コラム,記事等(定期刊行物に寄稿されたもの):1996
コラム「ランダム・アクセス」
市民タイムス(松本市).
1996/01/19 寒中見舞い.
1996/02/17 小さな図書館.
1996/05/08 旧駒場寮のこと.
1996/08/29 ホームページ(上)-しくみ.
1996/09/05 ホームページ(下)-見る〜作る.
1996/10/09 S短大の事件.
1996/10/17 小さな村のホームページ.
1996/12/17 「松本驛」の表札.
1996/ 1/19 寒中見舞い
いつもながら、今年も、年賀状の整理が終わらないまま、松の内が明けた。不精者の私は、数百枚の年賀状の宛名とメッセージ書きが越年となり、三が日にも、返事として出す分の年賀状書きにずるずると追い回されていた。今年は職場を移って最初の正月ということもあり、こちらから挨拶を兼ねて年賀状を出す数も増えたし、また、新しい人間関係もできて、思わぬ人から年賀状をもらうことも多かったのである。
そんなわけで、今年はいつもより多く寒中見舞いの葉書を書くことになった。大学の仕事始めは六日、実際の業務開始は八日からだから、大学宛でもらう年賀状は、松の内には返事が出せない。寒中見舞いは、年賀欠礼挨拶をもらった喪中の方へ年賀状に代えて送るものだが、それ以外にも年賀状を出しそびれた相手が出てくると、結局、あちこちに出すことになる。こうして年末の年賀状書きはそのまま寒中見舞い書きとなり、だらだらと続くのである。
寒中見舞いといえば数年前、二年ほど続けて年賀状をほとんど出さず、年頭に年賀状をもらった人にだけ返答として寒中見舞いを送る、という方法をやってみたことがある。もちろん、その結果、年賀状を出す相手は大幅に整理された。まあ、乱暴なやり方なので誰にでもできることではなかろうが、さして親しくもない相手に山ほど年賀状を送る苦行に辟易している人にはお奨めの方法である。
実は、この「寒中見舞い」返信作戦は、ある友人から聞いた話を応用したアイデアだった。米国では、親しい人とクリスマス・カードを交換する習慣がある。年賀状より相手の数は少ないが、カードをもらったのに、こちらが出していなかったり、送ったカードがクリスマスに間に合わないのは、やはりみっともないのだそうだ。誰にどんなクリスマス・カードを用意し、いつ投函するのか(年賀状の元日配達のようなサービスはないらしい)といったことで、誰もがいろいろと苦労しているのである。
そこで、在米のある日本人は妙案を思い立った。その人は、自分からのクリスマス・カードをいっさいやめ、カードをくれた相手だけに、「日本では新年をカードで祝う」と解説をつけた日本風の年賀状を送りつけるようにしたのである。
定期的に知人に自分の動静を知らせるのは意義深い。しかし、クリスマス・カードにせよ、年賀状にせよ、寒中見舞いにせよ、何かと面倒なものであることは間違いない。
1996/ 2/17 小さな図書館
ちょっと調べものがあって、波田町の図書館に出かけた。図書館といっても独立した大きな建物ではない。波田町立図書館は、昨年の春に完成した「情報文化センター」の中にある。「じょうぶん」と通称されているこの複合施設は、自治省から先端的事業として補助金を得たもので、図書館の他にも、ホールやCATV施設などが組み込まれている。
公立の図書館というと、県立や市立の図書館といったイメージが強い。町村の規模になると、独立した図書館を成立させることは難しく、公民館に図書室を設けるのがせいぜいといったところだし、専門知識のある図書館司書資格をもった職員が確保されていないことも多い。そうした中で、波田町では、小さいながらも本格的な図書館を複合施設の一角に作ったのである。
波田町立図書館は、「じょうぶん」の一階にある。開架式のフロアは、天井が高くて明るく、開放的だ。本を探すには、画面タッチ式のコンピュータが大いに役立つ。私が出かけたのは、ちょうど小学校の下校時刻だったが、子どもたちが本を読みに来たり、館内にあるコンピュータで遊んだりと、なかなか盛況であった。
現在、蔵書は約三万冊。一般書中心の図書館としては、小規模である。それを補うために、松本市の図書館ネットワーク・システムに接続して、本の検索や貸出に応じている。波田の図書館にない本でも、松本市の中央図書館や各分館のどこに所蔵されているのかが即座に判るし、本を借りたければ、取り寄せてもらうこともできるのである。
司書職として配置されているのは一名だけだが、事務職員と臨時職員にも図書館司書資格をもつ者がおり、実質的には司書三名の充実した体制である。施設に見合った人材を質・量ともに確保することは、箱モノ先行になりがちな行政の風潮の中で、なかなかできることではない。
ユニークなのは、複合施設に同居しているCATVを活用して、毎月一回は図書館からの番組が町内に放送されているという点であろう。新着図書や雑誌の内容、定例になっている「おはなしの会」の様子などを中心に、図書館の様子が紹介されている。こうした、図書館とCATVを結びつけた番組は、全国的に見ても先駆的な試みである。
もちろん、波田町の図書館も、立ち上がってまだ一年弱。まだまだ課題や問題点もあるという。しかし、小さい図書館でも、工夫を重ね、最新技術を取り込むことで、本格的なサービスも提供できることを、具体的に示している波田町立図書館は、他の町村にとって一つの重要なモデルを示している、といえそうである。
1996/ 5/ 8 「旧」駒場寮のこと
県の森の旧制高等学校記念館の展示は、かつてのエリート教育の場であった旧制高校において、学寮生活が大きな意味を持っていたことを教えてくれる。旧制高校の学寮は、校舎と同じ校地の中に設けられ、寮生自らが自主的運営に当たっていた。旧制高校の生徒には自宅や下宿から通学する者もあったが、旧制高校といえば寮歌が連想されるように、学寮は旧制高校の中心だったのである。
先日、久々に東京大学の駒場キャンパスに出かけた。駒場は、旧制第一高等学校の跡地であり、キャンパスには今でも昭和初期の建物がいくつも残されている。中でも異彩を放つのが、「旧」駒場寮の建物群である。
往時の駒場寮は、南寮・中寮・北寮・明寮の四棟の三階建ての建物と、風呂場、食堂などの施設からなり、建物群は屋根付きの渡り廊下で結ばれていた。私が駒場で学んだ七〇年代には、既に南寮は教員の研究室棟に改装されていたが、関東大震災後に、頑強に作られた無骨なコンクリート造りの建物には、強烈な印象を受けた。
七〇年代の駒場寮には、既に昔日の面影は薄く、設備は老朽化し、一見、廃墟に不法占拠者が棲みついているような感じであった。しかし、むしろその気楽さ、脇の甘さが、人間味に溢れた空間を形づくっていた。
実際、駒場寮には、経済的に恵まれない地方出身者を中心に、自治会やサークル活動などに熱心な、モラールの高い連中の集まる梁山泊然とした雰囲気があった。校地内の学寮なので、通学時間はゼロである。私は入寮を希望したが、自宅通学可能とされて入寮できなかった。しかし、寮にはよく出入りし、寮食堂で飯を食い、何度も泊まった。今では懐かしい思い出である。
駒場寮は、公式にはこの三月末で「廃寮」となった。寮生をはじめ学生たちの反対を押し切り、大学は「旧」駒場寮に対する電気とガスの供給を停止し、渡り廊下の一部を解体した。一部の教員や教職員組合も、この処置を「非人道的」と批判している。
現在、学生側は、近くの建物から延長ケーブルで電気を引くなどして、「廃寮」撤回を求める篭城を続けている。教員も不測に事態に備えて、交替で夜警業務に就く異常事態が続いている。東大の先生が作業服姿で夜警を務めているのである。
私が訪れた午後、駒場寮は静かだった。まだ頑張っている寮生がいる部屋もあったが、大方の部屋は文字どおり廃墟と化していた。かつて俊英が集った夢の跡が、また私自身の思い出の場が、荒れるまま放置されている。まだ事の帰趨がはっきりしていない今の段階で結論めいたことをいうのは、当事者に失礼だろうが、旧制高校の頂点にあった一高、その学寮の伝統を引く東大駒場寮の末路は、私の目には、ただただ醜く、哀しく映った。
1996/ 8/29 ホームページ(上)−しくみ
この三カ月あまりの間、このコラムをサボっていた。本務の多忙に加え、しばらく「インターネット」にどっぷりとつかり、いろいろと窮屈になっていたのである。
最近、急速に世間に広まった「インターネット」という言葉は、多くの方がご存じだろう。インターネットは、世界中に張り巡らされたコンピュータ同士の結びつきをたどって、遠方のコンピュータとデータをやりとりする仕組みである。インターネットはいろいろなことができるが、最も一般的な使い方は、電子メールと、ホームページの二つであろう。
ホームページというのは、コンピュータの中にデータという形で書かれた文書の一種である。インターネットなどを介して他のコンピュータから「文書を見せて」といってきたときに、「文書を見てね」といってデータを送るのが、ホームページの基本的な仕組みである。
これを、もっぱら文書を見る側の立場で説明し直してみよう。自分のコンピュータからインターネットを介して通信し、他のコンピュータにホームページを「見せて」とお願いすると、「見てね」といってホームページのデータが送り返されてくる。この送られてきたデータを、自分のコンピュータで「見る」わけだ。この一連の動作を行うソフトウェアが「ブラウザ」といわれるものである。
ホームページを見ることを、「訪問する」と好んで表現する人もいるが、確かに、遠方の見知らぬ人が作った文書を見るのは「訪問する」感じである。ホームページを見て回ること、次から次へとあちこち訪問して回ることを、次々に波に乗ることに例えて「ネットサーフィン」という。
ネットサーフィンの面白さは、ホームページを見つけていく楽しさでもある。ホームページにはいろいろな探し方があるが、まず、個人的に教えてもらったり、雑誌などに書いてあったりするURL(ネットワーク上の住所)のホームページを見ることが最初の一歩だ。次に、ネットワーク上の「電話帳」にあたる「サーチ・エンジン」を訪問し、キーワードや、自分の関心分野を入力して、未知のホームページを見つけだすと、俄然面白くなってくる。
さらにほとんどのホームページには、関連する他のホームページを見に行けるようにしてあり、これを「リンクが張ってある」という。リンクがあれば、一つ気に入ったホームページに出会うと、そこから関連したホームページを芋蔓式に見つけることができる。
(追記)ここでは「ホームページ」という言葉を多用したが、厳密には不正確な用法も含まれている。「ホームページ」のほか、「ページ」、「ウェッブ・サイト」などと言い分けるべきものを、便宜上すべて「ホームページ」としている。
1996/ 9/ 5 ホームページ(下)−見る〜作る
昨年の秋から、大学の研究室にインターネットの環境が整った。最初にうちは、もっぱら電子メールのやりとりばかりに使っていたのだが、年が明けてから、本格的にネットサーフィンをはじめた。
前回にも書いたように、ネットサーフィンの面白さのかなりの部分は、ホームページを見つけていく楽しさにある。その時、強い味方になってくれるのが「電話帳」に相当するサーチ・エンジンである。私が愛用しているのは、「Yahoo!」(英語)と、その日本版である「Yahoo! Japan」である。
サーチ・エンジンの画面を呼び出して、自分の関心がある分野を選んだり、キーワードを入れて検索したりしていると、登録されている様々なホームページを見に行くことが出来る。例えば、「松本市」をキーワードとして入れると、松本市に拠点を置く企業や、個人のホームページが、リストになって画面に表示される。リストの中で、面白そうなものをみつけたら、すぐそのホームページを見に行ける仕組みになっており、実に便利だ。
しかし、こうしたサーチ・エンジンへの登録は、あくまでも自己申告なので、登録していないページも数多く存在する。また、逆に登録してあっても、既になくなっている場合もある。また、なくなってはいなくても、更新されず、内容が古いまま放置されているようなこともある。サーチ・エンジンも過信はできない。
ネットサーフィンの一番の醍醐味は、リンクをたどって、次々と思わぬホームページを渡り歩けるところにある。リンクからリンクへと、さまよっているうちに、サーチ・エンジンでは見つけられなかった面白いホームページに出会ったりすると、実に楽しい。
さて、ネットサーフィンを何カ月か楽しんでいるうちに、自分自身のホームページを持ちたいという気持ちが強くなってきた。そこで、六月頃から、ホームページの作り方を勉強し始めた。そして、七月には、中身は空っぽに近いものの、自分のホームページを作って、知り合いに見てもらい、いろいろと感想を聞かせてもらえるところまで漕ぎ着けた。今も、「工事中」(作成の途中という意味)のところが多いが、少しずつ内容の充実に努めている。
実際にホームページづくりを始めると、見るばかりだったときとはまた別の面白さがあり、何時間も集中して作業に熱中することが多くなる。こうなるともう立派なインターネット中毒である。
さて、私のホームページは、東京経済大学のホームページであるhttp://www.tku.ac.jpへ行き、「教職員のページ」を選び、続いて「山田晴通研究室」を選べば、見ることができるので、よろしかったら一度のぞいてみて頂きたい。
1996/10/ 9 S短大の事件
先日、大きく報道された佐久市のS短大の事件には、私学人の一人として、考えさせられることが多かった。S短大には個人的な知り合いも関わっていたので、事件は身近に感じられた。渦中の人物となった事務局長氏にも、会議でお会いする機会があり、面識があった。人当たりのよい、有能なやり手といった印象だった。
今回の事件では、二つの重大なルール違反が公になった。一つは、S短大が、文部省が認めた入学者定員をはるかに超えて学生を入学させていた点である。大学には、設置基準が定められており、これに照らして充分な施設や教員等の要件を整えれば、「定員○○名」といった形で学部学科の設置が認められる。定員を越えて多数の学生を受け入れていれば、学生一人一人が受けるサービスの水準は低下し、教育にも支障をきたしかねない。(短期)大学を名乗りながら、それに値しない水準の教育をしたとすれば、それは羊頭狗肉である。
もう一つのルール違反は、実際に入学していた人数とはかけ離れた数を文部省に報告していたという点である。この虚偽の報告によって、S短大は、本来なら定員大幅超過を理由に受け取れないはずの私学助成金を、不正に受け取っていたのである。
私学の学費は、決して小さい額ではない。それでも学生(父母)が負担する授業料だけでは、私学の経営は成り立たない。税金からまかなわれる私学助成金は、私学にとって重要な収入源の一つである。つまり、国公立大学の学生ばかりでなく、私学に学ぶ学生も、自分の父母の負担に加え、納税者一般の、言い換えれば社会全体の負担があって、はじめて勉強できる仕組みになっているのである。
私たち私学に身を置く大学人は、教育の機会平等を旗印に、学生(父母)の負担増を避けるために、私学助成の拡大を求める運動に取り組んでいる。残念ながら日本の現状は、「高等教育の漸進的無償化」を目指す国際人権規約(A規約第十三条第二項・日本はこの条項を「保留」している)の精神からはもちろん、一九七五年の私立学校振興助成法成立時に参議院が付帯決議した「教育研究経常費の二分の一助成の早期実現」の精神からもほど遠い。教育研究にかかる経常費に対する助成額の比率は、一時期の三割弱という水準からも大幅に後退して、一割強という水準に低迷している。こうした厳しい状況の中で運動に取り組んでいる立場からすれば、S短大のような不正受給行為には、憤りを感じざるを得ない。
S短大と同種の事件は過去にもあり、福岡県のD大学や山梨県のT短大などは、悪質な事例だった。同様の不祥事が、先人の築いた輝かしい伝統を誇る長野県の教育界の一隅で起きたことは、痛恨の極みである。
1996/12/17 小さな村のホームページ
先だって本欄で、インターネットの話をしたが(八月二十九日、九月五日)、インターネットを使った広報活動は、今や企業や大学などではごく当然になっている。また、諸官庁も、新しい広報活動として、独自のホームページを持つところが多くなっている。同様の動きは、地方自治体にも様々な形で見受けられる。
広島大学地理学教室(http://www.ipc.hiroshima-u.ac.jp/~geo/)の「日本全国WWWめぐりの旅」を見ると、全国各地で、自治体が独自のホームページをもっていることがよくわかる。現状では、自治体発の情報は、観光がらみが中心だ。長野県の場合、民間ネットワークのavis(http://www.avis.ad.jp/)や信州オンライン(http://shinshu.online.co.jp/)が、積極的に各市町村の観光情報などを発信しているが、市町村が直接、自前の公式ホームページをつくる例はまだまだ多くはない。松本平では、独自のプロバイダー業務まで展開している塩尻市(http://www.shiojiri.or.jp/)の動きが目立っているほか、朝日村商工会による朝日村のページ(http://www.aie.or.jp/Asahicis/index.htm)などががんばっているが、安曇村が自前の公式ホームページをもっている、ということを発見したときには、正直なところちょっと意外だった。
安曇村のページ(http://www.icon.pref.nagano.jp/usr/azumi-v/)は、色使いが美しく、写真やイラストの使い方もけっこう凝っている。さすがに、観光地だけに、がんばって情報発信をしているという感じで、好感がもてる。実は、今年の夏に、偶然このページを見つけたときの印象は、「凝っているし、立派だ」という素直な驚きとともに、「お金をかけて業者に作らせたのかな」、「今後、長続きするかな」と、心配にもなった。ところが、しばらくぶりに見てみると、秋らしい内容にきちんと更新されている。改めて感心、というよりも、感動してしまった。
安曇村のページは、見た目だけでなく内容も充実している。インターネットに向けた村長の挨拶、ふるさとを離れている人やIターンを考えている人を意識した広報「あづみ」からの記事など、観光情報以外の情報もあり、硬派の広報機能も持っている。また、観光関係でも、乗鞍高原にある村営の「銀山荘」の予約状況情報があるなど、きめがこまかい。また、ページを見た感想などを、簡単に電子メールで送れるようになっている。この辺りは、avisのサービスや、他の自治体のページでもなかなか見られない、しっかり作られたところだ。
さっそく電子メールで問い合わせをしてみて、またまた驚いた。これだけのホームページを作っているのが、銀山荘の管理人であるIさん一人。しかも、村長から「公式ページ」のお墨付きをもらってはいるものの、ほとんど自前の機材で、業務の合間にボランティア同然でつくっているのだという。なるほど、単なる業務としてではなく、こだわりをもった仕事として作っているから、いいページができるのだろう。
ちなみにホームページの反響は好評で、毎日百人ほどの人が、このページを見に来るというし、「銀山荘」への予約状況も好調だそうだ。都会からやってきて管理人になったIさんが、村長や総務課長らにインターネットの重要性を説明して、この公式ホームページは誕生した。Iさんの頑張りもすばらしいが、それにゴー・サインを出した村長はじめ役場の関係者の度量も大したものである。乗鞍高原発の公式ページの登場を機に、島々の役場にもインターネットが導入された。また、公式ホームページの評判をきっかけに、村内でもインターネットへの関心が広がろうとしている。こうした小さな試みの積み重ねが、ほんとうの意味での地域情報化へとつながっていくのだろう。
1996/12/17 「松本驛」の表札
普段、慌ただしく通り過ぎるときには何気なく見過ごしてしまうが、松本駅ビルの正面階段脇にある「松本驛」の大きな表札は、実に味わい深い趣がある。柔らかく、素朴な筆遣いでありながら、どことはなくモダニズムを感じさせるおおらかな字体は、眺めていると何かほっとさせるようなところがある。
表札の下に掲げられた「旧松本駅表札の由来」には、その来歴が簡潔に記してある。それによると、松本駅は、二代目の駅舎が一九四七(昭和二二)年二月四日に焼失した後、「戦後の資材不足のなかで」三代目の駅舎が一九四八(昭和二三)年四月二八日に再建された。その際に、「再建された駅舎の落成を記念して」「豊科町在住の曽山環翠先生の揮毫、木彫により制作された表札が駅玄関に掲出され」たのだという。その後、一九七八(昭和五三)年のやまびこ国体を控えて、駅ビル新築のために三代目駅舎が取り壊された一九七七(昭和五二)年九月一日に、表札は、その任を終えて駅頭から外された。しかし、その後、旧駅舎表札の復活を求める声があり、一九八五(昭和六〇)年七月に、現在の位置に再度掲出されることとなったのだそうである。
ところで、この「由来」の記述には、以前から疑問を感じている点がある。表札の右側には、「由来」の記述とは矛盾するかのように、「環」の字を「∞」(無限記号)で表した環翠の署名とともに「昭和廿五年一月」と刻まれているのである。「由来」の日付に間違いがないとすると、先代駅舎の建設の二年後にこの表札が掲出されたのかもしれないが、そうだとすれば、「再建された駅舎の落成を記念して」「制作された表札が駅玄関に掲出され」たとする「由来」の記述は、誤解を与えやすい表現だといわざるをえない。
表札は、屋根のある位置ではあるが、屋外にむき出しになっているので、上の方には随分と埃がたまり、蛾か何かが卵を産みつけた痕跡らしきものも目につく。落ちついた青とも緑ともつかない色の顔料が塗られた「松本驛」の文字も、ところどころに痛みが見える。また、この表札は手の届く位置に置かれているため、ついつい触ってみたくなるようで、特に下の方は汚れと損傷が目立つようになってきている。埃の類は、もうすぐ暮れの大掃除の時にでもきれいになるのだろうが、木の地肌が見え始めている部分の補修と保存を、そろそろ考えるべきではないだろうか。
先代の駅舎でおよそ三十年、現在の駅ビルに再掲されてから十年あまり、松本駅の表の顔、「駅のシンボル」となってきた由緒ある表札である。もう少し大切に扱って、次代へと伝えていきたい。師走の慌ただしい人の波が行き交う中で、そんなことをぼんやり考えた。
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