書籍の分担執筆(論文形式のもの):1998:

ドラマ作りの村−長野県山形村.

児島和人,宮崎寿子,編『表現する市民たち 地域からの映像発信』日本放送出版協会,pp43〜65.


 出版社の意向を尊重し、抜粋のみの公開といたします。
 ここでは、冒頭の山形村および村営ケーブルテレビの概況についての部分と、後半に挿入されている兵庫県滝野町の事例に言及した部分を省略し、全体の分量の半分程度を掲出いたします。

 山形村については、山田・阿部・是永(1993)「長野県山形村における地域情報化の展開と住民の「地域」活動」もご覧下さい。
 一章 ドラマづくりの村−長野県山形村
  1 新旧住民の住む村
  2 村のケーブルテレビ
  3 「ホワイトバランス会」の誕生
  4 漫画『水色山路』
  5 外からの視線の導入
  6 滝野町の「幸せを運んだ風船」
  7 その後のドラマ村


ドラマづくりの村 − 長野県山形村

3 「ホワイトバランス会」の誕生

 一九八九(平成元)年にYCSが開局したとき、正式な名称でいえば「放送協力員」という制度が、同時にスタートした。これは、一般村民の有志が、ボランティアとしてYCSの番組制作に支援スタッフとしてかかわったり、YCSの施設を利用して独自の番組制作を行うというもので、他のMPIS施設を含め、全国のケーブルテレビにも類例がほとんど見られない珍しい制度である。YCSの正規の職員、つまり村役場の農村情報課の職員は、二〇代の若い職員を中心にわずか五名ほどしかいない。YCSは、この小さな所帯で日々の放送を維持しなければいけないわけだが、それを村民がボランティアとして支援しようというのが「放送協力員」である。もっとも、「放送協力員」といっても、村民の大半は何のことだか知らないことだろう。二〇名あまりいる「放送協力員」たちは、「ホワイトバランス会」という名で活動し、村民に親しまれているからである。
 もともと、「放送協力員」という発想が出てきた背景には、いくつかのきっかけがあった。そのひとつは、開局前の先進地視察の経験のなかで山形村の担当者が訪問した、岐阜県吉城郡国府町の国府町有線テレビ放送(CATV−KHK)の「放送主任・放送通信員」制度であった。国府町の制度は、放送の素材となるような情報の提供を、予め委嘱した町内の官公庁関係者や一般の住民に求めるものである。MPIS施設は、どこも少数の要員で運営されているが、国府町でもケーブルテレビにかかわっているのは五名ほどしかいない。この人員ですべての関連業務をまかなうのだから、自分たちだけで情報収集からやっていたのでは、いくら対象が小さな町でも情報を十分にカバーしきれないおそれが生じる。そこで、情報収集のアンテナとして、「放送主任・放送通信員」を町内の要所に置き、そこから寄せられた情報を参考に、ケーブルテレビのスタッフが取材の企画を立てる、という方法が編み出されたのである。地域住民をケーブルテレビの運営に巻き込んでいく、という発想は、国府町を訪れた山形村のスタッフに大きなヒントを与えた。
 しかし、山形村の「ホワイトバランス会」は、国府町の「放送主任・放送通信員」制度とは比較にならないくらい広い範囲にわたって、放送業務への一般住民の参加を可能にしている。このように、住民参加を拡大していく方向に進めていこうというアイデアは、ケーブルテレビ導入の準備に当たっていた役場の担当者やその周辺の人々が、かつて青年期に深くかかわった公民館活動の経験によって、増幅されたものである。長野県は、現在でも公民館活動が非常に盛んな地域であり、さまざまな社会教育の機会や社会活動の場が、公的な形で提供されている。特に、娯楽の機会が少なかった時代、モータリゼーションが普及して近隣の都市などに気軽に出かけられるようなる前の高度経済成長期には、青年団活動なども含め、公共的な場での社会教育活動が、社交や娯楽という意味も含めて、農村部では大きな役割を担っていた。その中心で機能していたのが、公民館である。山形村も、公民館活動が大変盛んな地域であり、現在でも全村的な行事となると、公民館分館の対抗形式で競技が行われたりする。また、村の公報は一九七七(昭和五二)年から刊行されるようになったが、それ以前は一九五〇(昭和二五)年に創刊された公民館報『館報やまがた』が、村民全員に情報を伝達するほぼ唯一といってよい媒体であった。
 公民館活動は、形骸化していくと、公民館の運営に対する住民の関与が後退し、住民はもっぱら「お客さん」になっていく傾向が生じる。しかし、本来は、住民の活動を行政が支援するというのが公民館活動のあるべき姿である。公民館活動がまだ高揚していた高度経済成長の時代に、山形村で青年期を過ごした地域の人々は、公民館活動をはじめとする地域の社会活動の経験のなかで、住民と行政の共同作業をさまざまな形で経験していた。そうした経験の蓄積が、ケーブルテレビの導入に際しても、これを社会教育的視点で捉えるという見方を可能にしたのである。特に、公民館報の編集に携わった人々は、ケーブルテレビを、公民館報のあり方と重ね合わせたイメージで捉えていたようだ。
 「放送協力員」制度の構想が形を取り始めた段階で、開局準備を担当していた村役場のスタッフは、制度ができた場合に実際にボランティアとして協力してもらいたい人々への働きかけを始めた。住民有志によるボランティア組織、といっても、ただ呼びかけをしただけでは、量的に十分な人数も、質的に十分な人材も確保できない可能性が大きい。このとき働きかけを受けたのは、公民館活動などにかつて積極的にかかわった経験のある人たちだった。そのなかには、一九六〇年代に村の青年団が演劇活動に熱心であった時期に、演劇に熱中し、脚本づくりや演出に経験を積んだ人たちや、アマチュア写真家として実績のある人などが含まれていた。また、アナウンサー役が期待されるかたちで、若い女性にも声がかけられた。こうして、実際に「ホワイトバランス会」に集まったのは、事前に声がかかっていた壮年の男性たちと、若い女性たち、そして、事前の働きかけと無関係に制度のことを知って応募してきた少数の新住民たちであった。
 YCSは一九八九(平成元)年七月に正式開局した。開局前から活動を始めていた「ホワイトバランス会」は、開局直後から、制作の応援や独自番組の制作に取り組んだ。やがて、ほぼ一〜二か月に一本のペースで放送される自主制作番組「ホワイトバランス・スペシャル」のほか、村内の家庭を訪問して赤ちゃんを紹介する短い番組などが、年間四〇本程度のペースで「ホワイトバランス会」によって制作されるようになり、会の活動は山形村の日常生活のなかにすっかり定着するようになった。こうして「放送協力員」という発想は、番組制作の広範な部分への住民関与に道を開いた、全国的にも珍しいユニークな制度として結実したのである。

4 漫画『水色山路』

 さて、YCSの開局に向けた準備が進められていた一九八九(平成元)年三月頃、山形村を紹介するストーリー漫画を作って、村の広報活動に使ってみよう、というアイデアが村役場のなかから出てきた。当時の村長は、さまざまな公共施設の建設や、YCSの導入に象徴されるように、ある意味では派手な諸施策を積極的に進めており、村役場のなかにも、その姿勢は浸透していた。また当時は、全国的に見ても、ちょうど「ふるさと創生事業」が各地でユニークな試みを生み出していた時期であり、「軽薄短小」や「民活」がキーワードになる時代でもあった。お役所らしからぬ仕事に挑戦しようという意欲が各地の地方自治体に現れて頃でもあり、「漫画による村の紹介」という山形村の発想にも、そうした時代の雰囲気が反映されていた。
 やがてこの企画は順調に実現し、『まんが日本農業入門』などの実績があった漫画家・藍まりと氏に執筆が依頼された。そして、翌一九九〇(平成二)年三月、『山形村物語−水色山路(みずいろさんろ)』と題されたストーリー漫画が完成し、小冊子一万部が印刷され、四月には村内の全世帯や全国の市町村などに配布された。「漫画による村の紹介」というユニークな試みは、大きな反響を呼び、マスコミにもさまざまな形で取り上げられた。
 『水色山路』は、東京で生活するヒロインが、亡くなった父親が大切にしていた道祖神をきっかけに山形村を訪れ、村の人々とのふれあいを通じて、山形村を「ふるさと」として発見する、といったストーリーである。作画は少女漫画ふうで、作品はロマンチックな雰囲気に仕上がっているが、作品の要所には、村内の諸施設、田園風景、道祖神など、写真資料を利用した山形村の実景の描写が盛り込まれている。ストーリーの設定や、描写の仕方からも明らかなように、『水色山路』は都会の人間の視点から見た山形村の魅力の発見に力点が置かれているが、これは、最初から外部に向けた「漫画による村の紹介」としてこの作品が企画されたためである。しかし、『水色山路』のインパクトは、村の外から見た山形村のイメージづくりへの貢献にとどまるものではなかった。『水色山路』がマス・メディアなどの注目を集めたことは、村の試みが「外からの視線」によって評価されたという自信を村役場のスタッフに与えた。また、全世帯に配布された『水色山路』の冊子に「外からの視線」によって美しく描き出された村の姿は、村民が改めて村の姿を見つめ直すきっかけとなったのである。
 『水色山路』の刊行直後から、村役場には好意的な反応がさまざまな形で寄せられた。そのなかには、この漫画を元にテレビドラマを作ってはどうかという声があった。当時は、漫画を原作とした民放のテレビドラマが注目されていた時期であり、開局して一年にもならないYCSが、村の新しいメディアとして注目を集めていた時期でもあった。このアイデアは、『水色山路』の企画担当者や、YCSの担当者ら、村役場のスタッフのなかでも話題となり、短期間のうちに新たな企画として事業化が取り組まれることになった。六月ごろから検討がはじまり、七月にはドラマ制作発起人会ができて準備に入り、八月の村議会で予算承認を得ると、たちまちヒロイン役の公募・決定などが進められ、九月に制作、一〇月に発表という電撃的なスケジュールで「ドラマづくり」が展開したのである。

5 「外からの視線」の導入

 当時は、住民が主体的に関与・参加するテレビドラマはもちろん、ケーブルテレビ局による本格的な自主制作ドラマ自体が、先例のまったくない試みであった。ひと言でドラマづくりといっても、参照すべき先行事例があったわけではない。むしろ「本物の」テレビドラマの作り方を誰も知らなかったからこそ、村にあるノウハウや人的資源を活用してドラマをつくるという方向で、関係者の努力が積み重ねられたというのが実際であった。ドラマ「水色山路」の検討が村役場のなかではじまってから、ドラマ制作発起人会が組織され、制作スタッフや(ヒロイン以外の)キャストが固められていく過程では、「ホワイトバランス会」の組織化のときと同様に、ボランティアとしての参加を村内に広く呼びかけながら、個別に参加・協力を依頼していく手法が、規模をいっそう拡大して展開された。監督や脚本などスタッフの中軸は、かつての演劇青年だった壮年層で固められ、撮影にはYCSと「ホワイトバランス会」が全面的に参加した。その他にも、村内のさまざまな人々にキャストやスタッフとしての参加が働きかけられ、多くの村民が実際に協力した。特に、発足当初の「ホワイトバランス会」に欠けていた、二〇代・三〇代の青年層(特に男性)が、ドラマ「水色山路」の制作過程でスタッフやキャストとして組織されていったことは、その後の展開との関係で重要なことであった。
 ドラマづくりに向けて組織化を進めていった村役場のスタッフは、わずか数年の間に、開局前後のYCSに対する多数の取材・視察依頼や、漫画『水色山路』に集まった反響などに対応した経験から、こうした事業の実施に際してマスコミを巻き込んだ広報活動が重要な意味を持つことを十分に学んでいた。ドラマ「水色山路」の制作過程でも、「ヒロイン全国公募」という試みが用意され、マスコミはこれに飛びついた。「村を紹介する漫画を出した、変わったことをする村で、今度はそのドラマ化のためにヒロイン役を全国から公募している」といった筋立てでさまざまなメディアが取り上げたお陰で、オーディションには一一人もの応募者が集まった。こうしたヒロイン選考の過程や、ヒロインが決定した後の制作発表記者会見などは、ほとんど「本物の」テレビドラマの制作過程でのイベントのパロディというべきものであったが、こうして節目ごとにマスコミの注目を集めたこと自体が、一種のイベントとして、関係者の士気を大いに高める効果をもった。
 さらに、こうして、いわば村を挙げての「お祭り騒ぎ」ともいうべき状況を演出しながら展開した制作の過程は、県域民放の信越放送(SBC)によって、ドキュメンタリー番組のために、ドラマ制作発起人会が成立した段階から継続的に取材されていた。いわば制作の過程自体が「外からの視線」にさらされていたのである。一〇月に入り、ドラマ「水色山路」がYCSで放送されて間もなく、ゴールデン・タイムの「SBC特集」で、ドラマ「水色山路」のメイキング編ともいうべき「山形村行進曲」(映画「蒲田行進曲」を踏まえたタイトル)が放送されたことは、「外からの視線」による評価として、ドラマ関係者だけでなく、広く村民のあいだに村にたいする自信のようなものを与えることになった。放送の翌年、一九九一(平成三)年一〇月の全国CATV大賞番組コンクールにおけるドラマ「水色山路」の審査員特別賞受賞は、メディアを介した「外からの視線」による一連の評価を最終的に確固たるものとした。
 漫画に始まりドラマへと展開した『水色山路』の経験は、「ドラマづくりの村」という新しいアイデンティティーと地域作りへの自信を、山形村にもたらした。その後に発行された『村勢要覧やまがた』には、「私たちに“ふるさと”とは そして 地域作りとは 何なのかを 教えてくれた」というコピーが添えられた漫画『水色山路』の表紙と、「ほんとにつくったんです」というドラマ「水色山路」のロケ風景の写真が掲載された。

7 その後の「ドラマ村」

 「水色山路」が成功したイベントとして完結したあとも、山形村では地域作りに取り組むさまざまな試みが行われた。そうした試みは、「水色山路」のような明瞭な大成功を収めているわけではない。しかし、一過性のイベントに終わらない形で、地道に実績を積み上げているという意味では、「水色山路」後の山形村での動きは、非常に興味深い。
 一九九二(平成四)年に山形村で注目を集めていたのは、ドラマ「水色山路」の制作過程で集まった青年たちを中心に、新たに組織された「トライズ・カンパニー」という青年有志の会の活動であった。この会は、八月に「ミラ・フード館」でロック・コンサートを軸としたイベントを成功させたが、その様子は「ホワイトバランス会」によって番組として制作され、YCSで放送された。現代版の「祭り青年」組織ともいうべき「トライズ・カンパニー」は、村役場ともつかず離れずの関係を保ちながら、その後も、断続的にさまざまなイベントに取り組んで行くことになった。これも、『水色山路』が播いた種が実を結んだものといえるだろう。
 この年、ドラマ第二作への取り組みが動きだした。今度はじっくりと時間をかけ、原作の公募から手続きがはじまった。翌一九九三(平成五)年には、審査の結果、原作には福岡県から応募のあった作品「修治」が選ばれた。しかし、原作は決まっても、ドラマづくりは、その後、一時的に停滞することになった。ドラマ第二作の性格づけについて、一定の調整が必要とされたためである。具体的には、ドラマ「水色山路」の制作の中心となった壮年層は第二作にはかかわらず、青年層にバトンタッチし、若者たちによる作品としてドラマ第二作「修治」を位置づけたい、という壮年層などの意向に対して、「トライズ・カンパニー」や「ホワイトバランス会」の活動を核として結束した青年たちが「修治」を引き受ける体制を整えるのに、ある程度の時間が必要だったのである。こうして多少の曲折はあったものの、「水色山路」でヒロインの相手役を務めた「トライズ・カンパニー」のリーダーが、今度は「修治」の監督を引き受けることになったのである。「修治」は一九九四(平成六)年の開村一二〇周年記念事業の一環とされ、最終的に予算が確保された後は、「水色山路」のときと同じようにオーディションから撮影、編集までが迅速に行われた。
 ドラマ「水色山路」が「村を挙げてのお祭り」だったとすれば、「修治」は、試行錯誤の末に作り上げられた「若者たちの祭り」であった。放送時間四〇分の『水色山路』にたいして、「修治」はその倍以上の八五分の長編となった。壮年層が中心となった「水色山路」が、大船調映画の模倣だったとすれば、青年層が中心となった「修治」は、トレンディ・ドラマを模倣した作品であった。「修治」のクライマックスでは、バンドの演奏シーンが延々と収められている。これを若者たちの自己満足の表出とみるのはたやすいが、彼らにフリーハンドを与え、こうした形で彼らの思いを具体的な作品に結晶させたことは、地域社会のなかで青年層の主体性を公認し、その士気を高めるうえで大きな意味をもつことだろう。
 一九九五(平成七)年、山形村は、再び藍まりと氏を起用して、『山形村物語II−虹色のメッセージ』を刊行した。今度の作品は、山形村に住む「新住民」の少年と「旧住民」の少女が、時空を超えて山形村の歴史を駆け抜け、水と人々とのかかわりを学ぶという内容である。作画の手法などから見ても、想定されている読者は『水色山路』よりもずっと幼いことが察せられる。つまり、この作品は、もっぱら村内の子どもたちに、村の歴史を理解し、水を通して環境を考え、新旧住民の共生を説いているのである。『水色山路』と『虹色のメッセージ』は、同じ作家による同じような漫画と考えてはいけないだろう。前者が、もっぱら村外に向けて発信された形をとり、同時にそれが村内の読者に自信をもたらしたものだとすれば、後者は、もっぱら村内の子どもたち向けという形をとり、同時に村外に山形村を発信するという、異なる役割を担っているようだ。
 漫画にせよ、ドラマにせよ、一見ユニークに見える取り組みであっても、その制作活動が定例の行事になってしまえば、マンネリズムによってその価値は失われる。手法は同じでも、一つひとつが固有の意義を持たなければ作品は輝きを失う。山形村では、行政も村民も、そのことに十分気づいている。
 その後、山形村では村長が交代し、村政は大きく方向を変えた。税収に大きな余裕が見込めないなかで、かつてのイベント重視の行政運営は過去のものとなった。しかし、これは「ドラマ村」の終幕ではない。山形村には、村民のあいだに蓄積された意欲と経験という、ドラマ作りに必要な資源が確保されているのである。次に機が熟して「ドラマ村」が第三作を生み出すとき、そこにはどのような村と村民の姿が映し出されるのであろうか。


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