1.「フィクション」の用法をめぐって
この小論の表題「フィクションとしての都市」は、本書の編者から与えられたものである。いわゆる「お題拝借」だ。
本書の基本的な立場は、社会を人間によってつくられたもの=「フィクション」とみる点にあるということのようだ。この場合、「フィクション」はきわめて広い意味で使われている。フィクションの反対語は「リアリティ」ではない。「フィクション」が「リアリティ」をもつということになる。
「フィクション」が「リアリティ」と対立するのでなく、「リアリティ」をもつ、という点については問題はない。「リアリティ」というカタカナ言葉を「現実味」、「現実性」と率直に受けとめるならば、それが用いられるのは、もっぱら「フィクション」の出来を褒めるときか、さもなければその裏返しで、現実から「リアリティ」が欠落した事態を論じる場合だろう。だから、僕にとっても「リアリティ」は「フィクション」の対義語ではなく、「フィクション」の属性の一つである。ただしそれは、「フィクション」=「虚構」の対極に、生の「現実」を想定しているからである。「リアリティ」は「フィクション」の対義語ではないかもしれないが、「現実」は「フィクション」の対極に厳然と存在する。凡人の僕は、唯物論者ではないが、唯幻論者の純粋な狂気を共有することはできない。「現実」は厳然と存在する。
きわめて広い「フィクション」という言葉の使い方とは対照的に、僕が日常的に自然な自分の言葉として「フィクション」を使う場合、それは当然「ノンフィクション」に対置される含意をもっている。この用法を無視したくない。人間のつくったもの、「人工物」とでも呼べばよいものをわざわざフィクションと呼ぶ意義があるとすれば、それは、「人工物」を「フィクション」といい換えることで、そこに「フィクション」=「虚構」というニュアンスを滑り込ませることができる点にあるはずだ。その点をはずすと、フィクションという言葉を使う意義は見失われてしまうだろう。
実際、「都市」は、あらゆる意味において人間がつくりあげたものであり、紛れもなく「フィクション」に他ならないのだが、そんなことを今さらいっても何にもなりはしない。試みに、「都市は人間のつくったものですが、そのつくったものがリアリティをもつわけですね」と口走ってみよう。その無意味さ(少なくとも「つまらなさ」)は、ちょっと考えればすぐわかるはずだ。人間の大多数が農業生産に依拠した農村的コミュニティにいた時代、日本の常民が農民だった時代ならともかく、自然にリアリティの根拠を求めるノスタルジーなど、都市生活者には何のありがたみもない。あるいは、<自然/人為>といった二分法の(あるいは、弁証法の)無意味さが(少なくとも、限界が)これだけ暴露された、「何でもあり、メチャぶつけ」のポスト・モダン(僕はこの軽薄な言葉が大好きだ!)状況の下で、こんなことを考えていては、シーラカンス同然の生ける化石になってしまうだろう。もちろん、ポスト・モダン状況下では化石になることも選択肢の一つとして他と等価ではあるが、化石になりたいという願望は、僕にはない。
というわけで、本稿では、もっぱら日常的な言語感覚を尊重して「フィクション」=「虚構」ないし「虚構の物語」ととらえて、議論を進めていきたい。そこで、再び表題の「フィクションとしての都市」に戻ってみると、論を起こすに当たって、予め明らかにしておくべき但し書き的な議論の必要が強く感じられる。要するに、ここでいう「フィクション」とは何であり、「都市」とは何であり、「としての」をどういう意味で用いていくのかを、多少なりとも限定しておかなければ、議論の空転は制御できないような気がするからである。
2.「フィクション」、「としての」、「都市」
「フィクション」
一般的に「フィクション」とは、文学の一つの形式を指す。要するに、事実に基づかない虚構の物語を「フィクション」と呼ぶのである。この意味で、「フィクション」と意識的に対置される文学の形式が、「ノンフィクション」ということになる。「ノンフィクション」や、その同義語〜類語としての「ルポルタージュ」「記録文学」等々をめぐっては、大変な消耗戦を強いられる議論があるわけだが、ここでは深入りしない。ただ、「ノンフィクション」がその定義上「フィクション」を意識し続ける限り、「ノンフィクション」をめぐる議論は、そのまま「フィクション」をめぐる議論になる、という点は確認しておこう。要するに「ノンフィクション」が曖昧な、定義の紛糾した概念だ、ということは、翻って「フィクション」もそうであることを意味しているのである。
しかし、ここで忘れてならないのは、そもそも「フィクション/ノンフィクション」といった軸の立て方自体が、無批判に受け入れることはできない、という点である。虚構と現実の二項対立といった発想は、弁証法的思考の「頭の悪い」一面を露呈するものでしかない。一方では、「トマスの公理(1)」が示すように、「もしも人間がある状況をリアルなものとしてとらえれば、その状況は結果においてリアルである」わけだし、他方では、記号論が語るように記号表現と記号内容の関係が恣意的・偶発的である以上、言語表現であれ映像表現等であれ、記号を介して語られる物語は多重的に現実との結びつきが切断されており、すべての物語は何らかの意味で「フィクション」と捉えられるのである。この状況は、フィクションの反対語はノンフィクションではないという認識とは違う。あえて反対語を問うならば、「フィクション」に「ノンフィクション」が対置されることは変わらない。ただ、反対語を問うこと自体が無意味化しているのである。
こうした「フィクション/ノンフィクション」といった軸の立て方自体がナンセンスな状況を前提として、あえて「フィクション」という言葉を振りかざす意義は、どのように主張することができるだろうか。この問いに対する解答は、さまざまな形で綴ることができそうだ。しかし、表現の形はさまざまでも、どこかで、何らかの意味で、決定的に反-リアルであること、あるいは、反=リアルであることが物語全体の価値に積極的に貢献していること、これが現状において敢えて「フィクション」を持ち出す場合の基準となることは間違いあるまい。日常的に最も頻繁に用いられる「フィクション」表現の一つに、「サイエンス・フィクション」があるが、これはSFという文学形式が、<決定的に反-リアル>であり、<反-リアルであることが物語全体の価値に積極的に貢献している>ことと無縁ではない(2)。
「都市」
細かい点では異論もあろうが、社会学史において、いわゆるシカゴ派の占める位置が、相当に重要なものであることは間違いない。シカゴ派は、その後の様々な研究の流れの先駆となったが、とりわけ都市社会学の確立は、重要な貢献であった(3)。「実験室としての都市」という有名な言葉にも象徴されるように、シカゴ派にとって「都市」とは、大衆社会(マス社会)の具体的な形態であった。シカゴという都市は、アメリカ合衆国にとっての高度経済成長期であった一九二〇年代に急成長を遂げ、その反動としての恐慌〜大不況の波もかぶった。シカゴを中心とした中西部は、経済成長の原動力としての鉄鉱業や自動車産業を抱えるとともに、豊かな穀倉地帯でもあり、シカゴはその取引流通の拠点としても君臨した。経済活動の発展は労働力の移動を引き起こし、都市に新しい人々が流入する。当時のシカゴには、中欧、東欧、南欧や、アジアからも新移民が流入したし、国内的には南部から北上してくる黒人たちがいた。白人富裕層の郊外化への動きが生じ、市街地内部ではセグリゲーション(人種間の空間的な隔離、棲み分け)が進んだ。人口の急増と、自動車という革命的な移動手段の普及は、都市空間の急激な変貌をもたらした。そんなシカゴを拠点として展開されたシカゴ派社会学は、「都市」を構成する人人を結びつける「新聞」に注目した。要するに大衆社会を束ねる仕組みとしてのマス・コミュニケーションに注目したわけである。平板な総括になるのを承知の上で、あえて図式化すれば、「都市」は大衆社会の具体的な形態であり、その大衆社会を編成し、構造化していくものとして、マス・コミュニケーション過程が重要な機能を果たす、というシカゴ派に由来する発想が、以降の社会学には大きく影を投じることになった。つまり、社会学にとって、「都市」と「コミュニケーション」は、「大衆社会」を媒介項とすることで容易に結びつけることのできる親和性の高い組合せとなっているのである。
「フィクション」が元来は文学の一つの形式であり、文学が「コミュニケーション」の一形態であることは、改めていうまでもない。そこで考えなければならないのは、反-リアルな「フィクション」と、それに対置される「都市」との緊張関係である。「フィクション」の中にだけ構築された「都市」、表現としてのみ存在する架空の「都市」は、モアの「ユートピア」であれ、映画『ブレードランナー』の二〇一九年のロサンゼルスであれ、それがどんなに魅力的で、どんなに<リアルに>描写されていようと、この小論の視界の外に置かれる。ここで扱うのは、現実に実在する「都市」である。さらに、この小論でいう「フィクションとしての都市」は、<「フィクション」に描かれた「都市」>という意味ではない。こうした、<文学作品に描かれた都市の解読>といった方向での議論の魅力については、改めて論じるまでもないが、ここではその方向には論を進めない(4)。「フィクションに描かれた都市」、あるいは、パイクのいう「言語都市」をめぐる議論は、ここでの関心ときわめて密接につながっているものではあるが、この小論の視界からは外れている、というより、意識的に外されている。要するに、ここで取り上げる「都市」は、それ自体が圧倒的にリアルな存在である(はずの)現実の「都市」であり、本来、「フィクション」とは、リアリティをめぐって緊張関係にある概念なのである。
「としての」
もう一つ、「としての」についてもごく簡単に述べておこう。ここで「フィクションとしての都市」というのは、<「都市」には、様々な側面があるが、そのうちの一つである「フィクション」の部分について取り上げる>という意味ではない。そうした用法は、例えば、「女優としての山口百恵」というテーマを設定したとして(「山口百恵」の部分は、「美空ひばり」でも、「内田有紀」でも、誰であってもよい)、<彼女は、歌手、女優、物書き、その他さまざまな仕事をしているが、そのうちもっぱら女優としての仕事について論じる>という意味にとるのと同じである。この小論で論じるのは、「都市」のすべてを「フィクション」と受けとめる感覚についてであり、「山口百恵」の例でいうならば<彼女のすべてを「彼女は女優だった」という観点からとらえて論じる>ことに他ならない。
どうやら、課題がはっきりしてきたようだ。ここでいう「フィクションとしての都市」とは、<圧倒的にリアルで存在であるはずの「都市」を、何らかの意味で反-リアルな存在として捉え直すことで、何らかの「フィクション」=「虚構の物語」を読み解く可能性が開かれるのではないか>という問いかけなのである。あるいは簡単に、「フィクションを読むように現実の都市を読んでいく」ことについての議論を展開する、といってもよいだろう。そこで、「フィクション」を持ち出す前段階として、「現実の都市を読んでいく」ことから、考えてみることにしよう。
3.「都市空間」を読む視角
メディアとしての都市空間
「現実の都市を読んでいく」ことについては、衒学的に多数の西洋人の名を並べることが簡単にできる。だがそれは僕の得意な仕事ではない。その代わりに、もっと個人的なスタイルで、自分にとって印象的だった議論を紹介しよう。
まだ学生だった頃だから、もう随分と昔のことだ。『マス・コミュニケーション入門』という新書版の本がでた。当時、専攻分野とは違っていたものの、マス・コミュニケーションには関心があったので、何の気なしに、面白ければ買おうかな、という程度の関心でその本の目次をめくっていて、一種の衝撃というか、不思議な気持ちに襲われた。その目次には「テレビの出現」「マス・コミュニケーションの特質」「ジャーナリズム」「広告」といった諸章に並んで、「都市空間」という章が設けられていたのである。執筆者は中野収であった。当時の中野は精力的に執筆活動を展開しつつ、軟派のテレビ番組を含めてメディアに露出することも多い、活動的な研究者だった。
問題の章で、中野は、高度経済成長期を通じて日本の「都市空間において情報システムのウェイトが増している」ことを指摘した上で、これを「都市空間が媒体性を帯びている」ことと捉え直し、記号論的な視点に立って「メディアとしての都市空間」という切り口の議論を展開していた。
未開人が自然の中に多くに意味を読みとっていくように、人間にはさまざまなものを「記号として解読する習慣をもっている」が、都市空間も、そうした意味作用を引き起こす。都市空間の場合、個々の「独立した建物が建築家によってメッセージを与えられる」ことはあるが、記号総体としての都市空間には特定の「送り手」は存在しないし、都市空間とは本来、「多元的な解釈を許容するもの」なのである。
われわれが、ある都市空間の全域を見るのは、高層ビルの展望台の上か、航空機からの俯瞰か、航空写真を見るときぐらいで、日常的なことではない。高層ビルなど、その全壁面を視界に収めることすらできない。したがって、都市空間の記号的連鎖は、ひとつひとつのウィンドウであり、店頭であり、ディスプレイであり、立ち並ぶ道路標識・交通標識であり、ネオンであり、看板であり、そして疾走する思い思いの色彩とスタイルのクルマであり、分子運動のように−自由意志に従って−移動し、流動して止まない人間の群れである。既存の地上の街頭は、比較的記号的統一性は低いが、最近つくられるサブナード、プロムナード、駅の構内は、記号的連鎖を表象しようという志向が濃厚である[中野 一九七九、一三二]。このような都市空間は、「ある時期の風俗の集積体」であり、「多様な意味の入れもののように見える」ということになる。ここで中野は、テクストという用語こそ動員していないが、要するに<都市をテクストとして解釈する>という視点を提示し、その解釈の多元性を一つの(好ましい)必然的帰結として指摘したのである。
……それにクルマを運転したものなら誰しも経験するように、あるスピードに達したとき、人は新しい感覚が内部に目ざめるのを感じるはずだ。さもなければ、クルマに乗ったものが一度は経験するスピードへの憧れの説明ができない。人間は筋力の限界を越えたとき、必ずある感覚能力が既存の感覚を変えてゆくのを自覚するはずである。クルマは、たしかに「地面の体験を非現実的なものにする」。しかし、文明とは、そもそも「地面の体験」を拒否するところから始まったのではなかったか[中野 一九七九、一三六]。ここで中野が引いた「地面の体験を非現実的なものにする」という五木の表現は、日常的な停止/歩行の体験とクルマによる速度の体験が、根本的に別のものであることを指摘すると同時に、後者が与えるリアリティによって、本来なら逃れがたい現実であるはずの前者がリアリティを喪失する(あるいは、そのリアリティが隠蔽される)ことを意味しているのであろう。どうやら、この辺りに、「都市」を「フィクション」として見ていく鍵がありそうだ。
モビルスーツとかパワードスーツにぼくは目がない方である。パワードスーツへのぼくのパラノイアは、しばしばクルマとのコミュニケーションによって補填されている。黄色信号を突っ切るとき「やらせるか!」と叫ぶとか、トロいのを抜くとき「ザクとは違うのだよ、ザクとは!」などと口走ってしまうときに頭にあるのはまぎれもなく−強化服−としてのクルマのイメージである(「ガンダム」を知らないひとごめんなさい)[上野 一九九二、二四〇]。首都高か中央高速で、めいっぱい飛ばしているつもりの僕の中古国産車を、上野のミニが追い越していくとき、彼にとってのリアリティはニュータイプとして何かを「感じる」自己の中にあるのだろう。だが、それはあくまでもフィクションである。速度の中のリアリティは、減速と停止の現実の中で雲散霧消する。それは渋滞であれ、故障であれ、時として肉体的死に至る衝突事故であれ、あるいは長距離ドライブの途中休憩であれ、速度を否定する様々な事態を想定すれば容易に理解されるだろう。そこにあるのは、ただの生の現実である。
注
「トマスの公理」については、[藤竹 一九七五、二一]を参照。 さしあたり、[小松 一九九五](初出は一九九一)を参照。ここで小松は「虚構」の意義を、複素数の虚数部に準えて論じている。ことの当否はともかく、美しい例えである。 特に日本においては、シカゴ派の影響が強い[富永 一九九五、一八五−一九四]。 さしあたり、文学からのアプローチとして[前田 一九八二、パイク 一九八七]を、地理学からのアプローチとして[杉浦 一九九二]を参照。 ここでいう「アメリカ学派」、「ヨーロッパ学派」といったコミュニケーション観の整理については、[バージェス&ゴールド 一九九二]を参照。 「フィクション」といった視点から見れば、例えば、「没場所性」といったキーワードを用いて、現実に構築される虚構的な空間を論じた[レルフ 一九九一]などが、とりわけ興味深い。同様に、[吉見 一九八七]にはじまる吉見俊哉の一連の仕事も重要である。 ウォークマンには、恋人たちを想定しているのか、二人分のイヤホン・ジャックが用意されているタイプもある。しかし、街角や電車で実際にしばしば見かけるのは、一人用のステレオ・イヤホンを片方ずつ使っている女の子の二人連れである。こういう光景に出くわすと、思わず「女たちの身体的なインティマシー、つまり自我の境界が溶解しあうような親密さ」[上野 一九八九、一〇六]といった表現が思い起こされる。もちろん、他者との人格の融合感覚、例えば恋愛に絡む一体感は、それ自体が一つの「虚構」=「フィクション」である。 もっとも、ここまで論じれば、カルト教団のみならず、われわれは皆それぞれに現実化したフィクションに囚われているのだ、と言うこともできる。しかし、それは「フィクション/ノンフィクション」という軸の立て方自体を問題とする議論であり、本稿の前提そのものを崩してしまう。そのような議論が展開され得ることを認めた上で、ここでは論を進めない。
引用・参照文献。
上野千鶴子 一九八九『スカートの下の劇場』河出書房新社。
上野俊哉 一九九二『思考するヴィークル』洋泉社。
小川博司 一九八八『音楽する社会』勁草書房。
小松左京 一九九五「科学と虚構」、鏡明編『日本SFの大逆襲!』徳間書店。
杉浦芳夫 一九九二『文学の中の地理空間』古今書院。
富永健一 一九九五『社会学講義』中公新書。
中野 収 一九七九「都市空間」、早川善治郎ほか『マス・コミュニケーション入門』有斐閣新書。
パイク、B 一九八七『近代文学と都市』(松村昌家訳)研究社出版。
バージェス、J & J・R・ゴールド 一九九二「序論−場所、メディア、大衆文化」バージェス & ゴールド編『メディア空間文化論』(竹内啓一監訳)古今書院。
藤竹 暁 一九七五『事件の社会学』中公新書。
前田 愛 一九八二『都市空間のなかの文学』筑摩書房。
吉見俊哉 一九八七『都市のドラマトゥルギー』弘文堂。
レルフ、E 一九九一『場所の現象学』(高野岳彦他訳)筑摩書房。
参考文献
引用・参照文献には、入手の容易な邦文の単行本だけを挙げた。そのまま参考文献となろう。
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