コラム,記事等(学会誌等に寄稿されたもの):
2010:
IAMLモスクワ大会に参加して.
IAML日本支部 Newsletter(国際音楽資料情報協会日本支部),40,p.7-10.

IAMLモスクワ大会に参加して

山田 晴通(東京経済大学)

 本来、図書館司書でも、音楽学者でもない私がIAMLに参加することになったのは、今から7年近く前に、RILM日本国内委員会に関わってほしいと松下鈞さんから依頼されたのがきっかけだった。当時、RILMでは、ポピュラー音楽関係の採録を強化したいという考えがあり、日本ポピュラー音楽学会(JASPM)で松下さんと多少のご縁があった私に声がかかったという経緯だった。こうして2004年以来、IAMLから選出される形でRILMの仕事に関わってきたが、正直なところIAMLについては、その何たるかを十分に理解しないまま、幽霊会員状態が続いていた。RILM日本国内委員会の仕事には、しばしば欠席しながらも年数回は参加してきたが、IAML日本支部の研究会には数年に一度も参加しないという体たらくであった。
 そんな状態の中で、思いがけず、IAMLモスクワ大会で日本のポピュラー音楽事情について報告をしてほしいという依頼が春先にやってきた。幸い、勤務校から旅費等の支援を得られる見込みがあったので、またとない機会と考え、参加することにした。報告の下敷きに出来そうな内容は、ここ数年来、授業の中で取り上げてきたが、正味30分足らずという限られた時間で英語の報告をするとなると、やはりいろいろ無理が出てくる。言葉足らずを承知で、かなり強引なまとめ方で百年以上の歴史を総括する報告の予稿を送り、さらに4月から6月にかけて、授業の合間を縫って読み上げ原稿を準備した。
 今回の出張は、はじめてのIAML大会への参加というだけでなく、私にとっては初めてのロシア行きであり、事前の準備でもまごついたり、いろいろな方々にご迷惑をおかけすることがあった。普段の海外渡航では、航空券は早めに取っても、宿は余り事前に抑えないのがいつものことなので、ついついのんびり構えていたのだが、ビザが厳しいロシアに関してはそうはいかないと藤堂雍子さんにメールと電話で促されて、ようやく旅の手配をはじめるという状態だった。しかも、今回は家内も連れて行くこととなり、今大会に日本から参加した藤堂さんや、荒川恒子先生には、何から何までご配慮をいただくばかりであった。
 実際に渡航し、大会が始まってからは、大会運営の微妙な不手際に時に戸惑いながら、また、外食その他モスクワの物価の高さに閉口しながら、それでも何とか日程をこなしていった。今回の大会日程は6月27日(日)から7月2日(金)までだったが、初日は受付と式典が中心で、月曜日から各種の発表が行われ、私が報告することになっていた公共図書館部会のセッションは火曜日だった。この絶妙な日程のおかげで、月曜日に他の発表の様子を見て雰囲気を掴み、火曜日に自分の報告をさっさと済ませ、その後は心置きなく大会行事を有意義に楽しむことができた。というわけで、以下では、まず自分にとって印象深かった発表や議論を、大会日程の順序に従っていくつか紹介し、最後に、自分がどんな報告をしたのか、概要をご紹介して参加報告の責を果たしたい。

 まず、初日の29日(日)には、受付を済ませた後は、役員会などはあるものの、一般参加者向けには開会の式典くらいしかプログラムは無い。開会式の後には、混声合唱があり、ロシアの伝統的な作風のものからモダンなものまで多様な曲を取り上げ、曲ごとに歌い手が立ち位置を変えるという工夫も見せながら、大いに楽しませてくれた。
 実質的な研究発表がはじまった28日(月)には、オープニング・セッションに次いで行われた11時からのセッションで聞いた、オーストラリア・メルボルン大学の女性司書による発表が、大変印象に残った。内容は、19世紀オーストラリアの裕福な家庭婦人で、後年オーストラリアにおける女流画家の先駆として評価されるに至った女性が、自分の気に入った楽曲を手書きで写譜して構成した楽譜集の内容分析である。当時のオーストラリアはヨーロッパ文化圏の辺境であり、その社会において裕福な境遇の中で文化的エリートたりえた人々が、どのようにヨーロッパ(あるいは英本国)の音楽文化を摂取していたかという観点と、一定の芸術的才能に恵まれながら、それを職業とすることも公の場で披露することもできなかった当時の有閑階級婦人の立場に向けられたジェンダー論的視点が、議論に立体的な奥行きを与えていた。次いで、同じ時間帯に別会場へ移って聞いた大英図書館の男性司書による、19世紀末から20世紀初頭に刊行されていた演奏会プログラムのリプリント誌についての報告は、不勉強でそもそもそのようなメディアが存在していたことも知らなかった者としては大いに勉強になったし、その調査手法が専門図書館のネットワークを生かしたものであったこともIAMLらしい報告だと感じた。午後の著作権委員会のセッションでは、女性委員長による、英国の作曲家ディーリアス(1862-1934)を具体例にした長めの報告を聞き、改めて、国ごとに複雑な状態になっている著作権の適切な処理の困難さを再認識させられた。また研究発表ではないが、午後遅くのセッションで行われた各国支部の状況報告の中で日本からの報告に立った藤堂さんが、日本近代音楽館の閉鎖について時間を割いて説明されていたことも印象的であった。
 29日(火)の朝は、直後の自分の報告のことで頭がいっぱいという状態で、自分の報告と同じ会場で行われていたプレナリー・セッションへ行った。ここでは、正直なところ十分に議論をフォローできなかったのだが、現在のIAMLが、情報化への対応、各国における図書館組織の再編合理化への対応、世代交代といった課題を抱えていることを、はっきりと認識できた。自分の報告は、午前中後半に行われた公共図書館部会のセッションの3本の報告の最後だったが、自分の報告の直前に行われた、パリ音楽資料館の女性司書の報告も、大変興味深く、印象に残るものだった。所属館の収蔵品によりながらシャンソンの歴史を辿るという企画展の経験を踏まえた報告だったが、特に印象深かったのは、彼女が英語で報告したことと、同館のシャンソン関係の収蔵品の中核に日本人が寄贈したコレクションがあるという点であった。IAMLは英独仏はじめヨーロッパ諸語による報告を認めているが、英語で報告した方がより広い聞き手にメッセージが届く可能性があることは言うまでもない。もちろん、特定の作曲家に言及する場合などには、専門家同士でより深い議論をするためにそれぞれ適切な言語を用いるべきときもある(帰国後に樋口隆一先生にうかがったところ、やはりテーマによって英独語を使い分けられるということだった)。シャンソンについての報告を敢えて英語で行ったという姿勢は、ポピュラー音楽につながるテーマを集めたセッションの趣旨をよく汲み取るものであったと思ったし、説明もわかりやすいものだった。もう一つ驚かされたのは、同館のシャンソン関係資料の中核に「薮内コレクション」が置かれているという事実であった。これまた不勉強で、全く承知していないことであった。このコレクションの寄贈者である薮内久は、日本でシャンソンが最もポピュラリティーを持っていた時代を生きた熱心な愛好者であり、『シャンソンのアーティストたち』(1993)という貴重な参考図書を残している。そのコレクションがシャンソンの母国フランスで専門図書館の中核コレクションとなっているという事実には感動を覚えたが、同時に、これが日本に残らなかったことをどう理解すべきか、複雑な思いにもなった。午後は、モスクワ市内北部のボゴリュゴフ芸術図書館を見学し、さらに夕方には、国立図書館の一角にあるパシュコフ・ドムという古い邸宅の一部を利用したホールで、古楽器アンサンブル「プラトゥム・インテグルム・オーケストラ」を鑑賞した。
 30日(水)朝は、RILMの実務会議があった。今回はRILM日本国内委員会からは他に参加者がいない状態なので、RILMの全体像も余りよく分かっていないまま、とりあえず議論に参加した。この後に出た音楽教育機関図書館部会のセッションは、こちらの理解力の不足で、印象に残る発表には出会えなかった。午後のエクスカーションは、一般的な観光として赤の広場周辺やクレムリンを見学した後、国立図書館音楽部門を丁寧に案内してくれた。ここでは、あちこち思わぬところで日本盤レコードを目にした。
 7月1日(木)午前の最初は、放送・オーケストラ部会のセッション出たが、やはりかなり難しく、英語以外でのやり取りも多くて理解できず。座席も途中退出できない長椅子式で、かなりしんどかった。体調の問題もあったが、午前の後半と午後のセッションは専門性が高くてついていけないと判断し、あっさりギブアップした。夕方からは、モスクワ音楽院の図書館音見学と、小ホールでの演奏会に参加した。演奏会の演目は前衛作品ばかりだったが、ユーモラスな作品もあり、けっこう楽しめた。
 最終日の2日(金)午前は、前半で民族音楽学の録音記録の蓄積をデジタル・データ化する話と、保存媒体としてのCDの耐久実験の報告を聞くが、さして印象に残らなかった。後半は、研究図書館部会のセッションに参加したが、このセッションは総じて今大会で最も印象深いセッションであった。最初に南デンマーク大学の新しい民族音楽専門図書館の話が同館の男性司書から報告されたが、これは分かりやすい発表だったものの特段の感銘は受けなかった。次いで、エストニア国立博物館の女性司書が、エストニア出身で、帝政期ロシアで最も成功した楽譜出版事業者P・J・ヨルゲンセン(1836-1904)の軌跡を、同館の蔵書を通して検討するという報告があり、大変興味深く聞いた。ヨルゲンセンの事業はソ連時代のメロディアに繋がったそうだが、個人についての情報はロシア語で伝記が出ているものの、英語で読める資料はまだ限られており、貴重な報告を聞けたと思う。セッションの最後は、ウィーン市立図書館の男性司書が、オーストリアの軽音楽系の作曲家ルードヴィッヒ・グルーバー(1874-1964)が第一次世界大戦の捕虜としてシベリアにいた時期の音楽活動を、同館蔵のグルーバーの個人文書などを用いて追った報告で、これまた大変興味深く聞くことができた。このセッションでは、IAMLの醍醐味を味わった感じがした。午後の総会にも参加したが、議事は滞りなく進行し、最後に次回開催地であるダブリンの紹介ビデオが上映され、日程が全て終了した(この日の晩餐会は、予算の関係もあり欠席した)。
 以上、全日程の経験を通して、IAMLの本質の一端に触れ、浅薄だった理解が一挙に深められたように思う。また、こうした経験は、本来なら30代くらいまでに第一歩を踏み出しておくべきであろうとも感じた。その意味では、今回大会への日本からの参加状況は、人数、世代ともに課題があったと言わざるを得ない。

 さて、後回しにしておいたが、私自身の報告は、洋楽導入期以降の日本のポピュラー音楽の歴史を30分足らずで説明するという極めて乱暴なものであった。出席者もさほど多くはない会場で、プレッシャーもあまり感じなかったが、ひとたび話し始めると後は夢中で原稿を読み、パワーポイントを操作した。
 この発表では、明治期以降の日本が、それぞれの時期に様々な形態の西洋音楽を導入しながら、それが日本独自の形態に風土化して定着し、そうした層が積み上げられて現在のポピュラー音楽文化の形成に至る、というモチーフを提示した上で、まず、伊澤修二やメイソンによる教育の場への洋楽導入とヨナ抜き五音階の成立を説明し、次いで、1903年のガイズバーグ録音など初期録音に言及し、民謡概念の導入と民謡の収集・整備→新民謡の創作→流行歌という流れを示した。さらに、より直接的な西洋音楽の導入の試みとして、浅草オペラの折衷的な性格を指摘し、関東大震災後のレコード業界の再編成と5社体制の成立によって、新民謡→流行歌と並んで、アメリカやヨーロッパのポピュラー楽曲など洋楽の翻案導入が重要になったことを説明した。その後、戦時体制下では洋楽が禁圧されたが、戦後占領期には米軍関係の音楽需要などを契機に、大きな揺り戻しがあり、日本のミュージシャンたちの間に洋楽が浸透するとともに、やがて高度成長期の国内市場の拡大という状況の中で洋楽で鍛えられたミュージシャンたちの演奏が、日本人のポピュラー音楽に対する審美観を形成していったと考えられることを示した。さらに、ロックンロールとフォークソングのそれぞれの導入期において、洋楽由来の概念が、意味のズレを抱え込みながら日本語の中に定着していった過程についても簡単に言及した。結びには、日本に風土化した洋楽由来の音楽が、元々の洋楽とも異なる日本独自のものとして、他国の音楽文化に何らかの影響を与えるような可能性は開かれているのか、という問いを置き、報告を閉じた。
 聴く側の人数は少なかったし、質問もさほどでなかったのだが、セッションの終了後に、報告内容についてというよりも、日本の音楽に関心がある人たちにいろいろ質問をされ、一生懸命に答えた。また、後で会場内を歩いていて、すれ違った(こちらは誰だか認識していない)参加者に「いい発表だったよ」と声をかけられることが2回ほどあったので、そこそこの発表にはなっていたのではないかと思っている。ただし、この発表を補強した完成原稿を8月の締切までに送ることは出来なかったので、FONTESにはこの報告のフルペーパーは掲載されない。機会があれば内容を補強して、勤務校の紀要に寄稿しようかと考えている。

 なお、今回のモスクワ行きの旅日記はネット上で公開しているので、関心のある方には、そちらも併せてご覧いただければ幸いである。
http://camp.ff.tku.ac.jp/yamada-p/rem/xdia/europe/100626.html



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