■はじめに
日本で初めて開設された「コミュニケーション学部」である本学コミュニケーション学部のカリキュラムには、「地域のコミュニケーション」という科目が設けられており、筆者はその担当者となっている。「地域」も「コミュニケーション」も、日常的に接することの多い言葉であり、決して難解で特殊な用語ではない。コミュニケーション関係の科目名が並んでいる中に、「地域のコミュニケーション」とあっても、特に奇妙な感じはないだろう。しかし、この科目名を目にして、読者はどのような内容を想像されるだろうか。
そもそも、「コミュニケーション学」とか、「コミュニケーション研究」、「コミュニケーション学」といった言い回しで表現される学問分野は、少なくとも日本の現状を踏まえて考える限り、伝統的な学問体系にうまく収まりきらない、いわゆる「学際的」な性格をもった新しい複合領域として理解されている。こうした分野においては、新たな用語や言い回しが、必ずしも厳密な規定・検討を経ることなく多用されることが起こりやすい。また、同じ言葉、同じ表現を議論に用いていても、論者によってかなりのニュアンスの違いが生じていることも少なくない。もちろん同様のことは、伝統的な、制度化の進んだ学問分野においても妥当するが、ここではさしあたり、「学際的」な新しい分野ほど、こうした傾向が強いことを指摘しておきたい。
「地域」も「コミュニケーション」も、「コミュニケーション学/研究/科学」が分野として形成され、制度化されてくる前から、既存の様々な学問分野で扱われていた用語である。その意味では、様々な「手垢がついた」言葉だと考えてよい。このうち「コミュニケーション」の方は、さすがに「コミュニケーション学/研究/科学」を束ねる中心概念であるだけに、概念を検討する議論の蓄積もそれなりにあり、研究者が議論を交わす場合、論者の間には一定の認識が共有されている。ところが、「コミュニケーション学/研究/科学」の枠組みの中における「地域」概念については、こうした議論の蓄積は必ずしも十分ではない。例えば、社会学、地理学、地域研究 area studies 等々、異なる分野をそれぞれの研究歴の背景としてきた「コミュニケーション学/研究/科学」の研究者たちが抱く「地域」概念の中身は、現状では大きく食い違っていることも多く、これを意識しておかないと個々の議論をうまく噛み合わせることは難しいのである。
さらに、「地域」と「コミュニケーション」について概念の整理がついたとしても、それだけでは「地域のコミュニケーション」の中身は自明とはならない。これは、「地域コミュニケーション」というように言い換えても同じことである。こうした表現だけでは、最終的に何らかの「コミュニケーション」のあり方が検討の対象とされていることは確かでも、そこに「地域」がどう絡んでくるのかは全く判然としていない。これは、「地域」と「コミュニケーション」をつなぐ助詞の表現法を工夫することによって簡単に解決されるような文法表現上の問題ではなく、もっと根本的な、「地域のコミュニケーション」をめぐる研究の現状に深く根ざした問題なのである。「地域のコミュニケーション」という問題設定の下で展開される議論は、個別の議論としては優れた論説が存在しても、質量ともに、まだまだ十分な蓄積はなされていない。特に、広い意味での「地域のコミュニケーション」全体を見渡そうとするような、すなわち、「地域」に関わる「コミュニケーション」の諸問題を包括的に整理するような、何らかの展望を示す作業は、ほとんどなされていないのが現状である。
このように述べてくると、<そもそも現状は、「地域のコミュニケーション」という問題設定に対する学問的必然性なり、社会的要請なりが、実は希薄であることの証しではないのか>と考えられる向きもあろう。しかし、筆者としてはそのように考えてはいない。これは単に「地域のコミュニケーション」の担当者としての立場による見解ではなく、論文等の生産状況を踏まえた実感である。前段では、議論の蓄積が不足していることを強調したが、少し見方を変えれば、何らかの意味で「地域」をキーワードとするコミュニケーション関係の業績は、堅調に生産されている。例えば、日本マス・コミュニケーション学会(1991年までの旧称は日本新聞学会)の機関誌である『マス・コミュニケーション研究』(旧『新聞学評論』)に毎年掲載される「会員研究文献目録」は、日本におけるマス・コミュニケーション関係の研究動向を知る上で重要な文献目録であるが、手元にある第45号に掲載された1993年分を見ると、59個選ばれているキーワードの中に「地域」が含まれている。この目録ではキーワードは最大2個と制約されているが、全部で 300篇余り挙げられている文献中、8篇(重複して挙げられた共著は1篇と数える)が「地域」をキーワードに挙げているが、これは決して小さな数ではない。さらに、本誌『コミュニケーション科学』でも、第1号の板垣雄三「地域研究と異文化コミュニケーション」、第2号の柴田徳衛「大学と地域コミュニケーション」、色川大吉「情報の発信ベースとしての日本の地域研究」と、標題に「地域」の語を含む論文が既に3篇も掲載されている。ただし、こうした諸論稿には、「地域」に大きな重点が置かれて「コミュニケーション」の視点が弱かったり、「地域のコミュニケーション」という意識が先鋭化されないまま議論が終始するものが少なくない。
こうした状況は、一方で学問的必然性なり社会的要請なりが十分に存在しながら、「コミュニケーション学/研究/科学」の側が、しっかり成熟した一般的手法を獲得できておらず、個々の研究者がアド・ホックに問題に取り組んできた帰結であるとも解釈されよう。「地域のコミュニケーション」が「コミュニケーション学/研究/科学」の中で占めるべき位置は、既に用意されているのである。
しかし、筆者の見解では、「地域のコミュニケーション」という枠組みは、単に「コミュニケーション学/研究/科学」の下に下位区分される分野として存在意義を持つだけのものではない。「地域のコミュニケーション」という視点は、「地域」というメソ・スケール(中間的な尺度)を挿入することで、一方で「パーソナル・コミュニケーション」を、他方で「マス・コミュニケーション」を主たる対象として展開されてきた「コミュニケーション学/研究/科学」全体を逆照射し、射程の長い根源的な問題を提起する可能性をもっているのである。
本稿は、以上のような現状認識と問題意識を踏まえて、「地域のコミュニケーション」という枠組みの広がりを包括的に整理し、「コミュニケーション学/研究/科学」全体の中での存在意義を検討しようとするものである。なお、予め断わっておくが、本稿の論述は、日本の社会状況・学問状況を踏まえたものであり、欧米はじめ諸外国の状況については、本稿における考察の範囲外にある。また、筆者はこれまで、社会経済地理学を背景に、主として地域メディアの研究を行ってきたが、こうした研究歴が本稿の内容に何らかの偏向を与えている可能性は十分にある。特に、特定の概念の内容や、用語のニュアンスについて、違和感を感じられる読者もあろうかと思うが、この点はご了解頂きたい。
■「コミュニケーション」にとっての「地域」
現実世界における諸現象を記述し、その中から何らかの秩序性を導こうとする諸学には、現実の現象に何らかの指標なり尺度を当てはめ、そこで観察・計測し得た結果を抽出してデータを整え、それが整合的に記述できるようにモデルを構築する、あるいは、整合的に記述できる解釈を提示する、という共通した手続きがある。これは、自然科学であれ、社会科学であれ、あるいは人文諸学に属する分野であれ、現実世界の現象の記述に取り組む学問ならば全てに妥当する。
こうした諸学がモデルなり解釈という形で導き出す秩序性は、現実世界の現象を、ある一つの断面において捉えたものに過ぎない。例えば、同じ共通の現実を前に、政治学、文化人類学、社会心理学、宗教学、等々の諸学が、それぞれ個別の記述を導き出すことはごく当然のことである。また、一つの経済現象に対して、マルクス経済学と近代経済学がそれぞれの解釈を示すことはもちろん、近代経済学の中においても異なる立場によって異なる説明モデルが動員されることも、これまた当然のことである。このように、一つの現実に対して多様な秩序性が綴られていくわけだが、そこで導かれる結論は、相互に反駁し合うものではなく、それぞれに「正しい」ことになる。
現実世界の中から、特定のデータだけを抽出して秩序性を導くということは、裏を返せば、そこで採り上げられなかった諸々の指標は「捨象」されているのである。諸学の導く結論の多様性は、現実世界の何を「捨象」して議論を展開するかによって生じている。
「コミュニケーション学/研究/科学」は、基本的な図式で捉える限り、人と人、あるいはそれに準じる主体と主体の間で、何らかの情報がやりとりされる状況を問題とする。そこでは、「送り手」や「受け手」といった主体や、「媒体」や「メッセージ」といった、何らかの意味で主体間を媒介する要素は、本質的な、捨象し得ないものとして採り上げられるが、それ以外の要素は、さしあたりの考察では捨象されてしまうことが普通である。
もっとも、いわゆる「記号論的」とか、「ヨーロッパ的」と呼ばれるコミュニケーション観の立場のように、「送り手」が実質的に捨象されてしまうような極端な見方もあるわけで、主体や、主体間を媒介するものといえども、ある意味では、必ずしも捨象され得ないわけではない。しかし、こうした場合でも、「送り手」の要素は、まず一旦は想定された上で、一定の条件下においてその想定が無意味である、あるいは仮想的であるとしてモデルから排除されるのだと考えられる。つまり、最初からコミュニケーションにとって非本質的な要素として無視されるわけではない。この「送り手」も含め、基本的な図式に欠かせない諸要素と、捨象可能な他の諸要素との間には、やはり本質的な断絶がある。
主体としての「送り手」や「受け手」、主体間を媒介するものとしての「媒体」や「メッセージ」は、「コミュニケーション学/研究/科学」にとって欠かすことのできない本質的な要素であり、これを踏まえずにコミュニケーションを語ることはできない。それは、「価値」とか「資源」を捨象した経済学があり得ず、具体的な特定地域の現実から出発しない地域研究があり得ないのと同じことである。
もちろん、基本的な図式から出発して、より複雑なモデルが考えられていく段階では、新たな要素が考察に範囲に加えられていくことになろう。しかし、そうした場合でも、現実世界の諸要素の中には、考察されるモデルに取り込まれやすいものと、取り込まれにくいものとが存在する。例えば、「貨幣」は経済学にとって、本質的な要素ではないが、非常になじみやすい要素であることは間違いない。ところが、これが「愛情」となると、どうであろうか。個々人の資源配分の判断においては、「愛情」を含めた個人の感情は一定の役割を果たすから、「愛情」は決して経済現象と無関係ではない。しかし、経済現象の中の秩序性を導いていく上で、「愛情」は経済学のモデル化になじまない要素なのである。
突飛な比喩と思われるかもしれないが、「コミュニケーション学/研究/科学」を構築していく上で、コミュニケーションにとっての「地域」という要素は、上に述べた経済現象にとっての「愛情」とよく似た位置にある。「愛情」に触れない経済学は可能だし、現に一般的である。「地域」に触れない「コミュニケーション学/研究/科学」も、これと同じである。例えば、対話のようなパーソナルなコミュニケーションについて考察するとき、メッセージを交換する主体の「地域」性は、非本質的要素として捨象されよう。これは、パーソナルなコミュニケーションの内に潜む普遍的な秩序性を尊重する立場からすれば、当然のことである。経済現象を貫く普遍的な秩序性を追求すれば、個々の事例において経済活動に関わった「愛情」も、バイアスとして捨象される。
また、マス・コミュニケーションについて考察するときも、「地域」性が言及される優先順位は低いし、また、仮に言及されても、否定的、消極的な形となる可能性が強い。つまり、マス・コミュニケーションについて論じるとき、話題とされる「送り手」や「受け手」、あるいは「媒体」は、現実世界のどこかに存在しているにもかかわらず、そうした議論において「地域」性(どこに存在するかという相違に基づく差異性)は、まず話題とされないか、さもなければ、マス・コミュニケーションによって、無意味化、無力化される要素として、否定的にのみ言及されることになりやすい。経済学の立場からすれば、経済現象においては、経済学的秩序性こそが、「愛情」などを乗り越えて、鉄の必然性をもって貫徹されていくことになる。同様に、社会全体(さしあたり、国民国家の規模を想定)に同じメッセージを提供するマス・コミュニケーションは、「地域」性を乗り越え、全体をマス化、均質化させる営力と位置づけられるが、そこでの「地域」は、乗り越えられるべき否定的契機としてしか位置づけられていないのである。
コミュニケーションは、その英語における語源から読み取れるように、複数の主体の間に共有される領域を確保し、あるいは、それを拡大しようとする営為である。この図式において、個々の要素が「どこにあるのか」、また、「どこかにあることによってどんな影響を受けているのか」といった、「地域」に関わる問いかけは、副次的なものでしかあり得ない。本質的な問題は、コミュニケーションに関わる主体の活動であり、主体間を媒介する「媒体」や、それによって運ばれる「メッッセージ」の特性ということになる。
パーソナルなコミュニケーション論が、その議論の普遍性を無意識のうちに前提としているように、また、マス・コミュニケーション論やテレコミュニケーション論が、克服されるべき障害として地域間の「格差」を捉え、しばしば「場所に意味はない no sense of place」状況を理想化して語るように、「コミュニケーション学/研究/科学」は、基本的な部分において没「地域」的な性格をもっている。用語の厳密な整理を棚上げにして「地域」を「場所」と読み換え、「没場所性 placelessness」の概念と結びつけるならば、コミュニケーションは本質的に「没場所性」を指向するものであり、「場所」性なり「地域」性の捨象された世界を目指すものである。その意味では、「没場所性」の議論の舞台となるような、都市、リゾート、テーマパークといった「場所」が、同時に「メディアとしての都市(等々)」といった文脈でしばしば議論されることも、コミュニケーションと「没場所性」の親和力を示すものと考えられよう。
別の表現をすれば、コミュニケーションは、その本質において、いわゆる「一点世界」を指向する、「地域」とはなじみにくい概念なのである。「一点世界」とは、経済地理学の一つの立場である空間編成論が用いる言葉であり、議論の出発点である既存の経済理論体系(通常はマルクス主義)において、あたかも全ての要素が空間的隔離のない一点に集積しているかのような想定、あるいは、生産拠点間の空間的隔離を輸送費によって置き換えるように、空間という要素を他の要素に「還元」し、「捨象」してしまえるという想定が、なされていることを意味している。コミュニケーションについての通常の議論においても、「送り手」と「受け手」の間に隔離がある(議論の対象となる「媒体」以外の回路は閉じられている)ことは前提とされているが、それが空間なり、地域の相違などと結びつけられて論じられることは、ほとんどない。隔離を引き起こす要因は、何も空間的な距離ばかりではない。むしろ、空間的な隔離に限定せず、社会的なり、制度的な隔離をも、同時に考慮することで、コミュニケーションの基本的図式は普遍性を持ち得たのである。これを時間地理学的に表現すれば、隔離という「制約」の中味を、あえて「能力の制約」と「権威の制約」に分節化しないことによって、全体像を理解しやすくしているのだ、といえるだろう。このように、抽象的な「空間」の変数さえ勘案されにくい図式の中で、個別具体性、特殊性を帯びた「場所」とか「地域」といった変数が考慮されないのは当然である。コミュニケーションの基本的性格を論じようとするとき、「地域」は、結局のところ捨象しやすい周縁的な要素の位置に追い立てられているのである。
■「地域」をどう捉えるか
本稿では、ここまで、議論を展開させる都合から、「地域」、「場所」、「空間」等々の用語を、かなり自由に用いてきた。そして、これらの用語を一括して、コミュニケーションにとっては非本質的な要素であると、一応の結論をつけた。本節では、後段での議論を進めるために、コミュニケーションとの関係を、一旦、棚上げにし、「地域」を中心とした用語のニュアンスについて考察しておきたい。
上に挙げた用語の中で、比較的ニュアンスのばらつきが小さいのは、「場所」である。「場所」は、具体的で、個別的な性格をもっており、place に対応する用語である。また、広がりのある面としてではなく、点としてのニュアンスが強い。ある地点が「場所」とされるとき、そこには何らかの固有性が認識されているか、あるいは、暗黙のうちに前提とされている。その「場所」の固有性を支える諸要素の総体が「場所性 placeness」である。これに対し、ある地点の固有性が曖昧で、むしろ抽象的な文脈の中で語られたり、類型や引用関係において認識されているような場合、その「場所」は「没場所的 placeless」であるとされ、その原因となる諸要素の総体が「没場所性 placelessness」である。
一方、「場所」と対称的な位置を占める用語が「空間」であり、英語の space に対応する。「空間」には、抽象的、普遍的な性格があり、一定の広がりというニュアンスが強い。また、同時に、文字通り空疎で、中味がないというニュアンスも帯びている。このため、「没場所的な場所」に言及するような場合には、「空間」という表現が頻出する。しかし、それにとどまらず、「空間」は、「場所」よりもかなり様々な文脈、様々な含意で、用いられる。個別の具体的な分析において好んで「空間」を用いる地理学の議論もあるし、インターネットやパソコン通信などに関して用いられる「電脳空間」といった表現にも表れているように、社会関係を取り結ぶ契機となっているシステムを、好んで「空間」と表現する社会学の議論もある。このため、例えば「社会空間」という用語をめぐって社会学と地理学が対話するような場面では、社会関係の束ねた抽象的総体として「社会空間」を捉える社会学と、社会関係が取り結ばれる場として、また、社会関係が反映された現実の空間として「社会空間」を捉える地理学とが、食い違いを示すことにもなるのである。
「地域」をめぐる用語のニュアンス 点 : : 場 所 : 地 点 : 具体的 : 抽象的 ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 個別的 : 普遍的 : 地 域 : 空 間 : : 面 |
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