内川先生は、私にとってはただただ仰ぎ見る、泰山北斗というべき方でした。特に、東大新聞研の所長を務められて以降、東大での最後の時期や、成蹊大学に移られてからの時期には、各種の公職で御活躍になっていたこともあって、随分と遠い存在に感じられたものでした。
私は、1981年に地理学専攻で大学院に進学したときに、同時に当時の新聞研究所の研究生となりました。後で考えると、これは実に幸運なことでした。当時の私は、研究生として教育部の授業を受けると同時に、大学院生として他研究科履修という形で新聞研究所の先生方が担当する「社会学Bコース」の授業も受けることができたのです。(当時の新聞研究所の制度についての解説)
私がとった内川先生の授業は、大学院の科目として開講されていたものでしたが、受講していたのは、私の他は大学院への留学生(アメリカ人とオーストラリア人の女性)2名で、この3人で内川先生とともに、「新国際情報秩序」を打ち出したユネスコのマクブライド委員会報告を読み進みました。今考えると、このテキストがえらばれたのは、留学生たちの日本語の研鑽のためであったのだと思います(彼女たちは英語版と日本語版の両方のテキストを用意しつつも、頑張って日本語で議論していました)。しかし、私自身も、通信社の情報支配とか国際的な情報流通の不均衡といった議論を通じて、ニュース配信の基本的なメカニズムや、その発達史について、随分と学んだように記憶しています。今となってははっきりした記憶はありませんが、この頃、通信社でしばらくアルバイトをしたのも、この授業から出てきた関心に沿ったものだったのかもしれません。
その後、博士課程の3年だった1985年の秋に、はじめて公募に応募しようとしたとき、推薦状をお願いしに先生の研究室にうかがったことがありました。新聞研では、教育部や大学院他研究科履修を含め、稲葉三千男先生、高木教典先生、岡部慶三先生、広井脩先生はじめ多くの先生方に御指導いただいたのですが、一番みっちり指導していただいた感があったのが内川先生だったからです。しかし先生は、「そういうものは所長の名前でもらった方が良い」とおっしゃって、当時の所長だった(私自身は接する機会が少なくお願いするのを遠慮していた)竹内郁郎先生のところに、一緒に出向いて下さいました。竹内先生には過分な推薦状をいただき、その甲斐あって私は最初の職(松商学園短期大学)を得ることができました。
その後は、学会や同窓会などの席で、御挨拶をすることくらいしか、内川先生にお目にかかることはありませんでした。先生の背筋が伸びた品のよい紳士らしい姿はパーティーの会場などでもよく目立っていました。今でも印象深く思い出されます。
先生からは、直接に接して教えていただいたこと以上に、書物の形で多くを学ばせていただいたのだと思います。いや、多くを学んだ、などと言えるほど先生が著わされ、あるいは編纂された文献を、自分はまだまだ読み込んでいないのだと痛感します。今後も、まだまだ先生が残された文献を通じて学ぶことは多々あるはずです。民主主義にとっての言論の役割を愚直に考えるという作業は、メディア研究に携わる者には永遠の課題として突き付けられているからです。
(2005.02.10.記)
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