2003:雑誌論文(その他)
 掲載誌『FINANSURANCE フィナンシュアランス』のご了解を得て、全文を掲出いたします。ご配慮に深く感謝致します。

 明治生命と安田生命の合併に伴い、旧・明治生命フィナンシュアランス研究所は、2004年1月より明治安田生活福祉研究所と改称されました。

インターネット時代の社会関係

山田晴通          ・


山田 晴通(やまだ はるみち)
(東京経済大学コミュニケーション学部助教授)

略歴
1958年 福岡市生まれ
1981年 東京大学教養学部教養学科卒業
1986年 東京大学大学院理学系研究科博士課程単位取得退学
1986年 松商学園短期大学商学科専任講師、1990年同助教授
1995年より現職

専門分野
社会経済地理学、地域メディア論

主要著書
「地理学におけるメディア研究の現段階―「情報の地理学」構築のために―」『地理学評論』(1986年 日本地理学会)
「JCTVの事業展開と経営的成功の背景」『新聞学評論』(1989年 日本新聞学会)
「フィクションとしての都市」磯部卓三、片桐雅隆編『フィクションとしての社会―社会学の再構成 ―』(1996年 世界思想社)
「ドラマ作りの村―長野県山形村」児島和人、宮崎寿子編『表現する市民たち 地域からの映像発信』 (1998年 日本放送出版協会)
「ポピュラー音楽の複雑性」東谷護編『ポピュラー音楽へのまなざし』(2003年 勁草書房) 他多数

I 「コミュニケーション」とは何か

1 「コミュニケーション」の語源
 筆者の勤め先は、東京経済大学のコミュニケーション学部である。1995年に学部が開設されたときには、日本の大学で初めてのカタカナ表記の学部名であった。その後、いろいろな大学で、さらに耳慣れないカタカナ名称の学部も出てきたので、今となってはそれほど珍しいとも言えないが、それでも、初対面の方と名刺を交換するときなどには、学部名がたびたび話題になる。
 コミュニケーション学部がカタカナ表記になっているのは、コミュニケーション学の日本への紹介・普及が、もっぱら戦後になってからであったことを示している。
 試みに、手元にある戦前発行の英和辞典数点にあたってみたが、communication には、伝達、通達、通信、音信、消息、通報、通牒、連絡、等々の訳語が与えられており、カタカナの「コミュニケーション」という文字は見られない。ちなみに、この時期の英和辞典には、例えば、marketing にも「マーケティング」という訳はもちろんないし、「市場で売買すること」という意味しか与えられていない。また、「エネルギー」や「サービス」は、それぞれ energy や service の説明に用いられているが、後者はもっぱら「給仕」の意味で用いられていたようだ。
 幕末や明治時代の知識層が、共有された知的財産となっていた漢籍の知識を活かしながら、欧米を起源とする外来の概念に対して、創意に満ちた訳語を編み出したのとは対照的に、戦後、主にアメリカから輸入された学問的概念の場合は、カタカナで表記される外来語として定着したものが多い。「コミュニケーション」も、そうした概念の一つであるが、一見わかりやすく思えるカタカナ表記によって、その含意は逆にわかりにくくなっているかもしれない。
 原語の communication を後ろから順に分解していくと、最後の -ion の部分は名詞語尾、その前の -at(-ate から e が脱落したもの)は動詞語尾、その前の -ic は形容詞語尾であり、この単語の後半は、「〜的にすること」、「〜のようにすること」、あるいは、一言で「〜化」と訳されるような品詞の転換を示している。問題は、前半の commun だが、これはこのままの形では英語の単語になっていないが、-e を補えば、フランスなどの「最小規模の自治体」を意味する「コミューン commune」となるし、名詞語尾 -ity をつけて「コミュニティ community」とすれば、いうまでもなく「共同体」ということになる。これらの語源は、ラテン語で「共有財産」「共同体」「自治体」を意味する commune であり、その含意は現代の英語や、ヨーロッパ諸語に受け継がれている。つまり、「コミュニケーション」は「共有化」なり「共同体化」という意味なのである。

2 コミュニケーションによる「共有化」とは
 コミュニケーションが「共有化」だというのは、どういうことだろう。一つの例として、親と子が対面している場面を想像してみよう。親が自分の財布から1万円を出して子に渡せば、子はその1万円を獲得して所有する貨幣を増やしたことになるが、親はその1万円を失って手持ちの貨幣を減らしたことになる。そんなことは当り前だと思われるだろうが、貨幣であれ、モノであれ、あるいは形のない権利のようなものであれ、およそ所有の対象となるものは、誰かに伝えようとすれば、それは譲渡することになる。親は、その対象物に対する自分の所有権を放棄して、それを子に伝えることになる。
 ところが、これが貨幣やモノではなく、知識や情報だったらどうなるだろう。親が子に何らかの知識を伝えようとして、話しかけているとする。もし、この試みがうまくいって親のもつ知識が子に伝わったとしても、親はその知識を失うわけではない。その知識は親子の間で「共有化」されたことになる。知識や情報が共有化されたのだから、「コミュニケーション」が成立した、と言い換えてもよい。
 貨幣やモノなどの場合とは違って、知識や情報は、コミュニケーションによってそれを共有する人々が増えていけば、社会に存在する知識なり情報の総量は増大していくのである。

3 コミュニケーションの社会的意義
 もちろん一方では、個人がもっている知識や情報は、常に少しずつ忘却されて失われるし、その個人が死ねば丸ごと失われてしまう。どんなに博識な人物がいても、その人のもっている知識や情報は、例えば著作などの形で肉体から切り離され、外部化されていない限り、ご本人が亡くなれば社会から消失する。また、ある種の職人技のように、言語化し得ない知識や技量には、そもそも外部化が不可能に近いものも多い。
 そうした知識などの中には、社会の変化の結果、社会的な必要性が失われ、歴史的役割を終えて消えていくべきものだとみなされるものも少なくない。しかし、そうした過去の知識や情報や技量であっても、人類の歴史から永遠に失われることが望ましくないものは多々あるはずだ。
 時間の流れの中で社会が再生産され、その機能が維持されるためには、社会が必要とする知識や情報が、コミュニケーションによってより多くの人々に「共有化」されることで保持され、いつでも機能し得るようになっていなければならない。社会は、世代間の継承を軸とした情報の「共有化」によって組織され、再生産されるものである。その意味で、コミュニケーションは共同体としての社会を支える「共同体化」の試みであり、「共同体」の構築と保持を推進する活動である。

II メディアとメッセージ

1 相対的な関係
 コミュニケーションについて論じるとき、しばしば問題となるのが、メディアとメッセージの関係である。一般的に、コミュニケーションにおいて伝達される知識なり情報は、送り手から受け手へ送られるメッセージであり、そのメッセージを運ぶ仕組みがメディアである。
 注意しなければいけないのは、メディアとメッセージの関係が相対的なものであり、視点の置き方によって何がメッセージで、何がメディアかは、変わってくるという点である。例えば、読者がいま読んでいるテキストは、紙に印刷され雑誌に掲載された文章であり、その意味では、雑誌、ないし紙がメディアとなって、このテキストをメッセージとして運んでいるとみなすことができる。しかし、少し視点を変えると、このテキストは日本語の文字で構成されていて、読者はこの文字列を見て、日本語の音声や意味を読み取っているのであり、テキストはメディアに過ぎず、メッセージはそれが伝える音声なり意味であると考えることもできる。
 メディアとメッセージの関係は、乗り物と運搬物の比喩によって語られることが多いのだが、こうしたメディアとメッセージの関係は、単純化すれば、フェリーに乗り込んだ自動車の運転手の比喩を用いて説明される。この場合、自動車はフェリーに乗っているのだが、その自動車は運転手を乗せているから、自動車は「運ばれるもの」であると同時に「運ぶもの」でもあり、このテキストがメディアであるとともにメッセージであるといえる。

2 自律性と相互依存
 私たちが獲得した知識なり情報は、そのほとんどが(あるいは、考えようによってはすべてが)直接の経験によって得たものではなく、何らかの意味でのメディアによってメッセージとして入手したものである。こうした考えに立てば、メッセージとメディアの関係は、私たちの認識や思考の根幹に深くかかわっていることになる。
 メッセージとメディアは、ある意味では相互に独立する自律的な特性をもちながら、他方では相互に依存し、感応しあう、微妙な関係にある。新しい技術が出現し、新しいメディアが生まれれば、それを用いた新しい形態のコミュニケーションは、メッセージの特性にも新たな側面を与え、遂には私たちの認識や思考をも変えていくかもしれない。
 例えば、あるいは活版印刷術の、あるいは電信や電話の発明が、それぞれの時代において経済活動や社会制度に大きな影響を与えてきたことを想起すれば、こうした構図が現代に限ったことではなく、人類の歴史において繰り返されてきたことであることが理解されるだろう。
 比較的最近の例でいえば、インターネットや携帯電話の普及が、私たちの認識や思考に何らかの影響を与えているのではないか、といった議論は、こうしたメッセージとメディアの関係を念頭に置いたものである。
 もちろん逆に、私たちが日常的にメッセージをやり取りするコミュニケーション活動のなかから、ある種の新しい形態のコミュニケーションへの需要が形成され、それに応じることを課題として新たなメディアが開発されるという方向での変化も当然ありえることだろう。これは、マーケティングでいう「シーズ」と「ニーズ」の問題(新技術から商品を開発して需要を喚起していく方向か、需要に応じる商品を開発すべく新技術の発展を促す方向か)だが、とりえあえずここでは、メディアとメッセージが相互に独立し、自律的に変化(あるいは進化)していく仕組なり可能性をもちつつ、相互に影響しあう関係にあるという点だけを確認しておこう。

3 技術と社会の関係への展開
 前段で述べたように、コミュニケーションは、知識や情報の「共有化」を通じて「共同体」の構築と保持を推進する活動である。そうだとすれば、私たちが生きる現代社会が、一方では情報技術とメディアの面で急速かつ広範囲な発達(あるいは肥大化)を経験し、他方では身近な近隣から「想像の共同体」としての国家なり地球社会に至るまで、あらゆるレベルで社会の変質なり再編を経験しているという状況は、かなりの程度まで、コミュニケーションを中心概念として統合的に分析し、了解することができるはずである。
 新しいメディアが開発され、普及していくことで、私たちのコミュニケーションが変わり、社会関係が変わって、新しい社会への変化が生じていくのかもしれないし、社会関係の変化が進むからこそ、新しい形態のコミュニケーションが都合のよいものとして歓迎され、新しいメディア普及が進んでいくのかもしれない。いずれにせよ、メディアとメッセージの微妙な関係は、技術と社会の関係へと展開されることになる。

III インターネットと携帯電話の急成長

1 インターネットと携帯電話の普及
 バブル経済の崩壊後、1990年代は「失われた10年」となり、その後も景気の低迷が続いている。ポストバブル期といわれる昨今の日本経済について論じることは本稿の射程の外にあるが、そうした経済の全般的な不振のなかでも、広い意味での情報産業の分野では、新しいビジネスが次々と生まれ、急成長する企業や業種、急速に普及するメディアやシステムが現われてきた。
 特に、コンピュータ技術の発展によって、従来アナログ系の技術基盤に載っていた諸々のメディアがデジタル系の技術の下に統合される方向で再編されてきたことは、音楽CDや家庭用ゲーム機器のようなパッケージ系メディアとスタンド・アロン型機器の組み合わせから、一対一のコミュニケーションを支える通信システムなどのコモン・キャリア、さらには通信衛星を介した委託放送事業などのマス・コミュニケーション・メディアまで、広く情報メディア全般に渡って変革をもたらした。そして、それらを統合する場としてのインターネット空間の出現(あるいは一般社会への普及)は、間違いなく1990年代最大の画期的な出来事であった。
 日本におけるインターネットの普及過程については、いくつか算定根拠の異なる推定値があり、各年次における普及率などの具体的な数字にはばらつきがある。一般的には、1990年代前半に環境の整備が進み、1995年が日本におけるインターネット普及の起点となって急成長が始まったと考えられている。一方、移動体通信は、アナログ技術の時代にさかのぼる歴史があり、日本では1979年から自動車電話としてサービスが提供されていたが、その後の普及はなかなか進まなかった。しかし、デジタル技術の成熟によって、移動体通信は急激なコスト低下と爆発的な普及の時代に突入した。
 携帯電話に先行し、個人用の移動体通信機器として普及したのはポケット・ベルだったが、ポケベルは1990年代半ばに1000万台の普及水準に達したが、たちまち携帯電話に乗り越えられてしまう。1987年にアナログ式でサービスを開始したものの、その後ほとんど普及が進んでいなかった携帯電話だったが、1994年にデジタル式が登場すると急成長を始め、1996年以降は毎年1000万台に迫るペースの普及が積み重ねられることになった。携帯電話に加え、機能の面で共通性のあるPHSと合算すると、普及台数は既に7000万台を超えている。

2 インターネット対応携帯電話の普及
 特に、インターネットと携帯電話が結び付き、特定の形式で用意されたウェブ・ページの閲覧やメールの送受信などインターネットを利用する諸サービスへのアクセスが可能になった携帯電話、すなわちインターネット対応携帯電話(i-mode、EZweb、J-SKY)の普及は驚異的なペースで進み、1999年に導入されてから続いた急成長の結果、2003年4月現在で普及台数は6300万台を超えている。今や、高齢者から赤ん坊までの総人口の半数ちかくが、メールの送受信や、ページの閲覧をはじめ、ゲームや着信メロディのダウンロードなど、インターネット経由のサービスにアクセス可能な携帯電話を保有しているのである。
 十年前なら、ポケベルを切るのを忘れていて授業中に鳴らしてしまい顰蹙を買う学生がいた大学の教室には、今では講義などそっちのけで黙々とメッセージの送受信に没頭する学生たちがいる。ごくまれに、マナーモードに切り替えるのを忘れていた学生がいても、流れ出すのは聞き覚えのあるメロディであり、そうした着メロの多くはダウンロードされたものなのだろう。

3 さまざまな技術の携帯電話への取り込み
 アナログ系の技術に対してデジタル系が優越するポイントはいくつかあるが、最も重要なのは情報伝達量を圧縮することが可能なことと、異なる技術の間でデータをやり取りしやすいことの二点である。
 一般の利用者(あるいは大多数の消費者)の観点に立てば、前者は目に見える革新となりにくいが、後者に由来する革新はメディアとのインターフェイスにおいて具体的な変化(あるいは進化)として実感されやすい。デジタル式携帯電話の登場以降、10年足らずの間に、単なる通話からメール送受信へ、さらに画像処理、動画処理へと諸々の付加サービスが積み上げてきた過程では、日本語ワープロやプリクラから、ゲーム機やビデオまで、既存の様々な技術が流れ込んできている。
 マス・メディアの分野では、1980年代以来、放送と通信の融合が大きな流れとなっているが、既に衛星系で実施され、近い将来に地上波でも実施されるテレビ放送のデジタル化は、テレビ放送と広帯域インターネットとの合流へ道を開くものである。既にパソコンは、インターネット・ラジオという形でラジオ放送を取り込んでいるが、これがテレビ放送へと広がっていく可能性も、同様のサービスが携帯電話に搭載されていく可能性も、決して遠い未来のことではない。
 個人用の移動体通信機器としての携帯電話は、近年のデジタル技術の成熟によって個人用の総合情報機器、私たちにとって最も身近なパーソナル・メディアとして、日常の社会生活に無くてはならない存在となり、私たちのコミュニケーション活動を大きく変えてきたのである。

4 新しいコミュニケーション形態のニーズ
 もちろん、一方で携帯電話の急激な普及が進んだこの10年足らずの間、一般家庭へのパソコンの普及も進み、家庭からインターネットへの接続の広帯域化、高速化が進んだことも重要である。パソコンの実売価格は低廉化が進み、買い替えや複数所有の需要も伸びており、2003年3月現在で一般家庭における普及率は6割を超える水準に達している。
 家庭への浸透は、機器操作能力という意味での「リテラシー」の普及と向上につながり、ソフトウェア側がユーザー・フレンドリー指向を強めたこともあって、誰もがパソコンとインターネットを使う、使える、使うべきだ、という意識が定着してきた。パソコンとインターネットは、もはや「機械に強い」とされる青壮年男性中心の文化が支配する空間ではなくなりつつあり、女性、子供、高齢者をはじめ、社会的弱者が参入できる、より普遍的な空間や、より多様なニッチ空間が展開し始めている。
 携帯電話からのアクセスを前提としたインターネット上のサービス利用にとどまらず、日常的な情報探索からウェブ・サイトの構築による自己表現まで、もっぱらパソコンからのアクセスで利用されるサービスも、当然ながら私たちのコミュニケーション活動に深く根をおろすようになっている。
 携帯電話にせよ、パソコンによるインターネット利用にせよ、デジタル・パーソナル・メディアの急速な浸透は、単純に技術先行の「シーズ」的な普及過程として理解することはできない。実際、普及が計られながら伸び悩んでいるサービスや、消えていったサービスは決して少なくない。急速に普及した新しいメディアには、確固たる「ニーズ」が存在していたと考えるべきであろう。つまり、私たちは、個人として、また社会として、ある種の新しいコミュニケーション形態を可能にするパーソナル・メディアを求めていたのである。
第一次石油危機の年(1973年)に生まれた「団塊ジュニア」のライフコース
1973年0 歳:誕生第一次石油危機
高度経済成長の終焉
1982年9 歳:カード式公衆電話
1983年10 歳:ファミコン
東京ディズニーランド
1984年11 歳:INSモデルシステム実験
ニューメディア・ブーム
1985年12 歳:NTT民営化
「分衆」論
1986年13 歳:中学入学アークヒルズ(赤坂六本木再開発)完成
1989年16 歳:高校入学消費税導入
ゲームボーイ
「イカ天」バンド・ブーム
1990年17 歳:株価最高値を記録
バブル経済崩壊のはじまり
東西ドイツ統一
1991年18 歳:ソビエト連邦崩壊
ジュリアナ東京開店
1992年19 歳:大学入学自己破産者の増加
1993年20 歳:細川「連立」内閣成立
新党ブーム
Jリーグ
1994年21 歳:デジタル式携帯電話
ジュリアナ東京閉店
1995年22 歳:阪神・淡路大震災
地下鉄サリン事件
ポケベルの普及ピーク
インターネットの普及開始
1996年23 歳:新社会人薬害エイズ訴訟和解
1997年24 歳:消費税率引き上げ
たまごっち
山一証券破綻
1998年25 歳:iMac
長銀、日債銀の破綻
1999年26 歳:インターネット対応携帯電話
2000年27 歳:結婚(女性)IT革命ブーム
少年法改正論議の高まり
2001年28 歳:第一子出産小泉「改革」内閣成立
2002年29 歳:結婚(男性)日韓共催サッカーW杯
2003年30 歳:六本木ヒルズ

IV 変質する社会関係

1 世代により異なる社会関係観
 一般的に、新しいメディアの出現や普及過程などとは違って、社会関係における変化などは、現象として始まった時期などを特定しにくい。しかし、時代の流れとともに社会環境は変わり、世代は交代し、社会関係の様態は確実に変化していく。
 例えば、戦後の第一次ベビーブーム世代、いわゆる「団塊の世代」(1947年〜1949年前後生まれ)のコーホート(同時出生集団)の加齢に沿って、様々な社会現象が生じていることはよく知られているところである。
 厳密な議論にならないことを承知で、あえて乱暴な単純化をするならば、現在50代半ばに達している「団塊の世代」は、高度経済成長期に地方から中央、農村から都市への大規模な人口移動を経験し、子供の頃に故郷での生活体験をもちながら大都市郊外に定着した世代である。
 この世代が20歳前後だった60年代後半には学生運動の高揚があり、40歳前後で職場の中堅となった80年代後半にバブル景気、その後は管理職ポストの不足と経済の減速が生じている。そして現在、年金制度や福祉制度が大幅な見直しを迫られているのは、この世代が年金受給者となる10年ほど先を見越してのことにほかならない。
 「団塊の世代」ほどではないが、その子供たちに当たる第二次ベビーブーム世代、いわゆる「団塊ジュニア」(1971年〜1974年前後生まれ、より若い世代に広げる場合もある)の動向も、社会全体に一定の影響を与えている。
 郊外の子供として生まれ育ち、高度経済成長を知らず、バブル経済に踊るには若すぎたこの世代は、就職氷河期を経験し、現在30歳前後になっている。この世代はまた、1995年の阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件を20代はじめに経験し、「ボランティア」が新しいキーワードとして浮上したとき、その担い手となってきた。
 マーケティングの現場では、この世代の消費性向の特徴をめぐって様々な議論が展開されている。例えば、この世代は、子供のときにファミコンに熱中し、大人になってすぐにインターネットと携帯電話が普及し始めたこともあり、自在にこうした情報機器を操る最初の世代と見なされることもある。また、この世代は、高度経済成長期の「大衆」をターゲットとした「大量生産」ではなく、「分衆」や「少衆」をターゲットにした「多品種少量生産」の消費財に接しつづけてきたため、消費の局面における選択可能性を重視し、結果的に個性化・多様化した消費行動をとり、自分の嗜好に沿ったものには貨幣を投じることを惜しまないが、全般的にはシビアなコスト感覚をもっているとも論じられている。
 こうした「団塊ジュニア」世代の人々が、社会的に結び付き、人間関係を構築していく過程は、親である「団塊の世代」の経験とは異なる社会関係観が作用していることであろう。

2 個人主義化と社会関係の変質
 都市化の進行とともに伝統的な地域社会が変質し、「コミュニティが崩壊する」といった議論は、高度経済成長期から現在まで常々主張されてきた。
 実際、都心部においては、地価の高騰によって土地利用が激変し、地域住民が流出する現象と、新たに供給された都心立地型の集合住宅へ別の人々が流入する現象が交錯して、例えば祭礼を維持するための組織など伝統的なコミュニティの性格は変質してきた。郊外の住宅地では、世代交代の進行とともに、当初の特徴であった均質性が後退し、近隣の交際関係にも変化が生じている。地方においても、都市的生活様式の農村への浸透が著しく、モータリゼーションが定着して移動が容易になって通勤・通学や交際の圏域が拡大するとともに、地域に根差した村落内の伝統的組織(青年団、婦人会、消防団など)は、組織の維持が困難になりつつある。
 個人主義の浸透によってプライバシー意識は高まっており、「自分の時間を大切にしたい」という理由から、地域などの諸団体には関わりたくないという人が確実に増えている。また、経済的に自立可能な若年女性が増えたことなどもあって、たとえ家族であっても相互に干渉を避ける傾向が強まっている。これを組織の側から見れば、農村の近隣組織から企業や労働組合に至るまで多くの既存組織が、新たなメンバーの組織や成員のコミットメント向上に従来の手法が有効ではないという焦燥感に駆られているということになる。しっかりした容器として「組織」に入ること、拘束されることを嫌う気分は、「団塊ジュニア」世代以降の若者を中心に、広く社会全体に広まりつつある。
 しかし、このように組織と一定の距離を置こうとする態度は、必ずしも公共的関心の欠如を意味するものではない。一方で、「ボランティア」がキーワードとして浮上してきているように、公共のために献身するという意欲自体はなくなったわけではない。違ってきたのは、公共への貢献の中味を自分で選択したい、自分の都合で自由に参入・退出したい、という意識が強くなってきたということであろう。伝統的なコミュニティ組織のような、濃密な人間関係で絡めとっていく組織化の原理には反発するが、共感できる運動や行動には、自分が意義を感じられる範囲で参加していく、というのが近年のボランティアの基本的な姿勢であり、これを組織する側も、そうした人々の意向を尊重して、参加しやすい運動形態を模索している。その背景には、個人主義的傾向を強める人々の意識と、ゆっくりと確実に進行 してきた社会関係の変質が影を落としている。

V インターネット上での「出会い」

1 サーチ・エンジンを介した出会い
 インターネットは、様々な新しいサービスを出現させた。インターネットが、情報のインフラストラクチャーとして機能するものである以上、ちょうど、道路を作ればそれを通って様々な車両が往来するのと同じように、次々と新しいサービスが提供されるようになる。
 なかでも、ここでの関心から画期的なサービスとして登場したのが、ウェブ・サイトの検索を可能にしたサーチ・エンジンだった。インターネットが普及し始めた1995年の段階では、あちこちにウェブ・サイトが存在していても、日本語サーチ・エンジンはまだまだ発展途上の段階にとどまっており、インターネット上では、次々とリンクをたどってあちこちのサイトを見てまわる「ウェブ・サーフィン」が重要な情報収集行動だった。自分のウェブ・サイトをより多くの人に見てもらおうと思うなら、より多くのページからリンクされることが重要であった。
 1996年になって、日本語による本格的なディレクトリ型サーチ・エンジン Yahoo! Japan がサービスを開始すると、ウェブ・サイトを見てもらうためにはサーチ・エンジンに適切な形で登録することが必須となった。さらにその後、ロボット検索型のサーチ・エンジンや、それをディレクトリ型と組み合わせた統合型のサーチ・エンジンが出現し、今では(強いて言えば、テキスト自体に埋め込まれるキーワードを豊かにするといった配慮が求められるが)何もしなくても自動的にサーチ・エンジンにデータが蓄積されるようになっている。
 サーチ・エンジンの登場によって、キーワードを投入すれば、それに関連するウェブ・サイトが容易に発見されるという状況が出現した。筆者も、この当時、それまで長い間わからないままだった事柄が、ウェブ・サイトの発見とその管理者とのメールにやり取りで瞬時に解決するという経験を何度もした。現実の社会空間の中では、自分と同じ嗜好なり、関心を持った人たち、あるいは、自分と同じ境遇にあったり、同じ問題に直面している人たちを探すことは、そんなに容易ではないことが多い。しかも、現実の社会空間の中では、インターネットの一つの側面である一定の「匿名性」を保全することは難しかったのである。
 特殊な関心をもちながら社会のあちこちに孤立している人々が、ウェブ・サイトを契機として結び付き、ネットワークを形成していくという過程は、インターネットがもたらした社会関係の変化の中でも最も建設的な一側面だが、そうした過程の起点になるのがサーチ・エンジンを使った情報検索行動なのである。
 携帯電話の普及で問題視されることが多い「出会い系サイト」ばかりではなく、あらゆるウェブ・サイトは、同じ関心事を共有する人々に「出会い」をもたらす機能をもっている。同じサイトにアクセスし、あるいは掲示板システムでメッセージを交換し、あるいはサイトに連動したメーリング・リストで頻繁に情報を共有するという関係は、オフ会における直接の対面という過程を経由する場合も、そうではない場合も、自分が選択した同じ関心をもつ他者との、従来のメディアでは生み出すことがほとんど不可能だった新しい関係である。

2 弱く希薄な関係
 インターネット上で、サーチ・エンジンを使った情報検索によって見つけたウェブ・サイトにおける「出会い」は、個人と個人を結ぶ絆としては、きわめて弱いもの、とりあえずは一時的なものである。「出会い系サイト」が後腐れのない火遊びの場となるのは、まさにこうした関係性の特質ゆえである。しかし、こうした弱く希薄な関係こそが、社会関係においてしばしば重要な役割を果たすという見解もある。これは、情報収集を行う際に、普段から接触頻度の高い身近な人々がもたらす情報より、知り合いではあるが接触頻度は低い人々からの情報の方が有益なものである(あるいは有益なものと感じることができる)、とする考え方に基づいている。こうした議論は、社会学者グラノヴェターが今から30年ほど前に転職者の意識についての調査を基に展開した「弱い紐帯」の理論が一つのきっかけとなっているのだが、インターネットとネットワーキングの時代に入って一層の注目を集めるようになっている。
 また、特に若者たちの携帯電話の利用方法には、従来の電話によるコミュニケーションとは異質な側面がいろいろある。携帯電話のメールには、パソコンを使うメールとはまた違ったメッセージ表現の様式が見られる。頻繁にメッセージを交換しながら、ほとんど実質的な情報交換がないやり取りもあれば、メールのやり取りはあってもそれ以外の接触がほとんどない人間関係も多い。このように、新しいメディアの出現とともに若い世代が新しく編み出してきたコミュニケーションの姿を理解するためには、さらに様々な理論仮説を待たなければならない。

3 遠い他人とのネットワーク
 既に強調してきたように、メディア技術の発達や普及と社会現象の間には、一方的な影響関係があるわけではない。インターネットや携帯電話の普及と近年の社会関係の変化は、「シーズ」と「ニーズ」両方の観点から、相互の関係を分析する必要がある。
 しかし、人々が既存の組織への全人格的な取り込みを拒み、よりカジュアルな(偶発的で気楽な)関係性を求める方向へと社会が変化しつつあった段階で、インターネットや携帯電話が登場し「出会い」の場を提供したことは、ある種の歴史的必然がそこにあったと考えることもできるだろう。
 こうした現代社会の変化に順応することが徐々に困難になりつつある年代の一個人としてこうした状況を考えるならば、前途は決して容易なものではない。コミュニケーション行動によって「共有化」を求めるとしても、そこには踏み越えてはいけない相手の私的領域が(従来よりもはっきりと)存在するだろうし、そうした弱い関係が積み重なって構成される「共同体」は、しっかりした硬い器ではなくそれ自体が液体のように流動化したものである。要するに、これからは「遠い親戚」でも「近くの他人」でもない、うつろいやすい「遠い他人」とのネットワークを上手に捌けなければ、少々生きづらい時代になるということである。



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