雑誌論文(その他):1995c

「地域のコミュニケーション」という視点.

コミュニケーション科学(東京経済大学),3,pp53〜64.


■はじめに
■「コミュニケーション」にとっての「地域」
■「地域」をどう捉えるか
■「地域」に関わるコミュニケーションの研究
■「コミュニケーション」の「地域」性
■おわりに


「地域のコミュニケーション」という視点

■はじめに

 日本で初めて開設された「コミュニケーション学部」である本学コミュニケーション学部のカリキュラムには、「地域のコミュニケーション」という科目が設けられており、筆者はその担当者となっている。「地域」も「コミュニケーション」も、日常的に接することの多い言葉であり、決して難解で特殊な用語ではない。コミュニケーション関係の科目名が並んでいる中に、「地域のコミュニケーション」とあっても、特に奇妙な感じはないだろう。しかし、この科目名を目にして、読者はどのような内容を想像されるだろうか。
 そもそも、「コミュニケーション学」とか、「コミュニケーション研究」、「コミュニケーション学」といった言い回しで表現される学問分野は、少なくとも日本の現状を踏まえて考える限り、伝統的な学問体系にうまく収まりきらない、いわゆる「学際的」な性格をもった新しい複合領域として理解されている。こうした分野においては、新たな用語や言い回しが、必ずしも厳密な規定・検討を経ることなく多用されることが起こりやすい。また、同じ言葉、同じ表現を議論に用いていても、論者によってかなりのニュアンスの違いが生じていることも少なくない。もちろん同様のことは、伝統的な、制度化の進んだ学問分野においても妥当するが、ここではさしあたり、「学際的」な新しい分野ほど、こうした傾向が強いことを指摘しておきたい。
 「地域」も「コミュニケーション」も、「コミュニケーション学/研究/科学」が分野として形成され、制度化されてくる前から、既存の様々な学問分野で扱われていた用語である。その意味では、様々な「手垢がついた」言葉だと考えてよい。このうち「コミュニケーション」の方は、さすがに「コミュニケーション学/研究/科学」を束ねる中心概念であるだけに、概念を検討する議論の蓄積もそれなりにあり、研究者が議論を交わす場合、論者の間には一定の認識が共有されている。ところが、「コミュニケーション学/研究/科学」の枠組みの中における「地域」概念については、こうした議論の蓄積は必ずしも十分ではない。例えば、社会学、地理学、地域研究 area studies 等々、異なる分野をそれぞれの研究歴の背景としてきた「コミュニケーション学/研究/科学」の研究者たちが抱く「地域」概念の中身は、現状では大きく食い違っていることも多く、これを意識しておかないと個々の議論をうまく噛み合わせることは難しいのである。
 さらに、「地域」と「コミュニケーション」について概念の整理がついたとしても、それだけでは「地域のコミュニケーション」の中身は自明とはならない。これは、「地域コミュニケーション」というように言い換えても同じことである。こうした表現だけでは、最終的に何らかの「コミュニケーション」のあり方が検討の対象とされていることは確かでも、そこに「地域」がどう絡んでくるのかは全く判然としていない。これは、「地域」と「コミュニケーション」をつなぐ助詞の表現法を工夫することによって簡単に解決されるような文法表現上の問題ではなく、もっと根本的な、「地域のコミュニケーション」をめぐる研究の現状に深く根ざした問題なのである。「地域のコミュニケーション」という問題設定の下で展開される議論は、個別の議論としては優れた論説が存在しても、質量ともに、まだまだ十分な蓄積はなされていない。特に、広い意味での「地域のコミュニケーション」全体を見渡そうとするような、すなわち、「地域」に関わる「コミュニケーション」の諸問題を包括的に整理するような、何らかの展望を示す作業は、ほとんどなされていないのが現状である。
 このように述べてくると、<そもそも現状は、「地域のコミュニケーション」という問題設定に対する学問的必然性なり、社会的要請なりが、実は希薄であることの証しではないのか>と考えられる向きもあろう。しかし、筆者としてはそのように考えてはいない。これは単に「地域のコミュニケーション」の担当者としての立場による見解ではなく、論文等の生産状況を踏まえた実感である。前段では、議論の蓄積が不足していることを強調したが、少し見方を変えれば、何らかの意味で「地域」をキーワードとするコミュニケーション関係の業績は、堅調に生産されている。例えば、日本マス・コミュニケーション学会(1991年までの旧称は日本新聞学会)の機関誌である『マス・コミュニケーション研究』(旧『新聞学評論』)に毎年掲載される「会員研究文献目録」は、日本におけるマス・コミュニケーション関係の研究動向を知る上で重要な文献目録であるが、手元にある第45号に掲載された1993年分を見ると、59個選ばれているキーワードの中に「地域」が含まれている。この目録ではキーワードは最大2個と制約されているが、全部で 300篇余り挙げられている文献中、8篇(重複して挙げられた共著は1篇と数える)が「地域」をキーワードに挙げているが、これは決して小さな数ではない。さらに、本誌『コミュニケーション科学』でも、第1号の板垣雄三「地域研究と異文化コミュニケーション」、第2号の柴田徳衛「大学と地域コミュニケーション」、色川大吉「情報の発信ベースとしての日本の地域研究」と、標題に「地域」の語を含む論文が既に3篇も掲載されている。ただし、こうした諸論稿には、「地域」に大きな重点が置かれて「コミュニケーション」の視点が弱かったり、「地域のコミュニケーション」という意識が先鋭化されないまま議論が終始するものが少なくない。
 こうした状況は、一方で学問的必然性なり社会的要請なりが十分に存在しながら、「コミュニケーション学/研究/科学」の側が、しっかり成熟した一般的手法を獲得できておらず、個々の研究者がアド・ホックに問題に取り組んできた帰結であるとも解釈されよう。「地域のコミュニケーション」が「コミュニケーション学/研究/科学」の中で占めるべき位置は、既に用意されているのである。
 しかし、筆者の見解では、「地域のコミュニケーション」という枠組みは、単に「コミュニケーション学/研究/科学」の下に下位区分される分野として存在意義を持つだけのものではない。「地域のコミュニケーション」という視点は、「地域」というメソ・スケール(中間的な尺度)を挿入することで、一方で「パーソナル・コミュニケーション」を、他方で「マス・コミュニケーション」を主たる対象として展開されてきた「コミュニケーション学/研究/科学」全体を逆照射し、射程の長い根源的な問題を提起する可能性をもっているのである。
 本稿は、以上のような現状認識と問題意識を踏まえて、「地域のコミュニケーション」という枠組みの広がりを包括的に整理し、「コミュニケーション学/研究/科学」全体の中での存在意義を検討しようとするものである。なお、予め断わっておくが、本稿の論述は、日本の社会状況・学問状況を踏まえたものであり、欧米はじめ諸外国の状況については、本稿における考察の範囲外にある。また、筆者はこれまで、社会経済地理学を背景に、主として地域メディアの研究を行ってきたが、こうした研究歴が本稿の内容に何らかの偏向を与えている可能性は十分にある。特に、特定の概念の内容や、用語のニュアンスについて、違和感を感じられる読者もあろうかと思うが、この点はご了解頂きたい。

■「コミュニケーション」にとっての「地域」

 現実世界における諸現象を記述し、その中から何らかの秩序性を導こうとする諸学には、現実の現象に何らかの指標なり尺度を当てはめ、そこで観察・計測し得た結果を抽出してデータを整え、それが整合的に記述できるようにモデルを構築する、あるいは、整合的に記述できる解釈を提示する、という共通した手続きがある。これは、自然科学であれ、社会科学であれ、あるいは人文諸学に属する分野であれ、現実世界の現象の記述に取り組む学問ならば全てに妥当する。
 こうした諸学がモデルなり解釈という形で導き出す秩序性は、現実世界の現象を、ある一つの断面において捉えたものに過ぎない。例えば、同じ共通の現実を前に、政治学、文化人類学、社会心理学、宗教学、等々の諸学が、それぞれ個別の記述を導き出すことはごく当然のことである。また、一つの経済現象に対して、マルクス経済学と近代経済学がそれぞれの解釈を示すことはもちろん、近代経済学の中においても異なる立場によって異なる説明モデルが動員されることも、これまた当然のことである。このように、一つの現実に対して多様な秩序性が綴られていくわけだが、そこで導かれる結論は、相互に反駁し合うものではなく、それぞれに「正しい」ことになる。
 現実世界の中から、特定のデータだけを抽出して秩序性を導くということは、裏を返せば、そこで採り上げられなかった諸々の指標は「捨象」されているのである。諸学の導く結論の多様性は、現実世界の何を「捨象」して議論を展開するかによって生じている。
 「コミュニケーション学/研究/科学」は、基本的な図式で捉える限り、人と人、あるいはそれに準じる主体と主体の間で、何らかの情報がやりとりされる状況を問題とする。そこでは、「送り手」や「受け手」といった主体や、「媒体」や「メッセージ」といった、何らかの意味で主体間を媒介する要素は、本質的な、捨象し得ないものとして採り上げられるが、それ以外の要素は、さしあたりの考察では捨象されてしまうことが普通である。
 もっとも、いわゆる「記号論的」とか、「ヨーロッパ的」と呼ばれるコミュニケーション観の立場のように、「送り手」が実質的に捨象されてしまうような極端な見方もあるわけで、主体や、主体間を媒介するものといえども、ある意味では、必ずしも捨象され得ないわけではない。しかし、こうした場合でも、「送り手」の要素は、まず一旦は想定された上で、一定の条件下においてその想定が無意味である、あるいは仮想的であるとしてモデルから排除されるのだと考えられる。つまり、最初からコミュニケーションにとって非本質的な要素として無視されるわけではない。この「送り手」も含め、基本的な図式に欠かせない諸要素と、捨象可能な他の諸要素との間には、やはり本質的な断絶がある。
 主体としての「送り手」や「受け手」、主体間を媒介するものとしての「媒体」や「メッセージ」は、「コミュニケーション学/研究/科学」にとって欠かすことのできない本質的な要素であり、これを踏まえずにコミュニケーションを語ることはできない。それは、「価値」とか「資源」を捨象した経済学があり得ず、具体的な特定地域の現実から出発しない地域研究があり得ないのと同じことである。
 もちろん、基本的な図式から出発して、より複雑なモデルが考えられていく段階では、新たな要素が考察に範囲に加えられていくことになろう。しかし、そうした場合でも、現実世界の諸要素の中には、考察されるモデルに取り込まれやすいものと、取り込まれにくいものとが存在する。例えば、「貨幣」は経済学にとって、本質的な要素ではないが、非常になじみやすい要素であることは間違いない。ところが、これが「愛情」となると、どうであろうか。個々人の資源配分の判断においては、「愛情」を含めた個人の感情は一定の役割を果たすから、「愛情」は決して経済現象と無関係ではない。しかし、経済現象の中の秩序性を導いていく上で、「愛情」は経済学のモデル化になじまない要素なのである。
 突飛な比喩と思われるかもしれないが、「コミュニケーション学/研究/科学」を構築していく上で、コミュニケーションにとっての「地域」という要素は、上に述べた経済現象にとっての「愛情」とよく似た位置にある。「愛情」に触れない経済学は可能だし、現に一般的である。「地域」に触れない「コミュニケーション学/研究/科学」も、これと同じである。例えば、対話のようなパーソナルなコミュニケーションについて考察するとき、メッセージを交換する主体の「地域」性は、非本質的要素として捨象されよう。これは、パーソナルなコミュニケーションの内に潜む普遍的な秩序性を尊重する立場からすれば、当然のことである。経済現象を貫く普遍的な秩序性を追求すれば、個々の事例において経済活動に関わった「愛情」も、バイアスとして捨象される。
 また、マス・コミュニケーションについて考察するときも、「地域」性が言及される優先順位は低いし、また、仮に言及されても、否定的、消極的な形となる可能性が強い。つまり、マス・コミュニケーションについて論じるとき、話題とされる「送り手」や「受け手」、あるいは「媒体」は、現実世界のどこかに存在しているにもかかわらず、そうした議論において「地域」性(どこに存在するかという相違に基づく差異性)は、まず話題とされないか、さもなければ、マス・コミュニケーションによって、無意味化、無力化される要素として、否定的にのみ言及されることになりやすい。経済学の立場からすれば、経済現象においては、経済学的秩序性こそが、「愛情」などを乗り越えて、鉄の必然性をもって貫徹されていくことになる。同様に、社会全体(さしあたり、国民国家の規模を想定)に同じメッセージを提供するマス・コミュニケーションは、「地域」性を乗り越え、全体をマス化、均質化させる営力と位置づけられるが、そこでの「地域」は、乗り越えられるべき否定的契機としてしか位置づけられていないのである。
 コミュニケーションは、その英語における語源から読み取れるように、複数の主体の間に共有される領域を確保し、あるいは、それを拡大しようとする営為である。この図式において、個々の要素が「どこにあるのか」、また、「どこかにあることによってどんな影響を受けているのか」といった、「地域」に関わる問いかけは、副次的なものでしかあり得ない。本質的な問題は、コミュニケーションに関わる主体の活動であり、主体間を媒介する「媒体」や、それによって運ばれる「メッッセージ」の特性ということになる。
 パーソナルなコミュニケーション論が、その議論の普遍性を無意識のうちに前提としているように、また、マス・コミュニケーション論やテレコミュニケーション論が、克服されるべき障害として地域間の「格差」を捉え、しばしば「場所に意味はない no sense of place」状況を理想化して語るように、「コミュニケーション学/研究/科学」は、基本的な部分において没「地域」的な性格をもっている。用語の厳密な整理を棚上げにして「地域」を「場所」と読み換え、「没場所性 placelessness」の概念と結びつけるならば、コミュニケーションは本質的に「没場所性」を指向するものであり、「場所」性なり「地域」性の捨象された世界を目指すものである。その意味では、「没場所性」の議論の舞台となるような、都市、リゾート、テーマパークといった「場所」が、同時に「メディアとしての都市(等々)」といった文脈でしばしば議論されることも、コミュニケーションと「没場所性」の親和力を示すものと考えられよう。
 別の表現をすれば、コミュニケーションは、その本質において、いわゆる「一点世界」を指向する、「地域」とはなじみにくい概念なのである。「一点世界」とは、経済地理学の一つの立場である空間編成論が用いる言葉であり、議論の出発点である既存の経済理論体系(通常はマルクス主義)において、あたかも全ての要素が空間的隔離のない一点に集積しているかのような想定、あるいは、生産拠点間の空間的隔離を輸送費によって置き換えるように、空間という要素を他の要素に「還元」し、「捨象」してしまえるという想定が、なされていることを意味している。コミュニケーションについての通常の議論においても、「送り手」と「受け手」の間に隔離がある(議論の対象となる「媒体」以外の回路は閉じられている)ことは前提とされているが、それが空間なり、地域の相違などと結びつけられて論じられることは、ほとんどない。隔離を引き起こす要因は、何も空間的な距離ばかりではない。むしろ、空間的な隔離に限定せず、社会的なり、制度的な隔離をも、同時に考慮することで、コミュニケーションの基本的図式は普遍性を持ち得たのである。これを時間地理学的に表現すれば、隔離という「制約」の中味を、あえて「能力の制約」と「権威の制約」に分節化しないことによって、全体像を理解しやすくしているのだ、といえるだろう。このように、抽象的な「空間」の変数さえ勘案されにくい図式の中で、個別具体性、特殊性を帯びた「場所」とか「地域」といった変数が考慮されないのは当然である。コミュニケーションの基本的性格を論じようとするとき、「地域」は、結局のところ捨象しやすい周縁的な要素の位置に追い立てられているのである。

■「地域」をどう捉えるか

 本稿では、ここまで、議論を展開させる都合から、「地域」、「場所」、「空間」等々の用語を、かなり自由に用いてきた。そして、これらの用語を一括して、コミュニケーションにとっては非本質的な要素であると、一応の結論をつけた。本節では、後段での議論を進めるために、コミュニケーションとの関係を、一旦、棚上げにし、「地域」を中心とした用語のニュアンスについて考察しておきたい。
 上に挙げた用語の中で、比較的ニュアンスのばらつきが小さいのは、「場所」である。「場所」は、具体的で、個別的な性格をもっており、place に対応する用語である。また、広がりのある面としてではなく、点としてのニュアンスが強い。ある地点が「場所」とされるとき、そこには何らかの固有性が認識されているか、あるいは、暗黙のうちに前提とされている。その「場所」の固有性を支える諸要素の総体が「場所性 placeness」である。これに対し、ある地点の固有性が曖昧で、むしろ抽象的な文脈の中で語られたり、類型や引用関係において認識されているような場合、その「場所」は「没場所的 placeless」であるとされ、その原因となる諸要素の総体が「没場所性 placelessness」である。
 一方、「場所」と対称的な位置を占める用語が「空間」であり、英語の space に対応する。「空間」には、抽象的、普遍的な性格があり、一定の広がりというニュアンスが強い。また、同時に、文字通り空疎で、中味がないというニュアンスも帯びている。このため、「没場所的な場所」に言及するような場合には、「空間」という表現が頻出する。しかし、それにとどまらず、「空間」は、「場所」よりもかなり様々な文脈、様々な含意で、用いられる。個別の具体的な分析において好んで「空間」を用いる地理学の議論もあるし、インターネットやパソコン通信などに関して用いられる「電脳空間」といった表現にも表れているように、社会関係を取り結ぶ契機となっているシステムを、好んで「空間」と表現する社会学の議論もある。このため、例えば「社会空間」という用語をめぐって社会学と地理学が対話するような場面では、社会関係の束ねた抽象的総体として「社会空間」を捉える社会学と、社会関係が取り結ばれる場として、また、社会関係が反映された現実の空間として「社会空間」を捉える地理学とが、食い違いを示すことにもなるのである。

     「地域」をめぐる用語のニュアンス

             点

             :
             :
        場 所  :  地 点
             :
  具体的        :         抽象的  
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・
  個別的        :         普遍的  
             :
        地 域  :  空 間
             :
             :

             面

 「空間」以上に、多様な意味をもつのが「地域」である。「場所」や「空間」の場合とは違い、「地域」は特定の英語の概念に一対一で当てはまらない。日本語の「地域」に当たる英語の概念としては、area、community、district、locale、region、等が挙げられる。つまり、英語ならば意味の異なる諸概念が、日本語の「地域」の中には混沌として取り込まれているのである。例えば、地域研究における「地域 area」は、その規模やレベルにおいて相当に自由自在に設定されるものであり、さらには、その「自由・大胆な組み替え」が許容、ないしは期待されている。これに対して、社会学においては「地域」といえば、「地域社会」=「コミュニティ community」という連想が働きやすく、「地域」は常にそこに関与する人間集団=社会との結びつきで認識されるため、ほとんどの場合、暗黙のうちに国家の領域よりも相当に小さなスケールを意識することになる。さらに、地理学における「地域」は、区画の基準となる指標さえあれば、人間集団=社会と無関係に設定可能であり、その点では自由自在だが、通常の議論では、やはり暗黙のうちに国家の領域よりも相当に小さなスケールを意識している。特に、日本について「地域」という場合は、都道府県域よりも小さい部分を指している場合が普通であろう。
 そうした、文脈によって異なってくる意味合いの多様性を踏まえた上で、「地域」に一貫している含意は、<何らかの意味で前提となっている「全体」と「個」の間に位置する、中間的なスケールの地理的領域>といったところであろう。「地域」が、国家規模より小さいスケールを意識させやすいのは、前提として、国家=「全体」といった了解が存在するからである。また、例えば、ASEANやEU(かつては、EC= European Community だった)の「地域」協力や「地域」統合は、世界=「全体」/国家=「個」といった認識を下敷きにした言葉遣いである。
 なお、「場所」と「空間」の対称性との関連で付言すれば、「地域」は両者のいずれとも、それぞれ共通点と相違点をもっている。「地域」と「場所」には、「地域」は一定の広がりのある面で、「場所」は点、というニュアンスの相違があるが、具体性、個別性が強調されるという意味では、「地域」は、「空間」よりも「場所」の方に近い。「空間」と「地域」は、どちらも面的な領域を意味するとはいえ、「空間」の方が抽象度は遥かに高いのである。なお、仮に議論の都合で、「空間」のように抽象性が強く、「場所」のように点として捉えられる表現が必要となった場合は、「点」とか「地点」といった言葉が用いられることになろう。

■「地域」に関わるコミュニケーションの研究

 これまで、「コミュニケーション学/研究/科学」の議論は、一方ではパーソナルなコミュニケーションを軸に進められてきたが、他方ではマス・コミュニケーションを考察の対象としてきた。マス・コミュニケーションは、前提として、不特定多数の人々にあまねく享受され、一つの社会「全体」を結びつける活動である。実際のところ、マス・コミュニケーションといえども、せいぜい「国民国家コミュニケーション」の規模を出ないわけであるが、ともかくこのマス・コミュニケーションの及ぶ範囲=国家領域の規模が、「全体」と意識されていることは明らかである。とりわけ、堅い言語の障壁に護られている日本においては、こうした意識は特に強い。パーソナルなレベルや、マスのスケールにおける研究が、一定の進展を見せているのに対して、「地域」という中間的なスケールにおける諸問題は、「コミュニケーション学/研究/科学」の中でも、議論の深化が進んでいないのである。
 「地域」に関わるコミュニケーションを取り上げている既存の研究の中で、ある程度の蓄積が進んでいる(と筆者の考える)分野が三つほどある。その第一が、地域メディアに関する様々な角度からの研究であり、これについては既存のマス・コミュニケーション研究の中の一分野として定着していることもあり、教科書的な論文集や充実した研究文献表などもある。地域メディア研究が比較的進んでいるのは、この分野が、具体的で捕捉の容易な対象を扱っていることにも一因がある。一般に、コミュニケーションなり、情報なりに関する研究においては、捕捉の容易な、物理的実体をもった具体的なモノ、すなわちメディアを分析したり、送り手/受け手などを数量的に把握したりすることは、さほど困難ではないが、メッセージの内容とか、受け手の解釈といった主観性の絡む要素をめぐる議論は、決して容易ではない。メディア論は、コミュニケーション論にとって、いわば「下部構造」に当たり、コミュニケーションをめぐる議論を地に足の着いた形にしていくためには欠かすことのできない分野であるが、メディアだけを議論しても、コミュニケーションを論じたことにならないのである。
 第二に注目されるのは、単なる数量的な把握以上に送り手/受け手のあり方を考察する、という意味で見落とせない、地域社会学である。実際の地域社会学の研究論文の中では、コミュニケーション論的な関心は、明示的には表明されていないことが多い。しかし、相当数の地域社会学の研究にみられる問題意識は、(メディアによらないことも多い)パーソナルなコミュニケーションの累積が、地域社会においてどう機能し、様々な社会的意思決定にどう結びつくのか、というコミュニケーション論的な問題意識に読み換えることが容易にできる。特に、町内会の研究や、局地的な住民運動の研究など、比較的小さなコミュニティを中心とした社会関係の分析には、コミュニケーション論的な文脈でも興味深いものが多い。
 さらに、様々な分野でそれぞれの議論が行われている地域イメージの問題が、第三に挙げられる。要するに、特定の「地域」がどのように表現され、どのように理解されているか、という大きな問題である。地域イメージについては、あまりにも多様な分野に多様な議論があり、ここで簡単に整理することはできない。しかし、人々のもつ地域イメージが、多くの場合、コミュニケーションによって獲得される情報から形成される以上、地域イメージの形成をめぐる諸問題は、「地域」にとって重要なコミュニケーション論的課題となる。さらに、この問題には、「地域からの情報発信」とか、「地域のイメージ・アップ」、「観光地のイメージづくり」といった政策論的な議論が、必然的に絡んでくることになる。
 以上に挙げた、「地域」に関わるコミュニケーションの研究の事例は、統一的な展望の中で蓄積されてきたわけではない。しかし、体系的な「地域のコミュニケーション」論の構築のためには、議論の出発点として重要な意義をもっている。「地域のコミュニケーション」をめぐる全体的な議論は、こうした既存の蓄積を踏まえながら、これまでは必ずしも研究が進んでいなかった課題も含めて、一貫した枠組みの下で形成されなければならない。

■「コミュニケーション」の「地域」性

 ここまで本稿では、あえて曖昧に<「地域」に関わるコミュニケーション>というような表現を用いてきたが、コミュニケーションの諸要素のうち、何が<「地域」に関わる>のかは、もちろん肝要な点である。コミュニケーション活動が現実世界の中で展開されている以上、コミュニケーションに関わる諸要素は、具体的な物理的実体をもっている限り、何らかの「場所」なり「地域」に立地しているはずである。コミュニケーションの基本的要素である、主体としての「送り手」や「受け手」、そして、主体間を媒介する「媒体」は、当然、物理的実体をもって特定の「地域」に立地しているし、単に立地しているばかりではなく、その性格に「地域」性を反映させていることも考えられる。その意味では、「メッセージ」は、やや異なる性格の要素ということになるが、その内容に何らかの「地域」性が与えられていれば、それは「地域」に関わることになろう。
 そこで、こうしたコミュニケーションの諸要素が、それぞれどのような形で「地域」に関わるのかを類型化して整理してみた。ただし、諸要素のうち、「媒体」の立地は、「送り手」と「受け手」の立地によって規定されるものと考えられるので、さしあたり捨象し、「送り手」と「受け手」に「メッセージ」を加えた三要素に注目して、それぞれの要素の「地域」との関わりを指標として類型化を行った。表に示したのは記号は、三種類ある。このうち、Xは<特定の「地域」>に立地しているか、その「地域」性を反映していることを、Yは<Xではない他の「地域」>に関わっていること、Oが<「地域」性をもたないこと>を意味している。このうち、Oは、その要素が特定の「地域」性を反映しない、普遍的な性格をもっていることを意味しており、例えば、全国規模のマス・メディアの「受け手」は、個々人は特定の「地域」にあっても、集合的にみればOと位置づけられるし、実際には東京で制作されるメディアであっても、「送り手」に東京の「地域」性が反映されておらず、むしろ普遍的な性格が表れている場合には、Oとなる。また、Xの「送り手」が、Yの「受け手」に、XでもYでもない他の「地域」(いわばZ)についての「メッセージ」を伝えるような場合も、「メッセージ」は、XとYのいずれからも距離のある普遍的な内容を扱っているのだから、Oと考える。
 「送り手」、「受け手」、「メッセージ」の三要素に、それぞれ三種類の記号を当てはめるから、単純に考えると27通りの組合せがありそうだが、実際にはXが先に与えられなければYは現れない(<特定の「地域」>が現れなければ、<他の「地域」>は現れようがない)ので、組合せのパターンは、表示したように14通りとなる。このうち、パターン(14)は、三要素すべてが普遍的なものであって、「地域」性はなく、通常のマス・メディアを介したマス・コミュニケーションを表すものであるから、これを別にして考えると、パターン(1)〜(13)は、コミュニケーションの基本的な三要素が、何らかの意味で「地域」と関わる形態を網羅したものだといってよいだろう。例えば、パターン(1)は、特定の「地域」の「送り手」が、同じ「地域」の「受け手」に対して、この「地域」に関するメッセージを送るというコミュニケーションを表しており、これは、地域メディアなどでみられる典型的な地域完結型のコミュニケーション形態に相当する。
 また、実際には想定しにくい形態であるが、パターン(8)は、特定の「地域」の「送り手」が、没「地域」的/普遍的な「受け手」に、「送り手」の帰属する「地域」とは異なる、他の「地域」の情報を伝えるというコミュニケーションを表している。強いて具体的なイメージを示せば、特定の地域色を前面に出しながら、全国で受容されているメディアが、地元以外の地域を話題にする、という状況になるから、例えば、大阪から発信しているCS放送のチャンネル・サプライヤー(Sky・A、GAORA)が、大阪(ないし関西)の視点から、大阪以外の地域(例えば、東京)の話題を取り上げるような場合が、これに該当する。さらに、パターン(5)や(6)などは、「地域」の問題とはやや異なるが、戦時下における宣伝(謀略)ビラなどに当てはまるだろう。
 前節で取り上げた既存の研究をこのパターンに当てはめて整理してみると、まず、地域メディア論は、主として「送り手」と「受け手」が一致するパターン(1)〜(3)を問題としてきたことになる。また、地域社会学については、特にパターン(1)に関心の重点が置かれている、と説明することができる。これに対して、地域イメージの問題は、「メッセージ」にXないしYが現れるすべてのパターンが該当することになるが、ここでむしろ重要なのは、従来の地域イメージ論において、<誰が誰に向かって語っているのか>という問題、すなわち「送り手」と「受け手」の「地域」性の問題が、どこまで意識されていたか、という反省であろう。例えば、「地域からの情報発信」といった文脈(パターン(4)や(7))と、特定の「地域」に対するステレオタイプ的イメージの固定といった文脈(例えば、パターン(13))を、どのように接合していくのかは、地域イメージの議論にとって大きな課題となってくるだろう。
 もとより、こうした整理は、様々な意味で現実を単純化する操作を重ねた上で、初めて可能になるものであり、これだけで実際の「地域」に関わるコミュニケーションの総体を把握できるようになるわけではない。しかし、既存の成果を相互に関係づけながら、あまり省みられていない部分を明らかにし、統一的な枠組みを用意するという点では、一定の意義を認めてよいであろう。


  地域に関わるコミュニケーションの諸類型

送り手受け手メッセージ事例 (▲は、実例を想定しにくい形態)
( 1 )地域内で完結する典型的な地域メディア
( 2 )本国のニュースを伝える移民新聞
( 3 )マス・メディアの機能を担う地域紙(戦前/離島)
( 4 )特定の他地域に向けた観光PR
( 5 )▲(本文参照)
( 6 )▲(本文参照)
( 7 )地域からの情報発信、地域のPR
( 8 )▲(本文参照)
( 9 )地域からの普遍的な情報発信
(10)中央で作られた地域別の情報サービス
(11)
(12)難視聴対策、(14)の補助手段
(13)特定の地域を取り上げるマス・メディア
(14)典型的なマス・メディア

■おわりに

 以上、ここまでの本稿の議論は、退屈な抽象論を重ねながら、何とか「地域のコミュニケーション」を総体として捉える枠組みを提示しようと試みたものである。筆者の提示した枠組みが有効かどうかは、各論に当たる部分で、具体的な研究がうまく積み上がるかどうかで判断されるべきだろう。従って、筆者が次に取り掛かるべき仕事は、前節で示した枠組みに沿って、既存の成果を整理し、関連づけながら、研究の遅れている部分を補うような、具体的な研究を進めることである。しかし、本稿では、最後にあえて勇み足をして、仮に「地域のコミュニケーション」をめぐる議論が総体的に構築され得るものだとして、そこから「コミュニケーション学/研究/科学」全体に対して、何がフィードバックされるのか、あるいは、「地域のコミュニケーション」の議論によって、「コミュニケーション学/研究/科学」のどんな側面が逆照射されるのか、という点について、少々考えてみることにしたい。
 本稿の冒頭部分でも述べたように、「地域のコミュニケーション」という視点は、これまでの「コミュニケーション学/研究/科学」において、パーソナルなレベルとマス・コミュニケーションのレベルの間で軽視されてきた、「地域」というメソ・スケールをコミュニケーションの議論に持ち込むものであった。「地域」は一定の領域的な広がりを含意する用語だが、同時に「全体」に対して、その一部分に過ぎないことを前提とする言葉である。ということは、「地域のコミュニケーション」をめぐる種々の議論は、ほとんどそのまま「全体」社会に対する「部分的社会のコミュニケーション」の議論に直結することになる。
 本稿では、議論の半ばで、「地域」=コミュニティと見なす考え方を説明したが、実のところメディアの多様な発達の見られる今日では、空間的な近接性に基づくコミュニティ=「地域」以外にも、例えばパソコン・ネットワーク上のコミュニティのようなものが、様々な形態で登場しつつある。また、そこまで極端ではないとしても、特に都市部などでは農村的なコミュニティとは性格を異にする都市的なコミュニティが存在し、そこでは、空間的な近接性と無関係ではないにせよ、かつての「地域」の原理とは異なる求心力が働いている。そうした状況をよりよく理解するためには、「地域のコミュニケーション」をめぐる議論を踏まえた、「部分的社会のコミュニケーション」の議論の深化が求められることとなろう。
 そこで十分に認識しておかなければならないのは、コミュニケーションが、何らかの共通性、普遍性を指向するものでありながら、現実的には差異/差別を創り出すという、本質的な矛盾を抱え込んでいる、という事実である。複数の主体の間でコミュニケーションがおこなわれるということは、そのコミュニケーションから疎外された主体との間に差異の一線が画されることを意味している。情報が豊富に流れるほど、ある情報を共有する人々と、その情報をもたない人々の間には、大きな差異が生じていくわけである。
 とりわけ、近年におけるメディアの急速な発展と多様化は、情報の多様化を引き起こし、いわば情報の「多品種少量生産」状況を作り上げた。例えば、いわゆる「おたく」現象や、シングルCDのミリオン・セラーが頻出しているのにヒット曲が社会に共有されなくなっているといったポピュラー音楽市場の変質なども、こうした状況の中での現象と解釈されようし、カルト集団の活性化なども同じ文脈で論じることができる。カルト集団が、情報の「大量生産/大量複製」手段であるテレビや新聞といったマス・メディア以上に、ビデオやオーディオ・カセット・テープ、あるいはパソコン通信といった情報の「多品種少量生産」に積極的対応をとるのは、少数者に対して情報を浴びせかけ、他の情報源からの情報を遮断するのに適しているためだと考えることができる。「地域」のみならず、「部分的社会」に関するコミュニケーションをどのように把握するか、という問題は、コミュニケーションの本質的矛盾に起因する問題として、「コミュニケーション学/研究/科学」全体に突きつけられているのである。
 こうして、「地域のコミュニケーション」についての考察は、やがて、「全体」社会とコミュニティ(「地域」とは限らない)の間でコミュニケーションが抱え込む矛盾や限界についての考察へと、半ば必然的に展開していくことになる。「地域のコミュニケーション」の射程は、思いのほか遠方にまで及ぶのである。



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