私的ページ:山田晴通

ダーバン〜シンガポール日記:2002年8月2日〜8月12日


 今回の旅行は、国際地理学会議地域集会への参加と、シンガポールでの資料集めが主な目的でした。
 ここでは、個人名等は伏せた形で掲出します。文中にある料金のうち、宿泊費は一人で泊まる場合の金額です。1ランド(R)は12円くらい、1シンガポール・ドルは70円くらい、1リンギットは35円くらいです。
 →写真のインデックス:当面は準備中となります
■ 2002/08/02 (Fri)
出発〜熱帯の鍋料理
 前夜は1時頃まで研究室で作業しており、それから車で帰途についたのだが、途中で眠くなって仮眠したりして、ようやく4時少し前に帰宅。
 それから風呂に入り、荷物をまとめる。荷物は、いつもの黒いリュック(機内持ち込み)と、オレンジ色のスポーツバッグにする。トリヨシの黒いTシャツのうえに、オレンジの半袖シャツを着て、5時少し過ぎに家を出、バスと電車を乗り継いで成田空港へ向かう。東海道線も総武線も空いていて、すぐに着席できたので、それぞれ終点まで熟睡していた。
 空港第一ビルを利用するのは久々という感じ。早めにチェックインしてしまい、出発の2時間以上前に搭乗ゲートまで来てしまった。まだ誰もいないので、ゲート近くにあった体を伸ばせる三人がけの椅子に横になり1時間ほど仮眠する。目が覚めるとそこそこ搭乗客が集まり始めているので、起きあがって座り直す。なお、ぼんやりしていると、A先生とH先生が一緒にやってきた。しばし歓談。
 11時半を回って搭乗。隣は夏休みの団体旅行と思しき中学生?という感じの子供たちだった。お互い顔見知りではないようで、ほとんど言葉も交わさない。きっとさっき空港で一緒になったばかりなのだろう。
 シンガポール航空SQ997便は、機体はB747-400だが、エコノミーでも座席ごとのモニターとインタラクティブなコントローラがついていて、結構いろいろ楽しめる。しかし、シンガポールまでは、もっぱら日経を読んで時間を潰す。
 まだ夕方というには明るいうちにシンガポール・チャンギ空港に到着。乗り継ぐダーバン行きの便は深夜便なので、A先生、H先生と一緒に町へ出る。今年初めに空港まで伸延された鉄道MRTに乗って、中心部のラッフルズ・プレイスへ行き、そのまま中心部を散策し、ラッフルズ・ホテルの前などを通ってブギス方面へ向かう。夕食は、ガイドブックにあった海南小厨で取る。スチームボート(炭火鍋)と揚げ春巻を注文したが、輪切りにされた状態で出てきた春巻きは、むしろシュウマイのような感じで美味しかった。
 ブギス駅の方へ向かい、SEIYUとPARCOを冷やかした後、インターコンチネンタルのラウンジで一服する。もちろん新しい建物なのだが、ラウンジの装飾はコロニアルな記号に満ちている。ウェイトレスはサイドスリットが切れ上がった裾の長い赤系の中国服が制服になっている。途中からピアノ演奏が始まったのだが、これがまあ絵に描いたような選曲(「マイ・ウェイ」「カサブランカ」「アズ・タイムズ・ゴー・バイ」といった曲が並べられている)で、妙に納得させられる。紅茶を頼んだら、ガラスのポットが小さな蝋燭つきで出てきた。目に涼やか、といいたいところだが、ついつい溲瓶を連想してしまう。
 MRTで空港に戻ったのは11時半過ぎだった。中心部から空港へ向かう便はまだあるのだが、空港から中心部への便はもう終わっていた。
 乗り継ぐシンガポール航空SQ406便は、ヨハネスバーグ経由でダーバンまで行く。ゲートへ行くと、他にも見知った同業者の先生方が何人か集まっている。乗り込むと、空席を挟んで左隣の窓際の席が、人文地理学会会長のI先生だった。今度はゲームのサービスに、もう何年もやっていない「上海」があるのを発見。久々に、眠たくなるまで(眠ってしまうまで?)熱中する。そのまま数時間は眠れた。
■ 2002/08/03 (Sat)
アフリカ上陸
 シンガポールから南アフリカは、西行きでこの間の時差が6時間ある。ヨハネスバーグには現時時間で朝の5時頃着いてしまうのだが、その前に朝食がサービスされた。ヨハネスバーグでは、再出発まで小一時間あるということで、運動のつもりで空港の中を少し散策する。一部の売店やカフェも、この早朝到着便にあわせて開店するらしく、準備をしているところだった(SQ406便は予定より少し早く到着した)。コーヒーを飲もうと思ったが、現地通貨がまだない。米ドルをもっていた先生は米ドルで払っていたが、こちらはクレジットカードが使えるかと聞いてみた。すると25ランド(300円くらい)以上ならということだったので、カフェラテとブラウニーを取る。いよいよカードで支払うとなって少々心配で見たいたのだが、機械はちゃんと動いていたようだ。ほっとしていると、カウンターにいる黒人女性の店員が、レシートにサインしろという。ペンは?と聞くとこちらの胸ポケットを指さすので、使い捨て万年筆を出してサインをしたところ、今度はその万年筆をよこせという。えっ?と思っているうちに、彼女はこちらの万年筆を取り上げて、自分がサインすべき所のサインを済ませ、涼しい顔で万年筆を返してくれた。これまでいろんなところでクレジットカードを使ってきたが、筆記具をよこせといわれたのは初めてだった。
 再度、SQ406便にもどり、一時間足らずの飛行でダーバンへ到着。まだ早朝というせいか、駐機している機体は数機だけで、ジャンボはSQ406だけだ。ジャンボにあわせた可動式通路の施設はなく、タラップで降機し、バスでターミナルへ行くことになる。ジャンボ機にタラップというのはほとんど記憶がない。タラップを降りるとさすがに半袖には涼しい風である。荷物を受け取り、さっそくセーターとフリースを出して身につけた。
 通関して外へ出ようとすると、IGCの出迎えのスタッフがいた。ただし、これは送迎サービスを利用する人を迎えに来たスタッフだとわかり、同じように送迎サービスを頼んでいなかったA先生、H先生と一緒にタクシーで中心部へ向かうことにする。3万円の現金を両替し、タクシー乗り場へ行くと、並んでいるタクシーの先頭ではなく、最後尾のタクシーに乗るように言われる。その通りにしたところ、我々が出発した後、前の車が順次バックしていた。
 タクシーの運転手は、肌が黒い南インド系か?という印象の無口な男性だった。車窓の景色の印象は、シドニーや北イングランドと大差がない。モーターウェイ(英国式の無料高速道路)ではどの車も百キロ以上のスピードで飛ばしている。驚かされたのは、トヨタのハイエースなど、ワンボックス車を改造して、20人以上が乗り込めるようにしている乗り合いタクシー(むしろミニバスといった感じ)である。後で見かけた新聞記事では、この手の「タクシー」はいったん事故になると死傷者も多く出る危険な代物だが、料金が安く、便利なものらしく、黒人たちがよく利用している。
 A先生とH先生の宿泊先である、当地最高級のロイヤルというホテルでタクシーを降り、正装した黒人のドアマンに迎え入れられてホテルに入り、16階のA先生の部屋へ行く。東京なら一泊数万円しそうなハーバービューの広い部屋である。それがインターネットで数千円で済んだというから驚きである。こちらの宿泊先は既に学会運営事務局が手配しているはずなのだが、連絡に行き違いがあったようで、まだどこなのかが判らない。昼頃まで一休みして、部屋の深椅子でしばしうたた寝させてもらう。
 11時半頃に、荷物をA先生の部屋においたまま、三人でホテルを出て、土曜日で市が立っている遊歩道沿いに明日からの学会の会場となるICC(国際会議場)まで歩いて行ってみる。途中に通り抜けた市場は売り手も買い手も圧倒的に黒人が多い(アフリカなのだから当たり前といえば当たり前だが)。遊歩道の途中にあるショッピング・センター「ワークショップ」の前では、市にあわせてイベントをやっているようで、子供が踊ったり、バンドが演奏したりしていた。遊歩道の外れでは、物乞いをする子供もいる。単純な物乞いもいれば、ポリタンクをスティックで叩いて芸を見せているつもりらしい者もいる。
 その後、今度は人気のない一角を抜けてICCへたどり着く。会場で、運営事務局のスタッフに宿を確認してもらうと、ちゃんととれているということで一安心する。会場からビーチへ向かう途中だというので、さっそくA先生、H先生にもつきあっていただき、シティ・ロッジという三階建てのモーテル風のところへ行く。事務局の白人女性職員が「この道を突き当たりまで行ったところで右折すると右側に見えます」というので、ブリックヒル・ロードまで行ったのだが、それらしい建物が見あたらない。所在地の表記を見直してみたら、何と目の前の「左折すると左側」の位置にそのホテルはあった。ああ、やはりここも大英帝国の一部であった。
 ホテルでは、午後2時からでないとチェックインはできないといわれ、ロビーで一服してから、ビーチへ向かうことにする。
 ビーチに沿うようにホテルやコンドミニアムが並んでいる小高い浜堤を越えると、低気圧の接近で波が高い海が見える。沖合には何隻もの外航船が停泊している。これが初めて見るインド洋ということになるが、厚い雲と荒れた波は、冬の北陸の海のような印象だ。
 冬のビーチは、ピアで釣りをする人々(ほとんど黒人と思われる)とサーフィンに興じる若者(見た範囲では白人ばかり)などはいても、人出は決して多くない。それでも、ビーチに降りてゆく直前の自動車道には、黒人のおばさんたちの露店がでていて、土産物類を売っている。中には、ハローキティやポケモンのキャラクターものの玩具まである。
 天候はときおり小雨がぱらつく曇天で、シーズンオフの宮崎か江ノ島か、などと話しながら、ビーチの遊歩道に面して店を構えるインド料理店で昼食を取る。この店は、コンクリートの壁面いっぱいに魚が海中を遊泳する様子などが(けっこういい加減に)描かれていて、このままボンダイ・ビーチにあっても不思議はないような雰囲気だ。A先生、H先生はカレー、こちらはグリーク・サラダと烏賊(カラマリ)の揚げ物を注文。ダーバンは南アフリカの中ではインド系の優勢な地域で、さすがにカレーのレベルは高い。カラマリとサラダも美味しく、シドニーでの食生活を思い出した。三人でビール代などを含めて150ランドくらいの勘定だったので、チップを乗せて170ランドを支払う。日本円なら二千円ちょっと。生協食堂並みの料金ということになる。
 ビーチに近いホリデイ・インでタクシーに乗り、ロイヤルに戻る。このタクシーも運転手はインド系だが、大変話し好きで、日本人だというと、(日本で廃車扱いになった)日本車を輸入して、こちらで整備し、内陸諸国に売りに行く商売が儲かるから、おまえも一口乗らないかという話になる。シドニーと同じで、こっちに定住するといい商売になるぞという「語り」である。ワンボックスの相乗りタクシーの話を聞くと、改造にいくらくらいかかるか、といった話になった。けっこう早口で数字が出てくるので、よくわからない部分もあったが、中古のワンボックス(廃車)をおそらく20万円くらいで買って、数万円かけて改造し、営業車に仕立てるらしい。いろいろ話しているうちに、ロイヤルに到着。メーターにチップを乗せて20ランド(250円くらい)をH先生が支払った。
 しばらくA先生の部屋で夕食の話をしてから、午後2時頃に荷物を持ってシティ・ロッジへ移動する。チェック・インしてみると、部屋(287号室)は2階の一番奥で正面から一番遠いのが少々面倒だが、かなりきれいで思いの外よい部屋だった。これで朝食付1泊5千円くらいだから、実に安いということになる。南アフリカは先進国ではないということだ。驚いたのは浴室と部屋の間のしきりが上下できるシャッターがあるだけの窓になっていて、ガラスも何も入っていないということだ。
 とりあえず、風呂を用意して入ることにする。靴下を脱ぐとゴムの位置がしっかりくびれていて、足がむくんでいたことが判る。浴槽に入ったままテレビが見えるのだが、ラグビーなどのスポーツか、余りよく判らないファッション番組などしかやっていないので、ラジオのチャンネル(画面には時刻が表示される)にして、East Coast Radio と Five FM などを聞く。結局、浴槽につかり、最後はシャワーを浴び、洗濯もしてから、荷物の整理などをする。
 長袖のシャツに着替え、午後4時半頃に宿を出て、ICCを経由して遊歩道沿いにロイヤルの方へ歩いてゆく。市はもう店じまいの作業をしており、店が出ていた当たりは、商品をしまう商人たちや、商品を台車に載せて車まで運ぶ者、残された商品を載せる台を折り畳んで片づける者、大型の掃除機(芝刈りした芝を片づけるときに使うような感じのもの)で掃除する者が入り乱れて立ち働いている。ワークショップの奥にある「ピックン・ペイ」というスーパーで、飲み物やマシュマロなどの菓子類を買う。そのスーパーの袋をぶら下げてロイヤルへ向かったら、シティ・ホール脇で、例の乗り合いタクシーの「車掌」役のお兄さんたちから手招きで客引きされた。海外旅行に出て、(観光客ではなく)地元の人間だと間違われるのは、セキュリティという意味ではよいことだが、何だか複雑な心境でもある。
 そのままロイヤルのA先生の部屋に行き、またH先生も加わった三人で、ホテルの一階にあるインド料理店「ウルンディ」で夕食を取る。ほうれん草と青バナナの揚げ団子といった感じの「コフティ」と、伝統的な「ダーバン・カレー」と称するラムのカレーを注文。濃厚でヨーグルトそのものに近いラッシーを飲みながら、本格的な味に舌鼓を打つ。本格的インド・カレーにジャガイモが入っているというところが面白い。とにかく量が多く、満腹になっても残っている分はテイクアウェイにしてもらう。もっとも、ここではシドニーとは違って普通にテイクアウェイができるわけではないようで、容器はなく、厳重にラップされたものが紙袋に入って持ってこられた。
 食後、しばらくA先生の部屋で三人で歓談した後、8時過ぎにタクシーでシティ・ロッジへ戻った。部屋では、しばらくラジオを聞きながらコーヒーを飲んで一服したが、時差もあり、疲れもあって、そのまま就寝する。
■ 2002/08/04/ (Sun)
マンデラの生演説を聞く
 朝は6時前に目覚める。外はまだ暗い。お湯をわかしてコーヒーを入れ、パソコンに向かって、日記をつける。デスクの脇の電源は各国のさまざまな規格に対応するようになっていて、そのまま電源を差し込めた。
 外が明るくなってきて窓から外を見てみたが、昨日の曇天が、続いており、雨も昨日よりはしっかりぱらついているので「インド洋の朝日」を見に行くことは断念する。そのまま、日記の文章を書いたり消したりしているうちに、思いのほか時間がかかり、9時頃、朝食に降りてゆく。なかなか充実したバンケットになっていて、朝から満腹になってしまう。
 11時を回ってから、背広に着替えて、フリースを羽織り、細かい氷雨の中を歩いてICCへ行き、参加登録を済ませる。こうした会議に付き物なのが資料類を入れた布バッグだが、今回のものは美術学校の学生が一つ一つ手書きで絵を描いたもので、同じものが二つないという前代未聞のものだった。日本地理学会会長と人文地理学会会長に、アフリカ研究のエキスパートのN先生が加わって立ち話をしているのに加わり、しばし環境科学の研究体制についての辛辣な話を伺う。
 12時を少し過ぎた頃にいったん市場を覗きに行くことにしてICCを出る。ワークショップの中のCD屋に入り、アラブ系?と思しき若い店員に何枚か薦めてもらってCDを買う。自分で選び出したレディスミス・ブラック・モンバゾと、正体不明の1960年代のジャズ?を加え、全部で9枚、600ランド弱の買い物だった。ワークショップの入り口に近いワゴンで、キャップとTシャツを買う。こちらは合わせて125ランド。さらに市場の外れで、土産用のニットキャップを買う。55ランド。
 2時頃会場に着くと、入場の列が大変な渋滞状態になっている。しばらく脇のベンチに腰掛けて荷物の整理などをする。そろそろ列が終わりかけてきたので最後尾に付くと、A先生たちの一行が少し前にいた。空港と同じような金属探知機を通り抜けて会場にはいると、余興のダンスをやっているところだった。開会のセレモニーが始まり、まずネルソン・マンデラ氏への「地球と人類」賞の授与が行われた。マンデラ氏のスピーチは、ユーモアもあるが、何といっても迫力がある。マンデラ氏の退場後、IGU会長のアン・バティマー女史がアレクサンダー・フォン・フンボルトについて講演した。脇で資料提示の操作をしているのは、わが師匠のT先生(IGU副会長の一人)である。会長講演が終わったところで、A先生たちと一緒に退席し、夕食時に合流する段取りをつけてから、一人で歩いてシティ・ロッジへ戻り、買ってきたCDをさっそく聞いてみる。
 6時を回り、レセプションとして開かれたカクテル・パーティーに合わせてICCへ行ってみると、T先生をはじめ、けっこう日本人の知り合いが来ている。しばらくいろいろな人(といっても日本人ばかり)と話をしているうちに、A先生との待ち合わせの時間が近づいてきた。結局、電話を入れて今日は合流しないことにしてもらった。そのままパーティー会場に8時過ぎまでいて、潮時を見てホテルに戻った。
 本当は明日の発表の準備をしたいところだが集中力がわかないので、そのまま風呂に入ってから寝てしまった。
■ 2002/08/05 (Mon)
何とか発表を終える
 夜中にいったん目が覚め、1時頃から発表資料の確認などをする。その後また明け方に3時間ほど寝て、結局7時過ぎに起きて、8時頃朝食をとる。
 午前中は、ドイツの都市関係の発表を二つほど聞いたが、自分の発表を午後に控えているせいか、なかなか集中して話が聞けない。英語がすんなり頭に入ってこない。
 気分を変えてICCを出て、中央郵便局へ行き、切手を買い、さらにワークショップの文具店で新聞と絵はがきを買ってきた。その後、しばらく控え室になっているポスター・セッションや、ブースのある広い部屋に陣取って、入れ替わり現れる日本人参加者と雑談する、さらに2階のカフェテラスでお茶とケーキをとって絵はがきを少し書いて気を紛らわせてから、午後2時からの「情報社会と地理」コミッションのセッションに臨んだ。
 自分の発表は4本目で、午後3時から始まる。いつものことだが、いったん話し始めれば何かが憑依したようなものなので、心配も緊張も何もない。何とか形が付いて話を終えることができた。
 その後も、休憩を挟んで「情報社会と地理」コミッションの後半に参加し、そのままビジネス・ミーティングに参加し、その後も(公式行事の市長主催レセプションではなく)コミッションのメンバーでの夕食会に行くことにした。いったん自分のホテルに戻った後、集合場所のヒルトンへ行き、そこから市街地の北の方へタクシーで向かい「vintage」というインド料理店で会食した。
 会食の後は、タクシーでホテルに戻る。疲れがどっと出た感じで風呂も用意せず、そのままベッドに入る。

発表要旨
■ 2002/08/06 (Tue)
学会を楽しむ
 今朝も7時過ぎに起床。早めに朝食に降りて行き、中庭の戸外の席に座る。風があってやや肌寒い中だったが、気持ちよく朝食をとる。朝食を取りながら、また絵はがきを書く。
 部屋で荷物の整理などをしているうちにICCへ行くのが少し遅くなり、発表を聞く気はなくして、控え室の書店のブースで買い物したりする。その後、自分の発表が終わったというK先生とワークショップまでワインを買いに行き、そこで別れてさら旧駅跡のインフォメーションに立ち寄って、その先の商業地区を歩いてみる。結局、しばらく歩いてからタクシーでホテルに戻り(エントツで走って「2ドル」と請求された)、日本円を用意して再度ホテルを出、銀行で両替してからICCへ向かった。すぐまた、書店のブースで買い物してしまう。どうやら現金があると使ってしまうようになっている。
 その後は、D氏につきあって人口移動関係のセッションを回ってみる。変なプレッシャーなしに、素直に話を聞いているせいか、質問もできたし、いろいろと勉強になった。6時を回り、たまたま最後に出たセッションで座長をやっていた日本人のM先生がシティ・ロッジで同宿だということで、一緒に宿に戻り、荷物を置いてICCでのバンケットに戻る。テーブルは記名式だったのだが、それに気づかず参加予定者の中で最後に記名したため、選択の余地はなかった。しかし、たまたま英国人のM先生と同席し、知遇を得ることができて幸運だった。
 食後は早めに会場を退席し、ホテルに戻ったが、10時前だというのにかなり眠たいので、今日も風呂にも入らずベッドに潜り込む。
■ 2002/08/07 (Wed)
ダーバン市内を歩く
 午前7時半過ぎに起床し、目を覚ますために熱めの風呂に入る。朝食を手早く済ませて、9時少し前にヒルトンへ行き、N君と一緒に中心市街地を歩く。出発の際にホテルのフロントで、どのあたりは歩いて大丈夫かと聞いてみると、これから行こうとしている一番の繁華街も「昼でも個人的にはお勧めできない」などと言われてしまう。とりあえず、気を引き締め直して、ワークショップを経て、コマーシャル・ロードの商業地区一帯を回り、さらに旧駅跡のインフォメーションで、地図類などを買う。10時半頃ICCに戻り、今度はD氏と合流し、二人で、まずアパルトヘイト時代の風俗などを展示した博物館へ歩いて行く。その後、ワークショップで買い物をし、郵便局へ行ってD氏の荷物を小包で発送する。さらに、コマーシャル・ロードからナタール湾側の海岸道路を経て、シティ・ホールの近くまで戻ってタクシーを拾い、ICCに戻る。
 ICCのロビーで今度はH先生が、タクシーで市街地を一回りするというので、便乗させてもらうことにする。モーニングサイドの超高級住宅街や、港湾地区を含め、あちこちの光景をデジカメに納めた。
午後4時半頃、ICCに戻り、しばらく控室で紅茶をもらって一息入れてから、閉会式に臨んだ。閉会式後、H先生、D氏とどこで食事をしようかという話になり、学会会長のN先生らが行くという日本食レストラン「DARUMA」(ホリデイイン・エランゲニの中にある)へ行くことにする。M先生やN君たち、都市地理のグループや、昨日のバンケットで同席したアメリカ人のグループも偶然同じ店に来ていた。
 10時頃、タクシーでH先生のホテルを経由して、D氏の泊まっているヒルトンに戻る。バーでブルースともロックともつかないバンドの演奏を聴きながら、しばし気を休める。後からN君も合流して雑談。11時になって、歩いて宿に戻る。
 ようやくIGCが終わった。宿題もいろいろできたが、自分が研究者の端くれだということを感じられる4日間だった。
 部屋では、今日も風呂を用意する気にもならず、すぐにベッドに入った。
■ 2002/08/08 (Thu)
早朝のビーチへ行く
 朝は5時過ぎに起きて、風呂に入り、6時頃「インド洋の夜明け」を見ようと、まだ暗い中をビーチまで出かけた。しかし、この時期は、いつも東方の海上に厚い雲が立ちこめているようで、結局、朝日は拝めなかった。それでも、未明からエクササイズ的に散歩する人たちや、冬だというのに海に入る人たち(寒中水泳?)、白人のサーファー、突堤の先の釣り人、何をするでもない白人の若者たち、そして黒人の清掃人や作業員、その他いろいろな人たちがビーチを行き来していて、それを見ているだけでも面白かった。
 6時半過ぎにホテルに戻り、部屋に戻る前に朝食を済ましてしまう。S先生と同席。部屋に戻って、荷物を整理し出発の準備をする。スポーツバッグも、持ち込む黒いバックパックも結構重くなってしまった。7時40分頃にチェックアウトを済ませて、徒歩でヒルトンまで行き、ちょうど8時頃にN君の部屋を呼び出す。荷物をいったんN君の部屋に預けて、8時20分頃から二人でワークショップ周辺へ最後の買い出しに出かける。途中は別行動をして、市場でお土産の装飾品などを買う。
 10時少し過ぎにヒルトンへ戻って、N君がチェックアウトし、一緒にタクシーで空港に向かった。途中、大会期間中にブースを出していた書店「アダムス」のメインの店へ立ち寄り、タクシーにN君を乗せて待たせたまま、大急ぎで本を買う。タクシーの運転手は、黒人女性だったが、その後は快調にモーターウェイをとばして、10時40分頃には空港に着いた。チップを多めに渡す。空港の売店で、残ったランド紙幣で、地元のラグビーチーム、シャークスの公式キャップを買う。乗り込む直前に自宅に電話を入れたが、子供たちは実家の方にいっているらしい。
 ヨハネスブルグで、いったん降機し、さらにマンガやお土産を買い、実家に電話する。再離陸後は、最後尾のトイレに近いドアの窓から、乾燥した冬季の大地を観察する。結局、インド洋上に抜けるまで、天候に恵まれてすばらしい景観を楽しんだ。今日は東行きのフライトなので、夜は短い。早めに寝ようとしたのだが、なかなか熟睡はできない。座席の画面で遊べる「上海」に興じたり、シンガポールのガイドブックを読んだりしてシンガポール時間の午前2時頃まで起きていた。
■ 2002/08/09 (Fri)
シンガポール建国記念日
 シンガポール時間の朝5時頃から朝食が配られ、しっかり起きることにする。6時過ぎに到着、4時間ほどで関空行きに乗り継ぐN君と一緒に、街へ行くことにする。N君は手荷物を空港で預け、7時過ぎに市内へ電車(MRT)で向かう。
 中華街に近いオートラム・パーク駅で降りてタクシーに乗り、中華街の外れの安ホテルが並ぶ一角へ行く。一泊60ドルの「トロピカル」に泊まることにして、荷物を預ける。近くの食堂でN君と朝食に麺を食べる。それから中華街の市場を手始めに、歩き始めたのだが、途中で体調が思わしくなくなってきた。とにかくラッフルズ・プレイスまで一緒に歩き、MRTで空港に戻ってN君を見送る。
 しばらくロビーで休んでから、戦時中に英連邦軍の捕虜(おもに豪州兵)を収容したチャンギ監獄で、捕虜たちが作ったチャペルを保存している「チャンギ・チャペル・アンド・ミュージアム」へ行くことにして、タクシーに乗った。ところが、白髪を短く刈った華人の老運転手は「今日は建国記念日だから、博物館は休みだ。ホテルはどこだ、そちらまで行く。」という。既に走り出してしばらくしていたので、中心部までタクシーで行くのは馬鹿馬鹿しいと思い、近くのMRTの駅まで行ってくれというと、結局、ベドック駅で降ろされ、メーター表示が7ドルちょっとのところを、税金が別に要ると言われて11ドルあまりを請求される。おかしいとは思いつつ、チップはのせずに言われた額を支払った。高々数百円のことで、嫌な思いを増幅させることはない。
 気を取り直し、ベドック駅から、目的地に一番近いと思われたシメイ駅(駅前の商業ビルにはベスト電器が入っている)までMRTに乗り、そこでタクシーを拾った。その運転手は、「ミュージアムの場所は知らないがチャンギ監獄の近くかな」といいつつ、まず現在の監獄のゲートまで行き、そこの守衛に道をきいて、ともかく無事に送り届けてくれた。結局、僅かな釣りはチップにして、5ドル支払った。このあたりは、もともと開発が遅れていた地域(だから監獄などもある)なのだが、途中はずいぶん立派な日本人学校の前や、豪華な低層コンドミニアムの並ぶ通りを通った。
 チャペルの祭壇は簡素な木製だが、きれいに修復保存されており、屋外の現役の礼拝施設になっている。それを囲んでコンクリートの壁(監獄を意識させる)で囲まれた回廊があり、それが展示スペースになっている。展示の内容は量的には大したことはないが、写真類は興味深いものがいろいろあった。回廊の最後のショップでは、関連した本を何冊か買った。
 帰りは、博物館の職員に教えたもらった26番バスで終点のタンピネス駅(駅前の商業ビルには伊勢丹が入っている)まで行き、MRTでタンジョン・バガー駅へと戻り、午後1時過ぎに宿にたどり着いて、チェックインした。1階の窓のない小部屋だが、小ぎれいであることは間違いない。韓国の安宿を思い出した。
 部屋に冷房を入れて、一息してから、近くの中華街の散策に出る。午前中に開いていなかった店がにぎやかに商品を並べて居るので、いろいろと安物の衣類をひやかしてみる。そのまま、ずっと歩いて、シティ・ホールまで行き、ラッフルズ・シティから地下街などを見て回る。パシフィック・コーヒー・カンパニーというスターバックス風の店で一休みし、店のキャップを土産に買う。隣の書店も覗いて、シンガポール関係の書籍をいろいろ見てみたが、結局今日は買わないことにした。ペニンスラ・プラザの近くで現金1万円を145ドルに両替してから、今度はバスで中華街に戻り、さっき見てきた店を回って気になっていたシャツなど安い衣類を買って回る。今日は、建国記念日(37周年)というだけでなく、中元(=お盆?)らしく、中華街のあちこちでは、迎え火なのか、送り火なのか、道ばたにお供えをして蝋燭を灯し、玩具の紙幣などを燃やしている光景をよく見かけた。
 宿には7時頃に戻ったのだが、テレビをつけてみると、建国記念日の記念行事の生中継を三つのチャンネルで、別々の言語でやっていた。疲れに、時差ぼけも重なったのか、一時間あまり、ベッドで熟睡する。ちょうど行事中継の終わる8時頃に目が覚め、そのまましばらくだらだらしていた。
10時少し前に、さっき買ったばかりの半袖のシャツを着て宿を出て、近所を歩いてみる。外へ出ると、結構営業している店がある。再開発され高層ビルになった一角と、古いままの家並みの境にある角の食堂でラクサを食べ、さらに隣でレモンティーの缶を買って飲む。3ドルちょっとの夜食である。
 部屋に戻ってテレビを見ながら、少し荷物を整理する。
■ 2002/08/10 (Sat)
ジョホール・バルで散髪
 朝は6時前に一度目が覚めた。何しろ窓がない部屋なので、昼か夜かも判らない。枕元に置いたiBookを起動して時間を確認するという悠長なことをする。
 それからテレビをつけ、もう一度眠り、8時少し前に起きてシャワーを浴びる。それからは手早く身支度して、歩いてMRTのオートラム・パーク駅まで行き、ブギス駅まで乗ってから、ジョホール・バル行きのバス(星柔急行)の乗り場まで行く。途中でレモンティーのペットボトルなどを買い、屋台同然の切符売り場で2ドル40セントの片道切符を買ってすぐにバスに乗り込んだ。およそ30分ほどでシンガポールの出入国管理事務所へ到着し、そこで下車して出国手続きをする。手続きが終わってから、再度バスに乗るために乗り場に降りてゆくのだが、そこでの列が長かったので、徒歩で対岸に渡ることにして、歩道の方へ降りてゆくことにした。
 シンガポールとジョホール・バルの間は、昔は海峡だったはずだが、現在では堤が築かれ、その上を道路・鉄道・水道の送水管が走っている。長さは大したことはないが、何しろ生まれて初めて歩いて国境線を渡ることになるので、少々緊張しながら幅の狭い歩道を、時々カメラを構えながら、歩き渡った。ところがどうしたことか、マレーシア側の入国事務所への案内を見落としたらしく、歩道が行きどまってしまった。少し戻って、バイクの入国手続き窓口にいた係員にどこへ行けばよいのかを聞いてみるのだが、要領を得ない。とりあえず、交代時間になった係員の一人についてこいと言われて、数車線ある車道を堂々と歩いて横切り、今度は自動車用の窓口の係員に聞いてみろということになった。すると、少し先のバスの発着所まで行けと言われ、さらに車道を歩いて少しシンガポール側に戻り、また車道を歩いてバスの降車場にたどり着いた。
 ところが、ここからが長蛇の列。長い長い列がなかなか進まない。結局、自分の番が来て判ったのだが、この列を担当していた女性は、トレイニー(実習中)だったようで、隣の列よりも一人にかかる時間が長くなっていたのである。ともかく入国管理を抜けるともうそこは出口でタクシーの客引きなどがいる、、、、と思ったところで、入国カードに、最近アフリカへ行って来た者は検疫に申告しろと書いてあるのを思い出したが、果て、そんなオフィスはあっただろうか。少し戻って、制服姿の職員に聞いてみると、とりあえずこっちへ来いと言われて、税関の事務所に入る。検疫所はどこ????と聞くのだが、向こうも困っている様子だ。結局、検疫所はないらしく(ええっ?)、入国カードの紙片の一部だけを、これは税関用の書類だから、といってとられただけだった。ということは、わざわざ検疫のことを尋ねに行かなかったら、税関の申告書も自分で持ったまま入国していたことになる(実際、ほとんど人はそうなっているのだろう)。
 ともかく、これでマレーシアに入国した。時間は10時半を回っていた。
 出入国管理事務所を出てすぐ目の前の地下道を降りて、まっすぐすすみ、ジョホール・バル市街の方へ行く。途中で適当に左折し、商店街を少し見て回る。両替商で日本円5000円を150リンギットに交換、インド系の商店などが並ぶ一角を通って、郵便局へ行く。中央郵便局だからなのかイスラム教国だからなのか、とにかく普通に窓口が開いている。切手とエアログラムを買い、昨日シンガポールで書いたハガキを投函する。日本へのハガキは50セン(1リンギットの半分)で届くそうだ。
 市街地の方へ戻り、ヒンドゥ教寺院の後ろにそびえる、イスラム系と思しき「プラザ・コトラヤ」という商業ビルに入る。外を歩いていると、日陰でこそ少し楽になるが、とにかく日差しの強さがたまらない。汗を滝のようにかいた状態になると、こうした大きなビルの冷房が本当にありがたい。アトリウムを見下ろして4フロアが商業施設になっているが、途中に書店があるのを見つけ、地図と人名に関する英語の解説書を買う。1時になったので、同じビルの中の食堂で、牛肉河粉(Kuih Toew)なる食べ物を食べる。これは牛肉の生姜煮ソースをきしめんにかけたようなものだ。飲み物と税金などで9リンギット弱だった。
 すっかり落ち着いて冷房で体を冷やしてから、意を決して外へ出て、なかなかの威容を誇る州政府庁舎の前の坂を上り、丘の上にあるプテリ・パン・パシフィック・ホテルへ入った。ここは、ジョホール・バルでは最高級と思われるホテルだ。一階のバー・ラウンジの13番の席を占拠してソファーに沈み、ほっとする。熱いコーヒーにアイスクリームなどをのせたものと、ペリエを注文し、ロビーに行き交う人をぼんやり眺めながら、エアログラムを書く。注文したコーヒーとペリエはすぐに出てきた。これを飲みながら、少しぼんやりして、またうたた寝もする。結局、3時頃まで、1時間以上この席に陣取っていた。途中でトイレに立ったついでに、売店で絵はがきを一枚買った。ここでは、朝日や日経の衛星版も売っている。
 3時を回ったところで、席を立って支払いをする18リンギットと言われて50リンギット札を出したら、そこにいたウェイターは、わざわざフロアの反対側にあるレストランの所まで釣り銭を取りにいった。いったん釣り銭を受け取った上で、ここではチップは要らないのか?と聞くと、笑って要りませんよといわれたので結局そのまま何も出さずにホテルを出た。
 坂を下りて、インド人街へ戻り、散髪屋に入ってみる。実は床屋に入るのは、オーストラリアから帰国する直前の3月に、シドニーのチャイナタウンで髪を切って以来だ。店には、インド系と思しき3人の理髪師がいた。やや背の低く小太りの若い男が担当になった。短くしてくれと言うと、結構大胆にバリカンを入れ、その上で丁寧にハサミを入れてくれた。髭は刈りそろえるだけでよいと言ったが、一通り散髪が終わったところで、最後の仕上げにカミソリ(ちゃんと新しい刃を付け替える)でいきなり後頭部を、クリームなど何もなしで、ザクッザクッという感じで仕上げられた。8リンギットだというので、チップをのせて9リンギット渡す。
 床屋の近くの店で、そこにあった新聞を一通り買ってみた。英語、華語、マレー語、タミル語と4カ国語がある。全部で10リンギットちょっと。帰りはバスよりも鉄道の方がよいと思い、歩いて駅へ行ってみると、シンガポール行きの列車は一日に6本しかないことがわかった。既に4時になっていたが、4時37分発の切符を売り始めたところだというので、そのままシンガポールへ戻ることにして切符を買った。2リンギット90セン。発車の12分前から出国事務所が開き、入国カードの半券が見あたらなくなるというハプニングで一瞬慌てたが、大したことはなく、無事出国手続きをして、列車に乗り込んだ。
 午前中に歩いて渡った歩道と反対側の東側を列車で走りながら、しばしジョホール水道の光景を楽しむが、あっという間にシンガポール側のウッドランド・チェックポイントに到着、ここで全員が下車する。あらかじめ入国カードを用意していなかったので入国手続きに手間取り、グループの最後に近い感じでプラットホームにもどる待合いまでたどり着いたら、ゲートが開いてホームへ進めるようになった。列車の方はさっき停車した位置から動いていないので、列車の先頭を前から見ることになる。ここで一枚撮っておこうと考えてリュックを探り、さっきの入国カードを記入するところにカメラを忘れてきたことに気づいた。大慌てで戻り、途中の警備員にエスコートしてもらって入国カードの記入台まで行くと、幸いカメラはそこにあった。列車も目の前だ、ところが、入国の際のゲートはもう封鎖されているので、ぐるっと回って行かなければならない。慌てて駆けて、途中は走りながら警備員にカメラが合った、ありがとうと礼を言いながら、プラットフォームに出ると、既に誰もいない(全員乗車して、待っているわけだ)。今度はカメラを構える余裕もなく、一番前の客車(列車の三両目)に飛び乗った瞬間、汽笛が鳴って列車が動き出した。
 ここからの車窓景観は、森の中を通る感じで少し単調だ、走って疲れたせいもあるのか、すぐに瞼が重くなった。ようやく市街地になってきたかと思うと、シンガポール駅に到着。あっさりしたものだ。駅は端頭式でプラットホームは対面の二本だけ。我々を乗せて到着した列車は、早速機関車を切り離して回送用の線路に入れ、反対側に付け直す作業を始めていた。到着は5時半頃。
 駅からは、あえて地図を見ずに、見当をつけて歩いてみた。何とか、あまり無駄に歩くこともなく宿に帰着したのは6時を少し回った頃だった。早速、汗だらけの服を脱ぎ、シャワーを浴びて頭を洗う。
 そのまま、しばらくテレビを見ていたが、そのまま一眠りする。目が覚めたのは夜中の12時近くだった。切手を買おうと思い立って、近くのセブン・イレブンへ行ったのだが、国内用の切手しかないと言われ、そのまま何も買う気がしなくなり宿に戻る。それから2時近くまで、荷造りをする。とにかく重たい荷物になった。それから、改めて部屋を真っ暗にして就寝する。
■ 2002/08/11 (Sun)
贅沢な日曜日
 朝は6時前に起き、昨晩作った重い荷物を持って、宿を出た。半ば途方に暮れながら、荷物を肩に載せ、休み休み歩きながらMRTのオートラム・パーク駅へ到着した。ここから空港まで行くのだが、朝早すぎるのか、空港行きがなかなかこない。ようやく6時半過ぎに来た空港行きに乗り込み、空港へ7時15分頃に着いた。ここでとにかく疲れていたので、朝食を取ろうとしてコーヒーショップに入ったのだが、注文したクロワッサンのサンドイッチがなかなか出てこない。ばたばたしているうちに時間を食い、荷物を預けたのは8時近くになっていた。これでは、A先生、H先生との待ち合わせに間に合わない。先方のいるマリーナ・マンダリン・ホテルに電話をかけてみるが、間違った番号にかかってしまう。遅くなるのを覚悟して、MRTでシティ・ホールへ向かう。ところが、駅からホテルまででまたまたとんでもなく迷い、ようやくホテル4階のレセプションにたどり着いたのは9時過ぎで、お二人は出かけられた後だった。仕方なくメッセージを残して、数時間ごとに様子を見に来ることにする。
 とりあえず、地下道のシティ・モールへ降りて、一昨日にも休んだパシフィック・コーヒーで一休みし、隣の書店が10時に開店するのを待って、そちらをしばらく見て時間を潰す。11時頃になって、再度マリーナ・マンダリンへ行くが、まだ両先生は戻っていない。今度は、徒歩でラッフルズ・ホテルを見学に行く。正面から入るのは気が引けたので、裏のショップがある方から中庭などを見て回る。なるほど、なるほど、という感じ。昼近くになって小腹が空いてきたので、ラッフルズ・シティの方を経由して、 再びシティ・モールへ降りて行き、さっきとは別の喫茶店で紅茶とブルーベリー・チーズケーキを食べる。1時を少し過ぎて、再々度マリーナ・マンダリンへ行くが、また空振り。今度は、ホテルの目の前、サンテック・シティから出ているシンガポール航空提携の市内観光バス「ホップ・オン」が目に入ったので、これに乗ってみることにする。ちょうど一台が発車し、次の便まで30分ほどあったので、サンテックシティを駆け足で見て回り、幸運の噴水なる巨大な噴水を見てきた。
 一回りして戻って見ると、ちょうど「ホップ・オン」の乗車が始まるところだったので、3ドルで切符を買ってこれに乗り込む。ぐるっと一周して、自分の宿の近くのヒンドゥ寺院の前などを通り、植物園まで行き、さらに戻ってくるというルートを、途中の休憩を入れて1時間あまり乗っていた。元に戻る少し前の、リトル・インディア(印度街?)で下車し、次の便が来る30分後までというつもりで、ざっと見て回る。急いでいたこともあり。ここでは何も買わなかった。予定通り次に来た便でサンテックに戻り、マリーナ・マンダリンへ行くと、A先生が部屋に戻られていた。構内電話で話をして、5時過ぎに合流するということになり、それまで時間を潰そうと、再度ラッフルズ・ホテルへ向かった。
 現在のように、全てスイート、一泊三万円くらいからという形になる前から、シンガポール一の格式を誇ってきたホテルとあって、貧乏旅行者然とした格好では気が引けたが、とりあえず正面の車寄せの方へ行ってみた。堂々たる体格のターバンを巻いたインド人のドアマン(というか、ドアは開いているので、こういうのは何といえばよいのか)が、こちらを見て何か用かという素振りを見せたので、「日本人の貧乏旅行者だが、ラッフルズは何といってもシンガポール一なので、泊まれないまでもハイ・ティーをとろうと思ってやってきた。ホテルのどこへだったら、今の格好でもゆけるだろうか、教えてくれ」と言ってみた。こちらの格好は、野球帽に半袖の襟付きシャツ、下はジーンズにスニーカーである。すると彼は、「このホテルでハイ・ティーなら一番いいのは「ティファイン・ルーム」だが、普通は予約がいるんだ」と言い、とりあえずついてくるように促した。そこで、のこのことホテルの中へ入り、正面突き当たりの左手にある一角までいった。件のインド人の門衛は、そこの受付にいた責任者らしき若い華人系のマネージャーに、二言三言掛け合ってくれた。結局、一人だけかと念を押された上で、入り口に一番近い(ビュッフェから一番遠いという意味では余りよくない)席につくことができた。目の前が受付なのだが、後からやってきた客がことごとく「予約がないとだめ」と言われていたところからすると、実に幸運だったとしか言いようがない。ゆっくり紅茶を飲み、サンドウィッチとケーキとフルーツを存分に食べ、さっき書店で買った本を読みふける。実に贅沢な時間だ。結局そのまま、本を読みつつ、5時近くまで居座っていた。代金は36ドル。もちろん高いが、夢の時間を買う価格としては安いものだ。帰りに正面から出て、さっきの門衛に、ほんのわずかでごめん、といいながらチップを2ドルだけ渡した。向こうは商売だろうが、実にいい笑顔で受け取ってくれたのが気持ちよかった。
 マリーナ・マンダリンでは、A先生、H先生を待つ間に、カフェ・ラテのグラッセのようなものを進められるままにとった。ちなみにこれは、18ドル。これからしてもラッフルズの40ドルは安いものだ。合流した後、3人で、ラッフルズへ行き(戻り)、今度は裏側の二階にある「ロング・バー」へ行く。両先生のお目当ては、発祥の地でたしなむシンガポール・スリングである(もちろん、現在の「ロング・バー」の位置は、20世紀初頭とは異なっている)。こちらはビター・レモンでお相伴だが、つまみで置いてある殻付きピーナッツの殻をそのまま床の上に落とすのがここの流儀らしく(結構意外)どの席の下にもピーナツの殻が散らかっている。バーカウンターにも、客のいるところ、さっきまでいたのであろう所には、ピーナッツの殻が堆く積み上がっている。当然、冷房が利いているが、天井にはゆっくりと扇子を動かす仕掛けがあったりして、その演出されたレトロさがシンガポールらしい。しかし、流れている音楽は、ぺらぺらの、パラパラ風のテクノである。う〜ん、と考えさせられてから、店を出ると、中庭のどこかから、生演奏でギターの弾き語りをしているのが聞こえてきた。そうこなくっちゃと一瞬思ったが、よく聞くと、「雪が降る」を歌っている。まさかシンガポールで聞くとは思わなかった。ぼんやりしていると、何と、日本語で歌い出したではないか。ひょえー。こういうのも、ポストモダンとか、後期資本主義というのだろうか。
 ラッフルズを出て、7時に予約をしてある、オリエンタル・ホテルの中華レストラン「チェリー・ガーデン(櫻桃園)」へ行く。客はわれわれの他に、もう一組日本人の一家がいるだけだ。ピークの時間が違うのかもしれないが、大丈夫かなと少々心配になる。値段は一人60ドルちょっと。こんなものかな、という域を出ない感じだった。さっきのハイ・ティーで満腹になっていたのも災いしたといえるだろう。結局、9時半頃にマリーナ・マンダリンで両先生と別れて、MRTでオートラム・パーク駅まで戻り、少しだけ遠回りして店を冷やかしてから宿へ戻った。
 しばらくテレビでニュースを見てから、ハガキを書き、この日記を書いているうちに12時半になる。明日のモーニング・コールは6時に頼んであるのだが、早く寝なければならない。
■ 2002/08/12 (Mon)

帰国
 朝5時少し過ぎに目が覚め、シャワーを浴びて、荷造りと身支度をする。6時過ぎに自動発信のモーニング・コールが来たのを機に、宿をチェック・アウトし、MRTのオートラム・パーク駅まで行き、昨日と同じ時刻の便で空港に向かう。途中でうたた寝をしているうちに、ふと気付くと列車が止まっている。どうしたんだろうと思って、よく見回したら、とっくに終点の空港についていたのだった。
 駅から出発ロビーへ上がって、外を見ると、まったく気付かないうちに雨になっていた。街を歩き回っている間に雨に遭わなかったのは幸運だった。昨日預けた荷物を受け取り、何とか30キロ以内に収まるように、荷物を詰め直す。チェック・イン・カウンターで、もう少しならいいよといわれたので、またまた詰め直しをして、結局32キロほどを受け付けてもらった。機内持ち込みの方も、本来7キロのところ、倍近い重量になっている。一部を小包にしようかと考えていたのだが、結局こちらは重量チェックがなかったので、そのまま持ち込んでしまった。
 待ち合わせていたわけではないのだが、搭乗口へ向かう途中で同じ便に乗るA先生と一緒になり、H先生も少し後から加わって、空港のインターネット・サービスのコーナーで、十日分たまっているメールを、半分弱読み出した。
 9時20分ころに搭乗口へ向かい、そのまま出発、このフライトは、成田経由でロサンゼルスに向かう便である。
 機中では、また「上海」に熱中。ところが、先日とは違って、なかなかクリアできない。結局、成田に着く少し前に一回だけクリアできたのだが、本当にうれしかった。
 いよいよ成田に降下するときになって、これまで経験したことがないくらい、耳が痛くなった。シンガポールで冷房が強すぎて鼻風邪気味になったのがいけなかったのだろう。とにかく経験したことがないくらいの耳の痛みだった。
 成田到着後は、バスで帰宅されるA先生と別れ、京成で帰宅されるH先生と鉄道ロビーのスターバックスで一服。最後は、快速エアポートで帰路についた。

2002.08.13.掲出
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