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バートン・クレーン(Burton CRANE, 1901-1963):前半生の伝記的再検討.
日本ポピュラー音楽学会・2008年度大会(JASPM20)(成城大学).
バートン・クレーン(Burton CRANE, 1901-1963):前半生の伝記的再検討
山田 晴通(東京経済大学)
昭和初期の日本で『酒がのみたい』(1931年)などをヒットさせた米国人歌手バートン・クレーン(Burton CRANE, 1901-1963)について、報告者は以前、日本語の資料を中心に得た知見を整理した(山田, 2002)。その後、2006年に米国各地で現地調査の機会を得て、新たに多数の資料に接し、前稿の段階では不明だったこと、誤りであったことなど、クレーンの伝記的事実について、様々な内容が明らかになってきた。
今回の発表では、クレーンの生い立ちから、彼が受けた教育、最初の滞日期間(1925-1936)までの前半生を射程として、伝記的事実の再確認(修正)をしながら、当時の社会的背景を考慮しながらクレーンの生活経験を再構成していく。
クレーンは、牧師であった父親の仕事の関係で幼少期は各地を移り住んだが、1908年には実母を病で失った。1910年に父親とニュージャージー州エリザベスへ定着するが、直後に父親が再婚し、以降、異母弟妹が次々と生まれる中で、ある意味では孤独な少年期を過ごした。この少年時代に、クレーンは父親が教会の業務用に所有していた印刷機を使って自分の手作りで「新聞」を作り、アマチュア・ジャーナリズム趣味の世界に入っていったが、やがて父親は少年の度を超した熱中ぶりを憂慮し、こうした活動を止めさせた。
クレーンは、全寮制高校を経て、父親の母校プリンストン大学へ進んだが、卒業はせずに2年で中退する。一年ほどニューヨークの建設会社に勤めた後、地元エリザベスの地域紙を皮切りに、短期間のうちに新聞社を渡り歩き、1923年にAP通信フィラデルフィア支局で働くようになり、本格的なジャーナリストとなった。
1925年、『the Japan Advertiser』紙に招聘されたクレーンは、幼なじみのエスターと予定を繰り上げて挙式し、日本へ渡った。来日後のクレーンは、日本人助手の助けを借りながら、取材活動を通して多数の要人と進行を結び、他方では夜の街にも出かけて日本語を鍛えた。当時のクレーンの住まいは、米国大使館に近い赤坂榎坂町にあった。クレーン夫人エスターは、長女シルビアの出産後、1929年以降は『the Japan Advertiser』紙の社交欄記者となり、さらに1932年にジョセフ・グルー大使が着任すると大使夫人の私設秘書を務め、当時の在京外交団を中心とした社交界に大きな影響力を持つようになった。
クレーンの歌手活動は、1931年から1934年にコロムビアに残された録音の他、1936年に上野まり子とのデュエットによるSP盤両面のテイチク盤がある。クレーンは、実演も行い、大阪松竹劇場や日比谷公会堂の舞台にも立った。クレーンはまた、この最初の滞日期から、演劇の演出や戯曲の執筆に熱中し、この演劇への情熱は、その後も終生続いた。
2.26事件のあった1936年の秋、クレーンは単身米国に戻り、『ニューヨーク・タイムズ』紙に職を得て、日本に残っていた妻と娘を呼び帰した。クレーン夫妻には、戦争への危機が切迫しているという意識はなかったが、後から考えれば賢明な帰国の決断であったと後年回想している。帰国したクレーンは、経緯は不明だが、1937年2月にニューヨークからの日本向け生中継ラジオ番組で日本語MCを務めた。
戦前における歌手クレーンの活躍は、(米国風のポピュラー音楽、という意味での)「ジャズ」ソングの導入に拍車をかけ、二世歌手ブームへの突破口となったことで、後年にも様々な影響を残した。しかし、クレーンの歌自体は、彼の最初の帰国後、日本が戦時体制へ転換していく過程で、歌い継がれなくなり、やがて忘れられていったのであろう。
関連論文:山田晴通(2008)
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