コラム,記事等(定期刊行物に寄稿されたもの):2000
コラム「ランダム・アクセス」
市民タイムス(松本市).
2000/03/30 SPからCDへ.
2000/04/05 ユニークな美術館.
2000/04/15 小路の先のバー.
2000/06/24 新幹線「あさま」に乗る.
2000/07/07 情けは人の為ならず.
2000/07/21 正しいアロハ・シャツ.
2000/08/11 瀬戸内の眺め.
2000/09/08 「冬の時代」の大学と地域(上).
2000/09/09 「冬の時代」の大学と地域(下).
2000/11/15 狙われたカード.
2000/12/12 されど年賀状.
2000/03/30 SPからCDへ
ふとしたきっかけがあって、昭和三年から昭和三十三年までの間に発表されたSP盤の音源を復刻した、CD六十枚セットという途方もないものを古レコード屋で入手した。収録されている曲は全部で九百曲近い。もともとこれは、十年程前に発売されて以来あちこちで評判になっていたセットなのだが、定価が高くて手が出せずにいたところだった。それが、そこそこの手ごろな価格になっていたので、意を決して入手したのである。
私が物心ついた頃には、SP盤は既に過去のものだった。わが家にあった家具調のステレオは、七十八回転にも切り替えられたが、SP盤は家にはなかったし、レコード針もSP盤用ではなかった。子供の頃によく出かけた近所の古レコード店にはSP盤のコーナーがあったので、現物を見ることはあったが、音を聴く機会はなかった。LP盤と似たサイズながら厚みと重みのあるSP盤は、私にとって縁のない、遠い時代、遠い世界のもののように感じられた。
それから三十年近い時が流れ、数年前から大学でポピュラー音楽に関する講義も担当するようになったことがきっかけで、私は戦前期の歌謡曲などに関心をもつようになった。何についてであれ、現在の状況を理解するためには、直結する過去を理解することが必要である。折よくここ数年来、過去のSP盤の音源をCDにまとめて発売する例が多くなってきたので、教材としてそうしたCDを入手し、耳を傾けるようになった。半世紀以上も前の歌ともなれば、今の耳で聴けば退屈なものや、資料として聴く以上には価値を感じられないものも多い。しかし時には、耳に心地よい、懐かしくも新鮮な響きに出会うこともある。世に出たのは昔でも、私にとっては初めて耳にした新曲である。
今回入手したセットは、全体の四分の一程度を戦後の曲が占めている。戦後の歌謡曲の中には、幼い頃の記憶に残る懐かしい歌もあり、こちらはこちらで楽しめる。しかし、何といっても嬉しくなるのは、なじみがほとんどない戦前・戦中の曲の中に、それまで知らなかった歌い手や、歌手だったことは知っていても全盛期の歌声を聴いたことはなかった人たちの歌声を聴き、思いがけない佳曲を見つけた時である。
CDの時代になって古い音源の復刻が盛んになり、レコード音楽文化には歴史の厚みが加わってきた。ただ最新の音楽を追うのでなく、時代をこえて本当に自分の好きな音楽が探してみるという聴き方は、今の時代だからできる贅沢といえるだろう。
2000/04/05 ユニークな美術館
昨年、福岡市に開館した福岡アジア美術館(FAAM)は、いろいろな意味でユニークな美術館だ。前々からその存在は気になっていたのだが、九州へ出張する機会があったので、立ち寄ってみることにした。
FAAMは、公設美術館としては決して大規模なものではない。福岡の繁華街・中州川端の再開発で誕生した複合施設「博多リバレイン」の一角で、ビルのフロア二階分を占めている。同じビルの他の階には、有名ブランドのファッション・ブティックや、オフィスが入っている。
FAAMはその名の通り、アジアの現代作家の作品を収集し、類例がほとんどないコレクションを構成している。常設展では収蔵作品の一部が展示されているが、現代美術の表現の多様性が、アジアという文脈の中で豊かな成果を生んできたことがよくわかる。平面のみならず、立体造形や、飾りたてたリキシャ(後ろに客を乗せて走る三輪自転車)のようなオブジェまで、伝統美術とも、西欧的なポップアートともひと味違う世界が、そこにはある。
私が出かけた日は、たまたま「インドのカレンダー・アート」という企画展をやっていた。一九六〇年代以降のインドのカレンダー画に見られる女性イメージを展望する、実にユニークで興味深い内容だ。これはインドのコレクターのコレクションを中心とした展覧会だが、背景を理解するためにFAAM独自の企画によるビデオが作成され、会場で上映されていた。芸術という枠を考えたとき、境界ギリギリのところでジャンルの掘り起こしに取り組んでいるFAAMの姿勢には、好感が持てた。ちなみに、FAAMでは、「赤塚不二夫展」が開催されたこともある。
パンフレットには、FAAMが「交流型」美術館であることが大きく謳われている。FAAMは、著名なアジアの美術作家を招き、福岡に滞在しながら制作や市民との交流活動に従ってもらう「アーティスト・イン・レジデンス」というプロジェクトに取り組んでいる。また、美術館のホールでは、パフォーマンス系のイベントが、しばしば企画されている。福岡とアジアの交流、芸術家と市民の交流が、FAAMの大きなテーマなのだ。
ちなみに、FAAMの敷居は大変低い。常設展と企画展の両方を見て、料金は二百円。ミュージアム・ショップや喫茶スペース、ホールに立ち入るだけなら無料である。これだけの施設が、百三十万都市の都心にあるのだから贅沢な話である。
芸術を市民に身近なものとするために、行政が行うべき仕事は何か。FAAMから学ぶべき事柄は少なくないだろう。
2000/04/15 小路の先のバー
私は身体の都合があって、若い頃からほとんど酒を飲めないのだが、友人と酒場で話をするのは大好きで、カウンター・バーのようなところにもよく出かける。最近見つけた、洒落たバーのことを紹介しようと思う。といっても、残念ながら松本にある店ではない。松本にもあって欲しいような店だ。
古書店と美術商、そして骨董屋が並ぶ通りを横丁へ入ると、表の通りとは大違いの、車も入れないような小路が入り組んでいる。この辺りは、戦災にも遭わなかったらしく、古い小路の網の目がそのままだ。表通りが拡幅され、ビルが立ち並ぶようになっても、その背後では古い建物がひしめき合うように残っている。
しかし、私が入ってきた小路は、その古い建物に手を加え、小ぎれいに改装して飲食店にしている所が多い。シルエットは昔風の建物でも、今風の凝った外観と内装になっている。こういう所は、若者の客も多い。
小路の突き当たりを曲がると、三階建ての小さなビルがある。目的のバーは、この一階と二階を占めている。「ジャズ・バー」と看板にはあるが、店内に流れているのは、ヴォーカルものなど割とポピュラーな曲が多い。長いカウンターのほかには、ソファのようにふっくらした椅子のテーブル席が五つほど。連れと二人だったこともあり、テーブルの方にする。調度は黒が基調で、照明は適度に暗めだ。しかし、ここまでなら、どこにでもありそうな普通の洒落たバーである。
メニューを見る。すると、普通の飲み物もいろいろあるのだが、中央で大きくスペースをとっているのは、この店のオリジナル・カクテルだ。これがこの店のウリである。しかし、これまたありがちな話だ。ところが、このオリジナル・カクテルには、すべてNGOの名前が付いているのである。
メニューには、行政や政治活動をウォッチする市民オンブズマン活動の団体や、環境保護運動の団体などの名が、オリジナル・カクテルとして列挙されている。そして、それぞれのカクテルを注文すると、代金の十五パーセントが、当該団体への寄付にまわる旨の説明書きが記してある。なかなか粋な話ではないか。自分が賛同する団体の名が付いたカクテルを飲めば、自動的にそこへ寄付ができるという訳である。
連れは、せっかくの機会だからとカクテルの一つを注文した。残念ながら、私はコーヒーを頼んだのだが、出てきたのはハワイ風のヴァニラ風味と、これまた一風変わっていて気に入った。
ちなみに、この店があるのは、東京ではない。有名なソウルの骨董街、仁寺洞(インサドン)の近くである。
ここで言及している店は「ダルハ」という名でしたが、その後閉店してしまいました。2000年夏には店構えはあったものの閉まっており、臨時休業かとも思ったのですが、2001年2月に行ってみると、別の料理店に改装されていました。よい雰囲気で印象に残る店には、息の長い店もありますが、長続きしない所もあります。その極端な例のようにも思います。
[2001.03.10.記]
|
2000/06/24 新幹線「あさま」に乗る
はじめて長野から新幹線「あさま」に乗った。九七年秋の開業から、もう二年半以上経っているから、今さら「はじめて」というのも気の抜けた話だ。しかし、松本〜長野間、松本〜東京間はよく行き来していても、長野〜東京間を移動する機会は少ない。新幹線開業後にも、松本から長野に出かけることはあったが、車での移動ばかりだったから、長野駅の利用自体が新駅舎になってからははじめてだった。
「あさま」は確かに驚くほど速い。乗車してみて、速さを実感した。新幹線なのだから当たり前だと思われるかも知れないが、何度も在来線や車で移動した記憶のある区間だけに、僅かな時間で移動できることの驚きは大きかった。「あさま」なら長野から上田までが十三分、軽井沢までが三十三分である。
もう一つの率直な感想は、思いのほかの静かさだ。静かだ、といってももちろん空調の音やら何やら機械音はしているわけで、静寂なわけではない。しかし、一般の列車とは比べものにならないくらい、体感する振動は少ない。騒音も、種類が少ないせいか、発車してすぐに気にならなくなる。「滑るような」という感覚を久々に体験した。
しかし、私の乗った上りの終列車の「あさま」の座席は、平日とはいえほとんど埋まっていなかった。平日の「あずさ」に比べてもずっと閑散とした感じだ。安易に即断するのはいけないが、JRとしては、もっと利用率を上げたいところだろう。軽井沢でまとまった数の乗客が乗車してきたときには、新幹線建設以前、長野五輪決定以前に聞いた「北陸新幹線は軽井沢までしか採算性はない」という、まことしやかな説を思い出した。
長野から東京まで一時間四十分ということは、終列車も遅い。私が乗った上りの「あさま」の終列車は、午後九時四十分発で、東京には十一時二十分に到着する。「あずさ」の終列車は松本を午後八時発だ。東京からのお客さんは、長野なら宴席で二次会までつき合えるが、松本では一次会で帰らなければならない。この差はけっこう大きいのではないだろうか。
実は、「あずさ」の新宿行きの終列車に乗り遅れても、松本から東京へ戻る方法はまだある。午後八時二十七分発の普通列車で長野へ行くと、「あさま」の終列車に間に合うのだ。逆方向も同じで、午後九時十四分新宿発の「あずさ」の終列車に乗り遅れても、午後十時八分東京発の下りの「あさま」の終列車に乗れば、夜行急行の「ちくま」で午前〇時五十九分に松本へ戻ってこれる。午後九時四十七分新宿発の埼京線で大宮にゆけば、「あさま」の終列車に間に合う。これは覚えておく価値があるだろう。
2000/07/07 情けは人の為ならず
試験の後で、ふだん授業に出ていない学生が教員の所へやってきて「何とか単位をもらえないでしょうか」と泣き落としにかかったとしよう。これに応えて教員が「まあ、『情けは人の為ならず』だね」と言ったとする。この学生は、単位をもらえるのだろうか。
こんな質問を授業中に学生たちにして意見を挙手させると、「単位をもらえそうだ」と考える者と、「もらえないだろう」と考える者にきれいに二分される。つまり、「情けは人の為ならず」という諺が、ほとんど正反対の二通りに解釈されているのである。
単位をもらえると考えた者は、「情けをかけるのは相手の為ではない」つまり「情けをかければ巡り巡って、自分に情けが戻ってくるから、情けをかけるのは自分の為である」という意味で、この諺を理解しているのだろう。これを仮に、情けをかけることを促すという意味で促進説とでも呼んでおこう。
これに対して、単位をもらえないと考えた者は、同じ諺を「情けをかけると、その相手の為にならない」つまり「甘やかすと結局は相手をダメにしてしまう」だから「安易に情け心を起こすな」という戒めだと理解している。確かにまともに勉強しないまま単位がもらえては、学生はいよいよ勉強しなくなるだろう。こちらは逆に保留説としておく。
さて、促進説と保留説、どちらが「正解」なのだろうか。国語辞典をめくってみれば直ぐ判るが、「正解」は促進説の方である。もし、国語の試験にこの諺が出たら、促進説でないと「間違い」になるだろう。しかし、実際には保留説の方でこの諺を理解している人は、いい大人にも結構いるし、若者の間ではむしろ保留説の方が支持者が多い。これは単純に誤用が広まっているとか、日本語が乱れている、という議論で片づけてよいものではないように思う。
言葉の中には、誤用だったものが、やがて定着して正しい用法になる、という例がたくさんある。私自身の言語感覚としても、保留説は今や単純に誤用として排除できないレベルまで普及、定着しているように思われる。私自身が子どもだった三十年以上前に比べると、世の中には「優しさ」や「いたわり」や「甘やかし」が溢れている。保留説が浸透してきた背景には、そうした世の中のあり方が無関係ではないように思えてならない。
私自身は、この諺を保留説で使うことはないが、誰かが言及したときには、どちらの意味かを見極めるよう心がけている。たとえ保留説で使われていたとしても、いちいち指摘したりはしない。
もっとも私は、促進説の背景にある「かけた情けが戻ってくる」という感覚は、どこか浅ましい感じがして好きではない。この諺の意味は、損得勘定めいたところから一歩進んで、「情けをかけようとすることで、自分が磨かれるのだ」というくらいに受け取っておきたい。
そろそろ前期試験である。夏休みが近づいてくる。
2000/07/21 正しいアロハ・シャツ
梅雨から夏へ、暑さもいよいよ厳しくなってくる。穂高にいるときはともかく、東京ではクーラーなしでは寝心地が悪い。
暑さのせいか、このところ、アロハ・シャツを着る機会が増えている。昨年の夏、はじめてハワイへ行ったときに、新品や古着で何着ものアロハを買ってきたのだが、そのうち気に入った数着をよく着ているのである。
昨年夏のハワイ滞在は、長年、現地で調査を続けているY先生のグループに参加したものだった。滞在期間のほとんどは、カウアイ島という、ハワイの中では観光地化があまり進んでいない、サトウキビやコーヒーの生産で知られる島で過ごした。私のアロハ・シャツは、この島の(観光用ではない)普通のショッピング・センターや、街角の古道具屋で買ったものである。
Y先生には、ハワイに関する様々なことを教えていただいたが、アロハ・シャツについても面白い話を教えてもらった。アロハ・シャツには生地、色柄、仕立てのバリエーションが無数にある。しかし、Y先生によると、「正しいアロハ・シャツ」は、普通のシャツとは逆に、素材となる生地の裏地がシャツの表になっているのだそうだ。
この話を最初に聞いたときには、担がれているような感じがしたのだが、実際にショッピング・センターでアロハを品定めしていると、確かに比率は低いが、生地が裏表になっていて、内側に鮮やかな色の見えるシャツがある。今では少数派になっているが、もともとは、この裏表のスタイルがアロハの主流だったらしい。古着をあさっていると、しっかりした仕立ての裏表のビンテージ・アロハにたくさん見かけるし、町中でもこのタイプのアロハを上品に着こなした人を見かける。
さっそく、自分用と家族への土産用に、裏表になったアロハ・シャツを選んで買うことにした。古着で見つけた日本風の折り鶴の柄が入った一着などは、特に気に入ったが、サイズが小さく、母親への土産にした。
結局、滞在中にいろいろなアロハ・シャツを目にしたが、極めつけの一着を見かけたのは、カウアイ島のリフエ空港でだった。ハワイには、その名も「アロハ航空」というローカル航空会社があり、同社の職員は、そろいの柄のアロハ・シャツを制服にしている。ところが、リフエ空港のカウンターにいた、恰幅の良い中年男性が着ていたアロハは、同僚たちの制服とはちょっと違っていた。彼が着ていたのは間違いなく制服のアロハ・シャツだったが、生地が裏表になるように仕立て直されていたのである。実に小粋な姿だった。
2000/08/11 瀬戸内の眺め
松商学園短大に勤めていた頃、県外へ行くと、四国の松山にある短大かと早合点されることが多かった。松商学園も松山商業も、高校野球でそこそこ名が知られているが、半可通の人なら混同することもあろう。また、現在の松山大学が、当時は松山商科大学と称していたから、紛らわしいといえば紛らわしかったのだろう。
松本・松山間に航空路線があることを県外の人に言うと、何でそんな路線があるのかと不思議がられる。いくら不思議がられても、こちらも何故かはわからないので、一緒に不思議がるしかない。まさか、松商学園に行こうとして間違って松山へ着いた人が急いで松本に向かうために、この路線があるわけではないだろう。
昨年、松山在住の知人が、この便を使って出張にやってきた。彼は、プロペラ機が低めの高度で飛ぶこの路線は、アルプスが間近に眺められる、と感激していた。以来、私も機会があれば使ってみたいと思っていた。ちょうど八月上旬に、松山へ出かける用事があったので、いよいよ乗ろうと思ったのだが、間近になってから前日に東京で用事が入り、結局は、夜行バスで東京から松山へ向かうことになった。
考えてみれば、松山へ行くのは、まだ本四架橋が実現していなかった二十年近く前以来のことである。それが今では三本のルートで本州と四国が繋がれている。架橋で四国は近くなった。
夜行バスは、早朝の穏やかな朝陽を受けて児島・坂出ルートを走る。眼下には瀬戸内海が広がる。無数の島々が散在し、陸も起伏に富んでいる。小さな島や山の丸みを帯びた柔らかな稜線が美しい。海には多数の船舶が行き交い、海でも陸でも人々の生活が風景の中に刻み込まれている。瀬戸内海は、日本海とも太平洋とも風情が違う。雄大さには欠けるが、明るい海だ。
残念ながら四国の高速道路は内陸を通っているので、橋を渡ってからは風景もやや面白味に欠ける。その点、出張からの帰途に走ったJR予讃線からの眺望は面白かった。予讃線も、海岸沿いを走る区間は決して長くはないのだが、その区間の眺めは美しく、心が和むものだった。漁をしている漁船も、水上スキーに興じるプレジャーボートも、夏の陽射しの中で全てが明るく輝いていた。
帰ってきて改めて、四国へ行くには、やはり海の見えるルートをいろいろ試してみたいと思った。自分がまだ松山便に搭乗する機会がないのでひがんでいるわけではないが、アルプスはともかく、瀬戸内海の風景の魅力は飛行機向きではないような気がする。もちろんだからと言って、松山便に乗ってみたいという気持ちが失せたわけではない。
つらつら考えるに、広島辺りに出かけるときに、松山便で松山へ行き、「じゃこ天」でも買ってそれをかじりながら、フェリーに乗るというのもなかなか面白そうだ。旅の楽しみは、ルートを想像、というより妄想するところから、もう始まっている。
2000/09/08 「冬の時代」の大学と地域(上)
一昔前から囁かれていた「大学冬の時代」という言葉は、もはや大学関係者の間の業界用語ではなく、一般の方々の耳にも届くようになっている。戦後一貫して増加してきた大学進学希望者の数は、頭打ちとなって減少に転じ始めた。一方で、大学の入学定員は増加し続けている。簡単に言えば、大学はどんどん入りやすくなってきているのである。
大学が入学しやすくなり、希望する誰もが大学で学べるようになるのは、決して悪いことではない。しかし、実際のところ、この変化は、ほとんどの大学に教育内容の見直しを強い、一部の大学には危機的な状況をもたらしている。短期大学や一部の大学では、厳しい定員割れの状況が現実になっている。東京経済大学でも、今春、短期大学部を募集停止とし、現代法学部に改組転換したが、あと数年遅れていたら、短期大学部の定員割れは避けられなかったことだろう。
短大をめぐっては、長野県内でも、ここ数年来いろいろな動きが出ている。もともと長野県には、国立の信州大学のほか、上田市の長野大学と塩尻市の松本歯科大学があるものの、高等教育のかなりの部分は県立や私立の短大が支えてきた。県内の高校を卒業して進学する者の多くは、東京など県外各地へ流出し、親元を離れにくい女子の受け皿として地元の短大が各地にできる、というのが基本的な図式であった。ところが、県外の有名大学をはじめ、四年制大学等への進学のチャンスが広がったため、県内の短大進学希望者は、全体として大幅に減少してきた。昨今では県内でも、受験生を確保して教育水準を維持している短大と、充分に受験生を集められず一部の学科では定員割れにも陥っている短大との、二極分化の傾向が見受けられる。
定員割れにまで至らない場合でも、受験生が急減した短大では、教育体制の立て直しに追われていることが多い。また、経営の更なる悪化に備えて、運営経費を圧縮しようする動きも強まっている。一部では、教職員の待遇切り下げもはじまっており、これに対抗して新たに労働組合が結成されるといった例も出ている。
しかし、視点を変えると、「冬の時代」とはいえ、長野県内に限って見れば、四年制大学はまだまだ不足している。ここ数年来、県内でも、経営的にも教育研究の面でも充実している短大が、四大への昇格を模索する動きがいろいろとあった。先行きの厳しい短大を改組して、地域に密着しながら地域の次代を担う人材を育成しようというわけである。
しかし、大学経営に厳しい逆風が吹く現状の中で、こうした衣替えを試みても、学校法人の独力では到底難しい。自治体などからの支援がなければ、四大への改組転換は実現し得ない。学校法人、短大側の力量のさることながら、自治体等が、地域の合意形成を踏まえ、どれだけ充分な支援体制を組めるかが、四大への昇格の大きなポイントとなってきているのである。
2000/09/09 「冬の時代」の大学と地域(下)
短期大学の将来を考えたときに、短大としての生き残りを図るべきか、四年制大学への転換を図るべきなのかは、個々の短大の置かれた事情によって異なるだろう。しかし、地域から応分の支援を得られる見込みがあるならば、四大への昇格を目指すという方針は、もっとも積極的な展望が開ける、いわば夢のある選択肢である。
実は、こうした事態の展開を予想して、十年近く前からいち早い動きを見ていたのは、長野市の県立短大だった。しかし、県の財政事情や、社会的要請の変化などもあって、昨年、駒ヶ根市に県立看護大学が設置されたものの、県立短大の四大化は実現しなかった。またこの間、塩尻市は四大の誘致に熱心に取り組んだが、結局は実を結ばなかった。つい先日も、辰野町で信州豊南短期大学を経営している豊南学園が、岡谷市に協力を要請していた四大新設計画を撤回した、というニュースが報じられた。
一方、茅野市の東京理科大学諏訪短期大学は、二〇〇二年に諏訪東京理科大学を開学すべく準備を着々と進めている。また、松商学園短期大学が、松本市をはじめ諸団体の支援を受けて、松本大学の開設を準備していることは、本紙でもたびたび報じられている。地域から少なからぬ金額の支援を受け、四大への昇格を目指すというのは、決して容易なことではない。今のところ県内では、この二大学だけが、具体的な歩みをはじめている。
もちろん、短大から四大に昇格すれば、それで万事うまく行くというものではない。実際、短大ばかりでなく四大の中にも定員割れを引き起こしている大学は少なくないし、その多くは、最近新設された歴史の浅い大学であることが多い。短大から四大への昇格は、一つ間違えば、経営資源を大きく費やしながら、むしろ経営の悪化を招く契機にもなりかねないのである。
大学は、開学することがゴールではない。開学は、地域の中で大学がしかるべき役割を果たして貢献し、また地域から様々な形で支援を受けるという関係の最初の一歩である。先頃、岡谷市での四大開設計画を撤回した豊南学園は、計画に対する岡谷市の支援策が市議会でまとまらない状況を受け、「岡谷市民の理解が得られない」として計画を取り下げた。地域の支持がなければ、大学設立のために公的資金を投じることはできない。地域の支持がなければ、設立後の大学は学生を集めることもできない。
諏訪東京理科大学の場合も同じことだが、松商学園や松本市をはじめ、松本大学への支援に取り組んでいる関係団体には、この際、地域と大学の好ましい関係について真摯な議論を深めて頂きたい。単に学生の教育、地域経済に資する人材育成といった視点からだけでなく、このところ特に重要性を増している生涯教育への大学の貢献や、情報化の拠点として大学が果たすべき役割といった観点も含めて、地域における大学のあり方を考えていくことは、開学後の大学のためにも、地域のためにも、大きな意義を持つはずである。
2000/11/15 狙われたカード
富山県へ出張していたときのことだ。夜、宿から自宅へ電話を入れると、家人がクレジット・カード会社から電話があったという。何でも、大至急連絡が欲しいと言っていたという。大至急といっても、通常の営業時間しか電話は受付けないというから、夜のうちは何ともしようがない。まさかカードの紛失かと思って、手元を確認すると、カードはいつもの通り財布にしっかり入っている。のんびり構えて翌朝に電話を入れることにした。
翌朝、クレジット・カード会社に電話して判ったのは、何者かが私の名義でカードを不正使用したが、未遂に終わったということだった。要するに、どこかで私のカードのデータを盗んだ何者かが、私のカードと同じように使えるはずの偽カードを作成して使用したが、クレジット・カード会社のチェックに引っかかって、実際にはその偽カードは使えなかったのである。
この種の手口のカード犯罪が増えていることは、ニュースとして見聞きしていたので、状況は直ぐに了解できた。幸い、カード会社のチェック機能が有効に働いて、私に実害はなかったが、こうした事件が身近にあることを改めて感じた。
それにしても、私がずっと持っていたはずのカードのデータを、どうやって盗んだのだろう。実は、この出張の時、私は共同調査グループの会計役だったので、財布には二十万円以上の現金が入っていた。だから、財布は普段より慎重に管理しており、宿で風呂に入るときも、同僚が残っている部屋にしまっておいた。もし、私のカードの現物を、データ複製のために盗み出したとすれば、現金を抜く方が簡単で確実だったはずだ。
そうなると、あくまでも推測だが、これまでにカードを使用した店のどこかで、不正にデータを複製されたと考えるのが一番自然である。これには、店の従業員が不正に荷担している場合もあるが、最近では、カードの加盟店にある端末機などに、店の関係者も知らないうちに秘かに手を加え、データを盗み取る手法もあるそうだ。
クレジット・カード会社にとって、チェック機能のノウハウは企業秘密だ。当然、詳しいことは教えてもらえないが、今回の件は、その会社の直接の加盟店ではない提携カードの加盟店で、普段の私のカード使用パターンとは異なる形で、大きな金額の買い物(それも換金性のある商品)が行われようとしたため、ストップがかかったらしい。
今回の一件で私の手元のカードは使えなくなり、カード会社に返すことになった。新しいカードが来るまでしばらくカードが使えない。次の請求明細が来たときには、注意して確認しなければいけないが、一応、実害がなかったのは何といっても幸いだった。
2000/12/12 されど年賀状
世紀末の二〇〇〇年も押し迫り、そろそろ年賀状の準備が忙しくなる頃だ。もともと年賀状は、年始の挨拶まわりに代わるものとして、また、書き初めにも重なるものとして、新年が明けてからしたためられるはずだったが、元旦の配達が定着してからは、前年中の投函が普通になった。忙しい年末は、年賀状の準備でますます忙しくなっている。
昔から、年賀状は、印刷屋さんに頼むか、自分の手作りで趣向を練るか、大いに迷うものである。たかが年賀状一枚、適当に作ってもよいと思うのだが、それが社交の一形態であり、年に一度の顔つなぎになるとすれば、うかつには何もできない。たかが年賀状、されど年賀状である。
私も毎年、いろいろ迷っているうちに時間の余裕がなくなって、ばたばたと手作りで年賀状を用意することが多い。それどころか、年賀状の時期には間に合わず、新年が明けてしばらくしてから、(年賀欠礼をいただいた方のみならず)年賀状を送るべき方全員に、寒中見舞いを送ったこともあった。
ひとくちに手作りといっても、時代とともに手法はいろいろ変化してきた。私が子どもだった六〇年代には、受け取る年賀状にイモ判や版画の類がけっこう多く、自分でも何度か試みた覚えがある。八〇年代になると、多色刷り簡易謄写版印刷機「プリントゴッコ」(商品名・一九七七年発売)を使った年賀状が増えてきた。
パソコンを使って印刷した年賀状は、九〇年代に入って増加し、年々その画質が向上してきた。近年ではプリンタ印字用の年賀はがきも販売されている。宛名書きの方も、パソコンで管理され、印字される比率が高まっている。せめて宛名くらいは直筆でという感覚の持ち主は今では少数派だろう。ソフト開発の面でも、こうした方向性を踏まえて、毛筆体で宛名を印字できる住所管理ソフトなどが広く支持されている。
いずれにせよ、せっかく手作りに挑戦するからには、手法が何であれ、自分らしく個性的な年賀状に仕上げたいものだ。相手方が、受け取った年賀状の山から一枚一枚を見ていくときに、思わず引き込まれ、ニコリとするような一枚を作れるとしたら、それこそ新年にふさわしくおめでたいことであろう。
ちなみに今度の新年は、ただ新しい年というだけでなく、新世紀最初の年であり、新千年紀(ミレニアム)最初の年でもある。「年賀状」といわず、「世紀賀状」とか「ミレニアム賀状」と呼べば、おめでたさもいっそう大きくなりそうだ。
いっそのこと、「旧世紀中はお世話になりました、新世紀もよろしくお願いします」と挨拶する世紀賀状を送れば、あと百年間は、毎年の年賀状に追いまくられずに済むかもしれない。
ところで、読者の皆さんは、年賀状を投函済みだろうか。手際よく済ませた方もこれからという方も、素晴らしい新世紀を迎えられることをお祈りして、今世紀の締めくくりとしたい。
このページのはじめにもどる
1999年///2001年の「ランダム・アクセス」へいく
テキスト公開にもどる
連載コラムにもどる
業績外(学会誌以外に寄稿されたもの)にもどる
業績一覧(ページトップ)にもどる
山田晴通研究室にもどる
CAMP Projectへゆく