日本地理学会のご了解を得て、全文を掲出いたします。ご配慮に深く感謝致します。 掲出に際して訂正した部分は青字としました。 |
本書は、ベルリン・プロイセン文化財国立図書館によって構成された、書名と同名の展覧会のカタログとして刊行されたものであるが、一般の図書としても流通している。評者は、1997年6月にドイツに滞在した際、ボンに巡回していたこの展覧会を観覧する機会があり、会場で本書を求めた。この展覧会は、十五世紀から十九世紀に至る期間にドイツ=神聖ローマ帝国=中央ヨーロッパを描いた、主として印刷・出版された諸々の地図を、時代に沿って展示したものである。展覧会場でいちいちカタログとの照合はしなかったが、展示されていた図幅のうち主だったものは、このカタログに収録されている(これは、あくまでもボンでの展示の印象である)。
本書には、ベルリン・プロイセン文化財国立図書館の収蔵品に加え、この分野のもっとも重要な個人コレクションというニーヴォドニツァンスキ氏の収集品多数と、レーバウ市立博物館所蔵の『神聖ローマ帝国街道図』(1501)からなる、(参考図幅を含め)40枚余りの地図が鮮明な写真版で紹介されている。最も古いものは、ルネッサンス期の人文主義を背景に翻刻が試みられた『プトレマイオス版による古代ゲルマニア』(1482)であり、以下、ニコラウス・クサヌスによる『クサヌスの中央ヨーロッパ地図』(1491)、『ヒエロニムス・ミュンツァーの中央ヨーロッパの地図』(1493)、『コンラッド・ケルティスのドイツの姿』(1502)、等々、同時代のドイツ=中央ヨーロッパを描いた図幅が続く。こうした地図は、三十年戦争や、ナポレオン戦争など、中央ヨーロッパの政治秩序が変革の波に洗われるたびに姿を変えていった。しかし、地図はやがて、政治的領域性の表象としてのみ機能するものではなくなっていく。本書に収録された地図のうち、時代的に最も新しいのは、挿画部分が紹介されているパリ刊行の『新しい絵入りドイツ地図』(1868)など、序言の表現を引用するならば「商工業と旅行・交通の情報を伝える」庶民のための地図である。このほか、地理学徒にとって興味を引く一枚として、カール・リッターの手書きによる彩色地図『地形起伏としてみたドイツ』(1803)も収められている。これは、十九世紀初頭の科学的な地図作成の動きの例として、ナポレオン時代のフランス軍が用いた(ドイツの一部地域を描いた)軍用地図などとともに位置づけられている。
リッターの手書き地図についてなお付言すると、伝記的にはリッターの家庭教師時代、24歳頃の作ということになる。この直後に彼の最初の著作『ヨーロッパ』(全二巻:1804〜1807)が添付地図つきで刊行されことを考え併せると、この図幅はその印刷地図のための習作の一つであったとも考えられる。この地図でも、『ヨーロッパ』の添付地図でも、高地を淡い色、河川流域を濃い色(手書き地図では茶褐色)で表現する手法は共通している。図版解説では、政治的な区画を軽視し、地理的空間として表現したリッターの手法が、新たな観点の出現であったことが強調されている。実際、この地図に赤線で書き込まれているドイツ内の諸地域の区画は申し訳程度の印象しか与えない。しかし、そもそも細密に書き込まれている範囲は、彼にとってのドイツと、隣接する外国との境界線を示している。当時のリッターにとってのドイツとは、間もなくナポレオンの保護下にライン連邦を構成することになるラインラント諸国と、ホルスタイン、プロシア王国、そしてベネチアを含み、ハンガリーを含まないオーストリア帝国の総和であった。ベネチア一帯にも彩色が施され、バルト海からアドリア海に至る地勢の縦断的表現が試みられたことで、この地図は、期せずしてアルプスを含む中央ヨーロッパの地勢を一層いきいきと表現することになった。
本書には、展示の構成者であるロタール・ツェグナーによる序言と図版解説、ヨアヒム・ノイマンによる「ドイツとは一体何か?」と題された概説が収められている。ノイマンの概説は、本書の範囲よりもさらに遡る時期から説き起こし、ゲルマニア、ないし、中央ヨーロッパ(いずれもドイツと同義とみなされ得る用語だとされる)の範囲が、今日のドイツよりもはるかに広い概念であった事例を積み上げていく。要するにこの概説は、収録された図版とともに、(東)プロシア、ポメラニア、シレジアが、当然ドイツの一部であったこと、ゲルマニアの範域は、現在のベネルクス諸国や、バルカン諸国、バルト諸国にも及ぶ例のあることを、淡々と紹介していくのである。ノイマンによれば、1438年制作のある地図(図版はない)では、コンスタンティノープルまでもがドイツの影響圏として位置づけられているのだという。しかし、こうした「大ドイツ」の地図は、言うまでもなく神聖ローマ帝国の枠組みの下に成り立ったものである。ノイマンは最後に、ナポレオンによる神聖ローマ帝国の解体に触れ、さらにわずか数行で、ビスマルクの(オーストリアを排除した)「小ドイツ」政策と、その後の二度の世界大戦が現在のドイツの姿を形作ったとあっさり述べ、普仏戦争以降のドイツ帝国の姿については、何もふれることなく文章を閉じている。もちろん彼は、表題とされた問いかけを、問いかけのまま残しているのである。答えは、観覧者・読者の側にあるということであろう。
このような企画展の背景には、ある種の時代の空気が感じられる。壁の崩壊という劇的な歴史の転換点を経て、ヨーロッパにおけるヒト、モノ、カネ、そして情報の動きは急激な再編が進もうとしているが、その落ちつく先は未だに不透明なままになっている。そうした流動的な状況の下で、ドイツ=中央ヨーロッパといった図式、あるいは、「西側の飛び地」であったベルリンが「ヨーロッパの中心」へと再浮上する過程が、現実味のあるシナリオとして説得力を増しつつある。 東西ドイツの統合に際して、ポーランドが最後まで将来における領土回復要求の放棄にこだわったことの重さも、本書に収録されたの多数の地図が明瞭に示している。例えば、シレジアに代表される現在のポーランド西部地域は、十五世紀以来、第二次世界大戦後の国境線変更に至るまで、一貫してドイツの一部であったことを、諸々の地図は強烈に印象づける。わが国がロシアに対して北方領土の領有を主張する根拠が、たかだか十八世紀末の和人による探検以降の一貫した領有に過ぎないことと照らし合わせれば、こうした「印象」の政治的な重要性は容易に理解されるだろう。
明示的に主張されているわけではないが、こうした展覧会の企画、書籍の出版は、きわめて今日的なドイツの国家アイデンティティの表明にほかならない。収録された地図が、十九世紀半ばの、普仏戦争=ドイツ帝国成立以前までのもので終わっているのも、強烈な中央集権国家としてのドイツ帝国〜第三帝国のイメージを回避するものであり、展示/出版の意図が、徒に復古主義的、領土回復要求的なものに陥ることを免れるための慎重な選択だったのであろう。ドイツが、建て前としての国民国家体制を機軸とした現行の国際社会の秩序の下で新たな領土回復要求を行うことには現実味がないとしても、ヨーロッパ統合という枠組みの下で、ドイツ資本の運動の場として、ドイツ文化の展開する空間として、西スラブを含めた(あるいは「コンスタンティノープル」にまでも影響を及ぼす)ゲルマニアの広がりを射程に収めていることは論を待たない。ゆるやかな統合の枠組みとしての神聖ローマ帝国と領邦国家の関係は、EUと主権国家の関係を隠喩するものとして、地図を見る者の前に立ち現れるのである。
この先にも論ずべきことはあろうが、書評としては、この辺りで止めておくべきであろう。評者は、展覧会の観覧も含め、短いドイツ滞在の間に、街頭で、市場で、列車の車中で、そしてドイツの家庭において見聞した諸々の出来事に影響されて、この書物から過剰な意味を読み出しすぎているのかもしれない。しかし、いずれにせよ間違いがないのは、この一冊が、読者ひとりひとりの内に、今日的なイマーゴ・ゲルマニアエ(ゲルマニアの姿)への問いかけを喚起する、美しくも挑発的な書物だということである。
山田晴通研究室にもどる CAMP Projectへゆく