雑誌論文(その他):1993:

地理学におけるエスニシティ研究によせて、あるいは、板前は包丁を研ぐ.

(社会地理学とその周辺・第3回)
地理(古今書院),38-8,pp80〜85.


 本稿は、『地理』1993年5月号の<特集・社会地理学とその周辺>を受ける形で、同誌1993年6月号から1994年8月号にかけて、のべ12回連載された「社会地理学とその周辺」シリーズの一つとして執筆されたものである。山田は最終回(1994年8月号)の座談会にも参加している。
地理学におけるエスニシティ研究によせて、あるいは、板前は包丁を研ぐ


地理学におけるエスニシティ研究によせて、あるいは、板前は包丁を研ぐ

■「民族」としての「イスラム教徒」の問題

 旧ユーゴスラビアのボスニア=ヘルツェゴビナの内戦が時々ニュースで報じられている。この内戦は基本的には民族紛争であり、当事者は「セルビア人、クロアチア人、イスラム教徒」とされている。実際には、イスラム教徒でクロアチア人側に立つ者もいれば、セルビア側につく者もいて、例外的な話はいくらでもあるわけだが、ここでは一応、民族紛争だとして話を先に進めよう。
 さて、列挙されている諸集団は、内戦で対立しているくらいだから、その構成員は本来は相互排他的なはずである。そう考えると、ここで「セルビア人、クロアチア人」という民族名と「イスラム教徒」という宗教名が並列になっているのは、「日本人、朝鮮人、仏教徒」と並ぶのと同じで、日本語としては実に奇妙である。これは、英語の「モスレム」をどう訳すかの問題なのだが、一部では、この奇妙さを解消しようとしてか「イスラム系住民」とか「モスレム人」といった表現も用いられているようだ。要するに、現地では「セルビア人、クロアチア人」といった民族集団に匹敵する集団として、イスラム教を核とする集団が社会的な求心力をもっているということなのであろう。また、これを裏返せば、「セルビア人、クロアチア人」といった民族集団も、その文化的な求心力としてそれぞれの宗教(セルビア正教、カトリック)を擁しているのだ、と解釈できる。
 いずれにせよ日本で知り得る限りでは、ほかの民族集団と並べられる「イスラム教徒」がどんな人々なのか、実際のところはほとんどわからない。彼らは、どんな風貌で、どんな言語を話し、どんな日常生活をおくっているのだろう。彼らは「民族」なのか「信徒集団」なのか。もちろん「セルビア人」にしても、わからなさの程度は同じようなものだ。しかし、中東のアラブ人的な風俗などを連想させる「イスラム教徒」のほうが、誤解を招きやすい危うい表現であることは間違いない。
 手近な文献をみると、「モスレム人はイスラム化したスラブ人であり、一民族として認められているが、実態はセルビア系スラブ人とトルコ系住民の混合集団」といった記述がある。この文献*は、歴史的背景を簡潔にまとめた門外漢には便利な資料なのだが、これとて、モスレム人たちが何語で話しているのか(とくに、「セルビア系」と「トルコ系」の間で)、といったごく基本的なことをはじめ、要領を得ない感が読後に残るのである。

■エスニシティの「相対性」

 もちろん、旧ユーゴスラビアの事情にしても、しかるべく資料を探せば、的確な説明に容易にたどりつけるのかもしれない。ここで、いきなり自分の無知、ないし情報検索能力の欠如という恥をさらしたのは、研究者がエスニシティ論を日本で、また日本語で展開するときに意識されるべき問題の一端が、ここに現れていると考えたからである。それは、エスニシティの「相対性」に対する批判意識の欠如、という問題である。
 ここでは、人種、民族、国民などの諸概念を「エスニシティ」という用語で総括的に扱う。要するに、その集団を束ねる絆として、何らかの意味での血縁関係を想定するような集団を、規模の違いなどを捨象して「エスニック・グループ」として一元的に捉え、その集団を他者から区別する諸特徴を「エスニシティ」と表現したいのである。一般的にセンサス・データにおいては、こうした概念が年齢や性別といった人口学的な分類指標と並列されて、人口統計上の数値がはじき出されることが多い。しかし、年齢や性別が(例えば、エイジング論やジェンダー論の視点からすれば批判の構築が可能であるとしても)通常の文脈では明白な客観的な生物学的事実として容易に確定できることと対比すると、エスニシティはあまりにも問題を含んだ概念である。
 諸外国のセンサスを読んでいくと、エスニシティの分類項目の立て方それ自体から、その地域のエスニシティ事情が読み取れる。日本のように(国籍は別として)エスニシティ項目のない国もあれば、肌の色による簡単な人種項目が並ぶことも、外国人には意味不明なほど微細な分類カテゴリーが並ぶこともあり、さらには母語ないし使用可能言語による項目が事実上のエスニシティ項目として盛り込まれている場合もある、といった具合いである。また、都市部で諸民族の雑居が実現しているだけでなく、国内の農村部などに地域性をもった多民族を抱える国では、エスニシティの問題は特定の地域(そう呼びたければ「空間」といってもよい)と結びつけられた地域問題としての特色も帯びることになる。
 しかし、いずれの場合においても、年齢や性別とは違って、エスニシティのカテゴリーは恣意性なり文化性、あるいは「歴史性」を帯びることになる。例えば、同じ「コリアン」でも在日韓国・朝鮮人と在米韓国人が同じ民族意識を抱えているという主張はにわかには諾首し難いし、また、バスク人というエスニシティもフランスとスペインでは異質なはずである。また、エスニシティに階層がある場合には、どのレベルが強調されるかの選択−彼は「アパッチ」か「インディアン」(=先住民)か「黄色人種」か−にも恣意性が現れる。
 生産活動の基盤が農業にあり、地域的環境が生活様式を大きく規定した近代以前の封建的社会においては、地域間の交流は限定的、例外的でしかなかった。この段階では、血縁集団原理によって束ねられた特定のエスニシティを特定の地域と対応させて理解していくという方法は説明原理として絶対的な有効性をもっていただろう。このため人間のアイデンティティを特定の地域と結びつける理解に基づいて、社会秩序は制度化されてきた。国民国家システムに従った「国籍」という発想などは、その最たるものである。こうした制度化の過程において、局地的、歴史的状況の下で、個々のカテゴリーを説得的に正当化しようとして多様な要素が盛り込まれた結果、カテゴリーの体系は非合理性、恣意性を抱え込まざるを得なくなった。例えば、集団AとBの区別には言語をおもな区別の指標としながら、AとCの区別には生業形態の違いが強調される、といったことが生じるわけである。そうした論理的不整合は、むしろ実態的な説得力追求の帰結なのである。
 これに対し、大航海時代以降の全地球規模での人口移動、とくに強制的な奴隷労働力の移動などのインパクトに加え、ヒト、モノ、カネの自由な移動を前提とする近代の資本主義体制が、地域によっては二世紀以上、世界中のほとんどの地域ですでに何世代にもわたって展開してきた現代社会においては、ひとたび制度化された社会秩序としてのエスニシティも、常に現実によって裏切られ、切り崩される。労働力の空間的移動(いちいち「資本の要請による」と枕詞をつけてもよい)、伝統的生活様式の変質ないし崩壊、混住化、混血化などによって、エスニシティ項目のカテゴリーは不安定化が進行する。
 エスニシティは、決して絶対的・固定的なものではない。もちろん、そこに強力な歴史の慣性が働くことは間違いないが、特定のエスニシティの形成=カテゴリー化にしても、個々のカテゴリーに付与される社会的意味づけにしても、特定の時代、特定の地域、特定の文化において、特定階級のイデオロギーの反映として、あるいは諸勢力間のヘゲモニー過程の結果として、成立するものでしかない。エスニシティの「相対性」を忘れ、その背景にある政治性を嗅ぎ取らず、血縁集団という幻想を無前提に受け入れるならば、われわれは「血」の論理に基づいた「絶対性」の神話に埋没していかざるを得ない。

■近代「日本人」のエスニシティ

 一つの例として、近代日本におけるエスニシティ意識について考えてみよう。本来なら厳密な批判的検討が必要であろうが、江戸時代までは、エスニシティとしての「日本人」意識は、きわめて希薄であったと一応考えられる。人々は「日本人」である前に「長州人、薩州人、信州人」などであり、またそうした地域性による差異とともに、階級差が厳然と存在した(「日本人」である前に「武士」であった)。しかし、明治維新を境に、地域的差異も階級的差異も徐々に背景へと後退し、代わって国民全体を包括する「日本人」(その変形としての「国民」、「臣民」)が前面に登場するようになる。
 明治期以降には、戸籍制度が地域とヒトとを封建的に把握していたが、農家の次三男など、地方から中央へ、農村から都市へという人口移動傾向は恒常的に存在したし、他方では没落士族を中心とした広義のテクノクラート層(官吏、教師、軍人、医師、技術者、宗教者、新聞人など)が、相当の流動性をもって全国各地(場合によっては海外を含めて)を縦横に移動していた。そのほかにも、鉱山開発や海外出稼ぎなどに伴って、ヒトの流動性は飛躍的に増大した。こうした流動性の増大は近代化の帰結であり、また基盤でもあった。形成過程の産業資本がそれを必要とした、と説明してもよいだろう。
 それでも昭和初期まで封建的遺制は残っており、例えば、卒業証書などには氏名に添えて「山形縣士族」と身分を記すのが当然であった。まだまだ総人口の大半は、「先祖代々」(少なくとも数世代前から)の居住地に住み、大都市の住民にも盆暮には帰る故郷(=本籍地)があった。しかし、戦後の高度経済成長期に大都市への人口移動が空前の規模で起こり、さらに大都市郊外に定住した彼らの子供たちの世代ともなると、変化はより決定的になる。戸籍制度は、空間的に封建的なヒトの管理方法としては急速に形骸化し、かつての「県人会」のような地縁性に基づく互助組織の基盤は崩れ、盆暮に帰る故郷の意義は変質した。家制度の崩壊とともに、墓葬のシステムが深刻な変化の波にさらされているのも、こうした変化のなかのひとつのエピソードに過ぎない。
 もはや、現代の日本人は「日本人」である前に「上州人」であったりはしない。日本の近代化は、「日本人」という上位(対象範囲が広いという意味)のエスニシティによる、国民の統合(=国民経済市場の構築)、あるいは、下位のエスニシティの包摂過程として理解されるのである。もちろん、この過程においては、北海道以北の「土民」(=ウタリ)、琉球人、台湾・朝鮮・南洋の諸民族など、程度の差こそあれ、本来ならば血縁集団の理論のみでは統合の難しい集団の日本社会への包摂が、困難な問題、ないし矛盾として浮上してくる。近代日本がこうした諸集団に対処した方策の内容には、個別に批判的検討が加えられるべきであろう。しかし、総体的にみて戦前には、差別的な姿勢に裏打ちされた強制的同化政策(朝鮮における例は典型的)が実践され、戦後においては建前としての諸集団の権利擁護と、問題自体の隠蔽=非・問題化が押し進められ、「日本人=単一民族」の神話が、「一億総中流」的な意識とも微妙に共鳴しながら、浸透していったと考えてよいだろう。
 こうした過程において、いかなる階級のイデオロギーが反映され、あるいは、諸勢力の間にいかなるヘゲモニー過程が展開したかを詳しく検討することは、この雑文の射程外の遥か遠方にある。しかし、日本人論・日本社会論を展開するために、「日本人」概念に対する「批判意識」なり「反省」が必要不可欠になってくることは間違いない。また、<地理学>の名における実践は、ともすればこうした議論とは無縁と考えられがちである。しかし、ある特定の概念装置を用いて論述を展開しようとする場合には、その道具としての性能と限界に対する関心が絶対に必要である。道具を無前提に過信するのは、プロとしては無責任な態度であろう。ところが、実際には人文(社会)地理学からエスニシティへ接近する議論の多くは、エスニシティの「相対性」に無関心を装い、エスニシティを所与の絶対的基準であるかのように議論を進めるものとなっている。われわれは、自分の用いる言葉に対して無反省であってよいのだろうか。

■感性と批判意識

 日本地理学会の研究発表などの場で展開される議論をみている限り、日本の地理学研究者にはエスニシティの相対性に対する感覚が不足しているように思われる。欧米のセンサスの限界に無批判なデータの読取りも、相変わらず少なくない。確かに、所与としてのエスニシティを必然とする研究もあるだろう。例えば、統計資料の分析を通じて広域的考察を行うような場合は、必然的に調査上のカテゴリーに従わざるを得ない。しかし、たとえそれが研究の中心的テーマではないとしても、エスニシティがどのように構築され、意味付与されていくかを考察する視点は常に必要なのではあるまいか。
 エスニシティの「相対性」について、少なからぬ日本の地理学研究者がナイーフなのはなぜだろうか。同じ地理学研究者でも英国のP・J・テイラーなどは、国民性を徹底的に相体化した議論を展開している。そこで、日本の研究者のナイーフさ問う前に、欧米人研究者の姿勢はどのように形成されるのか、と考えてみよう。近代社会科学は、欧米のキリスト教社会を前提として発展してきた。われわれが欧米起源の社会科学の諸概念を動員しながら日本語で考える際には、時々立ち止まって彼我の文化的背景の違いに思いを及ぼす必要がある。
 エスニシティの問題にしても、例えば、キリスト教社会に包摂された集団としての「ユダヤ人/ユダヤ教徒」の概念(「モスレム」同様、欧州諸語では「人」と「教徒」の区別はない)の問題性は、大方の日本人にはなかなか理解できない。ユダヤ人は「民族宗教」としてのユダヤ教を中核として血縁集団であることを主張する。しかし、ユダヤ人の実態は、各地のキリスト教社会において社会的分業の一端を担う一種の階層として位置づけられた諸集団が、欧州諸国のナショナリズム=国民意識の形成時期に、差別的な社会的圧力への反動として血縁集団の連帯というイデオロギーを持ち出し(シオニズム)、一つの民族として動き始めたものである。ユダヤ人は、キリスト教社会の刺であり、K・マルクスやJ・P・サルトルを含め、欧米近代の思想家の多くがこの問題に触発され、既存の思想を超克する自らの思想を磨いてきたのである。こうした問題と日常的に接している社会で展開されるエスニシティ論と、身近にあるエスニシティの多元性をひたすら隠蔽してきた社会で展開される議論では、自ずから違いが生じるというものであろう。
 地理学分野に限らず、日本における、あるいは日本語による、エスニシティ研究を前進させるためには、自然化された「単一民族」の神話を克服し、緊張関係をはらんだ身近な社会問題としてエスニシティを捉え直す感性と、論述の道具としての既存概念を見直し、概念を研ぎ澄ましていく批判意識が求められる。最近、とくに若い地理学研究者の間から、日本国内をフィールドとしたエスニシティ研究が出始めたことは、多様な「外国人」たちの日本社会への参入という現在進行形の現実(「日本社会による<外国人>の包摂と、新たな矛盾の諸相」といってもよい)と無関係ではあり得ない。その意味で、感性の面では堅実な研究への展望が開けつつある。今こそ求められるのは、概念装置への批判意識、すなわち自分の言葉に対する謙虚な反省なのである。

 伊沢久昭(一九九三)「旧ユーゴスラビアにおける民族問題」大阪産業大学論集・社会科学編九〇、四三〜五九頁.(引用は、五五頁)



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