雑誌論文(その他):2007:

「バレンタイン・チョコレート」はどこからきたのか(1).

人文自然科学論集(東京経済大学),124,pp41-56.


このページの図1は、原論文そのままではなく、htmlで表現しやすい形に改めております。(2007.11.14.)

本稿は、pdfファイル形式で、こちらのページから入手できます。

「バレンタイン・チョコレート」はどこからきたのか(1).

はじめに
1. 「バレンタイン・チョコレート」の成立についての通説
2. モロゾフによる1936年の広告とその後の取り組み
3. 1950年代における散発的な取り組み
4. メリーチョコレートカムパニーの取り組み
5. 『女性自身』1960年2月17日号をめぐって


文献


「バレンタイン・チョコレート」はどこからきたのか(1)

山田 晴通   




はじめに

 いわゆる「バレンタイン・チョコレート」の習慣,すなわち,2月14日の「聖バレンタインの日」(St. Valentine’s Day:以下,「バレンタインデー」)に,女性から男性へ,恋愛感情の告白(あるいは好意の表明)とともに,チョコレートを贈る,という習慣は,今日ではすっかり定着したものとなっている。元々欧州には,この日に身近な者同士で贈り物をする慣行があり,「バレンタイン・チョコレート」は,それが日本に紹介されて変質したものであることは間違いないようだ。しかし,日本におけるバレンタインデーの世俗的習慣は欧州では見られない日本独自の特徴をもっており,また,たかだか半世紀ほどの歴史しかない。
 バレンタインデーに何らかの贈り物をする習慣は,欧米のみならず他のアジア諸国などにも広まっているが,特に「バレンタイン・チョコレート」が特別な意味をもつのは日本起源の現象といってよい。日本以外では,韓国や台湾で日本文化の影響から一部に「バレンタイン・チョコレート」の習慣があるが,その内容には日本との大きな差異も認められる。
 しかし,管見する限りでは,「バレンタイン・チョコレート」の習慣が日本で定着してきた過程について,詳細に検討した決定的な記述は存在していないように思われる。本稿は,最終的に,「バレンタイン・チョコレート」を軸とした日本におけるバレンタインデーの世俗的な習慣の成立と定着の過程を包括的に記述することを目指す作業の一環として,文献資料と聞き取りに依りながら,事実関係の整理を試みる覚え書きである。
 (今回は,概ね1960年頃までの状況について取り上げる。)

1.「バレンタイン・チョコレート」の成立についての通説

 本稿と同様の問題意識に立った先行する記述の中で,最もバランス良くまとめられた学術的記述といえるのは,小笠原祐子(1998)『OLたちの<レジスタンス>』の第3章バレンタインデー(pp89-113)前半の記述である。小笠原の関心の所在は,もっぱら「義理チョコ」の習慣を踏まえて,職場のOLたちがどのような社会的行動,あるいは象徴交換をしているのか,という分析にあるのだが,この章の前半の大部分は,「日米バレンタインデー比較」(pp92-96)と,「日本型バレンタインデーの起源」(pp96-103)の検討に当てられており,基本的な事実関係の検証を進める出発点として有益な視座を提供している。そこで,まずこの小笠原の整理を導きの糸として,従来からの通説を確認していく。
 小笠原は,独自のインタビュー調査(pp90-91)を踏まえて,日本と米国のバレンタインデーにおける贈答行為を中心とした習慣の違いを検討し,「アメリカと異なる日本のバレンタインデーの特徴をまとめると,(1)贈答品としてはチョコレートに執着,(2)女性から男性への一方通行的贈答,(3)職場でのさかんな贈答行為,の三点に集約することができるように思う」と結論づけている(p94)。日本人が「バレンタインデーは,女性が男性にチョコレートを贈る日」と回答するのに対し,米国人は「配偶者や恋人に愛を表す日」と答える,という観察が日米の対比を明瞭に示している(pp95-96)。
 このような「日本型バレンタインデー」の起源について,小笠原は,チョコレートメーカー大手五社(江崎グリコ,不二家,明治製菓,森永製菓,ロッテ)と,「贈答市場に特化」している三社(芥川製菓,メリーチョコレートカムパニー,モロゾフ)を選んで,質問票を送付して回答を得(p90),その結果を踏まえた説明をまとめている(pp96-103)。小笠原が言及している基本的なイベントと,小笠原のコメントの概要は,次の通りである。
 モロゾフが,1936年に英字新聞The Japan Advertiser にバレンタインデー関連で広告を出した。同社はまた,戦後1952年から1953年にかけてデパートでバレンタインデー用ギフトの販売促進をした。(p96)
 不二家が,1956年に小売店へバレンタインデーの販売促進を指示した。ただし,社内報『不二家マンスリー』に掲載された宣伝文などからは,「不二家の初期のバレンタインキャンペーンにおいては,贈る側も贈られる側も今日に比べて,より広い範囲の人々が想定されていたとい想像することができる。」(pp96-98)
 メリーチョコレートカムパニーは,1958年からバレンタインデーのセールに取り組んでおり,これを踏まえてしばしば同社が日本におけるバレンタイン・チョコレートの起源であることを宣伝,広報活動の中で取り上げている。同社の広報等の中に見られるストーリーには内容の異同もあるが,「いずれにせよ,日本で最初に女性が男性にチョコレートを贈る日としてバレンタインデーを宣伝したのは,メリーチョコレートカムパニーに間違いないようだ。しかし,同社の役割をあまり過大視するのは,危険かもしれない。」(pp98-99)
 森永製菓は,「日本で最初にバレンタインデーを商業ベースで大々的に宣伝し」,1960年以降,『女性自身』などに広告を掲載した。これは同社の特定のチョコレート商品を買って応募する懸賞と連動したものであったが,「女性向けの賞品を用意しているところから,女性に対して同社製品の購入を宣伝していると一応考えられるものの,そのようにして購入したチョコレートをどうすべきかについての言及は一切ないのである。森永製菓は,このように一九六六年まで,主として女性をターゲットにバレンタインデーの販売促進を行ったようであるが,成果がかんばしくないので,その後は一時中断したという話であった。」(p99-101)
 小笠原の照会に応じた残りの各社のうち,芥川製菓は,1968年から1969年頃「ハート型の箱に入ったチョコレートを女性の顧客向けに販売し」始めたが,「当時はまだバレンタインデーを「女性が男性に一方通行的にチョコレートを贈る日」とする明確な位置付けがあったわけでなく,どのようにしてこのようなコンセンサスが形成されたのか,わからない」と応じた(p101)。残る三社(江崎グリコ,明治製菓,ロッテ)が,「一九七〇年代後半になって他者に追随」して「この市場に参入したときにはすでに,今日あるようなバレンタインデーが定着していたと言う。」(p101)
 以上の各社の回答を踏まえた小笠原の結論は,次のようにまとめられる。「日本のバレンタインデーは,必ずしも現在の姿が最初からあったわけではなく」,「いろいろな方向に発展していく可能性があった」。「漠然としたはっきりしない宣伝コピーは,消費者のニーズに応じて軌道修正する自由度を企業に与える」戦略であり,「チョコレートを贈る対象」は多様に想定されていた。「しかし,バレンタインデーを日本に紹介し,定着させる上でチョコレートメーカーが大きな役割を果たしたことはまちがいのない事実である。」「さらに言えば,女性から男性への一方通行的贈答行為も,チョコレートメーカーの販促活動と切り離して考えることはできない。」各社の販売促進のターゲットは,ほとんどが女性顧客であったが,「これは当時,チョコレートを店頭に買い求めにくる顧客の圧倒的多数が女性であ」ったからである。「主として女性に対して愛の日にチョコレートを買うことを宣伝したわけであるから,間接的には,女性が男性へ贈り物をすることを奨励したことになる。」(pp101-103)
 要するに,バレンタイン・チョコレートの習慣を軸とした「日本型バレンタインデー」は,チョコレート会社の販売促進活動が生み出したものではあったが,最初から現在のような姿への定式化が意図されていたわけではなく,結果的にそうなってきたものである,というのが小笠原の認識である。
 そこで,以下では,小笠原の照会に応じた各社の事情を,文献資料と関係者への聞き取りに依りながら,より詳細に確認していくことにしよう。


2.モロゾフによる1936年の広告とその後の取り組み

 小笠原(1998, p96)も押さえているように,日本で最初にバレンタインデーとチョコレートを結びつけた新聞広告を出したのは,モロゾフであり,問題の広告が掲載されたのは,英字新聞The Japan Advertiser 1)の1936年2月12日付であった。(図1)
 この広告にはバレンタインデーという表現はないが,広告の掲載日はその直前であり,「あなたのバレンタイン」(「愛しい人」の意)といった表現が盛り込まれている2)
 現在のモロゾフ株式会社は,1931年に神戸モロゾフ製菓株式会社として設立されたものである。もともと神戸トア・ロードで菓子店を営んでいた白系ロシア人フョードル・ドミートリエヴィチ・モロゾフが,事業拡大を期して共同経営者を求めていたところに,神戸商工会議所の紹介で,当時会議所の有力なメンバーであり常議員を務めていた材木商・葛野友槌(1873-1943)が名乗りを上げて出資し,設立されたのが,神戸モロゾフ製菓株式会社であった。初代社長は葛野友槌であったが,最初期の段階から事業の中心となっていたのは,友槌の長男・葛野友太郎(1905-1992)であった。友太郎は戦時中の1942年に父に代わって社長となり,その後も終世同社の経営の指揮を執り続けた。
 戦前の同社の事情を最もよく伝えると思われる資料は,社長自らが筆をとってまとめたとされる社史である葛野(1981)である。これはかなり率直かつ詳細に戦前の事情を伝える記述を含んでいるが,そこにはバレンタイン・チョコレートに関する記述はない。戦後についての記述にも,詳細な年表にも,バレンタインへの具体的な言及はなく,かろうじて「昭和38年のバレンタイン商品」というキャプションの写真3)が一葉掲載されているだけである(p19)。もちろん,The Japan Advertiserの広告についての言及は全くない。刊行のタイミング(1981年)を考えると,既にバレンタイン・チョコレートは一般化していたはずであるし,そうであればこそ1963年時点での商品写真が採用されているのであるが,少なくとも執筆時点での葛野の意識には,戦前の英字新聞への広告出稿が大事であるとは認識されていなかったと考えるべきであろう。
 モロゾフの広告が,The Japan Advertiserに掲載された当時(1936年2月),同社は,会社の経営権をめぐって,モロゾフ家と裁判で争っている最中であった。この裁判は,結局モロゾフ家が敗れる形で和解となり(1936年3月),モロゾフ家は同社の経営から手を引き,「モロゾフ」の名は引き続き同社が占有することになった。
 葛野(1981, p3)はこの間の事情を次のように記している。「昭和9年に到りましてよく外人との共同経営がひき起こしがちなトラブルがおこり,会社創立以来の共同出資者であり技術者であった,フイヨドル・ドミトリー・モロゾフ氏が退社することになり,昭和11年に神戸地方裁判所の和解判決によって完全にたもとを分かったのであります。[改行]その後モロゾフというブランドはひきつづき当社が独占し,技術陣,営業陣すべて日本人になり,資本的にも完全に日本人のみの経営になりました。」  裁判に敗れたモロゾフ家は,その後「モロゾフ」の名を使えないまま神戸で事業を再興し,特に戦後は長く「コスモポリタン製菓」の名で活動したが,2006年に廃業した。モロゾフ家側から見た当時の事情は,ノンフィクションの体裁で執筆された川又(1990)などに詳しい4)
 こうした事情を念頭に置くと,The Japan Advertiserに掲載された広告に,当時,友太郎が責任者となっていた東京・銀座の直営店と,神戸の本社の所在地だけが記載されている点は,興味深い。長く神戸の在留外国人社会で親しまれていたモロゾフ家が経営するトア・ロードの店舗への言及がないのは,係争中だったことの反映であろうが,前年秋(1935年10月)に開店したばかりの元町の直営店への言及がないこと,また通信販売に応じる旨の記載があることを踏まえると,この広告は神戸以外の(主として東京の)在留外国人社会へ訴求することが意図されているものと思われる。こうした事情を考え合わせると,英字新聞への出稿に際しては,モロゾフ家でも,神戸のスタッフでもなく,東京の店舗の責任者であった友太郎が実施的に決断を下したものと推測されるが,これはあくまでも推測であり,裏付けは欠いている5)
 また,小笠原(1998, p96)にみえる「日本人に対しては,一九五二年から五三年にかけて,デパートのセールスカウンターで,主として同社の既存の顧客であった一〇代,二〇代の若い女性が同社製品をバレンタイン用ギフトとして買うよう販促活動を行った」という記述も,葛野(1981)など,他の資料による裏付けはされていない。葛野(1981)には,「翌26年になると,当社もいよいよ本業のチョコレートの生産に重点をおき営業活動も本格化されてきました」「販売先も12店になりました」(p14),「翌27年になりますと,当社のチョコレートの製造も軌道に乗ってきました。4月には砂糖の統制が撤廃されました。砂糖が自由に使えるようになり,チョコレート原料も少しは輸入され,ようやく製造らしい製造,営業が出来るようになり,阪神,大丸等の百貨店,戦前の得意先にも取引が再開され,得意先件数も一挙に70店になりました」(p15),といった記述があり,「一九五二年から五三年にかけて」の時期が,本格的なチョコレート製造の再開期であったこと,「デパートのセールスカウンター」が売り場として登場してきたことは確かであるが,この時点でバレンタインが特筆すべき販促の契機として認識されていたことを示す資料は示されていない6)
 結局のところ,葛野友太郎率いるモロゾフが,戦前の1936年に新聞広告を出してバレンタインデーに向けてチョコレートを売ろうと試みたことは事実であるとしても,それは単発的な取り組みにとどまり,影響力はほとんどなかったと考えてよいだろう。また,このモロゾフの広告には,小笠原のいう「日本型バレンタインデー」の要素を積極的に形成していく要素は,チョコレートという商品を押し出しているということ以外には見られない。さらに,神戸に本社を置いたモロゾフの広告とはいえ,実際に意識されていた市場は,むしろ東京や,通信販売でしかモロゾフ商品を入手できない神戸以外の地域の市場である可能性が高い。
 なお,葛野友太郎の晩年,1984年に,モロゾフは聖バレンタインの縁の地としてイタリアのテルニに注目し,それを契機にテルニ市と神戸市の交流事業を発展させて現在に至っている7)。こうした取り組みを考え合わせると,バレンタインデーなり,バレンタイン・チョコレートの日本への定着過程に関して,日本のバレンタインの起源は神戸である=モロゾフが最初=葛野友太郎の功績,といった趣旨で展開される言説は,「日本型バレンタインデー」が定着したさらに後になってから,1980年代後半以降に流布されるようになったものと思われる。

 1936年2月12日付 The Japan Advertiser 掲載の広告
For Your
VALENTINE
Make A Present of
Morozoff's
FANCY BOX CHOCOLATE
It conveys your thoughtfulness
 in a most graceful way.
On Sale at Department Stores
 and Leading Candy Stores
 Mail orders
Promptly Handled
Morozoff
CHOCOLATE SHOP
   Tokyo Ginza
  Side street of
 Matsuzakaya Store
Phone: Kyobashi 56-4339
  HEAD OFFICE
5-chome Hamazoe-dori
     Kobe
Tel: Hyogo 2111, 1122

(山田試訳)
あなたのバレンタイン(愛しい方)にモロゾフのファンシー・ボックス・チョコレートを差し上げ
ましょう。あなたの賢明さを何よりも優雅にお伝えします。
百貨店や,有名キャンディストアで販売中
郵便でのご注文にも迅速に対応いたします
モロゾフ
チョコレート・ショップ 東京銀座 松坂屋脇入る 電話:京橋局56-4339
本社 神戸 浜添通五丁目 電話:兵庫局 2111, 1122


3.1950年代における散発的な取り組み

 欧米におけるバレンタインデーの習慣,つまり親しい相手への愛情表現としての贈答の習慣に注目して,これを何かの販売促進に使おうという取り組みは,戦後になると様々な業界で散発的に見られた。菓子についての同様の事情があったものと思われるが,その多くは「日本型バレンタインデー」として定式化された「チョコレート」「女性から男性へ」という形に焦点を当てたものではなかった。
 池田文痴菴(1960)『日本洋菓子史』は,社団法人日本洋菓子協会の事業として編纂された大部の著作である。この大著は,この時点における最も包括的で,権威ある歴史記述であったと思われるが,結論から言えば,同書ではチョコレートについてもかなりの紙幅が費やされているにもかかわらず,バレンタイン・チョコレートについての記述は見当たらない。
 しかし,兵庫県の「明石駅前,丸中ベーカリー(丸中パン)・高田員好の談」として,「クリスマス・ケーキや二月のバレンタイン・ケーキも販売に努力しています」という発言が引かれていたり(p998),占領期の「米軍極東兵站部直営・東京アーミー・カミサリー」で「ベーカリー主任」として働いていた木村吉隆の証言を踏まえて「当時,軍から廻わされた洋菓子製造書を基準として彼等は,日々之を製造するに余念がなかった」という製品を列挙する中に「季節品」として「愛のケーキ(二月十四日の“恋愛祭”用には,ハート形が多い)」と記される(p1053)など,バレンタインの日に関連していくつか興味深い記述が盛り込まれている。池田は欧米におけるバレンタインデーの習慣は承知しており,これに絡めた販売促進の試みが,(チョコレートではなく)ケーキ業界の一部にあることも,認識していた。特に,米軍が持ち込んだ仕様書の中に,「恋愛祭」=バレンタインデー用のハート型のケーキがあったという点は,注目される。
 前述の,小笠原(1998, pp96-98)が言及した1956年の不二家の取り組みも,宣伝文に「ハートの型をしたお菓子をお贈り下さい」とあることなどから,菓子類全般を念頭に置いたものであり,チョコレートに特化した取り組みではなかったことが伺われる。
 また,田島(2006, pp51-52)には,「欧米では,恋人だけでなく友人や家族がお互いにカードや花やお菓子を贈り合うこの日を“女性から男性へチョコを贈る日”として最初に仕掛けたのがどこのだれなのかについては諸説ありますが,私の知る限りでは1953年に森永キャンデーストアーが仕掛けたのが最初だと思われます」という記述があるが,この見解は裏付けを欠いており,やや勇み足気味の記述であるように思われる8)
 戦後の日本では,生活文化の様々な側面で,欧米由来の事物や習慣が普及していった。戦前には一般の日本人にほとんど知られていなかったバレンタインデーも,そうした流れの中で注目され,様々な業界が販促活動に利用しようと取り組む中で,結果的に普及が進んだものと思われる。しかし,そこでは選択的な受容というか,受け入れられ易かった要素と,そうではない要素のばらつきがあり,必ずしも「仕掛けた」側の思惑が当たったわけではなかった。様々な思惑から展開された販促活動も,当然ながら,チョコレートのように成功したものばかりではなかった9)
 以降の議論のために,小笠原(1998)が定式化した「日本型バレンタインデー」の特徴「(1)贈答品としてはチョコレートに執着,(2)女性から男性への一方通行的贈答,(3)職場でのさかんな贈答行為」(p94)を踏まえて,本稿では,「日本型バレンタインデー」の特徴を次のように整理しておく。
(a)贈答品としてはチョコレートに焦点が当たる
(b)女性から男性への一方通行的贈答がなされる
(c)(女性から)愛情(好意)の表明ができる(唯一の)機会と認識される
小笠原の(3)を外したのは,本稿の関心から逸れる論点であるからであり,(c)を追加したのは,この特徴が欧米の習慣に由来しない日本独自のものと考えられるからである10)
 ここまでに検討した,戦前のモロゾフの例や,戦後の諸例は,バレンタインデーを販売促進の契機としようする取り組みではあっても,(a)〜(c)を明確に意識したものではなかった。モロゾフの例では(a)は該当するが,他は当てはまらない。また,戦後1950年代のチョコレートの顧客が既に女性中心であったことを踏まえ,結果論として「間接的には,女性が男性へ贈り物をすることを奨励したことになる」(小笠原, 1998, p103)として,(a)(b)が妥当するように思われるケースでも,(c)の要素が欠落していては,「日本型バレンタインデー」の肝要な部分は未完成だったと考えるべきだろう。


4.メリーチョコレートカムパニーの取り組み

 前述のように,小笠原(1998, pp98-99)は,「いずれにせよ,日本で最初に女性が男性にチョコレートを贈る日としてバレンタインデーを宣伝したのは,メリーチョコレートカムパニーに間違いないようだ。しかし,同社の役割をあまり過大視するのは,危険かもしれない。」と述べている。これは,贈答用チョコレートの専業メーカーである同社が,1958年以降,バレンタインデーの販促活動に継続的に取り組んだことが客観的に疑う余地がないこと,しかしながら,当時,規模の上では大手とはいえなかった同社の広告・広報力を考慮すると社会的影響力は限られたものであったと判断されること,などを踏まえた記述である11)
 メリーチョコレートカムパニーは非公開企業であり,現在のオーナー社長・原邦生(1935生)は,創業者・原堅太郎(1904-1986)の次男である。原邦生は,多数の著書があり,新聞のインタビューなどメディアへの露出の機会も多いが,以下では主として自伝的な性格をもった原(2004)に依拠しながら,メリーチョコレートカムパニーのバレンタインデーの取り組みについて,確認していく。
 原(2004, p29)は,最初のバレンタインデーの取り組みについて,次のように述べている。「私が大学を卒業する直前の昭和三三年,二月一二日から一四日までの三日間,当社は「バレンタイン・フェア」と銘打ち,新宿の伊勢丹でセールを行った。これは日本で初めての試みであった。[改行]結果はチョコレート三枚とメッセージカードが一枚,売上はたったの一七〇円。惨憺たる数字に終わったわけだが,アイデアを出し,店頭で指揮を執ったのは,アルバイト身分の私だった。[改行]仕事でパリに在勤していた大学の先輩からの葉書で「当地にはバレンタインという,チョコレートと花とカードを贈り合う日がある」と知らされ,私自身,よく調べもせずに,父にセールを提案したのである。それを許した父は偉かった。」12)
 当時の同社は,資金繰りがかなり厳しかったが,「そんな状況を脱する大きなきっかけになったのが「バレンタインデー」であ」った(p40)。「そんなわけで挑戦した二年目の昭和三四年は,単純だが,「愛なのだからハートの形にしよう」と考え,出店していた新宿・伊勢丹で型になるものがないか探したところ,婦人用品売場でハンカチが入ったハート型のケースを見つけ,三つばかり買って会社に持ち帰った。チョコレートを流し込んで冷やすと,なんとかイメージどおりのものができた。これがそこそこ売れたから,その翌年も挑戦した。[改行]三年目は,芸大の学生をバイトに雇って,鉄筆でチョコレートにto〜,from〜と,贈る人,贈られる人双方の名前を彫った,オーダーを受けたその場で名入れをするのだ。これが予想外にヒットして,私はいよいよ手応えを感じた。」(pp40-41)。
 また別の章では「当社の歴史はバレンタイン抜きには語れない。日本のバレンタインデーの歴史も当社とともにあると言っても過言ではない」(p91)と述べた上で,「当初は新宿の伊勢丹のみで実験的にフェアを開催していたが,銀座の松坂屋から「当店でもぜひ」と請われ,また全国の取引先でも同様のフェアを行なうようになったのが,たしか東京オリンピックの直前だった」(p92)とあり,1964年ころになるまで,「バレンタイン・フェア」は新宿伊勢丹だけで行われていたことが示されている。メリーチョコレートカムパニーは,1967年に三越日本橋本店,阪急本店と相次いで取引を開始することが販路拡大の大きな転換点であったが13),「日本で最初のバレンタイン・フェア」(p91)は,それに先んじた時期の取り組みであった14)
 メリーチョコレートカムパニーの主張と,ここまで言及してきた他社との決定的な違いは,前節末で整理した(b)(c)の特徴について,それが自社の創案であると明快に述べているところにある。原(2004)は次のような記述がある。「時代の後押しもあった。出版界では女性誌の創刊ラッシュが続いたころで,昭和三五年には,その先駆けである『女性自身』が二頁のバレンタインデーの記事を組み,当社の商品を紹介してくださったのだ。その後すぐ,こうした女性誌に広告も出した。恥ずかしながら,この広告のために私が考え,打ち出した宣伝コピーが,「一年に一度,女性から愛を打ち明けていい日」というものだった。」(p92),「「女のほうから告白するなんてはしたない」というのが当時の感覚で,男尊女卑の風潮も色濃く残っていた。それだけに,インパクトはかなりのものだったと思う。」(p93)15)。つまり,「一年に一度,女性から愛を打ち明けていい日」という定式化は,メリーチョコレートカムパニーの「バレンタイン・フェア」の取り組みを踏まえて,原によって創出されたというのが,同社の主張である。
 以上で抜粋紹介してきた原(2004)の記述は,それまで様々な機会に原がメリーチョコレートカムパニーを代表して述べてきたことの集大成といった趣がある。同社が,バレンタイン・チョコレートのパイオニアとしての自負をもち,繰り返し広告・広報活動を続けてきた結果,一般的には小笠原(1998)のような学術的な通説よりも,原の,あるいはメリーチョコレートカムパニーの主張の方が,広く流布しているように思われる。


5.『女性自身』1960年2月17日号をめぐって

 原(2004, p92)が指摘するように,1960年当時は週刊女性誌の勃興期に当たっていた。1957年に『週刊女性』(主婦と生活社),1958年に『女性自身』(光文社)が創刊され競争が始まっていた。これに1963年に至って『女性セブン』(小学館)が加わって,現在に至る3誌体制が成立する。
 ところが,原(2004, p92)が言及している,1960年に「『女性自身』が二頁のバレンタインデーの記事を組み,当社の商品を紹介してくださった」というのが何を指すのかは,実は判然としていない。光文社に照会したり,女性雑誌の専門図書館であるお茶の水図書館所蔵の『女性自身』や,当時の他の女性誌を点検したが,この記述にそのまま該当する記事は見当たらなかった。
 もっとも「二頁のバレンタインデーの記事」は,1960年2月17日号のグラビアページに存在した。外国の雑誌用写真を流用したと思しき,白人の男女が写った2葉の写真と,フランスの女性雑誌からの流用とされる短い記事がそれなのだが16),この記事でメリーチョコレートカムパニーの商品が紹介されているわけではない。それどころか,「2月14日は恋のチャンス!」と題されたこの記事には「贈りものをしあう習慣」やファッションへの言及はあっても,チョコレートなり,他の具体的な贈り物についての言及は一切ないのである。また,この号を含め,1960年1月〜2月発行分の『女性自身』にはメリーチョコレートカムパニーの広告も,記事も一切見当たらなかった17)
 この号に出ているチョコレートの広告は,3件あったが,記事中の小さな囲み広告が2件[明治JPチョコレート(p25),中村化成のビタミンチョコレート(p50)]では,バレンタインデーへの言及は一切されていない。しかし,残りの1件,すなわち森永製菓が出した「ゴールド」の全面カラー広告(p33)は,バレンタインデーの懸賞キャンペーンの一環として出されたものだった18)
 女性が微笑みながら板チョコのかけらを口に運んでいる図に,「超・厚型<世界最高水準品>」を謳い当時の森永の主力チョコレート商品だった「ゴールド」が配された図柄は,縦長の頁を90度倒して横長にして見るようになっていた。横長の位置にした際の画面の左上には,「2月14日 St.Valentine’s Day」と記された赤いハートが配され,画面の上部には「バレンタイン デー オトコの子 オンナの子の<<愛>>が芽ばてかなえられる日[改行]チョコレートに手紙をそえれば レイケンアラタカ… 欧米では古くから 若い男女のならわし[改行]アノカタとアナタを結ぶ…愛のギフト」とコピーが踊っている。小笠原(1998, pp99-100)が指摘するように,広告のコピーは「確かに女性にチョコレートを買って男性へプレゼントするよう誘っている」とも読めるが,女性が自分でチョコレートを口にする姿によって,メッセージの趣旨は多義的になっている。
 しかし,この広告を,上述のグラビア記事と連動させると,その意図されているところは明確である。記事では具体的な贈り物は問われていないが,広告はそれがチョコレートであることを明確に示している(a)。女性週刊誌という媒体が訴求対象を女性に限るものであり,そこで男女間の贈答行為が奨励されるとすれば,それは自動的に女性から男性へという一方的な贈答を促すことになる(b)。加えて,記事の中で明確にされている「この日にかぎって女性から愛をささやいてもいいのです」というコンセプトが,広告の中ではあえて曖昧さを残していたとしても(c)のメッセージを伝達することになる。つまり,「日本型バレンタインデー」の図式を普及させるべく,記事と広告の連動が企図されていたことが理解されるのである。
 また,もし,原(2004, p92)が述べるように,「一年に一度,女性から愛を打ち明けていい日」というコピーが,『女性自身』の記事掲載を受けて「その後すぐ」に生み出された原の独創であったとしても,この発想自体は,当時既に一部では共有されていた理解であると考えるべきであろう。この号の記事にある「この日にかぎって女性から愛をささやいてもいいのです」は,原のコピーと同義の文といってよい。
 さらに,さかのぼって紙面を検討すると,『女性自身』誌上では,既に前年1959年の段階において,バレンタインデーについて同様のコメントが見いだされる。1959年2月13日号の「B・Gの日曜コック」は「バレンタインの日のプレゼントに」と題して,ババロアの作り方を解説しているが,そこでは「欧米では,この日に限り,女性から愛を打明けてもよい日と言われています」と述べられている(p40)。また,同じ号の巻末にある,通常号なら「今週のあなたが特にご注意なさること」と題されているはずの運勢欄には「彼へのバレンタインのプレゼントは?」という見出しが掲げられ「2月14日。この日にはアメリカやイギリスでは恋人どうしがハート型の贈り物や恋文をかわす習慣です。また,この日に限って女性から男性にむかって恋を打明けてさしつかえないとか...。」という前振りとともに,男性へのバレンタインギフト案が列挙されており,「ウイスキーボンボンとチョコレート。お二人だけでおあがりなさい。」というチョコレートへの言及も盛り込まれている(p94)。
 以上を踏まえると,(a)の条件を欠いた形で,(b)(c)のような習慣が欧米にあるとする言説(バレンタインデーには女性から男性へ一方的に贈り物の贈与と愛情の告白が行われる,とするような類)は,1959年の段階で既に一部で普及し始めていたといえるだろう。

[つづく]

*本稿は,2005年度東京経済大学個人研究助成費(A)「バレンタイン・チョコレートの習慣の定着過程に関する資料収集と聞き取り調査」の成果の一部である。




1)当時,同紙には,山田(2002)で取り上げたバートン・クレーン(Burton Crane, 1901-1963)が記者として在籍していた。当時の同紙については山田(2002)を参照されたい。なお,ネット上の情報など一部では「神戸の在留外国人向け英字新聞」などといった記述が見えるが,これは誤解であり,当時神戸で刊行されていた英字新聞はThe Kobe Chronicle だけであった。
2)後述(注5)の井上(1993)や,ネット上の情報など一部では,「バレンタインデーに,チョコレートを」と広告した旨の記述が見えるが,これは誤解であり,この広告には day という表現は用いられていない。
3)村山(2001, p31)には,これと酷似した(おそらく周辺をトリミングしただけで同一の)写真が,「50年代に販売されたモロゾフのバレンタイン商品」というキャプションとともに掲載されている。年代の不一致に注意されたい。
4)川又(1984) は,一般向けのノンフィクション作品として執筆されたものであるが,川又(1990) は,これを再編集し,記述を圧縮しつつ写真を追加するなどした社史に近い性格をもつものである。
5)葛野の死後に刊行された文献などに見られる,日本で初めてバレンタイン・チョコレートを提案した功労者として葛野を顕彰する記述が,しばしば勇み足気味であることには注意すべきであろう。例えば,井上(1993)は,「(バレンタインデーに,チョコレートを)という広告を,日本で最初に出した「葛野友太郎」は,神戸に生まれました」と本文を書き出し(p7),以降にも「「葛野友太郎」は,終戦よりもずっと前の,昭和11年に,「バレンタインの日に贈り物を」の広告を出しています。その後に一世を風靡する(バレンタインデー)が,このことで生まれたことは,いまでは,多くのひとが知っています」(p88),「昭和11年,一九三六年に,「葛野友太郎」は,神戸で,英字新聞の「ジャパン アドバータイザー」に,(バレンタインデーに,チョコレートを贈ろう)という広告を出しました。[改行]この提案は戦争で中断しましたが,戦争が終わった後,多くの,お菓子の会社とともに,「葛野友太郎」は,(バレンタインデーにチョコレートを)の運動を続けました。」(p130)といった記述がある。
6)2大阪新聞1980年1月29日付から2月20日付まで,15回連載された「シリーズ企業 知力の集団 モロゾフ」の11回目(2月14日付)の記事は,バレンタインデーについて以下のように記している。「ただ,この日のプレゼントとチョコレートの結び付きは,いつからなのか,はっきりしない。[改行]「日本では,わが社が最初」という大手メーカーはあるが「キャンペーンに取り組んだのは,うちが一番早かったはず」(販促部長・吉田寛三)というのがモロゾフの自負である。[改行]「歳時というものを大事にしていこうということから生まれた発想なんです。この日を,他社に先がけて育てていこうと取り組みはじめて,二十年以上になりますから…」[改行]いまでは,バレンタインデーといえば,すぐにチョコレートを連想。それも,ハート型の商品というのが世間の通り相場だが,このハート型のアイデアも,モロゾフがパイオニア。」記事では,この後,ハート型の容器に入った詰め合わせ商品の紹介が続いている。
 この記事のスタイルは,吉田部長の説明をそのまま伝えるというものであり,発言の検証はなされていない。また,吉田の言及は戦前の広告には触れていない。「二十年以上」というぼかした言い方は,後述のメリーチョコレートカムパニーの取り組みより早かったことを示唆したいとも取れるが,「大手メーカー」という言及は不二家を指しているようでもあり,意図は曖昧である。(メリーチョコレートカムパニーは,かつてモロゾフで働いていた原堅太郎が創業した,モロゾフから見れば同格の「弟分」という位置付けの企業であり「大手メーカー」として言及するのは不自然である。また,当時の森永はバレンタインについての先駆性を広報してはいなかったが,不二家は「ハートチョコレート」を主力商品としてバレンタイン商戦を大々的に展開していた。)
 また,朝日新聞,2000年9月21日付の日曜版の記事「チョコ贈答,ルーツは神戸」には,戦前の広告への言及に続けて,「戦後も五一年には,ギフト用のハート形ボックスやシンデレラの靴の形のチョコを作った。メリーチョコレートより早い。「赤いハート形など恥ずかしくて誰も買わへんで,と言われましてね」と,松宮隆男相談役(六九)が振り返る。」という記述がある。
 しかし,こうした新聞記事の存在を確認する前に行ったモロゾフへの聞き取りの中では,1950年代(以前)におけるキャンペーンの取り組みについて,これらの記事と整合性のある話は出てこなかった。聞き取りの中で聞かれたのは,戦後間もない1948年頃,ある百貨店からの依頼でバレンタイン・セールをやったが,当時はチョコレートの本格製造は再開されておらず,代用チョコといわれる粗悪なものしかなかったので,セールには他の菓子類で臨んだ,という話が口伝として残っている,ということであった。残念ながら,これを裏付ける資料はないが,村山(2001, p30)には,モロゾフが「戦後の四八年頃にも関西のデパートでバレンタインフェアを実施しましたが,当時はほとんど売れなかったようです」という,この話を踏まえたと思われる記述がある。
 モロゾフが,1950年代(以前)にバレンタイン・チョコレートのキャンペーンに取り組んだ可能性は,チョコレート製造が本格化した1952年以降については十分ある。しかし,葛野(1981)の記述などを考え合わせると,実際に何らかの取り組みがあったとしても,それはルーティーン的な季節行事の一つとしての位置付けを出るものではなく,その影響は過大に評価すべきではないものと判断される。
7)New Catholic Encyclopedia などカトリック関係の事典類によると,伝説上の聖バレンタインの由来には諸説があるが,そのうちの一つは,聖バレンタインを,3世紀に殉教したテルニの司教としている(この人物の生没年,テルニとの関わりについても諸説ある)。1984年にモロゾフが,「テルニ市の聖バレンチノ教会を探し当て」,交流が始まり,1985年から数年間にわたって,モロゾフはテルニへの旅行を賞品としたキャンペーンを行った。1992年にはテルニ市から神戸市に「愛の像」が贈呈された(神戸市立布引ハーブ園内に設置)。ネット上の記載などでは,神戸を日本のバレンタインデー発祥の地と権威づける根拠としてこのイベントがしばしば言及されている。近年も,テルニの聖バレンチノ教会から歌手を招いてコンサートを開催するといった取り組みが行われている。
8)田島(2006)には,1953年の森永キャンデーストアーの取り組みについて,これ以上の具体的な説明はなく,またこれに相当するようなイベントに関する情報は,森永製菓への聞き取りからは得られなかった。田島慎一は「お菓子博士」の異名をとる,長く輸入菓子の業務に関わった人物であるが,1949年生まれであり,1953年の件については実体験に基づいた記述ではない点にも注意すべきであろう。
9)例えば,主要新聞各紙の1960年2月の紙面には,森永の懸賞キャンペーンのほか,バレンタインデーの贈り物の提案をする広告があるが,百貨店は男女別々に,あるいは男女両用の贈り物をいくつも提案していることが多い。また,チョコレートをバレンタインと結びつけて広告しているのは森永だけであったようだ。
10)日本語の百科事典の「バレンタインデー」の項には,「また,この日にかぎり女性から男性に愛情を打ち明けてよいとされている」(『世界原色百科事典』小学館,1966)などと記述する例があるが,英米の代表的な百科事典類や,ネット上のWikipedia英語版(2007年5月6日現在)には,こうした意味の記述は見当たらない。
11)同社は宣伝・広報活動の中でこの事実を繰り返し用いているが,物的証拠などの裏付けがない記述が多く,また,記事によって話の細部に食い違いが生じている部分もあるなど,やや危うい要素があることも,小笠原の判断の背景にあるように思われる。特に,堅太郎社長時代の1980年にまとめられた『創立30周年記念誌』の記述は,邦生社長になった後の2001年にまとめられた『メリー創業50周年誌』や原邦生名義の諸著作とニュアンスが食い違っている部分が多い。例えば,1958年の新宿伊勢丹における最初の「バレンタイン・フェア」の売上は,『30周年記念誌』では「数千円位」(St. Valentine’s Day の頁)とあるが,『50周年誌』その他では,「170円」であったと明記されている(注12も参照)。また,『30周年記念誌』では「昭和38年(59歳)」の項目(1963年,年齢は堅太郎社長の年齢)の最後に「またバレンタインデーのサインチョコレートのアイデアが出された。学生アルバイトを大量に採用。」と記されているが,『50周年誌』にはそうした記述はなく,原(2004, p41)では,「三年目」つまり,1960年の取り組みとして紹介されている。
12)1958年の「バレンタインデー・フェア」の三日間の売り上げ「170円」の内訳について,朝日新聞,2000年9月21日付の日曜版の記事「チョコ贈答,ルーツは神戸」には「三日間で売れたのは三十円の板チョコが五枚と,四円のカード五枚だけだった」とある。この記事は,原へのインタビューも踏まえたものと見えるが,翌年刊行の『50周年誌』やその後の原の諸著作などと,チョコやカードの価格や枚数に不一致が生じているのが,原の記憶違いによるのか,記者の誤解によるのかは判然としない。
 また,在仏の知人からの葉書については,原(2006, p62)でより踏み込んで次のように記されている。「1958年,当時学生だった私に,パリ在住の商社マンの先輩から寒中ハガキが届いた。そのハガキには,「こちら(パリ)にはチョコレートや花,カードなどを贈り合う“バレンタイン”という習慣があります」と書かれていた。[改行]早とちりなところのある私は,その文章の「チョコレート」の部分だけに目がいってしまい,うっかり「ヨーロッパでは女性が好きな男性にチョコレートを贈る」といった意味に取り違えてしまったのである。」「今やわが国の国民的イベントとなった感のあるバレンタインデーは,そんな小さな誤解から生まれた。」
13)三越,阪急との取引が始まる前の状況について,原(2004, p50)は「当時,当社の販売地盤は東日本に偏っており,天竜川から西には取引先がまったくなかった」とし,その理由として父・堅太郎社長がかつて勤務していたモロゾフに遠慮していたことと,「日本橋の三越が,頑として,歴史の浅い当社の商品を置いてくれなかった」ことを挙げ,西日本へ「販路を開拓するには絶対に避けて通れない,大きな壁だった」と述べている。結果的に邦生の営業活動が実を結んで三越との契約に漕ぎ着けるエピソードは,「生涯最良の日」と邦生自身が述べ(pp45-56),また,他の媒体でもしばしば言及されている。例えば,1990年に社内報に掲載されたこのエピソードに触れた文章は,原(2001, pp22-23)に収録されているし,原(2006, pp54-58)にも短くまとめられている。
14)こうした事情もあって,当時の実態については,裏付けとなる資料が乏しい。『メリー創業50周年誌』では,「メリーズバレンタインの歴史」(pp38-43)と題して,「メリーズバレンタインテーマが出来た1965年(昭和40年)からの歴史」が各年のテーマや主な商品によって紹介されているが,1964年以前については,1958年に最初に取り組んだこと,きっかけは在仏の知人から邦生に宛てられた葉書だったこと,「当時はバレンタインを知る人も少なく,たった3枚のチョコレートが売れただけ」だったことが述べられるのみである。また1958年と1959年の商品の写真も示されているが,同社への聞き取りによると,これは後年作成した復元品ということであった。
15)この辺りの記述は,原(2006, pp64-68)でもほぼそのまま繰り返されている。原は別の著書(原, 1988, pp19-20)でも,次のようにバレンタインデーの意義を強調している。「多数のギフト・チャンスのなかに,「男女の想い」にコンセプトを限定し,「想い」の軽重に対応できるチャンスはバレンタイン以外にはない。ここにバレンタインというイベントの大きな意味がある。[改行]欧米では,この日プレゼントするのは,女性から男性へと,必ずしも贈り手と受け手が限定されているわけではない。[改行]しかし,「女と男の想い」に焦点を当てたイベントであることには変わりがない。日本では,女性から男性へ,贈り手と受け手が限定されていることに,このイベントの意味がある。」このように,(b)(c)の重要性を強調しながら,原(1988)では,「一年に一度,女性から愛を打ち明けていい日」という定式化が自身の創案であることは言及されていない。なお,堅太郎社長時代の『創立30周年記念誌』のバレンタインデーの来歴を説明する頁(St. Valentine’s Day の頁)は「日本では,女性から男性への愛の告白の日として伝わり,プレゼントのチョコレートは,ヨーロッパでは花と並んで,プレゼントの女王であることや,チョコレートの甘さ,やさしさは,そのまま,贈り主の魅力のポイントだったから,それらが,渾然一体となって,現在のような,日本的バレンタインとして受け入れられたようです」と極めて客観的な記述の仕方になっている。また,「日本で,こんなに,バレンタインデーが,盛んになったのも,ここ数年のこと」だという認識が示され,「そもそも」当社が「紹介したのが始まりです」としながらも,日本型(日本的)バレンタインデーが自社の取り組みの結果であるとするような論調は見られない。
16)写真については「PHOTO PANA」,記事については「フランスの女性雑誌<マリー・フランス>より」と記載されている。PANA通信社も,Marie France 誌も実在するが,光文社によると,当時の週刊誌の筆法としては,こうしたクレジットを記しながら実は独自の内容を書くというやり方もあったということのなので,注意すべきであろう。なお,この記事の見出しは,目次(p17)では「2月14日は恋のチャンス?」と疑問文になっていた。
17)ただし,バレンタインデー後に刊行されたと思われる2月24日号については未確認。
18)この広告に関する著作権,肖像権等は消滅していないので,本稿には収録しないが,小笠原(1998, p99)には,この全面広告がそのまま縮小した形で掲載されている。ただし,そこでのキャプションには「1960年2月号」とあり「17日」が欠落している。

文献

池田文痴菴(1960):『日本洋菓子史』日本洋菓子協会,1288ps.
井上優(1993):『大正ロマンをチョコレートに包んで―モロゾフ文化を創った葛野友太郎の仕事』オリジン社(主婦の友社・発売), 190ps.
小笠原祐子(1998):『OLたちの<レジスタンス>』中央公論社(中公新書), 189ps.
川又一英(1984):『大正十五年の聖バレンタイン 日本でチョコレ−トをつくったV.F.モロゾフ物語』PHP研究所, 226ps.
川又一英(1990):『コスモポリタン物語』コスモポリタン製菓, 126ps.
葛野友太郎(1981):『半世紀の歩みをふりかえって モロゾフ株式会社小史』モロゾフ株式会社,76ps.
田島慎一(2006):『世界中のお菓子あります ソニープラザと輸入菓子の40年』新潮社(新潮新書),174ps.
原邦生(1988):『この商いで会社を伸ばせ!』かんき出版,182ps.
原邦生(2001):『感動の経営 想いを贈る企業をめざして』PHP研究所,246ps.
原邦生(2004):『社長は親になれ!』日本実業出版社,221ps.
原邦生(2006):『家族的経営の教え』アートデイズ,150ps.
村山なおこ(2001):『ケーキの世界』集英社(集英社新書),221ps.
山田晴通(2002):バートン・クレーン覚書.コミュニケーション科学(東京経済大学),17,pp191-227.


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