日本サウンドスケープ協会シンポジウム(2001.05.27.) 「パネル・ディスカッション『ラジオとサウンドスケープ』のために」 山田 晴通 (東京経済大学コミュニケーション学部) ラジオは、そこから流れる音自体が、サウンドスケープ/音風景の重要な構成要素となることも多い。このことは、例えば、場外馬券売場に近い商店街でどこからともなく流れてくる実況中継の音を想起してみればよくわかる。また、例えば、極東放送(FEN)が流すスウィング・ジャズのように、ある時代性を象徴する要素としてラジオが機能する場合もある。 他方、ラジオは本来は、「ここにはない音」を「ここ」に再現する装置である。ラジオが、サウンドスケープを構成する要素としてではなく、サウンドスケープを伝達するメディアになるとき、それは「ここ」ではない「どこかよその場所」を導入する装置として機能する。 ラジオは、音を複製するメディアとしては古い歴史をもっている。また、普及水準も他のメディアとは比較にならないくらい高い。移動する車両内や、災害時のように、テレビへのアクセスが難しくなる状況下でも、ラジオは身近に見つけることが容易であり、きちんとその機能を果たしてくれる。平たく言えば、ラジオはこれまでもどこにでもあったし、これからもどこにでもあるのだ。 しかし、現在のラジオが、マス・メディアの中軸としての地位を既に失っていることは言うまでもない。マス・メディアとしてのラジオは、生き残りのためにニッチを求めて様々な努力をしている。そうしたニッチの中でも最も有力なものの一つが、ローカリティ/地域性である。そして、もう一つノスタルジー/懐古性という側面も見逃すことができない。 ラジオが、リスナーのアイデンティティ意識に訴求することによって、連帯を生む(少なくとも幻視させる)メディアであることは、マクルーハンをはじめとして、様々な形で論じられてきた。ラジオという「ホットな/熱いメディア」によるサウンドスケープの導入は、リスナーの主体的な意識を覚醒させる可能性を秘めている。 ラジオを通して提示されるサウンドスケープは、多くの場合、「ここ」ではないどこかのアイデンティティを、あるいは「今」ではない失われた時間のアイデンティティを示すものとしてリスナーに受容される。もちろん、その経験は、翻って自分の身が置かれている「今」と「ここ」を意識することにつながるかもしれない。 ラジオが伝えるサウンドスケープは、ある地域や時代のアイデンティティ意識を刺激し、地域性なり時代性を幻視させ、さらにはその実体化への衝動とエネルギーを引き出す、大きな扉の鍵なのかもしれない。 |
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