私的ページ:山田晴通

シドニー日記:2001年4月24日〜5月24日


 今回の旅行は、娘との二人旅でした。
 ここでは、山田の備忘録に掲出したときと同じように、娘に関連した記述は伏せた形で掲出します。文中にある料金は、食事の場合は二人分の合計、宿泊費はツインの部屋に二人で泊まる場合の金額です。1ドルは、70円くらいです。
 このページへの転記に際し、原文の明らかな誤記は訂正しました。
■ 2001/04/24 (Tue)
渡航
成田からシドニーへ、カンタス航空の「夜行」便QF22で渡る。 久々の長時間のフライト。
■ 2001/04/25 (Wed) ANZAC Day
シドニー到着
電車の窓口で、グリーン・パスを買う。ワールドキャッシュがデビットで使えない。
荷物が大きいと思ったより動きが取れないので、とりあえずエッピングまで行き、タクシーでマコ−リー大学の敷地内のある Travelodge までゆくと、まだ午前中だったが、部屋に入れてくれた。一泊115ドル、朝食は別料金。 部屋でしばし昼寝。
シドニーのATT経由でインターネット接続をするが、いろいろうまく行かない。やっとメールを受信したが、送信はできず、日本のウェブページを見るのも難しい状態。
近くのマコ−リーショッピングセンターで、コンセントと電池などを買い、センター内のカフェで一服する。
今日はANZACデーの休日なためか、閉まっている店も多い。夜になって、マースフィールドのウールワースまで一人で買い物に行く。行きはマコ−リーセンター前に出て、エルランチョの前を通り、大回りをしたが、帰りは大学の敷地内を横切って戻ってきた。サーモンとハムのサンドウィッチを作って食べる。
■ 2001/04/26 (Thu)
はじめて中心部を散策
午前中は大学に出かけ、現代音楽研究センター、国際部、経理部などを回った。
午後からは、エッピング経由で中心部へ。公で、作ってきたサンドウィッチを芝生の上で食べる。はじめて郵便局に入り、様子がだいぶ違うのに少々戸惑う。カードや切手などを買う。
コモンウェルス銀行に口座の開設を申し込む。サバーブと郵便番号がわからず、間違ってノースライドで登録してしまう。銀行の窓口には実に多様なエスニシティの人々が働いている。大学もそうだが、多文化主義の浸透を感じる。通帳はなく、カードが後日郵送されてくるとの事。
カフェ(レトロカフェという名の通り、古い映画館の入っているビルの一角)で一休みした後、AMPタワーに上がり、展望台からの眺望を楽しむ。帰りに、展望台とペア券になっているスカイツアーというアトラクションにも立ち寄った。
夜7時からオックスフォード通りのアカデミーツインシネマで行われていた、オーストラリア映画・テレビ・ラジオ学校AFTRSの学生作品の上映会に行き、興味深い短編を多数見る。
タウンホールまで歩いて戻り、QVBヴィクトリア女王ビルのカフェでピザを食べていたら、11時近くなって終電を逃してしまった。タクシーを拾い、宿へ。聞けばまだバスはあったらしい。
■ 2001/04/27 (Fri)
在留届
午前中は大学へ、午後からは中心部へでかける。マコ−リーセンターから、初めて中心部行きのバスに乗る。途中で北シドニーのTAFEセンターなどを見つけ、ライドからノースシドニーにかけての地勢がわかってきた。
日本総領事館(といっても、ビルの一フロア)で在留届を出し、サーキュラーキーに近い旧海運局ビルの現代美術館へ行く。最初は展覧会を見るつもりだったが、会員になる手続きをして、会員証が郵送されるまで待つことにした。
宿に戻り、夕食にマコ−リーセンターへ出かける。
■ 2001/04/28 (Sat)
タロンガ動物園
タロンガ動物園にでかける。もちろん観光客も多いが、休日とあって普通の家族連れも多かった。カンガルー、コアラ、カモノハシ、タスマニアデビル等々、オーストラリアの固有種を中心に全体の三分の二くらいを見て回った。
動物園の帰りにサーキュラーキーで夕食、といっても駅前のマクドナルド。
■ 2001/04/29 (Sun)
マンリーへ
朝食は部屋でパンなどを食べて済ます。
朝10時過ぎに出発、マンリーへ行くつもりでバスで出かけようとする。出かける際に少々トラブルがあったが、気を取り直して再出発、サーキュラー・キーの旧税関のカフェで一服してからフェリーでマンリーへ。フェリーはきっちり30分で着き、15分後に出発というペースで二隻が行き来している。この他にJetCatという高速船があるがこちらは少々高い(パスでは乗れない)らしいの止めておいた。
マンリーは陸繋島の砂州の部分にあたり、内海側に波止場、外海側にサーフィンや水泳のできる砂浜がある。遅い昼食でトルコ系と思しきカバブとピザの店に入り、大きなピザのカットとチキン・カバブの串を食べる。その後、再度、砂浜へ。
日曜日とあって、通りにはガラクタ系の市が立ち、イベントでイタリア語の合唱などをやっていた。マンリーは全体に江ノ島やブライトンを小規模にした感じが強い砂浜に近いバーの建物は名前からして「ニュー・ブライトン・ホテル」だった。
帰途、サーキュラーキーから電車に乗り、タウンホールで下車してみやげ物の安売り店で安物のマグなどを買う。マグは大学に置いておく分。290バスで帰り、El Rancho のところで降りて、宿泊について尋ねようとしたが、日曜日はスタッフがいないというので、再度行くことにして、宿まで歩いて帰った。
■ 2001/04/30 (Mon)
やっと全面開通
7時に起きてテレビをつけると、日本のアニメを立て続けにやっている。デジモン、ポケモン、ドラゴンボールZが次々に流れる。
Travelodge をチェックアウトして荷物を引っ張りながらW6Aの6階にある現代音楽研究センターへ行く。いろいろ関係者の手を煩わせて、やっと割り当てられた共同研究室で、自分のマシンでインターネットが出来るようになった。BBSに書き込める事を確認。FTPも何とかなりそう(確認はしなかったが)。しかし、メールが出せないのは変わらない。
昼は学食のカフェへ。午後になり、研究所のスタッフといろいろと相談。その後、同じ建物の2・3階にある日本学教室(日本教育研究所)に行き、アジア諸語関係の事務担当者、日本学教室の主任教授に挨拶。いろいろ実際的な情報がもらえて有益だった。やはり日本語で話せるというのはありがたい。
朝から、こちらにきて初めての雨だったが、午前中は大したことはなく、降ってもすぐに止む感じだったが、昼過ぎからけっこう雨が本格的になってきた。その雨が小止みになったのを見計らって、エル・ランチョ(El Rancho = The Ranch)へ行き、チェックインした。朝食付110ドル、ここも長期割引はない。とりあえず、一晩だけ泊まることにして、今週末以降のことは後で考えることにした。夕食は宿のレストランで本格的に肉を食べる。残した分は、部屋に持ち帰った。ここは宿のレストランというより、レストランが泊りも用意しているという感じ。確かに事前に言われたように少々うるさいが、それも夜遅くなれば気になるほどではない。
■ 2001/05/01 (Tue)
ペンリスへ
メーデー。中心部の証券取引所あたりでは一騒動あったらしい。そういえば、大学にも動員を呼びかけるポスターが貼ってあった。
宿の朝食で話の行き違いがあったようで、当初の話とは違い、部屋にルームサービスでイングリッシュ・ブレックファストと同じような朝食が来た。
大学に出てFTPを使って備忘録に書き込みをする。ところが、作業をしているうちに、ATTへの接続ができなくなった。
夕方に大学を出て、ペンリスへ向かう。ストラスフィールドで乗り換え、暗くなってからペンリスに到着。駅前の地図に広告を出していた宿に向かったが、部屋がないという。そこで、パブに聞けば泊れるというので、ペンリス・ホテルという名の一階がパブ「デイリー・プラネット」で二階が宿というところに泊った。一泊90ドル。これは昔風の宿つきの飲み屋という感じで、部屋は狭く電話もないが、ベッドはちゃんとダブル+シングルの2台ある。まあこんなものか。
夕食は近くの「ペンギンズ」というレストランへ、ワインを飲んで談笑する退職者然とした白人客ばかりの洒落た雰囲気の店。魚料理を頼んだのだが、味は不思議なことにタイ風というかエスニック的だった。80ドル近い食事で、こちらに来てから一番贅沢な夕食だった。
■ 2001/05/02 (Wed)
西シドニー大学とパラマタ
駅まで出てから西シドニー大学の窓口になっているW氏に電話し、駅まで迎えに来てもらった。彼は日豪関係は専門の政治学者。キングスウッド、ペンリスの広大なキャンパスを車で回り、教室などを見て回る。キャンパスの広さの割りに、建物は質素で、彼の研究室も非常に狭いのに驚いた。
W氏は、ブルーマウンテンの公園地域に住んでいるそうで、近いうちに家まで招待すると言われた。ありがたいことである。帰りはペンリスまで車で送ってもらった。彼の薦めもあって、シドニーまでは戻らず、シドニーの入り口にあたるパラマタで下車にしばし散策。ここは、シドニーと同じくらいの開拓の歴史の古い町で、市街地の再開発などもこぎれいに行われている。着いたのがちょうど学校の下校時刻だったので、高校生くらいの制服を来た生徒たちが駅や図書館の周りにたくさんいた。
しばらくでたらめに歩いていたのだが、郷土資料館を見つけて展示を駆け足で見る。そこで、安いホテルを教えてもらい、ほとんど隣のハリスパーク駅に近いパラマタ・セントラルという安ホテルに泊る。一泊88ドル。運良く、本来なら五人用148ドルという広い部屋が割り当てられた。こちらに来てはじめて(浅いながら)バスタブでの入浴ができた。
このあたりはアラブ?トルコ?系のコミュニティらしく、商店の看板にもアラビア文字が目立ち、ピザ屋もカバブ屋が本業といった感じである。フィッシュ・アンド・チップスと春巻き、パン屋で買ったお菓子類で夕食を済ませた。
この安宿は線路に近く夜になるほど列車の音が気になったが、それも大したことはない。何しろ、この旅行でもっともコスト・パフォーマンスのよい宿なのだから。
■ 2001/05/03 (Thu)
キングズ・クロスへ
朝、宿の精算をすると、クレジット・カードより現金のほうがありがたいと言われた。まだレジを開けていないとかいう説明だ。言われるままに現金で百ドルを出したらおつりに20ドル札をくれた。しかも、ご丁寧に88ドルの領収書までくれた。
宿に近いハリス・パークの駅でイエロー・パスを買い、一駅パラマタに戻り、また街を歩く。郵便局で切手などを買い、ギフトショップをひやかす。韓国人経営の店とおぼしきギフトショップには、韓国から輸入されたキャラクターものなどが並んでいて、「こげぱん」のファイロファックス風なものまであった。
電車を乗り継ぎ、さらにバスで大学へ。昼時以降しばしコモン・ルームのジグソーにはまる。用足しのついでに厚生施設を一回りし、書店生協(各大学に共通のもの)の加入説明と学生組合(大学の生協に相当)の準加盟の説明を聞く。さらに図書館で登録手続きをする。 運転免許についてRTAに問い合わせると、マコーリー・センターにある地域事務所へ行けという。さっそく出かけたら、結局、NSWの免許を改めてとる必要はないということがわかった。正直なところ一安心である。
ネット上でシドニーの安宿をサーチしていたら、以前にロックスのインフォメーション・センターでチラシを見かけた「Cross Court Hotel」がヒットしたので、電話してみる。電話に出たのはハッサンと名乗るインド亜大陸系の訛の強いマネージャーだった。空きがあるということなので予約をした。
大学からは初めてイーストウッド経由のバスに乗り、初めてイーストウッドから電車に乗った。この駅の裏口?側は、すっかりコリア・タウンになっている。まるでソウルを歩いているようだ。
レッドファーンで乗り換えてキングズ・クロスで下車しホテルへ、ちょっと迷ったが、結果的には駅近くの便利なところだった。古いテラスハウス(斜面を利用した地上2階+地下1階で地下の部屋からも眺望が見える)2軒分を改装したホテルで、バスルームは共用で70ドル。現金で払えというので改めて手持ちの現金を確認する。支払いはできたが、残りが60ドルほどと心細くなってしまった。 バスルームは占有できる部屋もあるのだが、その場合(結構高くなる)も部屋からいったん廊下に出なければいけない。
キングズ・クロス一帯は、1階が土産物屋か、食い物屋か、その他の小売店で、地下か2階が風俗店というパターンが結構あって、狭い階段の入り口でマッチョなガード役が睨みを利かしている。また、シドニーにおけるバッグパッカーの拠点らしく、超安宿情報の情報屋や、一泊20ドル台からのドミトリーをはじめ、いかにもというバッグパッカー(ほとんどヒッピー?)のたむろする店や、刺青屋、等々が並んでいる。もちろん、「超高級〜」とまではゆかないがホリデイ・インはじめそこそこのホテルも多い。土産物屋は、概して値段がリーズナブルで、なるほどといった感じの街である。
夕食に「大道」というすし屋風の店に入る。案の定、韓国人の店だったが、カウンターのお兄さんはそこそこの日本語で応対してくれるし、メニューは英語と日本語しかない。てんぷらと刺身、うどんなどを食べる。30ドルちょっと。さすがにご飯は問題外のぼそぼそ。値段を考えれば、妥当なところだろう。
宿の部屋は表の道からみて、少し下がった1階だが、部屋の小さなバルコニーからみれば2階という感じで、確かに眺望がすばらしい。ダウンタウンの高層ビル街が一望でき、ハーバー・ブリッジも見える。もっとも近いうちにこれを台無しにするように新しい建物が隣接地に建つようで、クレーンが立っていた。
■ 2001/05/04 (Fri)
銀行カードを入手
朝、シャワーを浴びる。途中で廊下側のスイッチで中の電気を誰かに切られたのには参った。
朝食はマックへ。二階席にあがると、屋根の一部が切り取られたオープンな空間で、動物園にいそうな変わった感じの鳩の仲間?がそこらでさえずっている。
電車でタウンホールへ、街を歩いている途中で用を足しにヒルトンに入ってみた。レセプションのあるフロアの土産物屋は横浜の岡田屋がやっている。
郵便局で切手や葉書を買う。同じ切手よりよいだろうと思い、今回はオペラハウスの柄の50セント切手を買う。
QVBの角に戻り、シティバンクでワールドキャッシュのことをいくつか質問したが、現地のスタッフはその存在すら知らなかった。結局、そこではワールドキャッシュのデビットのことも判らず、トラベラーズチェックの現金化もできないとわかったので、気を取り直してコモンウェルス銀行へ行き、邦貨二万円分を換金。300ドルと小銭ちょっとになった。
QVBのバス停から、バスで大学へ。Cox Road, Kent Road 経由のバスだったので、思い立って途中下車して Kent Road Public School に立ち寄り、入学手続きについて説明を受け、資料をもらう。子供と一緒に到着してから手続きしなければいけないという話だ。
学校から歩いてエル・ランチョへ行ったが、今日は満室だという。そのまま大学まで歩く。 大学に着くと、技官氏が、手紙がきていると教えてくれた。コモンウェルス銀行のカードである。さっそく電話で「アクティベイト」させる。来週にはワールドキャッシュの資金をこちらの口座に移そう。
当てにしていたエル・ランチョがだめだったので、バスルームが共用でないことを条件に安い宿を検索するが、なかなかうまく行かない。結局、週末にブルーマウンテンに出かけることと、イエロー・パスがあることを考えて、再度パラマタまで行くことにし、「パラマタ・セントラル」へ電話をすると、前回と同じ条件で広い部屋を提供できるという。さっそく出かけ、一昨日と同じ店で買ったフィッシュ・アンド・チップスとお菓子類で夕食をとった。
夜はテレビで、フランス語のドキュメンタリー番組や、スペイン語の映画を英語字幕で見てしまい、すっかり妙な気分。このSBSというテレビ局は、朝は、ギリシア語やロシア語やその他のニュース番組もやっていて多文化主義の象徴のような局だ。
■ 2001/05/05 (Sat)
ブルーマウンテンズの入口へ
前回とは違い、今度はちゃんと88ドル払ってチェックアウト。9時頃出発し、ハリス・パークからパラマタへ。ここで切符を買い直し、グレンブルックへ向かうが、今日は線路工事があってセブン・ヒルズ〜エミュー・プレインズ間はバスに振り替えられている。 結局グレンブルックについたのがちょうど11時頃。ここでW氏一家三人に会う。最初はカンガルーがウリになっている動物公園へ行こうかといっていたのだが、にわかに雨が激しくなり、ゆっくり昼食をとって、近所の景勝地を散策することになった。
昼食の店ではパスタをとってみたが、なかなか良いできだった。近所の散策では、まず、1830年代の古い石橋を見に行き、次に、ペンリスの街を遠望し、鉄道が見下ろせる急崖まで林の中の道(トロッコ軌道跡)を歩いた。その後、W家でお茶を頂き、ラプストン駅まで送ってもらいカトゥンバへ向かった。
カトゥンバ駅に着くと、雨がけっこう激しい。人通りは少ないが、駅近くのカフェは、どこもバックパッカー風のリラックスした人々が多い。週末らしい雰囲気だ。 最初に当てにしていたカリントン・ホテルが満室というので、駅前の「バックパッカー・インフォメーション」で紹介してもらった「セシル・ゲストハウス」(The Cecil)に落ち着く。このあたりに鉄道が通じて間もない1904年創業という年代物の宿。バスルームは共用で、部屋も比較的狭く電話もテレビもないが、共用スペースは実に贅沢で、本物の暖炉、薪ストーブ、玉突き台に卓球台(これは昔Ballroomだった広い部屋においてある)、テレビのある共用の部屋も二部屋ある。部屋の中の暖房はもちろん電気ヒーターがあって快適だ。これで朝食付95ドル。 外の雨がけっこう激しく、外出する機を失って、結局、夕食は部屋で昼の残りやらお土産のつもりで日本で買ったあんころ餅などを食べて済ます。
■ 2001/05/06 (Sun)
カトゥンバでの一日
朝5時頃一度目がさめ、そのまま7時頃まで起きていた。明るくなってきたので、外へ出てみると、霧雨という感じで人通りも少ない。駅まで行ったが待合室には鍵がかかっていた。何もせずに宿の部屋に戻り、今度は熟睡。8時半頃になって起き、すぐに朝食。メインの卵とベーコンもしっかりしているが、パンやシリアル、ジュースや果物類も豊富で、リゾートの宿らしい感じ。
結局、今夜も同じ部屋に泊ることにして、部屋に荷物を置いて出かける。10時頃になってから、徒歩でエコー・ポイントへ。この展望台から見えるスリー・シスターズ「三姉妹」は、カトゥンバのみならずブルーマウンテンズでは必見の名勝ということなので、ここだけは見ようと出発。ところが霧が濃くて遠くまで眺望が利かない。スリー・シスターズが見えるだけだ。展望台にはエリザベス女王が1954年にここに来たという説明板が麗々しく置いてあるが、全体に人も少なく寒々しい。とりあえず写真をとり、展望台近くのインフォメーションセンターへ入り、フリースなどを買う。
ところが、近くの休憩所でお菓子と飲み物を買って一服しているうちに昼近くになり、だんだんと霧が下から少しずつ晴れ上がってきて、谷の反対側まで眺望が開けた。再度、展望台へ。グランドキャニオンに豊かな森林の植生を加えたような雄大な眺望を満喫。さらにスリーシスターの一番手前の岩まで行けるルート(舗装された平坦な歩道)を歩き、数百メーターの標高差をほとんど垂直に近く降りてゆく「巨大階段」をほんの少しだけ降りて目的の一番手前の岩のオーバーハングに設けられた橋の所までまでたどり着く。とても下を見る気にならない。階段は濡れて滑りやすいし、本当に直角に限りなく近い急崖なので、正直なところ怖くて仕方なかった。エコーポイントまで戻ろうとするうちに、また霧が降りてきて再び対岸が見えなくなった。晴れていたのはほんの一時間くらいだったろうか。
帰り道で、途中の骨董屋に入ってみる。50代後半か60歳くらいのおばさんが縫い物をしながら店番している。小さな押し切り(煙草切り)を見つけ、結局思い切って買った。65ドル。
宿の裏手から戻り、風呂に入る。暗くなってきたので食事に出かける。駅で明日の列車の時刻を確認。ここはシドニーまでおよそ二時間ちょっとの位置だ。古本屋をひやかしてから、夕食は「カフェ40」というテクノが流れているところで、カンガルーのステーキを注文。初めて食べたカンガルーは、聞いていた通り、あっさりして食べやすい。宿への帰りに、夜食のつもりで、フィッシュ・アンド・チップスを買う。
■ 2001/05/07 (Mon)
再びシドニー中心部へ
朝食後にも玉突きをしてから宿を出発。列車で中心部へ。終点のシドニー中央駅で乗り換えてタウン・ホールで下車。QVBの向かいにあるビル地下のカメラ屋でカメラ用の電池を買った。
地上へ出て、角のシティバンクで1000ドルを引き出し、コモンウェルスバンクへ半分の500ドルを移す。さっそく、コモンウェルスのカードでデビットを試み、うまくいった。
エッピング経由で大学へ。エルランチョはまた満室ということで、明日の分を予約し、今夜はインターネットで見つけた「アルフレッド・パーク・ホテル」を予約。ここは中央駅とレッドファーンの間、アルフレッド公園の南側。雨の中を行ってみると、若いパックパッカー向けという感じ。パックパッカー用としてはやや割高なせいか、白人女性客が目立つ。宿には共用の大きなキッチンがあるが、使わない方が無難と考え、東へ3ブロックほど歩いてピザ屋に入った。その一角はレバノン料理店ばかりだったが、ここはカバブなどはないピザ専門店で、マルガリータのファミリーサイズを注文。ガーリックが効いていて、なかなか美味。
相棒が自転車で配達に行っている間、暇になった様子の店の親父に話し掛けられ、しばし雑談。「香港から来たのか?」と聞かれたので、「日本だ」と応えいろいろしゃべっていたら、「お前さんの英語はうまいからこっちでけっこういい職が見つかるだろう」と言われた。てっきり移民志願者だと思われた様子。食べ残したピザは宿に持ち帰る。
宿ではテレビでサウスパークを見る。初めてちゃんと見たが、なるほどこんなノリなのかと思う。作っている側は日本の怪獣ネタや漫画文化に深く通じているに違いない。
■ 2001/05/08 (Tue)
シドニー大学周辺
雨が続く中、宿を出て、来たときとは反対にレッドファーン駅方向へ歩き、駅で地図を確認してから学生の流れに乗ってシドニー大学へ向かう。駅周辺は、古いテラスハウスがあまりお金をかけずに維持されていて学生下宿になっているという印象。大学の裏口?近くになってカフェやコイン・ランドリー、コピー屋などが現れ、学生街らしい感じになる。ちょうど学生組合の選挙期間中らしく、候補者の名を書いたポスター類がそこら中に貼ってある。流れに乗って進んでゆくと、厚生施設の集まっているビルに来た。ここには銀行なども入っていて、普通のオフィスビルのフロアのようにきれいな感じだ。その一角のカフェで、クロワッサンのサンドウィッチで朝食をとる。
20年程前に家内が留学していたウィミンズ・コレッジの建物を見に行こうと思い、厚生棟を出てその辺りにいた学生に場所をきくが、判らないという。それでもインフォメーションの場所を教えてくれたので、公道を隔てた主キャンパスへ向かい、教えられたとおりに行ったら、学生部の窓口があった。そこで地図をもらって、キャンパス内をひとまわり。シドニー大学の主キャンパスは、古い巨大な建物が印象的に配置されている。
ウィミンズ・コレッジにたどり着き、入口部分の写真を撮る。これで、シドニー大学訪問の主目的は達した。
バスで中心部へ向かおうと思い、ちょうどサーキュラー・キー行きが来たので乗り込む。途中、中央駅で止まって多数の乗客が降りたので、一緒に下車した。バス停の前にTAFEの窓口があり、7月以降一緒にシドニーへ来る予定の息子のために情報が得られないかと思い入ってみた。ここはSIT(Sydney Institute of Technology)が運営しているところで、少し離れたところにある英語教育センターにも行くことを薦められ、そちらでも説明を受けた。
中央駅からエッピング経由で大学へ戻る。 メールチェックや日記のアップロードをやっているうちにTKUにアクセスできなくなり、しばし悪戦苦闘するが、何とか作業を片付ける。
夜はエル・ランチョへ。部屋が抑えられる木曜の夜まで三泊することにした。今回割り当てられた1号室は、先日の部屋よりやや広く、バスタブがあって得した気分。夕食は、ステーキ。夕食後、満腹ですぐに一眠りするが、11時少し前に騒音で眼がさめる。隣室のトルコ系と思われる客が大いに盛り上がっていて、とにかく大きな通る声で、話し、電話し、歌う。連れの方の声はほとんどしないのだが、とにかく男性の方の声が響いてくる。ようやく12時半頃に静かになって、こちらも就寝。
■ 2001/05/09 (Wed)
グルメな一日?
前の晩に朝食のリクエストで「ステーキ」とあるのに気づき、ためしに頼んでみたのだが、やや小ぶりながら本当にステーキが出てきたので少々驚く。ただし、ソースが何もかかっていないので少々味気ない。
午前中、大学へ出かけ、図書館で利用者カードを受け取る。その場でデジタル・ビデオで画像を取り込み、顔写真入りのカードができるという仕組みである。
昼前に大学を出て、NSW州立図書館で行われている展示を見に行く。お目当てだった公募展入選作の展示は今ひとつの印象だったが、いっしょにやっていた写真家フランク・ハーレーの1910年代の作品展(南極探検と第一次世界大戦の写真が中心)は、なかなか印象深かった。
昼食を近くのオフィス街でとることにして、しばらくうろつきまわり、ちゃんとした日本料理店に入る。「鱒屋」という名前のこの店は、従業員もほとんどが日本人で、客も、過半は白人だが、日本人もけっこう多い。入ってゆくと日本人女性のフロアマネージャーに日本語で接待される。ほとんど東京にいて、外国人客が多い店に入っているのと変わらない。定食物を頼んだが、価格は、銀座で昼食をゆっくり食べる程度?つまりこちらでの昼の食事としてはけっこうな値段だった。当然ながら、ご飯もちゃんと炊けていて、お代わりをもらった。
ウィンドー・ショッピングをだらだら続け、タウンホール駅まで戻ったのだが、イエロー・パスが今日までなので、思い切ってボンダイ・ビーチまで出かけようとひらめき、曇天の夕方近くにもかかわらず、電車とバスを乗りついでビーチまでたどり着いた。しかし、にわかに雨が降ってきたのでビーチに沿った通りのアーケードに逃げ込む。今週末、この辺りで滞在できるホテルはないかと思い、いくつかきいてみたところ、ビーチ正面の「ビルトモア・ホテル」という安宿が金・土・日の三泊連続で部屋をおさえられるというので、予約を入れる。
何軒か店を冷やかして、「トラット」というレストランへ。名前からしてイタリア風で、メニューにもイタリア語が目立つが、ピザもなく、パスタも少ない。逆に、本格的ということか。サラダと焼き魚、ガーリック・トーストに飲み物で30ドル弱。30ドル払って釣りはチップにした。
帰途、バスでボンダイ・ジャンクションへ向かったのだが、イエロー・パスがバスの検札機に吸い込まれてしまい、終点で他の乗客を降ろした後、インスペクターが乗り込んで来てやっと回収した。電車でタウンホールへ、さらにバスでエル・ランチョまで戻った。
■ 2001/05/10 (Thu)
仕事はかどらず
前日に続き、ステーキを朝食にする。今日は、少しは学会発表の準備をしようと思い、9時過ぎに大学へ向かった。ところが、メールチェックとFTPの作業を少しやったところで昼近くになってしまう。
コモンルームへ行って昼食にしようと思ったら、週末の母の日のプレゼント用という手芸品などを売っていて、メインのテーブルが占領されている。ジグソーが置いてある小テーブルのところで、少しずつだらだらとジグソーをしながら食事をする。
午後も、結局ほとんど何も仕事をしないまま、行き詰まっていると、フロアの管理をしている職員が5時で閉めると言ってきた。慌てて作業を止め、パソコンを持って部屋を出た。
マコーリーセンターで夕食。いろいろ迷った挙句、サンドウィッチ屋でチキンとレタスだけのものを作ってもらう。にわかに体調が悪くなり脂汗をかいたので、その場では少し食べただけで、そのままエル・ランチョに戻った。
部屋でお湯を沸かしてお茶を飲み、クッキーを齧って、風呂に入ったりしているうちに、気分が悪いのは落ち着いてきたが、疲れがたまってきているのと、仕事(学会発表の準備)が進まない精神的なプレッシャーで、体調が下降気味なのかもしれない。仕事はある程度あきらめないと、週末はのんびりできないかな。とりあえず、久々に globe の CDを聴く。
■ 2001/05/11 (Fri)
バックパッカー御用達
朝食はまたもステーキ。
荷物をまとめて大学へ。昼食はユニオン(学生組合)の食堂へ行きサンドウィッチと炒めご飯などをとる。
午後からglobeの曲の歌詞を入力する作業などを少しして、5時には大学を出た。普段乗るのとはルートがちょっと違う294バスでサーキュラーキーまで行き、旧税関の前のバス停でボンダイ方面のバスの時間を確かめる。夜中の2時過ぎまでバスがあるのを確認。東の郊外行きは遅くまでバスがあるようだ。
ザ・ロックスを少し歩いて、少し買い物。ベイカー・オーブン・カフェというカフェの裏口側の戸外で、魚の揚げ物とサラダなどで夕食をとる。
380バスでボンダイへ行き、9時頃に宿のビルトモア・プライベート・ホテルにつく。料金をカードで払うのだが、驚いたことに一部屋一泊46ドルという。つまり完全にバックパッカー用なのだ。3階の26号室に入る。部屋はこぎれいだが何と二段ベッドだった(下見したときは部屋が空いていないというのでダブルの部屋を見ただけだった)。とりあえずホテルの中を探検。全部で4階建てで、その上に従業員の生活するスペースが追加されている。2階と3階(こちらの英国式だと first floor と second floor)が元々の姿に近く、その上の4階は改装してあるようだ(天井の高さと装飾の有無からこのように判断)。テレビ室は宿泊客の溜まり場のようで、破れのあるソファに数人が座ってドラマを見ていたので、覗くだけで退散。電気を消してパソコンの画面を間接照明代わりにしてこちらも寝る。
■ 2001/05/12 (Sat)
ボンダイでのんびり
朝食は、キッチンでということだったが最初に降りて行ったときは勝手がわからずひとまず戻り、次に降りていくと数人が食べていたので、ここのルールとシリアルなどのありかを教えてもらう。結局、昨日の夕食の残りを開けてキッチンで食べる。
外へ出ると、天気は水平線の彼方の雲を除けば、雲ひとつない快晴だが、さすがに秋とあって海に入っているのはサーファーばかり。それでもけっこう浜や、公園の芝生に人出がある。売店でキャップと絵はがきなどを買い、パビリオンで無料の情報誌類を集める。いったん宿に戻ってから出直し、本屋で地元の出版社が出した"Discovering BONDI" という本を買い、ぱらぱらと眺めながらピザ屋で昼食。この本が結構面白く、しばし読書。また宿に戻り、浜へ出直して、砂浜への降り口のコンクリートに座って、読書とはがき書き。
来週の週末から出発までは、ここで過ごそうかと思い立ち、ホテルを探そうという気になった。またまた部屋へ戻り、出直して、まず、先日夕食をとった「ボンダイ・トラット」が1階に入っている「アストラ」へ。ところがこれが "Discovering BONDI" をよく読んでいない勘違いで、現在は退職者専用のアパートとなっていることに行ってみて気づいた。
次に"Discovering BONDI" の古い写真でもランドマークとしてよく登場する「ホテル・ボンダイ」へ行ってみると、一泊90ドル、連泊で少々割り引くという。ここは1920年の写真に写っている建物で、エレベーター(こちらではリフト)が当時のままだが、ちゃんと動いているし、見せてもらった部屋もちょっと狭いながら、居心地がよさそうだ。バスルームも付いている。一晩考えてから予約しようかと思う。
宿に戻り、再度砂浜へ、さっきより随分と人が増えた感じ。朝に比べるとジョギングが減って、日光浴というかごろ寝が増えている。トップレスの女性も一人だけだが目にした。
結局5時前に宿に戻って、一眠り。6時頃に眼が覚め、6時半過ぎに夕食へ。近くの「相撲」という日本食レストランで、焼き鳥と寿司を食べる。ちゃんとしているし、鱒屋より当然割安。ただし、デビットがうまくゆかず結局現金で支払う。35ドルほど。
宿に戻り、寝ようとするが、向かいの部屋のフランス語話者の女性たちが遅くまで起きていて、音楽はかけているし、入れ替わり部屋に訪ねてくる男性たちはいるわで3時頃まで寝付けず、パソコンでゲームをする。
■ 2001/05/13 (Sun)
ボンダイを散策
「母の日」の日曜日。
キッチンへ行きシリアルの朝食を簡単にとる。外へ出ると快晴で、浜では何かイベントをやっている。地区対抗のライフセーバーの競技会のような感じだ。
アストラの前の「ジョーンズ・ザ・グローサー」へ行き、パンケーキとサーモンのベーグルで改めてブランチをとる。ここでは順調にデビットできた。紅茶を頼んだのだがポットに優に4杯分は入っていて、なかなか店を出る気にならない。一時間以上も浜を見下ろしながら、置いてあった写真集を眺めたり、絵はがきを書いて過ごす。 いったん宿に戻り、昼少し過ぎから浜へ降りてゆく。ぼんやり浜の人々を眺め、波乗りを眺めているだけでも結構飽きない。今日は、これまで以上にサーファーも、日光浴組も多い。午後の日差しが暖かいといいうより暑いくらいだ。パノラマ写真を試みる。
2時過ぎになり、浜から上がる。パビリオン横の公衆電話から自宅と実家に国際電話をかける。地元の公立学校で市が立っているのでひやかしに行く。古着類やレコード、古道具など、驚くほど安いものが多々あるが、今回はと思い自重する。
トリヨシという焼き鳥屋の前を通りかかったので、おやつと思って入る。焼き鳥二本とおにぎり一個、カリフォルニア巻き一本で16ドル。従業員は日本人の若者ばかりだが、店主は意外にも地元出身のオーストラリア人で、彼が着ている黒いTシャツと同じ物を20ドルで購入した。この白髪の親父は、空手をやっていて、サーファーで、日本やハワイで住んでいたこともあるそうだ。トリヨシ(鳥義?)は青山にも店があるそうだ。
トリヨシから宿に戻る途中でホテル・ボンダイに立ち寄り来週の金曜以降の予約をする。宿に戻って、しばし昼寝。
5時少し前に起きて、徒歩でボンダイ・ジャンクションまで往復してみる。ボンダイ・ジャンクション駅で明日から有効なイエローパスを購入。帰路は横道の探検もした。
7時前に宿に戻って、まずホテル・ボンダイ前の公衆電話から再度国際電話をかける。ホテル・ボンダイの横を入った「タイ・テリフィック」というモダンなつくりの流行っているタイ料理屋で、辛くない黄色いカレーと炒め飯、米のヌードルを注文。飲み物を合わせて35ドル。ここは現金のみ。カレーは美味。炒め飯にかけると特に良い。しかし、ヌードルはビーフンを想像していたのだが、きしめん状のものであまり美味しくない。結局これは、宿に持ち帰る。
9時前になって再度外出、ボンダイ・ビーチ・インの前の公衆電話から自宅に電話をかける。朝食にするつもりで、フィッシュ・アンド・チップスと飲み物を買い、宿に戻る。
■ 2001/05/14 (Mon)
再びセントラル駅裏へ
朝起きて出発の準備をし、テレビ室でフィッシュ・アンド・チップスを朝食にする。
三連泊を終えて、今回の旅で一番安い宿を出発する。バスでボンダイ・ジャンクションへ。電車に乗り換えタウンホールでシティバンクへ行き、また1000ドルを引き出す。電車でサーキュラーキーへ行き、旧税関の4階にある市立展示場(City Exhibition Space)で行われているシドニー・モーニング・ヘラルドの風刺漫画家ジョージ・モルナーの作品展を見る。入場無料の展示だが、なかなか面白かった。税関1階のカフェで、4月29日とまったく同じようにチョコチップマフィンとレモネードに紅茶をとる。
電車でタウンホールへ行き、QVBからバスで大学へ。いろいろメールが来信、今週の日程を調整する。 大学の書店生協で、NSW州の主要都市をカバーした街路名のディレクトリーと、FOR BEGINNERS シリーズの「社会学」「ポストモダニズム」を買う。
午後5時過ぎに、H氏と打ち合わせ。いろいろと大変忙しい時期なようで、恐縮しつつ最後の週にできそうな事を打ち合わせる。
明日がパラマタなので、また、パラマタ・セントラルにしようと思い、電話をするが、今日はもういっぱいとのこと。明日の分を予約する。エル・ランチョも今日は空いていないというので、中心部へ行くことを覚悟する。
ウィンヤードで電車に乗り換えて、セントラル駅で下車。とりあえず、ちゃんとした宿を押さえようということで、駅の裏口といってよい東南の出口から出て、目の前の「ロイヤル・エグジビジョン・ホテル」へ入ってみる。空いている二部屋続きの部屋で100ドルというので、すぐここに決める。部屋は予想以上にきれいで、籐の家具やドライフラワーのデコレーションなど、インテリアも上品だ。電話がないことを除けば、とても100ドルとは思えない(ただしバスタブはなし)。古いスタイルのホテル(2〜3階建てで、1階が飲み屋・酒屋・賭場など)としてはもっとも良く維持されている部類ではないだろうか。中央駅裏口の老舗「駅裏旅館」といったところか。
荷物を置いて、見当をつ て歩いて、先日も行ったピザ屋へ。ロミーナ・ピザ・レストランという店だった。前回と同じマルガリータのファミリー・サイズを頼みスプライトの大瓶を取る。先日の親父はおらず、その相棒と女性の二人で店を回しているが、途中で親父が登場。すぐにこちらを認めて、ひとしきり話をする。彼はナポリ出身で、37年前に、13歳でオーストラリアに渡ってきたのだという。ピザの残りとガーリックブレッドをテイクアウトにして25ドルちょっとはしたはずの勘定だが、20ドルでよいという。とりあえず、今回はおごられることにして、20ドルだけ置いてきた。
宿の部屋に電話がないので、外の公衆電話で必要な電話をし、部屋に戻ると9時前、なぜかサウス・パークをやっているのでついつい見てしまった。
■ 2001/05/15 (Tue)
パラマタ周辺の西シドニー大学
朝は気持ちよく7時少し前に起床。熟睡できた証拠だ。
9時半頃、宿を出て、セントラル駅の反対側へ出て、UTS(University of Technology, Sydney)の脇を通って、徒歩でパワーハウス・ミュージアムへ行く。開館10時の15分ほど前に到着すると、中学生らしきグループ、小学生らしきグループがいる。 ここは、旧・技術博物館を改組し、新たな博物館として元の発電所の建物に入れたもので、子供科学館といった感じの常設展示(実験・体験ものがよくできている)を軸に、複数の展示スペース、ギャラリーを併せたもので、直接のきっかけは、展示スペースの一つで行われている学生がデザインしたファッションのコンテストの受賞作を紹介する展示会の宣伝を目にしたためだった。
入館すると、すぐに特別展として、オーストラリアの装飾美術に大きな功績のあったフランス人、ルシアン・アンリの展覧会が行われていた。これは大変興味深かった。次に常設展示をはしごする。ブラウン管の映像を永久磁石でゆがめる実験は、よくできていて面白かったし、参考になった。アボリジニの人々の同時代芸術、文化についての企画展も面白かった。
いろいろ見ているうちに正午近くなる。帰路はモノレールに乗ってみようと思い、ヘイマーケットのモノレール駅へ。シドニーのモノレールは、1988年開通で、ダーリング・ハーバーの再開発地区を中心に、半時計回りの一方通行で循環している。結局わざと一周半して眺望を楽しんでから、鉄道のタウンホール駅に近いヴィクトリア・ギャラリーズ駅で降りた。
午後に約束のあるパラマタへフェリーで行こうと思い、サーキュラーキーへ鉄道で移動し、昼食代わりにチキンのから揚げなどを買いフェリーの到着を待っていたのだが、直前になって都合の良かった便がキャンセルになってしまった。しかたなく、鉄道をセントラル駅で乗り継いで、パラマタへ。宿に入ると、今度はダブルベッド一つとシングルベッド二つが置かれた部屋が割り当てられた。部屋にはトイレはないが、小さなバスタブつきのシャワーがあり、快適。
一服してから、ウェストミード駅まで、散歩がてら歩き、W氏と合流して、4時に、駅前にある西シドニー大学の施設SWIC(Sydney West International College)を訪問して、しばし懇談。ここは、英語研修プログラムを運営している組織で、チェアマンは元駐日大使だという。有意義な情報交換だった。
6時から授業があるというW氏の車に便乗させてもらい、パラマタ・キャンパス(メイン・キャンパス)へ。バス停近くでW氏と別れ、しばしその辺りを散策。といってももうすっかり暗いのですぐに切り上げてバス停に戻る。 このキャンパスは高い建物がなく、古い1-2階建ての建物群と、それよりほんの少しだけ大きなモダンな建物が広大な敷地に散在している。大学らしくないので、おそらくは元々別の目的で建てられた施設を利用しているのだろうと思った。後で、宿にあった古い地図を見ると、ここには大きな病院(療養施設?)があったようだ。
6時20分のバスでパラマタへ。駅に近いチャーチ・ストリート・モールの「コスモポリタン」というレストランで、シーフードの揚げ物、鳥の胸肉、羊肉料理などを注文する。50ドルに少し欠ける勘定だったので、チップ込みで50ドルにして支払った。 宿に戻り、電話線経由でインターネットに接続し、メールの読み出しなどをする。
■ 2001/05/16 (Wed)
シドニー北部へ
朝はちょっと遅めのペースでチェックアウトぎりぎりの10時過ぎに宿を出発。電車でエッピングへ、そして大学へ。メールチェックなどをし、H氏と打ち合わせをしてから、昼頃に大学を出て中心部へバスで行く。
ウールワース・メトロでフィルムを現像に出し、ウィンヤードで約束の時間に少々遅れる旨の電話をA先生宅に入れる。
247バスでニュートラル・ベイ・ジャンクションへ。北シドニー方面のバスはウィンヤードが起点になっている。途中、ミリタリー・ロードに入ってから、トラムウェイという名の店の看板が見えたりしたが、きっとこの道には昔は路面電車があったのだろう。
一つバス停を乗り過ごし、ちょっと歩いて戻り、A家に電話。ご自宅でお茶を頂きながらシドニーの生活事情、日本人学校のことなどをいろいろと教えていただく。非常に有益だった。 お子さんを迎えに出る奥様と一緒にご自宅を出て、スクールバスの到着を一緒に出迎え、そこでお別れする。
ミリタリー・ロードに出て、最初にきたミルソンズ・ポイント行きのバスに乗り、ノース・シドニー駅で電車に乗り継ぎ、チャツウッドに行く。ここは、日本人学校へのスクールバスが来る町のひとつで、マコーリーへのアクセスが比較的良いところ。チャツウッド駅周辺をうろうろしていると、韓国系や台湾系のビデオ屋さんなどが目に付く。
再び中心部に向かい、とりあえずアーク・スシ・キングという回転寿司(スシ・トレイン)の店に入る。韓国人のやっている店だが、まあまあの味でよかった。しかし、やたらめったら高い天井とだだっつ広い店の空間、飛び交う韓国語という、奇妙な経験でもあった。ためしに韓国語でウェイトレスにうどんを注文してみたら、少々変な韓国語だったからだろうが「Are you Korean ?」と英語で聴き返された。サーモンとアボガドの太巻きが美味しかった。27ドル。
店を出て、電話を見つけて、S君に電話し、連絡をメールでもらうことにする。
オックスフォード通りを西へ進み、ワトル・プライベート・ホテルに宿を取る。ちょうど1階のラウンジを改装している最中で、工事中という雰囲気だが、中国系らしい従業員が応対してくれ、202号室に入る。ここはダブルベッド+シングルベッドのツインの部屋で、99ドル。キッチンがしっかりしていて、バスタブもある。 テレビでシンプソンズを見る。
■ 2001/05/17 (Thu)
図書館と書店生協
宿を9時頃に出発。子供のためにゴウイングスでキックボードを買う。59ドル。正札は200ドル近いのをディスカウントしている。バスの中で見たヴァージンの携帯電話の広告が、キックボードの有効期限を「NOW」としていたのを思い出させる割引きぶりだった。
バスで大学へ。昼食を学内の食堂でとった後、アポイントをもらっていたラジオ研究の助講師(非常勤だが、通常の非常勤講師より関与の度合いが大きく、二人部屋の研究室がある)L氏とお茶を飲みながら話ができた。こちらに来てから、最も有益な会見だったかもしれない。オーストラリアのラジオ放送の事情の基本的な話をきいて、図書館で基礎文献を一緒に探してもらい、最後は研究室に案内してもらった。
その後、書店生協の店舗へ行き、関連文献などを購入。一冊は取り寄せとなったが、図書館で見つからなかった本がこちらにあったのは収穫だった。100ドルを越える買い物。
S君から英語のメールが来て、明日ご自宅に伺うことになった。
今日の宿はエル・ランチョがとれた。先日の1号室向かい合う8号室、つまりの北東の角の部屋で、ダブルベッドにシングルベッド二つという大きな部屋で、エッピングロード側にはバルコニーもあっていすとテーブルが置いてある。このバルコニーはその下が、カフェの屋外席になっている、夏の昼間なら最上等の位置だ。バスにはちゃんとバスタブもある。エル・ランチョに関しては、来るたびに良い部屋になったことになる。
夕食をとりそびれて宿についたのだが、7時過ぎに宿を出発して、ウールワース・メトロに写真をとりに行く。ところが7本あずけたフィルムの1本が行方不明だという。ブルーマウンテンズでとった写真である。とりあえず、6本分を受け取ってくる。帰りにフィッシュ・アンド・チップスとビザなどを買い、9時過ぎに宿に戻ると、そのまま「ビッグ・ブラザー・アンカット」などを見、はがきを書いたりして早めに休む。
■ 2001/05/18 (Fri)
大学を撤収
早朝4時頃に目が醒める。風呂に入り、洗濯をしてから再度ベッドに入る。 朝7時になって、朝食がルームサービスされ、のろのろ起きる。昨日買ったフィッシュ・アンド・チップスの残りを食べ、朝食のステーキは手をつけない。プラスティックの箱に、ステーキを一口大に切って入れ、昼食用にする。 10時ぎりぎりまで洗濯物にアイロンをかけて乾かし(結局、乾ききらず)、チェックアウト。ウールワースの前を通って大学へ。
部屋は開いていなかったが、C氏に開けてもらう。メールをチェックし、いろいろメールや絵はがきを書いているうちに昼になり、5階のコモン・ルームで昼食。
今日で、確実に大学に来るのは最後になるかもしれないので、すべての荷物をチェックして荷造りをしなければならない。午後は、荷造りの合間を縫って、S君に電話で連絡をとり、夕方の待ち合わせを決めてから、エッピング・ボーイズ・ハイスクールへ出向く。天気は午後から下り坂で、ときどき雨がぱらつくようになる。同校では、副校長さんから学校のこと、当地の高校の事情などを説明してもらう。この学校は、アジア系の生徒も数多い。話しをしている間にも次々と電話がかかってくる。本当に忙しそうな雰囲気だ。
大学へ戻り、図書館でコピーをとる。コピーのとり方もIDカードを使ってこれにお金をデポジットするという仕組みで、なかなか進んでいる。
部屋に戻るとS君が既に来ていてくれた。十年ぶりくらいの再会である。さっそく彼の車でリバーウッズのご自宅へ行き、奥さんの手料理をご馳走になる。結局8時過ぎまでお邪魔して、ボンダイ・ビーチまで雨の中を車で送ってもらう。ホテルに着く直前に忘れ物に気づく。結局、月曜日に大学まで持ってきてもらうことにした。
ホテル・ボンダイの部屋は305号室で、回廊を挟んだ向かい側にFM局のスタジオがある。このFMの存在は既に知っていたが、ここにあるとは知らなかった。
一服してから、前回泊ったビルトモアに近い「リバティ・ランチ」に入り、お茶とスプライトとケーキをとる。金曜の夜とあって、ホテル・ボンダイの1階ではライブをやっていて、なかなか静かに過ごせない。それでもすんなり寝たのだが、夜中に目が醒めて時計を見たら深夜の3時過ぎで、まだ演奏の音がしていた。
■ 2001/05/19 (Sat)
土産物の買出し
朝から雨で、天気が悪い。部屋でメールチェックなどをしてから、お土産物の買出しに、タウンホールの安売り土産物屋まで出向く。
まず、ウールワース・メトロで残り1本のフィルムを回収。次に土産物店で、子供用に帽子とキーホルダーなどを購入。現金が無くなったところでシティバンクから1000ドル引き出す。その足でゴウイングスへ出向き、レインボーの傘を購入。
昼は再度アーク・スシ・キングへ。うどん、鳥丼などを含め43ドルは、昼としてはなかなか贅沢。ウィンヤードまで電車、そこからバスに乗り継いで、ニュートラル・ベイ・ジャンクションへ紀ノ国屋を探しに行く。現地についてからカフェで一休みし、そこのウェイトレスにおおよその場所を教えてもらって紀伊國屋書店を探し当てる。日本の本は、だいたい2倍の価格で売られている。
再び、タウンホールまで戻り、焼き増しを頼もうとしたら火曜日の夕方までかかるというので、断念。ボンダイ・ジャンクション経由で宿まで戻る。ゴウイングスで買ったレインボーの傘を宿で開いてみたら、骨が一本折れていた。仕方なく、再度ゴウイングスへ行き、傘を交換してもらう。戻ってから一眠りし8時過ぎに食事に行こうとしたが、結局、フィッシュ・アンド・チップスとチキンの揚げ物に、スプライトを買ってきて、部屋で食べる。合わせて20ドルちょっと。
■ 2001/05/20 (Sun)
中心部へ二往復
こちらで最後の日曜日。昨日の夜食の残りで朝食をとり、9時過ぎに散歩に出る。ボンダイ湾の南端にあたるマッケンジーズ・ポイントをまわってタマラマ湾を見下ろす位置まで行き、ちょうど快晴の空に「JESUS SAVES」と飛行機雲で大書しているのを見上げながら、坂のぼりで汗をかきながら、尾根越えで戻ってきた。
一休みして、ジョーンズ・ザ・グローサーへ行き、お茶を飲み、お土産用にキャップやエプロンを買う。今日までイエロー・パスがあるので、どこかへ行こうと思い、昼過ぎに中心部へ向かう。ボンダイ・ジャンクションで電車に乗り、タウンホールを経て、サーキュラー・キーまで行って、現代美術館を見る。お目当ての「art>music」という企画展はかなり面白かった。
4時頃部屋に戻り、今日も市が立っていた公立学校のところを冷やかしに行く。ほとんどの店が店じまいをしているところだったが、子供の古着を一着買う。トリヨシで、おやつのつもりで、焼き鳥とおにぎり、カリフォルニア巻きをとる。
中心部で買い物をして、ちゃんとした夕食をとろうと思い直し、バスで再度ボンダイ・ジャンクションへ。タウンホールで下車し、ウールワース・メトロで日本に持ち帰るお菓子類を少しと牛乳を買う。さらに公園まで歩き、381バスでアカデミー・ツイン・シネマの近くまで行って下車する。この辺りは、インドシナ系の料理屋などが多いのだが、結局イタリア料理店に入る。サラダに、ピザとパスタ、飲み物とアイスクリームで、50ドル弱を支払う。
再度381バスでボンダイ・ビーチへ。9時少し前、自宅へ電話。
■ 2001/05/21 (Mon)
チャツウッドとマースデンのIEC
こちらで最後の日曜日。昨日の夜食の残りで朝食をとり明日は日本行きの飛行機に乗る。オフィス関係を回れるのは今日だけなので、あちこちに動き回らなければならない。
朝、写真の焼き増し分をホテルからちょっと先の写真屋に出してから、朝食をリバティ・ランチでとる。 バスでボンダイ・ジャンクションへ行き、デイトリッパーを購入する。
電車を乗り継いで、チャツウッドへ行き、エッピング・ボーイズ・ハイスクールでIEC(インテンシヴ・イングリッシュ・センター)が置かれていると聞いたエッピング・ハイスクールへ向かう。駅から十分ほど歩き、到着。高校は学芸会?をやっている様子で、どうやら女子生徒が多い共学校らしい。IECの事務局でIECのシステムについて丁寧な説明を受ける。ここでは日本人も含め、150名あまりの生徒がIECに通っているという。しかし、ここでは、もしマコーリー大学の近くに住むのなら、こちらのIECではなく、マースデン・ハイスクールに置かれているIECに通わなければいけないと指摘された。
駅まで歩いて戻り、マコーリー大学経由のバスに乗り、大学へ。研究室からボンダイFMのK氏に電話し、明日の約束を確認してから、H氏に挨拶をしようと思ったら、彼は体調を崩して休んでいる。直接会えなかったので、S女史に住宅と鍵の件をよろしくと頼む。
マースデン・ハイスクールはイーストウッドの先にある。パスでイーストウッド経由パラマタ行きに乗り、学校のある谷の頭にあたる辺りで下車して、十分ちょっと歩いて到着。ちょうど下校時刻で生徒がいっぱいいたが、エッピング・ボーイズに比べると、白人が多いという印象。IECに着いたのは午後3時半頃だったが、既に事務員が帰ったということで、居合わせた教員から簡単に概要を聞く。ここは70人ほどが通っているという。
帰りはヴィクトリア・ロード側に出て、バスに乗ろうとしたが、ちょうどスクールバスの時間帯で一般の乗合バスがなかなかこない。だらだらウェスト・ライド方面に歩いていると、途中のバス停でバスに乗れた。ウェスト・ライド駅の入口で下車し、電車でエッピングまで、さらにバスで大学に戻った。
5時前にS君が忘れ物を持ってきてくれた。研究室を片付け、バスで中心部へ向かい、電車とバスを乗り継いで、7時少し過ぎに宿に戻った。
夕食は、Modern Japanese が看板のニギトロ(NIGITORO)へ。サビ抜きで握ってわさびを添えた寿司や、地元の野菜を活かした椎茸サラダや、天ぷらなど、本格的な料理を楽しんだ。70ドルちょっと。ラムネは大阪のサンガリア製だった。この店は、日本人向けというよりは、おしゃれな若い人向けで、東京にあってもおかしくない雰囲気だ。料理をしている日本人のおじさんは大阪の人だが、もともとは久里浜の出だという。食事中に建物の上の階で火災報知器が鳴り出し、しばらく止まらないというハプニングもあった。
■ 2001/05/22 (Tue)
ボンダイ・ビーチ最後の休日
今日は一日中ボンダイ・ビーチで過ごし、空港へ直行する。
午前10時のチェックアウトぎりぎりまで、荷物の整理をして、朝食を食べそびれる。まとめた荷物を、ホテルに預け、まずは、郵便局によってからジョーンズ・ザ・グローサーでお茶。
午前11時45分に、ホテルにもどり、ボンダイFMへ。K氏と1時近くまで話す。7月以降の再訪を約してFMを後にする。
ブランチのつもりで、ボンダイ・ピザ・レストランへでマルガリータ・ピザ、ベジタリアン・パスタなどを食べる40ドルちょっと。その後も、郵便局やコモンウェルス銀行で用を足しながら、最後は「TOO FATZ」で、またまたマルガリータ・ピザを取る。結局これは食べきれず、テイクアウトして空港で少し食べ、残りは機中で平らげた。
6時に迎えにきた「バス」は、客席が10席あるミニバンで、渋滞がなかったこともあって30分で空港まで着いてしまった。出発3時間前のチェックイン開始を待って、荷物を預け、お土産の買い物をしながら出発ロビーへ向かい、搭乗の少し前に自宅へ電話した。
乗り遅れそうになった客を待ち、20分ほど遅れて出発したカンタスQF21便は、ガラガラにすいていて、夜遅くなると乗客の多くは座席を数席使って横になっていた。 夜食を食べたあと、深夜にピザを食べきる。
■ 2001/05/23 (Wed)
帰国
朝4時頃眼がさめ、夜空を眺め、明けの明星と夜明けを見る。実に神々しい。
その後少しうとうとし、朝食。
出発が遅れた分だけ到着も遅れ、7時過ぎに成田に到着。スムーズに手続きも済んで、7時半過ぎにはロビーへ。


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