かって弾き始められたアンコールの曲は「ニューオリンズでは感じるままでいられる」と謳う、彼の自作曲であった。終演後、CDを買い、しばらく話をさせてもらったが、「セカンド・ライン」の由来について話をしていたら、長身の黒人レンジャーが話に入ってきて、しばし話が盛り上がった。そのレンジャーは、セカンド・ラインに関心があるなら「バックストリート・カルチャラル・ミュージアム」に行くといいよ、と教えてくれた。裏町文化博物館、とは、洒落た名である。チラシか何かないのかと尋ねると、ないということで、とりあえず所在地の街路名と番地を書いてもらった。

Cafe du Monde にて
 公園事務所を出たときは、既に1時半くらいになっていた。連れが、近くにあるカフェ・デュ・モンドという店でベニエという一種のドーナッツを食べたいというので、途中の食料品店などを冷やかしながら進んで、カフェ・デュ・モンドに行き着く。ここはサーバーが東洋人のおばさん(若い女性はいない)たちと黒人という、少々変わった雰囲気の店である。ここではカフェオレを飲みながら、粉砂糖が振られたベニエを食べた。2時15分頃に店を出て、明日のNFL開幕イベントのリハーサルをしているジャクソン広場の規制の縁をたどるようにして、昨日立ち寄ったスウォルグリーンズへ向かうが、途中で、まず、ルイジアナ州立博物館のギフト・ショップに入り、ニューオリンズ・ジャズ・コレクションに関するカタログなり、商品はないのかと尋ねてみた。一人でカウンターにいた年長痩身の白人職員の答えはノーだったが、ここでついでに裏町文化博物館のことを尋ねてみると、ええっと...という感じで、地図でおおよその場所を教えてくれた。フレンチ・クォーターの東側の北隣、ガイドブック的には危ういから行くなと言いそうなところである。何でも、それの場所が書き込まれた観光客用の地図はあまりなく、たまたま書かれているものは間違った位置に書かれているという。要するにメジャーな存在ではないということだ。念のためすぐ先にある州の観光案内所に入り、同じように裏町文化博物館のことを聞いてみると、何と、対応してくれた白人の職員男女が二人とも、「何それ?」「聞いたことないわ?」という感じで、こっちが面食らった。そこで、わざと何も知らない振りをして、「アームストロング公園の近くにあるらしいんですけど...」と言うと、「アームストロング公園は、銅像が修理中だし、当面閉鎖なのよね...」といいながら、結局、アームストロング公園の西側(つまり裏町文化博物館とは逆の位置)にある、健康案内所に行って尋ねてみてくれということになった。これは、いよいよ出かけてみるべきだという気になりながら、連れにはやや呆れられつつ、昨日立ち寄ったスウォルグリーンズへ向かう。このスーパーマーケットでは、これも半分お土産になりそうな食料品を少し買う。その後、HRCに向かい、隣のピーチズに立ち寄って昨日見当をつけておいた2冊の、今年になってから刊行された本を買い、3時少し前にようやくHRCに到着した。飲み物に、ツイスト・マックとチキンを注文し、飲み物の1杯目を飲んでから、連れに待っていてもらい、ひとりでフレンチ・クォーターを縦断し、裏町文化博物館へ向かった。

Backstreet Cultural Museum
 まず、アームストロング公園の正面まで行き、閉鎖中の公園の様子をフェンスの外から眺めながらフェンス沿いに進む。工事が途中で放棄されてぺんぺん草が生えている正面入口等の有様はなかなか悲惨だが、公園内はよく維持されていて、何と噴水も稼働している。何も知らなければただの閑散とした遊園地の一角のようだ。公園のフェンス沿いに半時計回りに進んで、道を左折し公園の東側の入口に行くと、やはりここも閉めてはあったが、国立公園の標識が立てられている。ここで右折してただの住宅地の道になるのが、裏町文化博物館のある通りだった。半信半疑で進んでいくと、家の前に数人の黒人男性がたむろしている家があり、よく見るとそこに「Backstreet Cultural Museum」と書いてある。つまり裏町文化博物館である。家の前にいた人たちに声をかけて、ここが博物館か?ときくと、そうだという答えが返ってきたが、その先は何と言っているのかよく分からない。入口はどこ?ときくと、数人いたうちの一人が、入るのか?と聞き返してきたので、もちろん、と答えると、立ち上がって家のドアに鍵をさして中の電気を点け、入って来いと手招きする。そのままついていくと、本来、5室ほどの家を入口からまっすぐキッチンまでの廊下を境に左右2室ずつをぶち抜いて細長い2室とし、奥の1室をオフィスにしている。入って左の部屋にまず案内され、ここでマルディ・グラのときに地域で披露されるマルディ・グラ・インディアンの装束の展示を説明される。厚紙にビーズを糸で縫い付けることから始まる手作りのド派手な装束は、毎年、ゼロから作り直すもので、その年が終われば捨ててしまうことが多いのだそうだが、その装束に3000ドルから1万ドル以上をかける、という話を聞く。これは、もともとインディアンがマルディ・グラに合わせて始めたものを黒人が受け継いで自由に発展させた独自の文化であり、自由に新たな技術やアイデアが流入しつつ展開していることがよく分かる。もう1室は、セカンド・ラインを中心とした黒人の葬送文化の展示になっていて、死者を送るためにパレードで持ち出される手作りの飾り物や、故人の遺品を使った祭壇(のようなもの)、葬送に参加する人が着る、故人を讃えたTシャツなどが、セカンド・ラインで踊る人々の写真とともに、これまた壁面いっぱいに展示されている。後からオーストラリア人の白人の若者たち(男性2人と女性)が入ってきて、しばらくひとりで葬送文化の展示を見ていたのだが、説明を読みながら、これまで断片的だった知識が、生き生きと繋がっていくような、ある意味では不思議な感覚がした。ひと通り展示を見てから、この博物館の概要を示したパンフレットなどをもらうため、会員の登録(1年間)をして、資料一式を受け取る。25ドルは安くはないが、こうした場所があることへの敬意を表すような感じで支払った。
 4時半頃に博物館を出て、フレンチ・クォーターの東部を縦断して歩く。この辺りは、同じフレンチ・クォーターでも、まったくの住宅地になっていて、空き家や売り家も多い。州立博物館の一部になっている、建物それ自体が文化財になっている旧合衆国造幣局の建物にたどりついたのは4時45分ころ。受付で、昨日、カビルドでも聞いた内容を確認する。州政府の予算が逼迫している関係から、公開は延び延びになっていて、現時点では公式に確定的なことは何も公表されていないそうだ。いずれにせよ、保管はここでされており、展示場所もここになる見込みだという話だった。旧造幣局からHRCまでは本来は一本道だが、ジャクソン広場のところで明日の大イベントのリハーサルのために一帯を封鎖しているので、ひとブロック北へ迂回しなければならない。昨日、マルディ・グラ・ワールドで見かけたものか、同様の他のものかは分からなかったが、フロートも既に数台が用意され、ブラスバンドがそれに乗り込んでいるところもあった。ジャクソン公園を迂回した際には、カビルドの前で楽器をもった子供たちが1列になってリハーサルへ向かう姿も見かけた。HRC前の駐車場?では、いろいろな仮設の遊具が出ていて、既にお祭り気分が始まっている。こうして、5時20分頃に、連れの待つHRCに戻ってきた。
 こちらが博物館に行っている間に、連れはまたピン・トレードをしていたようで、なぜかオーストラリアのピンをいくつか手に入れていた。ここではWiFiがあるので、飲み物をとりながら、小一時間ほどパソコンに向かう。6時半頃にHRCを出て、ニューオリンズ最後の食事をとりに、昨日入ったカキの店の向かいにある魚介料理店「フェリックス」に行く。ここではアイス・ティーに、シーフード・ガンボとジャンバラヤを注文する。決してたくさんは食べられない味だが、美味しいことは間違いない。大いに満足して店を出る。バーボン通りでは、いろいろな大道芸の人たちが、芸を披露し始めていた。宿に戻ったのは7時15分頃。荷物を出してもらい、タクシーを捕まえてもらう。このホテルはさすがに居心地がよかった。
 タクシーの運転手は南アジア系という印象で、英語が聞き取りにくく、コミュニケーションを取るのに苦戦したが、路面電車沿いに進んで、すぐにグレイハウンドへ着いた。メーターに1割ちょっとを乗せて10ドル50セントを出したら、11ドルと言われてしまった。小銭に事欠いているので、少々慌てたが、クォーター2枚を返してもらい、ポケットを探ってやっと見つけたくしゃくしゃの1ドルを渡した。
 グレイハウンドのターミナルでは、出発まで1時間ほどしかなかったが、スムーズに発券してもらい、列に並ぶ。トゥペロから先は現地で買ってくれと言われたのだが、深夜に一時停車したときの印象では、発券がされるかどうか危うく感じたので、万一、発券カウンターが閉まっていたらどうするのかときくと、パスを見せて乗り込み、最初のターミナルで発券してもらうようにと指示された。やがて発車定刻の8時35分が近づき、搭乗がはじまる。今夜のバスは、シカゴからの物よりは新しいが最新式ではない中間のバスで、シカゴから乗った旧式よりも座席に余裕がある感じがした。ドライバーは白人男性だ。ニューオリンズを出たバスは、11時頃に着いたモービルでいったん全員降車となり、11時35分に再出発し、モンゴメリーには定刻通り2時半に到着した。
 モンゴメリーのターミナルでは、2時間半ほど過ごさなければならないのだが、前回の経験から、入口に近い充電スペースのところに荷物を置き、連れを椅子に座らせ、電源をつなぎながらパソコンで日記の作業等をする。4時を回り、作業に区切りがついたところで、椅子で寝ていた連れを起こして、荷物を託し、隣の隣にあたる「カンガルー」のガソリンスタンドまで行く。思えば、この店には助けられた感じがする。飲み物とポテト・チップスを買って戻り、搭乗口に移動してバスの到着を待った。
■ 2010/09/09 (Thu)
大急ぎのトゥペロ、夜のナッシュビル

Tupelo, MS
Nashville, TN

Nashville, TN:
The Alexis Inn & Suites - Nashville Airport
 やがてやって来たバーミンガム行きのバスに、定刻の5時に乗り込み、スムーズにバーミンガムへ向かう。今度のバスも、ドライバーは白人男性で、車体もニューオリンズからのものと同じような感じだった。バーミンガムには、定刻の6時40分より、わずかながら早く到着した。7時15分に出発するメンフィス行きに乗り継ぐことになっているので、すぐにホールに行き、いつでも並べるように準備する。ところが、案内の手際が悪く(われわれが分からなかっただけでなく、他の客も混乱していた)、定刻近くなっても、また、定刻を過ぎても、メンフィス行きが呼ばれない。結局、いろいろあってメンフィス行きは30分ほど遅れての出発となった。
 予定では、午前9時40分にトゥペロに到着し、11時40分に出発するバスまでの2時間のうちに、プレスリーの生家を見に行くということになっている。到着が30分遅れれば、それだけタイトになるわけだ。到着後、ターミナルの周りを見回したが、ある意味では当然ながら1台もタクシーが見当たらない。連れに、トゥペロからナッシュビルまでの発券手続きを任せ、数百メートル離れたヒルトン系のホテルに行き、タクシーの手配を頼んだ。戻ってみると、連れと発券係のコミュニケーションがとれておらず、1本早い(既に発車時間を過ぎているが、たまたま遅れて来るので乗車可能な)便のチケットが発券されていた。これではまずいので、発券をやり直してもらい、少し時間がかかってしまう。そのやり取りがもう少しで終わるという頃、タクシーの白人男性ドライバーが窓口近くにやってきたのだが、発券が終わっていなかったので、しばらく待ってもらうことになった。ところが、居合わせたたくさんの鞄を抱えたインド系の男性が、自分もタクシーを使いたいという話になり、結局、同乗して最初にこのインド系の青年の行き先であるモーテルへ行き、それからプレスリーの生家へ向かうという段取りになった。更に時間のロスである。ちなみに、タクシーにメーターはなく、すべて言い値を支払うことになった。行きは7ドルと言われたので8ドルを渡した。

プレスリーが生まれたショットガン・ハウス
 タクシーが乗り付けたのは、「エルビス・プレスリー・バースプレイス」として一括されている一連の施設の駐車場で、ドライバーがこれが生家だと思うと言った建物は、生家ではなく子供の頃通った教会の建物を移設したもので、これが博物館だと思うと言った建物は新設されたチャペルだった。とりあえず、博物館(といっても建物内は簡単な展示とギフト・ショップがあるだけだが)に入り、ひとり12ドルの料金を支払い、時間がないことを告げると、生家へまず行くように言われる。生家は2部屋のショットガン・ハウスであるが、正面に回ってドアをノックすると、中から入って来いと声がかかる。中には、案内役の女性がいて生家のことを説明してくれる。実はこの女性、旧姓プレスリーで、エルビスとは祖母?同士が双子なのだという。建物は、1930年代にエルビス一家が住んでいた当時のものが同じ場所に残っているが、天井と屋根を中心に修復されており、当時はこの地域に電気の供給が来ていなかったので当然電灯はなかったが、現時点では電灯がつけられている。現状で張られている壁紙も当時は使っておらず板がむき出しだったという。展示として置かれている調度は、すべて後から集められた類似のものでオリジナルのものは残っていない。プレスリー一家は、エルビスの父が起こしたトラブルで家を失い、メンフィスへ去った。後にエルビスが成功すると、彼はこの生家を買い戻し、また周辺の広大な土地を買い、市当局に多額の寄付をして、市民のための公園にすることを望んだ。ところが市長らがエルビスの多額の寄付を横領するなどしたため計画が頓挫し、1956年、1957年に里帰りコンサートを実施した後は、エルビスが公式にトゥペロを訪問したことはなかったという。その一方でエルビスは、私的には親戚を訪問するためしばしばトゥペロを訪れており、古いダッジの車に乗ってやってきて、夜中に生家の前に腰掛けていることがあったという。現在展示されている調度類は、父バーノンが生前に指揮して当時を再現したものであり、家具の配置なども当時の状況を再現しているという。生家の周囲には近隣の別の場所から移設された、子供の頃通った教会、新設されているチャペル(ここで結婚式等をすることもあるらしい)、「13歳のエルビス」をイメージしたブロンズ像(エルビスが12歳の誕生日にギターを買ってもらったことを踏まえ、ギターを持っている)、そして、博物館の管理棟(ギフトショップ)が配置されている。生家を出たあと、連れはギフトショップに直行しこちらは周囲の写真を撮ってからギフトショップの支払いをし、そこで購入した、先ほど生家で案内してくれたプレスリーの親族の女性が著者の一人になっている本をもって、生家の入口に戻り、サインをもらう。既に、呼んでもらったタクシーが待っていたので、直ちに乗り込み、11時25分ころにグレイハウンドに到着した。帰りの言い値は6ドルだったので7ドルを渡す。バスの出発は40分でもうあまり時間はないが、バス・ターミナルの職員が、奥に仕舞ってあったプレスリーのスタンダップを持ってきてくれたので、連れを横に立たせて写真を撮る。
 メンフィスからやってきた、バーミンガムへ向かうバスは電源とWiFi付きの最新型で、ドライバーは、キチンとしてアイロンで奇麗に折り目を入れた制服に、赤のネクタイをばっちり決め、サングラスをかけたクールな黒人男性だった。定刻で出発したバスは、先ほどバーミンガムから来たルートとは違うルートを取り、途中で、タスカルーサに立ち寄った。実はタスカルーサは、中学生の頃に父親が、唯一の海外出張で出かけた場所であり、もし、父親が海外赴任を拒んでいなかったら、自分が住むことになっていたかもしれない町なのである。こんな形でタスカルーサに来ることがあるとは思ってもいなかった。皮肉にもグレイハウンドは、タスカルーサの中心市街地と思しきところを通り抜けてから少し離れた場所で停車した。町との関係は、ちょうどモンゴメリーのようなイメージである。
 バーミンガムには、午後3時を20分程過ぎた頃に到着した。バスから下車すると、今朝少し話をした白人男性の警備員が、もう戻ってきたの?と声をかけてきた。ここで2時間弱待って、ナッシュビル行きに乗り換える。食事をしたかったのでレストランを探そうとしたのだが、近くのレストランは朝と昼しかやっておらず、午後2時で既に閉店していた。仕方なくターミナル内のレストラン(というか軽食コーナーという感じの場所)でホットドッグ等をとって休む。午後5時15分発のナッシュビル行きは、やや古めの車体でドライバーは白人男性だったが、全体に空いていて気楽だった。連れとの旅行では空いていてもできる限り2人並んで座るのだが、前の座席に人がいるのといないのとでは大違いである。昼間の移動で明るいので、最初はパソコンを開いて日記を付けたりしていたのだが、途中から、通路を挟んで隣に座った黒人女性(話し振りからすると50代後半)と、いろいろな話をすることになった。彼女は10代で陸軍に入り、25年間勤務し、そのうち米国内にいたのは7年で、後は日本や韓国、ドイツなどにいたのだという。最初に駐留した先が1970年代前半の相模原工廠だったようだ。まだベトナム戦争から米軍が撤退する前の話である。詳しいことは敢えて尋ねなかったが、もっぱら銃器の整備、弾薬類を扱う仕事であったらしい。ミシシッピ州出身で現在はシンシナチ在住ということだった。実は現時点では参加するかどうかは未確定なのだが、3月にシンシナチで学会が予定されているので、気候のことを尋ねたりした。

Layla's Bluegrass Inn
 ナッシュビル到着はほぼ定刻で9時10分頃だった。ターミナル内は人がごった返しているが、一歩外へ出ると車は通るものの歩行者はいないし、タクシーもいない。居合わせた黒人の男性警官に、手持ちの地図上での方向を聞くと、どう考えてもまったく逆の方向のことを言っている。少し離れた場所にシェラトンのサインが見えたので、とりあえず流しているタクシーがくれば捕まえるというつもりで、そこまで歩いていくことにして、坂道を上り出したのだが、途中で連れが動けなくなり、結局トロリーは2つともこちらが曳くことになった。結局、タクシーは通りかからず、大苦戦してシェラトンにたどり着き、ようやくここでタクシーを捕まえて、とりあえずブロードウェイのロバーツという有名なカントリーの店に行く。ここは、モンゴメリーのハンク・ウィリアムズ博物館のおばさんが薦めてくれた店だったのだが、荷物が多すぎて、結構混んでいる店内には入れそうにない。バウンサー(といっても若い痩身の白人青年)に荷物があるが入れるかと尋ねると、やはりダメだという。しかし、このままタクシーで宿まで行くのも癪である。ロバーツの東隣はレイラズというブルーグラスの店だが、とりあえずそこのバウンサー(やはり白人青年)に事情を話して入れるかと尋ねてみると、分かった、といっていったん中に入り、また出てきて手招きされた。演奏の真っ最中で、入口脇に設けられたステージ近くのフロアには人がたくさんいたが、その隙間を縫って荷物を曳いて店の奥に進み、一番奥のテーブルについた。ここより奥には、楽器やらアンプやらが置かれている。テーブルをとったといっても、サービスされるわけではなく、カウンターに自分で買いに行く形だ。ビールとペプシで一息つく。入店したとき演奏していたバンドのセットが終わり、連れを店で待たせて、ブロードウェイをハードロック・カフェまで往復して様子を窺ってくる。ひとまわりして、戻ってくると、今度は女性ばかりのグループの演奏が始まった。バンジョーもマンドリンもない、モダンな編成なので、最初はあまりブルーグラスという感じでもなく、普通のカントリーという感じの演奏だったが、途中のインストゥルメンタル曲ではギターとフィドルがそれらしい所をみせて、なるほどブルーグラスの店で演奏するだけのことはあると思わせた。
 10時半ころ店を出て、タクシーを捕まえようとまごまごしていると、店の前で花を売っていた長身の黒人男性が、タクシーを止めたいのか?と尋ねてきたので、そうだと答えると、派手なアクションで反対側を走ってきたタクシーを止めて方向転換させた。もちろんチップが欲しくてやっている訳なので、1ドルを渡してタクシーに乗る。乗り込んだタクシーのドライバーは、ホテル名と場所を記した紙を渡したのを見て、こちらには大丈夫分かっている、と英語で言いながら、実はどうも分かっていないようで、電話で何語かわからない言葉でいろいろ場所を尋ねている。ナビにも頼っている様子だった。結局、何度か道を間違え、ようやくホテルにたどり着いた。メーター通りに26ドルを請求されたので、このホテルで間違いないか確かめてくる、と言って連れを残していったん先に降り、ホテルのフロントで、タクシーの運賃が適正かを尋ねてみた。普通なら22-23ドルだということだったので、タクシーに戻り、チップを乗せずに26ドルだけ支払った。
 今夜から3泊するアレクシス・インは、一泊の宿代が55ドルほどで予約していた。ようやくたどり着いたホテルだが、今夜は食事をとりそびれている。チェック・インの際にフロントで尋ねると、この時間に食事ができるのは、道の向かい側にあるワッフル・ハウスの店だけだという。4階の409号室が割り当てられ、いったん部屋に入って旅装を解き、直ぐに出かけ直してワッフル・ハウスの店に行く。この店は、南部を中心に展開しているチェーン店らしいが、ワッフルだけでなく、普通の軽食も24時間提供している。店に入ると他に客はおらず、白人男女の店員が2人だけでシフトを切り盛りしていた。テキサス・メルトというサンドイッチとワッフルの2枚重ねを注文し、飲み物といっしょにゆっくり食べる。
 部屋に戻ってから、連れは先に寝てしまったが、風呂に入って洗濯をしてから、少しネットをし、2時半頃に眠った。

Alexis Inn

枕をどう使えというのだろう?

■ 2010/09/10 (Fri)
ミドル・テネシー大学へ

Murfreesboro, TN
Nashville, TN

Nashville, TN:
The Alexis Inn & Suites - Nashville Airport
 6時過ぎに起きて、トイレの後、パソコンに向かう。やがて連れも起きたので、荷物の入れ替えをしたりしながら、途中で朝食に降りて行く。このホテルの朝食はコンチネンタル・ブレックファスト形式で、マフィン、ベーグル、シリアル類もあるが、メンフィスのアーケイドで食べたような(テネシー風の?)フレンチ・トーストがホット・フードとして用意されていたり、自分でワッフルが作れるようになっていたりと、かなり贅沢な感じである。ホット・フードを朝から食べるのは久々、というか、渡米してからは初めてのような気がする。食後は部屋に戻り、作業の続きもしながら、短時間ベッドで眠ったりしてした。今朝は、ミドル・テネシー大学(MTSU)の教授であるQ氏が、9時半から10時の間にホテルまで迎えに来てくれるということになっているので、9時30分までに出かける準備を整えて部屋で待機していたが、9時40分頃にフロントから電話があり、すぐに下へ降りて行く。

MTSU: 学食の入口
 Q氏は大変フレンドリーな方で、初対面だったがすぐに打ち解け、ナッシュビルからマーフリーズボロへの道すがら、お互いの研究のことや経歴を紹介し合いながら、ずっと話し続けていた。途中で眺望のよいところに寄り道したりしながら、10時半頃マーフリーズボロに到着した。MTSUは市街地の東側に広がっている。さっそくマス・コミュニケーション学部(とりあえずSchoolを「学部」と訳しておく)の建物に入り、Q氏の研究室(かなり狭い)を見せていただいてから、独立した専門図書館を形成しているポピュラー音楽センターへ案内してもらう。決して大きな規模ではないが、最近、大型の移動書架を導入したばかりで配架のし直しの最中ということで、かなりの量の音盤が稠密に保管されている様子に、驚かされた。また、19世紀を中心とした楽譜集、歌詞集のコレクションもよく管理されている印章だった。センターには、録音技術史の専門家もいて、蝋管式蓄音機のメインテナンスや、イベント等での録音・再生の実演などもやっているそうだ。Q氏やセンターの主だったスタッフは、昼にランチを兼ねた会議があるということで、正午少し前に学生食堂(ビュッフェ=食べ放題形式)に案内され、午後2時に再度センターで合流するという段取りになった。連れと2人で食堂でサラダやマカロニ等を食べながら時間をゆっくり使い、パソコンを開いて溜まっている日記を書いたりしていた。午後1時40分頃にセンターへ戻ると、長髪、髭面の青年がいて、声をかけてきた。彼はQ氏の助手のA君で、島根県でAETをやっていたという。少し遅くなりそうだからセンターで待っていて欲しいというQ氏の伝言を伝えられ、連れをセンター前のソファに休ませて、こちらは開架の書籍を少し眺めることにする。そのうち、ジョージ・ルイスの伝記(死去の直後に書かれたもの)が見つかったので、しばらく拾い読みをする。どうやら、ジョージ・ルイスの生まれ育った一角は、例の裏町文化博物館の辺りだったらしい。結局そのまま3時近くまで、しばらく本を読みふける。やがてセンターにQ氏が現れ、会議が長引いたことを詫びられた。この後、簡単にマス・コミュニケーション学部の概要を説明してもらい、三つあるデパートメント(学科に相当する?)の事務室を回って、簡単に挨拶し、パンフレットをもらう。そうこうしているうちに激しい通り雨が降ってきた。雨脚が弱まるのを待って車に乗り込み、夕食に招待されているQ氏のご自宅へと向かった。
 途中で、ご自宅近くの近隣センターといった感じのところで、日本食レストランと併設されている日本食品店に立ち寄り、さらに、日本でいえばしまむらに相当するステイン・マートで買い物をしてから、いよいよQ氏のご自宅へと向かう。車は徐々に広大な敷地の一角へと進み、着いた所はほぼ百メートル四方はあろうかという芝生の敷地に建てられた家であった。周りの家との間は生い茂った林が目隠しになっていて、まるで別荘地の様な感覚だ。「グレイスランドより大きな家だ」、「これではあなたを私たちの家に呼べないね」と言いながら家に入る。誰もいないかもしれないと言われていたのだが、奥様と上のお嬢さんが買い物に行っていて、下のお嬢さんが留守番をしていた。日本でいえば中学生にあたる彼女は、人見知りしない快活な人柄で、マックをいじってSNSか何かをしながら(家の中にWiFiがある)、こちらとも話をする。バートン・クレーンの原曲未知の曲を聞いてもらおうと思い、(Q氏に渡した分は研究室に置いてきたということだったので)持参したCDをかけてもらい、既知の原曲が米国曲であるものも含め、プレイヤーでかけてもらう。しばらくすると、Q氏が裏に引き込み、こんなものがあるよといって楽譜を持ってきた。クレーンの曲の原曲となった1910年代、20年代のポピュラー曲の楽譜である。さらに、当時の東洋趣味の曲の楽譜もいくつか見せていただいた。聞けばQ氏は、古い楽譜やレコードをかなり大量に、骨董品として蚤の市で売買し、本当に貴重なもの(大学図書館が必要とするもの)が手に入ると、大学に寄附してその分の税金の還付を受けているのだという。昼間に訪れたポピュラー音楽センターのコレクションの一部が、こうして形成されていたのかと少々驚く。更に驚いたことに、クレーン曲の原曲だった楽譜3点は、結局、無償で譲っていただくことになった。思ってもいないことだった。やがて、奥様と、日本でいえば高校生にあたる上のお嬢さんが帰宅して、早速夕食の準備が始まった。こちらは、しばらくソファでネットを使わせてもらったあと、陽が落ちる前に写真を撮っておこうと思い立って、6時40分頃に家の外へ出て、写真を撮る。午後に通り雨があったので、芝生は適度に濡れていて、空気はひんやりと感じられ心地よい。とにかく敷地が広いことの贅沢さを感じる。庭の端に、家を眺めるような位置にぽつんと椅子が置いてあったのが印象に残った。家の裏手で、この贅沢さに連れとため息をついていると、台所から裏口が開いて、食事ができたと呼び入れられた。裏口から家に入り、テーブルに就く。お祈りがあって、夕食が振る舞われた。サラダとローストした肉のシンプルな食事だが、なかなか上品で贅沢な感じである。奥様と連れは、ワインを飲んでいた。Q氏もわれわれを送る必要がなければ飲んでいたのかもしれない。食後、お嬢さんたちがいったん奥へ行った後(テレビを見に行った?)、しばらくご夫妻と話をする。その後、お茶になり、お嬢さんたちも呼んでもらい、日本から持参したお土産の類を披露する。デザートとして出された手作りのレモンパイも美味だった。結局、夜9時近くまでお邪魔し、Q氏に車でホテルまで送っていただいた。
 普段の活動パターンからいえば、まだ早い時間だったが、おいしい食事をいただいて満腹だったこともあり、部屋に戻ってからはあまり時間を置かずに就寝した。
■ 2010/09/11(Sat)
同時多発テロから9年

Nashville, TN

Nashville, TN:
The Alexis Inn & Suites - Nashville Airport

フレンチトースト???(12日撮影)

対岸から眺めたナッシュビル中心市街

Country Music Hall of Fame Museum

Robert's
 朝は7時前に起き、テレビを点けると、今日は同時多発テロから9周年の当日で、各地での追悼式典の中継(この時点ではその準備中の会場からの中継)が行われていた。7時40分頃に朝食へ降りて行く。ホット・フードのソーセージ(日本でいえば一種の肉団子かハンバーグ?)は塩辛くて決して美味いものではないが、アーケードのフレンチトーストのような形にすると不思議と食が進む。フロントで、ダウンタウンへの行き方を聞き、安上がりにするためには無料のシャトルで空港へ行き、そこから公営バスという方法が結局よいだろうと判断する。部屋に戻って、荷物を詰め直したりネットをしたりしているうちに時間が経ち、荷物を散らかしたまま「Do not disturb」にして10時45分のシャトルで空港に向かう(後で考えると、このときのシャトルがドライバーも車体も一番よかった)。空港についたのは10時50分くらいだった。いったんターミナルの建物内に入ってから、案内表示に従って公営バスの停留所を見つける。土日の昼間はほぼ毎時45分に発車なので、しばらく時間を潰すためにターミナルの2階=手荷物受け取りのところにあるスターバックスに入り、ゆっくり休む。午前11時45分のバスに乗り、デイ・パスを買う。ひとり4ドル80セントということで、3回乗れば元がとれる計算だ。バスのドライバーは精悍な印象の黒人男性で、客はわれわれだけだった。空港を出たバスは、30分足らずでダウンタウンに着き、ブロードウェイを通過したが、途中では降ろしてもらえないような感じで、そのまま丘の上の州議会に近いバス・ターミナルまで行く。ここで、少し手間取ったが、ブロードウェイを通ってゆく12番バスに乗り換えて、ようやくブロードウェイに到着した。
 午後0時半頃ブロードウェイの東端にあたるハードロック・カフェに着き、入口近くにあるAC/DCのサインが集められたギターの前のテーブルに就いた。ここでは飲み物とナチョスをとり昼食にする。1時半頃まで休んで、レストランの中の物販で安いピンを買う。HRCを出て、店を冷やかしながらブロードウェイを進み、2時頃にカントリー音楽の殿堂博物館に到着する。ここでは旧RCAスタジオBのツアーの申し込みもできるのだが、到着してチケットの窓口で尋ねてみると、本日分のツアーはもう受付を終了しているという。明日出直そうかと思ったら、展示を今日見て、ツアーだけ明日にするということも可能だと説明されたので、そのパターンで今日のうちに展示を見て回ることにする。カントリー音楽の起源から1950年代-60年代の全盛期、さらに現代に至る歴史を追った展示は大変勉強になったし、企画展として行われていたハンク・ウィリアムズ父子を中心としたウィリアムズ家の伝統に関する展示(当初の期間より大幅に延長されて継続していた)も面白かった。結局、午後5時の閉館時間が来て追い立てられるまで、たっぷり3時間かけて全ての展示をひと通り見て回った。個人的には、ハンク・ウィリアムズSr.はもちろん、ジョニー・キャッシュの偉大さを確認できた感じがしたのがうれしかった。ショップはさらに30分遅くまで開いているので、今日は荷物になるので何も買わず下見にとどめると決めてから、書籍類を中心に並んでいるものを見ていく。
 5時半少し前に殿堂博物館を出て、西隣にある2013年完成予定の「Music City Center」の建設現場のフェンス沿いにひとブロック西へ行き、ミュージシャンの殿堂博物館があったはずの辺りを確認する。この博物館の敷地は、道を封鎖して2ブロック四方(以上?)を潰している建設現場の真ん中辺りに相当しており、既にかつての建物の姿は影も形もない。ふたたびブロードウェイに出て、土産物店やブーツ店などを冷やかしながら、だらだらとハードロック・カフェのある東へ下り、6時15分頃にレストランの前に建っているロック・ショップに着き、さらにピン類を買う。この建物は、シルバー・ダラー・サルーンという酒場の跡で、歴史的建造物に指定されている。昔の1ドル銀貨が嵌め込まれた床の一部は、HRCが復元したと記されていた。この後どこへ行こうかと思っていたので、愛想の良い長身の白人男性店員に、ハードロック以外で行くべきところはどこか?と尋ねてみたところトゥッティーズを勧められた。
 今度はブロードウェイを西へ上り、トゥッティーズまでたどり着いたが、店の中から流れてくる音を聞き比べて、2軒置いた隣にある、到着した夜に入り損ねたロバーツの方に入る。とりあえず連れにはビール、自分にはルートビアをとり、演奏に聴き入る。4人編成のバンドがカントリーらしい音の達者な演奏していたのだが、まず気に入ったのは彼らの格好である。ボーカル/ギターはテンガロンにひげ面でカントリー風だが、ウッドベースはスキンヘッドにモッズ風のサングラスと衣装、ドラムスは昔のツートーンを思わせるような出で立ちだ。そして何より、ギターがどう見てもロック風で、ジム・モリソンがギターを持っているような、といったら褒め過ぎかもしれないが、かなりの男前のロック・ギタリストという風情である。ところが叩き出される音は紛れもなくカントリーのそれである。本来なら4弦系の楽器で弾きそうなフレーズを、ギターが凄まじい指さばきで速弾きしていくのは、見ていて気持ちがよかった。途中でブルースも1曲やったのだが、これもとても良かった。休憩のときにベースがチップを集めにきたのだが、CDも売っているということだったので、迷わずCDを買う。休憩のときには、また、隣の席のカップルが、なぜかポテトのバスケットを譲ってくれた。
 7時40分頃、次の演奏が始まってすばらくしてから店を出て、ブロードウェイを東へ下り、2番通りを北へ上がる。ワイルドホース・サルーンやB・B・キング・ブルース・クラブの前を通過して、坂を上りきり、バス・ターミナルまでたどり着いた。途中で、身なりのよい年配の黒人男性に、B・B・キング・ブルース・クラブの場所を尋ねられ、通過してきたばかりだったのですぐに教えられた。その時は、なぜ尋ねられたのだろうと思ったのだが、よく考えれば、自分がメンフィスのB・B・キング・ブルース・クラブのTシャツを着ていたことをすっかり忘れていた。
 8時15分の18番バスは白髪の白人男性ドライバーだった。われわれのほかに、女子高校生風の3人組がバス停で待っていたのだが、どうやら平日しか走っていない緩行便で行く場所へ行きたがっていたようで、ドライバーは最初はバスが違うと説明していたのだが、途中まで乗せることにしたようだ(もうほかに交通手段がない時間帯だろう)。結局、彼女たちはブロードウェイの数ブロック南の角までバスに乗り、降りる際にドライバーがいろいろ道を教えていた。その後は、行きと同じようにバスはわれわれの貸し切り状態になった。空港からは、定刻のシャトルをあてにしていたのだが、8時45分のシャトルは、われわれがシグナルしたにも関わらず、目の前を通過していった。ホテルでは、シャトルの利用は事前に申し込めといわれていたのだが、空港からも同様らしい。仕方なく公衆電話でホテルに連絡を入れ、シャトルに迎えにきてもらったのだが、やってきたのは朝乗ったような社名の入ったシャトルではなく、白い無印のものだった。結局、部屋に帰着したのは9時半頃だった。翌日はもう出発なので、荷物の詰め直しをしてから眠る。
■ 2010/09/12 (Sun)
また長い日曜日

Nashville, TN

GLI1514/1097/0552

画面左手の紫色の建物が Tootsie's
1軒置いて、Layla's、Robert's と並んでいる

Tootsie's Orchid Lounge

LP Field

プレスリーお気に入りのピアノ @ RCA Studio B

チェット・アトキンス像
 朝は7時少し前に起きて、少し日記をつける。連れが起きてから7時40分頃に朝食に降りてゆき、今朝も南部風?のフレンチトーストを食べる。9時半ころにシャトルでいったん空港に向けて出発する。今朝もシャトルは無印で、運転手は若い黒人女性だ。空港ではすぐに9時45分の急行バスに乗り継ぎ、昨日の経験で、市内は荷物なしなら歩けると判断したので、デイパスにはせずに乗車1回分を支払う。またしても、乗客はわれわれだけの貸し切り状態である。バスは市街地に入る直前に、市街地の東側、カンバーランド側の対岸にあるスタジアムの近くを通るのだが、今日はNFLの試合があるらしく(地元タイタンズ対レイダース)、辺り一帯は車と人でごった返していた。バスのドライバーは中年の白人男性だったが、市街地に達すると、ダウンタウンのどこまで行くのか?と尋ねてきた。そこでブロードウェイと答えると、2番通りとブロードウェイの角で停車して、降車させてくれた。もともとリクエストできるのか、配慮されたのかは分からずじまいだった。
 日曜日で10時を過ぎたばかりというタイミングなので、物販系の店は開いているが、音楽を聴かせるような店は、まだ閉まっているところもある。最初は、前日に入店した際に「日曜の午前はゴスペルです」と小さな掲示が出ていたロバーツに行こうと思っていたのだが、店についてみると開けたばかりで、演奏もすぐには始まりそうにない様子だったので、入店しなかった。隣のレイラズはまだ閉まったおり、2軒先にある、前日にHRCの店員に勧められて結局は入らなかったトゥッティーズを覗くと、おじいさんたちのバンドという感じのグループが昔風のカントリー音楽らしい演奏をしていたので、ここに入ることにする。ギター/ボーカル、ギター、ベース、ドラムスという編成のバンドの演奏は、気張ったところの無いレイドバックした感じというか、日曜日の朝にふさわしい演奏だった。ここは、飲み物だけで食べ物はとらす、最後にTシャツを買った。まだ演奏が続いているうちに店を出て、11時ころにブロードウェイから2番通り辺りの商店を冷やかして歩き(連れは散々悩んだ末にブーツを買わなかった)、正午ころにHRCの向かい側に位置するビッグ・リバー・レストランに入る。ここは、ビール会社が経営しているレストランで、連れはピルスナーを飲み、二人でサラダとポーク・バーベキュー・サンドイッチを食べる。1時少し前にレストランを出た後、カンバーランド川に架かるシェルビー通り歩道橋辺りを歩いて回る。対岸のスタジアム「LPフィールド」では、時おり歓声が上がっているのが聞こえる。
 こうして予定通り1時15分ころにカントリー音楽の殿堂博物館に到着し、1時30分の旧RCAスタジオBのツアーの開始を待った。ところが、一つ前のグループの帰着が遅れ、出発は40分を回ってからとなった、このツアーでは、シャトルでミュージック・ロウに連れて行かれ、直ぐにスタジオBに入るので、ミュージック・ロウの雰囲気をゆっくり見ることはできない。とりあえず、スタジオBに入ると、まずロビーにあたるところで、若い白人女性のガイドが壁面に掲げられたスターたちの写真に順次言及しながら、ここで行われたレコーディグの歴史を概説する。そうこうしているうちに、偶然、ある往年の女性歌手(名前は聞き漏らした)が私用でやってきたということで、簡単に紹介されるというハプニングがあった。次に調整室、スタジオとそれぞれ解説つきで案内される。驚いたのは、スタジオに置かれたピアノを弾いてよいと言われたことだった。このスタインウェイのピアノは、エルビス・プレスリーのお気に入りで、ぜひ買って持ち帰りたいというプレスリーに対して、プロデューサーだったチェット・アトキンスが頑として渡さなかったという代物だそうである。ツアー客の中に腕前を披露する人はいなかったが、実際に鍵盤に触る人は結構いて、椅子に座って写真を撮る人も多かった。ガイドの説明では、ピアノだけでなく、このスタジオ自体が、プレスリーのお気に入りで、レコーディングとなると何を演奏すると決まっている訳でもなく午後遅くからミュージシャンたちが集められ、やはてプレスリーが登場してセッションが始まり、興に乗ると深夜、未明までレコーディングが続いたという。逆に、気が乗らないと、プレスリーはすぐに帰ってしまうこともあったという。あるとき、クリスマス・アルバムの録音を8月にやろうとしたが、プレスリーが全くその気になれなかったので、チェット・アトキンスは一日かけてスタジオ内にクリスマスの飾り付けをさせて、翌日にはプレスリーもその気になった、というエピソードが面白かった。
 ツアーは2時30分を少し過ぎて殿堂博物館に帰着し、解散となる。ここでタクシーを拾ってミュージック・ロウ辺りへ行くことを一瞬だけ考えたが、スケジュールにそこまで余裕が無いと判断して、バスのターミナルへと歩いて行くことにする。チャーチ通りを北上し、ライマン公会堂の前を通って進んで行くとターミナルの近くで、全く偶然にチェット・アトキンスの像を発見する。こういうところは呼ばれている感じもするし、また、観光地としての演出としては、よく出来ているところだろう(後日、ネットで検索したら、この像でとった写真がいろいろ出て来た:まだ普通共演したり寄り添ったり聞き入ったり肩を組んだり微妙に邪魔したり女子だから許される?)。
 ターミナルから3時15分のバスに乗り、空港へ戻ったが、今回はほかにも2人乗客がいた。空港から電話してシャトルを呼び、今回も無印でやってきたシャトルに乗り込んだ。運転していたのは、初めて見かける黒人男性ドライバーである。ところが、このシャトルには先客の白人女性がいて、どうやら別のホテルへ行くらしい。シャトルは、われわれが乗り込んだ後、さらにパイロットらしき白人男性を乗せてから空港を出て、まず、白人男性のホテルに向かった。その後、われわれが泊まっていたアレクシス・インの前を通過し、丘の上の行き止まりのところにある高級ホテルで女性客を降ろし、入れ替わりに黒人男性客を乗せ、今度は丘を降りて再びアレクシス・インの前を通過して別のホテルへ行き、ここでさらに黒人男性客を2人乗せてから、ようやくアレクシス・インに横付けされた。時間にあまり余裕が無かった中でのことなので、正直なところ少し嫌な思いがした。ホテルで預けておいた荷物を出してもらい、タクシーを頼むと、しばらくしてやってきたのは、先ほどのシャトルである。事前に聞いていたホテルのフロントの話では、タクシーだと25ドル以上だが、時間帯によってはシャトルに有料で市内までの送迎を頼めるということだったのだが、よりによって先ほど不愉快な思いをしたドライバーのシャトルとは、何だかついていない感じがする。それでも、時間の余裕が余り無いので、メーターなし20ドルの言い値を支払うしか選択肢は無い。こうしてシャトルで、5時半ころグレイハウンドのターミナルに到着した。
 ターミナルに着いて、すぐに発券手続きをとり、途中で近くの韓国食品店を冷やかしたりしながら1時間ほど時間を潰し、6時40分にナッシュビルからノックスビルを経て東へ向かうバスに乗り込んだ。このバスはスキンヘッドでなかなか強面の白人男性ドライバーが運転していたが、彼はどうも思い込みが強いようで、検札のやり方も独特(乗車時ではなく、先に乗車させてから乗車券を集めるやり方)であった。われわれのチケットでは(ノックスビルではなく)ウィズビルというところで乗り継ぐように書いてあったのだが、これはノックスビルの間違いだろう、などと断言し、乗車後の検札の時点で、ノックスビルで荷物を取って降りるように言われた。何やかやで20分近く定刻より遅れてバスは発車した。今夜は0時を回ってからの乗り継ぎが2回もあるので先にまとまった睡眠時間を確保しておかなければならない。幸い、バスはひたすらインターステイトを直線で進んだので乗り心地も意外によく、すぐに眠りにつくことができた。
■ 2010/09/13 (Mon)
ノースカロライナ大学訪問

Durham, NC
Chapel Hill, NC

GLI1057
 深夜0時ころ、バスはノックスビルに到着し、いったん全員が降ろされることになった。車内の放送と照明が点灯されたので、もうろうとした状態から目が覚める。ドライバーが、お前たちはここで乗り換えだから荷物と取れと言ったので、降車して荷物係の白髪の白人男性に確認すると、チケット通りに次のウィズビルまで乗っていけと言われる、たまたまドライバーが居合わせたので確認すると、荷物係がそういうなら戻ってきてまた乗れ、と言われる。さっきノックスビルで乗り換えと言った時の断定的な感じはどこかへ行ってしまったようだった。小一時間の休憩で、再度同じバスに乗り、深夜2時半ころにウェイザビルという停留所に着く。ここはターミナルとは呼べないくらい小さな待合室と発券カウンターがあるだけの場所で、周辺にもほかに施設らしいものがないようだ。時間帯はここから東部標準時になるようだ。ここで乗り継ぐことになるのだが、われわれが乗ってきたバスも発車せずにそのまま待機している。やがて、別方向から来た、北東へ向かうバスが到着し、われわれはそちらに乗り継ぎ、逆に、そちらからわれわれの乗って来たバスへ移る乗客もいた。結局、定刻より20分くらい遅れ、4時を大きく回ってから、バスは出発した。このバスは1時間半ほど走ってウィンストン・セーラムに定刻の5時35分より少し遅れて到着した。ノックスビルからは、1時間たらず降車して休んでは、1時間強バスに揺られるというのを2回繰り返したことになるが、ここでも別のベスに乗り継ぐので、もう1回同じパターンを繰り返すことになる。ウィンストン・セーラムのターミナルは、市街地の中にあり、しかも地域の公共バスのターミナルと一体になっている。今回はこの街に用事はないが、こういう立地の場所がグレイハウンドで訪れるには最も適した都市であろう。定刻の6時35分より少し遅れて発車したバスは、ノースカロライナ州ダラムに、やはり定刻の8時34分より少し遅れて到着した。

Foster's Market

学生が溢れるノースカロライナ大学構内

Wilson Library
 ダラムのターミナルには、隣町のチャペル・ヒルにあるノースカロライナ大学で学位を取得し、その後も研究を続けているK君ご夫妻が出迎えにきてくれていた。奥様はダラムのデューク大学に学籍を置いているそうだ。車でまずダラム市内をざっと案内され、朝食をとりにフォスターズという食料品店兼レストランに行く。ここで、日本から持ってきた土産物を渡し、こちらの珍道中の話、先方の近況の話などを話し込み、結局2時間近く居座った。11時20分ころに店を出て、デューク大学の構内へ向かう。ここで、偶然知り合いの白人女性を車に乗せてあげたり(日本の通夜のようにシナゴーグで遺体に寄り添う当番があったらしい)してから、スミス・ウェアハウスという倉庫(タバコ生産と関係していたらしい)を改装した一角に向かった。ここにはジャズ関係のアーカイブが、特別コレクションとしてあるということだったのだが、あいにく手配されていたはずの知人との連絡がつかず、コレクションの場所を確認しただけで、もし連絡がつけば午後に再訪することにして、チャペル・ヒルへ向かうことにする。
  チャペル・ヒルでは、まずユニバーシティ・モールという商業施設の中にあるベア・ロック・カフェという店に午後0時半頃に入り、一息入れて、またいろいろな話をする。お茶の後、少し移動し、駐車をし直して、午後1時40分ころにノースカロライナ大学のキャンパスに入る。丘の上にある街のはずれからキャンパスを徐々に広げていったらしく、キャンパスは奥へ行くほど緩やかに坂を下る形になっている。ちょうど授業の間の移動時間だったようで、信じられないくらい多数の学生が行き交っている。新学期が始まったばかりということもあるだろうが、大都市の市街地並みの混みように思われた。
 今日の訪問予定先は複数あるのだが、K君の手配にしたがい、まず特別コレクションを扱っているウィルソン図書館へ行く。この図書館は、正面の階段を上がって入るとそこが2階になっているのだが、そのフロアからエレベータで4階に上がり、南部歴史コレクションと同じ一角にある、南部民俗生活コレクションのセクションを訪れて、担当司書の白人男性に概要の説明をしてもらう。このコレクションは一般書が中心ではなく、貴重書やクリッピングなど、一次資料に近いものが収集の対象となっており、一部の参考図書を別にすれば、資料はすべて閉架に置かれている。驚かされたのは膨大な量のレコード類(蝋管、ワイヤー、テープ等を含む)の存在だった。「民俗生活」と名付けられたコレクションであり、民話や民芸、生活文化に関する資料も収集対象になっているが、圧倒的な比重を占めているのは、実は19世紀から20世紀のポピュラー音楽系の資料なのである。録音技術以前の19世紀の音楽についても、当時の楽譜(賛美歌などが多い)や歌詞集が多数コレクションされている。このコレクションは1960年代から構築され始めたそうだが、資料の大部分は個人からのまとまったコレクションの寄贈によるということで、つい最近にもカリフォルニア州の篤志家(中古レコード店を営んでいた人らしい)から大規模なレコードや楽譜の寄贈を受け入れたそうだ。こうした場合に、寄贈先として選ばれるのは、コレクションの存在が価値あるものとして広く認知されている証左であろう。次に、1階(感覚的には半地下に近い)にある、音楽図書室に行く。こちらは教育目的の図書室で、設備はやや古びた印象だが、開架フロアの規模は大きく、楽譜の所蔵状況などをみても、例えば先に訪れたミネソタ大学よりもずっと充実しているようだった。ノースカロライナ大学の音楽学部は、米国では有数の歴史があり、教育の中心はもちろんクラシック系に置かれているが、書架を見て回るとポピュラー音楽系の研究書もしっかり入っている。音楽図書室を出て1階の出口から外へ出ると、ちょうど図書館の脇から出るような形になっていた。斜面に立っている建物なので、正面からみて半地下に見えたフロアが、脇や背面から見るとちゃんと1階になっているわけだ。
 次に、キャンパス内の3つの建物に分かれている音楽学部の施設を見学する。最初に、最も新しい、2009年に竣工したばかりのキーナン棟(寄付者の名がついている)へ行き、オーケストラのメインの練習場となっている教室は使用中だったので立ち入らなかったが、同等規模の別の教室は見ることができた。また、実技系の教員の研究室やレッスン室(中では実際に授業中だった)なども、ドアの一部がガラス張りになっているので雰囲気を垣間見ることができた。実はこの建物は、将来拡張されるはずの大きな建物の一部でしかなく、完成模型にあたるものも建物内に展示されていた。最終的には現状の2倍半くらいの大きさまで拡張され、現在、他の建物にある機能を一つに収容することになるようだ。次にヒル・ホールという1907年竣工の建物へ行き、ピカピカのキーナン棟とはまた違う、コンクリートブロックの壁に白いペンキを塗った内装という、英米の大学にありがちな雰囲気を味わう。ここにも1階に小学校の体育館くらいの広さと天井の高さをもったリハーサルに使える教室があり、その入口にはジャズ・スタディーズ関係の掲示板が設けられていた。地下は個人練習室の小部屋が並び、かなりの数の学生が練習に励んでいた。音楽学部のもう1棟はパーソン・ホールというやや小さめの建物でヒル・ホールの隣にあるが、既に4時半を過ぎており、施設としてはヒル・ホールと大きな違いはないということだったので、外から写真だけとってノースカロライナ大学のキャンパスを後にした。
 この時点でも、K君ご夫妻が連絡を試みていたデューク大学のジャズ・コレクションの担当者とは連絡が取れず、結局そちらへの訪問は断念して、チャペル・ヒルからダラムに向かう途中にあるレストラン「スクイッド」(「烏賊」の意)でゆっくり夕食をとることにした。ここは海産物料理の店ということで、サラダ、ロブスター、ムール貝、生ガキなどをとり、美味しくいただく。店を出たのは6時40分を回っていたが、無事、ダラムのバス・ターミナルにたどり着き、すぐにアトランタ経由メイコンまでのチケットを発券してもらい、7時25分の定刻でバスに乗り込んだ。K君ご夫妻は、こちらがバスに乗り込んで、外からは車内もよく見えないはずなのに、バスがターミナルを出るまでしっかりと見送ってくれた。ダラムを出発するとすぐに、外は暗くなり、そのまま直ぐに眠りに就けた。
■ 2010/09/14 (Tue)
ジョージア州の二つの都

Macon, GA
Atlanta, GA

Atlanta, GA:
Microtel Atlanta Airport


 朝4時過ぎにアトランタに到着したが、直前のアナウンスまでしっかり眠っていて、いつごろアトランタ大都市圏に入ったのかも分からない状態だった。ここで、同じジョージア州のメイコン行きに乗り継ぐのだが、1時間半ほど時間がある。ところが、具体的な何がどうしてなのかは分からないが、このアトランタのバス・ターミナルは、これまで通ってきたグレイハウンドのバス・ターミナルとは違った緊張感のようなものを感じた。未明の早朝にも関わらず人が多いということなのか、ターミナルの外が暗いわりに車の交通はそこそこあるといったことが他所とは違うのか、とにかくある種の危うさを感じたので、建物の外にも出ず、ベンチに座ってひたすら乗車が始まるのを待っていた。やってきたバスはマイアミ行き。乗車の際、われわれがメイコンで降りると分かると、荷物係はわれわれの荷物を最後に回して取り出しやすくするためか、すぐには積み込まずに脇にとり置いて、先に乗れと促した。バスは定刻の5時50分のほぼ定刻通りのペースでアトランタを離れたが、まだ外は暗いので、アトランタ市街地のイメージは全く掴めないまますぐに眠る。
 1時間と少しの間に朝になり、メイコンが近づいてくる頃には、半ば覚醒しかけていた。到着後すぐに、持ち込み手荷物をとって下車し、預けた荷物を受け取った。定刻通り7時15分頃である。グレイハウンドのターミナルは、市街地が歩いて行けそうなほどの距離に見える街外れの交差点の近く、交差点の北東側のブロックにあり、交差点の周囲には何軒ものファースト・フード系の店がある。この時間でも数軒は営業していそうだ。朝日も昇り、車の交通量もそこそこあって、あまり危うい感じはしなかったので、いつもとは逆に自分が荷物番をして、連れにどの店に入りたいかを見に行かせた。連れは結構ゆっくり見て回ってきたので、途中で心配になるくらいだったが、結局、交差点から南へ少し下った西側のワッフル・ハウスへ入ることにして、かなり重くなった荷物を曳きながら交差点を渡り、店に入った。不思議なもので、チェーン店の他の店に入ったことがあるというだけで、勝手が分かって安心できる感じがある。この店では、朝食時間帯で忙しいのか、白人の男女一人ずつと黒人女性3人が働いていた。正確に言えば、そのうち1人が交代でまかないをカウンターの端で食べながら、残りの4人が働くという状態だった。細身の若い白人男性店員は、GI帽(カロ)を冠っていたのだが、その柄が黒と黄色のストライプで、まるで阪神の応援グッズのようである。確かにワッフル・ハウスの看板の色は黒と黄色だが、店内は50年代ダイナーそのものという感じの赤と白が目立つので(店内にも目立たない形で黒と黄色のタイルもあるが)、ちょっと浮いている感じが面白かった。ここでは1時間半近くねばり、最後にタクシーを呼んでもらった。

Georgia Music Hall of Fame Museum

オーティス・レディング像
 メイコンに足を伸ばした目的は、ジョージア音楽の殿堂博物館を見学したかったからである。開館時間は9時なので、その少し前にタクシーが来るようにと思い、8時半頃に店員に声をかけた。これまでタクシーは待たされることが結構あったのだが、ここではすぐにやって来た。ところが、店の前に停まったタクシーの前面からは白煙が立ち上り、熱水が漏れ出している。黒人女性ドライバーも、どうすればよいか困っているようで、携帯電話で会社に指示を仰いでいるようだった。結局、そのままタクシーに荷物を積んで乗り込み、スピードを控えめに進んで、博物館裏の駐車場までたどり着いた。こちらはそこで降りでおしまいだが、タクシーはその後どうなったのだろう?
 タクシーが早めに来てくれたおかげで、博物館の入口に着いたのは、開館の10分以上前だった、連れに荷物を見てもらい、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア大通りと名付けられた博物館前の通りを歩いて、博物館の建物や周辺の写真を撮る。戻ってくると、既に博物館のドアが開いていた。連れの話だと、彼女が待っているのを見て5分ほど早く開けてくれたのだという。さっそく入館して、カウンターにいた黒人女性館員と少し話をする。入館料を支払う時、AAAの会員か?と問われ、日本版(JAFのこと)の会員だけど、まさかそれで割引になるとは思わなかったので、会員証を持ってこなかった、と言うと、いいわよと言って1ドル割引の1人7ドルで入館させてくれた。荷物も預かってくれ、さらに、この先(MLK大通りを2ブロックほど東へ行った先)のオーティス・レディングの銅像を見て来て戻ってくる間なら荷物を預けておいていいとも言われた。とりあえず、ご厚意に甘えて荷物を預け、展示を見て回る。この博物館は、ジョージア州に縁のあるミュージシャンを、ジャンルを問わず顕彰していくという趣旨で1960年代に始まったジョージア音楽の殿堂で、殿堂入りを果たした音楽関係者に関係する展示をしているのだが、子供の教育という側面も意識されており、展示方式にもテーマパーク的な演出があったり、学習的な色彩のある遊具が置かれたコーナーがあったり、博物館としての工夫が感じられた。ただし、細かいところで状態に問題がある設備があったり、改修中として閉鎖された展示コーナーがあったりと、メインテナンスがあまり行き届いていないという印象も受けた。
 ひと通り展示を見終わった後、お言葉に甘えてオーティス・レディングの銅像があるオーティス・レディング橋のたもとの公園へ行く。「ドック・オブ・ザ・ベイ」さながらに、桟橋の木杭か係留ピットらしきものに腰掛けたレディングがギターを抱えているというポーズの銅像が、港ならぬ深い河谷の底の池を見下ろす位置に立てられていた。その先にあるオーティス・レディング橋は、ただの道路橋で何の面白みもないので、銘板だけを確認して渡らずに引き返した。博物館に戻ってTシャツなどを買い、時間があまりないがどこを見ていくべきかと先ほどの館員に尋ね、とりあえず連れに荷物番をしてもらい、西へ2ブロック程離れた観光案内所に行ってみる。ここで公共交通機関のことなどを質問し、さらに鉄道駅に隣接したバス・ターミナルへ行って使えそうな路線を確認し、その時刻表をもらってきた。グレイハウンドのアトランタ行きは、午後1時半と3時半にあるので、いずれにせよメイコンで昼食をとらなければならない。いろいろ情報を集めた結果、オールマン・ブラザース・バンドと縁があるというH&Hレストランに行くことにする。博物館に戻って連れと相談した結果、しばらく都合の良いバスの便がないので、市街地の南端にある博物館から、市街地の北西にあるレストランまで、歩いて向かうことにした。このルートは途中に、数多くの黒人ミュージシャンが出演したというかつての黒人専用劇場ダグラス・シアターの前を通り、並木道のある目抜き通りや、壮麗な公共施設の前を通って中心市街地を横切っていく、本来なら散歩したくなるようなコースなのだが、実は全体的に上り坂で、雲がほとんどない快晴の下、重い荷物を曳きながら進むのはかなりの苦行だった。

Capricorn Records 旧社屋

H&H Restaurant(手前の茶色いファサードの部分)
 途中で何度か小休止しながら進んでいくと、偶然、カプリコン・レコードの社屋跡の前を通った。オールマン・ブラザース・バンドが所属していた地元のレコード会社である。ここにあるとは聞いていなかったので、呼ばれている感じがした。ここからH&Hまでは半ブロック、間もなくレストランの前に到着した。この時点で午後0時半になっていた。
 しかし、H&Hレストランは、一見すると営業しているのか、閉まっているのかが分からない微妙な雰囲気だ。近くのサンドイッチ屋が、店の前に卓を並べてお客さんもいる状態だったので、万一閉まっていたらそちらへ回るつもりでH&Hのドアを開けた。そこには、奥の厨房までがらんとしたホールになっている食堂という雰囲気の空間があり、客席の壁面には、オールマン・ブラザース・バンドに縁のある写真やポスターやTシャツなどがたくさん掲げられていた。10卓ほどの席には、黒人客のグループも白人客のグループもいる。フロアは、太った若い黒人男性と、店主らしき年長の黒人女性が切り盛りしている。われわれのテーブルには男性の方がやって来て、メニューを説明してくれた。メニューは曜日ごとに異なる付け合わせとメインが羅列されている中から、いくつかを選ぶ形になっており、付け合わせは6品の中から3品、メインは4品の中から1品を選ぶように言われる。付け合わせは、それぞれ異なる3品をとって6品全部を味見できるようにし、メインはチキン2品を避けてビーフとハムにした。途中で連れが店内の写真を撮ろうとしたら、女性店主が大声で写真を撮るなと言うので、慌ててカメラをしまう。おかげで料理の写真を撮らなかったのだが、後で食後に彼女が来て直接話したところでは、壁面の写真を撮るなと言うことだったらしい。そうなら料理の写真は撮っておくんだったと連れは悔やんでいた。全体に味はあっさりとしていて、テーブルで自分で味をつけろという感じの料理だったが、野菜の煮浸しのようなものなど、家庭料理という感じがあって面白かった。既に1時を回っていて、1時30分のアトランタ行きには間に合いそうもなかったが、会計をしてタクシーを呼んでもらう。すると意外に待たせずにタクシーがやって来た。ドライバーは堂々たる体格の白人女性で、何と日本でいえばとんがりコーンに相当する「Bugles」というスナックを摘みながら片手運転で凹凸の多い住宅街の中の道を進む。これも日本のタクシーでは考えられない光景だ。
 バス停に着いたのはちょうど1時半で、バスも既に停まっている。もう間に合わないかと思いながら発券カウンターへ行くと、まだ乗れるというので、急いでアトランタまでのチケットを発券してもらい、白人男性ドラーバーの運転する古いタイプのバスに乗り込んだ。結局、われわれが乗り込んだ後もバスはすぐには発車せず、15分遅れくらいでアトランタへと出発した。この時点では、このバスがアトランタ空港に立ち寄ることは認識していなかったのだが、少し眠っていると連れに起こされ、空港に停まるようだと知らされる。今夜の宿は空港の近くなので、ここで下車できれば好都合だ。空港に停車してすぐにドライバーに、ここで降りてよいかと尋ねると、いいけど早くしてくれと急かされる。大慌てで車内に戻って連れに声をかけて持ち込み手荷物を引っ張り出し、再び降車してドライバーに荷物のハッチを開けてもらい自分で荷物を取り出した。
 空港からホテルまでは、地図で見る限りさほど遠い距離ではない。シャトルバスもあるはずだが、大した金額にはならないと判断してタクシーに乗ることにした。ところが、南アジア系と思しきドライバーは、先に車を走らせてから、場所がわかっていない様子で所在地をナビに入力しはじめた。その上、メーターを止め、この場所は空港に近すぎるので均一料金の14ドルだ、と言い出した。14ドルというのは、明らかに本来の金額の倍近い金額である(ちなみに車内には均一料金になる地域についての説明書きがあったが、空港近くなら14ドルなどという説明はなかった)。これはマズいと思ったが、既に空港を出てかなり走っており、不用意に下車しても途方に暮れる羽目になるだけだ。無事ホテルに到着して、14ドルを支払ったが、正直なところかなり後味が悪かった。
 今夜泊まるのは、ミネアポリスで4泊したのと同じ系列のマイクロテルで、入口の感じなども似ているが、一泊の宿代は、45ドルちょっとと、かなり低く設定されている。ところが、通された230号室は、ベッドメイクはされているものの、入口近くの壁紙などを修繕している途中のようで、塗料を乾燥されるためか大きな工事現場用の扇風機が回っている。しかも、バスルームの電源からは、他の部屋にも配線が伸びていて、同じように扇風機を回しているようだった。作業者らしき人影はなかったので、荷物をいったん部屋に置いてからフロントへ戻り、どうにかしてほしいと苦情を言う。結局、ひと回り広い(ベッドが二つある)205号室に回してもらい、事なきを得た。こうして多少のドタバタはあったが、部屋に荷物を入れ直し、すぐにシャトル便に乗って空港まで行き、空港から電車でアトランタの都心部へ向かった。

ハードロックカフェ・アトランタ
 アトランタの電車(地下鉄)のハブになっているファイブ・ポイント駅で下車したときには、もう午後5時近くになっていた。連れが買い物をしたいというのでアンダーグラウンド・アトランタという、一種の地下街へ行く。これはもともとの道路面の上に、新しい道路を通し、もともとの道路面を地下街にしてしまうという荒技で作った小さな地下街なのだが、観光スポット化していてそこそこ人が集まっている。しかし、この辺りの店はおしなべて値段が強気すぎて、結局何も買わずに地上に上がった。ここからハードロック・カフェまでは地下鉄ひと駅分である。道路に沿って北上し、公園の脇を通ってハードロック・カフェにたどり着いたのは5時半を少し回った頃だった。ここでもまずショップへ行き、次いでレストランに席を取ったが、ここで夕食を済ませるかどうか連れは迷っていたので、しばらくは飲み物だけで店内の雰囲気を味わいながら、ネットをつないで作業をする。その間、連れはいつものようにサーバーとピン・トレードをしていた。結局、食事は改めてという事になり、アップル・コブラー(日本のものより小ぶりで、大きなカクテルグラスのような器でサーブされる)を最後に食べて、7時半頃に店を出た。
 夕食がとれそうなところはないかと探しながらファイブ・ポイント駅近くのCVS(店名はコンビニの意だが、ドラッグストアというか小さいスーパーという感じの店)へ向かう。ここではお土産代わりになりそうな食品類を少し買った。さらに、アンダーグラウンド・アトランタに戻り、一番奥(東端)にあるハンバーグ・レストランへ行ってみるが、連れがメニューを見て、入らないことになる。どうしたものかと思いながら、少し戻って、南側のフードコートへ行ってみると、まだ数軒が営業している。ただし座って食べている客はもういない。テイクアウト客がわずかにいるだけのようだ。結局、まだやっていた中から、アメリカン・チャイニーズの店で炒飯と鶏肉料理2種を盛り合わせてもらい、5ドルちょっとを払ってホテルに持ち帰る事にする。こうなると飲み物も買っておきたいということで、まだ閉店時刻の9時にはなっていないCVSに戻り、コーラなどを買い足して、だいぶ周囲の雰囲気が怪しくなって来たファイブ・ポイント駅から南行きの電車に乗って空港へ向かった。空港では、指定場所で待っていると、程なくしてホテルへのシャトルがやって来た。このシャトルは数軒のホテルの共同運行だが、合理的なルートですぐにホテルに到着した。安易にタクシーにしないで、ホテルに電話をすればよかったと、改めて後悔した。
 ホテルの部屋に戻ったのは9時15分頃だった。明日はもう帰国便に乗らなければならないので、荷物の詰め直しをする。そのうち、小腹が空いたという事になり、テイクアウトして来た炒飯とコーラで夕食にする。明日は早いので、朝5時45分に目覚ましをセットし、風呂に入ろうとしていた連れに、風呂から出たら起こしてくれと言って、ベッドに入る。ところが、そのまま熟睡してしまい、風呂から上がった連れが声をかけても起きなかった。
■ 2010/09/15 (Wed)
帰国便に乗り込む

UA7687

UA0881

 朝は5時過ぎに目が覚め、風呂に入る。5時半頃に連れに声をかけるとすぐに起きたので、そのままチェックアウトできるように準備をして、6時半頃、荷物を曳いて1階に下りていった。先にチェックアウトを済ませ、ミネアポリスと同じようなものが並ぶ食卓から、クリームチーズとベーグルをとり、滞在最後の朝食にする。間もなくシャトルが来たので乗り込み、空港まで送られる。アトランタ空港では専用のシャトル溜まりがあり、空港とシャトルのシステムが分かりやすく出来ていると改めて感じる。
 7時15分頃、荷物をチェック・インし、保安検査所へ向かうと、結構な行列になっている。まだ時間に余裕があり、連れが店を探したいと言い出したので、しばらくロビーで椅子に座って休む。やがて、少し行列が短くなったところで保安検査所に向かい、ゲートへ進んだ。出発時刻は9時5分だったが、早めに搭乗が進められた。乗り込んだのは、初めて乗るブラジル製のコミューター、エンブラエル機である(機内の安全パンフレットを見る限り、170型、ないし、175型だったらしい)。1時間程のフライトで、何もサービスされないうちにシカゴに着いたのだが、シカゴ到着の前には、南側からミシガン湖上空を飛んでシカゴを左手に見て通り過ぎ、左旋回して北側から空港に着陸するというコースだったので、左側の席からの眺望は何よりのサービスだった。
 シカゴでは、成田行きに乗り継ぐのだが、来たときと同じように国内線と国際線の乗り継ぎでは自分で預け荷物をいったん出すものだと思い込んでいて、手荷物受け取り所までかなりの距離を歩いていったのだが、しばらく待っても荷物は出てこない。そもそも、流れている荷物が極端に少ないし、荷物を待っている人もほとんどいない。おかしいなと思い、しばらくしてやって来たUAの荷物係の白人女性職員に尋ねると、チケットを見て、これは既に成田行きに移されているから、もうゲートへ行ってください、と言われる。この時点で、乗り継ぎ便の出発まで40分程しかなかったが、ゲートまではスムーズに移動できた。成田行きのUA便のゲートも、国内線と全く同じようになっていて、出国手続きが何もない状態で帰国便に乗り込む事になったのには少々驚いた。
 午後0時3分発のUA881便は、ジャンボ系の機材だったが、例によってエンターテイメントはなく、機内中央の席だったので窓からの眺望のなく、スクリーンを見るか、眠るしかする事がなかった。シカゴの時間で正午近くの出発だったので、機内食がすぐ出てくるのかと思っていたのだが、サーブされるまで正確には憶えていないが、出発から2時間くらいあっただろうか。眠ろうとしても眠れないので、退屈しのぎにスクリーンを見るしかないのだが、敢えてヘッドホンは使わず、中国語字幕のアメリカ映画を、ちゃんと分かりもしない中国語字幕をたよりに、ぼんやりと眺める。しばらくして食事が出て来たときは、正直うれしかった。その間にも、ミッキー・ロークが敵役で出てくる「アイアンマン2」や、よく分からないラブコメなどを、斜め読みならぬ、また断続視聴ならぬ(「聴いて」はいないので)断続視して、こんな話なのかと勝手に想像したり、少しでも休もうと考えてウトウトしたりして過ごしていた。やがてシカゴ=中部標準時で午後6時45分頃、日本時間午前8時45分頃、夕食にあたるのか、朝食なのか、「きつねラーメン」なるカップ麺が、アーモンド・クッキーとセットで配られた。とりあえず、油揚げの細切れが入ったラーメンである。それ自体も謎だが、これがアーモンド・クッキーと同梱されているというのが、日本人としては理解不能である。それでも、まずカップ麺を食べ、クッキーは後でおいしくいただく。
■ 2010/09/16 (Thu)
帰国

 このフライトはカナダを超え、アラスカを通り、日本へ向かうというコースをとっているようだが、窓際の席ではないので、何も実感がない。日付変更線をいつ越えたのかも、さっぱりわからないまま、日本に近づいていく。ちょうどアラスカ上空を通っているという事が意識されているのかいまひとつ分からなかったのだが、スクリーンでは「アラスカの謎と怪物」と題したドキュメンタリーというか、超常現象番組風のものが始まった。森の奥深く目撃される雪男、湖の底に眠る巨大生物、そしてカナダ上空で日航機がUFOに遭遇したとされる話、などを取り上げていた。小腹が空いたので、トイレに立ったついでに先ほどのカップ麺をまたもらう。その後も、パソコンをいじったり、またウトウトしたりしながら過ごしていた。だいぶ日本が近づいて来た日本時間午後1時50分頃に食事が出る。昼食になるのだろうか。食事が終わって片付けられると、程なくして着陸態勢に入ったのでパソコンを片付けた。着陸は予定通り午後3時少し前だった。
 預けた荷物を受け取って、通関し、アメリカン航空の事務所を探すことにする。最初は居合わせた警察官に聞いてみたのだが、分からないのでインフォメーションへ行くように言われる。幸いすぐ近くにインフォメーションがあったので尋ねてみると、到着した第一ターミナルではなく、第二ターミナルにカウンターがあるというが、インフォメーションではそこの電話番号は分からず、東京の事務所の番号しか分からないという。とりあえず、東京に電話し、成田の番号を聞き、成田の事務所に電話を入れると、(職員が常時いる訳ではない)第二ターミナルのカウンターに職員を出しておくので、無料連絡バスで来てほしいと言われる。指示に従って連絡バスに乗り、第二ターミナルに向かったが、この連絡バスに乗るのは初体験だったように思う。カウンターでは、荷物の把手の破損の件を、シカゴで出してもらった書類とともに提出し、修理の手配の段取りを教えてもらう。時間もあまりかからずに手続きが出来たのでほっとする。空港第二ビル駅から、午後5時過ぎの快速エアポートに乗り、錦糸町、三鷹で乗り継ぎ、国分寺に戻って来た。小雨が降っていたのと、荷物がたくさんあったので、まだバスが動いている時間だったがタクシーに乗って、アパートに戻った。チップも要らず、メーター通りの明朗会計である日本のタクシーが、割安に思えた。
(2010.09.25.掲出)

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