書籍の分担執筆(論文形式のもの):1992

「見る」ロックと「ロック」する映像.

キーワード事典編集部,編 『キーワード事典・ロックの冒険・スタイル篇』洋泉社,pp200〜209.


 掲出に際して訂正した部分は青字としました。
■音楽を見る
■特権的存在としてのロック
■映画とロック映像の広がり
■ビデオ・クリップとMTV
■絶頂と行き詰まり

(ビデオグラフィー)


 この文章を収めた『キーワード事典・ロックの冒険・スタイル篇』は、既に絶版となっております。
「見る」ロックと「ロック」する映像

■音楽を見る

 音楽の演奏=パフォーマンスという行為は、元来、視覚的にもエンターテイメントとして機能する側面をもっている。コンサートに出かけるとき、われわれは音楽を聴く以上に、ステージを観ること(あるいは、それも含めて会場の空気に浸ること)を目的としている。これが妥当するのは、大仕掛けに演出されたステージの場合だけではない。最も素朴な形態で、歌手なり演奏者を前にするときでも、われわれの視線は、歌手の表情や、演奏者の指先に、引き寄せられるのである。純粋に音だけに耳を傾ける聴取行為は、今世紀に入ってから、レコードやラジオが生み出したものであろう。
 音楽は本質的に作品が支配する時間の流れの中で表現されるものであり、映像表現といっても絵画のように時間が静止した表現や、文字として表現された文学作品のように鑑賞者が時間を支配する表現とは、親和性が乏しい。しかし、近代以前においても、舞踏など時間の流れの中で成立する肉体運動による表現、文学作品の朗読など音声表現、両者の要素を包含した演劇などと結びつく形で、音楽は他の表現形式との融合の可能性を見せていた。音楽と視覚的エンターテイメントの融合に限っても、バレエ、オペラ、あるいはパレード、マス・ゲームなどなど、ごく自然に多様な形式が存在した。さらに、音楽と映像の融合の可能性を、決定的に切り開いたのが、近代を象徴する文化的技術としての「動画」の出現であった。映画、テレビ、ビデオとともに、映画音楽〜音楽映画、音楽番組、MTV、ビデオ・クリップなどが続々と登場したわけである。
 トーキーの出現は、既存の「音楽+映像」形式をそのまま記録媒体に載せ、作品/商品として流通することを可能にした。この形式は今日のライブ・ビデオまで直結している。一方、既にトーキー以前の無声映画の段階でも、「動画」は実演される音(弁士、楽団伴奏)と親和性をもっており、両者は融合して、実演=ライブでは不可能な「音楽+映像」表現を生み出す可能性をもっていたはずである。実際、奇術映画の例のように、現実には不可能な映像の提示、あるいは現実の解体と再構成は、新たな表現の可能性として映画の出現の最初期から意識されていた。(ライブもの以外の)ビデオ・クリップのルーツを遡って探っていけば、こんなところまで行き着くのかもしれない。
 こうした「音楽+映像」形式の背後には、音楽が果たして主なのか従なのか、という問題が常に潜在している。議論を単純にするために、音楽を主とする融合形式(例えばオペラ)と、音楽を従とする融合形式(例えば単なるBGMとして音楽の流れる演劇なり映画)について両極端を考えてみよう。すると前者では、音楽の喚起するイメージを映像が一定の方向に誘導し、音楽表現を視覚によって強化しようとするのに対し、後者では逆に、映像表現を補強するために音楽が動員されている(その意味では単なる効果音と変わらない)ことがわかる。両者はどちらも広い意味では音楽娯楽の形式であろうが、音楽を中心に考察する場合には、前者に対象を絞ることも許されよう。さもなければ、およそ音楽(ないし音)を取り込んだあらゆる表現形式を議論の射程に入れる、という無謀なことになってしまうからである(以下では、後者は議論の対象としない)。

■特権的存在としてのロック

 「視覚的にも魅力のある」音楽娯楽の形式についての議論は、演奏という行為それ自体が視覚的魅力をもっているという事実、音楽表現を強化するために視覚を動員する融合形式が存在するという事実を踏まえている。その限りにおいては、クラシック音楽もロックも変わりはない。しかし、ロックは、今日一般的に享受されている多様な音楽様式の中で、「視覚的魅力」のある音楽娯楽として突出した存在となっている。ロックの突出は、単に映画やビデオのビジネス規模の問題だけのことではない。例えば、「音楽が視覚要素を動員して斬新な表現を獲得する」という文脈で考えたとき、新たな表現を生み出すという点で、クラシックや民族音楽は、そのような地平を切り開くことができただろう。確かに、美しい映像に捉えられた民族音楽のライブ・パフォーマンスには、感動的なものも多い。クラシックを映像化したディズニー・アニメの傑作『ファンタジア』(1940年)のような試みは、一種のマニエリスムとしてのビデオ・クリップ・オムニバス『アリア』(1987年)のようなB級作品も含め、正当に評価すべきである。しかし、映像を引きずり込むことで、映像表現にも革新をもたらし、翻って音楽にも新たな衝撃を与えたという点で、ロックと映像の関係は特別なものである。
 映画、テレビ、ビデオと、映像媒体は異なっていても、映像と音楽の交錯・融合を語ろうとする際に、われわれがロックに特権的な地位を与えるのは、そこで実現する音楽=ロックと映像の接触が、より本質的なものであるからだ。ここでは、安易に短絡的な因果論に陥ることを厳に戒めたいが、歴史を振り返るならば、ロックと映像が、歴史の大きな流れの中で、いわば必然的に蜜月関係を成立させたことは想像に難くない。18世紀以降の市民社会〜大衆社会、すなわち近・現代社会における音楽娯楽とメディア技術の相互作用関係の流れを追跡すれば、その誕生の時から映像を先験的な存在と受け止め、映像と親和性をもち、映像との融合を当然としたロックという音楽様式の特異性が浮き彫りになろう。
 先進諸国が産業革命期の混乱をくぐり抜け、矛盾を抱え込みながらも産業社会の安定と成熟が始まった19世紀後半以降、世界経済の成長点となった地域には、常に消費指向文化に基盤を置く大衆社会状況が成立し、各時代の技術的可能性の中で独自の音楽娯楽文化が展開した。まず、大量輸送手段が出現した19世紀後半のヨーロッパでは、デパートという消費の殿堂、博覧会というスペクタクルとともに、ミュージック・ホールやレビューという興業の世界が生み出された。次いで、電気の時代に突入し、電気通信が現れた20世紀前半のアメリカでは、興業が映画に載ってレビュー/ミュージカル映画が量産され、ラジオとレコードが大衆的音楽の形態を激変させた。このアメリカの時代を象徴していた音楽はジャズであった。そして、テレビの出現した20世紀後半の「地球村」、あるいは「北」の世界では、続々と出現する映像機器・システムの洪水によって、「見る」ことが「聴く」音楽を侵食する状況が起こっており、まさしく「ロックの時代」が展開しているわけである。

■映画とロック映像の広がり

 ロックは、その誕生の時から映像を産婆役としていた。1954年に発表されていたビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を最初の「ロックン・ロール」作品に昇華させたのは、映画『暴力教室』(1955年)であった。実際には、この映画におけるロックの位置は従属的なものでしかないのだが、問題作となった映画のお蔭で、新しい音楽様式が派手に印象づけられたのである。『暴力教室』が、各地で上映反対運動の嵐に遭う中で、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」はビルボード・チャートの首位に躍り出た。
 草創期のロックン・ロールは、まず、既に確立されていた映画のシステムに接触した。その第一の回路は、今日のビデオ・クリップと同じように一つの楽曲を単位とした短編のフィルムであった。こうしたフィルムは、既にミュージカル・スターたちやジャズ・シンガーたちを中心に頻繁に制作されていたが、その大半は、スタジオ撮影の映像に別録りした音を載せたもので、大別すると、演奏シーンを中心とするものと、ミュージカル映画の一場面を思わせるような日常的なセットで歌手に歌わせるものとがあった。チャック・ベリーやリトル・リチャードらの初期の演奏スタイルは、こうした映像によってよく伝えられている。
 既に確立されていたもう一つの映像の形態は、歌手をフィーチャーしたプログラム・ピクチャーであった。エルヴィス・プレスリーの人気は、まずラジオを介してメンフィスを中心とした地域で盛り上がったが、それを全国的なものとしたのは、「エド・サリヴァン・ショー」といったテレビ・バラエティへの出演と、『やさしく愛して』(1956年)以降の彼が主演したB級恋愛映画であった。当時は、エルヴィスの他にも、少なからぬ数のロック・スターが、同じような映画を作った筈である(少なくともそういう記述をあちこちで目にする)。しかし、今日では、例えばクリフ・リチャードの主演映画を見つけ出すのは至難の技であろう。
 しかし、エルヴィス以上に注目に値するのが、ビートルズである。彼らは、録音技術においてもモノラルから24トラックまでを駆け抜けた、転換期そのものといってよい存在であったが、映像面でも、旧時代から新時代への架け橋となった。ビートルズも、エルヴィスと同じように、地方的成功からテレビ出演を跳躍台として大成功を収めるという過程を経た。そしてエルヴィスと同じように、ビートルズも『ビートルズがやって来る ヤア!ヤア!ヤア!』(1964年)をはじめ、次々と映画を作ったが、その内容はロマンチックな恋愛映画ではなく、『HELP! 四人はアイドル』(1965年)に徹底した形で現れているように、ハイブロウなコメディであった。
 自分たちが画面に登場する代わりに、アニメのキャラクターになった『イエロー・サブマリン』(1968年)も、アニメ音楽映画という形式自体が画期的な試みであった。ちなみにサウンド・トラックの効果音のテクニックなど、『イエロー・サブマリン』はもっと評価されてよい作品である。ビートルズは映像と音楽の関係においてもラディカルな存在であった。わが国における最も権威あるビートルズのファン・クラブが「ビートルズ・シネ・クラブ」という名称なのは、象徴的といえるかもしれない。
 1960年代後半になると、放送機材としてのVTRの普及と低廉化が進み、テレビ放送がビデオ映像に残されるようになる。それまでの生放送のストレートな演奏場面に代わって、ギミックと凝った画面処理が出てくるようになる時期である。その間の変化は、例えば、「エド・サリヴァン・ショー」と「ビート・クラブ」の映像を比べてみればよくわかる。
 しかし、この時期にはロックの先鋭化が進み、テレビのバラエティ・ショーとロックの関係は、いよいよ厄介なものとなっていた。一方では、モンキーズ(様々な意味でアメリカ的、ショウビズ的なビートルズの亜流)が、やはりコメディの「モンキーズ・ショー」で高い支持を得ていたが、他方では、安易なセットで演奏を切り売りするテレビ出演に否定的な見解をもつミュージシャンが増えつつあった。そうした中で、テレビとも、既存の映画とも異なる映像媒体を通してロックの真髄を映像化しようという試みは、記録映画の手法でロックに迫る作品群を生み出した。ステージでのパフォーマンス、インタビュー、バック・ステージ風景、さらには観客の熱狂という映像構成の定式は、『ウッドストック 愛と平和と音楽の三日間』(1970年)辺りを契機に確立されていった。
 ドキュメンタリー映画のスタイルは、いろいろなバリエーションを盛り込みながらも踏襲され、本人の死後にまとめられたジャニス・ジョプリンのドキュメンタリー『JANIS』(1974年)や、特殊効果映像を持ち込んだレッド・ツェッペリンの『狂熱のライヴ』(1976年:原題に準じ『永遠の詩』とも呼ばれる)のような試みが出現した。ビートルズの『レット・イット・ビー』(1970年)も、こうした文脈に位置づけることが可能であろう。そして、パンクの爆発は、ストレートなドキュメンタリー−ドイツ映画『パンク・イン・ロンドン』(1977)、セックス・ピストルズのアメリカ・ツアーを軸とした『D・O・A』(1981年)など多数−から、虚構のストーリーと現実を絡み合わせた「セミ・ドキュメンタリー」−ピストルズの『ザ・グレート・ロックンロール・スウィンドル』(1980年)やクラッシュの『ルード・ボーイ』(1980年)−まで、多様なスタイルの作品を生み出した。
 1970年代には、また、記録映画指向とは別の次元で、娯楽映画にロックを取り込むラディカルな試みが展開された。しかしこれは、1960年代において「対抗文化」として成立したロックとドラッグの文化が、メジャー化し、単純な娯楽へと変質していく過程でもあった。『ファントム・オブ・パラダイス』(1974年)や『トミー』(1975年)といったロック・オペラ映画は、やがて一方ではカルト的追従者を生み出すとともに、他方で一連のロック音楽を取り込んだ娯楽映画(その多くはダンス映画)へと道を開いた。しかし、『サタデー・ナイト・フィーバー』(1977年)からプリンスの一連の映画まで、この種の音楽娯楽映画には「ロックする映像」が乏しい。個人的には『ストリート・オブ・ファイアー』(1984年)を評価したいが、これも一般的には秀作とはいえないだろう。結局、こうした作品は、映像と音楽の間で新たな創造性を示せなかった。もはや映画=フィルムは映像媒体の王者としての絶対的地位を失おうとしていたのである。

■ビデオ・クリップとMTV

 MTVは、「映像の導入によって音楽に革新をもたらした」と常識的には評価されている。こうした見方に対しては、無批判な肯定もあれば、過剰な反発もある。確かにMTVは、少なくともアメリカにおいては、音楽産業に大きな影響を与えたといえるだろう。しかし、MTVの登場は、一連の技術発展や、行政政策の流れの中の一事件として捉えるべきである。例えば、MTV登場のタイミングや、その普及過程は、アメリカ合衆国の通信政策との関連で考える必要がある。また、そうした技術発展は、MTVとは別の形態でも今日の音楽シーンに影響を与えていることも見逃してはならない。
 MTVに先行する形で普及し、MTVへの道を切り開いたのはVCR(ビデオ・カセット・レコーダー:家庭用VTR)の普及であった。1980年前後、VCRがまだ高価だったころ、一般家庭への普及に先だってVCRを購入したのは、クラブやディスコなどであった。経営者たちは、安上がりなアトラクションとして、あるいはシックな空間を演出するBGVとして、ビデオ・システムを導入し、良質なソフトを求めた。ツェッペリンの『狂熱のライヴ(永遠の詩)』がビデオ化され、世界で最も高価なビデオなどと称されていた頃である。一方、ビデオ・カメラの画質の向上と軽量化、相対的な価値低下は、フィルム=映画ではなく、ビデオによって「プロモーション・ビデオ」(宣伝素材用ビデオ)を制作する動きを生み出した。
 ビジネスとしての「プロモーション・ビデオ」(「フィルム」ではない!)が動き始める少し前、1970年代から、ポップ・アートの世界では、ビジネスとは異なる地平で、ビデオ・アートの可能性が模索されていた。ナム・ジュン・パイクはモニターの枠の中でも外でも大胆な実験を積み上げていったし、ウォーホルも映像に取り組んでいた。1970年代にこうした実験に触れたアート・スクール系や、それに近い指向のミュージシャン立ちは、積極的にビデオづくりに取り組んだ。例えば、ディーヴォやエルヴィス・コステロなどは、早い時期から単なる「プロモーション=宣伝用」に留まらないビデオを制作していたし、いわゆる環境音楽においても映像への関心は高かった。さらには、「パフォーマンス」を軸に「音楽も」やるローリー・アンダーソンや、ゴドリー&クレームのように音楽から映像へとフィールドを展開するアーティストも登場した。
 こうした、いわばビジネス以前の状態から、やがて1980年代初頭に、ビジネスとして「プロモーション・ビデオ」に相当の投資を行ない、大成功を収めるアーティストたちが出現した。とりわけ重要だったのは、デュラン・デュラン以下の「第二次ブリティッシュ・インヴェイジョン」の大波であり、あるいはメン・アット・ワークらオーストラリア出身のアーティストたちであった。彼らが持ち込んだ映像は、その全てが斬新であったわけではない。しかし、ラッセル・マルカイが監督したデュラン・デュランのビデオのように、疾走感のある、質の高い「ロックする映像」があったことは間違いない。
 1981年に出現したMTVは、当初、まだ影響力は限られていた。しかし、テレビの音楽番組には「プロモーション・ビデオ」が取り上げられるようになりつつあり、そうしたビデオを目にすることが、MTVの普及にも追風になっていた。それまで、アメリカ市場に参入が難しかったイギリス勢やオーストラリア勢にとって、MTVの出現は、アメリカにおける宣伝活動のハンディキャップが軽減されることを意味していた。また、MTVは「プロモーション・ビデオ」という言い方の代わりに「ビデオ・クリップ」ないし「ミュージック・ビデオ」、「ロック・ビデオ」といった用語を導入し、映像も単なる宣伝素材ではなく、一つの作品なのだという印象を定着させた。一方、アメリカの音楽愛好者にとって、MTVは目新しい映像ばかりでなく、(英・豪などの)目新しい音楽を紹介する回路として、重要なものとなった。それだけに、一時期のMTVは放送するビデオの偏向(黒人音楽を冷遇する)について厳しい批判にさらされもした。

■絶頂と行き詰まり

 さて、この辺りから先は、大方の音楽ファンならよくよく知っている通りである。ビデオ・クリップをバネとした英・豪勢の進出に対して、アメリカの映像娯楽の伝統を背景に、ビジネスとして正面きって大金を投じ、突出して優れたビデオを作った第一人者が、マイケル・ジャクソンであった。アルバム『オフ・ザ・ウォール』(1979年)とアルバム『スリラー』(1982年)の間にある断絶が、一言でいえばマイケルの白人化であることは衆目の一致するところである。白人も安心して聴ける黒人音楽は、アメリカでメガ・セールスを達成する一つの戦略である。
 黒人=ソウル(あるいはモータウン)という枠組から脱して、白人=ロックに接近するため、マイケルはポール・マッカートニーやエディ・バン・ヘイレンと共演した。より普遍的世界(すなわち、メガ・セールス)を追求したマイケルのロック指向は、同じ頃やはり話題になったボウイとスティービー・レイ・ボーンの共演とは、まったく方向が逆であった。マイケルはロックが白人の音楽であればこそロックを指向したのであり、その意味でマイケルは、リビング・カラーやバッド・ブレインズのような、ロックの脱構築/ポストモダニズムとは異なる地平にいる。
 そしてマイケルは映像構成の上でも、黒人中心の構成を慎重に避け、様々な白人文化の遺産をビデオに盛り込んだ。『ウェストサイド物語』(1961年)のパスティーシュといえる「ビート・イット」や、ミンストレル・ショー(顔を黒く塗った白人が黒人役を演じるショー)の原型らしきインチキ薬売りを取り上げた「セイ・セイ・セイ」、一連のビデオの頂点にある「スリラー」(1983年)−黒人の狼男なんてかつていただろうか?−などは、その素材からして、白人指向が表われている。そして、マイケルの動きを際立たせるために多用されるカット・バックなど、画面に躍動感を与える編集は、ソウルのビデオで用いられるような濃密で粘っこい映像とは一線を画した、「ロックする映像」を生み出しているのである。
 「ビリー・ジーン」、「ビート・イット」、「スリラー」、「セイ・セイ・セイ」と、一連のビデオでマイケルが示した完成度は、その完成度の高さ故に、やがてマニエリスムに陥ってゆく。アル・ヤンコビックの秀逸な発想をもってしても「ビート・イット」が「イート・イット」より優れた作品であることには疑問の余地がない。しかし、「バッド」と「ファット」となると、後者の方が刺激的な秀作という判断も可能だろう。そして、映画『ムーンウォーカー』(1988年)は、良くも悪しくも「ビリー・ジーン」で始まった路線の究極なのである。「スリラー」以降のマイケルのビデオには、ある種の路線上の迷い、ないし混乱が感じられる。「マン・イン・ザ・ミラー」や「リーヴ・ミー・アローン」のように、マイケルが踊らない作品を除けば、彼のビデオ・クリップはあまり高く評価できないように思う。
 ビデオ・クリップの絶頂期は、1980年代半ばの数年間であった。ビデオ・クリップを巡るシステムが整備し尽くされ、新たなアイデアは枯渇し、かつてのようにチープでも斬新なアイデアがあればMTVのローテーションに入ってビッグ・ネームになれる、という時代ではなくなった。おそらく、アルバム『コントロール』(1986年)でブレイクし、『リズムネイション』(1989年)で頂点を極めたジャネット・ジャクソンを最後に、ビデオによってビッグ・ネームになったといえそうなアーティストは出ていない。今日では、もはやビデオづくりはルーティーン化し、平凡な作品しか出てこない、という嘆きがあちこちで聴かれる。
 魅力的な作品が供給されなければ、ビデオ・クリップ〜MTVへの支持が後退し、ビジネスが先細りになることも当然考えられる。もっとも本家アメリカでMTVの契約世帯数が頭打ちになってきたのは、市場の飽和によるものであり、MTVへの支持が後退していることを意味するものではない。しかし、日本の場合、洋モノのビデオ・クリップを紹介するテレビ番組は1990年代に入って大きく後退している。1990年代は、ビデオ・クリップにとって「冬の時代」なのかもしれない。
 とはいえ、少なくとも個別のビデオ・クリップを見ている限り、最近でも、サウンドガーデンの「ジーザス・クライスト・ポーズ」のように刺激的な「ロックする映像」があるし、楽曲の輝きを映像でも引き出したエクストリームの「モア・ザン・ワーズ」のように美しい映像も少なくない。
 特に英米では、インディーズ系のクリップに、チープながら実験的要素の強いものが多い。とりわけ、映像の肌触り、ビデオ・マチエールとでもいうべき部分では多様な試みがあり、ビデオ映像を電気的に処理したり、撮影済みのフィルムを物理的・化学的に加工するものなど、ハイテクからローテクまでいろいろな手法が動員されている(例えば、ソニック・ユースの『Goo』を通して見ればよくわかる)。簡単なCGなど技術の低廉化・普及なども、音楽映像の裾野を広げるのに一役かっているようである。また、日本でもビデオづくりが一般化して量的拡大が進み、「プロモーション・ビデオ」の水準を突破した、良質なビデオ・クリップも作られるようになってきた。
 今日の音楽映像文化は、かつてのように映画中心ではなくなり、作品の創造/生産の局面でも享受/消費の場面でも、多様な形態に拡散しつつある。こうした動向を支えているのが、VCR、VD(ビデオ・ディスク)、衛星、CATVといったまだまだ若い技術である。そして、テクノロジーの可能性を引き出し、拡張し、変形していく創造性は、常に「どこかに」、そして「どこにでも」存在している。仮に今がビデオ・クリップにとって「冬の時代」だとしても、冬の厳しさの中で、来るべき春の兆しを探すことは、音楽映像ファンの秘かな悦びといえるだろう。

(ビデオグラフィー)



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