私的ページ:山田晴通
[年記]:1998年を振り返る
このページは、12月30日から年が明けた1月7日にかけて少しずつまとめました。今年も、文章ではなく、「十大ニュース」を列挙するという形で、1998年を振り返ります。ただし、今年は、個人の1位と研究室の1・2位が、それぞれ飛び抜けて大きな出来事でした。
- 穂高町の旧宅の移転先探し/決定。(10月〜12月)
松商学園勤務の頃に住んでいた穂高町の家が、道路整備用地にかかり移転することとなった。そのこと自体は、一昨年来のことなのだが、この代替物件探しが具体的になり、秋以降は何度か現地へ出かけた。結局、ある彫刻家の作業場(工場)を譲り受けることになり、新年に入ってから引っ越し作業を少しずつ進めることになった。
- 妻が、インターネットを始める。(4月頃から)
前年に自宅にインターネット環境を整えたものの、しばらくは開店休業状態だったのだが、春頃から妻がネット・サーフィンやメーリングリストの活動に活用するようになり、自宅のメールアドレスは完全に彼女のものになった。
- 長男が、北海道を一人旅。(8月)
中学生の長男が、はじめての一人旅で北海道へ出かけた。もっぱら青春18きっぷを利用しての旅だったのだが、宿に関しては私が出張で泊まるビジネスホテルよりよっぽど良いところに泊まっていた。帰路は、集中豪雨の来襲にぶつかったが、最後は上越新幹線に乗って無事帰ってきた。
- 奥歯が欠ける。(1月)
正月休みのうちに、奥歯の金冠が外れ、歯が少し欠けてしまった。ところが、外れた金冠が行方不明になり、特に痛みもないので、ずるずると歯医者に行かないまま丸一年が経ってしまった。まずいまずい。
- うたごえ喫茶へ行く。(12月)
前から気になっていた新宿の「ともしび」へ、古くからの常連であるK氏の案内で出かけた(K氏とは、松江市の繁華街で、深夜、一緒に「インターナショナル」を高歌放吟した)。ある程度予想されたとはいえ、一種のカルチャーショックを受けた。「民族誌的現在」の誤謬を犯してはなるまいが、論じられるべきことがいろいろあるように思った。
- 初の個室寝台の旅。(11月)
生まれて初めて、個室の寝台列車に乗った。高松発のサンライズ瀬戸に横浜まで乗車したのである。そもそも寝台車にはあまり乗らないのだが、今回の旅は頗る快適だった。ただ寝過ごすのは恐い。次に寝台に乗るときは、終点まで行くときにしようと思う。
- JAFのお世話になりっぱなしの夏。(6月〜8月)
ふだんからJAFにお世話になることの多い悪質ドライバーの山田だが、この夏は、自分の車(ラルゴ)の鍵のとじ込み、クラッチ板の破損、ガス欠、さらに、妻の車を借りているときのバッテーリー不良と、立て続けにJAFのお世話になった。中央道でのクラッチ板破損のときは、同乗者が何人もいる状態で前輪を持ち上げて牽引されるという希有な体験をした。
- 「栄光フィル」がひと区切り。(4月)
山田の母校(栄光学園)の関係者で編成されている「栄光フィルハーモニック・オーケストラ」の定期演奏会が4月にあったが、長年指導してきた音楽科の沖喜先生が今年で引退ということもあり、活動に一区切りがつけられた。山田の父はホルン奏者として「栄光フィル」に参加してきたが、この演奏会を最後に本格的なアマチュア・オケの演奏活動からは引退した。
- 人生最後の長髪を切る。(6月)
大学の業務(父母の会)を機会に、前年8月から伸ばしていた「人生最後の長髪」を切った。髭の方は、その後また伸ばしている。
- サラ金の店舗に行く。(12月)
子細は省くが、生まれて初めてサラ金の店舗に足を踏み入れた。しかも、はしごである。もちろん自分が融資を受けたのではないが、いろいろなことを考えさせられた。
- 学部教務委員に指名される。(4月〜)
学部長の交代に伴う人事の玉突で、学部教務委員(学部教務小委員と共通教育センター教務委員を兼ねる役職)となった。任期は、前任者の残存任期で1年限りのことだが、思いの外いろいろな業務が付随してきて、こなしていくのが本当に大変だった。
- 日本移民学会の会計業務停滞。(4月〜)
3月まで、事務局を引き受けていた日本移民学会だが、4月以降は会計業務専門の事務局を引き続き担当することになった。ところが、他の業務の輻輳や、研究室の動員体制の不備から、業務を滞らせてしまった。何とか年末には態勢を立て直したものの、残務処理もあり年度末までは気が抜けない。ご迷惑をおかけした関係者の方々に陳謝する。
- パブリック・アクセス研究会の打ち上げ。(10月)
形を変えながら足掛け8年続いてきた、児島和人先生(専修大学)を中心とするパブリック・アクセス研究会が、NHKブックス『表現する市民たち』の出版を区切りとして解散ということになった。山田は、前身の研究グループから関わっていた古株だったが、大した貢献もせず、ほとんど一方的に勉強させてもらったようなものであった。児島先生はじめ、メンバーの方々の学恩に感謝。
- 国立音楽大学へ非常勤出講。(4月〜)
何と、国立音楽大学から講義の依頼が舞い込んだ。しかも「音楽学講義」担当だというではないか。ともかく引き受けて必死で講義をした。関連した行事への参加なども含めて、楽しい経験となった。
- 日本ポピュラー音楽学会理事に復帰。(11月)
以前、2期務めた日本ポピュラー音楽学会の理事に再選された。事務局を引き受けているため名が知られているというだけのことだが、改めて責任の重さを痛感している。
- geo メーリングリストを立ち上げる。(3月〜)
日本語による地理学関係の情報交換を目指して、geo メーリングリストを立ち上げた。事前の期待に比べれば、トラフィックは今一つだが、着実に参加者は増えており、年末には130名ほどになった。
- 日独地理学会で多摩ニュータウンを案内。(3月)
八王子の大学セミナーハウスなどで開催された日独地理学会で、多摩ニュータウン巡検の案内者を務めた。もちろん独語でではなく、英語でである。マイン・ドイッチェ・イスト・エトヴァス・ミゼラーブル...。
- 研究室内のネットワーク・システムを大幅変更。(6月〜9月)
研究室内に端末機が増えたこともあって、新たにメディア工房のスタッフにお願いして、研究室内のネットワークを組み直した。
- 久々に『新聞研究』に寄稿。(11月)
日本新聞協会編集部から声がかかり、7年ぶりで『新聞研究』12月号に「大不況下における小規模紙経営」をテーマに寄稿した。[テキスト]
- 1期生の卒業論文が提出される。(12月)
山田にとってコミュニケーション学部1期生で唯一の卒論指導学生である浜田君から、無事、卒論「都市型CATV双方向機能の利用実態」が提出された。
- 番外:田邉先生が、フランスから勲章を授与される。(12月)
山田の大学・大学院の恩師であり、現在は慶應義塾大学経済学部に所属する田邉裕先生が、フランス政府から「パルム・アカデミック勲章オフィシエ級」を授与されました。おめでとうございます。
(山田はこのレセプションで、恵比寿に移転して以来はじめて日仏会館に足を踏み入れました。)
山田が選んだ世間の「十大」ニュース
- 和歌山・保険金詐欺事件。
死者多数が出たカレー事件よりも、保険金詐欺の連鎖という全体の構図が、時代の膿を象徴している。
- 参議院選挙と橋本「財政再建」内閣の挫折。
小渕内閣などある意味ではどうでもよい。誤りはあったかもしれないが、ともかく理念を出そうとしていた、首相の言葉に力が感じられた内閣が、有象無象に足から何から引っ張られて倒れた、という点に、日本の現状が凝縮されている。
- インド、パキスタンの核武装。
北朝鮮のミサイル/ロケット技術開発も含め、第三世界への核/ミサイル技術の拡散は、21世紀の危険な世界(無)秩序の先駆けとなりそうだ。
- 米・クリントン大統領の不倫スキャンダル報道。
事件そのものより、プレスの報道ぶりや、ホワイトハウスの情報操作ぶりが興味深い。
- サッカーW杯と、その後のJリーグ・チームの経営危機。
信じられないほどの6月の熱狂と、フリューゲルスの消滅、ベルディ、ベルマーレの経営縮小。救いはセリエAにいった中田の活躍と、コンサドーレを選んだ岡田監督の決断だけか。
- プロ野球・横浜ベイスターズの日本一。
「大魔神」の社会現象化もすごいが、権藤監督の指導者としての魅力に注目したい。YBが横浜高校・松坂を獲得できなかったのは残念だが、ソーサが来た日米野球を含め、今年は野球が楽しかった。
- インドネシア政変。
日本にとってはイラクの戦闘よりよっぽど重大であるはず。
- 北野武の金獅子賞/黒澤明・淀川長治・木下恵介の死去。
今年だけがどうこうということではないが、日本人にとっての映画というメディアがもつ意味の転換を痛感させられる機会が多い年だった。伊丹十三はまた別だったが...。
- 銀行の大型整理。
北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行、日本債権信用銀行と、形態は様々でも銀行の大型整理が続いた。今さらという気もするが、やはり重大なニュースだろう。ついでに北海タイムスや大倉商事の倒産も記憶しておきたい。
- ビジュアル系の大ブレイク。
何語か判らない横文字名のバンドたちが、完全に(歌謡曲的な)メインストリームの一部となった。HIDEの死も、尾崎豊の変奏としてメディアに消費されていった。日本には、マイナーはそこそこいても、オルタナティブは稀なのだろうか。
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