年表1 戦前 | |||
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年号 | 「石巻日日新聞」関係 | 新聞関係 | その他 |
明治33 | 鎌倉恒蔵「千松島」創刊(月2回・明治44移転) | ||
40 | 山川清「牡鹿時報」創刊(月刊・明治44廃刊) | 小野田骨堂「牡鹿」創刊(月刊・?) | |
45 | 佐藤養吉「牡鹿時事新報」創刊(旬刊・大正4廃刊) | 石巻・小牛田鉄道開通 | |
大正元 | 山川清「東北日報」創刊(日刊・間もなく休刊)所在地・裏町 | ||
2 | 「石巻日日新聞」に改題 西条芳三郎社長就任 | ||
3 | 一時解散 米倉清五郎社長就任で再建 仲町移転 | ||
4 | 松川鉱四郎社長就任(佐藤露紅・佐々木泰治との共同経営) | ||
5 | 「河北新報」石巻支局開設 | ||
6 | 佐々木泰治退社 | 山田保社長、佐々木泰治主筆「日刊宮城」創刊(日刊・?) | |
9 | 石巻文化協会結成 この頃協会に招かれ荻原井泉水・野口雨情・中野正剛・永井柳太郎・長谷川如是閑らが来石 | ||
10 | 在京各紙の委託通信事務開始 | ||
13 | 在京各紙石巻支局開設 | ||
昭和 3 | 佐々木泰治「日刊宮城」復刊(日刊・昭和13廃刊?) | 仙台・石巻間鉄道開通 JOHKラジオ(仙台)開局 | |
8 | 石巻市市制施行 | ||
10 | 小野正雄「石陽新報」、菅原俊夫「オール石巻新報」、佐藤修「東邦日報」、相次いで創刊、いずれも(旬刊・?) | ||
11 | 同盟通信社設立 | 2.26事件 | |
13 | 新聞統廃合各地で開始 新聞用紙・鉛版・活字用地金統制 | ||
14 | 石巻・女川間鉄道開通 | ||
15 | 「石巻日日新聞」廃刊 | 東北振興パルプ石巻工場開設 | |
16 | この頃松川鉱四郎が新聞販売業に転じる | 太平洋戦争開始 | |
17 | 「河北新報」一県一紙となる |
年表2 戦後 | |||
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年号 | 「石巻日日新聞」関係 | 「石巻新聞」関係 | その他 |
昭和21 | 設立(2.1)和田鉄夫社長 創刊(5.1)週三回 | この間創刊・廃刊された主な群小地域紙−「週刊民友新聞」(後に「石巻民友新聞」)、「新石巻」(後に「めざまし新聞」)、「宮城産業と観光」(後に「宮城産業新聞」)、「石巻タイムス」「三陸経済新報」 | |
22 | (この頃五千部程度) | ||
23 | 復刊(11.1) 佐藤露紅社長 所在地・立町 | ||
24 | 日刊化 | 日刊化 | |
25 | 坂下町へ移転 | 「牡鹿新聞」創刊 石巻市広報開始 | |
26 | 株式会社となる | 一連の紙面刷新 (写真製版・ブランケット・文字送信) | 用紙統制撤廃 対日平和条約締結 |
27 | 横町久円寺通へ移転 佐藤露紅退社 (斉藤末治が事実上の社長となる) | 日本新聞協会加盟 NHK地方報道嘱託 (この頃から昭和35年頃までが最盛期で一万部弱程度) | 用紙統制撤廃 対日平和条約締結 |
28 | 東京でテレビ放送開始 | ||
29 | ブランケット化 | ||
30 | 和田社長県議選出馬・落選 | この頃「河北新報」夕刊、石巻へ本格進出を図る | |
32 | 写真製版導入 | ||
33 | (この頃から編集陣が大幅に入れかわり、紙面が変化) | ||
34 | 斎藤末治社長 | 東北放送・テレビ開局 | |
35 | 千石町へ移転 | NHK地方報道嘱託終了 | |
36 | 「宮城民友」創刊 ↓ 朝刊単独化 | ||
40 | 高速輪転機導入 | ||
42 | 4頁化 和田社長県議初当選 | ||
43 | 4頁化 | ||
(この頃どちらも四千部程度) | |||
45 | 西条芳次郎社長 | ||
46 | 門脇五番谷地へ移転 オフセット化 (この頃六千部程度) | 市政アンケート開始 (工業港・新漁港の整備が進み、人口が急増する) | |
49 | 稲井三治社長 (順調に増紙) | ||
52 | 旧印刷機械類廃棄 印刷営業をやめる | ||
55 | やや部数を減らす | オフセット化、受託印刷← | ←「石巻かほく」創刊 所在地・鋳銭場 →千石町へ移転 |
57 | 門脇東上野町へ移転 |
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