私的ページ:山田晴通

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 合衆国東部日記:

 2006年10月25日〜11月7日 

   
            
      
______
      
      
      
      
      
      
      
   

 今回の旅行は、バートン・クレーンに関する資料集めが主な目的でした。
 今回の旅には、身内が同行しています。文中にある料金のうち、宿泊費は2人で泊まる場合の金額です。この旅行では、1米ドルは120円くらいでした。

 見出しに示した地名のうち、青字はその日に訪れた(宿泊地以外の)主な場所緑字は宿泊地です。
■ 2006/10/25 (Wed)
ほとんど準備しないままの旅立ち

CO 008便 機中

Buffalo, New York:
Buffalo Hostel
(その1)
 この日記を作成するにあたり、2003年のカナダ行きの際の日記をテンプレートにしているのだが、初日のタイトルはそのままである。今回も、前日まで諸々の事務処理に終われ、旅の準備どころではなかった。しかも、前日はいつものように朝から夜まで4コマ授業をして、ついでに深夜に野暮用をこなした。今朝も、前夜から4時間程寝床にいただけで、8時過ぎに大学へ行き、ばたばたと用事を処理してから、午前11時過ぎに出発。国分寺から中央特快と「エアポート」に乗り継いで、空港第二ビルへ向かった。車中では、心地よくうたた寝した。
 今回利用するコンチネンタル航空は初体験のエアライン。CO008便は、ニューヨークかと思っていたらニューアーク行きだった。要するにハドソン川の対岸のニュージャージー州の空港へ行くということだ。機材のB777は、NYC2000とカラフルな暖色にペインティングされている(後で調べたらピーター・マックスのデザインだった)。席は中央の列だったので、眺望はなし。離陸後さほど経たないうちに食事がサービスされ、夜になって室内も暗くなり、しばし仮眠する。

(その2)
 アラスカ沖を航行するあたりで目が覚め、しばしゲーム(ブラックジャック)をする。航行案内の上ではカナダ沖を飛ぶ頃に、チキンサンドの軽食、その後はクラブ音楽のオーディオ・チャンネルを聴きながら、この日記の準備をする。その後は本を読んだり、少しうとうとしたりしながら過ごし、やがて再度の機内食をとる。ニューアーク到着直前には4つの席と通路を挟んだ左側の窓越しに、マンハッタンも遠望できた。ランディングは予定より30分以上早い。ジェット気流にうまく乗ったということか。
 入国審査は、以前にハワイへ行ったとき、つまり同時多発テロ以前とは全く違っている。左右の人差し指の指紋を採り、さらに顔写真を撮影する。連れは英語がおぼつかないので、自分の手続きが済んでから、連れが手続きしている様子を3メートルくらいの場所で見ていたら、別の係官に立ち止まらず前へ進めと追い立てられた。ともかく、無事入国し、荷物を乗り継ぎ用の受付に持っていく。
 乗り継いだバッファロー行きはERJという50くらいしか席がないスマートな機材だった。乗り込むとき、ゲートのすきまから吹き込む風の冷たさに、この辺りの気候を実感した。1時間ほどでバッファローに到着する。荷物を受け取り、宿泊や町へのアクセスの情報をキョロキョロ探していると、とりあえず直行便のシャトルバスはもう終了していることがわかる。また、無料電話サービスを出していたホテルのうち、割合と手頃そうなところは電話をしてみたものの満室という応答だった。インフォメーションのおばさんに事情を話すと、いくつか宿の名を挙げてくれたが、何でも2週間ほど前に暴風雨の被害があったとかで、災害復旧関係工事関係者がやってきていて需給が逼迫しているらしい。こちらが現金がほとんどなく電話もできないと言うと、ここなら電話をかけてあげます、といって市街地のユースホステルへ電話をつないでくれた。ドーム(ドミトリー形式)なら一泊30ドル未満だが、連れと二人で一部屋を使うなら66ドルだという。さっそく泊まることに決める。
 インフォメーションのおばさんの話では、路線バスはまだサービスがあるが、次のバスまで1時間くらいあるということだった。とりあえず場所を確認するつもりで、路線バスのバス停へ向かった。バス停で時刻表を確認していると、停車していたバスの運転手が話しかけてきた。1時間後の市街地行きのバスを待つつもりだと答えると、このバスで途中で地下鉄に乗り換えればよいという。こちらには現金が5ドル札1枚しかないというと、それで大丈夫だから乗れと言われたので、そのまま乗り込む。このバスは市街地よりもずっと北方の郊外を走る路線のようだった。空港から乗ったのはわれわれ二人だけだったが、途中でぽつりぽつりと乗客が乗ってくる。40分あまりバスに乗ってUNIVERSITY STATIONという地下鉄の駅で降りることになった、ドライバーはわざわざ車を降りて、駅の入口を指示してくれた。ここは、地下鉄の終点の駅で、構内には黒人の若者がたむろしているが、グラフィティやバンダリズムの跡は見当たらず、緊張した感じはない。下りのエスカレーターは停まっていたので、階段を下り、停車していた2両連結の車両に乗り込んだ。この路線は地下鉄になっている区間が有料で、これはバスからの乗り継ぎ券で乗れる。ちょうど車両が地上に出て路面電車に変わるTHEATER駅で下車する。ここから先の路面電車の区間はもともと無料になっているようだ。路面電車の駅で下車する際には、車体からステップが出てくる形になっているのが面白かった。
 とりあえず、THEATER駅付近は中心市街地の一角で、立派な建物が並んでいるが、人っ子一人見当たらない。辺りには文字通り劇場らしきものが並んでいるが、劇場もバーも、もちろんシアーズの店も看板だけが光っている。番地をたよりにホステルにたどり着く。電話で聞いた条件で2泊できるということで、とりあえず2泊を頼む。TCで200ドル出し、おつりを現金でもらう。アメリカの紙幣はやはりなんだかちゃちな気がする。通されたのは2段ベッドが4台用意された15畳相当くらいの部屋203号室だった。施設はピカピカに近い新しいもので快適だ。キッチンでとりあえずお茶をもらっていると、管理人の男性がラザニアの食事をとりに上がってきた。この時間は、共用のスペースであるキッチンか居間にいるようだ。この時間に出歩いて食事ができるかとたずねてみたところ、次の信号まで行けばTGIFの店があると教えてくれる。何でも、人通りが少なくて奇妙に思うかもしれないが、トラムが走っているメイン通り沿いは大丈夫、ということらしい。ただし、横に2ブロックも外れるとかなり危ない、とも教えてくれた。午後9少し前に宿を出て、TGIFへ行き米国上陸後最初の食事をとる。JACK DANIEL'Sのソースを売りにしたリブや揚げ物類のサンプラーと、コブサラダ、連れのビール(22oz.=1.5パイント分)と(アメリカ式の)アイスティーで30ドルだった。チップをのせて33ドルを現金で支払った。
 支払いを済ませて店を出ると、雨になっていた。建物の入口付近には、いつの間にかホームレス風の男性数人が雨宿りをしている。そこへパトカーがやってきて、彼らに何か声をかけ始めたところだった。雨の中を建物の庇をたよりに宿まで戻る。
■ 2006/10/26 (Thu)
順調な滑り出し

Buffalo, New York:
Buffalo Hostel
 朝6時半頃、目がさめ、前日の日記を付ける。しかし、その後また眠り、結局、朝食もとらず午前中いっぱいは部屋でごろごろしていた。
 昼少し前に宿を出て、図書館へ向かう。図書館では貴重書のセクションに含まれている、郷土資料のところへ行き、レファレンスを依頼する。白人の女性司書数名が手伝ってくれて、次々に関連する資料が出てきた。マイクロフィルムの新聞紙面を見たりもした。バッファローは、今回の調査のテーマであるBurton Crane が生まれた場所なのだが、彼の同名の父は、当地の教会の牧師だったということしか、これまではっきりしていなかった。資料を調べてゆき、父親=クレーン師の生年と出身州、当地へはCalvaryという教会の牧師として1899年に赴任し1902年までその任にあったこと、前職と前住地などが分かった。残念ながら、この教会は1940年に解散し、建物も解体されたということだ。
 午後3時過ぎまで貴重書のところで作業を続けた。区切りがついたところで、連れと合流しようとしたのだが、行き違いになったしまい、図書館のあちこちを探すはめになった。それでも何とか無事に合流でき、ほっとした。図書館内のショップで除籍本を買い、図書館を出て、そのおおよその場所がわかった件の教会の跡地を眺めに行くことにした。跡地と思しきあたりは、小さなオフィスの建物が建っていたり、工事中だったりしていたが、場所を確定できるような手がかりはなかった。
 宿に戻り、郵便局の場所を教えてもらう。すぐ裏だった。それからツーリスト・インフォメーションへ行き、食料品店の場所を教えてもらう。Washington Market という店が近くにあるというので早速出かけ、牛乳やシリアル、パン、ラーメン、サラダ、バナナなどを買う。特にサラダは、決められた容器に詰め放題というサラダバー形式で、詰める作業そのものが結構面白かった。ついでに、地名入りの安いTシャツも買う。
 また宿に戻ってから、今度はコンビニへ飲み物を買いに行く。戻ってから、買ってきたもので夕食にする。夕食のときに、同宿となった唯一の日本人N氏といろいろ話をする。とても真似のできない立派な人である。食後は、図書館でコピーをとってきた資料の整理をし、内容を読み、それが一区切り着いてからは、書評を抱えている本を拾い読みする。一通りは既に読んだのだが、書評を書くだけのアイデアが湧いて来ない。既に締め切りになっているのだが、何とかしなければならない。
 結局そのままだらだらとラウンジで作業を続け、ようやく床に着いた頃には2時少しすぎになっていた。
■ 2006/10/27 (Fri)
名所を歩き、名物を食べる

Buffalo, New York:
Buffalo Hostel
 前夜の就寝が遅かったので、朝はすっきり起きられない。起きてはまた寝てしまい、だらだら過ごす。一度は5時頃目が覚めて、抱えている原稿をそこそこ快調に進め、また、ちょうど早くに出発するN氏に挨拶もしたのだが、その後はまた寝た。朝食は、前日の残り物とコンビニで買ったミネストローネ、コーンフレークなどで済ませる。結局宿を出たのは10時近くだった。
 郵便局で用を足してから、宿で教えてもらった古書店 Old Editions へ行く。宿の女性は大きな古書店だと言っていたが、もともと細長い2軒分の店舗を改装して使っている。二階も店舗になっており、よく手入れがゆき届いていて感心した。地元の建築に関する大型本と、ポピュラー音楽関係の本数冊を買う。
 正午に市庁舎へ行き、ボランティア・ガイドによる無料のウォーキング・ツアーに参加する。時間より少しだけ早く着き、売店で飲み物とデニッシュを買ってパクついていると、ガイドの男性がやってきた。参加者は私たち二人しかいない。しかも折悪しく展望台が改装中で入れないということだった。それでも、市の歴史を聴きながらロビー、市長執務室、議場などを見学し、1929-1932年に建設され、エジプト趣味とインディアンのモチーフが随所に贅沢に装飾されたこの建物の壮麗さに触れることができた。バッファローの歴史を考えると、この市庁舎の建設(大恐慌の年に始まり市制百周年に完成した)は、この街の最盛期の最後の輝きだったのだろう。
 元数学教師というガイド氏は、60代と思しき白人で、とにかく喋り方が早く、時折、もっとゆっくり、とお願いするはめになった。授業をしていた頃は、最初に「君たちがまず慣れなければならないのは、早いおしゃべりについてゆくことだ」と説教していたそうだ。
 小一時間のツアーが終わってガイド氏と別れてから、更に中心市街地にある19世紀末のオフィス・ビルなどを見て回る。エリー運河の建設・開通や鉄道網の発達で、当時のバッファローが東部と中西部の結節点として、経済的繁栄を謳歌していたことが偲ばれる。途中で、路上で売っていたホットドックや、ビル内の中庭にスタンドがあったビーフ・オン・ウェック、つまりローストビーフをハンバーガーのバンでサンドウィッチ状にしたものなどを食べ、やや遅い昼食にする。
 その後、中心部のショッピングセンターに入っている書店で、バッファローに関する本を数冊購入し、そのまま歩いて午後2時過ぎに図書館へ着いた。前日も訪れた貴重書セクションの司書は昨日とは違う人たちだったが、やはり私と同年輩の白人女性である。前日入手した資料に関する疑問点などを確認する作業をして、一定の成果があった。
 街を歩いている間にも少し雨がぱらついてはいたが、図書館で作業をしているうちにしっかりとした降りになってきた。雨中を歩いてトラムも使い、宿に戻る。次の訪問地であるエリザベスの宿に電話を入れ、予約をする。応答に出たのはものすごいインド訛りの男性で、「あなたの予約番号は***番」というのを聞き取るのに何回も聞き直してしまった。少ししてから、改めてマーケットまで出かけ、サラダと牛乳などを買い、またトラムでコンビニまで行き飲み物などを買い足す。図書館にいた辺りから、体調が悪くなってきて、頭痛がひどい。ラウンジのソファで2時間ほどウトウトしたが、頭痛はおさまらない。
 8時半頃、雨中に宿を出て、地元の名物というチキン・ウィング(要するに骨付きの唐揚げ)を食べに、Anchor Bar という店まで出かける。宿を出てすぐ隣の劇場では、Grateful Dead のメンバーだった Bob Wier のバンドの公演があったので、デッドヘッドたちがまだ劇場前にたむろしていた。雨は激しくはなかったが、思ったより冷たく、重い感じだ。メイン・ストリート(固有名詞)を北へ、地下鉄区間一駅分ちょっとを十分少々かけて歩き、ようやく店にたどり着いた。週末の夜とあって、結構人が入っている。店は二つに分かれていて(通常の店舗の2軒分)ジャズの生演奏をしている方にテーブルをとって座る。演奏しているのはベースだけが白人のカルテットで、時折女性ボーカルが加わるという編成だ。フロントのサックス奏者は、テナーとソプラノを曲によって持ち替えていた。曲目はスタンダードからポピュラーまでいろいろで、要するに曲受けを考えての選曲だが、Giant Steps を演奏したときは、思いがけないほど尖った演奏だったので驚かされた。本来の持ち味はこういうところにあるプレイヤーなのだろう。チキン・ウィングとピザをとるが、もちろん食べきれないほどの分量で出てくるので、最後は持ち帰り用の容器をもらう。名物にうまいものなしと言うが、決して不味いものではないが、なぜそんなに人気があるのかは今ひとつ分からなかった。もちろん、もともとチキンが少し苦手だということもあるのだろう。この店ではマーチャンダイズもあって、帰り際にTシャツを買った。
 閉店準備が始まった11時過ぎに店を出たが、雨脚は来たときと変わっていなかった。それでも帰路は、目標物が遠くからでもはっきり見えたせいか、往路よりは近く感じられた。宿の直前の警察署の前で、路上に落ちていた携帯電話を拾う。日本のものより小振りだが厚みがあり、ごつい感じだ。そのまま警察署に入って届けた、というより警官に渡した。日本の警察とは違って、落とし物で記録を取ったりはしないのかもしれない。
 宿に戻ってからネットを少しする。2階のラウンジでは無線LANの信号が弱いので、地下の娯楽室へ行く。ここで少しネットをしてから、深夜1時頃に就寝した。頭痛が厳しい。
■ 2006/10/28 (Sat)
ナイアガラ

Niagara Falls, New York

Niagara Falls, Canada

Buffalo, New York:
Buffalo Hostel
 7時過ぎにトイレに立ったので、そのまま起床し、少しネットをしてみる。昨日からの頭痛がよくなっていない。パソコンに向かっていても集中できず、途方に暮れる。もともと今日は土曜日なので、オフにして、ナイアガラ観光に行くつもりだった。冷たい雨が降り続き、どうしようか迷ったが、結局、9時過ぎに、昨日買ったサラダを中心にした朝食をとり、10時過ぎに出かけた。
 バス・ターミナルへ行く前に、図書館に立ち寄り、除籍本や、当地に縁の作家であるマーク・トウェイン関係のTシャツを買う。11時半頃バス・ターミナルへ移動し、11時55分発の40番のローカル・バスでナイアガラ・フォールズへ向かう。小一時間でナイアガラ・フォールズまで到着したのだが、どこで下車すべきか考えていなかったので、つい終点のバス・ターミナルまで乗ってしまった。ところがここは市街地の外れで、カナダ側へ徒歩で渡れるレインボー・ブリッジまでは2キロほどある。結局、30分近く待って、折り返しの40番バスでカジノ近くまで戻り、徒歩でカナダ側へ向かった。徒歩での国境越えは、シンガポール→マレーシア以来の経験である。
 ところが、折悪しく雨脚がにわかに強くなってきた。あろうことか橋の中央辺りでは霰まじりで横殴りに吹き付けてくる。這々の体でおよそ400メートルほどを渡りきりカナダ側に辿り着いた。カナダの入国管理事務所には、女性の係官が一人いるだけ。どこに行くと尋ねられたので、そこのハード・ロック・カフェへ行くだけで戻る、と言って、あっさり入国スタンプを押してもらう。カナダ側は街自体がテーマパークの感があり、いろいろなものが並んでいるが、ハード・ロック・カフェとチョコレートのハーシーの店、普通の土産物屋で買い物をした後、スターバックスでゆっくりと休む。あっという間に膨らんだ買い物を抱え、暗くなった6時過ぎに、スタバを出て、国境の免税店で買物し、再び橋へ向かった。カナダ出国側のゲートには人はおらず、50セントを投入して回転バーを押して橋へと向かうのだが、免税店の店員が一人ここまでついてきて、こちらがバーを通過したところで紙袋を渡すというのがなかなか滑稽に思われた。米国側に辿り着くと、カナダよりずっといかめしい雰囲気だったが、入国スタンプの更新もなく、そのまま通された。
 米国に再入国したところで、近くのハード・ロック・カフェへ行く。さっき行ったカナダ側が Niagara Falls, Canada で、こちらはNiagara Falls, NY である。食事をしようかとも思ったが、バッファローへ帰るバスの時間の都合を考えて買い物だけで切り上げる。さらに、また別の土産物屋にも寄ってからカジノの方向へ進み、結局7時半頃にホリデイ・インの前から40番バスに乗った。車中では熟睡とまでは行かなかったがしっかり寝た。眠ったおかげか、頭痛がだいぶ和らいだように思った。
 宿に戻ったのは9時少し前。昨日の残り物やスープなどで、夕食にする。その後は、明日朝の出発に向けて荷造りをする。それに区切りがついたところで、またネットをしたり、日記を付けてそのまま深夜まで起きていた。明日から夏時間が終わって本来の時間帯になるということなので、就寝前に当地時間に合わせている腕時計の針を1時間戻す。
■ 2006/10/29 (Sun)
長い一日

Buffalo, New York

New York, New York

Elizabeth, New Jersey:
Knights Inn

バッファロー名物

Buffalo, NY
 朝は7時過ぎに起き、ラウンジで原稿に取り組んだがはかどらない、頭痛もだいぶおさまったが、まだ少し残っている。途中から原稿を進めるのを断念し、前日の日記をつける。8時過ぎに宿を出て、前回、正確な場所が分からなかった、クレーン師の教会跡を再度確認しに行く。ついでに、同じデラウェア通りの少し北にある、マーク・トウェインの住居跡も見に行く。ここにあったトウェインの旧宅は1960年代に焼失し、その後は高級レストランに改装されたが、現在はそれも廃業となり空き家になっている。改装の際に旧宅の馬車庫の一部の壁がそのまま利用されており、その部分だけがオリジナルの面影を伝えている。9時前に宿に戻り、持ち歩けない残り物などで朝食をとり、9時50分頃に宿を出た。久々に荷物が重くなった。宿から少し歩いた、市場の跡らしき建物が骨組だけになって保全?されているところの前にあるバス停(Geesen & Oak)から、10時過ぎに空港行きの24番バスに乗り、出発まで十分余裕を持って空港に到着した。
 空港では、長い長い搭乗手荷物検査の列に並んで、一時はどうなることかと思ったが、問題なく検査も終わり、正午の搭乗開始まで30分ほど余裕をもってゲート区域へ進んだ。土産物店で少し買物をして、バーでビーフ・オン・ウェックとチキン・ウィングのコンボなどをとって昼食にした。どちらもバッファロー名物というふれこみだ。搭乗時刻になってゲートへ行ったが、出発が遅れるとアナウンスされる、強風のために多くの便が遅れているようだ。結局、搭乗が30分遅れ、さらに滑走路の端で20分ほど待たされてから1時間以上の遅れでニューアークに到着した。とにかく途中の気流の情態も不安定だったが、再度の着陸直前の飛行機の複雑な降下には緊張させられた。着陸時にこんなに汗をかかされたことは、最近では記憶にない。
 空港からは、隣接するエリザベス市にある宿まで、タクシーで移動する。空港の係員は料金の目安を16ドルと言ってメモを渡してくれたのだが、運転手に料金を聴くと19ドルだと言う。タクシーにメーターは着いていない。16ドル程度の料金ならチップをのせて20ドルを払おうというつもりで20ドル札を用意していたので、少々カチンと来たが、吹っかけられたのは無視してそのまま20ドルを払う。
 今日から3日間は「Knights Inn」というモーテル・チェーンの宿なのだが、今回利用するエリザベスのものは本当に安宿という感じで、インド系の夫婦が切り盛りし、黒人のおばさんがベッドメイキングをしている。ちなみにパンフレットをよく見たら、このチェーン全体の代表者もインド系だ。部屋は201号室。到着したときはまだ部屋ができていなかったようで、しばらく散らかったままの二つ隣りの部屋で荷物を置き、ベッドに座ってほっとしていた。部屋は古い簡素な作りだが、禁煙室ということもあってか、それなりにこぎれいな感じではある。勿論ネットなどはないが、昨日まで全く見ていなかったテレビがあるのは嬉しい。
 ひと呼吸入れてから、エリザベスの鉄道駅までの道を確かめるために一回りする。帰りに近所の食料品店で少し買い物をした。歩いている間にコロンビアの国旗をいくつか見かけ、また食料品店の中ではスペイン語のラジオ放送が鳴っていた。この辺りにはコロンビア系の住民も多いようだ。
 午後4時半過ぎになって再度宿を出て、エリザベス駅まで行き、アムトラックと並行しているニュージャージー・トランジット線でニューヨークへ向かう。駅で切符の自動販売機で往生していると、横から黒人のおばさんが割って入り切符を買う操作を教えてくれた。確かに助かったのだが、その上ではっきり「クォーター4枚おくれ」と要求された。まあ、彼女のおかげで一枚5ドルの切符2枚を無事買えたのだから、それくらいは喜んで出してもよいのだが、財布の中に溜まっているダイムとペニーを取り出して、1ドル分を払った。バッファローでも、ふらっと寄ってきて、クォーターやバス代相当額を物乞いする人(中には白人もいた)は見かけたが、サービスを押し付けて対価を要求するというパターンには初めて遭った。
 5時過ぎにエリザベスを出た列車で、6時前にニューヨークのペンシルヴァニア駅に到着し、ここからは地下鉄であちこちを回る。まずはイリジウムへ行き、明日の入場の可能性などを確認する。少し歩いてロックフェラー・センターから再度地下鉄に乗り、セント・マークス・プレイス周辺の店を冷やかしに行く。Rockit Scientist というレコード店で中古DVDを買い、また近くのお土産屋でTシャツ類を買う。それから更に地下鉄を乗り換えて移動し、ブルックリン橋のたもとから、大規模の古書店として有名な Strand へ行こうとしたのが、最新のガイドブックで10時まで営業となっていたのに、実際には8時までで終了していた。そこで、タイムズ・スクエアへ向かおうとしたのだが、誤ってブルックリン方面に乗り込んでしまい、気づくのがおくれたためにブルックリン側の Nevins St.まで来てしまった。幸い乗換駅だったので、18分ルールで足止めされることはなく、タイムズ・スクエアに向かい直した。
 タイムズ・スクエアでは、ハード・ロック・カフェでグッズを買い、近くの Bubba Gump で食事をした。パスタにエビのソテーがのったものと、フィッシュ&チップスをとる。当然食べきれないので、後者は半分位をテイクアウトした。マーチャンダイスも少し買って、11時半頃に店を出る。ペンシルヴァニア駅へ向かい、エリザベスを通るニュージャージー・トランジットに乗って戻ってきた。車中では、乗り過ごさないように注意しなければ、と必死だった。
 駅から宿までは、それなりにルート取りを工夫したこともあって、深夜の徒歩での移動とはいえ、過度に緊張せずに済んだ。1時過ぎに宿に戻り、テレビをつけて日記を付け始める。そのうちに眠りに落ちてしまう。
■ 2006/10/30 (Mon)
仕事もし、ショーも楽しむ

New York, New York

Elizabeth, New Jersey:
Knights Inn
 朝7時過ぎに目覚めたが、すっきり起きられず、寝床で少し日記の続きを書く。昨夜の残りを朝食にする。この宿では調理はもちろん、湯を沸かすことができないのが少々不自由だ。
 午前10時過ぎに、一人で宿を出て、手ぶらで中心部へ出かける。連れはまだ休んでいるので、ルームメイクはいらないとオフィスに告げに行く。オフィスには、昨日とは違うインド系の男性が詰めていた。駅近くの警察署で、市役所図書館の場所を教えてもらい、駅からブロード・ストリート沿いに南下して図書館へ向かう。この通りがエリザベスの伝統的商店街ということだろう。
 図書館では、ディレクトリーのコレクションをひっくり返して、クレーン父子のエリザベス在住期間の見当をつける。バッファローよりも司書があまり役に立ってくれない感じ(フレンドリーだがこちらが要求した最低限のことしかしてくれない)なので、少々難渋したが、いろいろ進捗はあった。無線LANがあるそうなので、明日以降は利用しようと思う。
 図書館の後、市役所へ行き、3階のエンジニアリングの部局でようやくストリート・マップを入手する。ネットでも公開されているものだが、やはり紙の方が使いやすい。昼過ぎにいったん宿に戻るが、連れの調子がまだ悪いので、地図を手に再度一人で出かけ、クレーン関係の場所の現状を確認しに行く。結局、エリザベスの中心市街地の北のはずれの方を歩き回ることになった。クレーンの父が牧師であった教会は、現在は銀行の支店になっている。クレーンが最初の滞日後(1936-1945)に住んだ家はもうなくなっているが、跡地にはやはり住宅がある。クレーンが子供の頃住んでいた家があったはずの一帯はロードサイドの小さなショッピング・センターになっているようだ。あるいは道路の拡幅があったのかもしれない。一回りして宿に戻ったのは午後3時近かった。
 連れと一緒に3時過ぎに宿を出て、再びニューヨークへ向かう。まず、タイムズ・スクエアのニューヨーク・タイムズ本社へ行き、クレーンについて照会が可能かを確認する(もちろん結果は否)。それからコロンビア大学へ行き、クレーン夫妻のインタビュー資料の複写を買入する。午後5時寸前だったはずなのに、5時まで開いているはずのビジターセンターが既に閉まっていたり、目指すオーラル・ヒストリーの部局が、ネット上の情報と実際にオフィスがあった場所が違い(現在は、再配置の途中で仮に6階の手稿のところに移っていた)、少々戸惑ったが、無事に資料を入手できた。コロンビア大学は想像通りと言うか、なるほどという感じの堂々たる建物が並ぶところだった。しかし、構内に軍のリクルート関係のチラシや、CIA関係の講演会の告知がたくさん貼られているのは、少々意外だった。
 大学近くの古書店を兼ねた書店を少し冷やかしてから、タイムズ・スクエアにもどり、少し買い物につきあう。歩いてブロードウェイを北上し、8時少し前にイリジウムに入る。よい席ではなかったが、雰囲気は悪くない。開演は8時半からのはずだったが、早めに演奏が始まり、一時間ほどのショーを楽しむ。食事も、サーロインにサラダにチーズケーキという具合。この旅で一番の贅沢になるかもしれない。
 9時半頃に店を出て、帰路につく。いったんは深夜までやっているエンパイアステートビルへ向かおうとしたが、体調が悪くなっているように感じたので自重し、電車に乗ってエリザベスへ向かう。途中で寝込んでしまい、ひょっとすると乗り過ごしたかと慌てたりもしたが、10時過ぎにエリザベスに着き、宿まで戻った。
 部屋では、ゆっくり湯につかり、すぐに熟睡した。

■ 2006/10/31 (Tue)
ハロウィーン

Elizabeth, New Jersey:
Knights Inn
 朝7時過ぎに目が覚め、昨日の日記をつけたり、少し資料を読んだりする。今日はハロウィーンだが、そのせいか、ここ数日のMTVではゴスなど、おどろおどろしいビデオがたくさん流れている。朝っぱらからこればかりか、という感じだ。朝食は、部屋にあったものを少し食べた上で、宿が無料で提供しているシリアルを食べにオフィスの前の狭いスペースへ出かけてみる。2種類のシリアルとコーヒー、オレンジエードがあるだけだが、暖かいコーヒーが飲めるのはありがたい。シリアルは子供向けのキャンディーのような色付きのリング状のものと、レーズン入りのものしかない。どちらも少しずつ食べてみたが、正直苦手な味である。
 10時前に宿を出て、ブロード・ストリートの商店を冷やかしながら、図書館へ向かう。図書館ではあっさりと無線LANでインターネットにつながり、作業環境が整った。資料探しの方も、昨日とは別の女性の司書2名が対応してくれ、教会関係のパンフレットを見つけ出してきてくれた。これで父クレーン師の教会のことがかなりわかってきた。コピーをコイン式で数十枚とったのだが、領収書が欲しいというと、昨日の司書氏(午後1時からの勤務だった)が白紙に手書きの領収書を書いてくれた。これで大学に通じるかどうかははなはだ疑問だが、あまりに面白いのでそのまま受け取った。
 結局、そのまま図書館に2時過ぎまでいて、調べものをしたり、インターネットをする。その後、図書館近くの大きなスーパーマーケットへ行って食料を買い、3時頃また図書館に戻って明日以降の宿の算段をするが、なかなかうまく考えがまとまらない。3時過ぎに図書館を出て、近くのダンキンドーナツで遅い昼食代わりのお茶にする。街には、ハロウィーンで変装した子供たちが、たくさん出ている。ほとんどは親が一緒の小さい子で、かぼちゃの格好をして乳母車に乗っている赤ん坊もいた。エリザベスの人種構成を反映して黒人が多いように感じられる。黒人の子供たちが屈託なくお面をつけてスーパーマンやミスター・インクレディブルになりきっている。
 お茶の後、近くの大きなディスカウント・ストアというか雑貨屋 Bobby's Department Store で、荷物を入れる鞄などを買う。アメリカでこうした店に入った経験がなかったのだが、まず店に入るなりガードにビニール袋(他の店で買った商品が入っている)を見とがめられて、入口脇のカウンターに荷物を預けさせられた。ここでTCが使えたのはありがたかった。現金がほとんどなくなっていたところで60ドルほどをキャッシュにできた。帰りに入口脇の荷物のカウンターで預けた荷物を受け取って出ようとすると、再びガードに呼び止められ、領収書を見せろと言われた(と思った)。両手が塞がっていたので、透明な袋に商品と一緒に入っていた領収書を見せると、開けて渡せと言うことらしい。荷物を置いて、領収書を取り出して手渡すと、ホチキス止めにされていた紙片をとって、領収書本体だけを返してきた。どうやら、レジで袋に入れてホチキス止めに仕切れない大きさの商品は、支払い証明をガードに渡すというシステムになっていたようだ。
 宿に戻ったのは5時過ぎだった。本当は、一人で再度出直して、ニューアークの空港まで行こうかと思っていたのだが、結構体がしんどいので結局出かけないことにした。いろいろ考えて、週末にまたこの宿に戻ってくることにして、宿のオフィスへ行くと、最初の到着時にいた親父さんがいて、不在中に荷物を預かることも含めてOKしてくれた。最終的に出発する月曜日の朝が少々面倒になりそうだが、重い荷物をあちこちに運んで回らなくてよいのはありがたい。
 明日朝に大きな荷物を預けるという前提で、荷造りをする。テレビを見たり、風呂に入って資料を読んでいるうちに眠くなり、このところの就寝時間としては早めの10時頃に就寝する。
■ 2006/11/01 (Wed)
卒業生ファイルの威力

Elizabeth, New Jersey

Princeton, New Jersey:
Nassau Inn
 今朝も7時過ぎに起きて、資料を読んだり、前日の日記をつけたりする。今日でチェックアウトするので、食品や飲み物で半端に残っているものを片付けて朝食にする。9時少し前に週末まで預けておく荷物をオフィスに持っていくと、そのまま自分で地下の倉庫まで持っていくように言われて、その通りにする。荷物が軽くなったところで、ホテルが無料で提供しているコーヒーとシリアルをとり、再度部屋に戻って出発の準備をする。9時半頃に宿をチェックアウトして、図書館へ向かう。
 図書館では、クレーン師の死去を伝える新聞記事をマイクロフィルムから見つけ出した。そのまま連れを図書館に残して、クレーン師の教会を継承しているはずの Third Westminster Presbyterian Church まで足を伸ばした。天気は快晴で、もちろん暑くはないが、歩いていると汗がにじんでくる。ウェストミンスター・アヴェニュー沿いは中の上以上の閑静な住宅街だが、紅葉した木々が美しく、リスが駆け回る姿もそこかしこで見える。急ぎ足ではなく、ゆっくり散歩で歩いたら最高だろうにと思う。途中で、昨日の資料で新たに分かったクレーン師がエリザベスへ来た直後の家の位置も確認した。教会では、暫定的に任にあるという女性牧師が対応してくれたが、何と彼女は着任した当日で、この教会のことはほとんど何も分からないという話だった。名刺を渡して、何か教会の歴史について分かることがあればメールしてほしいと言って帰ってきた。

エリザベスの旧駅舎


プリンストン支線の Dinky
 1時少し前に図書館へ戻り、連れと駅へ向かい、19世紀末に建設された旧駅舎を改装したカフェで昼食をとる。スパゲティのミートボール添えとサラダを注文し、飲み物をとってテーブルに着いてから、食事の途中で駅の切符売り場へ一人で行き、プリンストンまでの切符を買う。一枚7ドル75セントである。
 2時少し前に駅へ行き、少しおくれてやってきた列車でプリンストンへ向かう。40分ほどでプリンストン・ジャンクション駅へ着き、Dinky と通称される1両だけの電車に乗り換えた。乗り換え客が一通り乗り換え終わったとみたのか、こちらは定刻よりわずかに早く発車した。支線の途中には駅はなく、あっという間に終点のプリンストン駅に到着した。事前に調べておいた地図を頼りに、神学校 Princeton Theological Seminary へ向かう。神学校は、大学の敷地の南西に隣接している。元々は両者の間に普通の住宅地があったようだが、大学が徐々にそれを買い上げていったようだ。神学校の食堂がある建物、マケイン・キャンパス・センターに辿り着き、そこの売店の女性にいろいろ尋ねてみたところ、図書館の場所を教えてくれた。この食堂は夜まで開いているそうで、連れにはここでしばらく待っていてもらうことにする。
 神学校の図書館ではリトアニア系という女性司書が早速卒業生名簿を調べてくれ、もうすぐ午後4時で閉まる、別棟の特別コレクションのところへ行くよう勧めてくれた。言われるままに、別棟へ向かう途中で、賀川豊彦の大きな肖像画があって少々驚いた。別棟の2階へ行くと、カーネル・サンダースのような雰囲気のベテラン司書がいて、丁寧に対応してくれた。ここでは、クレーン師が神学校の卒業生名簿作成用に提出した経歴書の原稿があり、さらにおそらく唯一の著書を見ることができた。クレーン師の学歴や、牧師としての経歴は、これで完全に埋められた。司書氏は、クレーン師がプリンストンの卒業生であることを踏まえて、プリンストン大学の卒業生に関する情報を集約しているマッド図書館 Mudd Memorial Library へ行くように勧めてくれた。既に4時を回っているが、水曜日は普段より遅くまで開いている日のはずだという。
 いったん連れが待っているマケイン棟へ戻り、大学構内を歩いてマッド図書館へ向かう。広大なキャンパスに、まるでテーマパークのような擬古的な装いの建物が配置され、紅葉した木々が並ぶ中を歩きながら、アメリカ的な大学町の構造を実感する。エリザベスでもリスを見かけたが、ここには数種類いろいろなリスがいるようだ。真っ黒に近いものも一匹見かけた。また、耳の短いウサギも一羽だけ見かけた。
 マッド図書館には、5時少し前に到着した。普段は4時45分までだが、確かに水曜日だけは午後7時45分まで開館している。受付で東洋系の女性に来意を伝えていたときに職位が高いらしい司書が通りかかってこちらの話を一緒に聞いてくれ、手配をしてくれた。自分の荷物をロッカーに置いたりしているうちに、別の男性司書が担当者としてやってきて、資料の構成などを説明してくれた上で、データベースを検索し、クレーン父子のデータの存在を確認してくれた。隣のリーディング・ルームで待つように指示され、しばらく待ていると、父子のファイルが持って来られた。ここではクレーン師のデータは事実上皆無(息子に関する同窓誌の記事の中で間接的に言及されている箇所の切り抜きのみ)だったが、肝心な息子の方のバートン・クレーンに関して貴重な資料がいろいろあった。クレーンは父とは違い、プリンストンを卒業はしていない(学士号は取得していない)が、活躍している同窓生として大学にも認識されており、本人も、日本時代を含め、同窓名簿のデータ更新にはマメに協力していたようだ。また、クレーンの氏の直接の原因になった発作は、死の前年にプリンストンで入学40周年の同窓会が開かれた席で起きていたこと、などが確認できた。ファイルの資料はコピーが可能(ただし、自分でやるのではなく、司書にやってもらう)ということなので、ファイル内の資料全てのコピーを依頼して、明日受け取ることにする。
 プリンストンは、街の中に宿がほとんどない。唯一のホテルというナッソー・イン Nassau Inn の場所を図書館で教えてもらい、歩いていった。その途上で、大学の敷地と通りを挟んで街があるナッソー・ストリートを歩いたが、町並みは実に端正でお金がかかっている感じだ。ナッソー・インへ着くと、コンベンションがあるらしく、ロビーに受付があって結構人がいる。これは泊まれないかもしれないと思うが、訊いてみると素泊まりで一泊250ドル以上する部屋ならあるという。何てこったと思いながら、いまさら数キロ歩いて国道1号線沿いのモーテルへ行く気もせず、泊まることにする。部屋は258号室。確かに普通より無駄に広い感じだが、これは必要に応じてベッドを追加し、ファミリー対応ができるようにしてあるためのようだ。日本や英国の宿と違い、部屋には湯を沸かす道具も、冷蔵庫もない。連れは、「3万円ならミラコスタに泊まれる」とぶつぶつ言っている。隣の259号室は、同じくらいの大きさの部屋のはずだが、クリストファー・リーヴ・スイートとわざわざ命名されている。何か縁があった部屋なのだろうか。
 荷物を部屋に置いて、一息つき、8時少し前に街へ出てパスタや飲み物などを買い、さらに新刊書店と古本屋を兼ねた Micawber Books に入る。ここでは1914年に刊行された大学の歴史などを述べた本を買った。部屋に戻ってしばらくバスタブに浸かる。風呂から出て、買ってきたパスタや、マフィンなどありあわせのもので夕食にする。早めに眠気が来たところで、早めに寝てしまう。
■ 2006/11/02 (Thu)
フィラデルフィアへ

Princeton, New Jersey

Philadelphia, Pennsylvania:
Hampton Inn Philadelphia Convention Center
 5時少し前に目が覚めてしまい、そのまま起きて日記を付け、また、資料を読む。少し作業に行き詰まって、テレビを CNN にすると、中間選挙関係のニュースで持ち切りである。ネガティブ・キャンペーンの話、マイクロターゲッティングの話(コーヒーをスタバで飲めば民主党、ダンキンドーナツなら共和党、等々)などは、勉強になった。
 8時半頃に、朝食をとりにナッソー・ストリートのパンケーキ屋 PJ's に行く。現金が不足気味なのでひょっとしてTCが使えるかと思い、きいてみるとOKだという。ところがパスポートを部屋に置いてきたことに気づき、連れを残していったん部屋まで戻ったりした。
 朝食後、そのままマッド図書館へ行き、前日依頼した書類のコピーを受け取り、さらにレスター・ホワイトの名が卒業生名簿にないかを確認してもらう(結局なかった)。チェックアウトまでの時間を利用して、身軽なうちに散歩をすることにして、駅の方まで歩いてゆき、さらに大学の売店を冷やかす。そうこうしているうちに10時半近くになったので、宿に戻り、チェックアウトする。
 チェックアウトしてから、インターネットが使える神学校の食堂へ移動する。途中で、軍関係?の土産物屋でTシャツを買ったり、地元の週刊新聞 Town Topics のオフィスを見つけて水曜日に出たばかりという最新号を1部買ったりした。食堂で、まだ決まっていない今日の宿を検索するが、なかなか思うようにならない。結局、宿を見つけるのを断念して、午後1時少し前に食堂を出て、大学売店に立ち寄って買い物をしてから、駅へ向かった。

River LINE @ Trenton
 プリンストンの駅の自動券売機ではニュージャージー・トランジットの範囲内であるトレントンまでしか切符が買えなかった。すぐにやってきたディンキーに乗り、プリンストン・ジャンクションで乗り換える。接続列車は10分あまり遅れてきたが、10分ちょっとでトレントンに到着した。ここから先は、ペンシルバニア側を進むルートと、ニュージャージー側の川沿いを進むリバー・ラインという軽量軌道線があり、後者を選んでみることにする。結果的に、少し時間は余計にかかったが、沿線の様子をいろいろ楽しめてよかった。カムデンという街(後で調べてみたら、「全米で最も危険な都市」ランキングの常連らしい)の駅で乗り換えて、港湾局 PATCO の地下鉄に乗り、対岸のフィラデルフィアに入る。地下鉄とはいえ、川は大きな橋で渡るので、なかなかの眺望になった。
 既に4時近くになっていたがローカスト・ストリート12-13丁目駅で下車し、近くの通称「骨董通り Antique Row」を見に行く。ここは実際はパイン・ストリートという通りなのだが、家具から小物まで、いろいろな店が集まっている。とはいえ規模はそれほど大きくない。この近所の宿の心当たりを2カ所回ったのだが、1軒は満室で、もう1軒のB&Bは応答がなかった。仕方なく、徒歩でインフォメーション・センターへ向かうことにした。宝飾店ばかりが立ち並ぶ一角を通り、一番の繁華街と思われるマーケット・ストリートへ出て、そこから右に折れてインフォメーション・センターに着いたのは4時45分になっていた。カウンターにいた白髪の年配の女性に宿の手配が可能かときくと、まず、対応はするがあと15分でここは閉まります、とぴしゃりと言われる。彼女は、こちらの予算その他をきいた上で、中心部に近いハンプトン・イン Hampton Inn Philadelphia Convention Centerというホテルに電話を入れ、ギリギリまで時間を使ってディスカウント・レートで泊まらせてやってくれ、と交渉し、きっちり時間内に話をまとめてくれた。99ドルと税金で、一泊120ドル弱の見当になるはずだ。

HRC @ Philadelphia
 指示された通りにレイス・ストリート経由で宿まで歩いて行ったのだが、途中にはちょっとした中華街などもあった。宿では、916号室に通される。思ったよりよい部屋で、インターネットも無料で使える。今回の旅の宿としては一番快適だ。荷を解いてから、マーケット・ストリートにあるハード・ロック・カフェへ行き、買い物をしてから食事をする。来年日本に行く予定だというジェシカというノリのよい髪を赤く染めたおネエさんがサービスしてくれたのだが、食べきれない分を持ち帰りたいと言ったつもりが、片付けられてしまった(多分にこちらの言い方が悪かったのだと思う)。帰りに中華街の外れのスーパーで飲み物などを買い、宿に戻る。
 部屋に戻って、風呂に入り、それから少し作業をしているうちに眠くなり、早めに就寝する。

■ 2006/11/03 (Fri)
シルビアさん訪問

Philadelphia, Pennsylvania:
Hampton Inn Philadelphia Convention Center
 6時前に起床し、少しネットを見る。今回の旅の最大の目的である、バートン・クレーンの一人娘で今年80歳になるシルビアさんに会いに行く算段をする。8時過ぎに朝食(まともな朝食が宿泊費に含まれているのは、今回の旅では初めて)に降りて、また戻ってから、9時過ぎに電話を入れてみた。ところが自動応答で、この電話番号は使われていないのでこちらにかけるように別の番号を言われる。そこでそちらにかけ直すと、どうやら別人の家の留守番電話につながってしまう。仕方なく、とりあえずメッセージを用意して、9時半頃に宿を出て、中心市街地から少し離れた御自宅のアパート(日本でいうマンション)へと向かう。
 宿から少し歩いて PHLASH という循環バスに乗り、停留所から少し歩いてアパートに辿り着いた。受付デスクにいた黒人女性に来意を告げ、とりあえずメッセージ(面会するのに都合の良い時間をホテルに連絡してください、と記してある)を伝えてほしいと頼んだところ、部屋に電話を入れてくれた。すると、何とシルビアさんがロビーまで降りてきてくれるということになった。実は、今回の旅の直前にもらった手紙では、フィラデルフィアに来ても有益ではない、自分の知っていることは全て(今年の始めにシルビアさんを訪問した、クレーンのCDの企画者である)石川氏に話した、などとあったので、正直なところ体調次第では会ってもらえないかもしれないと覚悟していたのだ。ともかくロビーで、石川氏から預かってきたプレゼントなどを渡し、こちらが今回の旅で見つけ出してきた資料のコピーをお見せしたりしながら、話をする。
 そうこうしているうちに、外出されていたご主人のローレンスさんが戻ってきたということで、自室に上がってくるよう促され、お宅へお邪魔することになった。彼女の父親であるバートン・クレーンの生まれた直後にとられた母親との写真や、中国に軍務で駐屯していたときのポートレートなど、貴重なものを見せていただいた。こちらからは、バッファロー、エリザベス、プリンストンを回って入手してきた資料をもとに、シルビアさんから見れば祖父に当たるクレーン師(彼女は小さいとき母親が里帰りで一時帰国した際に、一度だけ病床のクレーン師に会ったことがあるそうだ)の経歴や、父バートン・クレーンについての情報を説明し、確認してもらう。その隙間を埋めるような形で、断片的ながらいろいろな情報を得ることができた。例えば、クレーンがプリンストン大学に提出した軍務経歴書にある住所(当時、クレーンは東京にいた)が母親エスターさんの実家で、その後は妹さんが長く住んでいたこと、クレーンの遺灰は、現在のサード・ウェストミンスター教会の裏に撒かれたということ、エスターさんがクレーンの死後に再婚したことなどは、新しい情報だった。また、ウェイバリー・プレイスに今ある家の画像をお見せしたところ、ローレンスさんが、この家は増築されているが、元々の家が残されているものだと気づいてくれた。お二人はこの家の地下にあったクレーンの印刷機のある部屋で初めて会ったのだそうだ。
 お茶をいただきながら結局2時間あまりも話を伺っていたが、また、明日に再訪することにして、おいとますることにした。既に午後1時に近くなっていた。バス停の近くのバーで一服してから、PHLASHに乗って中心市街地まで戻る。途中はしっかり寝ていたが、降りようと思っていた停留所の一つ手前で、ここで運行を打ち切りますというアナウンスがあり、降ろされてしまった。仕方なく歩いてインフォメーションに辿り着き、お土産物などを買う。
 インフォメーションで、コピーができる場所がないか尋ねると、Kinko's を勧められる。Kinko's まで歩いてゆき、シルビアさんに渡す資料のコピーをする。それからいったん宿に戻った頃には4時近くになっていた。一服してから再びアパートまで行ってコピーした資料を受付に預け、中心市街地まで戻り、歩いて昨日訪れたアンティーク・ロウを経由して、若者の街ということになっているらしいサウス・ストリートまで足を伸ばす。Jim's Restaurant で名物のチーズ・ステーキ(薄切り肉を焼いて砕いたものをパンに挟んだもの)を食べ、連れの買い物に付き合い、さらに自分も、閉店セール中のタワーレコードや、近くのコミックス屋で買い物をする。タワーレコードでは、残っていたTCを全部使い果たした。
 宿までの道のりは結構あったが、途中でセブン・イレブンに入り、飲み物を買う。部屋に戻ってすぐに風呂に入ったのだが、風呂の中で寝込んでしまいそのまま風呂から上がってすぐに寝る。
■ 2006/11/04(Sat)
シルビアさん再訪

Philadelphia, Pennsylvania

Elizabeth, New Jersey:
Knights Inn
 朝7時前に起きて、朝食をとりに降りる。昨日はワッフルとソーセージのスライスだった主食?が、今日は卵とチーズのパイになっていた。それ以外は昨日と同じものが並んでいる。ゆっくり支度をして10時頃に宿を出て、マーケット・ストリートまで行き、ダンキン・ドーナツの店に入る。ここに荷物を置いて連れを荷物番にして待たせ、再度、シルビアさんの自宅へと向かう。昨日は、朝の10時半と約束したのだが、到着したときには11時近くになっていた。昨日のインタビューをフォローする質問をいろいろする。父からボーイスカウトに関する話はきいていないこと、フランク・ギブニーは個人的によく知っていること、J・B・ハリスや、レスター・ホワイトについては知らないことなどを確認する。昨日よりやや突っ込んで質問し、プライバシーに関わることも問わず語りに伺う。そのまま正午を少し過ぎた頃までお邪魔した。部屋を出てから、カメラを持って来なかったことに気づいた。昨日も結局、カメラは使わなかったので、シルビアさんたちの写真は撮りそびれてしまったことになる。
 歩いて中心部まで戻り、土産物屋で少し買い物をしてから、ダンキン・ドーナツに着いたの1時少し前だった。シルビアさんのご主人であるローレンスさんに勧められたレディング・ターミナル・マーケットへ行ってみる。ここでは、アーミッシュの人たちの店が市場の一角に並んでいる。その辺りで一番行列ができていた、リックズというチーズ・ステーキの店で昼食にする。昨日食べたジムズのものより、少しバンが長い。スタッフが着ていたシャツの背中には、創業者直系の第三世代がやっています、と誇らしげに書かれていた。
 食事の後、歩いてアンティーク・ロウに向かい、連れの買い物につきあってから、PATCOの地下鉄にローカスト・ストリート12-13丁目から乗り込む。来たときとは逆に、カムデンのブロードウェイで乗り継いで、リバーラインでトレントンまで行き、そこからNJトランジットでエリザベスまで戻った。途中の乗り継ぎが、結構タイミングが悪く、また、NJトランジットも遅れが出た。特に、NJトランジットの途中の一部の駅で、プラットフォームから橋を架けて、線路1本分をまたいで乗客を乗降させるという荒技をやっているのをみたのには、正直大いに驚かされた。
 エリザベスに着いたのは列車の遅れもあって、6時過ぎだった。いったん宿に戻って、チェク・インする。週末は少し値段が上がるようで、土曜日の夜が65ドル、日曜は60ドルにそれぞれ税金が乗ると説明された。預けていた荷物を地下室から引き上げて、202号室におさまる。それから、夕食と、図書館で少しインターネットを使おうと思って街へ戻る。図書館へ向かう途中で、飲み物と菓子を買う。ところが、今日は土曜日で図書館は午後5時までだった。しかも明日の日曜は休館日だ。少々気を落としたが、気を取り直して夕食をとろうと思い、宿へ戻る帰路にあったレストランへ入る。アボカド・サラダ、ワカモレ・チップス、ステーキなどを食べる。宿に戻ったのはまだ9時少し過ぎだったが、相当疲れていて、風呂に入りすぐ寝る。
■ 2006/11/05 (Sun)
また長い日曜日

New York, New York

Elizabeth, New Jersey:
Knights Inn
 朝は7時前に起きて、朝食(といってもシリアルとコーヒーだけ)をとりに降りる。今日は日曜日なので、基本的にはオフにしてニューヨーク市の観光にあてるつもりだったのだが、フィラデルフィアの訪問などでわかったクレーン関係の新しい番地の現状を確認するため、再度、ウェストミンスター・アウヴェニュー方面へ向かった。途中で、先週駅で自動販売機の使い方を教えてくれた黒人のおばさんがこちらに気づいて声をかけてきたのには少々驚いた。戦後に日本に滞在していたクレーンが、permanent address として書類に記載していた、エスターさんの実家だった家を確認し、また、クレーンの遺灰の一部が撒かれたという、現在のサード・ウェストミンスター教会の裏手を見た。
 その後、郵便局に立ち寄ったりしてから駅へ向かったのだが、9時過ぎの電車まで少々間があるタイミングだったので、切符を買ってから、駅から少し離れたマクドナルドへ行く。ソーセージとチーズのマフィンで朝マックというのは、随分久しぶりだ。
 ニューヨークへ列車で着き、自由の女神像のあるリバティ島へのフェリー乗り場があるサウス・フェリーへ地下鉄1号線で向かう。ところが、間違って3号線に乗ってしまい、ブルックリンに入って数駅進んだところで折り返した。改めて分岐点まで戻り、1号線で終点のサウス・フェリーまで行こうとしたのだが、何やらしきりにアナウンスをしているのに気づく。張り出してある告知を見ると、どうやら週末は運休していて代替バスが出ているらしい。案内の矢印をたよりに地上へ出て、バスでサウス・フェリーへ向かった。バスを降り、公園を少し歩いてチケット売り場へ行き、自由の女神があるリバティ島行きのフェリーを待つ。この間に、空港並みに厳重な荷物の検査を受けた。
 やがてやって来たフェリーに乗り込む。もちろん、フェリーといっても車が乗るようなものではなく渡し船だ。進行方向右手に旧移民局の歴史的建物があるエリス島、後ろにローワー・マンハッタンの摩天楼を眺め、左手にはスターテン島往還のフェリーが並走する。なかなか爽快な乗り心地である。やがて自由の女神に近づくと、女神像の左の横顔が見える北側から正面へと回り、島の南側の船着き場に到着した。到着してすぐに連れは土産物店に直行し、お目当ての物を確保していた。こちらも先に買い物をする。この売店は、自由の女神は既に建てられていたがまだ島の砲台が機能していた1931年に、ヒル家が始めた土産物売りの露店がルーツということで、現在も創業者の奥さんの名前を冠した会社が経営しているということだ。こうしたストーリーづくりがさりげなく演出されているのは面白い。
 一通り買い物をしてから、小さい島の中を散歩して一周する。既に今日の分の定員に達していたということで、台座のところまで入ることはできなかったので、ぐるっと一回り島の岸を回る形になった。渡し船は30分ごとに出ているのだが、一回りして南側の船着き場に戻ると、ちょうどニューヨーク行き(つまり最初に乗った乗り場行き)が出てしまったところだった。ニュージャージー行きというのはあるのだが、これに乗っても仕方ないので、昼食をここでとることにする。カフェテリアで魚の揚げ物のプラッターをとって屋外で食べていたら、隣の席では家族連れを相手に、18世紀風?の衣装を着たガイド氏が話をしていた。食事をしていて、また船が来たことに気づき、あわてて残りを平らげて、店を出たのだが、またほんの少しタイミングが悪く、船はまだいたのだが、乗船口にはロープが張られていた。仕方なく、再度売店の近くに戻り、ベンチに座って、少し離れて広場で演奏している高校生?のブラスバンドとバトントワリングのパフォーマンスを遠目に眺めて時間をつぶす。なかなか達者な演奏だった。もっとも、リパブリック讃歌に続けて、ゴッド・セイヴ・ザ・キングが演奏されたのには、少々面食らった。
 結局、次の船に乗り、エリス島には上陸せず、ニューヨークへ戻った。代替バスの乗り場へは戻らず、方向の見当をつけて、世界貿易センター(跡地)を目指して歩き出した。まず世界金融センターに南側から突き当たりそこで曲がって、市街地にぽっかり空隙が開いたような一角に辿り着いた。事情を知らなければ、ただの大規模再開発現場のようにも見えそうな感じだ。通路ぞいには、グラウンド・ゼロなどと記された土産物を売る露店や、なぜかハンドバッグ類を売る人たちが結構出ている。さすがにここで土産物を買う気にはなれなかったのだが、商売になるからこそ、こういう露店が出ているのだろう。
 世界貿易センター跡の北東の角から地下鉄に降り、E号線に乗って北上し、バスターミナルで下車して、ヘルズ・キッチン・フリー・マーケットへ向かった。もう午後になっているし、あまり大きな規模ではなかったが、連れは掘り出し物を見つけたようだ。こちらも英国のポピュラー音楽に関する本を1冊買った。市場の入口のテントで売っていたTシャツを買う。
 次に、東66丁目にある、クレーンの旧宅を探しに行こうとしたのだが、番地と街路を勘違いをしてマンハッタン島の北の外れへ向かいかけてしまい、全く方向違いの地下鉄に乗ってしまった。すぐに気づいて、下車し、タイムズ・スクエアまで歩いて南下し、F号線、N号線と乗り継いで、69丁目で下車した。幸い、まだ陽があるうちに現地へ到着し、建物の姿をカメラに収めた。この建物の入口にいた黒人の守衛氏に簡単に建物のことを質問する。どうやらクレーンの時代からコンドミニアムであったらしく、現在も当時と同じように使われているらしい。既に午後5時近いが、午後5時半までやっているはずのメトロポリタン美術館まで行ってみようという話になり、まず西へ歩いてセントラル・パークに突き当たり、そこからひたすら北を目指して進んだ。何とか午後5時15分頃に到着したのだが、既に入場者の追い出しにかかっていた。連れはミュージアムショップだけでも見たいと言っていたので、何とか入館はしたのだが、ショップに入ろうとすると、もう閉店だといって制止されてしまった。結局、エジプト美術のコーナーにあるトイレへ行って用を足しただけのメトロポリタン行きだった。
 メトロポリタン美術館は、セントラルパークの東の縁にあたる5番街に面している。地下鉄の駅は近くにはない。5番街をそのまま南下していったところに連れのお目当ての店があるので、バスに乗ることにして、ちょうどやって来たペンシルヴァニア駅行きのバスに乗る。幸いこのバスは、メトロカードの一日パスでそのまま乗れた。その後、フルトン・ストリートまで地下鉄で移動し、先週の日曜日に一度足を運んで空振りした大規模な古書店ストランドへ行く。荷物のことを考えなければ買って帰りたい本は山ほどあったが、本2冊とお土産用のカレンダーに、Tシャツを買っただけで閉店ギリギリの8時少し前に店を出た。少し歩いてシティ・ホール駅から地下鉄に乗り、今度はエンパイア・ステート・ビルへ行く。体調がよくないこともあったので連れだけを展望台に上げ、自分は1階のコンビニで買い物をして入口のロビーでしばらく時間をつぶして待っていた。
 連れが降りて来てから、タイムズ・スクエアまで地下鉄で行き、ハード・ロック・カフェで米国最後のディナーをとる。ステーキとシーザー・サラダ、最後がチーズケーキである。ニューヨークのメモラビリアには、ビートルズ渡米時のスーツ全員分とTWAが用意した各人の名入りのバッグ、といったすごいものがいろいろあるが、個人的にはボー・ディドリーの箱型ギターと、ジーン・シモンズの斧型ベーズを見られたのが嬉しかった。
 地下鉄とNJトランジットを乗り継いで、エリザベスへ戻ったのは12時を回っていた。宿に戻り、明日の出発に備えて荷造りをし、2時過ぎに就寝。
■ 2006/11/06 (Mon)
帰国の途に就く

CO009便 機中
 朝7時前に起床。本当はもっと早く起きるはずだったが、目覚ましがきちんとセットされていなかった。7時過ぎに、朝食に降りてゆき、チェックアウトをして、タクシーを呼ぶ。タクシーはすぐに到着し、ニューアーク国際空港へ向かう。料金は20ドルと言われ、チップを3ドル乗せて支払った。
 出発まで3時間以上あったが、まずチェック・インの際に(当然ながら)預ける荷物の重量が引っかかった。二人分の合計重量ではなく、一つ一つの荷物を52ポンド(25キログラム)にしろと言われ、詰め直しに手間取った。結局、53ポンドと49ポンドで勘弁してもらう。ちょうど朝の出発ラッシュだったせいか、セキュリティ・チェックでも長蛇の列であった。ゲートであるC121へ行ってみたが、まだ、ほとんど誰もいない。しばらく休んでから、少し先のフード・コートへ行き、A&Wでルートビアとホット・ココア、そしてベーグルをとる。食事をして、少しはがきを書く。いざ投函しようとしたら、ポストがない。結局いろいろきいて回ると、セキュリティより外だという。そこで、再度入場できるように搭乗券とパスポートをもっていったんセキュリティの区域外へ出た。ところが、ポストを建物内で探したが見当たらない。インフォメーションなどで尋ねてみたが、結局たらい回しにされたあげく、セキュリティに入る直前にあったことが分かった。それも普通のポストではなく、切手の販売機を兼ねたものだった。これでは分かりにくいはずだ。
 郵便を投函し、再度セキュリティーを通って搭乗口へ戻ってくると、手前にメトロポリタン美術館のショップがあることに気づく。搭乗口に戻って、連れにそのことを告げ、買い物に行かせる。そうこうしているうちに、日本語の場内アナウンスを聞いていて、出国手続きにかわる手続きとして、US VISIT という機械を使った手続きをするように言っていることに気づいた。荷物を持って美術館のショップへ向かい、連れに声をかけて、手続きを済ませる。入国時と同じように左右の人差し指の指紋を採り、顔写真を撮影する。
 コンチネンタル9便は、機材はB777-200 で、往路の機材より新しい感じだ。しかし、エンターテイメント・システムはあまりよいものではなく、結局インタラクティブのゲームなどはいっさい使えず、ビデオでシンプソンズやビデオクリップ、ディズニー映画などをザッピングしながら見ていることが多かった。食事後は1時間あまり熟睡する。

■ 2006/11/07 (Tue)
帰国

CO009便 機中

 日付変更線を越えるあたりでは目が覚めていた。チーズバーガーとアイスクリームを平らげながら、日記をつける。その後また2時間あまり熟睡。パソコンを取り出し、日曜日以降の分の日記をつける。時計を日本時間にする。また少し眠る。
 日本時間午後2時頃に食事が出る。相変わらず、エンターテイメント・システムは具合が悪い。
 定刻より30分あまり遅れ、午後3時40分を回ってから成田に到着した。行きとは逆に、時間が遅れたということは、ジェット気流がやはり強いのかもしれない。順調に荷物を受け取って、通関したものの、駅へ着いてみると折悪しくエアポートが出たばかりだった。京成はあるのだが、とにかく荷物が大きくなっているので、京成上野では乗り換えがしんどい。小一時間待つことにする。
 明日以降の仕事の予定が頭に全く入っていない。こんなことで明日から復帰できるのか、心配し始めればきりがないので、あまり考えないようにする。電車の中では、エアポートも中央線も、しんどくてだらしない格好で寝ていた。国分寺駅で下車したら目の前がそば屋だったので、思わず食べたくなって天ぷらそばを食べる。日本に帰国したと実感した。
(2006.11.09.掲出)(2007.08.15.写真追加)

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