都市の個性を支えるシクミとココロ
岩波の新シリーズ「旅とトポスの精神史」は去年十一月に三冊が一挙に出版されてスタートした。山口昌男や吉田喜重、続刊予定の渡辺守章といった執筆者の顔ぶれはそれなりに期待させるものもあるが、シリーズ企画自体に対する評価は時期尚早であろう。しかし、ともかく今後を注目すべきシリーズであろうことは間違いない。
それにしても、わが国を代表する都市計画の実務家・田村明の書き下ろした本書は、このシリーズの中には居心地の悪そうな、やや異質な一冊である。どうやらその原因は「地方自治体官僚」という著者の立場ないし体質に求められるようである。
本書の章だては次の通りである。
序章 都市の美しさと個性
第一章 体験のなかの都市
第二章 都市の個性をたずねる旅
第三章 都市の個性とは何か
第四章 都市の個性をつくるために
このうち、少年期以来の自己の都市体験を語った第一章は著者の都市観の原点を知る上で興味深いし、紀行文を「お題拝借」風に並べた第二章(最も多くページが割かれている)は気楽に読める。この二つの章は雑学のネタもそこそこ散りばめてあり、読んでタメになる部分も多いが、実は本書の論旨全体の中では重要な部分ではない。著者の主張は、残りの三つの章で展開されている。
序章では「画一化し、無味乾燥で人間性を失ってしまった現代の都市に、いま求められているのは、それぞれの都市に本来あった個性に目ざめ、個性を生かすことである」(十三頁)という問題提起を受けて、「どんな都市が個性的」か、「どうしたら個性的に」できるかが「この書物の課題である」(十三頁)と述べられている。
課題の前者に対応する第三章では、都市の個性を形成する要素の分析が示され図にまとめられる(二〇〇頁)が、その際に見えない要素である「シクミ」(自治体や地域社会の組織・体制づくりのことか?)と「ココロ」(市民意識)の重要性が強調されている。
さらに、課題の後者に対応し、全体の結論ともいえる第四章では、「多様な目的をもつ多数主体が、時代をこえて都市をつくっている大前提のもとに、それらの主体が協力して都市という共同作品をつくっていることを意識し、実践すること」(二二七頁)が主張され、「市民の自発性、偶発性もおりこむことができる」(二五三頁)動態的計画(要するに、一定の枠を決め、その範囲内で各主体に自由を与える都市計画)が提唱されている。
以上要約した三つの章を通じて著者が言わんとしているのは、
(1) 都市には個性が必要だ。
(2) 個性の源は機能的組織と制御された市民意識である。
(3) 意識的な都市計画は必要なものだ。
という三点に尽きる。こうしてみると、本書が著者の「宣伝」と言って悪ければ「存在理由の主張」であることが明らかになろう。
シクミとココロは本当に市民のものか
都市計画を地方自治体官僚の立場で考える著者は、より大きな権力である国家による規制には反発する(例えば二〇五頁)が、市民に対しては「シクミ」の成立を求めようとする。自治の伝統が薄い日本の、しかも大都市について、欧州の中小都市のような市民の「シクミ」が成立し得ると本気で考えているのだろうか。「シクミ」は結局自治体当局の押しつけになるのがオチではないのか。
大都市の一地区の計画に際して、市民とは全市民のことなのか地域住民のことなのか、それとも計画に合意する「市民」であればそうした違いはどうでも良いのだろうか。
あるいは、(1) の主張は本当なのだろうか、著者風に言えば、「成る」個性以上の「つくる」個性は本当に必要なのか。(それを言っちゃオシマイだ、と都市計画屋さんはボヤくだろうが。)
いずれにせよ、著者の主張には疑問符がたくさん付けられる。著者は前著『都市ヨコハマをつくる』(中公新書)に対する松山巌の批判(GS1・二二五頁)にどう答えるつもりなのか。まさか「実務家の雑文ですから見逃してやって下さい」とは言わないだろうが。
結局のところ、「旅」=第二章=と、「トポスの精神史」=第一章=を除けば「φ」=中味のない三つの章しか残らない、というのでは悪い駄洒落にしかからない、というのが率直な読後感である。
尚、重箱の隅をツツク気はないが、引用された地図類に縮尺や等高線高度がないのはヒドい。例えば二二九頁などは縮尺・高度を入れれば冗長な本文の記述は不用のはずだ。原図段階でないとしても、引用に際して加筆すべきであろう。
(理学系院生 山田晴通)
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