2007:
バートン・クレーン(Burton CRANE, 1901-1963):
  伝記的背景と楽曲のルーツ.
ポップカルチャー学会・第23回大会(昭和女子大学),2007/09/22.

                            山田 晴通(東京経済大学)


 戦前、昭和初期の日本で『酒がのみたい』(1931年)などをヒットさせた米国人の歌手バートン・クレーン(Burton CRANE, 1901-1963)は、「日本語で歌う外国人歌手」の先駆者であった。クレーンは、同名の父が長老派教会の牧師であった関係で、ニューヨーク州バッファローで生まれ、各地を転々とした後、1910年からニュージャージー州エリザベスに定着した。クレーンは子供の頃から、教会の業務のために父親が所有していた印刷機を使ってアマチュア新聞を製作するなど、ジャーナリズムへの関心を持っていた。やがてプリンストン大学へ進み、2年間学んだものの卒業はせず、程なくして地元の新聞を振り出しにジャーナリスト修行に入った。
 友人の親戚がオーナーだったという縁から、1925年に『ザ・ジャパン・アドバタイザー the Japan Advertiser 』紙の経済記者として来日することになったが、それまで日本への特段の関心はなく、日本語も学んでいなかった。来日後、赤坂の榎坂に居を構え、取材活動を通して多数の要人と親交を結び、他方ではカフェーなど夜の街にも出かけて日本語を鍛えた。そうした中で、当時外資系であった日本コロムビアのレスター・ホワイト(L.H.White)社長と知り合い、レコードを出すことになった。クレーンはこの最初の滞日中に、三十曲以上の録音を残し、ヒット曲も数曲出した。
 クレーンは、1936年に帰国するが、これはその少し前(1934年)に父親が死去したことが関係していたのかもしれない。帰国後は『ニューヨークタイムズ』紙の経済記者となり、1935年の日米交換ラジオ放送の企画では、ニューヨーク側の日本語MC担当者として登場した。日米開戦後は、日本のスパイかと疑われながらも、米軍の日本語教育に協力し、大戦末期には中国・昆明へ派遣された。
 終戦後の1945年、『ニューヨークタイムズ』特派員として再来日し、二度目の滞日をする。この時期には、特派員としてGHQ文化広報部に所属して活動しつつ、ラジオや雑誌メディアに露出もしたが、歌手としての芸能活動はほとんどしていないようだ。
 1950年、朝鮮戦争時の独断での無謀な取材活動がきっかけで、帰国することになったが、帰国後のクレーンは、経済コラムニストとして成功し、投資指南書を書き、(歌ではなく)投資指南のレコード(LP) も出した。最晩年は闘病しつつコラムを書き続けた。
 戦前における歌手クレーンの活躍は、(米国風のポピュラー音楽、という意味での)「ジャズ」ソングの導入に拍車をかけ、二世歌手ブームへの突破口となった。しかし、時代が戦争へと流れ込んでいく過程で、クレーンの歌は歌い継がれることがなくなり、やがて忘れられていった。また、戦後の来日時のクレーン自身が、おそらくは占領側の一員という立場や、ジャズの発展(既に、モダン・ジャズの時代になっていた)を考慮して、芸能活動を控えたことも、クレーンの歌が忘れられていった理由の一つであろう。


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