はじめに
1995年1月17日早朝、やがてマスコミによって「阪神大震災」と称されることになる「平成7年兵庫県南部地震」が発生した。本稿は、地震発生の翌日に、被災地域の一部である兵庫県西宮市・芦屋市・神戸市東灘区一帯を、筆者が踏査した結果の報告である。1月17日の地震発生時には、筆者は長野県穂高町の自宅にいた。17日はそのまま出勤し、業務の合間を縫って準備を整え、夜になってから松本市の勤務先を車で出発した。そして、18日早朝には西宮市に到着して車を下り、そのまま18日深夜まで、徒歩で各地の状況を見て回った1)。
様々な二次災害を含む形で捉えられた広義の地震災害は、複合的な性格をもち、特別な災害対策が必要とされる期間も長期化する。地域の住民にせよ、行政にせよ、あるいは民間企業等にせよ、災害に巻き込まれた行動主体にしてみれば、被災後どの程度の時間が経っているかによって、行動の課題も、環境条件も、まったく異なったものとなるのは当然である。そこで、本踏査の報告に入る前に、地震発生から2日目に当たる1月18日の段階で、被災地域がどのような状況に置かれていたかを振り返り、簡単に整理しておこう。
18日の段階では、各地の火災は鎮火されないものがまだ多く、一方では新たに発生する火災もあった。消防関係、警察(機動隊)関係は、既に広域から救援活動の応援が集められていた2)。自衛隊は、この日から本格的に投入され、主として崩壊した建築物の下に生き埋めにされた人々の救出に当たっていた。既に、小学校等の避難場所へ人々が集まり始めていたし、物資供給なども始まっていたが、この段階では加熱等を必要としない食料品を求める声がメディアで多く流された。被害の後片付けはほとんど未着手で、細い道路では倒壊した家が道を塞いでいるところも多かった。被災者が倒壊した家屋から家財道具を掘り出そうとしている場面があちこちで見られた。ちなみに、村山首相が現地視察に訪れたのは、その次の日、19日であった。
筆者が18日に踏査した範囲は、西宮市の南西部、芦屋市、神戸市東灘区である。この範囲では、大火災の発生などはなく、より激甚な被害にあった三宮のある神戸市中央区や、大火災に見舞われた長田市場のある長田区など、神戸市の東部とは状況が異なっている。しかし、筆者が歩いた範囲でも、ざっと千人以上の死者・行方不明者が出ているはずである。踏査は、西宮市菊谷町の知人宅を拠点に、午前中と、午後の2回行った。ルート概要は後掲(本稿の末尾、写真ページの後)の地図に示した通りである。午前中は、菊谷町から松生町を経て夙川沿いに阪急「夙川」駅まで行き、相生町、久出ヶ谷町を経て菊谷町へ戻った。午後は、午前中と同じ経路で夙川沿いに出て、そのまま南下し、途中で国道43号線の建石交差点方面を経た後、海岸部まで出た。次いで、芦屋市南宮町を経て、新しい埋立地である芦屋シーサイドタウン一帯を見て回った。続いて、今度は芦屋川沿いに北上し、国道43号線を芦屋市と神戸市の市境から大日交差点まで西へ進んだ。この区間は、阪神高速道路がおよそ 600メートルにわたって倒壊した区間である。大日交差点付近で日没となり、写真の撮影はできなくなった。この後、北上して国道2号線の森南町1丁目交差点へ進み、左折して小路交差点まで行ってから、これ以上西へ向かうのをあきらめて北へ向った。東灘区の本山北町で阪急神戸線の北側に出てから、ほぼ阪急線に沿って東へ向い、阪急「芦屋川」駅に達した。この後、山手の住宅街へ方向を転じ、芦屋市東芦屋町、朝日ヶ丘町、岩園町などを経て、西宮市菊谷町に戻った。
今回報告する内容3)は、以上のルートで観察した事柄を中心とするが、西宮市に到着するまでの間に車中から見聞したことや、18日の深夜になってから、別の知人の安否を確認するため車で東灘区森北町周辺を走った際に見聞したことなども、含まれている。
以下、本稿では、まず、地震の結果として破壊された建造物等の状況について、特徴的な点を整理する。次いで、被災直後の物資の供給状況について、さらに、被災地域における地域住民の行動に関連する事項について、筆者が見聞した内容を紹介する。
I・地震被害の特徴
すでに述べたように、踏査範囲内には大規模な火災はなかった。ここでは地震の直接の結果として、倒壊、崩壊などの損害に遭った建築物等の被災状況について、特徴的な点を整理していきたい。
1.建築物の種類による被害の特徴
a)阪神高速道路3号神戸線
踏査した範囲には、東灘区の阪神高速道路3号神戸線の倒壊現場も含まれている(写真1・2:写真は注記の後に一括掲載)。この現場は、当初から震災被害の象徴的な事例となったため、ピルツ工法やコンクリート劣化等の問題点も含め、新聞やニュース番組等でも専門家が詳しく解説しているので、ここでは説明を省略する。ただし、鉄骨橋梁の区間に挟まれた鉄筋コンクリート橋梁の区間が、そっくり区間ごと倒壊したという事実は、異なる建築材の継目の部分に破壊が集中するという一般的な現象の顕著な例として記憶しておきたい。
同様の意味では、倒壊こそ免れたものの、支柱が軒並み破損した、西宮市建石交差点付近の現場も注目された。ここでは、鉄筋コンクリートの支柱が、大きく破壊されながらも辛うじて持ちこたえ、高速道路面が国道43号線上へ崩落するのを防いでいたが、交差点に臨んだ鉄骨支柱は無惨に押し潰され、その上の高速道路面が大きく陥没していた(写真3・4)。
b)鉄筋コンクリート造建造物
踏査した範囲では、一見して明らかな、鉄筋コンクリートの建物の倒壊や崩壊は見なかった。鉄筋コンクリート造りで大きく被災しているものは、ほぼ例外なく、1階部分が壁や柱の少ない店舗や車庫になっている、いわゆる「ピロティ」形式をとっていた。こうした建物では、1階部分の強度が不十分なために1階の開口部が押し潰され、2階以上が傾いてしまうのである(写真5)。
c)木造建築物
古い木造の家屋は、立地位置によって破壊の程度に差が出ているようであった。相当に立派な「お屋敷」でも、半壊ないし全壊している例が目についた。和瓦はほとんどの家屋で乱れており、相当数が路上などに落下して、文字通り「瓦礫」となっている。元々この地域では、地震災害よりも台風を警戒する傾向が強く、重い和瓦が好まれていたが、それが被害を大きくしたということになる。特に「お屋敷」や、寺などの門は、建造物の本体に比べて屋根瓦が極端に重たくなるためか、あちこちで倒壊していた(写真6・7)。
特に木造2階建てでは、2階が特定の方向に落ち、1階部分が完全に押しつぶされる例が随所に見られた。これは、水平方向に大きな力がかかったことを意味するが、2階部分が落ちる方向は、地域によってばらつきがある。西宮市から東灘区の範囲では西方向(あるいは北西方向)が卓越していた4)。
住宅地では、4メートル程の道路が、倒壊した住宅で塞がれている場所が無数にあった。また、木造アパートなどでは、こうした破壊の結果、1階の住人が生き埋めになる例が多かったようである5)。夕方通った東灘区深江本町の一角では、こうした倒壊してしまったアパートで、自衛隊が救助活動を行っていた。
d)塀、その他
家屋以上に目立つのが、塀の倒壊である。ブロック塀は一枚の板のように道路に倒れている。石垣や石積みの塀も、一部では崩壊していた。古い煉瓦塀で表面をコンクリートなどで固めたものもブロック塀同様倒壊が目立った。(写真6・8)こうした塀の倒壊によって、車庫や路上で押しつぶされた車も相当数あった。塀の裏に支えとなるような物があれば、塀はそちらには倒れにくいので、一般的にはオープン・スペースとなっている道路側に倒れてくることになる。このため例外もあるが、踏査した範囲に関する限り、多く塀は木造住宅と同じように、西側に向かって倒れていた。塀ではないが、東灘区本庄町では、タクシー会社の車庫の壁面(構造材は入っていない)がすっぽりと外れて北西側の国道2号線の歩道を完全に塞ぐような形で倒壊していた。
電柱の被害も、無数にあった。電柱は根元に近い部分から折れている場合が多いが、ケーブルが支えとなったり、塀と支えあう形になって、完全に横倒しとなっている例は見なかった。また逆に、電柱や支持ケーブルに引っかかって、完全倒壊を免れた塀も見かけた。電柱は、ケーブルとの関係でいろいろな方向に傾いており、破壊の方向性は認められなかった。ライフラインの中では、電気と電話の復旧は、(一部地域を除いて)早かったが、18日にも電気と電話の復旧作業をあちこちで見かけた(ただし、電話は通常より発信数が多いためにかかりにくい状態がその後も長く続いた)。
自動販売機のような、相当の重量物の転倒も、あちこちで目立っていた。車で大阪府豊中市から兵庫県伊丹市に入ったとたん、目に入ったのが倒れた自動販売機であった。石碑、石像類も数多く倒れていた(写真9)。
2.地形条件による被害の特徴
a)地形条件と被害の程度
総じて家屋は、新しいものほど被害が軽い。しかし、建物の古さ以上に、建物の構造や地形条件が、被害の程度を分けているような印象を受けた。地形条件別に見ると、山手は最も被害は少なく、高台と斜面の境(斜面の上部)の家で若干の被害が認められる程度であった6)。しかし、阪急神戸線より北側の地域でも、谷筋では被害の程度が大きく、家屋や塀の倒壊、道路の亀裂、ガス漏れ、電柱の破損、などが目立った(写真10・11)。扇状地上の斜面では比較的被害は軽いが、平地(水田から宅地化したと推定される地域)に出ると被害が目立つようになる。要するに、比較的柔らかい地層が堆積した上に乗っている場所では、被害の程度が大きくなるのである。
一般的には、海に近づいた低い位置ほど被害が大きいが、実際に歩いた印象では被害が特に大きな地域は海岸線から 500メートルから1キロメートル程の場所にあるように思われた。これが地形要因によるものか、土地利用との関係かは、即断できない。最も海岸線に近い部分には、団地やマンションなど、最近建設された新しい鉄筋コンクリート造の集合住宅などが立地していることが多く、比較的古い家屋の並んでいる国道2号線や国道43号線沿いの地域とは単純には比較できないからである。しかし、芦屋市松浜町で見かけた相当に古い木造の2階建て家屋(写真12・13)が比較的軽い損害だったことを考えると、旧浜堤のように、厚い砂礫層の上にある建物は比較的安全だったということができるだろう。
b)河川堤防
西宮市の西部をほぼ南北に流る夙川は、堤防に守られた天井川である。この堤防は、かなり広い範囲にわたって公園化されている。ここでは堤防上の舗装されていない地面に、南北方向の亀裂が無数に走り、段差も生じていた。亀裂にともなって生じた段差は、最大で50センチ程度のものにまでなっていた(写真14)。これは、東西方向に堤防が激しく揺さぶられた結果と考えられる。頑丈な石積みで固められていた河床面や堤外の法面は損傷がほとんどなかったが、堤内側の法面では石垣の損傷などが認められた(写真15)。
見た範囲では、左岸の松の大木が1本折れて川に落ちていたほか、数本が折れていた。川にかかる歩行者用の小さな橋は、1本が落下し、数本がかなりの損傷を受けていた。落下した橋は、橋脚が西に向かって倒壊し、橋梁の東側が外れて川に落ちていた。こうした状況は、周辺の家屋の被災状況と同じように、松の木や橋を、西側へ引き倒す力がかかったことを意味している(写真16)。
c)埋立地における液状化現象
近年造成された埋立地である芦屋シーサイドタウン一帯では、緑地や校庭、テニスコート、駐車場、道路などで、液状化現象が見られた。特に、公園の中の樹木が植えられたマウンド状の緑地から、砂や粘土が噴出している例が目立った(写真17)。噴出した砂や粘土類は場所によって微妙に異なっていた。大別すると、砂がほとんどで遠目には茶色っぽく見えるものと、粘土が多く、遠目では灰色に見えるものがあり、さらに後者には、ほとんどは粘土質で水分を多く含んだものと、表面には粘土質が乗っているものの、厚い層を成しているのは砂、というタイプのものがあった。ちなみに、この埋立地に近い、旧海岸線近くの空き地なども注意深く観察したが、芦屋市の臨海部に関する限りは、埋立地以外で液状化を見ることはなかった。
埋立地の高層住宅は、外から明らかな損傷はなかった(後日、構造材に損傷が発見された)が、道路舗装などのずれ、歪みなどは随所に認められた。埋立地に限らず、橋梁状の構造物で川や他の道路などを渡る場所では、橋と、その前後で10〜20センチの段差が生じていることが普通だったが(写真18)、埋立地ではこうした段差が顕著にみられた。中には、緑道の橋の手前に50センチ程の段差が生じている例や(写真19)、歩道橋の境目が水平方向に30センチ程ずれている例もあった(写真20)。
II・被災直後の物資の供給状況
1.商品流通
街を歩いていてまず目についたのは、人々の行列である。最も多く見かけたのは公衆電話の順番待ちで、通話可能な「生きている」電話の前には、どこでも数名から十数名の行列ができていた。そして、電話に次いで目立ったのが、商品を求める行列であった。営業している数少ない店の前にも、生活必需品、というより非常時必需品を求める人々が、行列を作っていた。
一部のコンビニエンス・ストアやスーパーマーケットでは、店内には客を入れず、店頭で売れるものだけを並べ、食料などを売っていた(写真21・22)。また、芦屋市南宮町のコンビニエンス・ストア「トゥデイ」では、停電で冷蔵庫もPOSレジスターも作動しないまま、電卓で金額を計算しながら営業を続けていた。コンビニエンス・ストアは、瓶缶入りの飲料品を除いて、最低限の在庫しか店に置いていないのが普通だから、ほとんどの商品は払底している。そうした中で、店員がバックヤードから通電していない冷蔵庫に缶入り飲料品を放り込むと、客が次々と缶を取っていく、といった光景が見られた。
南宮町付近で、渋滞の中で動きが取れなくなっていたローソンの配送車の運転手に聴いたところでは、通常3時間余りの配送コースに、3倍も4倍も時間がかかっているということだった。コンビニエンス・ストアの場合、1回に配送される商品の量は、1日の売上のせいぜい3割程度に過ぎないから、やっと配送が行われても、商品はたちまち売り切れてしまう。入荷が通常の数分の一となり、売れるスピードが数倍となれば、店頭での販売がやっとというのが実際なのであろう。また、「商品入荷の見込みが立たないので当分閉店します」といった貼紙を掲げて店を閉めているコンビニエンス・ストアも多かった7)。
断水のためか、缶入り飲料品はどこでも飛ぶように売れており、どこの店でも売り切れているか、在庫が次々となくなっていく状況だった。自動販売機からも、飲料品はほとんどなくなっていた。酒屋などが店頭に置いている販売機でもわずかに売れ残っているのは酒類だけ。中味の補給を業者任せにしているような住宅地などの自動販売機は、当然すべて売り切れである。地域によっては、自動販売機の煙草も売り切れていた。
真っ先に売り切れたのは飲料品ばかりではない。例外的に営業していた西宮市川東町の薬局で聴いたところでは、紙おむつ、生理用品、ウェット・ティッシュ、などが瞬く間になくなったそうだ。この薬局の隣にある生協店舗では、入店規制を行っており、長い行列ができていた。比較的被害の少なかった山手でも、商品供給に関しては同じ様な状況だった。芦屋市東芦屋町のスーパーマーケットでも、ほとんどの食料品、紙食器、割箸(水がないので食器が洗えない)、電池などがなくなっていた。口に入るもので残っていたのは、アイスクリーム、少量のステーキ肉(ガスが止まって調理できない)、そしてコーヒーや紅茶類(家庭にも在庫はあろうし、お湯は作れない)くらいだった。
芦屋シーサイドタウンには、ダイエーの大規模小売店舗があるが、ここでも店内の混乱を避けるため、入店規制をしていた。入店を待つ行列は、ざっと見たところ 500人以上の長蛇の列となっていた。その列と道路を挟んだ反対側には、(おそらく非常事態を当て込んだ訳ではないのだろうが)ヤマギシの移動販売車が2台も並び、ここにも行列ができていた(写真23)。ダイエーの入口にいた店員によると、通常毎日十数台は入ってくる納品のトラックが、ほとんど来ないまま、在庫品を売っている状態だという8)。店から出てくる客は、食料品を中心に買物をしていた様子だったが、中には買ったばかりの自転車を押しながら出てくる人もいた。自転車とバイクは、こうした状況の下では機動性を発揮するのである。
2.給水
水を求める人々も、行列を作っていた。ガレージなどで普段は洗車用に用いているものなど、住宅地の中で井戸水が出るところでは、水位低下などを理由に時間を区切ったりしながら、近所の人々に水を分けていた。こうした場所にも長い列ができていた(写真24・25)。また、道路の水道管が破裂して、水道水が自噴しているような場所では、柄杓や食器で水をすくう人々が見られた。路上に数人の人々がしゃがみ込んでいるわけで、道路は渋滞がちだとはいえ、交通整理もなく、極めて危険に思われた(写真26)。
芦屋市では、愛知県から陸上自衛隊(第10師団)の補給部隊が投入され、避難場所となっている小中学校などで給水を行っていた。芦屋シーサイドタウンの芦屋市立浜風小学校では、 200名程の人々が列を作って1人2リットルと制限された給水を待っていた。しかし、現場の指揮車両にいた自衛官に聴いたところでは、給水に回る場所によって、集まってくる人々の数がばらついており、場所によっては1人20リットル程度の給水ができたが、ここは人数が多くて充分な量が給水できないという話であった。小学校区の規模が同じ様なものでも、高層住宅が集まっていて、個々の家庭から小学校が「近い」ところと、低層住宅が多くて小学校からある程度「遠い」家もあるところでは、給水の知らせの伝わり方も、それに応じて集まる人々の数も大きく違ってくるのであろう。
この日、この部隊が給水していた水は、出発地の愛知県から運んできたということだったが、その後は、地元の浄水場から各避難所へと飲料水を運んだようである。ちなみに、自衛隊が持ち込む牽引式の給水タンクは、トラック1台につき1トンしか水を運ぶことはできない9)(写真27)。自衛隊のトラックは、本来なら35ミリ砲などを牽引し、兵員を輸送する大型トラックである。住宅地内にある学校へと向かう場合などは、学校付近の比較的狭く、路上駐車も多い道路で、方向転換などの操車に相当苦労していた。
水を運んできたのは自衛隊ばかりではない。夜に入って阪急「芦屋川」駅近くで見かけた給水車は、民間企業所属の滋賀ナンバーの散水車(5トン程度の容量と思われる)だった。
水道が止まり、不足したのは飲料水ばかりではない。まず、水洗トイレが使えないために、駅や公園など公共施設のトイレ(特に大用/女性用)が使いものにならなくなった。避難場所となった小中学校では、トイレを使用する者が交代でプールから水を汲み、トイレに運んでいた。特に浜風小学校では、周辺の高層住宅の住人が自宅用にも水を汲みにくるためか、プールの水量はかなり少なくなっていた。夙川や芦屋川では、バケツなどで川の水を汲んでいる人々も見かけた10)(写真28)。
断水のために、食器を洗うことも、洗濯することも、風呂にはいることも困難になった。紙食器は真っ先に店頭からなくなった商品の一つだったし、その後も含めて数日間は着のみ着のままで過ごした人々も相当いたものと思われる。しかし、何よりも重大な断水の影響は、いうまでもなく火災に対する消火活動への障害であった。
3.救援物資の供給
18日の踏査では、途中3カ所の避難所(西宮市立夙川小学校、芦屋市立精道中学校、芦屋市立浜風小学校)を訪れ、さらに数カ所の避難所の近くを通過したが、給水の行列はできていても、救援物資を求める行列は見なかった。行列がなかったといっても、さらに日が経ってから後のように、行列によらないで被災者個々に配給する体制が組まれていたためではなかったはずである。行列を見かけなかったのは、時間帯がたまたま外れていたということもあろうし、たまたま行列のない避難所ばかりに足を踏み入れたのかもしれない。
しかし、給水には行列ができて、物資に関しては行列がなかったことは、サービスを受ける側の人数によって、ある程度まで合理的に説明される。水道はほぼ全面的に断水していたので、給水を受ける対象は、地域の全世帯である。これに対して救援物資を受け取るのは、原則として避難所へ身を寄せている人々であり、後者は(地域によって比率にばらつきはあるが)平均すれば人口の1割程度にしかならない。少なくともこの段階では、自宅に留まっていた人々は、給水を受けるために避難所へ足を運ぶことはあっても、そこで救援物資を受け取ることには心理的な抵抗感があったようである11)。ともかくも家が残った人々は、最低限の食糧くらいは家にあったということなのであろう。
避難所への救援物資の供給状況は、時間の経過とともに大きく状況が変化していったが、それだけでなく、場所による相違、あるいは「格差」も、かなり大きかったようである。しかし、本稿の執筆段階では、その全体像は明らかになっていない。その点を考慮した上で、18日に筆者が見聞した範囲に限って述べるならば、この段階では、物資が潤沢で行列を作る必要がない、といった状況ではなく、むしろ、食糧を含めた物資の供給が乏しく、配るものがほとんどなかったのである。筆者が尋ねた範囲では、避難所で使われていた毛布や布団などは、自宅から持ち出されたものや、他人が持ち出したものを融通してもらったものだった。行政を経由した救援物資の供給は、もちろん皆無ではなかったのだろうが、初動が遅れていたことは事実であろう。その分を、被災者自身の持ち出した物資や、近隣からの(行政を経由しない)直接的な、あるいは相互扶助的な物資供給が、ある程度まで補完していたのである12)。
III・被災直後の住民の行動環境
1.交通事情
a)地域住民による自動車の使用
地震のために、あちこちで塀が倒れた結果、数多くの車が、その下敷になるなどして破壊された(写真29)。また、家を失いながら、何とか車が助かった人々にとって、車は重要なプライベート空間となった。このため、最初の本震で車の被災を免れた人々の多くは、余震で車が被災することを恐れて、オープン・スペースに車を移動させた。このため、避難場所になった学校の校庭や周辺の道路などはもとより、住宅地内の小公園や、塀などが倒壊してくるおそれの少ない道路などに、多数の車が駐車されていた(写真30)。非常事態ということで、駐車違反の取締りは、当然ながら全く行われていない。避難所となっている学校などでも、仮眠場所とされた体育館や教室ではなく、車中で寝ている人々がいた。これには、エンジンさえかけていれば暖が取れる(ただし、燃料は消耗する)という理由もあったのだろうが、エンジンを停止したままで車中にいた人も多かったことを考慮すると、多数の人々が雑居する体育館などよりも、車中の方が幾分はプライバシーが保てるという感覚をもったのだろう。避難所に避難した人ばかりでなく、車をオープン・スペースに移した人々の中には、余震による家屋の倒壊を恐れ、車中で夜を明かした人々も多かったものと思われる13)。
一般に、大地震が発生した際には、避難には車を用いず、運転中の車は「キーを付けたまま道路の左側に駐車する」ことが求められている。しかし、筆者が今回踏査した範囲で、このようにして駐車していた車は皆無だったといってよい。ラジオでも、被災地域の交通渋滞が救援活動の妨げとなっていることが再三伝えられ、車の使用の自粛が呼びかけられていたが、実際に現地へ行ってみると、車は自在に使用されていた14)。深夜や早朝の時間帯には、幹線道路でも、渋滞の程度は少しは軽減されていたし、幹線道路以外は順調に車が流れていた。
もちろん、住宅地の中の道路などは、倒壊した塀や家屋によって道が塞がれている場所が無数にあったわけだが、肝心な場所では瓦礫の撤去も早かったようだ15)。特に、ふだんから「抜け道」となっているような(特に山手の)道路は、道を塞ぐように倒壊した家屋などもいち早く片付けられており、幹線道路に代わって地元住民が移動する重要なルートとなっていた。物資の調達や給水などは、車で出かけた方が楽なことは当然である。特に山手に住む人々にとっては、重いポリタンクを人力で斜面の上まで運ぶことには抵抗感があったことだろう。
また、場所によっては、段ボールにマジックで「国道○号方面は右折」などと手書きされた、明らかに地震後に掲出された方向の指示も見受けられた。また、損傷を受けた橋などは、むしろ数日経ってからの方が通行規制が厳しくなっていったようである。18日の段階では、交通規制をする警察側にも相当の混乱があり、倒壊しそうな建物があるとして、車の進入を規制していた道に、反対側からは車が入ってきていたり、昼間は規制していた道が、夜中はフリーパスだったりする場所もあった。
b)幹線の渋滞
地元の生活道路とは違って、幹線道路は恒常的な渋滞に陥っていた。自衛隊をはじめ、救援物資の輸送や、救助活動に向かう大型の車両にとって、交通事情は極めて厳しかったはずである。封鎖されていた名神高速道路の吹田IC以西の区間も、緊急車両には通行が認められていたし、国道43号線の一部などにも緊急車両専用の車線が確保されていたが、それでも車両の移動は思うに任せなかったようだ。
被災地域内では、元々大型車の通行可能な幹線道路は限られているが、その中で、あちこちの鉄道高架橋などが崩落したり、東西を結ぶ国道43号線の上を走っていた阪神高速3号神戸線が倒壊するなど、幹線道路は各地で寸断されたり、緊急車両のルート確保のための車線規制を含め、車線減少を余儀なくされていた。このため幹線道路や、その迂回路となったルートでは、重大な交通渋滞が発生していた。大型車に加え、各所で道路網が塞がれていることを恐れて幹線道路に流れ込んだ避難住民の車が加わり、幹線道路は東へ向かう一般車両と、西へ向かう緊急車両や援助物資運搬車で渋滞していた。さらに随所で、陥没や段差の発生といった局地的な道路の損傷や、ガス漏れの緊急工事などによる交通渋滞がおこっていた。また一部では、交通規制の現場にいる警官が、他県からの応援部隊で、地元の地理に不案内という状況も生じていた16)。
停電が続く地区では信号機が消えたところも多く、特に日没以降は交差点で相当の混乱がみられた。日没後に通りかかった国道2号線の神戸市東灘区森南町1丁目交差点から小路交差点にかけては、すべての信号が消えており、混乱が著しかった。西へ向かう車はほとんどなかったが、東行きは、車がほとんど動かない深刻な状態になっていた。国道43号線を東へ向かっていた車が、阪神高速の倒壊現場の手前で国道2号線に迂回させられていたことも、その一因だったようで、各交差点では、南から北上してきた大型車が、国道2号線で右折しようとして立ち往生している例が目立った。こうした大型車が進路を塞ぐために、西へ向かう車両も交差点を順調に通過できずにいた。交差点で苦労しているのは、自衛隊の大型車両も例外ではなく、北側から国道2号へ左折で入ろうとしていた自衛隊のトラックは、隊員が車から下りて直進車(といってもほとんど動いていない)の進行を一通り止めてから、やっとスペースを作って左折していた。
2.情報の供給
災害時の情報源として最も重要なのはラジオである。当然、車の中でも聴けるわけだし、携帯することも可能なわけだ。しかし、街を歩いている人々に関する限り、ラジオを聴いていた人は意外に少なかった、というのが筆者の印象である。車以外でラジオが鳴り続けているのを見たのは、ラジカセを持って歩いている男性を見かけたときだけであった。イヤホンで携帯ラジオを聴いていた人もいたのかもしれないが、それでもかなり少数派である。筆者も、ラジオで繰り返し報じている電車の運行状況について、行きずりの人から質問されることがあった17)。
ラジオは、NHKのAMが地震関係のニュースを流し続け、同じくFMが教育テレビと同時音声で安否情報を流していた。地元神戸や大阪の民放各局も、安否情報や生活情報を提供していた18)。ニュースの中には、特定地域の住民への避難勧告19)や、比較的小さなコミュニティを対象とした生活情報も織り込まれていた。安否情報は、比較的安全だった大阪以東の関西各地に住む人が、神戸周辺の在住者に呼びかけるものが大半を占めていた。この背景には、情報を受け付けていたNHK大阪放送局への、この段階での電話のつながりやすさに地域差があった可能性もあるが20)、それだけではなく、もともと関西全体に広がるような人的ネットワークが存在しているから、こうした結果になったと考えてよいだろう。
電気は、相当広い範囲で比較的早い段階から復旧していたので、被害が軽微で自宅に留まった人々は、テレビを見ていたようである。NHK教育テレビは、ひたすら安否情報を流し続けていたし、NHKも民放各局も地震特番を流し続けていた。しかし、不思議なことに、避難所となっている学校などでは、テレビを見かけなかった。少なくとも大勢が集まっている体育館に、テレビを置いていたところはなかった。テレビの報道内容は、どうしても全国向けのニュースが中心となるから、テレビを見ていても生活情報が入手できるわけではなかった。しかし、個人の直接体験を越えて、大震災という事態の全体像を理解するという意味では、被災地の人々にとってもテレビの報道には意味があった。しかし、テレビの中継地点はどうしても特定の場所に限定されてくるので、同じ市内・区内にいても状況が異なる地域にいた人々には、テレビ報道がかなりの違和感を与えたようだ。
被災地域内にはCATV施設も数カ所あるが、このうち西宮市のCVNケーブルビジョン西宮については、放送状況を(契約世帯で)見ることができた。CVNも、地震直後には一旦停波したが、復旧はかなり早かった。しかし、18日の段階では、自主放送チャンネル、西宮市役所の行政チャンネルとも、情報提供の機能を全く果たしていなかった。18日午前中のCVNの自主放送チャンネルは、固定カメラで国道2号線の状況を流すだけで、情報等は提供できていなかった。18日の午後からは、市内の死者数が画面に表示されたが、必ずしも意味のある情報提供ではなかった。CVNが体制を立て直して、CATVらしい地域の被災状況の報道や、生活情報の提供を始めたのは、19日になってからのことであった。西宮市でこのような状況だったことを考えると、神戸市内など、より激甚な被害のあった地域のCATVは、より深刻な状況にあったものと思われる。
18日の段階でも避難所の一角や、多くの人々が集まるスーパーマーケットなどには、個人の安否を尋ねる貼紙や、生活情報を記した貼紙が見られたが、数も多くはなく、また、ほとんどは手書きか、手書きの原稿をコピーしたものであった。行政の広報にせよ、ミニコミにせよ、生活情報を伝える印刷媒体が出てくる段階ではなかったようである21)。
3.住民の行動
徒歩で避難する人々の目指す先は、差し当りは避難場所となっている各地の小中学校だが、中には自分の地区に割り当てられた学校の位置が分からず、筆者に道を尋ねてくる人もいた22)。徒歩で避難する人々の流れの中には、自転車に荷物を乗せて歩いている人も多かった(写真31)。車椅子の老人を含んだ一家も見かけたし、リュックを背負いベビー・カーを押す人もいた。公的な避難場所となっている学校に対して、いわば近隣の私的な避難場所、救援センターとして機能していたのが、キリスト教会や新興宗教の会館など、各種宗教団体の施設である。これらの施設に関しては、立ち入って話を聴くことはしなかったが、途中で通りかかった印象では、どの施設でも多くの人々が出入りしており、また、地域によっては全壊した家屋に記された連絡先の多くがこうした施設になっているなど、信徒以外にも施設を開放している様子だった23)。
また、被災地域外へと出るべく、鉄道が動いている阪急神戸線「西宮北口」駅を目指して、徒歩で避難する人々も多かったようだ。同じ18日に、徒歩と鉄道で西宮市から東京へ移動した知人の話では、阪急「西宮北口」駅は切符を求める人で大変な混雑24)をしていた上、やっと乗車した電車も超満員、さらに、京都から乗車した新幹線の自由席でも、いかにも被災者という人々が大半だったというから、相当数の人々は、いち早く被災地域外へ脱出したのであろう。老人をはじめ家族を乗せ、荷物を満載して東へ向かう乗用車も多かった。直下型だった今回の地震では、大阪以東の被害は軽微だったので、差し当り関西近辺の親戚知人などを頼って移動した人々も多かったのだろう。
避難ではなく、必要な物資の調達に出かける人々も多かった。水を求め、ポリタンクやペットボトルを下げ、徒歩や自転車、あるいはバイクで移動する軽装の人々はどこでも見かけられた。特に、こうした状況下で、自転車やバイクの機動性は、非常に重要なものとなっていた25)。
夕方には、買い出しの帰りらしく飲料品らしい缶類の入った買物袋を下げ、西へ向かう家族連れも見かけた。車椅子にポリタンク一杯の水を載せて運んでいる初老の男性もいた(車椅子を必要とする家族が家で待っているのか?)。ともかく、阪急「西宮北口」駅か、阪神「甲子園」駅までたどり着いて、大阪市内まで出かければ、通常の都市生活が営まれ物資も調達できるという、ある意味では不思議な状況だったのである26)。
近所の学校にも、被災地域外にも避難せずに、自宅に留まった人々には、大別して二つのパターンがあった。一つは、家の中の調度類の損壊は別として、家屋自体の損傷が小さいか、ほとんどなく、何とか住むことができるために避難する必要のなかった人々であり、このパターンに該当する人々が、実は多数派なのである。もう一つは、家がある程度破損し、余震でさらに破壊される恐れがあるのだが、家財道具などの資産を持ち出せず、家を空けることで火災や窃盗などの二次的被害に遭うことを恐れて、あるいは漠然と「何かあるといけないから」、自宅に留まったというパターンである。こうした場合、家族は避難させて「お父さん」が残る場合や、差し当り夜だけは避難所で寝るといった例も多かったようである。また、これと同じように、営業不能となった店舗などに泊り込んでいる関係者もいた。
本来、気候の温暖な兵庫県南部にとって、この時期は年間を通じて最も寒冷な頃である。気象台発表の最低気温が零下とならなかった18日も、日陰では氷を見ることがあった。この寒さの中で、破壊された街に留まった人々は、あちこちでドラム缶などを利用して焚火を焚いていた。特に、阪急線より南では、夜になると、焚火を囲む人々(圧倒的に男性が多い)の姿が目についた。
おわりに−差し当りの教訓
本稿は、基本的には印象記の域を出ない雑文であり、何らかの結論めいたことを綴るのはふさわしくないかもしれない。また、阪神大震災の経験から学びとられるべき内容についても、筆者の考えはまだ思いつきの域を出ていない。ここでは、現段階で、今後の防災対策に提起されていると思われる課題を整理し、3点にまとめ、われわれが阪神大震災の経験から学ぶべき差し当りの教訓として提示することとしたい。
第一に、災害時における救援活動や物資輸送を円滑に行うために、体系的な交通規制の方策を、検討する必要があろう。災害時に「不要不急」の車両の使用自粛を呼びかけても、事実上ほとんど効果はない。市民の側からすれば、自分たちの避難や物資調達のための移動が、「不要不急」であるはずがない。むしろ、一般市民が(少なくとも一定の比率で)避難に車を使用することを前提とした上で、緊急車両の移動のネットワークを確保するために、実効的な交通規制が効率よく行えるような対策を立てていくべきであろう。
第二に、広域的な行政対応と補い合う形で、近隣規模(例えば小学校区程度の規模)の自律的な防災システムを地域に分散配置することが、重要な課題となろう。これには、自主防災組織の充実といった人的側面と、防火水槽はじめ防災施設の分散配置といった物的側面の両面がある。消防団のような組織の構成が難しい都市的地域では、人的側面が不十分となりがちなだけに、現に地域に配置されている施設の使用法などを住民に普及させる努力が肝要となってこよう。また、災害時に避難所となることが想定される学校などに、2日程度なら一切の補給がなくてもしのげるだけの物資や飲料水があれば、広域的なライフラインや自治体規模の行政対応が一時的に機能の低下や停止をきたしても、近隣ごとに対応することで復旧までの時間を稼ぐことができる。
第三に、防災計画の中で、看過されがちな住民の主体的な行動、広い意味での「自助努力」を的確に位置づけていくことが、大切になってくる。避難所生活を強いられた人々、特にそれが長期化している人々は、行政に大きく依存せざるを得ない状況に追い込まれた、という意味で「社会的弱者」であるし、メディアの報道もこうした立場の人々に焦点を当てがちになる。しかし、その陰で、何らかの意味で「自助努力」によって難局を乗り切ろうとしている多数者への配慮が、切り捨てられてよいということにはならない。今後、都市再建の過程の中で、各自治体には、「弱者」への対応とともに、「多数者」のニーズをどう把握し、どう対処していくのか、という課題が突きつけられているのである。
なお、一点だけ、忘れてはならないことを付言したい。地震発生後に発生した火災の被害は、報じられているように極めて悲惨なものであった。しかし、それでも火災による被害は、事前の被災予想より遥かに小規模なものに留まったのである27)。地震の発生が、火災が最も起こりにくい時間帯に当たっていたことを見過ごしてはならない。それでも、消火活動は大きな限界にぶつかったのである。仮に、首都圏や他の大都市で同規模の地震が発生するとすれば、火災の被害は、阪神大震災とは比較にならない規模となる可能性が高い。その意味では、こと火災に関しては、阪神大震災による火災以上の規模の同時多発火災に、どう備えるのかという、重い課題が提起されているのである。
もともと変動帯に位置する日本列島には、今回の地震の原因となったような直下型地震を引き起こし得る断層が地下には無数に存在している。特に、堆積層の下に埋まっている断層は、動いてみなければ(地震が起こらなければ)存在を確認できないのが、むしろ普通である。阪神大震災の提起する問題は、この列島に住むすべての人々にとって自分自身の問題であることを、我々は肝に銘じておかなければならない。
本稿執筆に際し、被災者の方々には心よりお見舞いを申し上げます。とりわけ、現地で筆者の不躾な問いかけに快く応じて頂き、情報を提供して頂いた被災地の皆様には、お見舞いとともに、深く感謝を申し上げる次第です。また、特に、現地で様々なご協力を頂いた小川博司先生(桃山学院大学)に、厚く御礼を申し上げます。
注
1)今回の踏査は、1日しか時間が取れなかったので、筆者は18日深夜には現地を出発し、19日午後には松本に戻った。
なお、筆者は、阪神大震災の被災状況をより広範囲に把握する目的で、1月28日から30日にかけて、東京大学人文地理学教室の学生有志諸君と再度の現地踏査を実施した。この2回目の踏査の報告は、改めて別の機会に発表したい。本稿では、原則として18日の踏査で見聞した事項についてのみ報告するが、必要に応じて注記の形で2回目の踏査における知見にも触れる。
2)筆者も、大阪府や滋賀県の消防車、奈良県や愛知県の機動隊はじめ、多数の応援車両を見かけた。
3)本稿の草稿を作成している段階で、雑誌『地理』3月号に原稿をよせることとなり、草稿の一部を流用した。このため、本稿の内容、表現は、一部がこの原稿と重複していることを、お断りしておく。
4)2回目の踏査では、神戸市長田区から兵庫区にかけての一帯で、南東方向に2階部分が落ちている例が目立った。また、東灘区の田中町一帯のように、(木造家屋を中心とした市街地の中では)最も著しい被害を受けたものと思われる地区では、こうした方向性が明瞭でない場合が多かった。これは、縦揺れによる破壊が大きく作用したためとも考えられるし、密集した家屋が相互に接触し、それぞれオープン・スペースのある方向へ崩れたためとも考えられる。
5)2回目の調査の際に、間接的に聴いた話では、こうした状況で1階の住人から死者が出た場合、2階にいて生き残った人が、「自分が押し潰して死なせた」という思いに駆られる例もあるということだった。
6)もちろん、山手でも被害がなかったわけではない。18日の夜に車で訪れた芦屋市三条町、神戸市東灘区森北町周辺は、山手としては被害が目立ち、低層の集合住宅や古い木造家屋で壁の亀裂や、建物の歪みなどが見られた。また、2回目の踏査で歩いた芦屋市六麓荘町でも、門などの倒壊はあったし、瓦屋根が破損したらしく防水シートを屋根にかぶせた家もあった。また、六麓荘町の「超」高級住宅地に隣接する剣谷の芦屋大学の校舎は、一部が潰れていた。しかし、総じてこうした山手の被害は、そこから見下ろされる海に近い地域の被害に比べれば、遥かに軽微なものでしかなかった。
7)ただし、2回目の踏査の際、これらのコンビニエンス・ストアのうち通りかかった2店に確認したところ、確認した店に関しては、早くも19日(第3日)には、終日営業に復帰したということであった。
8)このダイエーの店舗から 500メートルほど離れた地点で、「救援物資運送中」と貼紙をしたダイエーの大型貨物車が、ハザード・ランプを点滅しながら停車しているのを見かけた。通常の配送業務ではなく、救援物資の輸送に回された車両も少なくなかったのであろう。
9)2回目の踏査の際には、自衛隊所属の給水車(容量5トン)を1台だけ見かけた。しかし、地震発生後十日以上が経っていたこの段階でも、自衛隊による給水活動は、主として牽引式の給水タンクによって行われていた。
10)2回目の踏査の際、ある被災者が「川の水を汲んでいたら市役所の職員に叱られた」という話をラジオが伝えていた。これが、飲料不適という意味なのか、水利権に関することかはよくわからない。
11)阪神大震災で避難所生活を強いられた人々は、最も多かった時点でおよそ30万人であった。大局的に捉えるならば、この数字は被災地の人口のせいぜい1割強にしか相当しない。また、正確な数字は調べようもないが、避難所へ避難した人数に匹敵するか、それ以上の数の人々が、親戚や知人をたよる形で被災地域外へ自主的に移動している。特に、小学生や中学生は、被災地域外へ出て、その地域の学校に仮転入する例が多くなっている。そして、さらに多数の人々=サイレント・マジョリティは、何とか自宅に留まっているのである。2回目の踏査の際に聴いた話では、こうした自宅にいる人々の比率が特に高い、比較的被害の少なかった地域では、行政の対応も後回しになるのか、行政からの情報提供がほとんどないことへの不満が生じたという。
12)精道中学校の校庭の一角では、キャンピング・セットを持ち出してバーベキューと洒落込んでいる人々もいた。こうした、常識的な「被災」とか「避難」といったイメージからは外れてしまいそうなことまで含め、避難所生活の最初の数日は、かなりの部分まで被災者の自助努力によって支えられていたのである。大阪府の知事が、「被災者は何かしてもらうことしか考えていない」という主旨の発言をして問題となったが、この発言は単に不謹慎ということではなく、明らかに事実に反している。もちろん、一切を失って自ら何かしようにも何もできない被災者や、高齢や障害などのために受身にならざるを得ない被災者もいたであろう。また、メディアが「いま被災者が求めていること」の発信に熱心な余り、ともすれば偏っていたり、誤りを含んだ被災者像を伝えることもあったかもしれない。しかし、被災者がただ無気力に救援を待っているというイメージがあったとすれば、それは事実に反している。
13)本震を経験した人にとって、余震への恐怖感は相当に大きなものだった。特に、本震が18日の未明に発生したこともあって、就寝中に余震が発生するのではないかという思いは強かったようだ。
14)メディアが被災地の交通渋滞を強調した背景には、地域外からの車の流入を阻止するための情報操作の意図があったのかもしれない。
18日にも、阪神高速道路の倒壊現場には、明らかに「見物」に来たものと思われる若者たちの姿が多数あった(写真1・2にも、多数の「見物人」が写っている)。中には、交互に現場をバックにして「記念撮影」をしている2人連れもいた。
2回目の踏査の際に聴いていた地元のKISS−FMは、興味本意で被災地域に来ないように、無神経に現場や被災者の写真をとらないようにと、繰り返し訴えていた。ちょうど週末に当たっていたこともあり、「見物」にやってくる若者も多かったのだろう。筆者自身、28日に阪急「芦屋川」駅付近で見かけた2人の青年には驚かされた。彼らは自衛隊紛いのヘルメットとズボンに、迷彩色のジャケットを着込み、カメラを構えていたのである。一瞬、自衛官かと思ったが、記章類もなく、立ち振舞いも明らかに違っていた。どうやら彼らは「戦場」を見にきた「戦争マニア」だったようだ。
率直にいって、知人の安否を尋ね、必要であろう物資を運ぶために現地入りし、また被災状況を「研究」もするつもりで被災地を歩き回った筆者も、ある種の後ろめたさは、感じ続けていた(今も感じている)。この点について、あり得べき批判は受け止めねばならないとも思っている。
15)撤去ではないが、倒れた塀によって道が塞がれた前後に土を盛って傾斜をつけ、塀を踏み越えて車が走れるようにしていたところもあった。
16)阪急「夙川」駅の駅前広場を封鎖していた交通機動隊は、愛知県警からの応援部隊だったため、迂回路を尋ねても、全くわからないという返答だった。
17)18日に筆者は、行きずりの人に道を尋ねられることが3回あった。この日は、リュックにヘルメット、防寒着に腕章(ヘルメットと腕章は「松商短大」の名入り)、手には大判の地図帳とカメラという格好だった。このため、公務で歩いていると思われたのかもしれないし、地図をもっていたので道を尋ねられやすかったのかもしれない。1回目は、阪神「香枦園」駅付近で、リュックを背負った初老の男性に鉄道の運行状況をきかれ、さらに阪急「西宮北口」駅への道をきかれた。2回目は、芦屋市平田町で、コート姿の紳士に「平田町2丁目」はどこかと問われ、地図で調べてみると平田町には「丁」はなく、現にいる場所の目の前が「平田町2番地」だった。3回目は、夜になってから親子連れに、「避難所になっている小学校はどこにありますか」と道をきかれた。その学校名を問い返すと「なんとか丘小学校」という返事だった。その直前に芦屋市立朝日ヶ丘小学校近くを通っていたので、朝日ヶ丘小学校かと確認すると、そうだというので行き方を案内した。ただし、この親子連れに出会ったのは、岩園小学校西交差点のすぐ近くで、最も近いのは岩園小学校だったはずである。
18)残念ながら、18日には地元神戸のKISS−FMの存在を失念し、意識して同局を聴くことは一切なかった。KISS−FMは、地震発生直後から地域的な生活情報を積極的に報じ、重要な役割を演じたという話なので、18日に同局を意識しなかったことは非常に悔やまれる。印象に残ったのは、他局がほとんど音楽をかけない中で、安否情報とともにバラード調のラブ・ソングを放送し続けた大阪のFM802であった。この点については、2月5日付『朝日新聞』日曜版の小川博司のコラム「サンデーコンサート」も参照されたい。
19)18日には、東灘区御影浜町の三菱商事神戸綜合油槽所のタンクからガス漏れし、爆発の恐れがあるとして、東灘区の沿岸部に近い広い範囲に避難勧告が出されていた。
20)今回の地震では、大阪が軽微な被害であったため、全体的に混乱が少ない形で、大阪から被災地域向けにメディアの発信が行われた。
21)2回目の踏査の際には、多数の貼紙が随所で見られ、また行政当局が発行するものや、ボランティアが発行するものをはじめ、様々な印刷媒体が生活情報を伝えるべく配布されていた。
なお、この間、『神戸新聞』が、本社の被災にも関わらず発行を維持したことは、既に各方面から賞賛されているように、特筆すべきことである。
22)注17)、参照。
23)ただし、信徒以外の避難者は、ある程度落ち着いてから別の場所へと移ることが多かったものと思われる。こうした状況が明瞭だったのは、2回目の踏査で訪れた長田区若松町一帯であった。倒壊家屋には、そこに住んでいた家族がどこにいるのかを伝える掲示がなされていることが多い。それを詳しく見ていくと、地域住民の多くが、一旦は若松町2丁目にある創価学会の会館に避難し、その後、小学校など公的な避難所や、各地の個人宅へと移って行ったことが窺えた。
24)この混雑のさなか、駅では駅員3人がラガール・カード(阪急のプリペイド・カード)の販売に当たっていたという。筆者の知人は、そんな人員がいるなら混雑の整理をすべきだ、と思ったそうだが、旅客の中には小銭を持たない人もいたろうから、止むを得ない対応だったのかもしれない。
25)ただし、2回目の踏査に参加し、主に自転車で移動した学生によると、随所で道路に亀裂や段差が残っており、自転車での移動は相当に大変だという話であった。道路の亀裂などは、2回目の踏査までに、かなりの箇所がアスファルトを詰めるなどして応急的に修復されていたが、それでも走行には困難が残っていたわけである。
26)松本に戻ってから見たテレビでは、大阪市内の銭湯が、神戸方面からやってくる客で繁盛しているという話題を紹介していた。
27)2回目の踏査の際、筆者は神戸大学工学部が設けた「地震情報センター」で、同学部の関連教室が所蔵する資料の一部を閲覧することができた。ここに集められた防災計画関係の資料に目を通したところ、昭和50年代以降、兵庫県は震災時の火災について、いくつかの予測を行っていたことがわかった。筆者が見た範囲では、いずれの予測でも、火災が最も発生しやすい冬季の夕食時の想定では、万単位の世帯が焼け出される結果となっていた。こうした点から考えても、今回の火災被害は、この規模の地震の結果としては、小規模であったと考えられる。
写真 および 踏査経路
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