雑誌論文(その他):1998:
多メディア・多チャンネル時代における日本の地方民放テレビ局の動向
東京経大学会誌(東京経済大学),208,pp113〜124.
論文発表後に訂正した箇所は(青字)で表記しています。
多メディア・多チャンネル時代における日本の地方民放テレビ局の動向.
◇「多メディア・多チャンネル時代」
◇デジタル、多チャンネル、有料化
◇地上波テレビ局のCS放送への参入
◇地方民放テレビ局にとってのCS放送の可能性
◇地方民放局の危機意識
◇地方民放局の行方
多メディア・多チャンネル時代における日本の地方民放テレビ局の動向
ある物事が、それ自体はさほど変わっていないにもかかわらず、周囲の環境が変っていくために、全体像の中での位置づけがどんどん変化していく、という事態は、いろいろなものについて観察される。もともと、日常的で庶民的なものだった物品や行為などが、時代の変化の中で、時代遅れで珍しいものになってしまう、あるいは逆に、何か特別な機会にだけ持ち出される、伝統的で、高級なものになってしまう、といった変化は、比較的短い時間の流れの中でさえ観察される。服装、言葉、価値観など、その具体例は、いくつでも身近なところに見つかる。ただ同じ姿を保っているのでは、時代の流れの中で、環境の変化との対比において、物事の評価は変わらざるを得ない。時代を超えて機能や意義が変化しない物事を見出すのは非常に困難なのである。このように考えていくと、ある物事への評価なり、社会的な位置づけの変化を、歴史的な観点から捉えていく作業は、その物事を理解していく上で非常に大切なステップなのだということが理解されるだろう。
メディアの発達の歴史には、こうした観点から検討すべき事例が無数に散りばめられている。今日、ごく当たり前の身近なメディアとなっている、電話、ラジオ、レコードといったメディアの歴史を振り返れば、それぞれのメディアが現在と本質的に大差のない特長を、百年近く前に確立していたこと、言い換えれば、この百年、それ自体は大して変化をしていないことと、対照的に、その社会的な位置や役割が、大きく変遷を遂げてきたことが、様々な事例の積み重ねの中で明らかになるだろう。新聞の役割は、テレビの出現の前後で大きな変化を遂げた。テレビの役割もまた、ビデオの出現の前後で大きく変わった。
ひとつのメディアがもっている社会的な役割は、そのメディア自体の普及によっても、競合する新たなメディアの出現によっても、さらには送り手や受け手の変質によっても、大きく影響を受けて変化を遂げていく。新聞が政策的に統制され、地方紙が一紙しか選べない時代が、かつて日本にも韓国にもあった。そうした時期の後に自由競争、複数紙競合の時代が来たとき、統制時代に存在した新聞は、たとえそのままの形で存在し続けたとしても、唯一の新聞であるときと、多くの新聞の中の一紙であるときとでは、社会の中で果たす役割、読者から与えられる評価は、同じではあり得ない。競争の波に洗われる中で、それ自体が変化していかなければ、ただ過去の遺物として見られるだけであろう。これは新聞に限ったことではない。
テレビは、現代社会においてもっとも日常的で、また影響力の大きいメディアである。家庭の中のテレビ受像機は、今世紀の後半において世界の姿を決定づけてきた物品であり、テレビ視聴という行為は現代人の社会化を考える上で無視することのできない行為であり、テレビ放送は国家単位で、ときには国境を越えて、人々を消費行動や政治行動に動員する制度である。そうしたテレビの重要性も、実際には歴史的な状況の中で、他のメディアとの棲み分けや、テレビ自体の変化の中で、徐々に形成されてきたものであるし、また、今後も確実に変化していくように運命づけられている。
これまでのテレビの歴史からも明らかなように、それぞれの時代の技術革新だけでなく、放送行政の政策、資本・経営者の意欲、視聴者の動向、等々の多様な要因によって、テレビのあり方は無数の変化を積み重ねてきた。現実の歴史は、条件を変えて実験を繰り返すようなことはできないから、どの要因がどのような影響をメディアに与えるのか、という問題に厳密に答えることは極めて難しい。しかし、具体的な事例の検討から、経験的にいくつかのモデルを導き出すことは、充分に可能である。
以上のような観点から、本稿では、まず、「多メディア・多チャンネル時代」を迎えたと称される近年の日本において、在来のメディアであるテレビが置かれている状況を、特に地方民放テレビ局に関心を寄せながら整理していく。さらに、その作業を踏まえて、「多メディア・多チャンネル」という形で進行する、競争の激化、視聴者にとっての選択の拡大傾向が、ネットワークの一翼を担いつつ、地方における情報流通の機能をも果たし、なおかつ営利事業として経営を成り立たせなければならない日本の地方民放局に、どのような方向での変化を強いていくのか、という課題についてモデルの仮設を試みる。
◇「多メディア・多チャンネル時代」
メディアとチャンネルは、さしあたり放送関係に限定したとしても、それぞれ文脈によっていろいろな意味になるが、「多メディア・多チャンネル」と対にして用いられる場合には、媒体の複数化と、同一媒体の中での回路の複数化が意味されている。要するに、地上波のテレビに加えて、直接衛星放送(BS)や通信衛星(CS)系の放送が出現してくるのは「多メディア」化であり、地上波の放送局が新たに設置されたり、CATVやCS放送が提供するチャンネルの数が増えるのが「多チャンネル」化である。さらに、デジタル化によって同じ帯域で送出できるチャンネル数が増加する、といった変化は、アナログ系の技術に対して新しいメディアが出現すると同時に、チャンネルを増やすのであるから、まさしく「多メディア・多チャンネル」そのものである。単にメディアやチャンネルの数が増えていくという意味では、「多メディア・多チャンネル」化は、過去から現在まで一貫して不可逆的に進行してきた傾向である。しかし、わざわざ「多メディア・多チャンネル時代」という言い回しが持ち出される場合には、通信政策の規制緩和的方向への転換と技術革新によって、放送事業の形態が大きく変貌、拡大しつつある現在から近未来にかけての状況が意識されている。
それでは、現在、一般的に使われている意味での日本の「多メディア・多チャンネル時代」はいつから始まったのだろうか。この問いには、いろいろな答え方がありそうだ。現在に直結する範囲で早めの時期を考えるならば、例えば、NHKのBSが独自編成で(実験)放送に入った1987年あたりを、そのはじまりと見ることができる。一般的には、1980年代に「スペース・ケーブル・ネットワーク」と呼ばれていた通信衛星とCATVによるアナログCS放送のシステムが立ち上がった1989年、あるいはCS放送の直接受信がはじまった1992年をもって、「多メディア・多チャンネル時代」の開始と見るのが妥当と考えられているようだ。最近では、1996年にパーフェクTV、1997年にディレクTVがサービスを開始したことで、いよいよ本格的な「多メディア・多チャンネル時代」に入ったのだという議論もよく見受けられる。もちろん、文脈によっては「まだ始まっていない」と主張することも可能だろう。いずれにせよ、「多メディア・多チャンネル時代」という表現は、イメージが先行するキャッチフレーズとして、曖昧な部分を含みながら使われているのである。
詳しい文献学的な跡付けはしていないが、「多メディア・多チャンネル時代」は、もともとはバブル経済に乗って華々しい情報政策論が打ち上げられていた時期の官庁報告書の中で使われ、その後、徐々に一般化した表現のようである。『日本民間放送年鑑』は、毎年「概況編」の冒頭で前年度の放送界の動きを総括しているが、「多メディア・多チャンネル」という表現は、1993年版の「1992年放送界」でキーワードとして取り上げられている。そこでは「テレビ40周年・不況下、多チャンネル時代の到来」という標題とともに、次のような文章が綴られている。
1992(平成4)年は、わが国でテレビ放送が始まって40年目の前の年に当たる。<中略>そしてわが国のテレビ界は、NHK・民放並立体制に乗って、文化メディア、大衆メディアとして驚異的な発展を遂げ、今日に至った。しかしながら、テクノロジーの発展はとどまるところを知らない。新しい放送メディアが次々と生み出されて実用化が始まり、加えて行政の民放テレビ、FMラジオ多局化の方針は進行していく。多メディア・多チャンネル時代の本舞台の幕開け。一方で、バブル経済崩壊による大不況と“円高不況”が重なって92年度の放送界を重苦しく押し包んだ。
92年の広告事情は記録的なマイナス成長だった。<中略>
行政が気ぜわしく志向する多メディア・多チャンネル化のスケジュールにも、この冷たい現実は影響を与えずにはおかない。“バブル”に乗って勢ぞろいした新規メディア群が立ちすくんだ形で経過した1年であった。
(日本民間放送年鑑1993年版,p11)
率直なところ、多メディア・多チャンネル化が日本の地方民放局に与えた影響を、現段階で明瞭に語ることは極めて困難である。まず、現実の地方民放局の経営が、多メディア・多チャンネル化といった次元とは異なるところで、景気の動向によって大きく左右されてきたために、多メディア・多チャンネル化の影響だけを抜き出して経営上、あるいは、編成上の変化を論じることができない、という大きな限界がある。加えて、事態はまさしく現在進行形であり、流動的であり、ある程度まで固まった動きを中心に論じるとしても、多メディア・多チャンネル化の動きを、既に明瞭な形をとっているものと考えることには無理が多いのである。
とはいえ、具体的な事例の中には、看過できない様々な兆しが見受けられる。以下では、まず、日本の多メディア・多チャンネル化をめぐる様々な言説を踏まえながら、議論の中で浮かび上がってくる地方民放局の位置づけを整理し、具体的な事例の一端を検討していきたい。
◇デジタル、多チャンネル、有料化
放送関係の専門誌などを見ていると、新しい形態の放送メディアを巡る動きが様々な展開を見せるにつれて、「デジタル化」といった言葉がこのところいよいよ目立つようになっている。「多メディア・多チャンネル」という言葉、特に「多チャンネル」は、これまでにも放送に準じた新しいメディアの登場の度に使われてきたし、現実として「多メディア・多チャンネル」化は放送の歴史とともに進行してきた。このため、ただ「多メディア・多チャンネル」化といっては論点は曖昧になる。
小林宏一(1996)は「多チャンネル化」がCATV、BS、CSなどの実用化の度に繰り返された「使い古されたことば」であること、今日の「多メディア・多チャンネル」化の本質が「デジタル化」にあることを指摘した上で、デジタル化のもたらす伝送路コストの劇的な低下が「特化したナローキャスト」として数百に及ぶ多数のチャンネルを成立させること(裏返せば新しいチャンネルは「ナローキャスト」とならざるを得ないこと)を予想している。小林はさらに、アメリカにおいて先行している事態を踏まえながら、「多チャンネル時代における競争構図は、<ごく少数のメジャーな放送事業者>対<数多くの新規参入事業者連合>という形態をとるものであり、こうした競争形態のもとで、三大ネットワークのシェアは、徐々にではあるが確実に低下してきたのである」と指摘し、地上波テレビの「自壊作用」に警鐘を鳴らしている。
一方、上條昇(1997)は同様の認識に立ち、新しいチャンネルが有料化せざるを得ないことを踏まえて、「新しいメディアの普及により、需要サイドの視聴者と供給サイドの放送事業者の新たな関係が生じ、放送市場の構造は大きく転換する可能性がある」ことを指摘しながら、より積極的に、「デジタル方式による多チャンネル化が進展し、放送業界がユーザーオリエンティッドな放送にさらに比重を移していく」と予想している。
先行したアメリカなどと同様に、日本でも、デジタル放送の実用化は、まずCS放送からはじまった。1996年10月にはパーフェクTVが本放送に入り、1997年12月にはディレクTVが放送を開始している。もちろん、その両方で供給されているチャンネルもあり、アナログCS放送との重複もあるが、あわせて百以上のチャンネルが既に供給されているわけである。「多メディア・多チャンネル」化の本質が「デジタル化」にあるとすれば、そのビジネスの最前線にあるのがデジタルCS放送である。
上条のように、積極的、楽観的な展望をもち、それをもっとも明確に主張しているのは、現にデジタルCS放送を推進する立場の人々である。北川信(テレビ新潟、社長)の紹介するところによると、JSkyBの社長(当時)孫正義は、CS多チャンネル放送に関する否定的な見解を次のような「8大思い込み」という形で整理し、それを全て間違っていると論じているという。
1)チャンネルが多くなっても見られはしない。
2)今以上コンテンツを作る余裕はない。
3)テレビはただで見るもんだ。
4)日本ではパラボラアンテナは普及しない。
5)アメリカでは地上テレビの映りが悪いからCATVが普及したが、日本では普及しない。
6)地上波プラスBSで十分だ。
7)地上波は要らない。
8)CSに参加しても民放は儲からない。
(大倉ほか,1997,pp25-26)
ちなみに、孫の言葉を引用した北川自身は、「孫さんが正しいか、思い込みのほうが正しいか、微妙なところ」といって判断を留保している。
この「思い込み」のうち、1)については、少なくとも劇的な視聴時間の拡大は期待できないことが、視聴行動の研究から示唆されている(例えば、東京大学社会情報研究所,1993)。これを踏まえれば、既存の地上波を含めた放送全体に投下される広告費の飛躍的な拡大は望めない。また、現行のCATVの料金設定や営業実績から判断する限り、3)の前提は依然として強固であり、視聴者が新たなチャンネルに支払う金額は、わずかなものしか期待できない。4)5)で問題とされている、多チャンネル化に必要な機器の普及が達成されたとしても、そこでコンテンツの競争となれば、地上波局の方が、制作能力の上でも、その他のリソースの面でも有利だということになる。
川島正(1997)は、1時間に数千万〜億円が投入される地上波局の番組に対して、1時間50万円程度とされるCS放送の番組制作費の実態を踏まえ、デジタルCS放送における「プロダクションチャンネルが貧弱なのは仕方がない」と同情しながら、安易な購入番組の垂れ流しによる利益追及を目指す「商社の論理」を批判している。「“買って流す”商社の論理が横行し、グローバルな巨大メディアの戦略に組み込まれ、専門チャンネルは育たず、プロダクションの苦境は変わらず、その挙げ句、カネを払える視聴者だけが見られる」という、暗澹としたイメージは、デジタルCS放送がビジネスとして成り立つとしても、放送文化の担い手とはなり得ないことを示すものである。同様に、今村庸一(1997)も、「この十年間、BS、アナログCSの普及に際して、常にいわれてきたのは、多チャンネルに対応する多様化、専門化、そして独自性であった。しかし、実際にハードができてしまうと、そこに登場するのは、映画、スポーツ、ニュース、音楽を中心とした海外発のソフトばかり。ソフトの空洞化はむしろ深刻化した」と指摘し、「あまりにも激しい過当競争の結果、安直なソフトが氾濫する」事態に警鐘を鳴らしている。
須田和博(1996)は、1996年の「放送高度化ビジョン(中間報告)」の解説の中で、地上波局が伝送面での役割を後退させながらも「番組制作能力や番組のストックの豊富さを最大限に生かしつつ、CATVや衛星放送の普及をむしろ積極的に活用」し、新たな事業展開を行う可能性を示した上で、「地上放送の将来は、これからの放送の変革の時代に、個々の企業がそのような行動選択をするかによるところが大きく、経営者の経営戦略がこれまでになく問われる時代になってくる」と結論づけている。富田徹郎(1996)も、こうした可能性を敏感に捉え、マイナーニーズへの対応も含めたコンテンツの豊富な蓄積を抱えるNHKに対して、その巨大化への警戒的な論調を見せている。
◇地上波テレビ局のCS放送への参入
このように新たな映像の供給路が整備され、コンテンツの獲得競争が激しくなるという状況の中で、番組制作能力と編成のノウハウを持った既存の地上波テレビ局が、アナログの段階を含め、直接・間接にCS放送への参入を考えるようになったことは、ある意味では必然的な成りゆきであった。しかし、(少なくとも当面の間)地上波のような収入の見込めないCS放送に対する地上波テレビ局の参入は、その番組制作能力が発揮されることには結びつかず、CS放送独自の本格的な番組制作は、少なくとも現段階では実現されていない。番組制作に結び付く諸々のリソース以上に重要だったのは、既存の地上波テレビ局が、番組なり、素材といった様々な形でコンテンツを保持し、また、日々一定水準でコンテンツを生産し続けているという点であった。
特に、民放キー局の場合で考えると、コンテンツの生産は、自局での制作だけを意味するものではない。質・量ともに拡大してきた制作プロダクションを下請け構造に組み込みながら、厳しいコスト管理と一定の品質管理を行う番組編成のノウハウが、今日のキー局のコンテンツ生産を支えているのである。一時期、民放キー局は、行き過ぎた外注化に対して厳しい批判を浴びていた。もちろん見方によっては、そうした批判は現在でも妥当するだろうし、民放キー局の収益性が、下請けの犠牲の上にあることは否定できない。少なくとも制作プロダクションの側にそのような認識が根強いことはメディア総合研究所(1997)の調査でも明らかになっている。しかし、自局制作の意義に対する局側の認識も深まっており、番組の多様性を確保するという積極的な意味も含め、充分とはいえないまでも、自局制作と外注の適正なバランスの追求が模索されているといえるだろう。
地上波テレビ局の番組編成のノウハウは、CS放送のチャンネルを編成していく上でも、重要な意味を持ってくる。確かに、CS放送の専門チャンネルの中には、地上波とはまったく異なる番組制作、編成の体制をとっているところも多い。しかし、多様なソースの番組を限られた予算の中で確保し、チャンネルを編成していくノウハウにおいて、地上波局は優位を占めているのである。
民放キー局の中では、NTV(日本テレビ)が、いち早くNCN(日本テレビケーブルニュース)に取り組み、自局のニュース番組を素材として再構成、リピートする方法で、1989年のアナログCS放送の開始と同時に「ニュース専門チャンネル」を立ち上げた。チャンネルの中味の充実度については評価が分かれるとはいえ、NCNが低予算の制作費で、もっぱら地上波放送のリソースの活用、再利用によってチャンネルを成立させたことは日本のCS放送の現状を象徴するものであるといえるだろう。さらにNTVは、キー局の中では先頭を切る形で「CS★日テレ」として、スーパーステーションに準じたサービスを1996年のパーフェクTVのスタートから提供し始め、デジタルCS放送に参入した。さらにNCNも、1997年12月には、ディレクTVへの供給開始にともなってNNN24と改称し、こちらもデジタルCS放送に供給されるようになった。NNN24は、実験段階ながら24時間の放送を行っており、深夜時間帯には、NTV系列の地方局も参加した番組づくりが模索されている。地上波コンテンツの直接的利用という点で、NTVは明確な方向性を示し、着実に活動を拡大しているといえるだろう。
これに対し、いち早くCATV関連事業に注目し、JCTV(日本ケーブルテレビジョン)など関連会社を通したCATV向けの番組開発などを行っていたANB(テレビ朝日)は、一方でJCTV制作素材を積極的に地上波に乗せるとともに、他方では同じグループの朝日新聞社が中心となった朝日ニュースターへの関与を拡大するなど、より多様な形態でCS放送に関わってきた。しかし、朝日ニュースターの実績が、当初の予想より厳しい結果となっていることなどから、デジタルCS放送へ新たな独自チャンネルを供給することは行われていない。
他の各局も含め、民放キー局のデジタルCS放送への取り組みが活発になってきたのは、1997年になってからである。CX(フジテレビ)がJSkyBに資本参加したのをはじめ、現在では各局とも、何らかの形でのデジタルCS放送への参加を検討している。ディレクTVに関与しながらも、国内のCS放送への対応が消極的と評されていたTBS(東京放送)も、アジア向けに発信するJET(Japan Entertainment Television)には積極的に関与している。民放キー局が、一定の躊躇を見せながらも、ここにきて次々とデジタルCS放送へ関わりはじめた背景には、1997年3月に、次期放送衛星のデジタル化が決定され、地上波、BS放送のデジタル化が2000年からに前倒しされたことがある。西正(1998)は、デジタルCS市場の規模が地上波放送のビジネスに比べて小規模であることを指摘した上で、民放キー局の狙いが、何らかの形で有料化が必要となるデジタルBS放送の実現に向けて「課金ノウハウ」を蓄積することにある、という見方を示している。前倒しの開始が決まったものの、全面的な地上波、BSのデジタル化には越えるべきハードルも多く、一説には数十年の時間がかかるとも囁かれているが、それが実現すれば、地上波・BS各局は場合によっては5波程度の兼営さえ可能になるかも知れないのである。こうした地上波、BS放送のデジタル化への展望は、課金ノウハウの問題にとどまらず、新たな番組開発を行う試行錯誤の舞台としてデジタルCS放送に、民放キー局を引き寄せているのである。
◇地方民放テレビ局にとってのCS放送の可能性
CS放送への関与に動いているのは、キー局ばかりではない。キー局以外の地方民放テレビ局の取り組みは、地域性の反映といった視点からも、大いに注目されるところである。「準キー局」といわれる大阪の各局の中でも、とりわけ自社制作比率の高いABC(朝日放送)と、それに準じるMBS(毎日放送)は、それぞれ関連会社を設け、大阪ローカルの番組を編成して構成するチャンネルをCS放送の初期、1990年から成立させている。現在のチャンネル名は初期とは違っているが、ABC系のスカイA、MBS系のGAORAとも、在阪球団の試合を中心とした野球中継や、上方演芸の番組などを全国に発信する機能を果たしている。大阪各局が制作し、地元ではプライム・タイムに放送されている番組も、かつては他の地域(特に東日本)にネットされることはまれであった。しかし、1980年代以降、放送時間が延びて深夜時間帯の開発が進む過程で、関東の深夜時間帯にこうした大阪制作番組が進出するようになった。こうしたコンテンツの使い回しという試み自体が、既存のリソースの活用であるが、そうした先行した試みのノウハウの上に、全国を対象とした「大阪発」チャンネルの編成が行われるようになったことは重要であろう。スカイ・AもGAORAも、現在ではアナログCS放送チャンネルの中でもCATV各局のベーシック・サービスに組み込まれる比率の高いチャンネルとなっているし、デジタルCS放送への供給も行われるようになっている。
また同様に、首都圏の独立UHF局として歴史の長いTVK(テレビ神奈川)が、1995年からch-YOKOHAMAとしてスーパーステーション化したことも大いに注目される。当初は2年間を目途とした実験としてはじまったch-YOKOHAMAは、3年目に入り、放送時間を拡大して継続されている。TVKは1971年の開局以来、キー局からの番組提供が期待できず、なおかつ広告市場にも限界があり、UHFアンテナの普及すらおぼつかないという状況から出発し、低予算の制約の中で独自の番組制作、編成を続け、徐々にキー局に対するオルタナティブ的な存在として、後にMXTVが使ったフレーズでいうならば「アナザー・ウェイ」を歩んできた。旧作映画、音楽ビデオ、アメリカン・フットボール、大学スポーツ等、後にBSやCSが立ち上がりの時期に取り込んだコンテンツの多くは、既に初期のTVKや、他の独立U局によって扱われたことのある内容であった。
しかし、ネットを受けられず四苦八苦した段階から、徐々に番組制作能力を高め、番組単位のネットを実現し、さらにスーパーステーションへと踏み出したTVKの歩みは、一足飛びの跳躍ではない。独立U局の連携の中で「疑似キー局」的な役割を担い、また地方民放局に個々の番組を販売するこまめな営業活動を展開する中で蓄積されたノウハウの延長線上で、はじめてスーパーステーションが可能になったのである。ABCやMBSの場合のような編成ではなく、(権利関係等の問題でそのままCSに流せない一部の番組を除いて)地上波放送の内容をストレートに流すスタイルも、経費圧縮指向の現れと理解するべきであろう。現状では(パートナーである電通や宇宙通信を含めて)「持ち出し」の状態で何とか維持されているch-YOKOHAMAであるが、将来性を見込んだ先行投資として今後も継続するものと思われる。
現在もTVKは、比率は小さいながら、様々な系列の地方局が作成した番組の、関東におけるアウトレットとして機能している。キー局が取り上げるほどではないが、一定のクオリティに達している番組は、スポンサーさえつけばTVKを通して首都圏南部へと送信することができるようになっている。特定系列に属していないことが「どの局ともつき合える」状況を生み出しているわけであるが、今後CS放送の比重が高まれば、各系列の地方局が、(キー局ではなく)TVK/ch-YOKOHAMAを通して全国へ放送する道を探るようになるかもしれない。
◇地方民放局の危機意識
かつて1980年前後に、技術的可能性として衛星放送が語られ始めた頃、衛星放送が実用化すれば相対的に維持経費が大きい地上波のネットワークは不要となり、地方民放局は、エネルギー革命とともに姿を消していった炭焼小屋と同様の道をたどる、という「炭焼小屋」論が、一つの極論として取りざたされた。もちろん現在では、単純な「炭焼小屋」論を耳にすることはなくなった。しかし、単なる伝送路としてビジネスが成り立ってきた地方民放局にとって、その基盤が掘り崩されることに対する危機意識は静かに広がっている。
地上波の地方民放局については、クロスネットの解消を旗印に第3・第4局の設置が進められてきたが、市場はほぼ飽和した状態と考えられており、なお残された予定チャンネルのある地域についても、開局に至らない可能性が高い。東京の地方民放局として1996年に開局したMXTV(東京メトロポリタン・テレビジョン)が、特殊事情があったとはいえ、予想を上回る赤字を出し続けていることも、地方民放の動向に影を落としている。
こうした中で、性急に進められようとしている地上波デジタル化への動きに対し、小田原賢二(1997)は、巨額の投資を要しながら収益構造が不明確な地上波デジタル化には、時間の猶予と何らかの補助政策も必要だと論じている。静岡朝日テレビ社長の大倉文雄も、地方民放局の厳しい経営環境を強調し、デジタル化対応の性急な投資は困難であることを、ニューメディア事業への投資の経験を踏まえて主張している(大倉,1997b)。大倉はまた、CS・BSのデジタル化を念頭において、地方民放局が制作能力の拡充に努めることの必要を強調しながら、その限界についても厳しい見通しを示している(大倉,1997a・b)。もっとも、大倉は、デジタル化に対するNHKの慎重な姿勢を指摘し、デジタル化の進行が決して容易なものではなく、相当の時間がかかると判断しており、時間をかけた地道な制作能力(特にニュース)の充実に活路を求めているようである。
ここ十年ほど、『日本民間放送年鑑』のテレビ・ローカル番組に関する記事は、毎年のようにニュースなど報道・情報番組の充実を伝え、地方ブロックなどを単位としたローカルネットを新たな動きとして紹介しているが、各局の実際の番組制作状況は、そのような謳い文句の通りにはなっていない。夕方などのローカル・ニュース時間帯における様々な試みには、長続きせずに旧態に復したものが少なくないし、ブロック共同制作がやりやすくなってきたのは、クロスネットの解消が進んだ結果であり、それも実際には散発的な事例しかなく劇的な変化とはいいがたい。
むしろ注目すべきなのは、少数ながら個々の地方局の中に自社制作比率の向上に取り組み、実際に営業面も含めて成功している局が、あちこちで見受けられるようになってきたという点であろう。クロスネットの解消とともにキー局から提供される番組の総時間が減少すれば、地方局は、自社制作番組の充実に取り組まなければならなくなる。さもなければ、安易に旧作の再放送などに依存することとなる。地方局の間では、制作力をつけ、自社制作番組の比率を確実に向上させつつある局と、そうできない局との間に、差が生じようとしているのである。こうした中で、自主制作に積極的に取り組んでいる「元気の良い」地方民放局について、特に注目されているのは、夕方の時間帯のローカルワイド番組である。STV(札幌テレビ)の平日午後に、毎日3時間10分にわたって放送されている情報生番組『どさんこワイド212』は、その代表的な例としてしばしば紹介されている。伊豫田康弘(1997)は、上述した大倉の認識と同様の文脈で、地方民放局が地域に密着した制作・編成を展開する場としてのローカルワイド番組の意義を強調し、「この先どういう状況になろうと耐え得る基礎体力と地域メディアとしての制作ノウハウを涵養する作業」の一つとして、その活性化を主張している。
これからは経営戦略が問われる時代だという地上波局に対する指摘は、キー局の場合以上に、厳しい形で地方民放局に突きつけられている。キー局側が、スーパーステーション化を含め、様々な回路で地方の市場にもコンテンツを送り込むようになれば、広告営業も含めてネットワークに大きく依存する従来の地方局の経営形態は、ゆったりとしたペースではあるとしても、確実に変化を迫られることとなるだろう。地方民放局がネットワーク依存からの自立をめざすためには、広告営業における地元スポンサーの掘り起こしなど、取り組むべき課題が多数ある。これを乗り切るためには、単なる建て前的なスローガンとしてではなく、本当の意味で地域社会に密着し、地元から支持される自社制作番組の在り方が追及されなければならないが、この部分は経費が大きいことから従来地方民放局が回避してきた分野であり、先行きへの楽観は許されない。その意味でも、経営上の危機意識が、制作現場にどのような活を入れるのかが、大いに注目される。
◇地方民放局の行方
デジタル化を軸とした多メディア・多チャンネル化は、政策的な誘導もあって、CSからBS、地上波へと、今後強力に推進されていくことだろう。しかし、ニューメディア・ブーム以来、これまでの様々なブームの経験に照らせば、その全面的な展開が短期間のうちに完了するとは考えにくい。筆者の個人的な判断では、少なくとも十年以上の時間はかかって当然であるように思われる。しかし、CS、BSといった技術によって、既存の地上波ネットワークの頭越しに提供されるコンテンツの量的拡大が着実に進行することは、間違いない。おそらく相当の長期にわたって、既存のアナログ地上波放送は、新しいデジタル系のメディア、チャンネルとの競争・共存の状態に置かれるだろう。
大方の地方民放局は、キー局のように大きな資本を動員して新技術に先行投資をしていくことは出来ない。企業体としての地方民放局は、一方で徐々に進行する新しいメディアによる市場の蚕食に耐えながら、他方で応分な形で新しいメディアに参入し、そこから利益を得ようとすることだろう。前者については、予見されるナショナル・スポンサーの広告出稿の後退をどうしのぐか、いかにローカル・スポンサーの支持を得られる番組を低予算で確保するかという形で問題提起がなされるであろうし、後者については、現在のネットワーク系列のつながりの中で、キー局が行うデジタルCSやBS放送に、どれだけ関与できるかが問われることになるだろう。大阪の準キー局やTVKの事例のように、一定の主体性を持ってデジタルCSやBS放送に関われる局も出てくれば、ネットワークの関係に埋没し、キー局に対して、単なるニュース取材拠点以上の意味を持てない局も出てこよう。そうした状況の中で、企業体としての主体性を確保し、事業の存続を目指すためには、ひとえに主体的な制作能力と、編成ノウハウを含めたコンテンツの生産力が必要となるはずである。
地方におけるチャンネルの希少性を背景に、もっぱら「垂れ流し」で収益を上げてきた地方民放局にとって、これからゆく道は厳しい道のりである。しかし、全国市場において支持される放送局となるにせよ、地方市場において支持される放送局になるにせよ、競争に耐えるコンテンツを確保できなければ、その放送局には、営利企業としても、公共性をもった企業体としても、存在理由はなくなることだろう。
文献
- 今村庸一(1997):衛星ソフトのゆくえ.放送批評,1997年3月号,pp22-25.
- 伊豫田康弘(1997):今こそ夕方ワイドを地域戦略の拠点に.月刊民放,1997年10月号,pp4-7.
- 大倉文雄ほか(1997):多チャンネル時代における民放経営.月刊民放,1997年1月号,pp24-33.
- 大倉文雄(1997a):BS・地上波テレビのデジタル化が地方民放局に与える影響.月刊民放,1997年10月号,pp24-27.
- 大倉文雄(1997b):デジタル化へのローカル局の立場.民間放送,1422号,p4.
- 小田原賢二(1997):視界不良の地上デジタル化.アウラ,126号,pp12-14.
- 上條昇(1997):放送市場構造の変化と将来動向.郵政省郵政研究所・編『有料放送市場の今後の展望』日本評論社,pp1-8.
- 川島正(1997):CSデジタル“お寒い”現実.放送批評,1997年3月号,pp18-21.
- 小林宏一(1996):多チャンネル化新時代のテレビ・メディア.月刊民放,1996年7月号,pp10-13.
- 須田和博(1996):地上放送の将来像.月刊民放,1996年7月号,pp14-18.
- 東京大学社会情報研究所・編(1993):『多チャンネル化と視聴行動』東京大学社会情報研究所,411ps.
- 富田徹郎(1996):神さま、500チャンネルをお望みですか.月刊民放,1996年7月号,pp4-9.
- 西正(1998):本番のBSデジタル化に照準.論座,1998年1月号,pp33-37.
- メディア総合研究所産業構造プロジェクト(1997):テレビ局と番組制作・派遣会社の意識.放送レポート,150号,pp38-43.
謝辞/献辞
本稿は、釜山大学言論情報研究所とPSB釜山放送文化財団が共催した国際学術会議「多メディア・多チャンネル時代、地域民間放送の展望と方策」(釜山市・1997年5月30日)において、筆者が行った講演の概要をもとに、その後の状況の進展なども踏まえて執筆したものである。会議へご招待いただいた両主催団体、および、諸々の仲介をしていただいた、釜山大学の蔡白先生、流通経済大学の大畑裕嗣先生に、感謝の意を表したい。
1997年3月をもって本学を定年退職された北田芳治先生は、研究者としてのご研鑽もさることながら、研究者としてのみならず多彩な顔を持った大学人として、縦横に活躍された方である。筆者の着任からわずか2年間の短いおつきあいであり、異なる学部に所属していたこともあって、研究・教育上のことについてはお話しをする機会も少なかったが、先生が積極的に取り組まれていた様々な社会活動の場に同席させていただく中で、大学人としての先生の真摯な姿勢には、深い感銘を受け、多くを学ばせていただいた。先生の記念号に名を連ねる機会を得たことは、筆者にとって大きな喜びである。文字どおりの拙稿ゆえに先生のご叱責を頂戴するのではと恐れるが、本稿を北田先生に献呈申し上げたい。
このページのはじめにもどる
テキスト公開にもどる
山田晴通・業績一覧にもどる
山田晴通研究室にもどる
CAMP Projectへゆく