■はじめに
本稿は、戦時統制以前の昭和初期に、長野県松本市において多数刊行されていた小規模日刊新聞を対象として、紙面から読みとることのできる内容の一端を整理しようとするものである。もともと長野県は、県域が山地によって縦横に分断され、盆地や谷筋を中心とした地域ごとに生活圏が自立する傾向が強い。とりわけ、松本市を中心とした「松本平」と称される範囲は、県都・長野市を中心とした「善光寺平」に匹敵する地域として、長野県の中でも大きな位置を占めている2)。長野県におけるメディアの歴史を見ていくと明らかなように、松本市では、長野市に成立する県域メディアに対抗するかのように、地域メディアが成立することが多かった3)。なかでも、戦前期の松本市における新聞の乱立は、他の地方都市に例を見ないほど著しいものであったといわれている4)。
ところが、後述するように、この時期の新聞紙面の現物は、ごく一握りの最も有力だった数紙を除いて、ほとんど残されていない(あるいは、史料として発掘されていない)のが現状であり、実際の紙面の現物に即した紙面分析的な研究は存在していない。明治期の新聞が、いわば例外的で貴重な存在だったために、保存もされ、研究も進んでいるのに対し、大正から昭和初期にかけて、新聞の普及が進んだ時期の紙面は、新聞統制の時代に生き残った県紙を別にすれば、多くが散逸し、忘れられた存在になっているケースが大半である。特に、ここで焦点を当てる小規模な地域紙には、有力紙とは少々違った怪しげな存在が多かったこともあって、従来から研究の対象として取り上げられることはほとんどなかった。
本稿は、筆者が偶然からその存在を知った松本市の個人蔵の地域紙現物を考察の対象とした研究の一部を成している5)。詳細は後述するが、この紙面の現物は、断片的ながら、多くの情報を読みとることのできる貴重な史料である。本稿では特に、松本市における新聞の歴史に関する記述の中で、従来からしばしば一般的に述べられてきた小規模地域紙の特徴が、具体的にはどのような形であったのかを確認していくことにしたい。なお、本稿で直接言及する紙面は、今回利用できた紙面のすべてを網羅するものではないが、議論を整理していく上では、すべての紙面が何らかの意味で参考になっているものと理解して頂きたい。
■戦前の松本市における小規模日刊紙
松本市では、1872(明治5)年の『信飛新聞』以降、自由民権運動と関係した新聞や、政党系新聞などが多数興亡を繰り返したが、やがて1894(明治27)年創刊の『信濃日報』と、1899(明治32)年創刊の『信濃民報』が、それぞれ改新党と政友会を背景に成立し、松本市を代表する有力紙として定着するに至った6)。その後、新聞統制によって両紙を合同した『信州日日新聞』が1940(昭和15)年に成立するまで、両紙は松本市の代表紙として、長野や東京など地域外の新聞の販売攻勢の中、一定の部数を保ち続けた7)。この明治末から新聞統制に至る時期は、第三の有力紙として『志な野』が刊行された1925(大正14)年から1928(昭和3)年にかけての短い時期を含めて、両紙が他の地域紙に大きく差をつけ、競い合った「二紙体制」の時代と捉えることができる。しかし、この「二紙体制」の時代にも、松本市で発行されていた新聞は、まだ他に数多く存在した。厳密に言い直せば、松本市で発行しているものとして届けられていた新聞は、『信濃日報』と『信濃民報』以外にも多数あったのである。
戦前期の小規模な新聞の中には、新聞とは名ばかりで、もっぱら強請、集り同然の行為によって収入を得ていた、「悪徳新聞」、「ゴロツキ新聞」、「朦朧新聞」などと称されるものも少なくなかった。特に、中央の権力の目の届きにくい地方では、この手の新聞が多かったものと思われる8)。戦前の松本市で叢生した多数の地域紙も、その大半は、やはり余り尊敬できるような新聞ではなかったようである。松本市における新聞の歴史には、こうした小規模な地域紙に関係した事件として、1904(明治37)年の「新聞疑獄」と、1922(大正11)年の「小新聞退治9)」が記録されている。
1904(明治37)年の「新聞疑獄」について、松本市役所(1933,p729)は、次のように記述している。
(……)そは吉田に一失あり酒に対すれば往々にして流連荒亡事を誤る。松本新聞創刊以来諏訪地方に集め得たる資金又悉く其酒資に供され、毫も経営に用ゆる能はざりしに由るものにして、吉田退きて日報に復し、過なかりしの上野出され反て松本新聞に寄る、而も又久しからずして去るや、石塚獨り残塁を死守す、偶ま松本未曾有の新聞社員疑獄事件起り、其影響直に各社に及ぶ。要するに、新聞経営者の中に非常にいい加減な人物がいて、人の出入りが激しかったところに、疑獄事件が起こり、多数の新聞社の関係者が摘発されるに至った、というのである。この一件は、『信濃日報』や『信濃民報』についても、行方をくらました記者は出る、くらまそうとして逃げ切れなかった者が出る、という大事件だったようであり、事件から30年近くが経過した時点でも、詳しい経過を記述することには差し障りがあった様子が行間から伝わってくる。
何時もながら各社の財政斎く窮乏、特に新興に於て最も甚し。されば、賛助金或は前拂の新聞代金、廣告料金は往々出向したる社員に於いて脅迫強要となり、更に其社に出入りしたる者にして漫に社員と稱し脅迫威嚇に出るあり批難紛々たり。検事局之を聞き注意の中に於て松本新聞社員渡邉治が検事鈴木豊次郎の住宅たるを知らずして不穏の請求を行ひしかば罪跡明白、検事審問せらるゝに従い醜類續出、南信評論・信陽新聞等諏訪より押送せられたるものを加ふれば前後五十七名に及び、軽重の處刑又十餘名に及べり。此内松本新聞實業新報各三四名あり。幸にして日報民報共に一名の被疑者を出さゞりしが、反つて両社の三面記者にして早く踪跡を昧まし、以て其難を遁れしもの三名、遁れて遁れ得さりしもの一名ありき。只事餘りに雑多にして今や明かならざるあり、兎に角省略に従うべし。(……)
翌十一年は警察署長小林嘉三郎の小新聞退治に始まる、明治三十七年の打撃に次げる新聞社員の疑獄なり。署長は所謂小新聞に關係ある多くの社員に廣告強請等の續出するを見て、最早寛假す可からずとし、之を一網打盡せんと欲せるものにして、一月決行の手は先づ美篶新聞及市場農蠶新聞に下り、廿九日の拘留に處せられたるもの各二名、将来新聞に従事せざるの誓約を以て免せられたる者両三名あり。而して其手は他新聞にも延び一時二十餘名に及べるが老獪逋脱、結局效は勞を償はず。乃ち方針を變じ小新聞の合同を慫慂せしかば、信濃新報・商工新聞・信濃時報・松本新聞・松本毎日新聞は快く之に應じ、直に松本新聞合同株式會社の計畫を開始せるが、そは只計畫に止まりき。顧みれば大新聞を以て居れる者が、是等の小新聞と伍すること屑とせず、六年の忘年會には朦朧新聞退治の決議を為し、八年の新年宴會には日刊記者のみを以て開かれたり。然れども當初毎月一回又は三回なりしものも、警察の小新聞退治頃は各成長し頭を擡げしかば、最早大新聞の力も之に加ふる能はず、其れだけ又小新聞にも各社立脚の地在りしかば、遂に其合同も協定に至らざりしなり。(……)つまり、もともと「朦朧新聞」とか「小新聞」とかは廃止すべきだとかけ声だけはかかっていたが、実効が上がらなかったため、警察による「退治」が行われた。しかし、それも結局のところは「效は勞を償はず」つまり、効果がなかったというのである。ここで、効果がなかったと述べているのは、そうした新聞が存続したという意味ではなく、ある新聞が潰れても、それに携わっていた人たちが別の形でどんどん新聞を出す、といったことが繰り返されたということのようである。
(……)今日に於ては同種相重り肩々相摩し、各々の存在意義を相互に抹殺し、不識の間に要せざるを強ひ小範囲に相競ひて大局の人物経済資源節約の国策に悖り、延いては往年の景仰と感謝とを失はるゝなきかを恐れしむる状況をも認められ、業界の為深く惜む処に候、斯る趨勢は勢ひここで、きわめて具体的に列挙されている新聞非難の各項目は、かつての「朦朧新聞」非難と全く重なっている。新聞整理という形で押し進められて新聞統制は、以前から社会に存在した新聞に対する否定的な評価をすくい上げる形で展開されていったのである。
一、他人の名誉信用を損し業務の妨害になるがの如き記事を掲げ、或は之を利用して恐喝強談威□に出づるもの、
二、賛助金、寄附金、広告等新聞の威力を巧に利用して強要するもの、
三、申込みを為さざる新聞を配達し、申込みなき広告を掲載して其の代金を強要し、
四、一般に関係なき各方面の暴露記事を掲載して公益性を没却せるもの、
五、不義密通の男女関係並花柳界方面の風俗上好しからざる記事を多く掲載し、
六、一定の発行時期に理由なく発行せず、若は納本のみを発行糊塗するが如き確実性なきもの、
七、記事に権威なく且紙面の過半を広告を以て充すが如きもの
等、新聞紙の使命を没却して世人の顰蹙を買ふものも尠からざるの実情にて、時局に鑑み遺憾此事に有之候、素より各社には各々永き伝統と特異の環境とを有せらるゝの尊重せらるべきは言を俟たざる処に候へ供、宜しく時勢の趨く処を察せられ、新聞紙本来の使命達成の為、或は数社の合併を企図し或は自発的に廃刊統合の実を挙げらるゝ等可然善処相成様致度、茲に微衷を披瀝して観奨を申上ぐる次第に御座候、
表1 川舩一氏所蔵の地域紙 | ||||||
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題 号 | 紙齢 | 発行日 | 刊行 形態 | 判型(mm) | 面数 | 備 考 |
信州報知新聞 | 174 | 1928.07.18. | 日刊 | 480×315 | 2 | |
信濃新報 | 3670 | 1928.07.19. | 日刊 | 390×270 | 2 | 夕刊。 |
信濃時報 | 1911 | 1928.07.19. | 日刊 | 315×230 | 4 | 欠損あり。 |
松本新聞 | 2181 | 1928.07.20. | 日刊 | 400×275 | 2 | 夕刊。 |
夕刊商工新聞 | 4704 | 1930.11.10. | 日刊 | 390×275 | 2 | 夕刊。切りとり、欠損あり。 |
岳東タイムス | 3 | 1931.02.01. | 日刊 | 400×275 | 4 | |
松本毎日新聞 | 4772 | 1931.02.03. | 日刊 | 315×235 | 4 | |
松本新聞 | 2899 | 1931.02.03. | 日刊 | 400×275 | 2 | 夕刊。 |
高日本 | 92 | 1931.03.25. | 旬刊 | 400×275 | 4 | 欠損あり。 |
興信新聞 | 92 | 1931.03.29. | 週刊 | 395×275 | 4 | 長野市で刊行。 |
深志 | 352 | 1931.09.10. | 日刊 | 315×230 | 4 | |
大衆日報 | 1551 | 1932.12.13. | 日刊 | 315×230 | 4 | |
判型は紙面の縦×横のサイズで実測し、5mm刻みの概数で示した。 |
表2 紙齢の表示からみた刊行頻度の推定 | ||||
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題 号 | 紙齢 | 発行日 | 創刊年月日 | 年刊行頻度(概算推定) |
信州報知新聞 | 174 | 1928.07.18. | 1924.08.10. | 320.8(44.2) |
信濃新報 | 3670 | 1928.07.19. | 1908.12.07. (日刊化 1910) | 207.2(1910年初からの期間で計算) |
信濃時報 | 1911 | 1928.07.19. | 1917.11.20. | 179.0 |
松本新聞 | 2181 | 1928.07.20. | 1919.10.01. | 247.9 |
夕刊商工新聞 | 4704 | 1930.11.10. | 1914.08.03. | 289.0 |
松本毎日新聞 | 4772 | 1931.02.03. | 1920.12.28. | 創刊以来の日数より紙齢の方が大きい。 他紙からの紙齢継承か? |
松本新聞 | 2899 | 1931.02.03. | 1919.10.01. | 283.9(2181号からの期間で計算) |
深志 | 352 | 1931.09.10. | 1928.06.01. (日刊化不詳) | 日刊化の時期が不明で,推定できない。 |
大衆日報 | 1551 | 1932.12.13. | 1927.08.--. (日刊化 1928) | 313.3(1928年初からの期間で計算) |
また、「これらの新聞の記事は大体大楢通信から買ったもので記事など書けるものは少なく、甚だしきに至っては文字も書けぬものが新聞を発行していたのだからその品位は知れたものだ」と石川葉村は当時を追憶して嘆いている。また中島瓢堂は大高原で「松本には近くいろいろの新聞が新に生まれると言はれる。何でも従来の社にいた社員が独立してやる計画らしい。信州人の協力大をなすを知らざる欠点の現れかも知らん。どうせ似たような新聞を出すなら信濃日日の大楢君に原稿を任せて、平野商工新聞あたりを頼んで題字と見出しを取り換えて一まとめに印刷して貰ったらどうだ、その方が経済的で経営も幾分楽にならう」とやゆしている13)。当時、記事の引き写しが日常的に行われていたことは、半ば常識的に語られているが、具体的にどのようなものであったのかは、必ずしも紹介されていない。川舩氏所蔵の地域紙のうち4紙は、発行日が1928(昭和3)年7月19日前後に集中している。そこで、この4紙の内容を比較検討し、併せてこの前後の『信濃日報』の紙面を参照したところ、典型的な記事の引き写しの例が発見された。以下では、少し性格を異にするものと思われる2件の引き写しの事例について、具体的紙面に即して検討していきたい。
「質素になった今年の登山者 むだ銭は決して使わぬ」この日の『信州報知新聞』の紙面は、「燕は乾性 上高地には濕性を栽培 北アルプスの高山植物園」という記事がトップで、他にも「乗鞍に登るなら頂上で一泊しろ 七合目は山櫻滿開」、「全國の青年團代表 檢ヶ岳で登山講習」といった山岳関係の記事が集中的に掲載されている。この一連の記事は、記者が営林署などへ取材に行き、まとめて書き上げたものと推測される。仮にこれら全てが他紙からの引き写しだとすれば、相当量の一連の記事を引き写したことになり、かなり不自然である。したがって、この記事自体は、他紙からの引き写しではなく、『信州報知新聞』の自前の記事と考えてよいだろう。
北アルプス登山は愈々最盛期に入り山上は至る處満員の盛況を呈して居るが登山が庶民隊級に普及したのと又一つには財界不況の影響を受けた為か今年の登山者は服装並びに山上の生活状態が驚く程質素で酒ビール其の他の贅澤品は數年前の三分の一も賣れなく案内人や強力も規定の賃銀以外にチップの思想を受ける事が全く稀であると山上の營業者は此の不景氣振りに驚いて居る
(『信州報知新聞』昭和参年七月拾八日、一面)
「登山者にも不景氣風」しかし、こうした記事の引き写しは、小規模地域紙だけの行為ではなかった。松本を代表する地域紙である『信濃日報』も、同様の行為は日常的に行っていたようだ。『信濃新報』のさらに翌日、20日付の『信濃日報』にも、同趣旨の記事が掲載されている。
北アルプス登山は愈よ最盛期に入り松本驛を通過する登山者は連日四百名内外に達して居るが登山が一般區した為と財界不況の影響を受け今年の登山者は服装も質素で山上の生活状態も驚く程節約し酒ビール其他ゼイ澤品は二三年前の三分の一も賣れず案内人や強力も規定の賃銀以外チップを貰ふ事は全くまれであると山上の營業者は此の不景氣振に驚いて居る
(『信濃新報』昭和三年七月十九日、一面)
「不景氣風が山の上まで吹く チップも少く案内人や強力の嘆聲」表現を比較すれば明らかだが、『信濃日報』は、『信州報知新聞』ではなく、『信濃新報』の方を見て引き写している。しかも、数字の一部に食い違いがあるが、ほとんど丸写しに近い。地元の代表紙といえども、記事の引き写しは日常的な営みだったのであろう。
北アルプス登山はいよいよ最盛期に入り松本驛を通過する登山者は連日三百名内外に達してゐるが登山が一般化した為と財界不況の影響をうけ今年の登山者は服装も質素で山上の生活状態も驚くほど節約し酒、ビール其他贅澤品は二三年前の三分の一も賣れず案内人や強力も規定の賃金以外チップをもらふ事は全く稀であると山上の營業者は此の不景氣振に驚いてゐる
(『信濃日報』昭和三年七月二十日、三面)
「裁判審理中の[A:氏名省略]又暴れる 今度は棍棒で脅迫 松本署で厳重取調べ」
松本市駒町米穀商[A:氏名省略](四五)は前後四回に亘り同業市内城西町[B:氏名省略]方へ兇器を持つて侵入し脅喝罪で告訴され松本區裁判所で審理中のものであるが又々十七日午後十時頃こん棒をもつて同家へちん入し二百圓を借せろと脅迫中松本署員に取押へられ目下厳重取調中
(『信濃日報』昭和三年七月十九日、三面)
「米屋の[A:名省略]審理中暴れる」
松本市駒町米穀商[A:氏名省略](四五)は前後四回に亘り同業市内城西町[B:氏名省略]方へ兇器を持つて侵入し脅喝罪で告訴され松本區裁判所で審理中のものであるが又々十七日午後十時頃こん棒をもつて同家へちん入し二百圓を借せろと脅迫中松本署員に取押へられ目下取調べ中
(『信濃時報』昭和三年七月十九日、三面)
「コン棒をたずさへ金銭を強要して亂暴 以前も數回に亘って脅迫」これら3紙の記事のうち、『信濃日報』と『信濃時報』の記事は、見出しと最後の文の文末以外は、まったくの同文である。しかし、同じ日の朝刊に掲載されたものなので、記事が印刷された後の引き写しではない。これが現代のことであれば、警察発表をそのまま記事にしたのだろうと疑いたくなるが、この場合は、警察発表のような公的な情報源の共有に起因する記事の類似ではない。原因は、共通の通信記事の引き写しに求められる。もちろん通信記事といっても市内での事件であり、東京などからの電報通信ではない。このような酷似した記事は、宮下(1965,p232)が引用した石川や中島が指摘したような、地元ニュースを記事の形に仕立てて流す「通信紙」、ないしは、「通信」屋が存在し、『信濃日報』のような地元の代表紙の紙面にも、そうした「通信」による記事が反映されていたことを如実に示すものである。
市内コマ町[A:氏名省略](四五)は十七日午後十時頃知人である市内城西町[B:氏名省略]方にコン棒をたずさへて亂入百二十圓を出せ出さなければ叩き殺すぞと脅迫し始末に行かぬので家人が松本署へ急報、係官出張[A:名省略]を本署に引致取調ると以前にも數回同家を訪づれ金銭を強要した事があつたが應じなかったので最後の手段に出た者であると
(『信濃新報』昭和三年七月十九日、一面)
「新聞取消申込」つまり、この「事件」はまったくの虚報だったのである。『信濃日報』以外については、記事掲載日以外の紙面がないので確認できないが、少なくとも『信濃日報』は、この「取消申込」を紙面に掲載せざるを得ないところまで追い込まれたのである15)。記事の内容からすれば、記者が警察や裁判所に裏付けをとる取材をしていれば、即座に虚報であることが判明していたはずの素材である。この事例は、全く事実関係がないにもかかわらず、複数の新聞社に何らかの形で情報を流して、そのまま垂れ流しの報道させることが可能であったこと、それが『信濃日報』のような地域の代表紙をも巻き込んだ形で、(おそらくは頻繁に)行われていたことを暗示している。そして、『信濃新報』の記事の独自性は、素材となった「通信」を、記者が潤色した結果ではないかと疑われるのである。
拝啓貴紙昭和三年七月十九日發行第一一九〇七號三面記事中裁判審理中の[A:氏名省略]又あばれると題し自分對[B:氏名省略]に關する記事之有候[一字欠]自分は深夜棍棒をもって[B:氏名省略]方[一字欠]侵入脅喝したる事實なく又金銭上の交渉等はさらに之無く又裁判所の審理をも受け居るものに之無く全く事實無根にして何人かゞ為にする事有つての報導と存じ従つて自分の迷惑一方ならず候に付き全文御掲載の上御取消相成り度此段申し込候也昭和三年七月廿日[A:氏名省略]印信濃日報社御中
(『信濃日報』昭和三年七月二十一日、三面)
「中條の踏切で 美人の飛込自殺」
十七日午前二時三十分松本驛發上り貨物列車が松本驛構内南方にあたる中條踏切附近を驀進中一見二十才前後の美人が列車目がけて風込み頚部を切斷され無惨の最後を遂げた[以下略]
(『信州報知新聞』昭和参年七月拾八日、一面)
「中條の魔の踏切で 若い女の轢死」『信濃日報』を信じれば、貨物列車は飛び込みに気づかずに現場から去り、その後、死体があったのを通行人が見つけて警察に届け出た、ということになる。そうすると『信州報知新聞』の「一見二十才前後の美人が列車目がけて」飛び込んだというのは誰が目撃していたのか、ということになる。要するに、『信州報知新聞』のセンセーショナルな報道には、著しい潤色が施されていたのではないかと疑われるのである16)。
十七日拂暁松本驛を去南方約五丁南中條地籍すゝき川鐵橋に接した魔の踏切りに首を切斷されてゐるうら若き女の轢死體あるを通行人が發見して松本署[三字欠]出た[以下略]
(『信濃日報』昭和三年七月十八日、三面)
表3 「ハガキ集」の概況 | ||||
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題 号 | 掲載面 | 表 題 | 本数 | 商店等関係本数 /対応広告本数 |
信州報知新聞 | 2/2 | はがきよ便り | 14 | 4/2 |
信濃新報 | な し | |||
信濃時報 | 3/4 | 浮世百態 | 10 | 2/2 |
松本新聞 | 2/2 | はがき集 | 14 | 4/3 |
夕刊商工新聞 | 3/4 | ハガキ欄* | 12 | 1/0 |
松本毎日新聞 | 3/4 | ポスト | 7 | 0/0 |
松本新聞 | 2/2 | はがき集 | 11 | 5/1 |
深志 | 3/4 | ハガキ欄* | 12 | 0/0 |
大衆日報 | 2/2 | ポスト | 20 | 9/3 |
「今朝の登山者 三百名」この『信州報知新聞』の記事が、この時期の常設欄か、この日だけの単発記事なのか不明である。また、前日付の『信濃日報』には、十六日のデータによる記事が載っている。こちらは、単発記事で、前後数日間に同様の記事はない。
十七日松本驛を通過した登山者は信濃鐵道へ百十名筑摩鐵道へ百八十二合計二百九十二名であつた
(『信州報知新聞』昭和参年七月拾八日、一面)
「昨日の登山者 松本驛賑ふ」『信濃新報』の記者は、『信州報知新聞』の二つの記事から記事を作ったか、『信州報知新聞』の記事に『信濃日報』からの情報を加えて、記事を構成した可能性が大きい。また、『信濃日報』の記者は、『信濃新報』を引き写しながらも数字の操作に気づき、数字だけを直した、ということになる。その際、『信濃日報』の記者が参照した情報源は確認できないが、毎日記事にはなっていなくても、松本駅が登山者数を毎日公表していた可能性は大きく、おそらくはその最新の発表にしたがって数値を書き換えたものと思われる。
十六日朝松本驛にをしよせた登山者は四百十九名で信鐵二百十二名筑鐵二百七名おもたるものは名古屋並に東京鐵道局、四高、横濱商工、中央大學、明大、大阪高商等である
▲川岸村の下地方帯で昨年の新聞紙代を踏み倒し申候(それで疑員づら)[中略]▲平野村でのプロ階級配達になってゐる新聞を來ませんとて虚言を吐露し痛い所をおしましよかなどと、新聞代未払いを糾弾している記事が並んでいるのだが、前出の長野県(1988,p746)に挙げられた、「三、申込みを為さざる新聞を配達し、申込みなき広告を掲載して其の代金を強要し」の典型のように見受けられる。
"Notorious" Newspapers:
Small-scale newspapers of the early Showa period in Matsumoto City, Nagano, Japan.
Harumichi Yamada
Summary:
Until the 1930s, Nagano prefecture was famous for the large number of local papers which flourished there. Matsumoto, the second largest city in Nagano prefecture, was especially well-known as a boom town for small newspapers. In 1939, there were sixteen daily papers, and more than twenty non-daily papers published (or at least registered) locally in this city of 70,000 residents. This is believed to be the largest number of newspapers published outside of the major metropolitan areas anywhere in Japan at the time.
Among the dailies, the two best-known titles are the Shinano Nippo and the Shinano Mimpo. Their records have been preserved relatively well. Issues of these two papers are accessible at the Matsumoto Central Library in the form of microfilm. However, practically no copies of other small-scale local papers are available at public libraries, the largest extant collection being the private collection of Hajime Kawafune, a local bibliophile. The Kawafune collection is small, but valuable as one of the few available resources that shed light on these forgotten dailies. It includes issues of eight small-scale daily local papers published in Matsumoto between 1928 and 1932.
Written histories of the press in Matsumoto have referred to these small-scale local papers only in general terms; almost none of the descriptions of these dailies give concrete examples. This paper examines some of the assumptions widely shared by historians through analyses of the newspapers in the Kawafune collection. Following a brief historical review of the local papers in Matsumoto, three aspects of these papers are discussed: 1) frequency of publication, 2) quotation or "theft" of stories, and 3) the relation between fake "readers' posts" and advertisements. Relatively reliable data are available for six of the eight dailies, which are estimated to have been published roughly 4 to 5.5 times per week.
Through a content analysis, several examples of crude quotation or "theft" of news stories were found. Two types of such "theft" are distinctive. The first type is quotation from published issues of other local papers, in which the same (or similar) stories appear on successive dates. The second type is quotation from shared local news sources, whose function resembled that of a local news agency. In these cases, the same stories appear on the same date.
Fake "readers' posts" were a well-known feature of these small-scale local papers, which were "notorious" for extorting money from local business. Most of the small dailies had such a feature, and nearly half of the shops or restaurants who are referred to positively put their advertisements on the same page as readers' posts which mentioned them. Negative reputations retain anonymity, probably in the purpose of making money in some unlawful ways.
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