コラム,記事等(定期刊行物に寄稿されたもの):1992
上高地の景観保全.
朝日新聞,第2長野版,コラム「論点」1992/ 8/21.
このコラムは朝日新聞のローカル面に掲載されたもので、掲載時には、「砂防工事にまもられる」「人工的施設で自然に介入」という見出しが、新聞社の判断でつけられました。
皮肉のつもりで書いた文なのですが、そのように理解されず、当時はいろいろな方にお叱りを受けました。(^_^;)
上高地の景観保全
上高地は、槍・穂高連峰など北アルプスの山々への登山口であり、散策などにも適した中部山岳国立公園の中核となる観光地である。今年も夏場の二カ月で、八十万人近い観光客が訪れると見込まれている。
この上高地の景観が、実は大規模な砂防・治山事業で「護(まも)られている」ことは、観光客にはあまり知られていない。梓川の本流では、大正池から河童橋を経て横尾谷の入り口まで、ブルドーザーを使って大々的に河床の改修が展開されているし、主な沢には様々な形態の砂防ダムが設置されている。
国立公園内でありながら、自然な河床や沢筋が残っていないほど、大規模な砂防事業が展開されているのは、不思議に思われるかもしれない。しかし、今日の上高地の景観は、間違いなく砂防工事で支えられている。
もともと上高地は、槍・穂高連峰や常念岳、蝶ヶ岳など周辺の山々から供給される堆積(たいせき)物によって形作られた地形である。また、ケショウヤナギ群落に代表される上高地の谷底の特徴的な植生は、谷底全体に及ぶ広い範囲での梓川の流路の変動によって、地形や植生が部分的に破壊される中から成立してきた。
あえて単純にいえば、上高地は、放置すれば梓川が運ぶ土砂で河床が上昇し、やがては現在の河道ではない部分に流路が変わって、そこでは植生が破壊され、一方、もとの河道には新しい植生が再生する、という過程を経ることになる。現在の上高地の景観は、それこそ何万年もの間、こうした破壊と再生の過程が繰り返された結果なのである。
しかし、今日の上高地のように、ひとたび観光地という人間活動の場となってしまうと、こうした自然のメカニズムを放置するわけにはいかなくなる。
大正池は大正四年(一九一五年)に焼岳の噴火に伴う泥流が梓川をせき止めて生まれた。本来なら、その後も焼岳からの噴出物や梓川の運ぶ土砂などで埋まっていくわけだが、観光資源としての大正池の価値を考慮すれば、これは放置できない。
そこで、人工的な工作を施して、現状のような「池」の姿を永続的にとどめることを試みている。われわれが残そうとしているのは、自然の営みそのものではなく、「景勝」、すなわち現状のまま固定された優れて美しい景観なのである。
今から百余年前、ウェストンが上高地に初めて足を踏み入れたころは、当然大正池もなければ、現在のバス・ターミナル付近の カラマツ林もなく、地形も植生もいまとは違っていた。われわれが、上高地と聞いてイメージする美しい景観、それは本来の自然の中では変化の過程で現れる一時的なものでしかない。
もちろん、砂防事業によっても、植生など現在の景観を完全に維持することはできない。しかし、われわれは、われわれの知る景観の美しさを護るために、人工的な施設を設けて自然に介入するのである。
砂防工事が護るのは自然ではない。保護されるのは人工構築物であり、イメージとして固定された景勝地・上高地である。それは流転を前提とした自然の摂理への、壮大な挑戦なのである。
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