コラム,記事等(定期刊行物に寄稿されたもの):2002

コラム「ランダム・アクセス」

市民タイムス(松本市).

2002/01/18 ブラック・クリスマス.<シドニー便り(3)>
2002/01/31 オーストラリアの女王.<シドニー便り(4)>
2002/02/20 ここはシドニー?.<シドニー便り(5)>
2002/03/07 新しいバス、古いバス.<シドニー便り(6)>
2002/06/24 日本語は難しい.
2002/07/08 「不陰気」の「レアリティ」.
2002/09/27 <ソーピー>の「だっこ」はいかが?.
2002/10/21 品切れ、再版予定なし.
2002/11/21 ミルトン・キーンズの民宿で.


2002/01/18 

ブラック・クリスマス.<シドニー便り(3)>

 南半球にあるオーストラリアでは、クリスマスから新年までが、日本のお盆休みのような感じで夏休みになるところが多い。元日は祝日だが、新年が明けると、クリスマスの飾りも撤去されはじめ、少しずつ日常の生活が戻って来る。学校が再開されるのはまだまだ先の月末になってからだが、一般の事業所や官庁などは、新年早々から平常の業務に戻っている。
 今回のクリスマス休暇の期間、シドニー周辺を含め、ニューサウスウェールズ州の各地では、大規模なブッシュファイア、つまり森林火災が起こった。しばらく雨が降らず、大気が乾燥の極に達し時期に、熱い空気が強い風となって流れ込み、各地で自然発火のブッシュファイアが始まったのはクリスマスの前日だった。それ以来、落雷や放火によって発火したものも含め、州内各地に被災地は広がった。当地のメディアは数十年ぶりという大規模になった今回のブッシュファイアを「ブラック・クリスマス」と呼ぶようになった。
 わが家では、日本からの遊びにきた親戚たちと一緒に、クリスマスをブルーマウンテンズ国立公園の入口にあたるカトゥンバという町で過ごした。シドニーから見たカトゥンバは、東京から見た大月あたりの位置にある。カトゥンバまで往復した電車からは、谷の反対側の斜面が燃えているのが見える場所などもあったし、宿の窓からは、遠方に煙の柱が何本も立っているのが望めた。
 新年に入って早々には、わが家から徒歩で十数分ほどの距離にあるレーンコーヴ国立公園の一角でも火災が発生し、煙が立ち昇るようすが我が家からもよく見えたし、近く主要道路を消防車が頻繁に通っていた。
 特に、二日には、消防活動に危険があることを理由に、わが家のある地区への送電が一時的に止められた。たまたまこの日、日本のある新聞社のホームページにアクセスしたところ、ブッシュファイアが「日本企業が流通センターなどを構える工業地域まで数キロの地点まで迫った」という時事通信の報道が載っていた。どうやらこれは、我が家の近所のことだったようだ。
 オーストラリアのブッシュファイアは、気候条件によって自然に引き起こされることが多く、発生するときには、各地で同時多発的になることが多い。このため消防活動も、森に隣接した家屋などを火から守る作業が中心となるのだが、今回は死者こそ出ていないものの、家屋の焼失が多数になってしまった。一部では、森林に囲まれたような場所での住宅地開発が進んだ、あるいは乱開発が進み過ぎた結果ではないか、とも論じられている。
 火災発生から二週間ほど経ち、まとまった降雨もあって、事態はようやく落ち着いてきた。しかし、被災者はもちろん、消防関係者や被災地域の住民にとっては、悪夢のようなクリスマス休暇だったに違いない。一日も早く平常の生活が戻ることを願って止まない。


2002/01/31 

オーストラリアの女王.<シドニー便り(4)>

 オーストラリアは正式国名は「コモンウェルス・オヴ・オーストラリア」という。「コモンウェルス」には、いろいろな意味があるが、この場合は「共和国」ではなく「連邦」という意味である。
 日本のように、集権的な中央政府がある国とは対称的に、連邦国家は、元々それぞれが国家のように自立している州政府が、調整機関となる小さな連邦政府を設ける形で成立する。州のトップが、首相(プライム・ミニスター)という肩書きなのも、オーストラリアの各州が、国家並みの独自性をもっていることを示している。  それまで、それぞれ別個の植民地として成立していた、オーストラリア大陸(およびタスマニア島)の英領植民地が、連邦憲法を定めて、独立国家「コモンウェルス・オヴ・オーストラリア」を成立させたのは、一九〇一年の年頭だった。国家としてのオーストラリアは、百一歳になったばかりである。
 興味深いのは、この国の元首である。日本の場合は、「天皇は元首ではなく国民統合の象徴だ」といったやっかいな議論をしなければいけなくなってしまうのだが、天皇は、少なくとも国際儀礼上は元首に相当する存在である。外国からの新任大使が、本国からの信任状をもって宮中に参内するのは、よく知られている通りである。
 オーストラリアの場合、国家元首は英国の君主、つまり現在ならエリザベス女王と定められている。「オーストラリアの女王」は、彼女が持っている多数の称号の一つである。もっとも、女王は普段はこの国にいない。オーストラリアに到着した新任の大使は、女王の名代である総督(ガバナー)に信任状を提出することになる。
 日本の憲法は、天皇が国政に関与しないことを明文化している。一方、慣習法の立場に立つ英国では、憲法に相当するものは歴史的に積み上げられてきた諸文書の総体という考え方になるので、君主(女王)が国政に干渉する権限は、完全には無くなっていないと考えられている。もちろん、現在の英王室は国政への干渉をしていないが、国の仕組みとしてはそうなっている。
 オーストラリアには連邦憲法があるが、基本的な考え方は英国に準じている。実際、一九七五年には、当時のカー総督が、ホイットラム連邦首相を解任するという事件があった。女王に指名されただけの総督が、民意で選ばれた首相をクビにしたのである。総督の国政干渉が現実のものとなったこの一件は、オーストラリアの政治史において、今でも議論が尽きない事件になっている。
 ちなみに、オーストラリアの国歌は、かつては英国の「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン(キング)」そのままであり、国民的な愛唱歌「ワルチング・マチルダ」が国歌に準じて併用されることが多かった。一九七四年にホイットラム首相が国歌の変更を打ち出してからはいろいろな紆余曲折があり、結局一九八四年に、現在の「アドヴァンス・オーストラリア・フェア」が国歌となった。しかし、これは当地に来るまで知らなかったのだが、今でも、女王や総督が臨席する場では「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」を国歌として演奏すると定められているのだそうである。


2002/02/20 

ここはシドニー?.<シドニー便り(5)>

 このところ、このコラムには「シドニー便り」という副題をつけている。これまでも、現在いる場所のことはシドニーだと紹介してきた。しかし、厳密にいうと、ここはシドニー「市」ではない。
 オーストラリアの各州は、国家並みの独自性をもった、権限の強い自治体である。しかも規模から言えば、日本の県よりかなり大きい。シドニーのあるニュー・サウス・ウェールズ州の場合、人口は長野県の三倍以上の六五〇万人、面積は日本の倍以上の八〇万平方キロメートルもある。西隣の南オーストラリア州との州境に近いブロークン・ヒルという町は、シドニーから見れば千キロ以上離れた場所になる。
 ところが、これだけの領域を対象としながら、州の下には市町村にあたる自治体しかない。しかも、日本の政令指定都市のような大規模な市は存在せず、ほとんどの自治体が、せいぜい十数万人の人口にとどまっている。
 シドニーはよく人口四〇〇万といわれるのだが、これは、国勢調査などを集計する上で設定されているシドニー大都市圏の人口だ。つまり、都市としての実勢を把握するため、五十近い自治体に及ぶ範囲をまとめた上げた数値なのである。
 自治体としてのシドニー市は、都心一帯を占めてはいるものの、人口は一万人ほどしかいない。東京の千代田区のように、オフィス街などが多い分、人口は少ないのである。しかし、オーストラリアでは英国と同様に、地方自治体の税収は住民税ではなく固定資産税が軸なので、高層ビルの林立するシドニー市は、人口こそ少ないものの、財源には恵まれた自治体として成り立っている。
 一方、現在客員研究員として滞在しているマコーリー大学も、また大学に近い自宅も、自治体としてはライド市という人口十万ほどの郊外都市に位置している。当然ながら、住所にはシドニーという地名は含まれない。だから、ライド市に住んでいて「シドニーにいます」と言うのは、ちょうど穂高町に住んでいて「松本にいます」と言うのと同じようなことになる。
 ふつうシドニーにあると思われている施設も、都心にあるAMPタワーやオペラ・ハウスを別にすれば、実際には他の市に立地していることが多い。コアラやカモノハシなどで人気の高いタロンガ動物園は、実はモスマン市にある。シドニー・オリンピックのメイン会場はオーバーン市、ビーチバレー会場だった有名なボンダイ・ビーチはウェーバリー市に属している。また、シドニー空港はボタニー市にターミナルがあるが、滑走路の先端はロックデール市にあるといった具合である。
 小さな自治体は権限や責務も小さい。その分、スリム化も進んでいて職員の数は少なめだし、市議会議員は数名というのが普通だ。市域を越える行政は、全て州政府の責任になるが、そこでは行政法人化と並んで、業務委託などによる民営化がかなり進んでいる。
 もちろん、制度の根本が違う以上、表面的な部分だけを捉えて、あれこれ評するのは無責任だがオーストラリアの地方自治から学ぶべき点は、いろいろあるようだ。自治体職員の研修なども行う財団法人自治体国際化協会が、海外事務所の一つをシドニーに置いているのも、うなづけるところである。


2002/03/07 

新しいバス、古いバス.<シドニー便り(6)>

 わが家のあるシドニー北西郊のライド市ノース・ライド地区付近には、まだ鉄道が通っていない。計画路線はあるが、開通はまだ何年も先のことだ。そんな場所だから、この辺りでは自家用車が生活に欠かせない、と思われている。ところがわが家は、半年あまりの仮住まいということもあって、車無しで生活している。車がないと言うと、驚かれることもよくあるのだが、ある程度慣れてくると、シドニーのバスは実に便利である。
 ノース・ライドからシドニーの中心地へ行く路線は、通勤時間帯は数分間隔で来るし、それ以外の時間でも一時間に二本のペースで夜十一時過ぎまでバスがある。週末には夜中の二時台までバスがあり、夜遊びで少々遅れても大丈夫なようになっている。このほかにも三箇所の鉄道駅までのバスがあるので、中心部へ直行するバスがすぐに来ない時には、とりあえず来たバスに乗って、鉄道で中心部へ行くこともできる。
 シドニーにも民営のバス路線はあるが、たまたまわが家の近くを通る路線はすべて、州政府が運営する「シドニー・バス」である。時々、車体全体が広告になっていて、何色ともいえないバスも来るが、ほとんどはボディが白とブルーに塗り分けられている。
 車体は、たいていドイツのベンツかスウェーデンのボルボといった欧州製だ。大半は五十席近い座席のある大型バスで、ほとんどがノンステップ車になっており、停車すると車高を下げて乗りやすくする仕掛けのものもある。また、座席の一部が畳めて、車椅子のまま乗れる車両にもよく出会う。最新式の大型バスには燃料が天然ガスのものもあり、なかなか先進的だ。もちろん、ひと回り小さい古いバスも活躍しているし、一部の路線では蛇腹のついた連結式のバスなども走っている。
 たまたまシドニーの交通機関に関する展覧会を見に行って知ったのだが、一九七〇年代までは、ダブルデッカー(英国式の二階建てバス)が多数あったらしい。当時は緑とクリーム色という、今でもフェリーの色として使われている配色がバスにも使われていた。  この頃の古いバスはどこかで今でも走れる状態で保存されているらしく、まれに市内で見かけることがある。先だっても、結婚式の際の移動であることを象徴する白いリボンをかけた緑とクリーム色の小型バスが、新郎新婦や親戚一同と思しき一行を乗せて中心部の通りを走っているのを見かけた。
 圧巻だったのは、一月二十六日。初代総督や流刑囚などを連れた最初の艦隊がシドニーに上陸した記念日である「オーストラリア・デイ」だった。この日は、中心部ではいろいろなイベントがあったのだが、少し離れた場所に設定された駐車場と各会場を結ぶ無料のピストン輸送に、きれいに磨き上げられた多数の旧式バスが動員されていたのである。
 ダブルデッカーから小型のバスまで、車体には、レイランド社をはじめ古の英国の様々な自動車メーカーのエンブレムが堂々と輝いている。中年以上の大人なら、昔よく乗ったバスを見て懐かしさが溢れたことだろう。もちろん、振り返る時間の長さは違うが、歴史を振り返る日にはふさわしい光景だった。


2002/06/24 

日本語は難しい.

 おかげ様で、無事シドニーでの滞在を終えて、三月に帰国した。一年のブランクを置いて業務に復帰してみると、新学年の始まりは業務が重なってきわめて忙しく、またしばらくこのコラムをさぼってしまった。コラムの方も、何とか早くペースを取り戻したいと思っている。
 昨年度は授業や業務を離れ、合計九ヶ月も国外へ出ていた。欧州へ学会ででかけたときは一人旅だったが、ほかにも日本から参加した先生方は何人もいた。また、オーストラリアはずっと家族と一緒だった。つまり、国外にいる間も、ずっと日常的に日本語を話していたのだが、帰国してからは改めて、きちんとした日本語を使うことの難しさを痛感している。母語である日本語について、ごくごく簡単なことで、立ち往生してしまうことが時々あるのだ。
 一例を挙げよう。今年度は非常勤講師として国立音楽大学でポピュラー音楽研究という講義を担当している。明治時代に録音技術が伝来した頃を起点として、日本の流行歌の歴史をたどるという内容で、既に明治・大正期の講義が終わり、今は昭和初期の話をしている。当然ながら、戦後生まれの自分は、この頃のことを直接知っているわけではない。あくまでも歴史として、様々な資料に学びながら、授業を準備している。
 そこで結構困ってしまうのが、固有名詞の読み方である。授業で言及しなければいけないのだが、資料には漢字で書いてあるばかりで、読み方に迷う、という例がけっこう出てくる。授業の時には、固有名詞を読めなければ話にならないので、資料を紐解き、インターネットで情報を探って、何とか適切な読み方を見つけ出さなければならない。
 例えば、大正六年に浅草オペラで成功を収めた『女軍出征』という作品があるのだが、これが「おんなぐんしゅっせい」なのか「じょぐんしゅっせい」なのか、はたまた別の読み方をするのかは、判然としない。結局最後は、詳しい人から、どうやら「じょぐん…」らしいと教えていただいたのだが、それが判るまで随分と時間がかかってしまった。
 また、二村定一という歌手も少々やっかいだった。昭和六年頃から何曲ものヒットがあり、昭和三十六年にフランク永井がリバイバル・ヒットさせた『君恋し』のオリジナル盤を歌っていた歌手でもある。彼の名前の読み方が「ふたむら・ていいち」であることは、資料をあたればすぐに判るのだが、どうしたわけか最初にこの名前を見た時に間違って思い込みをしてしまったらしく、授業の時についつい「ふたむら・じょういち」と間違った読み方で名前を口にしてしまった。ほとんど意識していないまま何回か「じょういち」と言及した挙句に、自分で間違いに気付き、授業中に訂正することになってしまった。
 人名や地名、作品名など、固有名詞の読み方は、知らなければそれまでだ。特に「教える」立場にある者としては、「知らない」で済ますわけにはいかない。それでも、見落としや思い違いは、ついて回る。まだまだ勉強しなければならない。


2002/07/08 

「不陰気」の「レアリティ」.

 前回、人名などの固有名詞の読み方を調べるのが難しいという話を書いたが、固有名詞でなくても、思い込みで誤った言葉づかいを耳にすることは、決して珍しくない。
 例えば、堺屋太一が戦後のベビーブーマー世代に名づけた「団塊の世代」を、「だんこん…」だと思い込んでいる人は、けっこういるようだ。「塊」の字形が「魂」に似ているためだろうか。先だっても、若い女性がこう言うのに出くわしたのだが、思わず性的な連想をして、ドキリとしてしまった。
 もっとも私自身も、恥かしながらずいぶんいい歳になるまで「示唆(しさ)」を「ししゅん」と読んでいたから、本当はあまり他人のことを言えたものではない。
 この手の誤りで、最近かなり驚かされたのは「不陰気」である。国語辞典を繰ってもこんな言葉はないが、インターネットで検索してみると、使用例がけっこう出てくる。「不陰気が一変」、「ダンディな不陰気」、「なごやかな不陰気」とくれば判るように、この不思議な言葉は「雰囲気(ふんいき)」のことなのである。
 実際、「ふんいき」は、最初の「ふ」は明瞭に発音するが、後の部分の音はやや曖昧になることが多い。最初から漢字と結びつけて言葉を覚えれば何と言うことはないが、耳から聞いてこの言葉を覚えた場合、最初に「ふいんき」と間違って覚えても、実際にこの言葉を使う場面で間違いを指摘されることはほとんどないだろう。
 音から「ふいんき」で正しいと思い込んでしまうと、どんな字になるのか、ちょっと見当はつかない。辞書を引いても当然そんな言葉はない。しかし、ワープロで「ふいんき」と打ってみれば見事に「不陰気」と変換される。この字面を見ると確かにその場の「気」が関わっているようでもあり、それこそ雰囲気は出ているようにも思える。そのままこれが正しい漢字だと信じ込まれても、不思議はないのだろう。
 同様のことは外来語でもある。私が所属するのは「コミュニケーション学部」だが、ある程度年配の方の中には「コミニュケーション」と言う方が少なくない。「シミュレーション」を「シュミレーション」と言うのも、すっかり市民権を得ているようだ。
 数年前、ある学会で「レアリティ」を連発して話をされている先生がいた。最初は「稀少性」を意味する英語かと思ったのだが、どうも文脈が合わない。変だなと思いながら聞いていて、ふとこれが「リアリティ」つまり「現実性」のことだと気がついた。
 英語では「現実的」という形容詞は「リアル」で、その名詞形にあたる「現実性・現実味」は「リアリティ」である。これが仏語になると「レアル」と「レアリテ」になる。例の先生は、どうやら、この英仏両語の言い回しがごっちゃになって「レアリティ」になってしまったらしい。
 誰かが間違った言葉づかいをしているのに気づいても、それを指摘するためには相当の勇気が要る。自分の方が間違っているのではと思ってくることもあるし、そうではなくても相手に恥をかかせることになるからだ。相手が学生なら、「ほらほら君、<みょうじ>じゃなくて<めいじ>(明示)だよ」とたしなめられるが、特に親しくもない相手や、年長者にはそうはいかない。逆に言えば、私自身が思い違いをしていても、それを教えてくれる人は少ないということになる。そう思うと冷や汗が出てくる。


2002/09/27 

<ソーピー>の「だっこ」はいかが?.

 今年の八月は、前半は南アフリカ共和国、お盆に数日穂高町へ戻ったのを挟んで、後半はオーストラリアと、南半球の国への旅が続いた。八月のシドニーは真冬だが、実際には信州の初秋のような穏やかな気候である。しかし、半年弱で再訪したシドニーでは、なじみ店が廃業や移転している例がかなりあって、随分と面食らった。
 もともとオーストラリアは、商習慣の違いもあって、日本より小規模事業の創業や廃業が頻繁だし、経営権の売買や店舗の移転も非常に多い。しかし、それだけではなく、九〇年代以降の慢性的な不況に加えて、昨年来の観光業の世界的不振が、オーストラリアの経済の隅々に影響を及ぼしてきているという見方もできるようだ。
 実際、昨年九月の同時多発テロ以降、観光関連業界の不振は著しい。オーストラリアではカンタスに次ぐ航空会社だったアンセットが経営破綻したが、その再建は暗礁に乗り上げたままである。シドニーの高級ホテルの宿泊料も、名目上は高いままだが、実際にはかなり割り引いた価格で泊まれることが多くなっている。今や、オーストラリアにとって主要産業になっている観光業の不振は、経済全体へも大きく影響する。
 ところで、ちょうどシドニー滞在中に、水泳のイアン・ソープ選手が横浜の競技会で大活躍した。その間テレビでは、彼の日本での人気ぶりがニュースになっていた。おかげで私も、いろんな人から「どうして日本人は<ソーピー>(ソープの愛称)が大好きなの?」と挨拶代わりのように質問された。それも、「何であんな奴が?」というニュアンスを帯びた質問である。どうやら、オーストラリア人の大多数の目からすると、ソープは決して見ばえのよい男ではなく、親しみやすくはあるが野暮ったい、という印象らしい。
 その<ソーピー>が、「オーストラリア経済を救う!」という景気のよい議論も、新聞やテレビには現れた。風が吹けば桶屋が儲かるような話だが、ソープ人気でオーストラリアに関心を持つ日本人が増えれば、観光客も増えるだろう、というのである。
 オーストラリアで人気の高いテレビのバラエティ番組「バックバーナー」では、観光客を誘致するために<ソーピー>の等身大の写真パネルを作って、自由に「だっこ」できるようにすれば日本人が列を成してやって来るぞ、というネタをやっていた。ニューサウスウェールズ州が、コアラにストレスを与えるからといって、以前認められていたコアラの「だっこ」を規制したために日本人観光客が減ったのだ、という議論のパロディである。
 最近の統計では、海外からオーストラリアを訪れる観光客の数は僅かながら減少しており、政府も事態をかなり深刻に受け止めている。観光大臣は、観光資源の発掘や施設整備が急務だと力説している。今年日本は、サッカーのワールドカップで社会的には大いに盛り上がったが、経済効果は事前の景気のよい予測通りとは行かなかった。オーストラリアは、来年のラグビーのワールドカップ開催に観光活性化の期待をかけているが、どうなることだろうか。


2002/10/21 

品切れ、再版予定なし.

 彼岸を過ぎて、夜が随分と長くなってきた。月並みな言い方だが、読書の秋である。仕事の必要で目を通さなければいけない本が、ろくにページも開かないまま机に積み上がっているのに、古本屋で漁ってきた文庫本を読み耽って深夜に至る夜が続く。
 昨年シドニーに滞在したのを契機に、オーストラリアや日豪関係に関する本を読む機会がこのところ多くなっている。もちろん、堅い学術書に目を通すこともあるが、二年前のシドニー・オリンピックを当て込んで、その少し前からいくつも刊行された文庫や新書の類にも、いろいろ教えられることが多い。
 中でも、一九八〇年に渡豪し、様々な仕事をしながらそのまま定住した日本人リック・タナカ氏の『おもしろ大陸オーストラリア』(光文社・知恵の森文庫)という本は、その表題通り、いや、いかにも軽薄な表題を越えた深みももっていて、掛け値なしに面白かった。巨大な造形物(いわゆるデカモノ)や手作り廃物利用の郵便ポストの話は、多数の写真を見ているだけでも興味が尽きない。UFOや謎の巨人の目撃談、危うさを含んだ産業基盤の上に立つ国家経済事情など、通常のガイドブックにはないようなオーストラリアの裏話は、気楽に読める文体ながら、丁寧に書き込まれている。
 読み進んでいるうちに、このタナカ氏は松本平出身ではないかと思うようになった。『おもしろ大陸オーストラリア』にも庭で野沢菜を干している写真が出てくるし、別の英文の著書の紹介には「中央線の終点」で生まれ育ったとある。そう思って読み直してみると、「信州の山猿」的な斜に構えた視点が面白いし、共感できる所も多い。その後、いろいろ調べてタナカ氏の連絡先が判り、メールを出してみて、お返事を頂いたのだが、やはり、松本平のご出身だそうである。
 そういえば、現在タナカ氏が住んでいるカトゥンバという町は、標高こそ大したことはないが、急崖の絶景や様々な滝などで知られるブルーマウンテンズの一角にある。雪はほとんど降らないが、気候も信州に近いといえるかもしれない。渡豪以来、いろいろなことをしながらあちらこちらを旅したタナカ氏が、ふるさとに通じるような場所に定着して、野沢菜を漬けているという。「人生至るところ青山あり」を、まさしく地で行っているわけだ。
 残念ながらこの本は、既に品切れで再版の予定はないというから、古本屋で見つけるしか入手方法はない。文庫本でありながら、わずか二年で手に入らなくなるとは、書籍も寿命が短くなったものだ。最近では、文庫であっても、この例のようにほんの僅かな期間で入手できなくなることが多い。その意味では、かつて岩波文庫が標榜したような、古典をいつでも安価に入手できるようにするという「文庫」は過去のものなのだろう。しかし、判型が文庫サイズというだけの文庫本にも、こうした本との出会いがある。古本屋通いは止められない。


2002/11/21 

ミルトン・キーンズの民宿で.

 十月下旬から二週間ほど英国に渡り、ロンドンからグラスゴーまで、各地の都市を駆け足で訪れた。その中の一つが、ミルトン・キーンズだった。
 ミルトン・キーンズは、ニュータウンとして開発された、つくば学園都市のような都市である。そこにキャンパスがあるオープン・ユニバーシティ(放送大学)を訪れるため現地へ行ったのだが、当日になって先方の都合で日程が一日先送りされ、ミルトン・キーンズに一晩泊まることになった。
 ミルトン・キーンズにはホテルが数軒あるが、ビジネス需要が強く、料金は概して高いし、当日の飛び込みでは泊まれないことが多い。このところの円安・ポンド高もあって、一泊二万円以上という所もある。数軒のホテルに電話を入れてみたが、泊まれそうなところがない。そこで、観光案内所で手に入れた宿泊ガイドに載っている「ベッド&ブレックファスト(B&B)」、つまり朝食付きの民宿に当たってみることにした。
 リストの中から、オープン・ユニバーシティに近い一軒を見つけ、電話したところ、運良く泊まれることが判った。料金は、一泊八千円くらいだ。一安心して、泊まることに決め、どうやって行けばよいのか聞いてみた。ところが、明らかに高齢と思われる電話口の男性は、「上手く説明できないから観光案内所で聞いてくれ」という。大丈夫かな、と思いながら、通りの名と番地を頼りに、バスに乗って現地へ向かった。
 到着してみると、そこは普通の民家で、看板も何も出ていない。本当にここかと思いながら近づくと、玄関脇に小さく屋号が書いてあった。呼び鈴に応じて出てきたのは、七十は越えている白髪の亭主である。中へ入ってみると、やや大きめとはいえ、まるっきり普通の家だ。二階の寝室=客室に通されて、旅装を解いてから、一階の居間へ行き、亭主にお茶を入れてもらって雑談をする。
 聞けば、元々この家は一九七〇年代の分譲住宅で、彼の一家は八〇年代はじめに移り住んできたのだそうだ。当時は子供たち、孫たちのことも考えて、寝室が四部屋もある大きな家を手に入れたのだが、子供たちが独立して老夫婦だけになり、彼の役所勤めの退職が間近になってから、奥さんがB&Bをやろうと言い出したのだそうである。確かに、個々の寝室に鍵がかかり、主寝室には独立したバスとトイレもついている家だから、ちょっとした改装でB&Bの認定をもらえたのだろう。
 今では、年金に加えて、この副業があるおかげで、老夫婦の暮らし向きはかなり恵まれているようだ。彼らは、米国フロリダ州の保養地にも家を持っていて、時々出かけているそうだ。ただし、B&Bをやっているので、一緒に出かけることはまれで、たまたま今は奥さんが向こうに行っているのだという。「クリスマスにはB&Bを休業して自分も合流するんだ」と亭主は楽しそうに話していた。
 その夜は、四人の客で宿は満室だった。翌朝、宿泊客が顔を合わせる朝食の時、亭主は手作りの英国式朝食を出しながら、常連の女性客を指さして、「昨日は彼女に自分の寝室を明け渡したので、居間のソファで寝たんだ」と言って笑った。この人は人生を楽しんでいる。実に羨ましいと思った。


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