雑誌論文(その他):1988:

「町のテレビ局」郡上八幡テレビの素顔.

CATV研究資料センター紀要,5,pp15-22.



 この論文は、『総合ジャーナリズム研究』に「CATV自主放送のルーツ−郡上八幡テレビの三年を支えたもの−」と題して発表した原論文に若干の修正を加え、『CATV研究資料センター紀要』に掲載したものである。
 『総合ジャーナリズム研究』掲載の原論文には、菅野一郎氏のポートレイトと、当時のスタジオ風景の写真が掲載されているが、『CATV研究資料センター紀要』には写真はなく、ここでも採録していない。
 掲出に際して、明らかな誤字は訂正し、その部分を青字とした。

「町のテレビ局」郡上八幡テレビの素顔

 −CATV自主放送の黎明−


 ニューメディアとして騒がれることも多いCATVも、そのルーツとなったテレビ共同聴取施設にまで遡れば、テレビ放送にもほとんど匹敵する歴史がある。よく知られているように、わが国では一九五三年のテレビ放送開始直後から山間地などに次々と共同聴取施設が登場し、CATVの先駆けとなった。「第一世代」CATVと通称されるそうした施設の最初の事例は、通説によれば一九五五年に群馬県伊香保温泉に設けられたNHKの開発によるシステムであった。(註1)
 しかし、再送信だけを目的とする共同聴視施設としての機能に止どまったのであれば、CATVはテレビというマスメディアの端末に置かれた補完的メディアの域を出なかったはずである。CATVが独自のメディアとして存在意義を自ら主張し、また社会的にも認められるようになったのは、自主放送が導入される、いわゆる「第二世代」以降のことである。自主放送の開始によって、CATVはまず新しい可能性をもった地域メディアとして注目され、さらに隣接する技術の展開とともにニューメディアの有力な形態の一つとして脚光を浴るに至ったわけである。
 このように結果的に大きな転機となったCATV自主放送は、わが国では一九六〇年代の中頃に、静岡県下田市、岐阜県郡上八幡町、京都府福知山市、京都府網野町、和歌山県新宮町、兵庫県香住町など各地のシステムで相次いで始まった。しかし、これら先駆的な試みを行ったCATVは、下田市の下田テレビ協会(SHK:現・下田有線テレビ放送株式会社)を唯一の例外として、永続的に自主放送を継続することはできず、施設自体も結局は廃止され、現存していない。自主放送を試みた局を含め当時のCATVは、中継局網の充実によって難視聴状態が改善されるに従って難視聴区域に依存した経営基盤を失っていった。このため、多くのCATVが最終的には廃止を余儀無くされたのである。
 一九六〇年代のCATV自主放送に関する記録は、充分まとまっているとはいえない(註2)。しかし、今日、自主放送を行っている有力なCATVの大半が一九七〇年代に自主放送を開始していることを考えると、これら各局の自主放送のあり方から一九六〇年代の自主放送の姿を推し量ることは適当ではないように思われる。わが国における初期の自主放送の実態を明らかにするためには、すでに姿を消した先駆的事例に関する資料の収集・整理が何よりも必要なのである。
 本稿で取り上げる郡上八幡テレビは、わが国最初の自主放送局としてよく知られているにもかかわらず、当時の詳しい事情についてまとまった報告がなされていない事例である。本稿は、当時の関係者への聞き取りと断片的に残されている資料から、可能な範囲で事実経過を整理し、自主放送の内容を記録・紹介することを主な目的としている。自主放送のあり方が様々な意味で問い直されている今日、CATV自主放送黎明期の経験がわれわれに示唆するところは少なくないはずである。

I・「郡上八幡テレビ」略史

a・施設の設置

 岐阜県郡上八幡町は奥美濃地方山間部の谷あいに広がる古い城下町であり、毎年夏の「郡上おどり」によって観光地として知られている。CATVが存在した当時の人口は町全体でおよそ二万、市街地でおよそ一万、市街地世帯数はおよそ二千八百であった。(註3)
 一九六四年に町を見おろす稚児山頂に中継局が開局するまでは市街地全体が難視聴地域になっていた。こうした状況の中で、町の有志の間に共聴アンテナ施設の動きがおこり、一九六二年初めに菅野一郎を組合長として任意組合<郡上八幡テレビ共同聴視施設組合>が結成された。(註4)
 任意組合の結成に当たっては、市街地の四十三町内の会長を通じて加入勧誘が進められ、放送開始時には約二千戸の参加があった。各世帯から徴収された金額は七千円の加入金と月額七十円の維持費であった。
 やがて短期の試験放送を経て、十月一日から再送信放送が正式に開始された。当時の施設は、洞泉寺山頂のアンテナで名古屋のVHF波を受信してそこから7Cの幹線ケーブルを市街地に引き、3Cのケーブルで各世帯へ分配するというものであった。ケーブルは「それこそ軒から軒へ屋根づたいに配線」(註5)されたという。
 再送信の対象となったのは、当時の名古屋のテレビ放送全部で、東海テレビ(第1チャンネル)、NHK名古屋総合(3)、中部日本放送(5)、NHK教育(9)、名古屋テレビ(11)の5局であった。再送信の画像は鮮明で、好評をもって迎えられた。

b・キーパーソン=菅野一郎
 ここで予め、共同聴視施設組合の組合長となった菅野一郎という人物について触れておかなければならない。菅野は郡上八幡におけるCATVの成立から消滅まで一貫してリーダーシップを取り続けたキーパーソンとして、郡上八幡テレビを語るためには欠かせない人物である。敢えて極論すれば、郡上八幡テレビは菅野の個人的才覚や熱意に支えられたワンマン・ビジネスであったとすら言いうる存在なのである。
 菅野は一九一五(大正四)五月十三日、岩手県江刺市生まれ。地元の農学校を出、大阪で製薬会社に勤めながら薬学専門学校に通った後、衆議院の臨時職員となり上京した。戦時中は代議士・中島知平の書生となり中島飛行機関係の研究所などに勤めながら、中央大学法科(夜間部)に学んだ。ところが一九四五年五月の空襲で中島邸は焼失、終戦後菅野は職も失うことになる。しかし、菅野は戦後混乱期も東京にとどまり、生計を立てるために謄写版印刷業を始めた。このことが彼の人生を大きく変えていくことになったのである。
 物資の不自由な条件の下で、菅野は生来の「発明好き」の性格を発揮して印刷方法の改良に取り組み、一九四八年に孔版印刷の一種であるグランド印刷を発明するに至った。グランド印刷は翌一九四九年に業界紙で紹介され、一九五〇年には業界の全国講習会で大きな反響を呼んだ。この印刷方法に注目した美濃紙業所(現・ミノグループ)の誘いに応じ、菅野は一九五二年に郡上八幡に移り住んだ。(註6)
 郡上八幡テレビがあった当時の菅野は日本グランド社社長であり、中央公民館長、八幡小PTA会長、商工会副会長、社会教育委員、さらには日本シルクスクリーン協会顧問を勤める町の名士であり、相当の高額所得者でもあった。後には、町長に推そうという動きもあったと言われている。
 つまり、当時の郡上八幡における菅野の姿は、よそ者ではあるが地域名望家、事業家ではあるが発明と社会活動に熱心な好事家、というべきものであった。
 加えて、菅野の学生時代以来の趣味のひとつが十六ミリ映画撮影だったことはCATV事業との関連で特記すべきであろう。郡上八幡テレビの始まる以前から、菅野は学校行事や、祭礼・式典などの記録映画を各方面の求めに応じて作っていた。郡上八幡テレビが始まってからは、台風災害時などに、彼のカメラによってニュースに映像が付いたりもした。さらに、菅野が町の素人劇団「ともしび」で照明を手掛けていたことなども、番組制作やCATV運営上の人脈の面で注目される。(註7)

c・自主放送の開始
 再送信の本放送が始まって二ヶ月近く経った一九六二年十一月末のある晩、菅野は懇意にしていた中部日本新聞(現・中日新聞)郡上八幡通信局の記者・松下唯人を行きつけの居酒屋に呼びだした。当時の中部日本新聞は郡上郡六ヶ町村で七十五パーセント近くの世帯普及率をもち、影響力も大きかった(註8)。とはいえ、当時、役場近くの新聞販売店の向いにあった通信局は駐在する記者一名、近隣町村をまわりヒマダネを毎日百行から二百行書き送るのが日課といった状態であった。
 菅野はそこで松下に、近い将来郡上八幡テレビで「告知放送」をやりたいが、ついてはその目玉として中部日本新聞提供の地元ニュースを流してもらえないか、と話を持ちかけた。「告知放送」とは自主放送のことであり、有線放送電話の用語を流用した表現である(註9)。各戸にケーブルを引いたのだからスタジオ設備があれば自前の放送ができる、これを活用しないのはもったいない、と菅野は説いた。これに対して松下は即座に協力を約束するとともに、郡上八幡テレビが独自番組の放送を計画していることを記事として書き送った。この記事は十一月二十九日付けの夕刊に掲載され反響を呼んだ。(註10)
 菅野はこれ以降、各方面に自主放送実現への協力を呼びかけ、町、有線放送組合、観光業者などに働きかけた。そして共同聴視施設組合長としては、一九六三年度の組合予算に自主放送のための備品費百万円余りを盛りこみ、組合規約の改正など必要な手続きを経て五月二十八日付で「有線放送(テレビジョン)開始について(告知放送分)」と題された文書を発表し、公式に自主放送の開始を予告したのである。
 この間、菅野は数人の仲間とともにスタジオの設定や機材の調達に奔走した。スタジオは上殿町にある馬小屋だった建物に設定され、簡単な照明・暗幕などが用意された(註11)。機材の方は、メーカーから廃品などを買って自分で組み立てるなどして、工業用テレビカメラ(ITV)にモニターを自前で取り付けたカメラ三台などを用意した。この辺りのエピソードには発明家としての菅野の面目躍如たるところがある。また、中部日本新聞社から開局祝いとして十六ミリ映写機が贈られた。これも松下が積極的に本社へ働きかけ、本社がバックアップに力を入れたひとつの現われである。
 さらに東海電波監理局(現・東海電気通信監理局)との交渉のため、菅野はこの時期数回の名古屋行きを繰り返した。当時は有線電気通信法による届出が必要だったためであり、その受理が難航したためでもある。難航の理由は、CATV自主放送の前例がなかったことに加え、当初の計画が第2チャンネルで自主放送を流す予定だったことに東海テレビ(第1チャンネル)が反対したためといわれている。しかし、現在では監理局側の資料が失われていることもあってこの間の事情は確認できない。
 こうした経過の後、一九六三年七月十三日に第7チャンネルを使って試験放送(テストパターン)が開始となり、十六日からは試験番組(古い報道写真などの紹介)が放送されて、事実上の自主放送がスタートした。程なく東海電波監理局も届出を正式に受理し、九月二日には正式開局、本放送開始となった。この頃からNHKをもじったGHK-TVという表現も使われ始めている。
 開局に際しては宣伝のために中部日本新聞社の軽飛行機でビラ撒きがされたりもした。また、開局記念のイベントとして、歌手・村田英雄と新川二郎の出演する歌謡ショーがスタジオの裏手に当たる長敬寺の建物で行われ、その模様は自主放送チャンネルで放映された。(註12)

d・自主放送の運営と反応
 郡上八幡テレビの契約世帯数は、施設の設置された一九六二年当時の約二千世帯から順調に伸び、最盛期の一九六四年には約二千六百世帯にまで増えていった。これによって共同聴視施設組合の財務体質は極めて健全なものとなっていった。しかし、組合としては、月々の収入である維持費は文字通り施設維持にあてる方針を原則としており、有給の職員は事務・経理担当の女子一名と施設の保守担当の男子二名だけであった。
 自主放送は、毎日夕方放映される定時放送と若干の特別番組があり(註13)、その運営には、菅野のほか、教員・吉田良民、公民館主事・千葉稔らがほとんど手弁当であたっていた。特に、放送に先立つ事前の取材は、菅野がほとんど一手に引き受けていた。有線放送の女子職員などがアナウンサー役の助っ人になることもあったし、また、後述するように中部日本新聞郡上八幡通信局の記者だった松本や、その後任者・平澤保の協力も大きな力となっていった。
 自主放送は、番組内容によっては文字通り百パーセント近い視聴率をあげることもあったといわれ、スポンサー付きでコマーシャルの流れる番組もあった。コマーシャルは、写真を画面に生のナレーションが入るもので、スノータイヤや酒場などが多かったという。
 一九六四年九月一日、菅野は郡上八幡テレビの創設を含めた社会教育への貢献を理由として第二十回中日社会功労賞を受章した。(註14)

e・自主放送の終焉と施設の廃止
 一九六四年九月二十日、東京オリンピックに間に合うように、稚児山頂にNHKテレビ二波と民放三波のテレビ中継局ができ、難視聴対策という郡上八幡テレビの存在理由の一つは失われた。同時期の他の事例と同じように、郡上八幡でももはや共聴は必要ないという声が強くなり、組合から脱退する者が出はじめた。もっとも、郡上八幡の場合、その勢いはにわかに組合の財務を傾かせる程ではなかった。
 こうした背景の下で自主放送がどのように終焉を迎えたかについては、特に時期については曖昧な点が多い。関係者の話を総合すると、まず夕方の定時放送が断続的になり、やがて全くなくなってしまい、しばらくして折々の特番もなくなり、この時点で事実上自主番組の終焉となったらしい。定時放送が困難になった理由としては、毎夕の放送を維持するための取材活動が重い負担となり、手弁当でできる限界を越えたことなどがあげられている。
 一九六五年十月、岐阜県で開催された第十二回夏国民体育大会に際し、郡上八幡の城山相撲場は相撲競技場となった。そして、十月二十五日には天皇皇后両陛下の臨席の下で競技が行われた。郡上八幡テレビは特番を組み、城山中腹の相撲場から麓のスタジオまでケーブルを引いてこの模様を実況中継したが、この段階では既に定時放送は断絶してしばらく経っていた。
 中継局が設置されてからはCATVを残すかどうかを巡って、様々な議論があったようである。何とか自主放送を残そうという意見も少なくなかったが、一九六六年に入り、菅野は最終的に組合の整理を決意、自主放送の廃止、ケーブルの撤去、施設の整理、組合会計の清算を順次進めた。ケーブルはスクラップとして売却され、放送機材は八幡中学校へ寄付された。結局、清算後、各戸には四千円程度が返却されたという。
 郡上八幡テレビの終焉については、自主放送中止を一九六六年十月、全面的な業務廃止を一九六八年六月、とする記述もあるが(註15)、おそらくこれは東海電波監理局への届出に基づくものであり、実際にはどちらもこれより早い時期に事実があったものと考えられる。特に廃止の時期については、菅野はじめ関係者が一九六六年廃止で一致していることから、少なくとも事実上は同年中に廃止されたもの思われる。
 こうして、施設設置から四年、自主放送開始から三年で、郡上八幡テレビ共同聴視施設組合は姿を消したのである。

II・自主放送の実態

a・基本方針と概要

 自主放送を開始するにあたって事前にその概要を説明した文書「有線放送(テレビジョン)開始について(告知放送分)」によると、自主放送の目的は「地域性のある豊かな、かつよい番組を放送することによって地域の要望を満たすと共に、すぐれた文化の保存、並に新たな経営、生活、文化の育成をもって地域の発展に寄与すること」とされている。さらに、放送内容としては、報道番組、教育番組、教養番組、社会番組、娯楽番組、が例としてあげられている。
 総じて菅野や千葉をはじめ当時のスタッフの間には、社会教育の一として自主放送を位置付けようとする考え方が支配的であったようである。また、菅野自身も自主放送の意義についてそのように述べることがよくあったという。中日社会功労賞の受賞理由が社会教育への貢献になっていたのも、その現われといえよう。
 ところで、ビデオテープが未だ非常に高価だった当時、郡上八幡テレビは、当然ながらビデオ機材は一切所有しておらず、放送は生放送を原則とせざるをえなかった。特に必要とされる場合には、十六ミリで撮影してきた映像をスタジオでスクリーンに投影し、それをテレビカメラに撮って放映した。スタジオ外にテレビカメラを持ち出すことも、スタジオから遠くない所ならば不可能ではなかったが、それを行なった事例として特記されるのは開局記念の歌謡ショーと、国体の相撲競技中継ぐらいしかない。
 実際の自主放送は、毎夕六時からの定時放送に大きな比重が置かれていた。この定時放送は、少なくとも初期においては日曜日も含めて毎日行なわれていた。定時放送以外にも昼間、夜間を問わず、随時いろいろな番組が流された。特別番組としては、正月の年始挨拶や、選挙の開票速報などが評判になったという。
 夕方の定時放送は、まず最初に中部日本新聞提供のニュースがあり、それに続けて座談会などが一時間からそれ以上ある、といった構成になっていた。

b・ニュース
 毎夕六時に定時放送の冒頭として流されたニュースは、前のように中部日本新聞提供の形をとっていた。これは郡上八幡通信局の記者が、その日書き送った郡上郡に関するニュース原稿を読むというのを原則とするものであった。
 記者は翌日の朝刊用に書き送った記事の原稿を持って通信局を出、250ccバイクに乗り、午五時三十分頃にスタジオに入る。簡単なテロップづくりなど準備を整えた上で、記者自らがキャスターとなって六時から十分程度のニュースを放送するのである。記者が自分の原稿を元に喋るのであるから、単に原稿を読むという感じではなく、原稿にしきれなかった部分も含めて解説するといった風であったらしい。特に何もニュースらしいニュースのないときは、夕刊の記事の解説のような放送を少しして早めに切り上げることもあったという。
 前のように、郡上八幡テレビの存在した期間に通信局に在籍した記者は松下と平澤の二人で、交替の時期は一九六四年の三月であった。いくら小規模なCATVとはいえ、両記者とも放送にはなかなか慣れることのできないところがあった。松下は本番中、いつもはかけていない伊達メガネをかけ、昼間の取材先などで郡上八幡テレビのニュース・キャスター(つまり自分のこと)について問われると、「あれは兄」と答えていたという。平澤は松下以上にテレビカメラが苦手で、定時放送のニュースの仕事が「いつのまにか何となく」なくなって安堵した部分もあったようだ。
 ニュースにつける映像は、通信局でキャビネ判に焼き付けた写真が多かった。しかし、郡上八幡テレビ側、つまり菅野らが十六ミリを独自に用意することもあり、例えば、台風の被害などを十六ミリで取材したこともあったようである。当時、郡上八幡テレビや菅野の自宅は、各紙の新聞記者の溜り場となっており、なにか事が起こると菅野も誘われ、十六ミリカメラを担いで取材に同行することが多かったという。
 定時放送のニュース以外の報道番組としては、選挙速報があった。県議選挙などでは中部日本新聞の岐阜支局とスタジオを電話で結んで速報を流し、郡内の町村議選などでは各選挙管理委員会の発表を電話で受け速報した。この場合にも、キャスターは記者が務めた。
 キャスターとしての仕事に対し、郡上八幡テレビとしては記者に報酬を支払っていなかった。記者へは、中部日本新聞から一日二百円の手当てが出された。

c・座談会
 定時放送では、ニュースに続いて一時間程度の座談会があるのが常であった。特別な設備もないスタジオで生放送をしなければならないという条件から、座談会という形式が最も手軽なものとして定着したのである。座談会は、郡上八幡町全体に関する話題が取り上げられることもあれば、ある特定の町内に関する話題である場合もあった。話題によって、役場や警察などの担当者や、町内会や婦人会などの役員が登場し、これに菅野や千葉らスタッフが加わることもあった。司会役は、千葉かニュースを読んだばかりの記者が務めることも多く、時には事前の打ち合わせが間に合わないうちに、参加者の氏名と話題だけを渡されていきなり司会をすることもあったという。
 座談会の具体的な内容は広報的なもの、コミュニティ・サービス的なものが多く、例えば交通安全について、警察、学校、婦人会の関係者らが話し合う、といったものや、特定の町内会の活動について町内会長らが意見を交換する、といったものが典型であった。特に後者の場合、放送予告がその町内の連絡網を通じて徹底されるため、その町内での視聴率は事実上百パーセントに近かったとされている。また、スタジオ内にある電話を利用して、視聴者からの意見をその場で取り入れて話を進めることもあった。(註16)
 広報的内容の座談会を企画するに当たって、役場をはじめ各機関は相当に協力的であり、出演要請には積極的に応じていた。しかし役場などからの金銭的な援助は全くなかったという。

d・教育番組と娯楽番組
 自主放送を社会教育の一環と捉える郡上八幡テレビの考え方を最もよく表現するのが、婦人学級向けの番組などの教育・教養番組であり、婦人活動などと連動した健全な娯楽番組である。当時菅野が郡上八幡公民館長、千葉が公民館主事、さらに菅野の夫人・苗子が婦人会の役員であったことを考え合わせると、公民館活動の延長としてCATV自主放送を利用しようという発想が出てくることはごく自然だったのであろう。
 婦人学級は元々公民館活動の一環として行われていたが、自主放送ではスタジオで講師が若干の生徒役を前に話をする婦人学級向けの番組を月一回放送した。テレビを囲んでの学習という形式が好評を呼び、婦人学級の数もそれ以前の十七学級から四十学級へと大幅に増えた。
 この他にも、婦人会や読書サークルなどの活動と絡めた文化教室的な番組がしばしば放送された、また、木工業関係者を対象とした木工講座など、産業振興を謳った技術教育番組も試みられた。
 学校関係の番組も多く、卒業式等の取材の他、小学校の合唱や工作などスタジオから放送することもあった。このように、学童が出演する番組は昼間に放送されることが多かったという。テレビに出るということは、子供にとっても、その親にとっても特別のことであり、こうした学校がらみの企画は一般に好評であった。
 純然たる娯楽番組としては、地元の素人による漫談や浪曲、NHKの人気番組だった『ジェスチャー』と同趣向のものなどがあった。
 また、アメリカ文化センターなどからフィルムを借りて、漫画映画などが放映されたこともあった。もちろん、映画の放送に際しては、スクリーンに投映されたものをテレビカメラで拾う方式が取られていた。

e・その他の特別番組
 定時放送以外にも、臨時に特別番組が組まれることがあったことは既に述べた通りである。また、定時放送が断絶した後は、いわば全ての番組が特別番組ともいうべき体制になっていた。
 元旦には、新年挨拶の特番があり、郡上八幡で「長」と肩書に付く人はみんな出演したという。まず町長の挨拶で始まり、以下延々と挨拶が続くだけなのだが、かなりの評判になっていたという。おそらく、ふだん目に見えにくい「エライさん」が画面を通じて見えてくることにコミュニティ番組としての魅力があったのであろう。
 前のように、国体のときには既に定時放送は断絶していたが、郡上八幡テレビでは、事前に相撲競技の日程紹介や、見どころの解説などを放送し、さらに競技期間中は実況中継を行った。この時は、十月二十五日に天覧試合があったこともあり、町中が相撲競技で持ちきりという状況だったため、特に高齢者など、競技会場に行けない人々を中心に、実況中継は相当の視聴を得たようである。

III・「郡上八幡テレビ」の意義

 郡上八幡テレビによって始まったCATV自主放送の試みは、一九六〇年代中ごろに全国の数カ所に広まっていった。郡上八幡テレビには外国人も含めて視察に訪れる者が多かったが、その中には網野町はじめ各地のCATV関係者となっていった人々が少なくなかった。(註17)
 しかし、一九六〇年代の自主放送は下田有線テレビを唯一の例外として、やがて皆姿を消していった。難視聴対策(域内再送信)、番組多様化(域外再送信)、自主放送をCATV放送サービスの三本柱と考えると、第一の柱が失われたとき、第二の柱なしではCATVの経営はできない、というのが先駆的自主放送局の経験から導かれる一般的結論である。これは、取りも直さず、第三の柱=自主放送は経営を支えられなかった、ということを意味している。
 一方、現在あるCATV各局は、多少のニュアンスの違いはあれ、自主放送に相当の力を入れているし、CATV=地域メディアと捉えてその発展を期待する議論もわが国では多い。自主放送は経営上有効な投資なのか、それとも地域社会への社会還元なのか。自主放送に経営が支えられるのか、という問題は、郡上八幡テレビ以来現在に至るまで、形を変えながらあらゆる自主放送局につきつけられてきたといえよう。
 本稿で明らかにしてきたように、郡上八幡テレビの場合、自主放送は経営戦略などとは無関係に、好事家の趣味が高じて社会活動と結びつくところから始まったものであった。そして、毎日の放送を維持するための負担が個人の趣味の域を出てしまった段階で、定時放送は行き詰まらざるを得なかったし、またそうした挫折にも悲壮感は伴わなかったのである。
 仮に郡上八幡地域における中継局設置があと数年でも遅れていたならば、そして自主放送の運営をより公的・制度的なものにしようという動きが出てきたとしたら、郡上八幡テレビの自主放送はその運営を巡って様々な問題に直面したことであろう。単なる趣味=「シャレ」であれば、自主放送がどのようなものだろうと、いつ不意に中断しようと、誰も文句は言わないだろう。しかし、そこに公的・社会的責任が存在するようになると、特にそこに金が流れるようになると、軽快なフットワークは失われてしまう。(註18)
 菅野は中継局の設置による加入者の減少という好機を逸さず戦線を縮小し(定時放送の中止)、地元での国体競技への天皇行幸という大イベントが終るや、たちまちゲームの終了を宣言した。鮮やかな身のこなしである。もし菅野がこの機を失い、趣味的な自主放送から制度的(業務的というべきか)な自主放送への転換の舵をとらされていたとしたら、彼は本当の敗戦処理を強いられていたかもしれない。
 一九六〇年代の自主放送はシステム全体の経営計画の中にそろばんずくで位置付けられるようなものではなく、採算を度外視して地域社会に還元されるサービスであった。そしてそこに郡上八幡の菅野や、下田の竹河信義のような強烈な個性と情熱をもった人物がいたとき、野心的な番組制作の試みが展開したのである(註19)。相当の投資を自主放送に投じ、また回収することが可能になるためには、かなりの規模とノウハウの蓄積が必要となる。それを本格的な形で可能にしたのは、域外再送信の魅力によって自主放送とは無関係に大規模を達成することに成功した地方都市のCATVであり、その登場は一九七〇年代まで待たなければならなかったのである。
 放送内容の公共性が高かったにもかかわらず、また組織体として組合の形をとっていたにもかかわらず、郡上八幡テレビ菅野の個人的ビジネスであったと筆者は考えている。内容の公共性は手弁当のスタッフとなって働いた好事家たちの見識の産物だったのであり、それをまとめたキーパーソンたる菅野(こうした個性はあらゆる事物の先駆的事例につきものである)の存在を過小評価してはならない。こうした強力なリーダー(無私に全体の利益を考えつつ独断行しうる責任者)がいなければ、何であれ先駆的事業を成し遂げることはできないのであろう。
 また、郡上八幡テレビの自主放送は、それ自体がいわば一時的なイベントであったからこそ無報酬でも衆知を集めて番組を放送していけたのである。これが長期的・恒常的なものであれば、何らかの外部資金の導入か番組のマンネリ化・質の低下のどちらか(おそらくは両方)を余儀無くされていたであろう。
 松下は当時を回想するなかで、定時放送終了後、毎晩のように酒が出たことを「よくゼニがあったもんだなあ」という一言とともに筆者に語った、その酒代はあるいは菅野のポケットから出ていたのかもしれないし、あちこちから何となく陣中見舞いが届いたのかもしれない。いずれにせよ、無報酬の優れた仕事に酒で報いる、という一時的・祝祭的な、また極めて前近代的(あるいはコミュニティ的というべきか)な関係性に支えられて郡上八幡テレビの自主放送は成り立っていたのである。そこにこの事例の、限界も、可能性も、何もかもが凝縮されている、と筆者には感じられる。

<謝辞>
 本稿作成に際しては、文中にも登場する菅野一郎・苗子、松下唯人(『中日ショッパー・浜松』編集長)、平澤保(テレビ愛知・事業部長)の各氏に、インフォーマントとして御協力頂いた。岩田弘毅氏(岐阜信用金庫調査部)および中日新聞本社人事部には、貴重な資料を提供して頂いた。さらに、郡上八幡町役場、東海電気通信監理局からも御教示を受けた。また、富樫幸一先生(岐阜大学教養部)には現地調査に便宜を図って頂いた。以上、各位に深く感謝の意を表する。
 なお、文中の敬称は略させて頂いた。

<註>
(1)一九五四年・京都府網野町という説もある。柳井道夫(一九七五):地域コミュニケーション組織の再編と展開、成蹊大学文学部紀要、十。
(2)荒牧富美江(一九七〇):有線放送の展望、立正女子大学短期大学研究紀要、十四、に簡単で包括的な記述がある。ただし、網野テレビ共同聴視施設組合については、柳井、前掲論文、が詳しい。さらに、下田有線テレビ放送株式会社について、放送ジャーナル社編集部・編(一九七二):『こちら下田CATV』がある。
(3)一九六五年の国勢調査では、町全体に人口二万九百人、五千百七十八世帯があり、市街地に相当する人口集中地域には一万六十四人、二千七百八十七世帯があった。
 しかし、過疎化が著しく、一九八五年の国勢調査では町全体で人口一万八千二百三十人、五千三百六十七世帯、人口集中地域で六千七百四人、二千百二十六世帯となっている。
(4)組合結成に至る時期の詳細は不明であるが、組合規約付則には七月十一日からの施行が謳ってある。
(5)岩田弘毅(一九八六):CATVってな〜に?、トークぎふしん、二十六。
(6)グランド印刷は今日では主に家電製品などのプリント基盤の印刷に用いられている。
(7)「ともしび」は一九五八年以来、今日まで数年に一回の公演を続けている地元唯一の劇団。
 有代和夫・編(一九八四):『写真で見る郡上百年』郷土出版社(岐阜)、にはこの劇団の写真が一枚収録されている。
(8)当時の配布部数・普及率については客観的データは残っていない。日本ABC協会が市郡別公査部数を発表した最初である一九七二年十月のデータによると、郡上郡への朝刊総配布部数は一万一千五百三部(全国紙五紙・中日・岐阜日日)、うち中日は七千五百三十七部であった。
(9)これに限らず、当時の当事者たちが有線放送電話の延長線上にCATVを理解していたことは重要である。
(10)この記事は夕刊の早版だけに掲載されたらしく、現物は確認していない。
(11)有代、前掲書、所収の郡上八幡テレビのスタジオ風景の写真は、当時の様子をよく伝えている。
(12)岩田、前掲論文、所収の写真参照。
(13)定時放送・特別番組といった表現は筆者がここで便宜的に用いるもので、当時は特にこうした表現はなかった。
(14)これに先立つ一九六三年九月、菅野は朝日新聞社から「朝日・明るい社会賞」を贈られているが、受賞理由、郡上八幡テレビとの関係など、詳細は不明である。
(15)日本商工経済研究所:『CATV事業の現状と展望』。この記述は八頁にあり、執筆者は藤岡道博と思われる。
(16)これは、いわば電話を利用した双方コミュニケーションである。こうした方法で、簡単なクイズを出し、答えを電話で伝えてもらい、賞品(新聞社名入のシャープペンシルなど)は翌日の中部日本新聞と一緒に配達したという。
(17)柳井、前掲論文には、網野テレビの自主放送開始に先立って、郡上八幡へ二回視察を行ったことが記されている。
(18)柳井、前掲論文、参照。
 今日でも、経営の危機に陥りながら自主放送(あるいは事業自体)を止めるに止められなくなっているCATV業者は少なくない。
(19)竹河については、放送ジャーナル社編集部、前掲書、参照。
 菅野と竹河を比べると、前者が行政的・素朴な啓蒙主義的立場をとっているのに対し、後者は野党的・ジャーナリズム的色彩が強い。そういった違いにもかかわらず、強烈な個性のリーダーシップにおいて両者には類似性が感じられる。


★ウェブ掲出に際しての追記★
菅野一郎の発明した「グランド印刷」は、現在では「スクリーン印刷」として知られ、われわれの身近にも様々な形で存在している。


このページのはじめにもどる
テキスト公開にもどる
山田晴通・業績一覧にもどる   

山田晴通研究室にもどる    CAMP Projectへゆく