2003:

 掲載誌『歴史と地理』のご了解を得て、全文を掲出いたします。ご配慮に深く感謝致します。
 掲出に際して訂正した部分は青字としました。

 なお、本稿は、「特集2 オーストラリア」の一部として掲載されました。この特集は、本稿のほか、菊地俊夫「オーストラリア農業の新しい動向」、谷口智雅「オーストラリアの資源と日本」、井田仁康「オーストラリアの観光状況」の諸論稿と、菊地俊夫による「書籍紹介」で構成されています。

オーストラリアにおける多文化主義の背景

                  山田 晴

 ほとんどの高校地理の教科書には、オーストラリアの多文化主義(マルチカルチュラリズム)についてある程度まとまった記述がある。そこでは、オーストラリアが1970年代から80年代にかけて「白豪主義」を捨て、アジア系の移民を積極的に受け入れる方向に転換し、多様な民族集団の民族性を尊重した「多文化主義」に基づく社会へと変化してきたことや、これが、英国との歴史的な絆や英米系の諸国との同盟関係を軸に外交通商関係を構築していたオーストラリアが、アジアへ目を向け始めたことを意味している、といった説明がなされている。こうした認識は決して誤りではないが、多文化主義社会の実情はもう少し複雑で、やっかいなものである。
(表1)先住民人口の州別推計(人)
1901年2001年
ニューサウスウェールズ7,434121,142
ヴィクトリア65224,586
クイーンズランド26,670118,749
サウスオーストラリア5,18524,313
ウェスタンオーストラリア30,00061,505
タスマニア15716,644
ノーザン・テリトリー23,23556,364
首都特別行政区-3,589
93,333427,094
 まず「民族性(エスニシティ)/民族的(エスニック)」という用語について、少し説明をしておきたい。オーストラリアの社会的文脈では、この用語を、もっぱら移民の中の異なる民族性への言及にだけ用い、先住民については対象に含まない、あるいは同列に扱わないことがある。例えば、「エスニック・レイディオ」といえば、もっぱら様々な移民民族集団のためのサービスを行うラジオ局のことであるが、先住民向けの放送をするラジオ局はこれとは区別されて「インディジナス・レイディオ」という別のカテゴリーとして整理されるのが普通である。しかし、本稿では、民族性に基づく集団のなかに先住民も含めた上で、こうした用語を使っていく。

都市部で増加する先住民系

 現在、オーストラリアでは、人種や民族性による差別的処遇を禁じる連邦法を踏まえ、政策の中で特定の民族集団が特別扱いをされることは原則としてなくなった。このため、人種や民族性に関する公的な定義づけや統計は作成されていない。唯一の例外が、先住民(インディジナス・ピープル)と総称される、アボリジニーとトーレス海峡諸島民(トーレス・ストレイト・アイランダーズ)である。長く迫害されてきた先住民の血統を引く人々は、現在でも社会的に不利な立場におかれていることがよくあり、それを是正するために教育や雇用に関して優先的な扱いがなされる場合が多い。このため、一般的に民族性を問う設問はない国勢調査(人口・住宅調査)においても、先住民の血統を引いているか否かを問う設問が含まれている。
 大航海時代以来の多くの地域における経験と同じように、オーストラリアの先住民は18世紀以降の白人との接触によって大きく人口を減らし、その伝統的社会は崩壊していった。白人移民による植民地建設が進んだ地域では先住民が少なくなり、開発が遅れた地域にはある程度の規模で先住民のコミュニティが生き延びた。19世紀末から20世紀初頭にかけての時期、先住民たちは「滅びゆく民族」として白人移民たちの目に映っていた。実際、タスマニアでは、地域固有の先住民が「絶滅」する事態も起こっていた。こうした状況の中で、キリスト教団体などによって、先住民の「保護」を目的として多数の子供が先住民コミュニティから都市部の白人社会へと連れ去られた。この「失われた世代」の子供たちは、家族から分断され、孤立しながら、教育と就労の機会を与えられ、伝統的生活様式を失いながら、都市部に定着していった。20世紀の後半には、都市部における再生産(混交を含む)と、他地域から都市部への新たな流入が相まって、都市部の先住民人口は堅調に増加し、現在に至っている。先住民人口の分布を、20世紀の初めと終わりで比較すれば、こうした変化は一目瞭然である。(表1)
 しかし、都市部の先住民たちは、本来その地域にいたグループの出身者は少数になっているし、混血化も進み、伝統的なコミュニティの文化からは何重にも切断されている。先住民文化を尊重しようとする近年の動向も、少なくとも都市部では新たな伝統の創出という側面が強く、先住民文化は観光資源、消費の対象として再編されつつあるといえよう。
(表2)出生国別人口の推移(千人:一部、推計値を含む)
国・地域1901年1947年1954年1961年 1971年1981年1991年2000年
英国(含アイルランド)679.2541.3664.2755.41,081.31,175.71,244.31,215.9
ニュージーランド25.843.643.447.074.1175.7286.4374.9
イタリア5.733.6119.9228.3288.3285.3272.0241.7
旧ユーゴスラヴィア-5.922.949.8128.2156.1168.0210.0
ベトナム----0.743.4124.8174.4
中国(香港・台湾を除く)29.96.410.314.517.126.884.6168.1
ギリシャ0.912.325.977.3159.0153.2147.4141.2
フィリピン-0.10.20.42.315.879.1123.0
ドイツ38.414.665.4109.3110.0115.2120.4120.2
インド7.6-12.014.228.743.766.2110.2
マレーシア-1.02.35.814.432.579.997.6
オランダ0.62.252.0102.198.6100.5100.990.6
南アフリカ-5.96.07.912.228.055.880.1
レバノン--3.97.323.952.778.579.9
ポーランド-6.656.660.059.562.169.568.3
インドネシア--3.66.07.716.435.467.6
アメリカ合衆国7.46.28.310.826.830.649.565.0
香港0.20.81.63.55.416.362.456.3
外国生まれ 計852.4743.21,285.81,778.32,545.93,110.93,965.34,517.3
オーストラリア2,908.36,835.27,700.18,729.410,173.111,812.313,318.814,639.8
人口 合計3,773.87,579.48,986.510,508.212,719.514,923.317,284.019,157.0

民族集団ごとに異なる移住の時期

 先住民以外の民族集団については、直接的な公式統計は存在しないので、例えば「二世三世を含めたイタリア系住民は何人くらいいるのか」といった問いに答えるのは非常に難しい。しかし、公式統計には居住者の出生地と言語(使用可能言語、家庭内で用いる言語)のデータがあり、これを用いてある程度まで各民族集団の実態を分析することができる。たとえば移民一世については、出生地と言語のデータをクロス集計して、その存在を把握することが研究の定石となっている。
 移民としてオーストラリアへやってきた様々な民族集団は、移住の時期や規模にばらつきがあり、それがオーストラリア社会における各集団の社会的位置づけを左右している面がある。外国生まれの居住者(そのほとんどが移民と考えられる)の出身地を見ると、それぞれの時期における移民流入の状況がよく判る。もともとオーストラリアは英領植民地が集まって1901年に形成された連邦であり、外国生まれの居住者の中では英本国出身者が圧倒的な比重を占めていた。非英語圏からの移民は、イタリアからの移民が戦前からとやや早かったものの、本格化したのは戦後であり、1950年代にはイタリアのほか、ドイツ、オランダ、ポーランドなどの出身者が流入し、さらに1960年代にはギリシャやユーゴスラビアからの流入が増加した。その後、「白豪主義」からの転換、インドシナ難民の受け入れを経て、アジア出身の移民に門戸が開かれた1980年代には、ベトナム、中国、フィリピン、あるいはレバノンなど中東から到着する移民が増えた。(表2)
 また、移民が定住して二世三世の時期に入っている民族集団では、外国生まれの一世は高齢化が進むことになる。特に同系の新たな移民流入の波が到着しない場合には、この傾向が顕著に現れる。イタリア系やギリシャ系のように、既に一世の人口が減少に入っているグループ(新たに到着する新規移民より死亡者のほうが数が多い)は、一世の高齢化が進んでいる。逆に、近年になって流入が進んでいるグループは比較的年齢が低い。一般的に、移民一世の苦難がホスト社会に理解されるためには、言語障壁のない二世三世が一世を代弁して社会的に発言するようになるまで数十年の時間がかかる。オーストラリアの場合、到着時期が早かった南欧・東欧系の移民たちに比べると、アジア系の移民たちの声はまだまだ社会に共有されていない。ちなみに、日本系の年齢中央値が極端に低いのは、移住の歴史が短いことや、通常の移民よりも高齢者が多い「呼び寄せ」移民が少ないことなども作用しているが、基本的に居住者として数えられている日本人の中に、本来の意味での「移民」が少なく、ワーキング・ホリデーのホリデー・メイカーや留学生が多数含まれているためだと考えられる。(表3)
(表3)出生国別人口の年齢中央値(2000年推計)
国・地域年齢中央値人口(千人)
香港25.356.3
シンガポール25.330.7
インドネシア27.367.6
日本29.328.4
韓国30.041.4
マレーシア30.997.6
オーストラリア30.914,639.8
パプアニューギニア31.227.4
フィジー35.240.3
ベトナム36.5174.4
カナダ36.629.0
南アフリカ36.880.1
ニュージーランド36.9374.9
フィリピン38.0123.0
トルコ38.231.6
アメリカ合衆国38.865.0
インド38.8110.2
レバノン40.979.9
チリ40.925.4
中国(香港・台湾を除く)41.1168.1
スリランカ41.356.0
旧ユーゴスラヴィア41.9210.0
英国(含アイルランド)50.81,215.9
キプロス51.325.0
エジプト52.637.7
ポーランド53.968.3
ドイツ54.2120.2
マルタ54.554.9
オランダ55.890.6
ギリシャ58.1141.2
イタリア61.1241.7
(表4)市民権取得者の前国籍(1999/2000年度)
人数
英国14,592
中国(香港を含む)7,664
ニュージーランド6,676
ベトナム3,441
インド2,381
フィリピン2,349
ボスニア=ヘルツェゴビナ2,253
スリランカ1,853
イラク1,832
フィジー1,531
南アフリカ1,379
マレーシア1,154
ユーゴスラヴィア連邦1,099
台湾1,084
取得者総計70,836
(表5)船舶による不法上陸者数
(1989年〜1999/2000年度累計)
民族人数
中国人1,847
イラク人1,734
アフガン人1,141
中国系ベトナム人1,061
カンボジア人271
ベトナム人171
トルコ人168
総計9,051
 ここまでは、国外からオーストラリアへ移住してきた者を「移民」という用語で一括して説明してきたが、オーストラリアで統計の対象となっているのは、全ての居住者なので、その中には、就業が制限された一時居住の外国人、出身国の国籍を保持しつつ就業している長期居住外国人や永住権のある外国人、そしてオーストラリア市民権(国籍)を取得した者が、無差別に含まれていることになる。長期居住の実績が積み上がれば永住権が認められ、参政権以外は市民権と大差のない待遇が与えられるので、移民一世の中には終生出身国の国籍を保つ者も少なくない。もちろん、様々な事情から積極的にオーストラリア市民権を取得する者は当然いるが、その出身国のリストは各国の政治経済状況を反映したものとなっている。(表4)

招かれる者、招かれざる者

 オーストラリアが移民受け入れ国であることは間違いないが、そこで求められているのは、資源輸出と観光関連産業に依存する経済構造から脱却し、新たな産業を振興していくのに役立つような、高い教育と技術を身につけた人材である。例えば、情報関連の技術者で健康に問題がなければ、出身国に関わりなく、オーストラリアで職を得て、まず長期居住が認められ、ついで永住権や市民権を獲得することは比較的容易である。オーストラリアの移民受け入れ政策は「白豪主義」後の時期に限っても政策の転換や制度の変更を何度か経ているが、大局的に見るならば、資本や技術を国にもたらす人材の確保という観点は一貫している。しかし、こうした政策にもかかわらず、実際には、先端的な産業が求めるような人材の供給は期待通りには伸びなかった。むしろ目立つ存在となったのは、小規模な資本をもった個人サービス業の技能者たちだった。1980年代以降に到着し、一定の資本を持ち込んだ中東系(特にレバノン系)、中国系、そして最近では韓国系の移民たちは、「白豪主義」の時代に到着していたイタリア系、ギリシャ系の移民が築いた事業や店舗を買い取り、都市部で商業・サービス業の活性化を促した。街には無数のエスニック・レストランが並んで次々と新しい食文化がブームとなり、食材から書籍・CDまで、アジア諸国の商品が入手できるようになった。
 1980年代以降、それまでのメルボルンに代わって新規到着移民の受け皿となったシドニーでは、こうした傾向が他の地域以上に顕著に現れた。少なくともシドニーでは、ピザ屋はイタリア系という図式は単純に当てはまらなくなり、個人営業のピザ屋は中東系の人々が担う例が増えていった。こうした店のメニューには、普通のピザのほかにも、トルコ風パイドやケバブなどが併記されていることが多い。こうした事態を、逆にイタリア系、ギリシャ系の目から見れば、後から来たアジア系に事業資産を売り抜いてまとまった資金を作り、あるいは自営業とは異なる投資の機会を探したり、あるいは引退するチャンスを得たということになる。
 時間の尺度はもっと短くなるが、1980年代に渡豪して日本食レストランなどで成功した日本人の中にも、同じような立場になる人々が出始めている。オーストラリアでは、多数を占める白人を含めて日本食への関心は高いが、一般のオーストラリア人が足を運ぶことの多い、現地化したメニューの寿司レストランや弁当屋、日韓食を併せて提供するレストランなどは、比較的近年に到着した韓国系の人々が経営していることが多い。もちろん、まったく新たに創業された韓国系の「日本」ビジネスも多いが、いち早く確立された日系の事業を買い取れば、手っ取り早い。これも逆に見れば、商品として魅力のある事業を築いた日本人の中に、後から来た韓国系の移民に事業(あるいはその一部)を売却して、まとまった資金を手にする人々が出始めているということになる。もちろんこれは、オーストリア社会が国際的に魅力を持ち、ある程度の資本を携えた移民が流入し続ければこそ成り立つ構図だが、いつまでも続くわけではないだろう。
 オーストラリアでは、長期居住査証などを求める人々を審査する際には、持ち込める資金や技術のほか、オーストラリアの高等教育機関での学位取得者を優遇している。このため、近年、オーストラリアの大学ではアジア系の留学生が急増している。大学側も、公的資金からの援助が削減される中、自主財源を確保する手段の一つとして、割高な授業料を支払う留学生の受け入れを積極的に進めている。例えば、経営学関係(特に会計学)の学科は、中国系の留学生でいっぱいになっていることが多い。学位の取得とともに、会計士の資格が査証審査に有利であることを留学生たちは意識しているのである。うがった見方をすれば、潜在的な移住希望者に、まず相当の学費を支払わせた上で、有為な技術を身につけたものを選別してオーストラリア社会に迎え入れる(そこまで到達しない者は受け入れない)システムということになろう。
 一方、資本や技術をもたらす移民とは別に、難民としての認定と人道的保護をオーストラリアに求める人々も急増している。「白豪主義」からの転換の一つの契機は、オーストラリアも参戦したベトナム戦争などによって発生した、インドシナ難民の受け入れであった。以来、人道主義的見地から、様々な紛争地域の人々がオーストラリアへの定住を認められてきた。最近では、旧ユーゴスラビア(ボスニア=ヘルツェゴビナ、クロアチアなど)や、アフリカ(ソマリアなど)、中東からの難民が受け入れられている。しかし、どこでも同じように、正規の難民認定手続きはなかなか難しいため、実力での不法入国を試みるボート・ピープルなども1999年頃から急増傾向にある。こうした不法入国者の扱いをめぐって、オーストラリアの国論は複雑に分裂しているが、ハワード首相が率いる保守系の現政権(自由党国民党連合)は、一貫して不法入国者には強硬な姿勢をとっている。こうした方針は、むやみにアジア系の移民が増えて欲しくないという白人系市民の潜在的な感情に訴えかけているだけでなく、いわば正面玄関から堂々とオーストラリアに入国し、社会の一員として努力しているアジア系移民の一部からも、一定の支持を集めている。(表5)

言語の多元化と文化の多元化

 オーストラリアの多文化主義は、民族性に基づいた多元主義と理解されることが多い。しかし、厳密に考えれば多文化主義の内容は民族性だけに基づいているわけではない。公共的な社会制度によって保障されるのは、まずは言語の多元性である。公共放送局SBS(テレビとラジオ)や民間の小規模ラジオ局によって無数の言語による放送が行われている。
 初等教育に関しては、週末の各国語学校の取り組み対して、州政府は様々な便宜を図り、一定の支援もしている。例えば、シドニーの場合、日本政府が設置しているシドニー日本人学校とは別に、北部と南部にそれぞれ土曜学校と日曜学校があり、ふだんは地域の小中学校に通っている生徒たちが日本の国語教科書などを用いて学習している。会場となっている小学校に集まってくる子供たちの大半は日本人、日系人だが、中には日本で育ち、身につけた日本語の力を維持するために通っている非日系の生徒たちもいる。こうした週末のジャパニーズ・スクールは、あくまでも日本語学校であり、日本人学校ではない。同様に、各地に設置されている週末の各国語学校も、出身国にかかわらず英語以外の言語による教育を必要とする子供たちのための言語別のプログラムとして位置づけられている。実際には、多数の国で話されている言語の場合でも、教室が開設される地域の特性を反映して、特定地域の出身者が大多数を占めるといった事態も生じるようだが、制度が建前として保障しているのはあくまでも言語の多元化であることは、強調されなければならない。また、アルメニア語やマケドニア語の場合のように、異なる出自を背景とした人々が、同じ言語の話者としてオーストラリア社会の中で新たなアイデンティティを形成する可能性にも注目しておくべきであろう。
(表6)英語以外の言語を家庭内で用いる者の英語能力(1996年)
5-24歳25-44歳45-64歳65歳+5歳+
全年齢
総数(千人)720.7865.4600.8287.72,474.6
うちオーストラリア生まれ386.2213.930.68.2638.8
英語を話す能力(自己評価)
...総数から無回答者を除き、 年齢区分ごとの百分比で示した構成比(%)
「よく話す/非常によく話す」92.284.674.959.381.5
「あまりよく話さない」6.913.821.628.715.4
「まったく話さない」0.91.63.511.93.1
 もっとも、言語の多元化は英語による統合を否定するものではない。新たに到着した移民の中には、呼び寄せ家族の場合など、英語の能力が不十分な者も含まれている。こうした英語力が不足している者に対しては、初中等教育機関に組織的な英語教育プログラムが組み込まれているほか、成人を対象とした訓練プログラムも様々な形で用意されている。国勢調査の結果からも英語が社会の統合言語として機能していることはあきらかである。(表6)
 英語国でありながら、各国語の話者が比較的安価に確保できるという環境は、翻訳通訳サービスなどにとって有利であり、新着移民などを対象とした言語支援の充実や、海外からの観光客に対するホスピタリティの向上に資するだけでなく、例えば、アメリカン・エキスプレスのような国際企業が、アジア太平洋地域へのサービス拠点をシドニーに置いている大きな理由にもなっている。言語の多元化は文化政策にとどまるものではなく、高次のサービス業の育成につながる社会政策、経済政策でもある。
 一方、言語差という形では現れない民族性も、多文化主義政策の下で活性化し、可視的なものとして社会に現れやすくなる。アイルランド系、スコットランド系などの文化は、そうした文化を継承する人々の集まるパブが存在したり、交流行事が大々的に行われるほか、独自の印刷メディアも発行されている。さらに、言語とともに民族性を支える重要な柱である宗教・宗派も多元化が進んでおり、都市部では、英語以外の諸語による礼拝の案内を大きく掲げているキリスト教会も多いし、特定の民族集団のためのモスクも散在している。新規移民がオーストラリア社会へ定着する過程では、諸々の教会コミュニティが重要な役割を果たしていることが多い。
 さらに、文化の多元性が論じられる際には、ゲイ・コミュニティのように民族性に基盤を置かない文化も尊重されるべきだという論点も強調される。異民族の文化との共存という姿勢は、より一般的に「他者」への寛容につながり、個人や少数集団に対する社会的な圧力を減らして生活様式の自由度を高めることになる。多文化主義がもたらしたこうした帰結には、もちろん反動もあり、一時期には多文化主義を否定する極右政党「ワン・ネイション」の台頭なども起こった。特に、2001年の同時多発テロ事件以降、イスラム系に対するいやがらせの頻発(誤って非イスラム系が被害を受けることある)や、対テロリズム戦争への関与などをめぐる議論が、微妙に多文化主義の原理を揺さぶっている。しかし、多文化主義の貫徹は、グローバリゼーションの内制化であり、国際社会の中でオーストラリアが一定の位置を占めていくためには、もはや後戻りできない道なのである。


 本稿の表は、オーストラリア統計局(Australian Bureau of Statistics)の諸統計をもとに、筆者が編集したものである。本稿は、2001年度東京経済大学中期国外研究員派遣の成果の一部である。

(やまだ はるみち/東京経済大学助教授)

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