磯野正典氏の著書(『地方分権とローカルテレビ局』2010年)に見える「山田晴道」の「著書」からの引用について |
「地域」の「情報化」とは、どういうことだろう。
具体的なイメージも不確かなまま、一九八〇年代半ばから走りだした「地域情報化」関連の諸政策は、収斂する方向も曖昧なまま、絶頂期のバブル経済をくぐり抜け、ポスト・バブルの今でも、あちこちで様々な動きが繰り返されている。諸官庁の政策的競合の下、国政レベルで交錯する「地域情報化」の全体像を、明瞭な形で整理することは、なかなか容易ではない。
■政策を論じる視点−本論の前に
先日の新聞−といっても、この原稿が印刷されている頃には、もう縮刷版になっているだろうが−に載っていた、審議会制度に関する特集記事で、こんな一節が目に止まった。[『朝日新聞』一九九五年六月十七日付夕刊、五面「審議会 霞が関の裏のヒジョーシキ」]
<「役所は私を利用していると思っているでしょうが、私は役所を利用している」▼そう笑いながら話すのはある私大教授だ。「官庁の情報収集能力は高く、論文を書くための生の材料がいっぱい手に入る。自分で言うのも何だが、この専門分野では私が一番多く論文を書いている」▼審議会などに出す文書を、官僚にチェックしてもらうこともあるというこの教授は、さらに言葉を重ねた。「新聞の記事などをつなぎ合わせて論文を書いている人もおられるが、どうしてもピントがずれたものが多いですね」>(▼は原文改行)
インタビューに応じている私大教授の「裸の王様」ぶりは、かなり痛々しい。記事を書く新聞記者の側に偏見に満ちた先入観があってこういう書き方になっているのかもしれないが、新聞記事のつなぎ合わせや、官庁資料の切り貼りで専門分野の論文が量産されるというのは、ひどい話だ。しかし、多少の誇張はあるにせよ、このエピソードが、研究者の立場で政策を論じることのむずかしさを、かなり辛らつな形で巧みに表現していることはまちがいない。
審議会のみならず、様々な形で政策現場に関わり、行政の資料から論文を量産する研究者は少なくない。しかし、何らかの意味でラディカルな立場から見れば、そうした研究は批判的視点を欠いた無価値なものでしかないだろう。私自身は、そのようにして生み出された「批判性のない」業績の全てが無意味だとは思わない。また、審議会に名を連ねながらも、一定の意味で「批判性」を失っていない優れた論稿を発表している研究者も確かに存在している。しかし、研究者として政策に関わるものの大多数は、行政の視座に埋没してしまうのが現実なのである。官庁資料の切り貼りを論文にして済ましているような例は論外としても、政策を立案・執行する側の視点から離れて考えることができない研究者が、政策論的な分野には多すぎるような気がする。
しかし、その一方で、政治−行政機構の外側にあって政策を論じようとすると、「ピントがずれて」しまうというのも、また事実である。少なくとも、官僚や、内在的立場の論者の目には、そうした外在的な政策論は、意味のない、大ボケの議論としか映らないであろう。読者にあらかじめお断りしておくが、これから三回にわたって「地域情報化」政策を論じていく私の立場は、一貫して外在的なものである。私は全くの研究室育ちで、官僚だったことも、メディア企業に勤めたこともない。また、「地域情報化」のみならず、情報化がらみで委員の類をやったことはない。その意味で、私には「ピントがずれた」外在的な議論しかできないし、「地域情報化」の最先端で仕事をしていると自負している人々の価値観や考え、あるいは体温を伝えることはできない(ただし、そうした世界への入口となる文献は紹介していく)。
もちろん、私は新聞記事をつなぎ合わせて「地域情報化」を語ろうとしているわけではない。以下に論じていく内容は、一九八〇年代以降、研究者という立場からこの分野に関わり、この間、全国各地の地域で末端の行政機関やメディアの現場で話を聞いて回った経験に裏打ちされている。とはいえ、そうした私の目に映った「地域情報化」が、「地域情報化」の全てだと主張するつもりなど毛頭ない。私と同様のアプローチをとって、異なる結論を出す研究者もいて当然だと思っている。読者には、以上のような保留条件を頭の片隅に置いて、この連載を読み進んでいただきたい。
■「地域情報化」の中身
そもそも、「地域情報化」という言葉は、「いつ頃から、誰が、どんな意味で」使い始めたのだろうか。一見、単純に思えるこの問いかけに答えることは、相当に困難であるし、実はあまり意味がない。こうしたスローガンの類は、その指し示す内容が曖昧だったり、政策を飾りたてる美辞麗句にすぎなかったりする場合が多く、その先取権争いを跡づけたところで、地域における実体としての情報化とはおよそ無縁なことしか明らかにはならない。せいぜい、省庁間の鞘当ての状況が浮かび上がってくるのが関の山だろう。
とはいえ、さし当たり「いつ頃から」を探るために、国立国会図書館に納本された書物のデータベースであるJAPAN−MARCを利用して、表題に「地域情報」を含むものを検索したところ、「地域情報化」という表現で最も早いものは、一九八六年二月に出版された『地域情報化戦略』と、同年三月の『地域情報化入門』であることがわかった。どちらも、後述する各省庁の新政策を受けた、解説本の類である。興味深いのは、それ以前の一九七〇年代に「地域情報システム」という表現で、おもに自治体の行政サービスの電算化が論じられていたという点である。行政事務の情報化には一九六〇年代以来の歴史があり、いまや日常的な行政に欠かせなくなっている。このため、「地域情報化」の議論に行政事務の情報化の問題を含ませる立場も、一部にはある。
しかし、今日、「地域情報化」のスローガンの下で展開されている事業の中心が、一九八五年の電気通信事業法施行を頂点とする一連の通信自由化政策を背景として登場した、様々な新しいメディアの導入にあることは、衆目の一致するところであろう。衛星通信、CATV、パソコン通信、移動体通信、ハイビジョン、等々の、地域内/地域間における、通信=ネットワーク形成を前提とした情報処理が、「地域情報化」政策の具体的な中身なのである。「地域情報化」政策が、(財源としてのNTT無利子融資、といった側面も含めて)一九八〇年代前半の通信政策の大転換の中から生まれ、バブル経済の絶頂期をはさんで展開されてきた、という経緯は、諸政策の内容や性格に大きく影を落としている。
かつての「情報(化)社会」「高度情報化」「ニューメディア」から、最近の「マルチメディア」まで、情報化に関わる政策課題は、常に各省庁間の縄張り争いの対象になってきた。とりわけ一九八〇年代以降は、情報化の進展を追風に「政策官庁」への脱皮を図る郵政省が積極的に様々な新政策を提起し、他の省庁もそれぞれの情報化関連政策をもって対抗したため、予算獲得競争は先鋭化の度を深めた。郵政省と渡りあう形で独自の情報化政策を展開させたのは、通産省、建設省、農水省、自治省、国土庁などであったが、各省庁はそれぞれ一連の政策の積み上げの中で(例えば、農水省は新農業構造改善事業などの中で)、それぞれの情報化を位置づけているため、特定の政策課題について省庁の枠を越えて統合的な観点から総観を試みることはむずかしくなっている。「地域情報化」も、もちろんその例外ではない。
「地域情報化」には、これだけ見れば用が足りるといった便利な包括的資料はない。しかし、「地域情報化」という表現を用いている各省庁が、その中心となる政策に取り組み始めた時期や経過、また現在の政策の内容などについては、各省庁系の出版物で、一通り把握することができる。例えば、郵政省については『地域情報化のための財政・税制支援ハンドブック』、自治省については『地域情報政策ハンドブック』『新・地域情報化の考え方、進め方』といった、政策を解説する手引き書があり、農水省については『農業情報化年鑑1995』などの資料がある。「地域情報化」関連政策の一応の全体像は把握しようと思えば、こうした出版物や、各省庁の白書などを、横断的に見ていくことが必要となる。
各省庁の政策は、多くの場合、地域情報化政策の柱となる「構想」がまず打ち出され、それにつけ加えて様々な政策が積み上げられていく形をとっている。例えば、最も取り組みが早かった郵政省と通産省の場合、「テレトピア構想」と「ニューメディア・コミュニティ構想」というよく似た構想が同時期に出現し、以降、順次それぞれの指定地域が増え、また関連した施策が追加されて現在に至っている。しかし、構想の内容を比較してみると、力点の置き方のちがいによる棲み分けがあるとはいえ、CATV、データ通信、パソコン通信などがからんで展開されていく事業の中身には、相違点よりも類似点の方が目につく。また、それぞれの構想によって指定を受けた事業地域も、結果的には相当の重複が生じている(『地域情報政策ハンドブック』所収の「各省庁の地域情報化構想の現況」一一八−一五一頁、参照)。
念のためつけ加えておくが、こうした類似性の印象は、ここに掲げた表が極めて要約された形になっているために生じたものではない(むしろ表では相違が強調されている)。詳しい内容を見ても、結局やっていることに大した違いはない、という例はざらなのである。「ハイビジョン・シティ」と「ハイビジョン・コミュニティ」のように、極めて紛らわしい構想が併立するのを見ていると、何か悪い冗談のような気にさえなってくるのは、ひとり筆者のみではないだろう。
[参考文献]
自治大臣官房情報管理官室・編(一九九〇)『地域情報政策ハンドブック』第一法規 四二九頁
自治大臣官房情報管理官室・編(一九九四)『新・地域情報化の考え方、進め方』ぎょうせい 一九七頁
農業情報利用研究会・編(一九九五)『農業情報化年鑑1995』農山漁村文化協会 二七九頁
郵政省通信政策局地域通信振興課・監修/電気通信高度化協会・編(一九九四)『地域情報化のための財政・税制支援ハンドブック』ぎょうせい 三七八頁
表1 おもな省庁の「地域情報化」政策の概要(1995年6月末現在) A・「地域情報化」政策の中心となったおもな省庁の「構想」
B・「地域情報化」に関連の深い、複数官庁にまたがる政策
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地域情報化政策は、地域間の情報格差を是正し、さらに、それを通して社会経済的格差の是正を行い、国土の均衡ある発展に貢献しようという基本的な理念を掲げていた。しかし、施策を具体的に担う事業体の多くが、経営の困難に直面するなど、その結果は必ずしも芳しいものではない。また、当初からの理念そのものが、本質的な問題を抱え込んでいる。
■地域情報化の課題
そもそも「地域情報化」は、一九八〇年代半ばに展開された、通信行政における一連の規制緩和政策の中から浮上したスローガンの一つである。前回、論じたようにり、これを関わった各省庁は、言葉遣いに多少の違いはあっても内容的には大同小異の行政課題を掲げ、個々の具体的な政策を打ち出していったわけである。
省庁の違いを越えて地域情報化の課題として主張された内容には、中央/地方あるいは地域間の情報格差の是正、地域からの情報発信、情報化の促進による行政の効率化、情報化の促進による産業の振興や住民福祉の向上など、いくつかの柱があった。しかし、そのように複数形で語られた地域情報化の課題も、地域振興政策としての本質には共通性があり、結局のところ「中央/地方の情報格差に起因する社会経済的諸格差の是正」といった形に収斂させて理解することができる。
例えば、自治省の地域情報化施策を解説した『新・地域情報化の考え方、進め方』は、<地域の情報化は、基本的には各地方公共団体が地域の実情に即して自発的かつ自主的に取り組むべき課題>としながらも、<地域情報化を単に掛け声だけに終わらせることなく、事業の円滑な実施を図るためには、地域の総合的な経営主体である地方公共団体が、(1)情報化の推進に関する基本方針を明確にしたうえで、(2)地域の情報化に関する具体的な施策を体系的、網羅的に定めた計画を策定し、(3)自ら事業主体となるべきものは自ら事業主体となって、また、民間が事業主体となるべきものは必要な支援措置を講ずることによって、計画的、総合的に事業を推進していくことが必要>だとして、地域情報化への地方公共団体の取組を求め、<自治省の地域情報化施策は、地域の活性化、多極分散型国土の建設、国土の均衡ある発展など地方行財政施策の全国的な枠組みの一環>という見解を示している(自治大臣官房、一九九四、一四二頁)。
同様に、郵政省の意向を反映した「地域情報化に関する調査研究会」の報告は、<・・・ ネットワーク化の進展と住民生活の分野への広がりにより、我が国における情報化は、企業等が個別に対応する段階から、社会・経済活動全体を視野において有機的連携をもって対応すべき段階に入っている。こうした社会・経済活動全体を視野においた情報化への政策的な対応を「地域情報化」ととらえることができる。>とした上で、(1)情報格差の是正、(2)情報通信を活用した地域課題の克服、(3)情報発信における情報通信メディアの活用、といった行政課題を提起している(郵政省、一九九四、一一〇〜一一二頁)。
一九八〇年代半ばに「地域情報化」という概念が登場した背景には、いわゆる情報化/高度情報化の進行とともに、社会経済的な諸現象に作用する情報の力が意識されるようになり、そうした中で、中央/地方など地域間格差の問題を情報に結びつける議論が一般的になってきたという事情があった。そのような議論の中には、地域間の社会経済的格差の一因として、地域間の情報格差の存在を強調するものが少なくなかった。高度経済成長の終焉を受け、一九七〇年代から一九八〇年代にかけて経済システムにおける情報化(サービス化、ソフト化)が進む中で、情報へのアクセシビリティは、社会経済的諸活動にとって重要なインフラストラクチャーとして意識されるようになっていたのである。
また、電気通信網の整備など、具体的な情報インフラストラクチャーの構築においては、当然ながら経済合理性が追求されるため、経済活動の裏付けが既に存在する地域(中央/都市部)における整備が優先され、結果として情報面でも地域間格差が拡大していくという傾向が明瞭に存在していた。この傾向は、市場原理に委ねられている分野において顕著であり、電気通信(電電公社)や公共放送(NHK)のように公共原理によって支えられた分野にも影を落としていた。さらに、国家レベルの通信政策における規制緩和という大きな流れの中で、情報分野における市場原理の浸透は不可避と予想されていたため、その帰結としての地域間格差の拡大再生産は、多くの論者によって危惧されていた。
こうした文脈の中で、地域間格差の拡大再生産に対抗する方策として、各地域の公共団体(ないし、これに準じる公的組織)が主体となって取り組むべき課題として唱えられたのが、地域情報化の諸施策だったのである。市場原理に委ねていたのでは整備が遅れ、情報格差のみならず社会経済的諸格差が拡大再生産されるおそれのある情報インフラストラクチャーについて、地域が主体的に活動し、自前のメディアを構築するなど、何らかの対抗・代替手段を講じようというわけである。地域において、地方公共団体が音頭をとって、あるいは自ら乗り出して情報関連事業を興し、それを他の地域行政ともリンクさせて地域間格差を克服していく。国の各省庁はそうした地方の努力に対して資金を援助する。地域情報化の諸施策は、おおむねこうした構図の上に成立している。
要するに、一九八〇年代半ばという段階で、それまで国家レベルの規制によって公共性が保障されていた電気通信の分野で規制緩和策が展開されるのに伴って、「地域間格差を生じさせない」という意味での「公共性」を保障(ないし補償)する努力が地方公共団体に求められるようになった、というのが地域情報化の背景にある図式なのである。郵政省が、強力な中央統制を緩和することで、より大きな経済性のある市場を行政対象として手に入れようとしたのに対し、自治省や農水省などは、地域をテコに情報分野へ手を伸ばそうとしたのである。
■地域情報化施策が抱える問題
地域情報化施策を推進していく行政の立場から見たとき、地域情報化の現状にはどのような「問題」が映っているのだろうか。ここで大変興味深いのが、一九九三年に設置された郵政省通信政策局長の調査研究会「地域情報化に関する調査研究会」の報告である。この研究会の報告は、バブル経済の崩壊を受けて郵政省自体が従前の政策の真剣な見直しを求めていたこともあって、官庁報告書としては珍しく、言葉は慎重に選びながらも厳しい現状が反映された内容となっている。一九九五年に出たこの研究会の「最終報告」は市販されていないが、一九九四年の「中間報告」は、『地域情報化のための財政・税制支援ハンドブック』に収められて市販されている(郵政省、一九九四、一〇一〜三七八頁)。この「中間報告」のメインは、一九九三年十二月に地方公共団体とテレトピア推進法人を対象として実施したアンケート調査の集計結果である。ここでその結果に紙幅を費やして細かい数値を紹介しても余り意味がないと思うので、以下では、気にかかる箇所を報告書から引用しながら現状の一端をまとめてみよう。
テレトピア指定地域における五六七件の構築予定システムのうち、二割強に当たる一三九件は<計画上の稼働時期を過ぎてなお未稼働であるものまたは稼働時期が未定であるもの>であり、その理由には<財源・資金上の問題や利用者増が見込めないなど事業採算性の問題>が指摘されている。<テレトピア推進法人は大半が第三セクターである>が、<第三セクターという組織形態について、テレトピア推進法人の約4割が「役割分担・責任体制が不明確」、「自主性が発揮できない」等の問題点を指摘している>状況にある。損益状況を回答した法人のおよそ四分の三は単年度・累積ともに赤字、一割五分は単年度黒字・累積赤字で、残り一割が単年度・累積ともに黒字となっているが、こうした苦しい損益状況は、<事業開始後の期間が短いため>と説明されている。
これまで筆者が、個別の事例で聞き取りを行った経験を踏まえれば、この報告書の損益状況に関する記述は、相当に深刻な現状を反映している。一般的に、第三セクターなどの表向きの収益状況は、例えば、人件費の負担を転嫁するなど、帳簿上の操作によって実態よりも見栄えをよくできる余地が大きい。実際、報告書にも、<出向元から給与補填等の支援>で<黒字を計上する結果となった事業者もある>といった記述があるように、実態は一層深刻なものであるはずだ。また、事業開始後の期間の短かさが損益状況に反映されていることはその通りだとしても、問題は、長期的な損益改善につながる確たる見通しの有無であろう。事業体の立てる長期的な収益見通しが、単なる数字上のつじつま合わせに終わっている例は決して少なくない。報告書では、また、例えばCATVについて、<業歴の長い事業者を中心に徐々に黒字化している>と述べているが、これは採算性の見込める地域から事業化が進んだことの反映であり、後発地域の事業体が同じように業歴を重ねたとき、同様の損益改善が期待できるというわけではない。
アンケート調査には<地域情報化の取組みの時期>を問う設問もあるが、奇妙なことに、テレトピア指定を受けていながら<未だ取り組んでいない>と回答した市町村が、回答を寄せた指定市町村の一八パーセントに達しているのである。郵政省の重点施策であるテレトピアの指定を受け、いわば地域情報化のショーケースであるはずの市町村が<未だ取り組んでいない>とは、一体どういうことなのだろう。この数字は、テレトピア指定外の市町村の四三パーセントが<未だ取り組んでいない>と回答したこと以上に、深刻な状況を表している。
一方、<地域情報化に取り組んでいる>地方公共団体は、コストの増大と、公的な財政支援の不足などを、現に抱える問題点として挙げている。要するに、「もともと儲かりっこないことをやっているんだから、もっと金をつぎ込んでくれ」というのが地域情報化の現場の声なのである。これは、地域情報化施策の対象が、容易に採算がとれない、需要が未成熟の事業などを対象としている以上、ある意味では当然の結果である。しかし、現状以上に資金を投入しさえすれば、問題は氷解するのだろうか。当然、そんなことはないだろう。
現状において最も深刻なのは、事業に関与している様々な出資主体の多くに、コミットメント意識に欠けていること、すなわち、事業体の運営に深く踏み込み、場合によっては事業の整理・撤退を含めて経営の長期的戦略を明確にしていく、といった意識に欠けていることであろう。特に、第三セクター方式の事業体の場合、行政側の呼びかけに応じて、いわばつきあいで、あるいはバスに乗り遅れまいと「手を挙げておこう」といった意識で出資したものの、経営不振の後始末を押しつけられるのはゴメンだという及び腰の出資者は多い。いろいろな身分で事業体に送られてきた人材の中には、出向元へ戻る希望が強い人も多い。特に経営陣にそうした人たちが座っていると、自分の在任中に「大過なく」事態が推移することに意識が傾くのか、事業運営に積極性が欠けていく傾向があるように思われる。
同様の事情は、地方自治体側にもある。小林(一九九五)は、<昨今、これまで推進されてきた地域情報化施策をめぐり、たとえば議会筋からその成果が問題視されるといったケースが出はじめている。こうした動きは、真に役立つ地域情報化とは何か、それはどのようにして達成されるのか、といった政策立案時の事前検討作業をより真剣なものにさせる効果を持つ半面、「地域情報化施策は、その具体化が難しいうえに、成果をめぐっても行政批判を招きやすい政策領域だ」とされ、この種政策への着手を回避しようとする空気の出てくることも懸念される。>と、事態の深刻さを指摘している。
■より本質的な問題
地域情報化の担い手である事業体の経営問題、またそれに対する行政の責任は、確かに深刻である。しかし、行政にとっての「問題」とは別に、地域情報化政策が、より本質的なところで大きな問題をいくつも抱えていることを見落としてはならない。そもそも、地域情報化の契機となった、地域間の情報格差なり、それに起因するとされた社会経済的諸格差は、そのすべてが是正を要する性格のものなのだろうか。あるいは、どのような指標によって格差を計り、是正の達成を判定するのであろうか。さらに、地域情報化施策として展開されている新しい諸メディア(もはや「ニューメディア」は「死語」)の普及は、地域間の情報格差是正に有効な方策といえるのだろうか。個々の地域において、社会経済的な地域間格差の是正に結びつくような情報格差是正の努力が、それぞれユニークな形であり得るとしても、現状で展開されている諸施策は、そのような情報格差の是正に貢献できるのであろうか。例えば、特定の野菜産地における市況情報システムのように、有効に機能している例も確かにあるが、地域情報化が直接に地域の経済活動に大きく貢献している事例は、ほとんどないのが実際である。
こうした本質的な問いかけを試みてみれば、地域情報化の主張が、いかに空疎なものであるかは明らかであろう。各省庁の縄張り争いが、一九八〇年代の政策的な追い風(規制緩和、民活導入、一極集中対策)の中で生み出した「地域情報化」が、その謳い文句通りに機能し得ないのは、ある意味では当然すぎるほど当然なのかもしれない。
しかし、ともかくも相当の資金や経営資源が投じられて、各地に高コストな新しい諸メディアが設置されたことは事実である。その経営的破綻の責任を追及することも、もちろん大切ではあろう。しかし、これから本当に考えられるべきなのは、ある意味では「間違って」できてしまった諸施設を、地域がいかに活用していくか、という問題であろう。
[参考文献]
小林宏一(一九九五)「情報化社会の現状と今後の展望について」地方自治コンピュータ、二五(一)
自治大臣官房情報管理官室・編(一九九四)『新・地域情報化の考え方、進め方』ぎょうせい 一九七頁
郵政省通信政策局地域通信振興課・監修/電気通信高度化協会・編(一九九四)『地域情報化のための財政・税制支援ハンドブック』ぎょうせい 三七八頁
連載の最終回に当たる今回は、地域情報化政策を議論していくために参考となる基本的文献を紹介しながら、地理学の立場から、既存の蓄積を活かせるような研究の方向性を探る。地域コミュニケーション論から出発した地域情報化論は、政策への追従から、経済開発の偏重へと陥った。地域情報化政策を客観的に議論するために、地理学は何ができるのか。
■地域情報化の「問題点」は何か
地域情報化については、行政当局ばかりでなく、様々な立場から研究や提言が行われており、関連する出版物も数多く出ている。そのほとんどは、実際に何らかの形で政策の立案や遂行に関わった組織や研究者の手になるものである。しかし、そうした多数の出版物の中で学術的著作が占める比率は決して高くないし、この連載の始めにも指摘したように、実際の行政現場に近い、内在的な立場をとる著作の多くは、行政に対して一定の距離を置けず、客観的な分析を貫くことができていない場合が多い。
一例を挙げよう。地域情報化に関する数多くの質問紙調査に参加してきた著者が、十八本の既発表論文を再編集し、新たな書き下ろしも加えて構成した著作である船津(一九九四)は、膨大な量の有益なデータが盛り込まれた、地域情報化を論じる上で避けて通れない文献の一つである。官庁や地方公共団体の報告書等も含め多数の文献が参照・引用され、また十七件もの多様な質問紙調査の成果が盛り込まれているこの著作は、著者が拠点とする東北地方を中心に多様な事例を取り上げた、間違いなく貴重な文献なのであるが、政策を客体化して論じる批判的な視点は、全体を通してきわめて希薄であり、ほとんど欠落しているといってよい。船津にとって、地域情報化政策の問題点は、それが現実において十分に機能し得ていない(システムの構築が遅れる、普及が進まない、等々)という意味での「問題点」でしかない(三二〜四六頁)。
しかし、既に指摘しているように、こうした状況の下でも、内在的な立場から出発しながら諸政策を客観的に捉えた本格的な議論を提起している論者はいる。前回に引用した小林宏一なども、そのような意味で興味深い論稿を発表しているが、ここでは、地域情報化を論じる上では必読書といってよい内容を備えた大石(一九九二)を、代表的文献として挙げておきたい。同書の前半は、情報社会論以来の情報化政策について表面的な政策展開の跡づけにとどまらない踏み込んだ検討を加え、情報化政策の産業主義的性格や、情報化過程そのものに内在する限界や矛盾など、地域情報化を考察していく際に無視できない論点を提起した、情報化政策に対する本格的な批判的展望となっている。また、後半では、地域情報化政策を、諸々の既存の地域政策の文脈(地域開発、コミュニティ、等々)の中に位置づけ、より具体的な形で諸施策の中身の検討が行われている。船津との対比で述べるならば、大石が見据えているのは、地域情報化の政策目標に掲げられた「地域」が、実際の政策において希薄化し、欠落していくという、より根本的な問題点なのである。
もともと地域情報化政策には、放置すれば情報化の進展から取り残されるであろう「地域」について、公共政策として情報化促進を行い、中央/地方など、情報に関する地域間格差を是正し、ひいては社会経済的格差を克服していこうという大きなシナリオがあった。しかし、この文脈においても、政策目標は単なる格差縮小や、その帰結としての均質化に置かれていたわけではない。むしろ、地域情報化によって個々の「地域」が独自性を発揮し、個性ある自立的コミュニティとして発展していくことが期待されていたのである。例えば、先に否定的に言及した船津(一九九四)も、「地域情報化において、メディアという箱の中身におなる地域情報は、地域性にもとづき、地域住民において必要とされ、また期待されている情報を意味すべき」だとし、「このような地域情報は外から、上から与えられるものではなく、地域住民が下から、内から生み出すべき」であり、「情報主体は地域住民であり、地域住民の表現行為としての地域情報化の展開が必要」だと、少なくとも理論的な枠組みの中では述べている(九頁)。こうした考え方は、地域メディアの基本的機能に、「地域関連情報の提示」、「地域社会の統合性の推進」と並んで、「アクセスと参加」を挙げるような、地域メディア論、ないし地域コミュニケーション論の伝統的な立場を踏まえたものである(竹内・田村、一九八九、三〜一六頁)。
しかし、コミュニティ論などとも親和性のあった、こうした「あるべき」論は、現実の地域情報化政策の展開の中で、次第に埋没していった。大石(一九九二)は、「経済開発」と「社会開発」とを対置し、「地域情報化政策が情報産業の地方立地の促進との関連を深め、社会開発よりも経済開発を重視するようになってきたこと」が、地域コミュニケーション論に変質をもたらしたと指摘している。「地域情報化論は高度情報社会の実現という政策的要請によって提起されたこともあり、従来の地域コミュニケーション論の継承を標榜しているものの、そこでの検討を十分に反映しているとは言いがたく、むしろ対立する点が多々ある」(一四三頁)のだが、地域情報化論が経済開発へ傾斜するのに引っ張られて「地域主義論やCATV自主放送論で提起された社会開発の重要性に対する認識が低下」するなど、「地域コミュニケーション論は、経済開発志向を強めざるをえない地域情報化論と、経済開発のアンチテーゼとして多くの関心を集めた地域主義論という、互いに相容れない二つの理念の間を揺れ動き、多様化というよりもむしろ混乱状態にあ」り、「現在振り子は経済開発のほうに向かって揺れていると見なしうる」というのである(一四四頁)。
■地域コミュニケーション論の再構築へ
経済開発の追求が前面に出るにつれ、地域情報化の議論から「地域」が後退していった、とする大石の指摘は、個々の具体的なメディアを見ていてもよく理解できる。例えば、地域情報化の中で中心的な役割を果たすメディアとして言及されることの多いCATVなども、いわゆる「都市型」が議論の中心となった一九八〇年代後半以降、地域メディアとしての政策的位置づけは、徐々にではあるが、間違いなく後退してきている。とりわけ、新規施設の許可に際して慣例となっていた地元資本という制約がはずされ、外国資本の参入が容認され、実質的なMSO(複数のCATV施設をチェーン化して運営する事業者)振興政策が示された一九九四年の政策転換は、「CATV=地域メディア」という図式を根本から否定するものであった。最近では、CATVを巡る論調も、地域メディアとしてのCATVから、新たな伝送路、新たなビジネス・チャンスとしてのCATVへと大きく変化してきている。(ちなみに、CATVを所轄する郵政省放送行政局が、こうして「地域」から「産業」への脱皮を図っているとき、同じ郵政省の通信行政局や自治省は、わざわざ「地域CATV」といった用語を持ち出して、縄張りの拡大を狙っているのだから、すさまじいものである。)
しかし、政策や、業界内の論調が大きく方向転換を遂げたからといって、現実に運営されているCATVは、一挙に性格を変えるわけではない。また、産業としてのCATVが、地域と無関係な存在となるわけでもない。これは、他のメディアでも同じである。もし、政策の転換とともに(あるいは、それまでの政策が馬脚を現すとともに)、これまで無条件に「地域」という修飾を冠していたメディアが、「地域」から脱却するのであれば、現に「地域」において「地域」メディアとして機能している諸メディアは、より厳密に「地域」メディアとしての再定式化をしなければならないだろう。そこでは、かねてより地域コミュニケーション論の文脈において、あるいはまた、地域メディア論という題目の下で蓄積されてきた議論、とりわけ大石のいう「社会開発」につながる議論が、「あるべき」論と実態論の双方において必要となってくるはずである。現在、求められているのは、地域情報化政策に埋没した地域情報化論ではなく、政策の「夢と現実」、「可能性と限界」を明らかにし、諸政策を客観的、批判的に捉えた上で展開される、新たな地域コミュニケーション論にほかならない。
地域メディアが地域の中で具体的にどのように支えられ、どのような役割を担っているのか、地域メディアをはじめ諸々のメディアや、直接の接触によって結びつけられた地域のコミュニケーションをどう理解するのか、こうした問いかけに答えるためには、政策に関する深い理解もさることながら、地域社会に沈潜したフィールドワークと、社会的背景のみならずメディアの経営状況や技術的基盤まで含めた総観的な視野から地域を見つめる視野とが、必要になる。ここで安易に「地理学こそ、この要請に応える学問だ」などとオメデタイことを言うつもりはない。しかし、現実のフィールドにおいて社会現象の多様な因果関係を総観的に捉えようとする感性、何よりもまず、地域の現実に身を置くことから始めるという感性は、地理学が最も得意とするところである。そうした感性の持ち主が地域のコミュニケーションを巡る議論に参入することは、議論に厚みと広がりを与えることにつながっていくはずである。
地域情報化政策の例に限らず、抽象理論を振り回したり、実際の政策を後追いしての政策論は、本来、地理学が得意とする議論ではない。地域の現実から出発し、地域の中で政策と対峙し、多様な因果関係を展望しながら政策を客観化して、批判的に論じていく、といった方向に向かうならば、地理学は既存の蓄積を活かしながら諸々の政策論に具体的な貢献をしていくことができるのではないだろうか。
[参考文献]
大石 裕(一九九二)『地域情報化 理論と政策』世界思想社(京都)
竹内郁郎・田村紀雄 編著(一九八九)『新版・地域メディア』日本評論社
船津 衛(一九九四)『地域情報と地域メディア』恒星社厚生閣
磯野正典氏の著書(『地方分権とローカルテレビ局』2010年)に見える「山田晴道」の「著書」からの引用について磯野正典(2010)『地方分権とローカルテレビ局』文眞堂 という書籍があります。磯野氏はこの著書の中で、「山田晴道は『地域情報化、検証・日本の地域振興』の中で次のように述べている」(強調は引用者、以下同様)として、4行にわたる引用を示しています(p.34)。また、巻末の参考資料(p.180)の引用文献の記載には、「山田晴道 『地域情報化 検証 日本の地域振興』(古今書院、1995)」とあり、この書籍は古今書院から1995年に刊行されたことになっています。まず、「山田晴道」という名の研究者はJ-GLOBALで検索しても、該当する人物がありません。検索した結果として出てくる「山田晴道」のヒットはいずれも、このページの作成者である山田晴通の名を誤記したものです。(研究者以外の「山田晴道」氏についてはこちらをご覧ください。) また、このページの作成者である山田晴通は単著の書籍を公刊していませんし、国立国会図書館や古今書院のサイトなどを検索しても明らかなように、「山田晴道 『地域情報化 検証 日本の地域振興』(古今書院、1995)」(p.180)に該当する書籍は存在しません。さらに、そこで引用として示されている4行の文章は、このページの作成者である山田晴通が発表してきた論文などには存在していません。もちろんこれは、磯野氏が言及する「山田晴道」(氏?)がこのページの作成者である山田晴通と別人であることを前提とすれば当然のことです。このように、磯野氏が「山田晴道は『地域情報化、検証・日本の地域振興』の中で...」という記述で、具体的文献として何に言及しているのかは不明ですが、少なくとも(このページの作成者である)山田晴通は、そこで引用されている文章を「述べて」はいません。 なお、磯野氏の著作の当該引用箇所の末尾には「(84)」とページ数を示す表記があります。ちなみに、このページで公開している山田の連載記事も、古今書院の月刊誌『地理』1995年11月号の84ページに掲載された記述があります(このあたり)。磯野氏が「山田晴道」の書籍からの引用としている記述と、同様の話題について触れている箇所が、連載初回の『地理』1995年10月号の連載第1回にはありますが(このあたり)、そこでのニュアンスはかなり異なるものになっています。もちろんこれも、「山田晴道」が山田晴通への誤記を含んだ言及ではなく、別の方への言及であるなら当然ですが。 いずれにせよ、この磯野氏の記述は、山田晴通が1995年に発表し、このページで公開している記事への言及であると誤解される可能性が高いと判断しましたので、以上の点を明らかにしておきます。 (2010.07.14.公開:2010.07.15.加筆) |
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