コラム,記事等(定期刊行物に寄稿されたもの):1998
コラム「ランダム・アクセス」
市民タイムス(松本市).
1998/01/22 戊寅の年.
1998/03/12 ストラップ=根付説.
1998/05/29 「新いなかビジネス」教えます.
1998/06/10 文久三年のフットボール.
1998/08/05 集中講義に出かける.
1998/11/14 色づく紙面.
1998/01/22 戊寅の年
今年は戊寅の年である。毎年正月には、干支を多少は意識させられる。しかし、干支の時間感覚は、今や世間からほとんど失われつつある。若い人なら、漢字の読み方も怪しいかも知れない。(「戊寅」と「干支」の読み方は、この文章の最後にあります。)
干支は、十干と十二支でできる六十の組合せで年を表す方法である。今でも、十二支の方は、生まれ年の表現によく使われるし、六十歳になって干支が一巡し、暦が元に戻ることを意味する「還暦」は、表現として定着している。しかし、十干の方は、日常生活の場面で目にすることはまれである。手元の国語辞典にも、干支は、単に十二支の意味でも使われる、とあった。
昔の成績表は、甲、乙、丙以下の十干で表示されていた。今でも「甲乙つけがたい」という言い方が残っている。「甲種」とか「甲類」といった言い回しは、今でもときどき見かけるが、たいていの場合は、「第一種」というように数字にしたり、ABCなどを使う方が普通だろう。
年を干支で記載する習慣は、古代から近世まで一般的に用いられていた。元号と組み合わせて「平成戊寅」のように表示することもあれば、単に干支だけを記すこともある。後者の場合、六十年ごとに同じ名前の年が繰り返されるので、後の時代になってから正確な年がわからなくなることもしばしば起こる。
今でこそ、人生七十年、八十年という時代だが、昔は人生五十年であった。だから、六十年も経つと、社会の構成員はすっかり入れ替わってしまう。その意味では、干支は人生を物差しにした時間感覚ともいえる。
十二支よりも細分化された干支に基づいて人を判断する習慣も、昔は根強かった。丙午の女性に対する偏見はその最たる例だが、社会にはいつも、一定の割合でいろいろな性格や定めをもった人がいるという世界観があったのだろう。
それでは、六十年前の「昭和戊寅」はどんな年だったのだろう。西暦では一九三八年である。年表を見ると、いきなり一月三日に、杉本良吉と岡田嘉子が樺太の国境を越えてソ連に亡命、とある。
前年に勃発した日中戦争(当時は「日支事変」と称した)は泥沼化を続け、日本軍は広東や武漢まで占領しながら戦線は拡大し続けた。欧州では、対独宥和をめざしたミュンヘン会談が行われたが、翌年には独ソのポーランド分割で第二次世界大戦が始まった。
国内では、零戦の試作機が完成したが、他方では東京に木炭バスが走りはじめた。岩波新書の刊行もこの年からである。このように書き連ねると、六十年という時間の長さ、短さを、改めて感じさせられる。
なお、その前の明治戊寅、一八七八年は、西南戦争の翌年で、大久保利通が暗殺され、東京株式取引所が開設された年であった。今年は、どんな一年になるのだろう。
(「戊寅」は「ぼいん/つちのえとら」、「干支」は「えと/かんし」と読みます。)
1998/03/12 ストラップ=根付説
ここ三年ほどの間、携帯電話は、不況どこ吹く風といった感じで急速に普及してきた。特に、若い人々の間での普及は著しい。普及が始まった頃には、最先端のビジネス戦士たちの道具といったイメージの強かった携帯電話だが、今では高校生や、うっかりすると小学生までもが、電話を持ち歩いている。
とりわけ、この一年くらいの間の変化は、本当にすさまじい。普及が進むにつれ、若者たちは自分たち新しいコミュニケーションの道具として、携帯電話の新しい使い方をどんどん編み出しているようだ。
そんな中で、最近、「ストラップ」のおしゃれが目立つようになってきた。携帯電話の「つりひも」を、カラフルなものにしたり、飾りつきにする習慣が広がり、それに応じるキャラクター商品などの供給も一挙に増え、店頭に並ぶようになっのである。
五百円程度で売られているストラップは、カラフルな色でちょっとした飾りがついていることが多い。飾りには、ミッキーマウスやキティちゃんに始まって様々な、可愛らしいキャラクターが登場する。中には、一つの電話に何本もストラップを付けていたり、時々ストラップを取り替えて楽しんでいる人もいるらしい。
特に、女子学生たちは、どんなストラップを選ぶか、凝り出すことが多い。売り物ではなく、商品のおまけになっていたストラップが欲しくて、余計な買い物をした、というぼやきが聴かれたりもするほどである。
ポケットの中で電話を探るときは、ひもに飾りなどが付いていれば、手がかりになって便利である。また、同じような型の電話を持っている人が身近にいれば、自分の電話を見分ける記号になる個性的なストラップを付けておくことには、実用的な意味がある。
要するにストラップの飾りの部分は、江戸時代の人々が印篭や煙草入れを帯からつるすために用いた「根付」の現代版なのである。根付は、実用から出たものでありながら、江戸時代の人々の遊び心が反映されて、細かい作業を要する精緻な工芸品として独自の発展を遂げた。今では骨董品として、また芸術品として高く評価されるようにもなっている。
徐々に装飾性を高めてきた携帯電話のストラップは、新しいアクセサリーとして定着していきそうだ。ストラップの飾りは、大方が合成樹脂の安物だが、少女たちをはじめ、多くの人たちが、そこに自分自身や、自分の価値観を投影して「自分のストラップ」を選んでいる。ただの「つりひも」にも、我々の時代の精神が反映されている。どうせなら、そこから新たな文化が生まれるくらいのことがあってほしいものだ。
1998/05/29 「新いなかビジネス」教えます
インターネットにはいろんなページがあるが、最近知った「高知県新いなかビジネススクール」(http://www.pref.kochi.jp/~nousei/newinaka/)は、ちょっと気になるページだ。運営するのは高知県。要は、新規就農を考える都会の人に、インターネットを利用した一種の通信教育で、農業技術や経営ノウハウを伝授しようという企画である。スクーリングとして実際に農作業に参加することもできるし、めでたく修了したら、高知県の農業研修機関で就農準備を進めることもできる。また、就農しない場合も、グリーンツーリズムなどの案内が届くという。
高知県といえば、橋本首相の実弟で、元NHK記者という、あの橋本大二郎氏が知事をしている。橋本氏が知事になったのが七年前の年末、今は二期目の任期の後半に入ったところだ。都会との交流によって、ごく少数でも農業に参入する人たちが出てくれば、地方の側にはメリットがある。それ以上に、自ら農業をしなくても、農業に関心を持ち、食べ物を生産する地域に関心を持つ都会人を、その地域のファンにできれば、大きな意味がある。知事直々のアイデアではないかもしれないが、いかにもメディア出身の知事がいる県らしい試みだ。
世間は不況だ。しかし、これだけ仕事がない、労働力に余剰があるというのに、人手不足に悩む産業や、後継者不足を嘆く商店や農家も、まだまだ多い。もともと産業間の労働力移動には、大きな摩擦がつきものだ。しかし、政策的に、例えば職業訓練を通じて、その摩擦を軽減することは可能である。
特に、農業に関しては、農家の子弟ではない一般の人々が就農することは、長い間非常に困難だった。一部の過疎山村など、いわばどうしようもなくなった所では、都会からやってくる人々に農業や林業への就業機会を作ろうという試みが、これまでにも試みられてきた。しかし、そこでは都会の人々が、もっぱら金銭的利害から離れたところで農山村へやってくる、といったイメージがあったように思う。
「高知県新いなかビジネススクール」は、仕事として、経営の対象として、農業を捉えようという視点をはっきり打ち出している。新しいUターン、Iターンへの呼びかけとして大いに注目される。長野県でも、私たちの地域でも、同じ様な発想がやがては必要になるだろう。
昔から、「一旗揚げよう」と都会へ出ていく地方の青年はいた。今は、それほど肩に力は入っていないが、やはり数多くの若い男女が、同じ様な気概をもって大都会へと出かけていく。しかし、もしかすると、「一旗揚げよう」と都会から地方へやってくる人たちが現れる時代も近いのかもしれない。
1998/06/10 文久三年のフットボール
このところ、どこへいってもサッカーの話が出る。書店でも、サッカー関係の出版物がいろいろ平積みにされている。この際と思って何冊か買い込んでみたところ、山本浩・上智大学教授の『フットボールの文化史』という本に出会った。
この本は、サッカーやラグビーの先祖にあたる英国の民俗フットボールが、どのような経過を経て近代的なルールを備えたサッカーとフットボールに分化したのかを跡づけたものだ。新書版らしく気軽に読めるスタイルで書かれてはいるが、奥はなかなか深い。
フットボールの歴史といっても、範囲をあくまで英国に限定しており、アメリカン・フットボールも、オーストラリアン・フットボールも出てこない。それでも、本家の英国には、祝祭的な民俗フットボールをはじめ、日本でほとんど紹介されていない多様なフットボールがあることを知り、驚かされた。
特に面白いのは、民俗フットボールが近代的なサッカーやラグビーに変わっていく過程で、エリート教育を担う私立学校であるパブリック・スクールが果たした役割である。元々、それぞれの学校でフットボールをする場所の様子が違っていたので、各校のフットボールは独自のルールをもっていた。中には、屋内の廊下でゲームをしていたところさえあったという。
ところが、OBを介してフットボールが社会的に広がりを持つようになり、学校間の交流試合が行われるようになると、統一的なルールが必要になる。しかし、いざ統一ルールを作る段になると、各人が自分の母校のルールを主張して、話がまとまらない。その辺りの駆け引きは、背景が判るほど興味深い。
ともかく、各地のパブリック・スクール出身者が集まる大学で、ルールづくりがはじまり、やがてフットボール協会が結成され、ルールづくりの中心になっていく。しかし、そのルールが気に入らないグループが別の協会を作る、といった具合に、事態は展開した。今日のサッカーとラグビーが、共通性がありながら、対称的なルールをもっている背景には、フットボール観をめぐる、母校愛に満ちた歴史的な対立があったのである。
サッカーの語源となった、フットボール・アソシエーション(FA)が結成され、最初の統一ルールを作ったのは一八六三年。日本では明治維新直前の文久三年にあたる。ちなみにこの年には、若き井上馨と伊藤博文が横浜から密出国して英国へ向かっている。
このFA最初の統一ルールでは、ゴールにはクロスバーはなく、どんなに高くても地面から蹴り上げたボールがポストの間を通れば得点になった。チームのメンバー数は決まっておらず、両軍が同数なら何人でもよかったらしい。ゴールキーパーはおらず、そのかわり今日のラグビーのように、ボールをノーバウンドで捕球するフェアキャッチが認められていたそうだ。
それから一三五年、時代とともにFAの統一ルールも内容が大きく変わってきた。ルールの整備が、フットボールの普及に繋がり、その範囲はやがて世界を覆ったのである。
ワールド・カップでは、世界の壁はまだまだ高そうだ。日本代表には、精々善戦して欲しいものである。
1998/08/05 集中講義に出かける
自分の大学が夏休みに入ってすぐ、集中講義で山形大学にでかけた。通例、大学のふつうの授業は一回九十分で、これを「一コマ」と称している。通常、半年の講義科目なら、授業は試験の日も含め十五回、通年なら三十回が標準だが、集中講義では、本来なら半年(正味四ヶ月)分の講義を、数日間に集中してやってしまう。
集中講義は、ふだんは非常勤講師に頼みたくても講義に通ってもらえない、遠方にいる教員を招いて、講義をしてもらおうという制度であり、地方の国立大学を中心に広まってきた。私自身、松商学園短期大学にいた頃、富山大学と広島大学に出講したが、今回の山形大学も含めて、いずれも地方の国立大学である。大都市圏なら、専任スタッフで埋めきれない分野について非常勤講師を依頼することは、さほど困難ではない。しかし、地方ではこれがなかなか難しい。集中講義は、こうした隙間を埋めるために運用されている制度なのである。
今回、山形大学で私が担当したのは「生活環境論」という講義である。私に白羽の矢がたったのは、旧知の山形大学の先生が、私が十数年前に書いた論文を知っていたためであった。ここ数年は、このテーマの勉強をほとんどしていなかったので躊躇はしたのだが、結局は引き受けて、旧稿を読み返したり、最近の本を取り寄せてにわか勉強もして、何とか準備をした。
大変だったのは、日程の組み方である。いろいろな事情から、今回は十五コマ分を四日で講義した。このため二日め三日めは、それぞれ五コマ、つまり大学の授業時間帯全部という強行軍になってしまった。休憩を挟みながらとはいえ、朝の八時五十分から、夕方の五時五十分まで、のべ七時間半も話し続けるのである。いかに講義が商売とはいえ、これは本当にきつかった。それでも二日めは、まだ大丈夫だったが、三日めの最後には、口の中が乾いてしまい、ろれつが回らないような有り様だった。
とはいえ、受講生たちは、私がふだん教えている東京の学生たちに比べて、素直で集中力も高い。その意味では、講義のしやすい、講義しがいのある状態で、ありがたかった。
山形大学の学生は地元が半分強というが、県内出身でも自宅からは通学できない者も多いようで、受講生のうち自宅にいる者は三割くらいだった。受講生の中には、長野県出身者も数名いたし、北海道や西日本の出身者もいた。こうして様々な地域からやってきた学生が、これまたあちこちからやってきた教員と接しながら学ぶというのが、大学のよいところである。何しろ大学(university)は、全世界(universe)の縮図なのだから。
というようなことを考えながら、講義後は温泉で疲れをほぐし、高台の宿から山形市街の夜景を眺め、東京に残した仕事をしばし忘れたものである。教える側にとっても、集中講義には転地療法のようなリフレッシュ効果があるようだ。
1998/11/14 色づく紙面
十月はじめから、市民タイムスの一面など四面分が常時カラー化され、行事のニュースなどでは鮮やかな色彩の写真が掲載されるようになった。最終面の「さわやかさん」の笑顔も、カラー化でいっそう引き立っているようだ。
新聞のカラー化といっても、何でも色をつければよいというものではない。スポーツ新聞などは、いち早くカラー化が進み、それが大きなカラー写真で紙面を埋め尽くすような大胆な写真のレイアウトなどにも繋がって、紙面が変化してきた歴史がある。一方で全国紙などは、意外にカラーの扱いには慎重なことが多い。コストの問題もあるが、それ以上に紙面の見やすさやを考えて、それぞれの新聞に相応しい色使いが模索されてきた結果として、現在のスタイルがあるのだろう。
二十年ほど前、ちょうど新聞の印刷が、鉛の凸版を使う古い方式から、オフセット印刷などの新しい方式に徐々に移行していった時期に、一部の地方紙は積極的にカラー化に取り組み、一面に毎日カラー写真を載せるようになった。ところが、速報性が求められるニュース写真は、様々な理由からきれいなカラー写真を得ることが難しい。今でもそうした傾向はあるが、当時の技術ではモノクロ写真との扱い易さの違いは雲泥の差があった。
紙面に彩りをということから、一面にはカラー写真が欲しい。当時、研究の関係でよく読んでいたある県紙でも、写真撮影から印刷まで時間的な余裕を持てる、季節の風物詩といった感じの風景写真が一面によく現れるようになった。カラー化されていなければ、おそらく一面に載らなかったと思われる記事も少なくなかった。しかし、その県紙でも、長い試行錯誤の中で、ニュースのカラー写真も少しづつ増え、風景写真の扱いも同紙の特色として紙面になじむようになっていった。何事にも試行錯誤と、そこから得られた細かいノウハウの蓄積が必要なのであろう。
市民タイムスは、日刊地域紙の中では全国的に見てもカラー化が最も進んでいるグループに入る。それでも、紙面を見ていて、「ちょっとカラー写真がうるさいかな?」と思うことや、「なぜこの写真が白黒なの?」と感じることも時々ある。もちろん、私の感じ方が正しいとは限らないのだが。
紙面カラー化の進行を契機に、市民タイムスには、読者の声にも耳を傾けながら、新しい紙面づくりへの工夫を一層重ねて欲しいと思う。地域紙の特色を生かすような、彩りがあり、また読みやすい落ちつきも保った紙面づくりへの模索は、始まったばかりである。
このページのはじめにもどる
1997年///1999年の「ランダム・アクセス」へいく
テキスト公開にもどる
連載コラムにもどる
業績外(学会誌以外に寄稿されたもの)にもどる
業績一覧(ページトップ)にもどる
山田晴通研究室にもどる
CAMP Projectへゆく