コラム,記事等(定期刊行物に寄稿されたもの):2003

コラム「ランダム・アクセス」

市民タイムス(松本市).

2003/08/17 音楽が溢れる街.
2003/10/02 タイガースは日本を救う?.
2003/10/13 漆黒の車窓.
2003/12/18 吉田健一の言葉.


2003/08/17 

音楽が溢れる街

 このところ公私ともに忙しく、このコラムも随分と休んでしまったのだが、そろそろ落ちついてきたので、不定期連載再開となった。今後もどうぞご愛読を。
 先月上旬、ある国際学会でカナダのモントリオールを訪れた。ちょうど、大規模なジャズ祭である「モントリオール・ジャズ・フェスティバル」が開催されており、昼の学会行事が終わると、夕方以降はジャズを聴きに行くという、なかなか楽しく、また貴重な経験をした。
 モントリオールのジャズ祭では、二週間以上にわたって、市内に散在する多数のコンサート会場やジャズ・クラブで一流ミュージシャンの公演が集中的に行われるほか、毎日夕方からは中心部の公園に設けられた数カ所の屋外ステージで、無料の演奏が並行して繰り広げられる。夕方、公園へ行けば、自分の好みでステージを選んではしごしながら、数時間は無料でジャズを楽しむことができる。
 しかし、夕方まで待たなくても、街にはジャズが溢れている。ジャズ祭に集まる観光客を当て込んで、昼間は広場や街頭で、無名の音楽家たちがサックスやパーカッション、あるいはバイオリン(フィドル)を演奏し、投げ銭を集めている。レストランやカフェでもジャズを流しているところは多く、書店やレコード店はジャズ関連の本やCDを特別にディスプレイしている。文字どおり街中に音楽が溢れ、人々を包み込んでいることが、あちこちで感じられた。
 ジャズ祭の期間中には、屋外ステージ会場の近くなどに、仮設の飲食屋台と並んで多数の土産物売り場が設けられ、Tシャツや帽子から、キャラクターになっている猫のぬいぐるみまで、様々な関連グッズを売っている。こうしたグッズの売り上げは、ジャズ祭の運営経費に役立てられているのだが、現場で売店を切り盛りしているのはボランティアたちである。それだけでなく、会場周辺のチェック・ポイントにおけるセキュリティ・チェックをはじめ、ボランティアが支える裏方の仕事は実に多岐にわたっている。もちろん、警察や消防も万一に備えて動員されているが、フェスティバルを支えているのはスタッフ用のTシャツに、身分証明を首から提げた市民ボランティアだ。老若男女の市民が幅広く参加するモントリオールのジャズ祭は、そうした意味でも、街をあげて取り組むジャズのお祭りになっている。
 毎年、夏になると長野県内でも大小様々なジャズ祭が開催される。また、秋になれば松本の大規模イベントの中でも全国的注目度が最も高いサイトウ・キネン・フェスティバルの時期がくる。そうした音楽イベントのほとんどは、それなりに地域の知恵を集め、支持基盤を固めて歴史を重ねてきたが、同時に、多かれ少なかれマンネリズムも抱え込んできている。もちろん、こうした地域的な取り組みを大都市モントリオールと単純には比較することはできない。しかし、音楽イベントを「点」で終わらせず、音楽を街中に広げていくような発想と工夫は、イベント規模の大小を問わず、いよいよ強く求められているように思う。
 せっかく官民の力を集めて音楽イベントをやるのなら、その期間中は、メイン会場以外の場所でも、もっともっと様々な形で、誰もが楽しめる本当の意味での「祭り」を演出してほしい。メイン・イベントのプラチナ・チケットがなくても、音楽をみんなが楽しめる数日間を作る。そこには大きな意義があるはずだ。

2003/10/02 

タイガースは日本を救う?

 プロ野球セ・リーグの阪神タイガースが十八年ぶりのリーグ優勝を決めた。数日後、研究会で大阪へ出かけ、研究会の後、久しぶりにゆっくり週末の大阪の街を歩いた。予想はしていたが、優勝決定の興奮が冷めやらぬ街は、記念(便乗?)セールに大いに沸きかえっていた。
 千日前から心斎橋まで、ミナミのアーケード街を歩き回ったのだが、どこにいっても、どこからともなく「六甲おろし」のメロディが聞こえてくる。店頭には阪神球団公認商品から、かなり怪しげなものまで様々な記念グッズが並んでいる。優勝を当て込んだ限定商品、一般的なタイガース関連グッズや、ただ黒と黄色の縞模様というだけの品まで、とにかく便乗、あやかり、何でもありという感じが、大阪らしいといえば大阪らしい。
 直接タイガースと関係がない商品のバーゲンでも、星野「仙一」監督にちなんだ「千一円」と値段が付いた商品があちこちで山積みだ。「甲子園」にちなんで「五〇四円」つまり五百四円というのも見かけたが、こちらはちょっと駄洒落が苦しいところだ。
 デパート各店は、それぞれに優勝記念セールを展開していたが、客が集まっていたのは何といっても梅田の阪神百貨店だ。阪神百貨店では多数の整理要員を動員し、バーゲン目当ての一般客とタイガーズ・グッズの客とを分け、入口を限定して入場規制をしていた。とてもその列に加わる気は起きなかったが、長蛇の列に、数年前のフェルメール展や、三十年以上前の大阪万博を思い出した。
 道頓堀名物のグリコのネオンも、定番の陸上選手姿から、タイガースのユニフォームに着替えていた。くいだおれ人形もタイガースの応援はっぴと応援グッズを身につけ、日本シリーズに景気をつけるセリフの吹き出しを背負っていた。あとは枚挙にいとまがない。
 そんな道頓堀の、工事中の一角の壁面に、昭和十二年の「大阪タイガース初優勝」を祝う、昔風の看板が出ていた。これは変わった趣向だと思って近くに寄ってみると、「昭和八〇年」に昔の街並みを再現した施設ができるという告知が、やはり古風な感じで書かれていた。どうやら再来年ここにテーマパークのようなものができるらしい。
 お祭り騒ぎの中で、みんなが自分のビジネスにその勢いを呼び込もうとしている。伝統的な商業文化の都である大阪にとって、日本中が不況からの出口を模索している今、阪神タイガースが優勝したことは、実にタイミングがよかった。物づくりと商魂の二つが燃え上がらないと、日本経済はうまくいかない。大阪の盛り上がりが起爆剤となって、日本全体が景気づくことを願いたい。

2003/10/13 

漆黒の車窓

 十月一日からのJRのダイヤ改正で、大阪行き夜行急行「ちくま」が臨時列車に移行した。今後も、月数回は「ちくま」が運行されるようだが、今回のダイヤ改正で、松本駅を毎日発着する夜行列車はなくなったことになる。
 かつて、松本駅に早朝に到着する夜行列車は、都会から信州に帰省してくる人たちに、アルプスへ向かう登山客や、冬場のスキー客が加わって、ごった返していたものだった。時には、通常の夜行列車とは別に、臨時列車が増発されることもあった。今は昔である。
 私の学生時代、つまり今からもう二十年以上も前には、旅行に出るときは決まって夜行列車に乗った。当時は、日本全国各地の主要幹線で、夜行の鈍行や急行が運行されていた。「アルプス」や「ちくま」はもちろん、東京から青森へ向かう急行「八甲田」や、現在の「ムーンライトながら」の前身にあたる東海道線の普通列車など、夜行列車の思い出は数え切れないほどある。
 夜行を利用すると、目的地まで寝ているうちに着くわけで、時間が有効に活用できる。また、貧乏旅行者にとっては、宿代が浮くのがありがたかった。もちろん、寝台料金を節約するため、普通の座席で苦心しながら眠ったり、眠れないまま朝を迎えたりした。四人掛けのボックス席を一人で占領して眠っていて、ふと気づくと通勤通学のラッシュアワーで席に座れず立っている人もいるような混み具合になっている、という、少々恥ずかしい思いをしたこともあった。
 社会人になっても、東京との往復には「アルプス」や夜行普通列車に随分とお世話になった。しかし、今では、全国的にみても、こうした夜行列車は随分と整理され、なくなってしまった。夜行列車が消えていく背景には、需要の後退がある。新幹線などが拡充され、昼間の特急列車が増発されるようになり、さらに航空運賃の実質的な低廉化もあって、長距離を一晩かけて移動する夜行列車は徐々に時代遅れになってきた。
 一方で、充実した設備を整えた個室式の豪華な寝台車を連ねたブルートレインは、営業的にも比較的堅調らしく生き残っているが、もっぱら安上がりに貧乏旅行をしようという若者たちを乗せてきた「人民列車」は、だんだんと姿を消してきた。松本駅に発着する夜行列車も、今や臨時列車の「ちくま」と夜行快速「ムーンライト信州」だけになったわけだが、これとていつまで存続するかはわからない。
 学生時代の私は、夜行列車の車窓から、あるいは街の灯を眺め、あるいは漆黒の闇を見つめ、あるいは車中の見知らぬ人々の姿を観察しながら、旅と人生を重ね合わせて様々な思いにふけった。それは個人的な経験であったが、同時に、同世代から上の人々と共有された、共通の経験でもあった。今の若者は、同じような思いを抱きながら眠りに落ちてゆく夜を経験することがあるのだろうか。

2003/12/18 

吉田健一の言葉

 文筆家・吉田健一(一九一二〜一九七七)、といってもご存じの方は少ないかもしれない。大宰相・吉田茂の長男ながら、政治家にはならず、文学研究、翻訳、小説、随筆などで、様々な仕事を残した人物である。評論では『ヨオロッパの世紀末』(一九七〇年)が知られているし、『宰相御曹司貧窮す』(一九五四年)なる著書もある。しかし、大方の人々にとっては、過去の文人といってよい位置づけの人物であろう。ところがここ数年、若い大人たちの間に、吉田が書き残した文章の断片が、静かに広がっている。
 一九九〇年代におしゃれな音楽で若者の人気を集め、二〇〇一年に解散した、ピチカート・ファイブという音楽ユニットがあった。彼らの解散後、彼らの曲を他の歌手たちが歌ったものを集めたアルバム、つまり最近の言い方でいうなら「トリビュート・アルバム」が、『戦争に反対する唯一の手段は。』(二〇〇二年)というタイトルで発表された。このタイトルは、「戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。」という吉田の記した一文からとられており、この文も、吉田の名とともにアルバム・カバーに記されている。
 これは、もともと吉田が朝日新聞に連載したコラム「きのうきょう」(一九五七年)のために書かれ、のちに加筆されて「長崎」と題が付けられた文章の一節である。このコラムは他の随筆とともに、まず単行本『作法無作法』(一九五八年)に収められ、後には再編集されて『新聞一束』(一九六三年)という本にも収められた。
 原爆投下から十二年近くが経ち、「原爆の跡と解るものは何も残っていない」長崎を訪れた吉田は、原爆の被災地が新しい建物の建設によって面目を一新しているのを踏まえて、過去の戦争の悲惨を振り返ることより、今の生活を大切にし、将来を見据えて前へ進むことことが戦争に反対する道だと説いて、この一文を書いた。
 ピチカート・ファイブのトリビュート・アルバムでこの言葉を知った若者は、おそらく元の文章が踏まえていた文脈とは無関係にこの言葉を理解しているのだろう。それはそれで構わない。吉田の文章は、原文を読んでも解釈の余地を残すようなものであるし、吉田の真意は、その前後に書き残された膨大な量の文章との格闘がなければつかみきれないだろう。
 吉田がペンを走らせてから半世紀近い時間が経ったが、はたして私たちは、自分の生活を「美しく」しているだろうか。心の片隅に戦争を容認する気持ちの芽生えがあるとしたら、それは今の生活への不満や焦燥の現れかもしれない。今年の私は、自分の生活を「美しく」することができただろうか。来年は、どうすれば自分の生活を「美しく」できるのだろうか。いやいや、そもそも「生活を美しく」するとはどういうことなのだろうか。
 テレビに映し出される自衛隊の姿を目にしながら、そんなことを考える年末である。

(引用に際して、原文の旧仮名遣いを新仮名遣いに改めています。)

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