私的ページ:山田晴通


 カナダ日記:2003年7月2日〜7月11日 


 今回の旅行は、国際ポピュラー音楽学会第12回大会への参加と、ブリティッシュ・コロンビア大学関係者との研究連絡と資料集めが主な目的でした。
 ここでは、個人名等は伏せた形で掲出します。文中にある料金のうち、宿泊費は一人で泊まる場合の金額です。1カナダ・ドルは100円くらいです。
 当分余裕ができないので、写真の掲出は忘れたことになると思います。あしからずご了承ください。
■ 2003/07/02 (Wed)
ほとんど準備しないままの旅立ち
(その1)
 前夜から研究室で3時間程仮眠したあと、午前1時頃から8時まで、学会発表に向けた資料の作成をする。電車で出かけ、いつものように国立音楽大学で授業をし、午後1時にいったん研究室に戻って荷物をとり、2時少し前に研究室を出る。明治大学に立ち寄り、3時19分に錦糸町で「エアポート」に乗る。車中では、船橋を出てすぐから空港第二ビルの少し前まで熟睡していた。
 4時40分過ぎにチケットを引き換え、土産物を少し買い、さらにバッテラを買ってから出国手続きをし、ゲート前の待ち合い室で食べる。乗り込んだエア・カナダ4便では、席が通路側だったこともあって、外の風景を見ることもなく、窮屈な姿勢で少しでも楽な格好を探りながら、離陸後間もなくからウトウトする。右の窓側の3人掛けで真ん中の1人分が空席だったので、少しは気楽だったが、やや機材が古いのか、特別なエンターテイメントはなく、音楽を聞くこともせずに、少し本を読んでは眠るというパターンをくり返す。飛行中は大きく揺れることもなく、本当に飛んでいるのかな、というくらいの感じで、夜行列車を思わせた。食事のサービスがゆっくりなのは、座った席が悪かったのか、人手がうまく回っていなかったのか分からなかったが、ちょっと気になった。夕食はカレー、朝食はオムレツを選ぶ。

(その2)
 アテンダントの中に日本人の男性がいたのだが、前の座席にいた日本人女性と白人男性のカップルとおしゃべりをしているのを聞くとはなしに聞いていると、横浜出身で9歳でカナダに渡り、そのままカナダで育って二十年以上なのだという。白人男性の方はカナダ人なのだが、逆に日本に渡って二十年以上で、母親がまだいるから帰省もするが、自分の老後は欧州で暮らしたいなどと話している。いろいろな人生があるものだ。
 バンクーバー到着時の機内放送では、バンクーバーが2010年の冬季五輪開催地に選ばれたことが告げられる。日付変更線を越えてきた時差の関係で、まだ2日の午前11時少し前に到着した。実質的には8時間あまりのフライトだった。ここで入国手続きをして国内線に乗り継ぐのだが、とにかくセキュリティが厳しく、どこでも行列ができていて、1時間半以上乗り継ぎ時間があったのに、出発の定刻を1分過ぎてゲートに辿り着いた。空港内のエア・カナダのポスターには、出発5分前にゲートを閉め、定刻には出発します、とサービスの正確さを強調していたのだが、バンクーバー空港の渋滞は日常的になっているらしく、さらに十数分経つまで遅れた乗客が乗り込んできた。今度は通路に挟まれた3人掛けの中央、つまりまったくの真ん中の席だった。左隣が鬚を長くのばし、帽子をかぶった絵に描いたようなユダヤ人で、辞書のように薄い紙で、ぼろぼろになるまで使い込まれたヘブライ語だけのテキストを読んでいる。機中ではほとんど眠っていた。昼食が出たのだが、最初にサーブされた時には眠っていたようで、あとからラザニアをもらった。モントリオールまでは4時間あまりのフライトだが、時差があるので到着は午後8時頃だった。
 こうしてモントリオールに着いたのだが、今回は全く予備知識無しに渡航したので、出たとこ勝負のせいか、いきなり失敗をしてしまった。空港は市街地から離れているようなのだが、鉄道便はない。そこでバスに乗り、マギル大学方面へ乗り換えるところだというボナヴェンテュアという場所まで行くことになった。市街地に入って最初のターミナルだったのだが、降りてすぐに市街地の案内図があったので、ホテルやB&Bがある方面の見当をつけ、大学の方へ歩き出した。結局、B&Bは見つからず(外見上はふつうのアパートになっているようだ)ホテルをいくつかあたってみる。最初に立ち寄った(英国でも泊まったことのある)クオリティ・ホテルは一泊130ドル(13000円くらい)というので敬遠し、次に見つけたカサ・ベラという二つ星の宿に泊まろうとしたのだが、ここで財布がないことに気付いた。
 日本円しか持っていないので、受付してもらえない。対応してくれたおばあさんも困った様子だった。バスの車中で中身をいじった記憶があったので、とにかくバス・ターミナルまで戻ってみる。途中で偶然、ジャズ・フェスティバルの野外演奏をしている公園の横を通り過ぎる。こんな気持ちなので音楽を聞いても素直に楽しめないのが、情けない。バス・ターミナルの窓口には1人だけ男性の職員がいたのだが、落とし物はなかったかと聞くと、名前を尋ねられ、その場で、これでしょ、という感じて財布が出てきた。実に幸運だったというしかない。
 カサ・ベラへ戻ってみると、幸いまだ部屋があった。既に午後10時を回っていたが、とにかく休めるのは有り難い。落ち着いたところで、何か食料を買おうと思い、クオリティ・ホテルの向いにあるスーパーマーケットへ行く。ここは朝7時から深夜12時まで営業しているようだ。ここでいろいろ見ていると、後ろから声をかけられた。マコーリーで研究室を共用していたG君である。ほとんど24時間かけて到着したばかりだという。彼はクオリティ・ホテルに泊まっているという。こちらは明日以降の宿も決まっていないというと、少々呆れられた。レモネードとクラッカージャックと大粒のオリーブ漬けを買い、部屋に戻る。8ドル程の買い物だったがカードで済んだ。まだまったく両替をしていないのだが、キャッシュはほとんど要らないかもしれない。
 カサ・ベラは、3階建ての古い小さなホテル(全20室)で、部屋は正面入り口に向かって右上の24号室、ダブルベッドが置かれたけっこう広い部屋である。バスタブもあり、ケーブルテレビが入っているが、イギリスのようにお茶のセットがあるわけでもなく、バスには石鹸も何もなく、コップすらない。それでもバスタブがあるのはありがたい。湯をため、着ていた下着類を洗濯し、体をのばしてリラックスする。そのまま洗濯した下着を部屋に干し、夜中の1時頃、テレビをつけたまま熟睡する。
■ 2003/07/03 (Thu)
『思想の科学』とメルツバウ
 朝6時半頃、目がさめ、テレビをCNNにして聞き流しながら、前日の日記をつける。特に何をするということもなく、パソコンをいじってぼんやりとしているうちに9時になる。朝食(コンチネンタル)を取りに下り、テレビをmusiMANXという楽専門チャンネルに切り替えてBGMにして、バスタブに浸りながらクロワッサンとトーストを囓る。これはこれで贅沢な感じがする。10時頃風呂から出て、しばらくmusiMAXを眺める。Montrealのローカルなのか、フランス語のクリップもたくさん流れるし、ジャズ祭でやってきたピアニストへのインタビューなども入っている。そのままチェックアウトの正午近くまでだらだら。
 正午にホテルを出て、マギル大学へ向かう。昨日いったん立ち寄った音楽学部の建物で訊いてみたところ、芸術学部が会場らしい。正門からまっすぐ正面のきれいな古い建物へ行くと、中からコンファレンスバッグをもった参加者と思しき人が出てきて一安心した。既にお昼の休みに入る直前で、ロビーにはサンドイッチなどが用意されている。土曜日に自分が発表する予定の会場へとりあえず行ってみると、前回のトゥルクでも話した英国人P氏が英国のデジタルラジオ放送の現状報告をしている。なかなか英語が入ってこないので、途中からあきらめてぼんやり聞き流す。次に、ニュージーランドのラジオ放送の現状(局数の急増と地元音楽比率の伸張)について若手の女性の発表があり、昼食となった。この会場にいた英国留学中のO先生と昼食に向かい、ごった返したロビーで日本からきた参加者や、久々に会うオーストラリアの研究者たちなどと挨拶する。
 午後2時頃になって、今夜の宿を探すべく、ツーリストインフォメーションにあたる「ボンジュール・ケベック」へゆく。ジャズ祭とあって宿がない中、中心部に歩けて、できるだけ安いところ、と虫のいい条件をいうと、何とマギル大学の寄宿舎が空いているという。一泊40ドル程度だ。さっそく予約をいれて、アドレスを頼りに現地へ向かう。ところがこれがとんでもない坂の上だった。解る人にしか解らないたとえをすると、六甲学院へ行くような道なのである。やがて自動車道が行き止まりとなり、その先の丘の頂上に目的地の寄宿舎群があった。割り当てられた部屋は、一番高い位置にある棟「ガードナー・ホール」の一番上=7階の部屋(722号室)だった。眺めはよいのだが牢獄同然の簡素な部屋である。驚いたことに、インターネットの接続がある。これはうれしい。
 荷物を置いて、会場へ戻ったが、ちょっと気になっていたベルリナーについての発表には間に合わなかった。そのまま別会場でやっている「日本の前衛」というセッションへ顔を出してみると、カナダ留学経験者のI君が三宅榛名の話をしている。なかなか準備もよくできていて、面白かった。次に米国人女性が『思想の科学』とメルツバウを結びつけるという荒技の発表をしたのだが、今ひとつ着地点が見えず、ついつい意地悪な質問をしてしまった。
 その後、レセプションと称して、昼食と同じロビーで簡単なおつまみとワインが出たのだが、結構いろいろな人としゃべって、5時半頃から8時頃までそこにいた。O先生、H先生は、英国の大物T氏とビールを飲みに早々と消えてしまい、まだしばらくいたS先生やKさんも宿に戻るというので、I君と、米国留学中のK君カップルと一緒に、モントリオールは4回目というI君の案内で、オールド・モントリオール方面へ歩いて出かける。一通り歴史的な町並み景観を楽しみながら、レストランでディナーをとる。レセプションで底上げしてきているので軽めの食事だったが、4人で140ドルちょっとの勘定だったので、チップを乗せて155ドルを払った。
 店を出たとき既に11時半近かったが、そこから来たときとは別ルートで、中華街をかすめながらジャズ祭のステージのあるあたりへとだらだら歩いて戻る。ちょうど深夜12時までのステージの最後のところでジェームズ・ブラウン風の歌手が大いに盛り上げているところに遭遇。結構楽しみながらしばらくステージ前にたたずむ。定番のおみやげ物のTシャツも買って、大満足である。
 K君たちが泊まっているホリデイインにゆき、そこからは一人で坂道を上って宿に戻った。既に1時少し前になっていた。いったん寝ようとしたのだが、騒音(隣の建物の排気音?)がひどく、結構気温もあって寝苦しい。2時少しすぎに起きて、風呂に浸かった。それからパソコンに向かって、いろいろいじっているうちにすっかり目が冴えてしまい、そのままメールのチェックや、日記をつけて過ごす。朝6時近くになってようやく床につく。
■ 2003/07/04 (Fri)
北米らしいピザ
 8時半頃には起きたので、睡眠時間は3時間足らずだったが、目は結構冴えていたので、パソコンをしばらくいじっている。部屋を出て、10時過ぎに会場に着いたのだが、今日の午前中はあまり面白そうな発表がないので、ロビーに出ていたベーグルと飲み物を朝食代わりにもらってから、街中へ出てみた。
 行ったり来たりしながら、HMVで、こんなところで買わなくてもよいのに、と自分でも思いながらどこでも売っているようなCDを買い込んだり、土産物屋をひやかしたりして、すっかり観光旅行の買い物気分を楽しむ。最終的に郵便局へ入り、絵はがきなどを買う。カナダでは郵便局でもクレジットカードが使えるようだが、手元に現金があったので、ここは現金で支払った。近くの公園へ行き、絵はがきにメッセージを書く。この公園は、ちょうどハドソン湾会社の百貨店の前に当たるのだが、歴史の教科書に載っている会社の名が目の前にあるのも何だか奇妙な感じだ。
 午後のセッションは、まずO先生の発表がある理論的な発表のセクションへ行ったのだが、睡魔に負けてほとんど朦朧としていた。次に、Kさんの発表がある映画音楽のセッションが同じ会場だったので、そのまま居座ったが、こちらもさっきよりましとはいえ、結構しんどかった。その後、午後5時半から、レコード・コレクターへのインタビューをひたすら積み上げたドキュメンタリー映画の上演があったのだが、会場のシアターが気持ちよく冷房されていて、途中ですっかり熟睡モードとなってしまった。年のせいか時差ぼけが少し遅れてきているようだ。
 午後8時からは、S先生、パリに留学しているMさんと一緒に、大学に隣接している大学院生用のクラブ(一軒の独立した家を改装したもののようで、下士官クラブといったおもむき)へ行き、IASPM会員の演奏家によるパフォーマンスを見た。クラブの1階には「7月4日の特別メニュー」の案内があり、米国の独立記念日だということを思い出す。夕食がわりにピザとナッチョを注文したのだが。北米らしくパンのような生地のピザだった。
 演奏は、チャーリー・クリスチャン風のギターに、なぜかフリー気味のキーボード、ベースとドラムという4人編成ではじまり、女性のギター弾き語り、男性のギター弾き語り、そこにフィドルの女性が加わったデュオ、と続いたのだが、席について気持ちよく聞いていてもこっくりする状態になってきたので、11時前に先に部屋に戻ることにして会場を出た。
 部屋に戻って、今日買い込んだCDをかけながらしばらくパソコンをいじる。そのまま風呂にも入らず、マイルスの遺作「doo-bop」などを流しながら1時少し前に床についたが、昨夜よりすんなり眠れた。
■ 2003/07/05 (Sat)
発表はトホホな結果に
 6時少し前に起床。しばらくパソコンに向かってメールをチェックしたり、ウェブをみたりする。途中で大粒の雨が降ってきたが、大して続かず止む。シドニーの雨を思い出した。
 今日はいよいよ発表なので、OHPの点検をしながら、しゃべる内容を考え直す。かとおもうと、二角取りを始めたりするのだから始末が悪い。
 結局今日も、11時少し前に会場へ行き、セッションへ出てみたが、唯一カリフォルニア人のF先生の英語がすいすい入ってきただけで、あとはだめだった。自分の発表のことが気になっているせいもあるが、とにかく寝不足である。昼食後は冷房の効いたホールでのパネルだったので、すっかり沈没、熟睡。知り合いのオーストラリア人M先生の話は途中まで入ってきたが、後は全部熟睡していて覚えていない。近くの席にいたI君の話ではひどく鼾をかいていたそうだ。起こしてくれればよいのに...と思っても仕方ないのだが。
 休憩の後、いよいよ自分の発表を含むセッションが始まった。4人で105分(おおむね一人20分発表5分質疑で、4人)とってあったのだが、2人目の発表が30分を超え、3人目の発表が40分を超えるものになったため、自分の番が回ってきたときには、時間厳守を言われ、しかし頭の方は直前の発表者のペースが入っていて、ほとんど何も言わないまま発表が終わってしまった感じになった。はっきりいってフラストレーションがたまる発表になってしまったということだ。
 夕方には、パーティーがあるのだが、その前にJASPMの打ち合わせをかねて夕食をとろうということで、JASPM関係者4人について街へ出たのだが、途中からリー・コニッツのライブを見るという話になってしまった。話が変わったのにちょっとめげたのと、体調が不安になってきたのとで、一人だけ帰ることにして坂を上り、部屋に戻った。途中でスーパーマーケットで、アイスティーの飲み物を買ったつもりだったのだが、これは凍らせた氷菓子で、しかも紙筒に金属の底と蓋をつけたものだった。
 8時頃、部屋に戻ったのだが、かなり気持ちが悪いことを自覚する。胸焼けにも似た感じだが、ストレスと疲労と睡眠不足(時差ぼけ)が、緊張感が解けたところで一挙に来た感じである。とにかくベッドに横になり、そのまま寝入ってしまう。目が覚めたのは10時半頃、もう一度街へ下りていこうとしたのだが、途中でやはりやばそうな感じがして、部屋に戻る。夕方にスーパーで買った粉のアイスティーを冷水器で作り、ちびちびやりながらメールをチェックし、ネットサーフィンをする。そのうちまた二角取りをはじめてしまい、途中で寝ようともしたのだが、何だか目が冴えてしまったので、そのまま朝まで起きている。
■ 2003/07/06 (Sun)
Tシャツにサインを集めてまわる
 前夜から起きていたのだが、朝の7時過ぎから10時過ぎまでベッドで寝る。起きてから、しばらくパソコンをいじり、それからゆっくり風呂に入る。昨日から体調が悪いのだが、このまま部屋にいるよりは出かけた方がよいと思い、荷物を減らして会場へ向かう。
 結局、今日は12時半過ぎに会場に到着した。既に昼食がはじまっていたが、O先生、H先生と、立ったまま食事をとりながら、JASPMの運営のことで意見交換をする。
 午後2時からのホールでのセッションは、オーストラリアの話だったので会場に入り、一番後部の席にいたKさんに「寝ていたら起こして」と頼んで何とか2件の発表を聞くがあまり入ってこない上、眠たくなってきたので、途中で退席した。廊下でつながっている隣の建物にベンチがあるのを見つけて横になり、一時間ほど休んでいたら、警備員に起こされた。その後、音楽とテレビに関するセッションへ行ってみたのだが、なぜか英語としては、それなりにすんなり入ってきたのだが、話している内容(テレビ番組のジャンルが音楽のジャンルに影響をするか、といった話とその質疑)が、テレビ番組名から何から皆目わからず、しかもしゃべる速度が皆速いので、ただただ必死に話を聞いていた。
 5時20分頃に会場を出て、街へ出たのだが、日曜日は午後5時でほとんどの物販店はしまってしまうようで、HMVは既に閉店していた。まだ開いているツーリスト・インフォメーション(同じ建物の反対側)へ行き、赤いTシャツと帽子を買う。シャツには、今夜のパーティーで知り合いにサインをしてもらおうという算段だ。そのまま、近くのインディゴという書店に入り、マーカーを買おうとしたのだが、文具といってもプレゼント用の筆記用具みたいなものしか置いていない。しかたなく、ここでは本2冊(ケベック史の概説書と、ダウナーによるマダム貞奴の伝記)とCD5枚(例によって店員に地元アーティストのおすすめなどを選んでもらった)を買う。そのまま歩いて大学へ向かったのだが、途中でまた別の本屋を見つけ入ってみた。ここでもマーカーは売っていなかったが、ジャン・クートゥーというドラッグストア(24時間営業らしい)へ行けば、と教えてもらい、結局、HMVの隣まで戻った。ここでマーカーを手に入れ、ネスティーを飲んで元気を出す。明日の空港までのバスの時刻を確認しようと思い立ち、さらに坂を下って発着所へ行き、パンフレットをもらってくる。30分おきに出ていて、45分で到着するということなので、一安心する。
 7時頃会場に戻り、総会に入ってみる。次回2005年の大会はローマで開催される。総会終了後、Tシャツにサインを集め始め、そのままパフォーマンスのある会場「ジュピター・ルーム」へ歩いて移動する。到着したサンローラン通りは,飲み屋が集まっているところで、ちょっといい感じの街並みである。パフォーマンスがはじまる前に「ジュピター」(2階の店)の下の階にあるレストランで食事をする。いったん席を外し、隣の古本屋を冷やかしてカプランのMTV論の本を見つけて買う。テーブルはO先生Sさんと同席、調子が悪いのでサラダだけにしたが、それでも結構なボリュームだった。
 10時少し前に、2階に上がり、パンク(オルタナ?)・バンドの演奏だったのでまた下へ行き、結局10時半頃に再度上がってみると、キーボード2台を並べ、三つ編みブロンドのカツラにテンガロンといういでたちの女性が、ディーヴォのような音を出しながら英語と独語で戸川純のように歌う、というパフォーマンスがはじまった。レーダーホーゼン・ルシールという人らしい。なかなか変で面白い。Sさんは「めっちゃカワイイ!」と評していた。TシャツとCDも買っておいた。
 夕方以降、そこそこに戻ってきたとはいえ、体調が不安なので、先にパーティー会場から出て部屋に戻る。といっても時刻は既に12時近い。部屋に戻ると何もする気が起きず。そのまま、買ってきたばかりのレーダーホーゼン・ルシールのCDをかけながら、ベッドで眠る。
■ 2003/07/07 (Mon)
とんだ七夕の夜
 朝8時少し前に起きる。体調は悪くない感じだ。今朝は適度に雲が出ていて、あまり暑くならずにすみそうだ。風呂に入る気が起きないので、そのまましばらくメールチェックや、日記書きなど、パソコンでの作業をする。こちらで買い物したシャツ類や本やCDを何とか2つの荷物にまとめ、11時過ぎに部屋を空けて、チェックアウトする。
 11時半頃、会場へ着き、コーヒーを飲んで一服してから、ピンクフロイドの分析の発表を聞く。たまたま、発表者のキャンセルが出て時間に余裕があったので、質疑が延々と続き、いろいろな話が出て面白かった。ストックハウゼン、ケイジ、ジョン・レノン、ザッパ等々の名前が飛び交う。発表が早めに終わったので、別会場へ移り、有名なM教授の発表をきく。パティ・スミスのカバー曲の話だが、途中から難しくなって、解らなくなってしまった。司会をしていたKさん(以前ニューカッスル訪問の際にお世話になった)の紹介で、発表後ご挨拶をする。秋に英国を訪問する際には欧州文化都市に選ばれたリヴァプールへも行くので、そのおりの再会を約束する。昨日のパーティーに引き続き、サインをもらえるよう赤いTシャツを着ていたのだが、当然お二人にもサインをもらう。
 午後最初のセッションは、著作権関係の会場へ行き、2件の発表を聞く。最後の閉会のプレナリーまで少し時間があったので、昨日の移動途中で見つけた近くの小さな古本屋へ行く。カードが使えなかったので、スコット・ジョプリンの伝記を一冊買うだけで会場に戻った。
 閉会のプレナリーは途中から席に着きにくかったので、入り口近くの椅子に座って音だけ聞いていたのだが、途中でリヴァプールのT教授が話しているあたりで、通路の一番上から立ち見をした。
 結局午後5時過ぎに閉会したので、そのままバス発着所まで歩いて下り、空港行きのバスに乗り込んだ。45分ほどの移動だが、バスに乗り込んですぐに熟睡しはじめ、到着直前に目が醒めた。ところがエア・カナダのチェックイン・カウンターが大混雑している。この行列にざっと1時間半並んでいるうちに、出発の定刻がどんどん近づいてきた。午後7時30分の便に乗るのだが、チェックインできたのが20分を回っていて、セキュリティでも待たされ(ユダヤ系の高校生のサマー・キャンプの一行??が長い列を作っていた)、セキュリティを通過した時点で既に出発の定刻を回っていた。そこからがまた結構距離があり、結局40分頃ゲートに着いたのだが、ちょうど一般客の搭乗をはじめるところだった。実態としてはこんなものなのだろうが、だったらチェックイン・カウンターであんなに脅さなくてよいのに、と思った。結局、出発は8時頃になった。エアバス320は小振りな飛行機だが、この機中も比較的ぐっすり眠った。夕食の時に起こされて、「チキンか(ベジタリアンの)ラザニアか」と訊かれたので「ラザニア」というと、往路の機中で食べたのとまったく同じものだった。
 バンクーバー到着は現地時間で11時少し前だった。時差が3時間あるので、実質6時間近くのフライトということになる。既にこんな時間なので、どうしようかと迷ったのだが、結局ローカル・バス(B LINE)を乗り継いで、UBCの先生に教えてもらった大学近くの宿へ向かう。途中でエアポート・ステーション(鉄道駅ではなくバスの乗り継ぎ停留所)とブロードウェイの二カ所でバスを乗り継いだ。ブロードウェイから先は、トロリーバスが走っている。子供の頃に横浜にはトロリー・バスがあり、よく乗っていたので何とも懐かしい感じがした。番地を頼りに見当をつけてバスを降り、数ブロック戻る形で坂を下り、宿へたどりついた。
 ところが、この家は、看板も出ていないしごく普通の家に見える。宿の分類は「ゲストハウス」なので、看板が出ていないのは不思議ではないのだが。チャイムを押してみたのだが、何の応答もない。既に12時を回っているとはいえ、一応宿屋なのだからと思ったが、何度かチャイムを押しても一向に応答がない。ちょっと心配になってパソコンを開け、番地を再度確認するが、間違いはないようだ。そうこうしていると、家の前に乗用車がとまって東洋系の人物が下りてきた。関係者かと思って一安心したのだが、実は新聞配達で、玄関前に「グローブ・アンド・メール」という新聞を放ると、そのまま立ち去っていった。
 下手に動くより、このまま玄関先の軒下で寝てしまうつもりになり、パソコンを再度開けて日記をつける。夏なのでそんなに寒いわけではないが、今回の旅で初めて長袖を出して着る。1時過ぎに横になる。屋根があるとはいえ、屋外で寝るのはさすがに久しぶりだ。とんだ七夕の夜だが、雲がかかっているので星はほとんど見えない。
■ 2003/07/08 (Tue)
UBCはやたらと広い
 冷気が下りてくるのを時々ひしひしと感じながらも、夢を見るような眠り方をしていたのだが、4時少し前に右手の人差し指に痛みとも痒みとも就かない感触があって目が醒める。しばらくするとしびれが右手全体に広がってきた。右手の薬指が特にやばい感じだ。何か虫にでもさされたのだろう。寒さもあって横になっているのが苦痛になってきたので起きあがり、手足の感触を確かめると左手と右足の甲も少ししびれている。目はすっかり醒めたので、そのまま立って少し運動したりしていると、5時頃不意に黒人の新聞配達が現れた。こっちも驚いたが、先方の方がよほど驚いたようだった。「バンクーバー・サン」の配達だったのだが、一度ゲートを出かけてからこちらにを振り向き、「余分があるからあげるよ」と言って1部をもらう。まだ薄暗いので、ぱらぱらと大見出しを少し眺めるが、カナダではCDの売り上げが全般的に低落傾向にあるのに、ジャズの分野だけは売り上げが急伸しているという記事が目に入った。ロックなど低年齢市場向けが、CDのコピー影響で低落傾向にある中、このところのジャズ祭ブーム(らしい)で比較的年齢層が高めの市場がジャズのCDを買っているのだろうという分析だった。あとはアルバータ州の州首相がバナナ・クリーム・パイを顔にぶつけられた話などが目にとまる。6時頃前の道路に狐?と思しき動物が現れ、ちょっとびっくりした。あたりがだいぶ明るくなってきたので、スコット・ジョプリンの伝記を少し読む。ふと気づくと2階の部屋の窓際にあるスタンドが点灯している。その部屋の人が起床しているということだ。そのうち新聞を取りに誰か出てくるだろうと思っていたのだが、なかなか誰も出てこない。7時になり、前の道を通る車も人も増えてきたので、思い切ってチャイムを押してみると、東洋系の女性が最初に現れ、次に白人の男性が出てきてドアを開けてくれた。
 東洋系の女性は、十日ほど前に着いたばかりの日本人で、お客さんだった。後から出てきた白人のH氏(いかにもノリのよいアンちゃんがオヤジになった感じ)が、ベッドを使わないという条件で玄関を入ってすぐ左の部屋を提供してくれ、体が冷えているだろうから風呂に入れと勧めてくれた。先ほどの女性が紅茶を入れてくれて、ありがたくいただく。ほっとした。彼女は朝早くから出ていくようで、7時半には裏口から出ていった。
 荷物をほどいて着替えを用意し、風呂に入る。眠たくはならなかったが、なんだか心身共に解きほぐされる感じで、結局30分以上風呂に入っていた。手足のしびれも何とかとれてきたようだ。9時頃、声をかけられ、朝食に出てゆく。女主人のGさんが、いろいろ気遣ってくれて、ひとしきり話をしてから朝食の席に着く。最初はインド人の数学者夫妻とその息子さんが同席し、入れ替わりでスペイン人のカップル(ただし奥さんは黒人)が席についた。山盛りのフルーツサラダに始まり、シリアル、ポーチト・エッグのせのトースト、普通のトーストと、こちらに来てはじめてのフル・ブレックファストである。朝食を済ませ、9時半頃に昨日下りたバス停の方へ坂を上ってゆき、CIBCという銀行でトラベラーズ・チェックを現金化し、さらにその先のセーフウェーでバスの回数券を買う。歩いて戻り、朝食と風呂と午後まで部屋に荷物を置くのでいくら支払おうかと訊くと、一泊75ドルだから半額でどうだという37ドル50セントというわけだ。領収書はいるかと訊かれる。何でも、領収書を書くと記録に残す都合で税金を7パーセント乗せるというので、結局領収書はもらわないことにした。
 部屋で日記を少し書いて、11時少し前にUBCへ向かう。バス停で手を挙げてもバスが留まらないので、不審に思い、昨夜確実に停車した停留所まで坂を上っていく。途中の停留所にいた男性に声をかけて尋ねてみると、さっき手を挙げても通過していったのは、急行バスだったことが解った。次に来たトロリーバス(10番UBC行き)に乗り込み、終点のUBC構内折り返し所までゆく。とにかくやたらと広いキャンパスだ。構内に関係者の住宅団地があるのはともかく、一般に公開しているゴルフコースがあるとは、まったく桁違いである。
 地理学棟を構内案内図で見つけ、まず事務室に立ち寄って、面会するP教授の在室を確認し、研究室へ向かう。P先生は部屋の前で待っていて、一緒にカフェテラスへお茶を飲みに行くことになった。むこうはミネラル・ウォーター、こちらはルートビアーを飲みながら、来春のシンポジウムのことなどを話す。その後、研究室に戻り、話の続きをして、抜き刷りなどを見せてもらい、旅行代理店への連絡などをしてもらう。その後、昼食を取りにカフェテリアへ出向く。途中で、最近復元展示されるようになったという馬車を改造したカメラ・オブスキュラを眺めに立ち寄った。昼食後、再度研究室で話をして、結局午後3時過ぎまでいろいろ話をした、旅行代理店の方も、おおよその見当がついたので一安心である。
 4時頃宿に戻ると、まだ紹介できる心当たりのところとうまく連絡がつかないという。こちらも急いでいないというと台所の一角で仕事をしていていいから、しばらく待ってくれといわれる。部屋から荷物を出し、電源をつないでパソコンをひとしきりいじる。ところが、そのまましばらくうたた寝をしてしまった。
 5時頃、近くに日本人女性Tさんのゲストハウスがあるのを紹介され、そちらへ移動する。最初は、1泊75ドルで2階の部屋へ入る予定だったが、直後にコスタリカ人の母娘が、隣家の奥さんと一緒にやってきた。何でも、家族で隣家に長期滞在するのだが、予定より早く着いたのでしばらく二人だけこちらにいられないかという話である。Tさんが、いつもは自分家族用に使っている玄関脇の部屋でよいか、云々と交渉しはじめたのだが、どうやらその部屋はやや手狭で、バスルームが外(廊下経由でないといけない)になっているらしい。話を脇で聞いていて、自分に割り当てられた部屋をその母娘に渡し、自分が下の部屋に移ってもよいというと、それなら1泊65ドルでいいということになった。
 TさんはUBCで日本語を教えているらしいが、下の部屋には日本文学全集など日本語の本が並んでいて、壁には明治天皇と昭憲皇太后の肖像が額入りで飾ってある。数日前に日本への里帰りから帰国したばかりということで、部屋が散らかっているが、夕食に出ている間に片づけてもらえるというので、6時半頃宿を出て、食事に出かける。最初は、P先生に教えてもらったレストランへ行こうと思い、ブロードウェイとグランビルの交差点でバスを下りるつもりだったのだが、そのまま寝過ごし、橋を渡ってダウンタウンの端にまでいったところで目が醒めた。あわてて下車したところ、古本屋が目に入ったので入ってみる。地下で膨大な量の雑誌のバックナンバーの山にあきれていると、「閉店です」と怒鳴る声が聞こえたので、カナダ英語の辞典を1冊とってレジへ行く。来たときと同じルートを戻ろうと思い、UBC行きのトロリーバスに乗ったのだが、今度はふと気づくと違うルート(ブロードウェイ〜10番通り経由ではなく、4番通り経由)だったらしく、全然見覚えのない場所を経て、UBCの入口まで来てしまった。仕方なくここで下車し、セーフウェイの先の急行バス乗り場まで歩いて、そこから99番に乗って、やっと目的地のブロードウェイとグランビルの交差点にたどり着いた。
 ここから2ブロックほど歩いてVij'sという店に着いた。店の前には、ワインを飲みながら順番を待っている人がたくさんいる。1時間ほどの順番待ちだというので、名前を言って、近くの本屋を回る。美術書の新古本屋で本2冊と絵はがきを買う。ちょうど1時間ほどつぶして戻ると、間もなく店内に呼び入れられ席に着く。ここは、インド料理を基本にした創作料理という感じの店なのだが、マッシュルームと根菜を黒胡椒と生姜で味付けして炒めたものと、ラム・チョップを少し甘みと酸味のあるカレーで食べるものをとり、最後にチャイを飲んだ。これで34ドルほど、チップをのせて40ドルほどを払う。見た目よりもけっこうお腹にたまるボリュームがあった。チャパティとライスがそこそこの量あったということだろう。
 帰りはトロリー・バスで宿に向かったのだが、今度もまた寝込んでしまい。結局終点のUBCまで行ってしまう。折り返しのバスがすぐに出なかったので、急行バス99番に乗って、またセーフウェイの先で下車し、2ブロック歩いて宿に戻る。既に10時を回って、ずいぶんと眠たくなったので、風呂にも入らずテレビを点けたままベッドで熟睡する。
■ 2003/07/09 (Wed)
バンクーバーの街をうろつく
 午前6時過ぎに起床し、そのままゆっくる風呂に入る。風呂から上がってパソコンで作業をしていると、Tさんが声をかけてきて朝食になる。今日は、もう一組、トロント在住の日本人カップルの常連客が泊まっているので、和食の朝食を出してくれる。鮭に、ひじきのふりかけ、梅干し、豆腐のみそ汁といったメニューである。
 今日はカルガリーまで車で移動するという若いお二人と、Tさんと4人でしばし雑談する。いろいろな話が出て、9時頃までそのまま話が続いた。いったん部屋に戻って、テレビを眺めながら日記をつける。10時頃出かけようとすると、ちょうど二人が出発するところだった。カルガリーまで12時間の旅だというが、途中のロッキーで野宿かもしれない、などと屈託がない。女性の方のNさんがカメラがプロ級らしく、要領よく三脚を取り出し、宿をバックに三人で記念撮影となった。
 少し散歩のつもりで歩き、Tさんに教えてもらったある有名な日本人の家を眺めに行く。周辺でもひときわ眺望のよい位置に、瀟洒な家が建っていた。その後、トロリーバスでUBCまで行き、まず地理学教室の事務室へ立ち寄り、昨日P先生に渡しそびれたおみやげのお菓子を預けた。すると昨日はいなかったL先生が今研究室にいるというので、さっそく立ち寄り、アポイントなしで来たことをわびながら、ひと通り挨拶をする。もちろん先方は、十年前に会ったことなど覚えていないが、ここ数年来取り組んでいるという大規模な移民についての学際研究のことなどを話してくれた。
 地理学棟を出て、少しキャンパス内を歩き、新渡戸記念庭園の辺りなどを見て(庭園には入らず)からバス乗り場に戻り、99番バスで中心市街地へ向かった。グランビル通りで下車するつもりだったのだが、またまた寝過ごして、カンビー通りで下車し、近くの新古本の店に入る。その後、ブロードウェーをいろいろ店を覗きながら西へ戻り、またまたトロリーに乗って、グランビルへ戻り、角の書店(新古本も扱っている)に入ってしばらくじっくり本を探す。結局、ここでは何も買わず、98番バスで中心部へ向かった。ウォーターフロントの駅で下車し、古い駅の建物や、フェリー乗り場への連絡橋の上からの眺めを楽しむ。
 駅を出て、観光ショッピング街になっているギャスタウンの土産物屋を冷やかして歩く。ギャスタウンというのは、法螺話の名手だった「ギャシー」ジャックなる人物にちなんだ地区名らしい。土産物屋では、Tシャツを物色したのだが、安物はそれなりだし、値の張るものは気後れしたので、荷物の整理に必要な、20ドルほどの布の鞄を一つ買っただけで、帰ることにする。一本南へ通りを移動し、ヘイスティングス通りでUBC行きのトロリーが来たので乗り込む。トロリーがグレンビルとブロードウェーの交差点へ来たところで、99番バスに乗り換えようと思い、いったん下車したのだが、99番バスのバス停前にある古レコード屋が目に入り、入ってみる。結局ここでは、ジャズを中心に100ドルちょっとの買い物をする。さっきギャスタウンでTシャツを買わなかった代わりに、UBCで大学ロゴ入りのを買おうと思い立ち、99番バスで終点のUBCまで行ったのだが、ほんのタッチの差で5時を回って店がしまってしまい、買い物ができなかった。朝は9時から開いているようなので、明日、早めに宿を出て、空港へ向かう前にUBCへ来ることにする。5時半過ぎに宿へ戻り、買ってきたばかりのマルサリス父子のCD「ジョー・クールズ・ブルース」(ピーナッツをテーマにしたアルバム)をかけながら、しばしうたた寝する。一度は30分くらいで起きたのだが、まだ眠いのでしっかり眠ろうと思って寝たら、3時間ほど寝てしまった。  9時半頃、目が覚めて、慌てて支度をして夕食に出かける。目指すのはP先生に教えてもらった寿司屋である。しばらく10番通りでバスを待っていたのだが、なかなかこないので、4番まで下りてゆくことにして、オフブロードウェイからアルマ通りを経て、4番通りの角まで歩いていった。ここで、しばらく待ち、やってきた4番のトロリーでユー通りまで行き、ここからさらに坂を下りて、目的地に到着した。
 貴船寿司という店は、ちょうど海岸公園に面した、数軒のレストランなどが集まった一角にあり、間口は狭いが奥行きがあり、日本の寿司屋と近い感覚のつくりだった。着いたのが10時15分頃で、10時半でオーダーストップだというので、寿司の「スペシャル」と鉄火巻きを頼む。まず出てきた鉄火巻きが、ビントロだったのにちょっと驚くが、なるほど脂が乗っていておいしい。ちょうど店主?の目の前のカウンター席に座ったのだが、みそ汁を勧められたので、いわれるままに注文すると「今日のサービス」と称して東海岸から取り寄せたというロブスターの半身が入っていた。日本からわざわざ取り寄せているという鯵も含め、11品の特上寿司が税抜きでは20ドルにもならないのだから、ありがたい。カナダは何回目かと尋ねられたので、正直に初めてだと答えると、「珍しいですね」と言われた。結局30分ほどしかいなかったが、居心地も良さそうな店だった。勘定はチップも乗せて28ドル。
 10時45分頃店を出て、とりあえずダウンタウン方面へ向かうバスに乗る。いつものダーンビル橋ではなくバラード橋経由で中心部へ向かい、ダーンビル通りに出たところで降りて、ダーンビル通りを南下するトロリーをつかまえたのだが これが途中で曲がってしまったので慌てて乗り換え、しばらくしてからやって来たUBC行き10番のトロリーに乗って、宿に戻った。既に11時40分を回っていた。
 明日のことを考え、部屋で荷造りをしようとしたのだが、もうかなり眠たくなっている。とりあえず少しだけ寝るつもりで、部屋の電気を点けたままベッドカバーの上に倒れ込む。
■ 2003/07/10 (Thu)

帰路に就く
 3時少し過ぎに起き、まず日記をつける。そのまま、だらだらと荷造りをはじめる。ウィンストン・マルサリスの「マジェスティ」と、アシッド・ジャズのコンピレーションを聞きながら、ようやく5時半頃になって、だいたい区切りがついた。6時過ぎに風呂に入りゆっくりする。7時を少し回って、インスタント紅茶を飲むためにお湯をもらおうと台所へ行くと、Tさんが朝食の支度をしていた。昨夜は、コスタリカ人の母娘も泊まっていたはずだが、彼女たちはこちらで朝食は取らないので、朝食は自分だけとなった。朝食後、しばらくTさんと話をする。UBCの勤務のため、8時半頃家を出るTさんの車に便乗させてもらい、キャンパスより少し手前の教会のところにある駐車場から、(直線の自動車道路沿いではなく)彼女の朝の通勤路兼散歩道だという林の中の道を進む。こんな道を毎日歩いているとは贅沢なのだろう。しかも、雨期にもゴアテックスを着込んでわざわざこの林の中の道を歩くのだそうである。
 8時45分頃、バス停留所のところでTさんと別れ、学生組合の売店に行く。開店の定刻は9時だが、少し早めに開店したので、お土産用のシャツなどを買う。99番バスでセイフウェーの所へ行き、メープルシロップと、メープルクッキーなどを買い込む。そこから歩いて宿に戻り、荷物を取って鍵を置き出発する。ちょうどコスタリカ人のお嬢さんの方が出かけるところだっだ。
 10番トロリーバスから98番バス、空港連絡バスと乗り継いで、空港に10時50分頃に到着する。税金のリファンドの説明を受けに窓口へ行くが、やはりこれくらいの買い物ではほとんど意味がない。特に、宿泊費の領収書のもらい方がまずかったようで、将来機会があったときには気をつけなければと思った。エア・カナダのチェックイン・カウンターは今日も長蛇の列で、結構待たされると覚悟したが、先日ほどではなく時間の余裕を持ってチェックインできた。手元に残った小銭で、お土産をさらに少し買う。セキュリティ・チェックでは、またまた靴まで脱がされた。
 D55ゲートでしばらく待つことになったので、スコット・ジョプリンの伝記を少し読み進む。きちんとしていて解りやすい行論に感心しながら、自分でもちゃんとした論文を書なければと自戒する。AC3便は来たときと同じでB747−400だった。往路便で見かけた日本人の男性アテンダントも搭乗していた(今日の便では2階のファーストクラス担当だった様子)が、パーサーは明らかに仏語ネイティブの年輩の男性で、わざと簡単な仏語で声をかけると本当にいい笑顔が返ってきた。カナダにおける仏語ネイティブの屈折を感じたのは、こちらの過剰な読みとりだとは思うのだが。
 成田まで8時間あまりのフライトで、時差が8時間なので、2時少し前に飛び立って、2時少し過ぎに到着ということになる。もちろん日付は途中で変わる。機中では左側の窓側席だったのだが、離陸準備の途中から寝てしまい、ふと気づくともう下は雲海だった。その後も、ジョプリンの伝記を少し読んでは、眠り、また食事で起きる、といったパターンを何回か繰り返した。隣は、お互いには知り合いではないらしい中国系の女性と男性だったが、途中で真ん中の席にいた女性が、アテンダントに手配してもらったようで別の席に行ってしまった。熟睡しているときのこちらの鼾がひどかったのかもしれない。まあ、真ん中の一人がいなくなって、こちらも圧迫感がなくなり、ずいぶん楽になった。
■ 2003/07/11 (Fri)
帰国
 成田へ着陸するときも、直前まで眠っていて、ふと気づいたらもう着陸していた。淡々と帰国し、荷物を取って通関し、電車に乗る。快速エアポートの中でも、ほとんどずっと眠っていた。錦糸町、御茶ノ水で乗り換え、新宿からは中央線も座ったので、また眠る。それでもちゃんと三鷹で目が覚め、国分寺で下車。タクシーで大学へ向かう。研究室に荷物を下ろし、たまっている郵便物を回収し、メールチェックをする。明日からまた仕事に忙殺される日々が再開である。


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