雑誌論文(その他):2012:
19世紀末英国の企業主導型模範村落ボーンヴィル(Bournville)の歴史と現在の景観(上).
人文自然科学論集(東京経済大学),133,pp.9-30.
原論文は、一部に修正を要する箇所を含んでおりました。修正した部分は赤字としました。また、原論文では注記10が9より前に現れるという誤記がありましたが、ここでは両者の番号を入れ替えました。(2012.12.25.)
大学提供の pdf版 はこちらから。(2013.02.22.)
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19世紀末英国の企業主導型模範村落ボーンヴィル(Bournville)の歴史と現在の景観(上).
はじめに
I ボーンヴィルの開発史の概略
開発前史:
開発初期:
トラスト体制への移行:
公益事業組合との連携:
第二次世界大戦後:
リースホールド改革と環境保全への取り組み:
(つづく)
注
論 文
19世紀末英国の企業主導型模範村落ボーンヴィル(Bournville)の歴史と現在の景観(上)
山田 晴通
はじめに
イングランドにおける理想主義的郊外住宅地開発の系譜を追った報告である橋詰(2000)は,議論の冒頭で,エベネザー・ハワードが提唱した「田園都市 Garden City」の議論と,都市建設の実践の周辺に,時代的にはそれと前後する形で,工業村(industrial village),ガーデン・ヴィレッジ(Garden Village),ガーデン・サバーブ(Garden Suburb)といった概念の展開があったことを指摘している(橋詰,2000,p.55)。こうした概念と,それに伴う都市建設の実践は,相互に影響を与え合いながら,やがて20世紀における大規模な郊外住宅供給事業への潮流を作り,ひいては日本における大規模住宅地開発にも大きく影を落とすことになった。
これら諸概念の中で先行したのは19世紀初頭にまで遡ることができる工業村であり,世界遺産にもなっているニュー・ラナーク(New Lanark)を最初期の優れた事例とし,19世紀中葉にかけて建設されたコプレイ(Copley),アクロイドン(Akroydon),そしてこちらも世界遺産1)であるソルテア(Saltaire)を例に挙げるのが議論の定石となっているようだ(月尾・北原,1980,pp.134-150:橋詰,2000,p.55)。橋詰は,その流れを踏まえた上で,ソルテアについて,「イギリスにおける工業村の最初の完成例…ともいえる」としながら,「当時の一般的な労働者住宅に比べて優れたものであったとはいえ,住宅密度も高くいわゆる社宅団地の域を出なかった」と評している(橋詰,2000,p.56)。
この工業村の実践の延長線上で,しかしそれとは「大きくその性格を異にする」「公共オープンスペースと十分な広さの庭を有し,後にガーデン・ヴィレッジと呼ばれることになるボーンヴィル(Bournville)やポート・サンライト(Port Sunlight),ニュー・イアーズウィック(New Earswick)」が成立したわけである(橋詰,2000,p.56)。これらのガーデン・ヴィレッジは,①特定の製造業事業者が,②おもに自社の従業員のために,③郊外移転した工場の周辺に住宅地を開発するといったものと理解される。実際には,ボーンヴィルでは必ずしも②が妥当せず,ニュー・イアーズウィックでは③が妥当しないが,典型的モデルとしてはこのように考えておいてよいだろう。それまでの工業村が,例えば動力源としての水力を求めて既存市街地から離れて工場を立地させたニュー・ラナークの事例においても,住宅は高密度化が指向されていたことに象徴されるような,ある種の能率指向なり,集約指向,管理指向,あるいは箱庭的発想が背景にあったと感じさせるのに対し,ガーデン・ヴィレッジにおいては,より広大に確保された土地を開発し,オープンスペースに住民を解放していくという方向性が感じられる。
このガーデン・ヴィレッジの建設を通して蓄積されたアイデアが,もはや特定の事業所などに縁のある者だけが集住する場ではない(上記の①②が成立しない),同時代の田園都市や,「階級混住の理想に基づく住宅地開発の理念や開発利益の地域還元を目指した協同出資型の開発手法などによる緑豊かな郊外住宅地」としてのガーデン・サバーブ(橋詰,2000,p.73),あるいは「投機的デベロッパーの手による郊外住宅地の開発」(橋詰,2000,p.60)にも,影響を及ぼしていったものと考えられる。
ボーンヴィルについて橋詰は,先行研究を総括する形でボーンヴィル・ヴィレッジ・トラストによる「このような土地の公的所有と管理による開発利益の社会的還元は,後の田園都市構想に大きな影響を与えた」ことを指摘し,ボーンヴィルが「それまでの工場村と違って,従業員だけでなく一般の入居希望者にも住宅を提供したこと,敷地全体に豊富な緑地・オープンスペースを設けたこと…緑地の保全と創出にも努力した…この住宅計画は,敬虔なクエーカー教徒で,労働者の住宅改善に関心をもっていたキャドバリーが考え出した当時としては画期的なアイデアであった」と述べている(橋詰,2000,p.57)。このような評価は,ボーンヴィルが工場村の延長線上にありながら,大きな転換を行なった事例であることを定位する,定説的見解として妥当なものといえよう2)。
しかし,本稿(下篇を含む本稿全体)における筆者の問題意識は,郊外住宅地開発をめぐる歴史を跡づける所からは少しずれたところにある。それは,このように一定の歴史的役割をもって,また理想主義的な志から優れた居住空間となることを目指して建設された住宅地が,一世紀の年月を経て,現代においてどのような住宅地として存在しているのか,というものである。ともあれ,歴史的経緯を抑えておくことは議論の前提として必要である。以下,本稿上篇では,現代の文脈においてボーンヴィルがもつ意義を,検討していく前提として,まず130年以上の厚みをもつボーンヴィルの開発史を繙いて簡潔な見通しを立てていくことにする。
I ボーンヴィルの開発史の概略
Harrison(1999)『Bournville: Model Village to Garden Suburb』は,ボーンヴィルの歴史について記述した,現時点における最も包括的な研究書である。副題の「モデル・ヴィレッジ(模範村落)からガーデン・サバーブ(田園郊外)へ」が示すように,同書はバーミンガムの南部郊外において,工場に付設された,おもに従業員を対象とした理想的住宅地,模範村落(model village)3)として発展してきたボーンヴィルの歴史を,その開発初期のみならず,20世紀を通した時間の射程の中で取り上げている。以下,本章では,おもに同書に依拠しながら,ボーンヴィルの開発史の概略を紹介しておく。本章においては,Harrison(1999)の記述への言及の際にはページ数のみを表記する。
開発前史:
ボーンヴィルにおける住宅地開発の契機は,1879年にキャドバリー社が当地に新たなチョコレート製造工場を建設したことにあった。キャドバリー社は,ボーンヴィルの開発初期にあっては直接の開発主体であり,初期の入居者の多くは同社の従業員であった。したがってボーンヴィルは,前章で示した工業村の延長線上にあるガーデン・ヴィレッジの典型事例の要件,「①特定の製造業事業者が,②おもに自社の従業員のために,③郊外移転した工場の周辺に住宅地を開発する」を満たしているものと判断される。
キャドバリーは,今日では米国資本の国際的食品会社クラフトの一部門,あるいは,そのチョコレートのブランドとして知られているが,もともとは19世紀にバーミンガムで創業したチョコレート製造業者であった4)。キャドバリー社は,ボーンヴィルの開発を主導したジョージ・キャドバリーの父であるジョン・キャドバリー(1801-1889)が,バーミンガムで創業した紅茶商の事業を母体としている。19世紀半ば以降,紅茶商の事業の中で,ココア,ないし,チョコレート飲料の消費が急拡大し,やがて,固形チョコレートが導入されると,ジョン・キャドバリーはバーミンガム市内のクルックト・レーン(Crooked Lane)の倉庫で自社製品の製造を試み,1947年にはブリッジ・ストリート(Bridge Street)にチョコレート製品の製造工場を構えた。この時点での主力商品は飲料チョコレート(ココア)粉末であった5)。1949年,ジョン・キャドバリーは,もともとの小売業の事業を甥(ジョージから見れば従兄弟)のリチャード・キャドバリー・バロー(Richard Cadbury Barrow)に譲って製造事業に集中する。キャドバリーのチョコレート製造事業は大成功し,そのチョコレート製品は1853年には王室御用達となった(p.20)。1854年にはロンドンにも事務所を構え,ヴィクトリア女王にココアを納めるようになった(Chinn, p.10)。
ジョン・キャドバリーが厳格なクエーカーであったことは,ジョージをはじめ後継者となった子どもたちの思想形成に様々な意味で大きな影響を与え,ボーンヴィルの開発にもその影響が現れていると言われている。クエーカーであったキャドバリー家においては,音楽や絵画芸術よりも園芸や自然の渉猟が尊ばれ6),制度的にも排除されていた大学における教育ではなく(他のクエーカーの親方の下での)徒弟修行が励行された(p.22)。ジョン・キャドバリーがチョコレート事業に入れ込んだのも,禁酒主義であるクエーカーの立場から,飲酒に代わる健全な嗜好品としてのチョコレートの可能性に注目したことが大きな理由であった(Chinn, 1998, p.7)。
キャドバリーのチョコレート製造事業は,1861年にはリチャードとジョージの兄弟に譲られた。父ジョンと長兄ジョン2世が健康を害していたため,次三男の兄弟に経営責任が回ってきたのである7)。兄弟が事業を引き継いだ時点で,この事業は経営の危機に瀕していたが,兄弟はその立て直しに成功し,事業継承の時点で一説には11人しかいなかったと言われる従業員も,1870年には200人以上を雇用するところまで事業を拡大させることに成功した(pp.22-23)。
弟のジョージは,やはりクエーカーであるヨークのチョコレート製造業者ジョセフ・ラウントリー(Joseph Rowntree)のもとで徒弟修行を経験していた8)。当時のジョージが,事業の拡大に挺身しながら,他方では1959年から教育を受ける機会のなかった成人労働者を対象とした夜間の成人学校(Adult School)であるセヴァーン・ストリート学校(Severn Street school)の教壇に立ち,以降も生涯を通して成人学校運動に長く関わり,教壇にも立ち続けたこと,また,1875年から1881年までの2期6年,市会議員として住宅や衛生の問題などに関わったことは,後年のボーンヴィル開発の取り組みとの関係で注目される(pp.29-32)9)。
1878年,兄弟はオークションにかけられていた,バーミンガム南西に中心部からおよそ6キロメートル(4マイル)離れた郊外の土地3.6ヘクタール(14エーカー半)を入手した10)。当時ボーンブルック(Bournbrook)という名で呼ばれていたこの土地の東縁には,既に南北に走るバーミンガム=ウースター運河(Birmingham and Worcester Canal)と,これと並行するバーミンガム西部郊外鉄道(the Birmingham West Suburban railway)が開通しており,現在のボーンヴィル駅も,スターチリー・ストリート(Stirchley Street)駅として1876年に開業したばかりであった11)。不動産業者が用意した地図に記載された既存の建物は,ボーンブルック・ホール(Bournbrook Hall)と若干の農場の建物だけで,道路も現在のボーンヴィル・レーン(Bournville Lane)がオール・レーン(Oar Lane)の名で記載され,北方のセリー・オーク(Selly Oak)の市街に通じる現在のリンデン・ロード(Linden Road)が無名の小道として描き込まれていたものの12),他にはほとんど道は通っていなかった。一帯の土地利用形態は牧草地が大半で,現在も保護林キャンプ・ウッド(Camp Wood)として残されているストックス・ウッド(Stock’s Wood)の一角だけが,まとまった林地になっていた(p.23 ; p.24 = fig.18)。
工場用地を取得すると,ジョージ・キャドバリーは建築家ジョージ・ギャッド(George Gadd)の協力を得て新工場の設計に取りかかり,1879年3月から新工場の建設工事が始まり,10月には新工場への移転が行なわれた。新工場の開設に際して,キャドバリーは新工場の所在地の地名を,フランス語風の語尾をもったボーンヴィル(Bournville)に改めた。これは,当時のチョコレート市場において,フランスがマーケット・リーダーであったことを意識してのことであったとされている(p.24)13)。
1879年から操業を始めた工場は,以降,増改築,立て替えを重ね,北側に拡張されてはいるが,現在も当初とほぼ同じ敷地を占めている。すなわち,ボーンヴィルの鉄道駅から西へ伸びるボーンヴィル・レーンとボーン・ブルックの間に最初の工場の敷地が広がり,ボーン・ブルックの北側には資材運搬用の軽便鉄道の施設が設けられ,鉄道や運河によって近くまで輸送されてきた物資を工場内に運び込んでいた14)。後に工場は,徐々に北側に拡張されていくことになった。
移転当時の従業員数は230人であったが,この数はその後の事業の拡大とともに増加し,1899年にはおよそ1200人,1909年ころにはおよそ2700人がボーンヴィル工場に勤めていた。操業開始当時,工場の敷地内には,工場長用の一戸建ての住宅と,職長級の管理職のために用意されたセミデタッチト・ハウス16戸,合わせて17戸の住宅が用意されているだけだった15)。大多数の従業員は様々な手段で通勤して来ていたが,長距離通勤の女子工員は,必要に応じてボーンブルック・ホールに宿泊することもできた(pp.26-27)。
開発初期:
田園の工場(A Factory in a Garden)と称されたボーンヴィル工場は1879年から操業を始め,徐々に製造工程が拡充され,並行して従業員のための運動場を中心とした厚生施設も充実していった。しかし,当初から工場敷地内に用意された現場責任者たちの住宅は別にして,工場周辺における住宅地開発が始まったのは1895年からであった。ジョージ・キャドバリーは,労働者を対象とした夜間学校である成人学校に長く関与し,自ら授業を行なって労働者と日常的に接する機会をもっており,そうした経験から労働者階級が健全な生活を送るためには住環境の変革が必要であると考えるようになっていた16)。
1879年に工場をボーンヴィルに移転した後,ジョージ・キャドバリーはブリストル・ロードに面して建っていた,ペン製造業で成功した実業家ジョサイア・メイソンの屋敷ウッドブルックを借り,1881年にはこの屋敷を買い取って自宅とした17)。キャドバリーと後妻エリザベスの夫妻は毎日,まだ緑地が広がっていた一帯を横切り,一緒に歩いて工場へと通勤する途上で,エステートの開発構想を語り合ったとされる(p.36)。キャドバリーは,自らの構想を具体化させるべく,やはりクエーカーであった測量士(surveyer)18)で建築家のA・P・ウォーカー(Alfred Pickard Walker)に開発計画の作成を依頼し,1894年4月,ウォーカーによる最初の計画図面が作成された(pp.36-37)。その後,この最初の計画には手直しが加えられ,新たに現在の中央の緑地広場ボーンヴィル・グリーン(Bournville Green:単に Green として言及されることが多い)が確保され,道路の線形にも手が加えられた。ノースフィールドとキングス・ノートンの行政区当局は,開発に際してほとんどの道路について,条例住宅(bye-laws)19)に準拠した14ないし15メートル(42ないし45フィート)の道幅の確保を求め,結果としてボーンヴィルの街路は,当時の郊外住宅地としてはかなり広い道路幅をもつことになった(p.39)。
ボーンヴィルの住宅地開発の原点は,ボーンヴィル・ビルディング・エステート(the Bournville Building Estate)の当初計画の中で述べられている「工場の建物によって台無しにされたり,太陽,光,空気などの享受が妨げられるおそれがない,大きな庭のある家を,労働者が所有しやすくする」という言葉に集約されている。これを実現するためにエステートは,所有する土地を999年契約,年間地代1ポンドで借地として提供し,借地に建てられる家屋に,地主として強い規制をかけるという方策をとった20)。住宅の設計案は,エステートの建築家が承認しなければ実際に建設することはできず,どのようなデザインで,どのような大きさの家が建てられるのかは,厳しく規制された。また,安価で劣悪な住宅が建てられないように,住宅の建築費には下限が設定された(当初は150ポンド)。公共の緑地,運動施設等の配置にも意が払われ,開発当初から共同浴場の開設も構想されていた(1904年,工場敷地の一角に実現)。学校等の整備も当初から配慮されていた(pp.39-40)21)。
さらに,住宅を建てようとする者が,年利2.5%で住宅ローンを組めるように融資制度を用意し,また,地代相当額程度は,広くとられた庭で菜園を営んだり,養鶏を行なうことで副収入を得ることができると説明された22)。自らローンを組み,エステートの建築家に設計を委ねて住宅を手に入れた者のほかに,キャドバリー社が出資して貸家を建て,長期契約で貸し出す例も多かった。住宅地の建設は工場の西,リンデン・ロードの西側の一角で1895年から始まり,次いで工場の北側の一角でも始まった。最初の5年間に143戸が供給され,1898年から1899年にかけての時期は,最初の建設のピークとなった23)。最初期の建築物は,A・P・ウォーカーが手がけたものもあったが,ジョージ・キャドバリーに抜擢された若い建築家ウィリアム・アレキサンダー・ハーヴェイ(William Alexander Harvey)が多数の設計を手がけた(pp.40-42)。ハーヴェイの作風は,都市の劣悪な居住環境に対する住宅改良運動を踏まえながら,当時のアーツ・アンド・クラフツ運動の影響も受け,英国の伝統的住宅建築デザインを指向するものであった24)。ハーヴェイは,小規模なコテージの設計を多数手がけながら,エステート内の場所の違いなどを踏まえ,ファサードの細部に多様なデザインを施すなど,立ち並ぶ住宅が単調な印象に陥らないよう様々な工夫を加えた(pp.41-42)。
このように,労働者に手が届く優れた環境の住宅を供給しようということから始まったボーンヴィル・ビルディング・エステートの取り組みであったが,程なくしてボーンヴィルの良好な住環境が注目され,住宅の価格が上昇し始めた。短期間のうちに転売が繰り返されて,当初の300ポンドから372ポンド10シリングへと売買価格が上昇した例もあった。転売によって利益を得る者が出てくる状況を知ったジョージ・キャドバリーは,住環境の保全を優先させるべく,エステートの管理権限強化を目指した体制の整備を考えるようになった(p.44)。
トラスト体制への移行:
こうして,1900年12月に,新たな公益信託財団(charitable trust)として,ボーンヴィル・ヴィレッジ・トラスト(the Bournville Village Trust, BVT)が設立され,ボーンビル・ビルディング・エステートの業務を引き継いだ25)。財団の理事には,ジョージ・キャドバリーとエリザベスの夫妻,ジョージの弟エドワード,夫妻の次男ジョージ・ジュニアが就任した(p.44)。「同じ人間が信託者であり受託者代表である」状態は,脱税の手法と「勘ぐられる恐れがある」ものであったが,「生活環境の改善」という信託の目的に沿った活動のために,「カドベリーの資本からボーンビルをできる限り切り離すことを援けた」と評価されることになった(下総,1971, p.58)。
財団の設立証書(寄附行為:The Deed of Foundation)には,労働者の手が届く水準で住宅を供給することが創設者(The Founder:ジョージ・キャドバリーのこと)の願いであることが明記されていた。さらに,住宅の建蔽率を敷地の4分の1(25%)以下にすることや,エステート全体の面積の10分の1(10%)以上を公共空間として確保すること,さらにはエステート内における酒類の製造販売の禁止など,土地利用の大きな方針も明記されていた(pp.44-45)。初代の事務長(Secretary)となったジョン・ヘンリー・バーロー(John Henry Barlow)は26),ジョージ・キャドバリーとともにボーンヴィルの成果を積極的に外部に広報していった(pp.45-46)。
上述のように,トラスト体制への移行は,エステート内の不動産に対する,より強い規制力をもった管理体制を目指してのことであった。トラストへの移行によって,トラストには建設部門が設けられ,供給される住宅は,トラスト自身の手で建設・所有された貸家が中心となっていった。加えて,やや大きめの住宅として,99年のリース期間を設定した,(所有権ではなく)リースホールド(leasehold)27)を売る,広義の建売住宅も相当数が供給されるようになった(p.46)。
財団が設立された1900年の時点で,ボーンヴィル・エステートには,130ヘクタール(330エーカー)の土地に313戸の家屋が存在していた(下総,1971,p.57:月尾・北原,1980,p.160:Harrison, 1999, p.xi)。トラスト体制への移行後,住宅の建設に加え,学校,教会などの公共的施設を含めた整備が進み,1906年の時点ではアカシア・ロード(Acacia Road),メイプル・ロード(Maple Road),リンデン・ロード(Linden Road)沿いの住宅がほぼ揃い,シカモア・ロード(Sycamore Road),ソーン・ロード(Thorn Road)にも住宅が建ち始めていた。また,新たにグリーンから西へウッドブルック・ロード(Woodbrook Road)が開かれ周辺における住宅建設が進んだ(p.46)。建てられる住宅の形態も,当初はおもにハーヴェイが設計を手がけたセミデタッチト・ハウスが中心であったが,やがて財団の新しい建築家となったヘンリー・ベッドフォード・テイラー(Henry Bedford Taylor)は,4戸以上の連棟式住宅にも積極的に取り組むようになった(pp.53-56)。
こうした財団の動きは,最初期に999年の借地権を得て家を建てた住民との間に多少の摩擦を引き起こした。より安価な住宅が供給されることで,自らが所有する住宅の価値が下がると主張して,財団の方針に反対する者が出てきたのである。財団は,一部の物件について,建設費の1割増の金額を支払って買い上げを行ったが,この取り組みは1904年には取りやめになった。こうした背景の中で,健康的な住環境をより幅広い階層に提供するという財団の課題に対して,ボーンヴィルには一般的な「労働者」よりも経済的に恵まれている層でないと住みにくい28),という現実を踏まえた批判が出されるなど,ボーンヴィルの住宅地としての性格をめぐって様々な議論が展開されるようになっていた(pp.78-80)。
公益事業組合との連携:
1900年に,130ヘクタール(330エーカー)の土地と313戸の家屋を管理の対象とするところから始まった財団は,それから10年あまり経った1911年の時点で,およそ210ヘクタール(525エーカー)の土地を管理しており(p.91=fig.77),財団設立以来直営建設事業によって建てられた住宅は340戸以上に達し,さらに商店店舗10軒,銀行店舗,キリスト友会の集会場(教会),その他関連施設が直営建設事業によって建設されていた(p.75)。総じて,トラスト制移行後の最初の十年は,財団直営の建設事業によって模範村落が姿を現す時期であったと言えよう。
しかし,ボーンヴィル・エステート一帯が,バーミンガム市に編入された1911年,ボーンヴィル・ヴィレッジ・トラストの財団事務長報告は,進行中の建設計画が完了し,既に宅地造成がなされている街区への住宅建設が一通り済んだ段階で,直営による建設事業を取りやめる,という大きな方針の転換を打ち出した。その大きな理由は,他の組織に建設事業の負担を分担させることで,資金をエステートの拡大などに有効に利用することにあった(p.75)。
この方針転換に先んじた1906年には,新たに設立され,友愛会登録された団体ボーンヴィル借地人会(Bournville Tenants Limited)が,ボーンヴィル・ヴィレッジ・トラストから当時のエステートの南西の縁に位置していた8ヘクタール(20エーカー)ほどの土地を借りて住宅開発をはじめていた。その場所は,その後エステートが西へと大きく拡張したしたため,現在のエステートにとっては南縁の半ばの位置にあたる。この一帯は,エステートの一部ではあったが,現在のヒース・ロード(Heath Road),ホーソーン・ロード(Hawthorn Road)はまだ整備されておらず,後から着手された開発地区と区別してボーンヴィル・ヴィレッジ(Bournville Village)と通称されるようになっていたの既開発街区とは,緑地で隔てられており,むしろ南から南西に隣接するノースフィールドのミドルトン・ホール・ロード(Middleton Hall Road),バンバリー・ロード(Bunbury Road)沿いの街並に連続する位置にあった。このボーンヴィル借地人会の取り組みは,建設される住宅への入居希望者が,会の株式(持ち分)を購入して資金を負担し,会として協同で開発に当たるという試みであった。設計はハーヴェイをはじめとする財団の建築家が中心となって取り組まれ,建蔽率などの条件はボーンヴィル・エステートの他地区に準拠していた。会の設立に際して,ジョージ・キャドバリーは資金面での支援を約束し,この取り組みを後押しした。全150戸のこの地区の開発は,1913年に完了した(pp.71-75)。
財団の開発方針の転換以降,ボーンヴィル・エステートにおける住宅地開発は,ボーンヴィル借地人会の事例に準じて,開発主体となる別組織との協同作業として行われるようになる。その背景には,全国レベルでの英国の住宅政策の動向も関係していた。1909年に制定された最初の住宅・都市計画等法(Housing, Town Planning, &c. Act)は,「都市計画の確立と官民の連携による計画的な郊外開発を求める運動」を受けて,「郊外の未開発地域の開発方針を定めた計画策定の権限を地方自治体に付与するとともに,公益事業組合 public utility societies の住宅建設費用に対する低利の公的融資の比率をそれまでの2分の1から3分の2に引き上げた」(椿,2007,p.91)。このため,ボーンヴィルにおいても,財団とは別に開発主体となる公益事業組合を設立し,そこに公的補助金や,公的,民間を問わず各種の融資を集め,その資金によって開発を実行する手法が一層有利になった。その後,1923年の住宅法,さらに1924年の住宅(財政供与)法(Housing (Financial Provisions) Act)によって,時限的な形ではあったが民間事業者を含めた開発主体への公的支援の制度化が進み(椿,2007,pp.95-97),公益事業組合の優位は強化された29)。
最終的にボーンヴィル・エステートにおいては,ボーンヴィル借地人会を含め,5つの公益事業組合が開発の担い手となった(p.103)。その中で,方針転換を受けてから,いち早く重要な案件となったのは,1911年から取り組まれたブリストル・ロードの北西側に位置するウィーリー・ヒル(Weoley Hill)地区30)の開発であった(p.76)。
この地区の開発に当たっては,開発主体として,ウィーリー・ヒル公社(Weoley Hill Limited)を設立し,公共事業資金貸付協会(the Public Works Loan Board,the Public Works Loan Commissioners)からの融資を引き出すことが企図され,ジョージ・キャドバリー・ジュニアが深く関わる形で計画が進められ,公社設立の草案は1913年にまとめられた。当初の計画では,ボーンヴィル・ヴィレッジ・トラストが所有する土地を,ウィーリー・ヒル公社が借りて住宅を建設し,貸家として比較的低い家賃31)で提供していくことになっていた。しかし,低家賃の貸家を実現するためには設計の画一化が必要になると判断されて,計画は見直され,最終的には,多様なデザインの住宅を99年リースで建売りすることになった(p.76, p.104)32)。
ボーンヴィル・エステートの公益事業組合として,最大の開発主体となっていったのは,キャドバリーのボーンヴィル工場に働く従業員が出資者となっていた,ボーンヴィル工場住宅協会(Bournville Works Housing Society Limited)であった。1919年に設立され,1920年から活動を始めたこの協会は,ブリストル・ロードより南東側で,初期開発地区の西から南西の一帯にかけて,多数の貸家を建設するとともに,出資者でもあるボーンヴィル工場の従業員のために,住宅ローンも提供した。設立時には,ジョージ・キャドバリーが一定の資金提供を行ったのに加え,ボーンヴィル工場年金基金(the Bournville Works Pension Fund)が資金を出し,さらに公共事業資金貸付協会からの融資も得て事業が進められた。1920年代には,建設費用が高騰し,一時は公的融資の返済が困難になる事態も生じたが,キャドバリー社が資金的支援を行って危機を回避した。総じて,ボーンヴィル・エステート内の他の地区に比べると,ボーンヴィル工場住宅協会が開発した地区の住宅はより簡素なデザインになっているが,単調なテラスハウス(連棟式住宅)のような印象を与えないように,様々な工夫が取り込まれていた(pp.109-110)。
1923年に設立されたウッドランズ住宅協会(Woodlands Housing Society Limited)は,西へと拡張されたエステートの南西端,あるいは,エステートに属するブリストル・ロードの南東側の土地の西端を占める一角で,99年リースで住宅を販売する開発を担い最終的に79戸を建設した。この敷地は,ボーンヴィル借地人会による開発地区からバンバリー・ロード沿いに西へ,ノースフィールドの中心市街地にさらに近づいた場所,ノースフィールド駅から1㎞ほどの徒歩圏にあった。1930年代当時は東側に,ボーンヴィル工場住宅協会の開発予定地が設定されていたものの,既存の建物はなく,ボーンヴィル借地人会による開発地区と同じように,当時のボーンヴィルの既開発街区とは緑地で隔てられ,バンバリー・ロードに沿ってノースフィールドの街並に連続していた。この地区では,公的資金援助を得て建てられた住宅と,援助なしに建てられた住宅があったが,前者は補助を受けるために,ボーンヴィル・ヴィレッジ・トラストが定める基準より安価に,1923年および1924年の住宅法(Housing Act)が定めた基準の範囲内で簡素に建設され,その是非をめぐって議論を呼んだ(pp.105-109)。
ボーンヴィル・エステートにおいては,セミデタッチト・ハウスを中心に,戸建て,ないしは,数戸の連投式住宅が一般的に見られ,一部には例外的に福祉施設としての性格をもった救貧院(Almshouse)があったが33),いわゆるフラットに類する集合住宅は,当初は存在していなかった。その例外として,1922年から1924年にかけて建設されたのが,ウッドブルック・ロードに面した場所に建てられた,単身勤労女性専用の集合住宅セント・ジョージズ・コート(St George’s Court)であり34),それを担ったのが,公益事業組合のレジデンシャル・フラッツ社(Residential Flats Limited)であった。このフラットの構想はキャドバリー夫妻から提起されたものであったが,ジョージ・キャドバリーはその完成を待たず,1922年にノースフィールド・マナー・ハウスの自宅で死去した(pp,110-112)。
1920年代以降のボーンヴィルは,初期開発が展開したボーンヴィル・ヴィレッジの枠を大きく超えてエステート内の各地区で公益事業組合による開発が進み,もはやコンパクトにまとまった模範村落ではなく,エステート内に散在する住宅地区を道路網や公共緑地がネットワークとして繋いでゆく田園郊外へと変貌を遂げつつあった(p.120)。一方,ボーンヴィル・ヴィレッジにおいても,整備は進んでいた。1914年には,キャドバリー夫妻の銀婚式を記念し,ボーンヴィル・グリーンの中心に,全世界のキャドバリー社の従業員から集められた寄附によって,八角形の特徴的なデザインをもった休憩所(Rest House:現在の Visitor Centre)が設けられた(pp.67-68)。当時,ボーンヴィル・グリーンは三角形の三辺すべてを道路で囲まれており,北東側では,ハイゼル・ロード(Hazel Road)をはさんで,1905年に完成したキリスト友会の集会場(クエーカー教会)と,1925年に開設された成人学校(the Day Continuing Schools:2011年の現地調査の時点でオックスフォード・シティ大学のキャンパスのひとつ)に面していた。キリスト友会集会場の壁面には,ジョージ・キャドバリーの死後,1924年に,その胸像がグリーンに視線を向ける形で設置された。1928年から1931年にかけて,このハイゼル・ロードを塞いで歩道とし,さらに,周辺にも歩道を整備する事業が進められた(p.122)。
一般的に,両大戦間期の英国における住宅政策は,中央政府が地方自治体に財政支援を保証することで,都市の郊外化に拍車をかける形で,大量の公営住宅の供給を実現したと評されている(椿,2007)。ボーンヴィル・エステートの周辺でも,隣接するウィーリー・キャッスル地区のように大規模な市営住宅地開発の例が見られた。こうした公営住宅が,一般労働者の住宅として供給される中で,ボーンヴィルでは,ボーンヴィル工場住宅協会やウッドランズ住宅協会の取り組みのように,公益事業組合が公的資金も受け入れて,エステート内の物件としては比較低廉な住宅供給を試みることもあったが,両大戦間期の末になると一般労働者への住宅供給は公営住宅の役割と見なされ,エステートの新規住宅開発の重点は,より経済力のある層をターゲットとした99年リースによる住宅販売へと移っていった(p.129)。
1939年には,エステートの最も西の一帯を占めるシェンリー・フィールズ(Shenley Fields)地区とユー・トリー・ファーム(Yew Tree Farm)地区の開発計画が作成された(p.135)35)。しかし,第二次世界大戦の勃発によって,エステートにおける新たな開発はいったんすべてが差し止めとなった(p.134)36)。
第二次世界大戦後:
戦後間もない時期の英国では,戦後復興の声の下,戦地から帰ってくる夫たちを迎え,さらに予見されるベビーブームに備えて,低廉な労働者向けの住宅供給が急務であるという考えが支配的であり,戸数の確保を優先するため,労働者向けの住宅建設に際して基準とされる各種の数値は,より高密度,より簡素なものに引き下げられた。財団は,1945年から,財団直営の建設事業部門を再整備して住宅地開発を再開した(p.158)。まず,キャドバリー社の注文に応じた小規模な開発が,シェンリー・フィールズ・ロードの東側で始められ,やや大きめの家族向け貸家と,99年リース販売の住宅が建設された(p.138)。その後,1947年の都市農村計画法(the Town and Country Planning Act)によって,都市計画に関する権限は基礎自治体に集中され,住宅供給における自治体の権限が拡大した37)。このため,一方では,住宅供給における自治体の関与の拡大とともに自治体の責任も大きくなり,公営住宅の供給責任などがより重くなった。新たな制度の下でも,ボーンヴィル・ヴィレッジ・トラストのような民間の住宅財団(Housing trust)は,国からの公的支援を受けて賃貸住宅の建設に当たることができたが,その入居者の選定は,市当局の専管事項とされた(pp.133-134)。
ボーンヴィル・ヴレッジ・トラストは,ジョージ・キャドバリーの三男ヘンリー・タイラー・キャドバリー(Henry Tylor Cadbury)38)を中心に,戦前に計画が頓挫したシェンリー・フィールズとユー・トリー・ファーム(「シェンリー・エステート」と総称される)の開発計画の練り直しに取り組み,社会的に多様な階層が居住できるよう配慮した,多様な形態,多様な規模の(したがって経済的負担も多様な)住宅が混在する地区としての開発計画をまとめる作業を進めた。1947年都市農村計画法により,公的支援を求めるためには,開発計画をバーミンガム市の都市計画と整合性があるようにまとめられなければならなかったが,バーミンガム市による都市計画の公表は,最終的には1952年まで遅れた。最終的な公表以前から計画内容は部分的に明らかにされていたが,財団はそれに従って開発計画の見直しを強いられることになった(pp.135-137)。1947年の時点で,当初1000戸であった供給戸数は,1200戸へと上方修正され,これに対応するため,フラット,メゾネットといった形態の導入が必要となったが,3階を超える多層階の建設は避けられた。1951年には,戦後の住宅供給件数が200戸に達したが,当時の財団は件数の伸びが遅いと認識していた。1952年には,シェンリー・エステートに新たに400戸の建設認可が市当局から下り,そのほとんどは1959年までに完成した。シェンリー・エステートの建設に際して,戦後再整備された財団直営の建設事業部門は大きな役割を担った(pp.158-159)。
1950年代後半になると,市当局は,シェンリー・エステートの建設の進行を早めるように,また,建設する戸数を増やす(密度を上げる)ように,再三にわたり財団に圧力をかけるようになった。財団はこれに反論しつつも,3階建てのフラット42戸を建設するなどの対応をとったが,市当局からの圧力は続いた。これに対して財団は,ミドル・パーク・ファーム(Middle Park Farm)地区の開発を民間事業者トーラン社(Toran Limited)に委ね,同社はおもに3階建て(一部,2階建て)のフラットを建設したが,同社が後に破綻したため,物件は市当局の管理するところとなった(pp.161-162)。
こうした市当局との緊張関係を孕みながらも,財団は他方では,1950年代半ば以降,市当局との連携を前提とした賃貸住宅の供給に積極的に取り組むようにもなっていた。1954年の時点で,財団が直接提供している貸家は908戸あり,そのうち戦後に建設されたものが327戸であった。戦後になってから建設された貸家の中には,退職者向けの小規模住宅が含まれていたが39),同種の住宅への需要を踏まえ,既存の貸家を改装して小さい区画に細分化する取り組みも始まっていた。福祉団体との連携で建設された,単身女性を対象とした集合住宅も既に1951年に事例があり,こうした取り組みの延長上にそれまでのボーンヴィル・エステートの住宅規格とは異なる形態の貸家が用意され,市当局によって決定された入居者が居住するようになった(pp.159-160)。
この時期のボーンヴィルにおける動向のひとつとして注目されるのは,セルフビルド協会(self-build societies)の活動の広がりであった。セルフビルド住宅というのは,最終的には自らの住宅を求める素人が集まってセルフビルド協会と称するグループを組織し,建築の知識がある専門家から研修や指導を受けながら,協力して複数の住宅を建設し,完成した住宅は協会が貸し手となって,その構成員は借り手として建てられた住宅に入居するという仕組みであり,一般的には,英国で1970年代後半以降に広まった運動とされている(岩下,2010, p.26)。ボーンヴィルでは1950年代から1960年代にかけて,この方式による住宅建設があちらこちらで展開した。全国的な動きとしてのセルフビルドは,プレハブ住宅の普及との関係からその興隆が理解されるが,ボーンヴィルにおいて展開したのは,煉瓦を積む(英国の文脈における)在来工法によるセルフビルドであり,その意味では先駆的な動きのひとつであった。もともとは,当時の建築需給の逼迫から,建築業者に頼むよりも自分たちの手で建設した方が手っ取り早く,コストもかからない,という観点から導入された制度であった40)。
財団は,1949年の時点でバーミンガム市街地東部のシェルドン(Sheldon)地区で取り組まれていたセルフビルド協会の活動を視察し,積極的にエステート内への導入を行った。エステート内で最初のセルフビルド協会はヘイ・グリーン住宅協会(Hay Green Housing Society)であった。この活動には市当局も協力的で,公的融資を受けることができた。財団はまた建物の設計に積極的に関わり,セルフビルドによる場合でもエステート内の景観と調和する建物が建設されるように配慮した(pp.150-158)。
1965年の時点で,ボーンヴィル・エステートの400ヘクタール(1000エーカー)の土地には,5000戸ほどの住宅があったが(p.173),1970年にはそれが6400戸にまで増加した(p.179)41)。この数字は,土地については両大戦間期にシェンリー・フィールズとユー・トリー・ファームがエステートの所有となって以降,エステートの拡大がほとんどないまま,戸数が急増してきたことを意味していた。その後,1980年には戸数はおよそ7000戸となり(p.209),2010年には8000戸近い住宅が存在している42)。要するに,戦後のボーンヴィルは,エステートの拡大がこれ以上望めない状態の中,市当局による高密度化,集合住宅化への圧力を受けながら,エステート内のあちこちで,従来からの基準による住宅のほかに,集合住宅,小規模住宅の導入にも取り組み,供給戸数を急増させていったのである。初期の開発において,目安となった人口は1エーカーあたり16人から18人程度であったが,戦後の開発においてはこれが50人という水準になっていたという(pp.174-176)。こうした住宅戸数の急増は,1980年代以降には減速していくことになる。
リースホールド改革と環境保全への取り組み:
1965年当時,ボーンヴィル・エステートにあった5000の住宅のうち,大半を占めたのは3200戸以上あった,個人のリースホールダーであった。また,700戸ほどは,市当局との提携による短期賃借契約に基づいた貸家であった(p.173)。リースホールド(leasehold)と呼ばれる土地賃貸借契約は,土地の所有者が長期の借地権を設定して土地を提供し,リースホールダーと呼ばれる借地人が自らの負担で住宅等を建設し,契約期間の間,地代を支払い続けるという制度である。これだけの説明では日本の定期借地権と同じような印象を与えるが,借地を契約終了時に更地で返還することが原則となっている日本とは異なり,英国では,借地人の負担で建てられたものであっても住宅は地主の所有という考え方に立ち,契約期間満了時には住宅は地主の所有に帰すことになる43)。リースホールダーの立場から見れば,この制度は,とりあえず自分の人生を超える長さの期間(99年,125年などの期間が一般的)にわたって専有できる物件(土地と建物)を,当初に土地購入代金が生じない形で入手できるという利点がある。地主の立場から見れば,長期的に安定して収入が見込め,自らの負担なしに土地の上に建物などが用意され,建物を良好な状態に維持するためのコストはリースホールダーの負担にできるという利点がある。しかし,それに留まらず,地主は,最終的には建物の所有者でもあり,建物が建設される時点からその設計などに関与できる,言い換えれば,所有する土地に建てられる建造物に地主が干渉できるというこの制度の側面は,理想主義的住宅地開発の歴史,あるいは田園都市論の系譜において,一定の統一された意志の下で街並を形成していく上で,重要な意味を持っていた。ボーンヴィルにおいても,財団は地主としての立場から,エステート内に建設される建築物に干渉することが可能になっていた。
1967年のリースホールド改革法(Leasehold Reform Act)は,リースホールダーとして地代を支払い続けた実績がある物件について,定められた手続きに従って算出された一定の金額を地主に支払うことで,(建物を含む)土地の所有権,すなわちフリーホールド(freehold)を,リースホールダーが,地主の意向に関わらず強制的に買い取ることを可能にした44)。これは,ボーンヴィルにおける財団のように,これまで地主として建築に干渉することで理想的住環境を追及してきた管理組織が,その機能を喪失することにつながりかねない制度変更であった。
1967年の制度変更を受け,財団は2つの方策を打ち出した。まず,新制度下で増加が予想された,居住者が土地建物を完全に所有するフリーホールドのほか,リースホールド,短期賃借などの形態をとる物件が,それぞれ集まるような住宅の配置を,自らの物件売買を通して誘導した。その一方で財団は,リースホールド改革法第19条に定められた「近隣の一般的福利のため管理権能の保持(Retention of management powers for general benefit of neighbourhood)」の適用を求めた。この要請は1972年に承認され,財団は,新たに財団理事4名と選挙による住民代表4名から構成された計画委員会(the Scheme Committee)を通して,エステート内のフリーホールダーに対して,引き続き一定の管理権限を持ち続けることになった(p.174)。1979年までに,602戸が(p.209),また,1993年までに,1466戸が新たな制度に基づいてフリーホールドとなっていた(p.xii)。2003年の時点では,フリーホールドはさらに増加して2382戸となっており,通常のリースホールドにとどまっている物件は,1476戸まで減少した(中城・齋藤,2005,p.301)。フリーホールドの買い取りが急速に進んだことは,財団の財政に一時的ながら一定のよい影響をもたらした(p.175)。
地主としてリースホールド制度を通して建築や景観を保全するというそれまでの財団の取り組みは,リースホールド改革法によって変質を余儀なくされたが,同じ時期には,1962年の都市・農村計画法に基づいて,エステート内の主要な建物を個々に重要文化財建築物(listed building)として登録しようという動きが見られ,1970年までには,主要な公共施設や初期の住宅の一部が指定されるようになった。1967年にはシビック・アメニティ法(the Civic Amenities Act)45)によって,地方自治体が領域内に保全地域を設けることが義務化され,1971年にはエステート内の初期開発地区であるボーンヴィル・ヴィレッジとボーンヴィル借家人会の地区が,同法に基づく保全地域としての指定を受けた(p.176)。
リースホールド法に基づいて1972年に設置された計画委員会には,様々な苦情が持ち込まれた。委員会は,破壊行為や,子どもの遊び場に関する要望,エステートの建築としてふさわしくないと判断された改築への対処などに取り組んだ。リースホールダーはもちろん,フリーホールダーであっても住宅の改築には財団へ届け出て承認を得る必要があったが,それに従わない住民も少なからずおり,財団は問題となる改築を行った住民を相手にいくつもの訴訟を起こした(pp.182-183)。
総じて,1970年代には,財団にとっての収入である地代や家賃が固定されていたにも関わらず,維持管理のためのコストが高騰し,財団の財政は悪化した(p.184)。このため,エステート内における財団による新たな住宅供給は減速し,1980年代後半には新規開発の規模は縮小されていった(p.200)。もっとも,エステート内における新規の住宅開発はまったく止まってしまったわけではなく,その後も,エステート内にあったキャドバリー家の関係者の自宅跡が住宅地として開発されたり,短期賃貸住宅を建て直す再開発が行われるなど,新規の住宅供給は断続的に近年まで継続されている。特に,ブリストル・ロード沿いの一帯では,エステート内の他の地区とは趣きを異にする景観が広がり,決して大規模ではないが,多階層のフラットを含む開発も見受けられるようになっている。
(つづく)
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注
1) ニュー・ラナークとソルテアはいずれも2001年に世界遺産(文化遺産)として登録されている。当時の英国はブレア労働党政権下であったが,同政権の間に,ブレナヴォン産業用地(2000年),ダーウェント峡谷の工場群(2001年),海港商業都市リヴァプール(2004年),コーンウォールとウエスト・デヴォン鉱山の景観(2006年)といった産業革命以降の近代産業化遺構が世界遺産として認定されている。
なお,世界遺産としてのニュー・ラナークの面積は146ヘクタール,ソルテアは20ヘクタールである。
2) 橋詰(2000,p.57)の論に異を唱えるわけではないが,ソルテアを生み出したタイタス・ソルト(Titus Salt)にせよ,ボーンヴィルのキャドバリーにせよ,単に「アイデア」を提起したというより,莫大な私財を投じてそれを実現したところに「画期的」と評すべき要点がある。彼らのような成功した産業資本家が,資本の裏付けと改革の情熱を結びつけて,空想的要素を孕む計画を実施したことこそが「画期的」であったと考えるべきであろう。
3) 英語の model village は,英国を中心に,理想化された郊外住宅地として計画的に開発された都市近郊集落を指す用語であるが,縮小されたサイズの模型を並べて展示する施設,すなわち「模型の村」の意味で用いられることもあり,注意を要する。後者の意味では,コッツウォルド地方の観光地として知られるBurton-on-the-Waterの例が著名である。http://www.theoldnewinn.co.uk/village.htm
なお,ここでは「模範村落」という訳語を当てたが,訳語としては「模範村」等も用いられることもある。しかし,日本語で「模範村」という場合は,既存の農村が何らかの意味で他の模範となるものと評価される場合,特に明治末から昭和戦前期に内務省が「地方行政状優良な改善をなした町村」を指した言葉であり,model villageの訳語としては必ずしも適切ではない。
4) キャドバリー社は,1969年に飲料水で知られたシュウェップス社(Schweppes)と合併してCadbury-Schweppes Plcとなった後,2008年に再び飲料水部門を切り離してCadbury Plcとなり,2010年にKraft Foodsの買収提案を受け入れて完全子会社化されている。
5) ジョン・キャドバリーも固形チョコレートの製造を試みたとされるが,ミルクを使わない固形チョコレートの開発は1847年のFry & Sons が先んじた。キャドバリー社が固形チョコレート商品の開発に本格的に取り組むのは19世紀末になってからのことである。1879年からミルクを使わないチョコレートの製造・販売が取り組まれたが,固形チョコレートの普及は進まなかった。やがてネスレのミルク・チョコレートが出回るようになると,1889年ころからキャドバリーもミルク・チョコレートの商品化に取り組み,最初の製品が1897年に発売されたが,売上は伸びなかった。以降数次にわたり改良を重ねたミルク・チョコレートが発売されたが,ネスレ製品に対抗できる品質には至らなかった。こうした壁を乗り越え,大きな成功をもたらしたのは,1905年に発売されたDairy Milk Chocolateであった(Bradley, 2008, pp.33-40)。
6) グレイスランドでは,邸宅の主屋Graceland Mansionと,それに連続した背後(東側)に配された展示棟群(元々の父ヴァーノンの事務所1835年にジョン・キャドバリーはエジバストン(Edgbaston)地区のCalthorpe Roadに移り住み,その4年後にジョージが誕生した。当時のエジバストンは緑豊かな郊外住宅地であったが,後年,都市化の進行によって労働者住宅外に変貌した(Gardiner, 1923, p.12)。それでもキャドバリー家はこの地区に長く住んでおり,リチャード・キャドバリーが1861年から1871年まで住んでいた家,また,ジョージ・キャドバリーが1872年からウッドブルックに移る1881年まで住んでいた家がこの地区には残されており,それぞれブループラークが掲げられている。
7) 長兄ジョン・キャドバリー2世は1866年に30代で亡くなった。父ジョン・キャドバリーは,事業を兄弟に委ねた後も社会活動に従事し続け,1889年に87歳で天寿を全うした。
8) 後にラウントリーは,ジョージ・キャドバリーのボーンヴィルの経験に学び,1901年から,ヨーク郊外でニュー・イアーズウィックの建設に着手した。さらに,「1904年に住宅地の経営を信託財団ジョセフ・ラウントリー・ヴィレッジ・トラスト…に移管した点はボーンヴィルに倣ったものである」とされている(橋詰,2000,p.59)。
9) 英国で,識字率を上げるために初等教育が義務化されたのは,1870年の初等教育法(Elementary Education Acts)以降であり,それ以前は非識字の労働者も多かった。成人学校運動は19世紀にクエーカーが深く関わって展開した運動の中でも,最も成功したものであった評されている(Gardiner, 1923, p.40)。ジョージ・キャドバリーと成人学校との関係については,Gardiner(1923)の第4章(pp.39-58)に詳述されている。
1870年代はじめ,ジョージ・キャドバリーは,自由党急進派の立場にあったJoseph Chamberlain(バーミンガム市長,のち商務院総裁などを歴任:後年の英国首相Arthur Neville Chamberlainの父)の支持者として既に地元の政界に関わりをもっていたが,自らの政界進出には消極的であった。しかし,1875年7月の市議選挙にRotten Park Wardから立ち,パブなど酒類販売業者たちの支持を集めたトーリー党の対立候補を破って初当選した。しかし,市議会は彼の性に合う場ではなく,やがて当時まだバーミンガム市の領域外であったボーンヴィルへ拠点を移すことになると,あっさりとこの職を退任し,以降,選挙には出馬しなかった。市会議員となる前後のジョージ・キャドバリーの動向については,Gardiner(1923)の第5章(pp.59-70)に,また,自由党急進派から労働党寄りへと傾斜していった,その後の政治的立場や活動については第6章(pp.71-90)に詳述されている。
10) 当時,キャドバリー兄弟が入手した土地は2つの行政パリッシュにまたがって広がっていた。西から東へ流れるボーン・ブルック(Bourn Brook)の小川がふたつのパリッシュの境界となっており,小川より北側はノースフィールド(Northfield),南側はキングス・ノートン(Kings Norton)のパリッシュに属していた(Harrison, 1999, p.24 = fig.18 ; p.27)。
なお,以下本稿では面積について,1エーカー=0.4ヘクタールとして換算した概算値を優先して記載するが,Harrison (1999)をはじめ英文文献ではエーカーのみで数値が与えられているのが普通である。いずれにせよ本稿では,ヘクタールにせよエーカーにせよ,概算値としてのみ言及する。
11) 駅名は,1880年にStirchley Street and Bournville,1904年にBournvilleと改称され,現在に至っている。
12) 当時,現在のリンデン・ロードは,Stock’s Drive という名称で呼ばれており,南端はボーンブルック・ホール農場の入口で突き当たりになっており,それより南には伸びていなかった(Harrison, 1999, p.36 = fig.25)。
13) ジョージ・キャドバリーは事業の関係でチョコレート製造の先進地のひとつであった低地地方,すなわちオランダやベルギーに出向くことがあったが,特にブルージュ(ブルッへ)は気に入っている都市であった(下篇のカリヨンについて記述を参照)。フランス語風の語尾の採用も,むしろベルギーのイメージを踏まえていた可能性もあるものと思われる。
14) 工場からの軽便鉄道は,工場から傾斜を上りながら北上してElm Roadの東側で右(東)へ回り込み,鉄道と運河をRaddlebarn Road 南側に掛かる鉄橋(廃線後も現存)で越えてから運河の東側で斜面をおりて運河脇で荷物の積み替えをすることができるようになっていた。運河の東側の荷捌き場の跡地と斜面の軽便鉄道用地は,近年になって住宅地開発されている。
15) この数字はHarrison(1999, p.26)の記述によるが,これとは異なる数字を挙げる説明もある。例えば,月尾・北原(1980, p.160)には「トンネルバック式の半独立住宅二十四戸」という記述があり,建物の形態も,戸数も食い違いがある。しかし,いずれにせよ,工場操業開始当初,新築された住宅は,工場敷地内の職長級管理職を対象とした住宅だけであった。
16) 下総(1971)も,「ボーンヴィル史年表」の起点を「G・カドベリー,成人学校(J.Sturge設立)の教壇に立つ。」としている。おそらくは,当時の財団のパンフレット等の記述に従ったものであろう。Joseph Sturge(1793-1859)はクエーカーの平和活動家,奴隷廃止論者で,後半生はエジバストンに住んでいた。
17) その後,1894年に,キャドバリーはノースフィールド・マナー・ハウスに移り,ウッドブルックには,クエーカーの教育施設 Woodbrooke Quaker Study Centre が新たに開設されることになった。その中心となったのは,キャドバリーの徒弟修行の奉公先であったジョセフ・ラウントリーの息子,ジョン・ウィルヘルム・ラウントリーであった。
“History of Woodbrooke”
http://www.woodbrooke.org.uk/pages/history-of-woodbrooke.html
18) ここで「測量士」と訳出している surveyer は,建設に関わるかなり広範囲な業務を担う職種である。現代のこの職種について,齋藤・中城(2009,pp.302-303)は,「日本の国家資格では,建築士,土地家屋調査士,測量士,不動産鑑定士,宅地建物取引主任者等の業務範囲を行なう。歴史的には積算,建物検査,コンストラクションマネジメント,プロジェクトマネジメントをする業として広がってきた。他に,商業不動産の評価,ファシリティマネジメント,プランニングと開発,環境評価,マネジメント・コンサルトなどを行う。」と説明している。
19) 1875年の公衆衛生法(Public Health Act)によって,基礎自治体には建築条例を定める権限が与えられていた。ここで求められた幅員は,1977年に政府が示したモデル条例の定める10.5メートル(35フィート)より広い(椿,2007,p.83)
20) この方針は,バーミンガム市街地の拡大とともに,緑に恵まれた田園的環境から過密な労働者住宅地区へと変貌したバーミンガム市街地西部のLadywood 地区における歴史を踏まえた方策であったとされている(Harrison, 1999, p.39)。
21) 1905年にはグリーンに面して小学校が開設され,1910年にはその南隣に幼稚園が設けられた。この他にもエステート内には学校があり,特に1950年代以降は数も種類も増えていった。(学校については下篇でも取り上げる。)
22) 別の箇所でも Harrison(1999, pp.56-57)は,財団などの公式見解として表明されることはほとんどなかったものの,家庭菜園による自給自足がボーンヴィルでは奨励されていた,という判断を述べている。
ボーンヴィルにおける敷地レイアウトの典型的な例としてハーヴェイが自身の著書(Harvey, 1906)に挙げている図面(Harrison, 1999, p.60=fig.48)には,1戸が占める幅30フィート奥行き175フィートほどの短冊状の敷地のうち,家の背後の庭の奥行きは120フィートほどで,そのうち家に近い3割ほどが花壇と芝生,その先の5割が野菜畑,一番奥の2割が果樹,樹木等と図示されていた。
23) 最初期における建設のピークであった1899年には,200戸が建設中であったとも言われている(Harrison, 1999, p.44)。
24) ハーヴェイは,後に財団から独立した後も,著書『The Model Village and its Cottages: Bournville』によって大きな影響力をもち,田園郊外開発に関わる権威としての地位を得て英国各地における住宅地開発に関わり続けた。
25) この財団は,「ボーンビル村信託会社」(下総,1971),「ボーンヴィル・ヴィレッジ・信託委員会」(月尾・北原,1980)などと訳されることもある。
なお,現在,ボーンヴィル・ヴィレッジ・トラストは,発祥の地であるボーンヴィル・エステートにおける土地管理だけでなく,バーミンガム大都市圏の各地における住宅地開発や不動産管理,農地や林地の保全などに関わっているが,本稿の関心も,Harrison(1999)が検討する射程も,財団の事業全体を捉えようとするものではない(Harrison, 1999, p.xi)。
26) バーローは,ジョージ・キャドバリーとはおたがいの妻が従姉妹という親族関係にあった。バーローの息子ラルフも,後に父と同じように財団の運営責任者(Manager)の職を長く務めることとなった。
27) ボーンヴィルにおけるリースホールドの近年における状況については,中城・齋藤(2005)を参照。ただし,この報告には「ボーンビル地区に石鹸工場主G.カドベリーが社員用に開発した住宅地」といった,やや不正確な記述も含まれているので注意を要する。「石鹸工場主」というのは,Port Sunlight Village を創設したWilliam H.Lever との混同であろう。
28) Harrison(1999, p.79)は,庭の利用に関する資料から得られる断片的な情報を踏まえた推測として,当時の住民の4割ほどがキャドバリー社の関係者であったと判断している。また,この資料によれば,住民の中には,職業を清掃業(窓拭き)などとする純然たる労働者もいたものの,熟練労働者である,大工,銅工,鉄工,蒸気機関車の機関士,ガラス工などや,ホワイト・カラーの公務員らもいたという。
29) ただし,椿(2007)が,イングランドおよびウェールズにおける一般論として論じているように,こうした一連の政策は,公益事業組合の支援を直接の目的としたものではなく,その最大の成果は,両大戦間期における空前の規模での公営住宅建設であった。椿(2007,p.104)は,「では,なぜフランスやドイツのように,公益事業組合などの非営利住宅組織を通じた間接供給ではなく,地方自治体による公共賃貸住宅の直接供給の手段が採用されたのか。」という問いの立て方をしている。
30) この地区は,いずれもジョージ・キャドバリーの住まいであった,ウッドブルックとノースフィールド・マナー・ハウスの間に位置していたPark Cottage Farmの跡地である。現在,ウィーリー・ヒル地区の北方には,1895年に当時の自治体キングス・ノートンによって最初に開設された公営墓地Lodge Hill Cemetery(現在はバーミンガム市営)が広がり,北西から西方にかけては,1930年代以降,バーミンガム市による公営住宅を中心とする住宅地として開発されたWeoley Castle 地区が広がっている。バーミンガム市が一帯を編入した1911年の時点では,周辺はまだほとんど市街地化されていなかった。
31) 具体的には週に6シリング6ペンスから7シリング6ペンスの家賃が想定されていた。これは年額で16ポンド18シリングから19ポンド10シリングに相当する。当時の一般労働者の平均的な賃金水準が70ポンド台であったとすると,収入の25%前後の水準の家賃ということになる。
32) 下総(1971,p.59)は「ウォーレィ・ヒル共同組合」について「約500戸を建設したが丁度第二次世界大戦後のインフレ期にぶつかり大儲けをしたという」と記しているが,これはこの地区の開発時期から考えれば,「第一次」世界大戦後の現象を指しているように思われる。
33) ここではAlmshouseを「救貧院」と訳しているが,月尾・北原(1980,p.160)では「私設養老院」としている。日本語で「救貧院」と訳される英語の概念は,poorhouse,workhouseなど多様であるが,almshouseは,働けない状態で貧窮する要支援者を収容する施設であり,(ボーンヴィルの例には必ずしも当てはまらないが)通常は何らかの宗教的背景をもって設置されることが多い。ボーンヴィルの救貧院は,母子家庭などを収容した例もあり訳語の確定は難しい。この救貧院は,リチャード・キャドバリーが死去する直前に創設した the Bournville Almshouse Trust によって運営され,現在に至っている。1960年代に大幅な改修が行われているが,外見は設立当時とほとんど変わらない(Harrison, 1999, p.42, p.175)。なお,1920年代以降も,また,戦後にも,ボーンヴィル工場の退職者(ないし女性)などを入居者として想定した,標準よりも小さい住宅の供給は取り組まれ続けた(Harrison, 1999, p.112, pp.162-163)。
34) セント・ジョージズ・コートは,後に改装され,入居者も女性に限定されなくなった(Harrison, 1999, p182)。
35) ここでの地名はHarrison(1999)の表記に準拠している。1921年の陸地測量部(Ordnance Survey)地図では,現在のシェンリー・レーンを挟んで両地区にまたがる形で,「Shendley Fm.」(綴り字に注意)と農場名が記入されている。
36) 戦争中には,ボーンヴィルにも爆弾が投下される空襲があり,2か所であわせて8戸が被災した。被災した家屋は戦時中には再建されなかったが,戦後間もなくすべてが再建された(Harrison, 1999, p134)。
37) 当時は,より低廉で多数の住宅を高い密度で供給することを求める市当局に対し,要請に応えるためとするプレハブ住宅の導入論が財団内にもあり,見解の対立が生じた。そうした中で,1945年には,開発予定地区の一部の区画を,いち早く財団が市当局に売却ないしリースし,市当局が少数のプレハブ住宅を実験的に建設するといった取り組みが行われた(Harrison, 1999, p.138)。
38) Henry Tylor Cadbury(1882 - 1952)は,ジョージと最初の妻Mary Tylorとの間に生まれた三男。1901年にジョージが『The Daily News』紙(1846年にチャールズ・ディケンズが創刊した新聞)の経営権を取得した後,その経営の実務に長く携わった。
39) その後,1960年代においても,キャドバリー社は退職者のための低廉な賃貸住宅を確保するために,財団に資金を提供して小規模住宅を建設させ,ボーンヴィル工場住宅協会,ないしは,キャドバリー社が指定する個人が家主となって貸家を提供する,といった取り組みを進めることがあった(Harrison, 1999, pp.162-163)。
40) 下総(1971,p59)もこの取り組みに注目し「仕事熱心な者もおればブラブラ怠けながら一向に進まぬ者もいる。仕事は割当て制で一部が怠けると全体に影響するので罰則を作り,勤務評定の良い順に出来あがった家の中から自分の家を選ばせたり,怠け者の家賃をあげたりしてバランスをとったという」と興味深げに報告している。
41) 下総(1971,p.58)は「第二次大戦前にほぼ現在の規模,すなわち6,000戸の住宅と1,000エーカーの土地と更に2,800エーカーの農地を合わせると約456万坪,千里丘陵をひとまわり上回る規模に達していた。」と記しているが,戸数は下総が現地を訪れた当時の数であり,「第二次大戦前」にその水準に達していたというのはHarrison(1999)が挙げる各時代の数字との整合性から見て誤解であると思われる。なお,農地の面積とされる2,800エーカーについては不詳。
42) Harrison(1999, p.xi)は「7,600戸」という数字を挙げている。中城・齋藤(2005,p.301)は2003年時点で財団が「管理する不動産数」として「6,897」という数を示している。2011年2月の聞き取りでは,およそ8千という数字が聞かれた。ここでは,こうした数字それぞれの算定根拠は追及しない。いずれにせよ,1970年代以降,戸数の増加ペースは鈍化したといえる。
43) ただし,ここで説明している内容はあくまでも原則論である。中城・齋藤(2005,p.303)は,「土地建物一体で1不動産とする英国では,リースホールダーが実質的に建築費を負担する賃貸方式(Building Lease)であっても,概念的に建物は土地の一部としてフリーホールダーの所有に属する。その時期については異説があるが,遅くともリースホールド期間が満了した時点ではこの状態に帰趨する」と含みをもたせた表現をとっている。
44) 条件を満たしたリースホールダーは,フリーホールドを強制的に買い取らずに,契約満了時にリースホールドの更新を求めることもできる。総じて1967年法が導入した制度は「居住の継続性が重視され」ていた(中城・齋藤,2005,p.304)。
45) 「市民アメニティ法」,「環境保全法」などと訳されることもある。
文献
- 岩下繁昭(2010):セルフビルドを支えるシステム.建築雑誌(社団法人日本建築学会), 125(通巻1605), pp.26-27.
- 齋藤広子・中城康彦(2009):英国における中古住宅売買の取引制度と専門家の役割.日本建築学会技術報告集,15(29),pp.301-304.
- 下総薫(1971):美しき村ボーンビル.住宅(社団法人日本住宅協会),20(2),pp.54-62.
- 月尾嘉男・北原理雄(1980):『実現されたユートピア』鹿島出版会,249ps.
- 椿建也(2007):大戦間期イギリスの住宅改革と公的介入政策 ―郊外化の進展と公営住宅の到来―.中京大学経済学論叢,18,pp.79-122.
- 中城康彦・齋藤広子(2005):イギリスにおける居住用リースホールドの買取り.日本建築学会研究報告集 II, 建築計画・都市計画・農村計画・建築経済・建築歴史・意匠 (76),301-304.
- 橋詰直道(2000):イングランドにおけるガーデン・ヴィレッジとガーデン・サバーブ.駒澤地理,36,pp.55-78.
- Bradley, John (2008): Cadbury’s Purple Reign: The Story Behind Chocolate’s Best-Loved Brand. Wiley, x+342ps.
- Chinn, Carl (1998): The Cadbury Story: A Short History. Brewin, 116ps.
- Harrison, Michael (1999): Bournville: Model Village to Garden Suburb. Phillimore, 272ps.
(謝辞等は完結時に改めて掲載する。本研究は,2010年度-2011年度の東京経済大学個人研究費の一部,および,2010年度の東京経済大学個人研究助成費(10-28)「先駆的な事業所主導型の田園郊外住宅地「Bournville」の歴史と現在の景観」を用いた。)
////社会経済地理学/地域研究/地誌////
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