都市論という領域は、諸学の垣根を超えて広がっている学際的な性格をもっている。さらに、都市論は必ずしも純然たるアカデミズムの対象ではなく、より自由に様々な立場からの参入が容易な、知的刺激に満ちた場としてしばしば「ブーム」になってきた。日本の都市についても、とりわけ、東京を論じた出版物は飛び抜けて数が多く、東京論はそれ自体が一つのジャンルと呼べる状況にあり、既に評価が確立された古典的な書物もかなり蓄積されている。
しかし、東京以外の日本の都市についての都市論の蓄積や現状はどのようなものだろう。例えば、横浜や札幌のように、そもそもの歴史が短く、白紙に筆を入れるように都市発展の過程を論じやすい場所は、それなりに基礎的事実の把握を可能にする研究の蓄積もあり、また、近代の開港地、開拓の拠点という特性が、魅力ある議論の切り口を提供する。それでも、東京に準じる水準で、十分に論じられていると言えそうな都市は、ごく少数に限られているように思う。
関西を拠点とする三人の人文地理学徒の共同作業の成果である本書は、モダン都市、都市計画、盛り場、疎開、空襲、復興、スラム、インナーシティといったキーワードを取り上げながら、近代における京阪神三都の都市形成を、公権力とそれに対抗する諸々の抵抗の空間的相克の過程として描き出したものである。ある意味では、東京論に偏った都市論を、京阪神の経験を踏まえて、批判的に乗り越えようという一つの試みとして読むこともできる。
関西の諸都市については、近年では、例えば橋爪紳也の一連の著作に代表されるような「阪神間モダニズム」的な観点からの魅力的な都市論が一方に蓄積されており、単なる学術的関心の範囲を超えた読者を獲得している。この文脈に引き寄せて述べるなら、本書は、その先へさらに何歩か踏み出していくための道標となる、地理的想像力を刺激する案内書のようなものである。
地理学にとって、地図は重要な道具である。地図は、そこに記載された事物の空間的布置をデータとして読み取っていく資料(史料)として、地理学徒の思考の対象になる。しかし同時に、資料としての地図の選択、編集、加筆、あるいは描きおろしは、地図が彼らの思考の表現手段でもあることを示している。史料として提示される地図、重ね合わされ、加筆された地図、新たに描かれた本書オリジナルな地図等々、多数の図幅が本書には詰め込まれており、本文とともに、多数の地図に目を走らせることで、読者はこの「読図」と「描図」の間の往還をスリリングに追体験することができる。
残念ながら、地図はA5判の本書の大きさという制約の中におかれ、中には不鮮明なものも散見される。写真についても同様だ。しかし、こうした制約にもかかわらず、無数の地図表現を通した思考の追体験を通して、読者の地理的想像力は大きく翼を広げることになるだろう。
共著者たちは皆、人文地理学分野の中では社会科学的な手法に通じ、批判理論に深く影響された「批判地理学」と称されるスタイルの書き手であり、近代都市形成の過程における、権力と抵抗の対抗関係を敏感に捉える観点を共有している。本書で、都市を語るテキストの視点としてしばしば選びとられるのは、工場労働者、俸給生活者といった小さな民の視点であり、あるいは日雇い労働者、在日朝鮮人、被差別部落民、沖縄出身者、等々の社会的弱者、ないし抑圧される側の視点である。そうした、いわば「虫の眼」からの都市をめぐる言説を、権力側の言説と噛み合わせていくことで、本書は権力と抵抗とが編み上げてきた都市の具体的な姿を、より生々しく、動態的に描き出している。それはまるで、『メトロポリス』の寓話が、変奏を重ねながら、繰り返し繰り返し語られるかのような印象を与える。
三人の共同執筆によって成った本書は、単なる論文集ではない。また、実際に大学教育の場面で教科書として使用することも意識されているため、通常の章節構成に加えて、「特論」と銘打たれた独立した読み切りの補論を各章末に置くなど、読み易さへの配慮もされている。それでも、関西での生活経験がない読者なら、最初のうちは頻出する地名のイメージが捉えきれずに、読み進むのに難渋する場面もあるかもしれない。
書物というのは、とりあえずは最初から最後に向かって読み進むというのが一つの約束だ。さもなければ、事典類のように、必要な箇所だけを拾い出して読む参考図書のような姿が普通である。しかし、この本は、行きつ戻りつ、幾重にも壁塗りをするように、いくつもの章節、補論の記述を重ね合わせながら、理解を深めて行くべき書物なのであろう。
要するに、本書は、地図を読図するように「読む」べき、深みをもった一書なのである。
(東京経済大学・メディア論)
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