業績外:1998:

講演「戦前における松本の日刊新聞 −ユタ日報と同時代の小さな新聞を読む−」.

「ユタ日報」松本研究会,第5回定例研究会講演,1997/03/23.
講演記録:ユタ日報研究,4,pp2-29.


「戦前における松本の日刊新聞 −ユタ日報と同時代の小さな新聞を読む−」
■はじめに
■『ユタ日報』はどういう「新聞」か?
■松本における新聞の歴史
■小新聞の記事の実態
■おわりに


戦前における松本の日刊新聞
−ユタ日報と同時代の小さな新聞を読む−

                    山田 晴通(東京経済大学)

■はじめに

 どうも、山田でございます。過分なご紹介を頂きまして、たいへん身の縮む思いであります。『ユタ日報』松本研究会の会合では、実は以前、いちど簡単なお話をさせて頂いたことがあるのですが、久しぶりにちょっと責任を果たせというご下命がありました。本来なら、『ユタ日報』の話を何か考えなければならないかなあ、と思っていたのですが、実はお話を頂いたときから二三カ月で何か一つのまとまった話をするというのはなかなか難しかったものですから、むしろこういう風に考えました。
 これまで、研究会といいますと、『ユタ日報』復刻版の編集作業をしましたときにお世話になりました東京の移民研究会の会員の先生方に来て頂いて、例えば昨年は篠田左多江先生に来て頂きましたが、お話を伺う、勉強させて頂くという、講師が上にいて教えてもらうという感じがどうも強かったのですが、今日の私の話は必ずしもそうではないというつもりでお話をさせて頂きます。それから、もう一つ、どうしてもこれまでの話ですと、話を聞いてそこで終わってしまうのですが、今回はそうしたくないのです。実は今日の話は、私自身関心がありますし、研究が必要だと思っている分野なのですが、私自身がそれに取り組むためには、ちょっと不利という分野のお話なのです。なぜそうなのかは、追々お話をしますが、むしろ松本という地の利がある、地元で関心をもっていらっしゃる皆様にこういった視点からものを考えていろんなことをやってもらえないだろうかという、あるいは、研究をお願いできないだろうかということを、今回は結論としてもっていきたいと思っております。私のように大学に籍を置いていて、一応、ある意味ではプロの研究者、研究で生計を立てているという立場でこういうことを言うのは甚だ無責任に響くかもしれませんが、実は、今日お話しする範囲のことというのは、はっきり言ってしまいますと、私が本当に専門としている分野からは外れる部分も出てくるわけです。場合によっては、専門の研究者であることよりも、ずっと松本で生活していることの方が、議論をする際には有利なことが多くある、という類の話になります。ですから、今日の私の話で至らないところ、あるいは、穴があいているところに、きっとお気づきだと思いますので、ぜひ、どしどし指摘して頂いて、また一緒にそうした点について考えていって頂ければありがたいと思います。
 言い訳はそれぐらいにしまして、本題に入ります。実は、今日こちらへ来るのがちょっと遅くなりまして、事前に十分な時間をとって資料を印刷して頂くことができなかったので、今、印刷して頂いております。ですから、具体的な新聞紙面の資料を使ったお話は、後半にまわします。

■『ユタ日報』はどういう「新聞」か?

 今日お話をするのは、「戦前における松本の日刊新聞」の話ということですが、副題にありますように、そういった話が『ユタ日報』研究会になぜ出てくるのか、ということからお話をしていきます。『ユタ日報』はすでに皆さんは「復刻版」をご覧頂いてどういう新聞であるかというイメージをお持ちだと思います。ただし、「復刻版」では、ちょうど太平洋戦争の開戦の年から終戦の年までの範囲しか復刻されておりません。それで、その範囲だけを見ても、『ユタ日報』はどういう新聞かということ、つまり新聞としての性格づけが、分からないわけではないのですが、私自身が「復刻版」第1巻の解説で書かせて頂いたように、実はその時期というのは『ユタ日報』の歴史の中では、特殊な時期と言わざるを得ない時期なのです。簡単に言いますと、移民新聞でアメリカ・ユタ州ソルトレーク市の、いわば地域の日系コミュニティの新聞であったものが、戦争によって日系人が強制的に太平洋岸から移動させられ、各地の収容所に収容されるという状況の中、他の日系新聞の刊行が許されない状況の中で刊行し続け、各地で読まれる米国の日系人の全国紙になったという時期です。そうした時期を中心とした『ユタ日報』が、今回復刻されたわけです。確かに、この時期の『ユタ日報』というのは、アメリカにおける日系人の歴史を考える上で、あるいは、日米の関係を考えていく上で、最も重要であることは間違いありません。しかし、『ユタ日報』という新聞の方にこだわりますと、この時期の『ユタ日報』の在り様というのは、本来『ユタ日報』が有していた、地域に根ざした新聞、地域社会−しかも『ユタ日報』の場合は移民紙ですからその地域の日系人社会−に根ざした新聞という性格を、ある意味では、薄めていた時期、あるいは、そういったものの比重が後退していた時期と言わざるを得ないわけです。
 『ユタ日報』は、最初から全国紙的なものではなかったわけで、繰り返しますが、あくまでもソルトレーク市の日系人社会、あるいは、ユタ州、さらには彼らの言葉でいう「山中部」、つまりロッキー山中の「インターマウンテン・エリア」の日系人社会のコミュニティ・ペーパー=コミュニティの新聞=地域の新聞としてスタートしていました。お手元の配布資料にも簡単に書いておいたのですが、『ユタ日報』は大正3年、即ち1914年に創刊され、それ以来ずっと、戦前・戦中・戦後を通じて存在していたという風に、ひと口に言ってしまうことはできますが、しかし、その間の紙面の性格というのは、必ずしも一律ではないわけです。ちょうど太平洋戦争中の、我々が今回「復刻版」を出版した時期を挟んで、それ以降は、ある意味では地域の日系コミュニティ全体の新聞ですらない、むしろ、高齢化していく一世の、日系社会の中での老人層のための新聞という形で、戦後、1970年代まで細々と残存するという経緯を辿ります。これは、戦後の話ですね。そこで戦前の方はどうかといいますと、特定地域の日系紙としてあったわけですが、それも、一番最初創刊された頃からだんだんと少しづつ内容が充実していったといえる時期があり、その後、経営が苦しくなる時期があり、二転三転しているわけです。そういうような『ユタ日報』の在り様を考えてみたいというのが、今日の話の出発点になっているのですが、既に触れましたように、同じ一つの新聞、『ユタ日報』という新聞だけを見ても、時期によって、その経営状態によって、いろいろと性格が違うという話を申し上げました。ということは、例えば『ユタ日報』である、これは「新聞」である、という言葉から、我々が今、日常的に見ている、例えば『読売新聞』であるとか、『朝日新聞』、『信濃毎日新聞』といったものを見て、「新聞」というのはこういうものだという我々が現在の新聞にもっているイメージで、『ユタ日報』を見るのは、間違いなのです。考えてみれば当たり前ですが、『ユタ日報』は現在我々が読んでいる普通の新聞とは根本的に違う新聞なのです。
 そこで次に、それでは、この『ユタ日報』が刊行されていた時代の普通の新聞とは、一体どういう新聞だったのだろうか、ということが、ここで問題になるわけです。例えば、『ユタ日報』を創刊した寺澤畔夫(てらさわ・うねお)は、もともと飯田の人です。厳密にいうと、現在の飯田市に含まれている地域の人ということになりますが、まあ飯田の人です。父親が破産し、家財を潰してしまいますので、畔夫は破産の整理をした後、単身渡米をします。つまり、それまで、渡米するまでの間、寺澤畔夫が新聞とは何であるかとイメージを持ったとすると、その源は彼が青年に達するまでに見たことがあったであろう飯田で刊行されていた新聞であり、あるいは、飯田まで配布される他地方や中央の新聞であったはずです。畔夫はやがて渡米し、アメリカで、例えばサンフランシスコの新聞の通信員というような仕事をやったりします。これは今でいう人材派遣というか、要するに差配師のような仕事をしながら兼業している、そういう経験があります。つまり、アメリカにおける移民新聞というものも彼は見ているのです。とすると、寺澤畔夫が『ユタ日報』を作っていく上で、新聞とはこういうものだという、彼にとっての常識なりイメージが何によって作られたかというと、大きく分けて、一つは郷里で見たことがある新聞であり、もう一つは当時のサンフランシスコで彼が見たであろう日系コミュニティの新聞だということになるわけです。ですから、本当のことから言うと、ここで当時の伊那でどんな新聞が出ていたかという話をして、例えばそれと『ユタ日報』との間に、どういう距離があって、どういう共通性があるかという話をすると、面白いわけですが、残念ながらそこにはなかなか資料がないわけです。むしろここで、今日のテーマの関心から話をするならば、松本というのは非常に面白いフィールドといいますか、場所だということが、次に挙がってくるのです。
 どういうことかと言いますと、後でまたちょっと出てくると思いますが、まず、寺澤畔夫が日本にいた渡米前の時期。あるいは、渡米して『ユタ日報』を創刊し、経営を軌道に載せ、1921年(大正10年)に一時帰国して村松國、即ち國子さんと結婚してアメリカに再度渡った頃、つまり『ユタ日報』の経営の安定期。その後、別の事業への投資の失敗等の関係で『ユタ日報』の経営が危うくなり、そして1939年(昭和14年)に寺澤畔夫が亡くなってしまいますが、大体この頃の、言ってみれば畔夫が創業した『ユタ日報』が地域のコミュニティによって必要不可欠な新聞にまで成熟していた時期。このそれぞれの時期に、いったい日本の新聞はどういう新聞だったのか、それも大規模な新聞ではなくて『ユタ日報』にも共通するような特定の地域社会に根ざしている新聞はどういう性格のものだったかということを、この際、松本を例に考えてみよう、というのが今回の話の主旨なのです。多少こじつけじみているかもしれませんが、『ユタ日報』と、この時代の松本の小さな新聞を読み比べてみると、いろいろなことが出てくるはずです。畔夫の時代の、今回復刻されていない『ユタ日報』のマイクロフィルムは(松本市)中央図書館にあります。マイクロフィルムの『ユタ日報』と、例えば、同じ時期の、この後で詳しく説明しますが、『信濃民報』と『信濃日報』いう二つの代表的な地元の新聞の記事で、同じ事件がどう報じられているか、といったことを追いかけていくことで、かなりいろいろなものが見えてくるのではないか。その二つは直接交流はないかもしれないが、言ってみればアメリカの片田舎の日系社会の草の根レベルでの世界の見え方と、松本の草の根レベルでの世界の見え方との比較が出来るのではないか、ということを考えてみたいわけです。
 このように申し上げますと、何もそんな面倒なことをしなくても、さしあたり『ユタ日報』の戦中の分を復刻したのだから、その同じ時期の地元・松本の新聞がどう報道していたのかを見ればよいのではないか、とお思いになるかもしれませんが、これはご存じの方もいらっしゃると思いますが、今回『ユタ日報』を復刻した範囲、その時代には、松本には地元の独自の新聞はありませんでした。戦時統制によって地元の新聞はすべて廃刊させられていました。ですから、草の根レベルでどう見えているかを見比べようと思っても、戦時中についてはできません。これは日本の言論統制政策の結果であるわけです。しかし、マイクロフィルムであるならば、あとは中央図書館に足繁く通う時間と根性があれば、いろんなことができるわけです。私自身は、これは言い訳に過ぎないのですが、今は東京に仕事がありますので、なかなか実行するのは難しいです。そこで、そういう発想でものを見ていくような仕事を、ぜひ地元のどなたかにやって頂きたいなと思っているわけなのです。ですから、今日のお話は、言ってみれば、近い将来そういったことを、地元のどなたかに考えて頂くための入口になるような、交通整理をさせて頂くつもりで進めさせて頂きます。
 『ユタ日報』自体は、既に繰り返しておりますように地方の日系社会に根をおろした新聞であって、日系社会の信頼を勝ち得ていました。1939年(昭和14年)に寺澤畔夫が亡くなってしまう。当時のことですから、社長が死んでしまえば新聞が潰れても不思議はない。しかも、寺澤畔夫は事業の失敗から借財を抱えていたといわれています。これは、そういうことはないだろうと田村紀雄先生から言われたのですが、私は寺澤畔夫の履歴をいろいろと資料で読んでいて、不思議に思った点があるのです。畔夫は、実は、風邪をこじらせてしまってから、わずか1日で死んでいるのです。ぴんぴんしていた人間が、風邪をこじらせて肺炎になって、1日で死んでいるのです。おそらく、このことは正しいと信じるべきなのでしょうが、私は心の中のどこかで、実は寺澤畔夫は自殺をした可能性があるのではないか、ということを随分疑いました。この点について、寺澤畔夫の履歴等を既に調べられている東元春夫先生や田村先生といった研究者の先生方にご意見を伺ったことがあります。結論は、客観的な状況からみて、そこまで考えなくてもいいのではないかということになりましたが、私にそこまで疑いを抱かせるほど、畔夫が事業の上で追いつめられていたことは事実です。実際、その前後の『ユタ日報』の個々の紙面をマイクロフィルムで見てみますと、かなり経営的に苦しかったのだが、結局はみんなに助けられて何とか続刊できる、という主旨のことが、特に畔夫の死後の紙面にははっきり記事に書かれて出てくるわけです。そういったことを考えますと、その時点で新聞を潰してしまってもよかったが、潰せなかった。その理由は何かというと、結局、地域社会が『ユタ日報』を必要としていたということに尽きるわけです。地域の日系社会の中で、欠くべからざる存在になっていた、つまり、ここで潰れられては困るから、寺澤畔夫に融資していた人たちも借金を棒引きにしてもいいだろうと考える、あるいは、何とか新聞を潰さないために奥さん(寺澤國子)に頑張ってもらおうということを考えるほど、『ユタ日報』は成長していた、地域社会全体に支えられる新聞になっていたわけです。
 そうした『ユタ日報』も、最初からそうだったわけではありません。『ユタ日報』も、一番最初の段階では、地域の中で、二千から数千人の規模しかなかったと考えられているユタ州の日系社会という非常に小さな地域社会の中で、先行して存在していた『絡機時報』という、どちらかといえばキリスト教会の人たちによる新聞に対して、仏教会を中心にする仏教徒の人たちの利害を代表する、まあ、どこまで本当の意味で見解が対立していたか、政治的対立があったか、ちょっとなかなか分からない部分があるのですけれども、少なくともちょっと違う立場からの新聞も必要だという声があって、新聞が始まったわけです。ですから、『ユタ日報』自体は、最初はどちらかというと、後で話すようなことで言いますと、政治的な党派ではないとしても、ある種の党派的な色彩をもつべくしてもっていた、つまり、対象地域の人たち全員を対象とするのではなくて、特定の立場をもった人たちを対象とするような新聞として最初は出発しました。それがやがて、いろいろと曲折があって、対抗紙であった『絡機時報』を買収します。これは、「復刻版」第1巻の解説にも書きましたが、簡単に言いますと、日本からの新規の移民をアメリカが規制したために、日系人社会の一世の数が相対的に減っていくという状況が生じました。新規の流入は抑制され、既にいる人たちの中で帰国者が出ます。日本語だけでしか新聞が読めない人たちが減っていきます。ここで市場自体が縮小していく中で、二紙が存立するのは難しいということで、対抗紙である『絡機時報』を買収したわけです。こうして、コミュニティ全体の新聞ということになると、新聞の性格の変化も生じます。市場の変化によって新聞が性格を変えるという現象は、同じ時期の松本の新聞でも、完全に同じというわけではありませんが、似たようなことがありました。そういう話をこれからさせて頂きたいということであります。

■松本における新聞の歴史

 ここで次に移りますが、まず、今日の話では「戦前」といっていますが、「戦前」という言葉がいつ頃まで遡るのかといいますと、一応のイメージとしては、大正から昭和の初めにかけてと思って下さい。と言いますのは、第一次世界大戦というのは日本にとってあまり大きな戦争ではないのですが、その前に日露戦争という日本にとっては大きな戦争がありました。日露戦争以降というのは、おそらく第二次世界大戦・太平洋戦争の「戦前」というイメージで一括して捉えてよい時期ではないかと思います。「戦前」というのは、それくらいの時間の範囲ですが、今日お話しする主な話題は、あくまでも昭和の初めです。つまり、昭和の最初の十数年間の話です。しかし、その前に、まず、昭和の初めの段階に至るまでの松本の新聞は、どういう経緯で変化してきたかということを、最初に概説的にお話ししておきたいと思います。予め申し上げておきますが、これからお話しする内容は、私が独自に調べたわけではなくて、実は資料の参考文献に挙げてあります、宮下豪夫さんがお書きになった『東筑摩郡・松本市・塩尻市誌』の中の新聞に関する記述を、主に下敷きとしてお話を致します。この宮下さんの文章は、つき合わせをしてみますと、かなりの部分が、1933年(昭和8年)に出版された松本市役所の『松本市史』からの、文体を改めただけの引き写しです。もちろん全部ではありませんし、宮下さんの名誉のために言っておきますと、単に引き写しをしただけでなく、資料とかそういったものを加えられて書かれているので、単純に、昔の資料を書き写して原稿料を貰った、ということではありません。これはこれでよろしいのですが、できれば、これは引用だというくらいのことは、書いて欲しいなあと、あるいは、書き下しだと書いて欲しいなあ、という思いが正直なところありました。そうではありますが、ここでは宮下さんのオリジナルな部分も含めて、それを参考にしてお話をさせて頂きます。資料の方では、さらに参考文献の次の所で、松本市中央図書館が所蔵する戦前の地域新聞のリストがあります。これは、図書館の高坂さんから資料を頂きまして、こういう新聞がありますよ、ということで資料に加えてあります。それを突き合わせて頂きながら、もしもある程度ご関心をお持ちの部分に関しては、現物でも見て頂ければと思うわけです。ちなみに、普通の丸印(○)が付いているのが現物で所蔵されているもので、二重丸印(◎)が付いているのはマイクロフィルムになっているということで、『信濃日報』と『信濃民報』はマイクロフィルムとして中央図書館にあるということになります。
 さて、松本における新聞の歴史ということですが、大体三つくらいの段階に分けて説明されるのが普通のようです。まず、いわゆる啓蒙新聞といわれた新聞の時代から自由民権運動にかけての時代があります。一般的に明治時代は、帝国議会の開設の前と後ではだいぶん性格の違う社会であるとされていますが、松本の新聞もそれにほぼ沿っていると考えてよいかもしれません。普通、松本で一番最初の新聞といわれているのは『信飛新聞』です。『信飛新聞』というのは、もちろん信州の「信」に飛騨の「飛」でして、当時は、松本に県庁があった「筑摩県」という県がありまして、その官報的な性格をもった新聞として、市川量造らによって刊行されたということになっています。もちろん、新聞といっても、半紙に和綴じのような形で、十枚ほどを連ねたものであったというように言われています。これは現物が、今日は館長の手塚さんがいらっしゃっていますが、日本民俗資料館(松本市立博物館)の方で展示されているので、見ることができます。この市川量造という名前は、もちろん皆さんご記憶にある名前でして、松本城に行くとレリーフが飾ってあるあの市川量造です。この『信飛新聞』は、第一号、第二号あたりが、もっぱら松本城払い下げの問題、その保存運動の問題に対する論陣が張ってあるような新聞であったわけです。当時は、官報の制度がまだ整備されていません。官報というのは、要するにお役所がこういうことを決めましたとか、こういう法律ができましたとか、こういうことが認められたとか、そういったことを人々に知らせるために役所が発行する、一種の新聞です。普通の個人のことを報道するものではありません。国として正式に認めたものごとは官報に載るルールになっています。この官報の制度が充実していませんし、地域によっては相当するものも存在していないわけです。そこで、民間の新聞に、公的な援助を与えて、それに役所からの知らせを周知させる機能をもたせる、というような政策が採られていました。ですから筑摩県もこの『信飛新聞』にある程度の資金的な援助を与えた上で、筑摩県からの公告の類を『信飛新聞』を通して伝えさせる、そういう新聞として『信飛新聞』はスタートするわけです。
 新聞といいましても、この段階では不定期刊という形であったはずです。ところで、資料の方でも以下では、例えば『松本新聞』が隔2・3日刊だったといった記述がありますが、刊行の頻度について注意して頂きたいのは、実際に刊行された頻度と、建前上、届出上の刊行頻度とはずれている場合が多いという点です。例えば、日刊として届けられている新聞があったとしますと、研究する側が勝手に日刊だと思いこんでしまうと実は大きな誤りで、実際にはどう見ても年間に150号くらいしか出ていないというような事例がけっこうあります。ですから、実態としてはどうだったのか、ということから言いますと、『信飛新聞』は、不定期刊というべき性格のものでありました。しかし、この『信飛新聞』から矢印で直接つながっているのは、実はこの『信飛新聞』を母体として、その新聞が潰れては、そこに関わっていた人たちが別の形の新聞をつくるということが繰り返されて『松本日日新聞』というのが出てくるところまで続いていることを示しています。形の上では廃刊命令を受けてしまったり、経営的に行き詰まって潰れたとか、それぞれ新聞がだめになりますが、実態としてその後を受ける形でずっと流れがつながっているということになります。その他と書いてあるのは、この流れとは別に、この時期にこういう新聞があったということです。資料にも書いてありますが、大体最初には、そうした官報的な新聞が登場します。初めの頃の『信飛新聞』は漢文体で記事が書いてあって、よほど教養がある人でないとよくわからない代物であった、ということが1933年(昭和8年)段階の『松本市史』にも書いてあります。この『松本市史』には、私などでは読めない字がいっぱいありますが、その段階でも、漢文体でやたらにわけの分からないことが書いてあった、という風な、敢えて揶揄的なコメントが出て来るくらい、『信飛新聞』は堅い新聞であったようです。しかし、曲がりなりにも、最初は木版で刊行されていた『信飛新聞』が、途中からは鉛活字を採用し、それ以降の継承紙も鉛活字できちんと新聞らしい形を組んでいき、今日に近い新聞の姿が現れてくるわけです。こうして、『信飛新聞』以来の流れを汲む新聞がずっと出てきます。そして『信飛新聞』の後身の『松本新聞』あたりから隔2・3日刊という実態が定着したようです。つまり、週に2回から3回は刊行されるという新聞発行の形が定着していくことになりました。
 一連の新聞の最後に登場したのは『松本日日新聞』でしたが、そこに至る途中の『信陽日日新聞』から分岐する形で、『信陽日報』が登場します。そして、この『信陽日報』が衣替えした『信府日報』というのが1891年(明治24年)にできるのですが、この新聞が松本における政党系新聞の走りと言われています。元々明治時代には、「大新聞(おおしんぶん)」、「小新聞(こしんぶん)」という、新聞を分類した呼び方がありました。「大新聞」とは、簡単にいえば政論新聞です。大体判型が大きいのです。現在のブランケット判の新聞とほぼ同じか、少しだけ小さめの新聞です。大きい判型で、政論を中心として、難しい漢字が多い新聞です。これに対して「小新聞」というのは、花柳界の話題であるとか、要するに遊郭のような世界の情報を、やわらかい文体で、軟派ネタを中心とした判型が小さい新聞として、要するに今の『市民タイムス』のようなタブロイド判や、さらに小さい判型で、刊行されていました。この「大新聞」と「小新聞」というのは、いわば明治時代の新聞の典型的な姿であったわけです。「大新聞」の流れは、やがて帝国議会が開設されることによって、政党が形成されるようになると、党派別の塗り分けが進み始めます。もちろん、既に、官報的な色彩からスタートした新聞自体が、だんだんと自由民権運動の影響を受けて、民権論へ傾斜していったという経緯がありました。さらに国会が開設され、党派ができると、今度は党派の主張の違いに応じて新聞が必要だという主張が出てくるようになります。そこで、『信府日報』、『信濃自由』、『信濃』の三紙が鼎立する時期が訪れました。しかし、松本という小さい町で、三つの新聞が党派別に分立していたのではなかなか上手くいかないという状況になったのでしょう、一応この三紙を合同するという形で、事実上の改新党系の新聞、といってもどんどん政党の名称は変わっていきますが、ともかくこの流れが『信濃日報』という新聞に収斂していくわけです。
 『信濃日報』は、1894年(明治27年)に成立して以降、最終的には1940年(昭和15年)まで同じ題号で定期的に刊行されることになる、松本の代表紙となりました。これに対して、やがて政友会系の人たちによって独自の新聞の必要が主張されるようになり、5年後の1899年(明治32年)に『信濃民報』が刊行され、やはりこの新聞も、戦時統制まで存続しました。つまり、この二つの新聞が、松本における代表的な新聞として、明治時代末から大正・昭和初期を貫いて刊行され続けるわけです。先ほどちょっと紹介しましたけれど、この二つの新聞については、それぞれ、『信濃日報』に関しては1919年(大正8年)から、『信濃民報』に関しては1913年(大正2年)からの分が、マイクロフィルムとして残っています。明治時代末の段階の『信濃日報』と『信濃民報』は、さし当たり簡単に見ることは出来ませんが、継続して刊行されていたこと、両紙が松本において他紙を寄せつけない卓越した存在であったことは間違いありません。そして、当時は、この二紙以外にも、たくさんの新聞が登場していたのです。
 もちろん、『信濃日報』にしても『信濃民報』にしても、創刊された明治末の段階では、実際には日刊の体制になっていません。大体大正時代に入る頃から、年間に300号以上が出るような、日刊の体制に移っていくことになりますが、この変化には、いくつかきっかけがありました。最も重要だったのは、篠ノ井線の開通です。でも、篠ノ井線がなぜ関係があるのかと思われるかもしれませんね。元々、東京の新聞が松本で講読できるようになったのがいつかといいますと、1893年(明治26年)なのだそうです。この年、東京の新聞を販売する販売所が松本にできたのだそうです。当時は、開通したばかりの信越線で東京の新聞を上田まで運び、一山越えて新聞を松本に運び込みました。しかし、これではいかにも時間がかかる。大体、一日遅れに近い状態になるわけですが、これを何とかしたいということがあったわけです。そして1902年(明治35年)に、待望の篠ノ井線の開通によって東京から鉄道で新聞が運べるようになりました。さらに、その少し後、1908年(明治41年)には、松本から市外電話がかけられるようになります。市内電話は、その少し前から整備が進んでいましたが、市外電話の開通前には、東京から何か急なニュースが入ってくる、逆に東京へニュースを知らせるというと、すべて電報に頼らざるを得なかったわけです。そこに市外電話が開通することになりました。こうした状況を受けて、例えば長野の新聞、具体的にいうと『長野新聞』とか『信濃毎日新聞』が、篠ノ井線の開通を受けて松本にも支局を開設します。そして東京の新聞も、1909年(明治42年)の『報知新聞』を皮切りに次々と支局を松本に開設します。資料に『東京日日新聞』とあるのは、現在の『毎日新聞』ですけれども、この新聞や『朝日新聞』は、1921年(大正10年)に至って松本に支局を開設してきます。こうした支局は、最初のうちは支局長の自宅という形がほとんどです。しかし、曲がりなりにもそうやって松本のニュースを中央紙としても取り込むことになる。逆に中央紙も売れる分だけは売ってみようということが行われる。それが、鉄道の開通と密接に結びつく形で行われたわけです。同時にこの時期は、輸出産品としての生糸の重要性が決定的に高くなった時期に当たっています。養蚕業、製糸業が興隆した松本の人たちは、外部の情報を求めるようになり、逆に他の地方の人たちも松本の情報を求めるようになっていきました。情報化を推進する基本的な条件が急速に開けていったわけです。
 こうして、東京からも、長野からも新聞が入ってくるし、あるいは名古屋からも新聞が入ってくるという状況の中で、地元でもいろいろな形の新聞が出てくるようになりました。そこで、資料をご覧下さい。「『松本市史』下巻(昭和8年)」ですが、その当時のことが言及されています。729ページの前半から見て下さい。いろんな新聞が現れましたということが書いてありますが、真ん中辺りから読んでみることにします。吉田さんという『松本新聞』を創刊した人の名前が出てきます。いろいろと人が辞めていってしまったという話の後なのですが次のようになっています。
とあるのですが、要するに、新聞人の中に経営者として非常にいい加減な人物がいて、人の出入りが激しかったところに、疑獄事件が起こったのだということが出てくるのです。
云々という記述がある。つまりは、要するに何か分からないけれども、非常にしょうがない強請(ゆすり)、集(たか)りの話がボロボロ出てきて、地元の大新聞といえども直接の被疑者こそ出さなかったものの、行方をくらました記者は出る、くらまそうとして逃げ切れなかった者が出る、といった次第であったので、とにかくこの話はやばいのでここでは略します、という風に記述してある。まあ、なかなか、一体何が起こったのか詳びらかにしてもしょうがない感じがしますが、実は、この当時の新聞記者というものの在り様が、ここにくっきりと現れているわけです。こうした、いわゆる新聞疑獄というものが起きて、かなりの新聞に権力の側からの打撃が与えられて、新聞の整理が起こるわけです。その結果、1904年(明治37年)の段階で、バサバサと新聞が整理され、また『信濃日報』と『信濃民報』の二紙体制に戻るわけです。つまり、日刊紙は二紙しかない、あとは非日刊紙しかない。そこに中央や長野の新聞が出てくるわけです。
 やがて、しばらく経ちますと、景気の良い時期がやってきます。やはり景気がよいと、お金が集まるところができ、そこには泡銭も出てきます。そこでまた、強請、集り的な新聞が現れて、活動する余地が出てくることになります。1904年(明治37年)の新聞疑獄と同じようなことが、それから二十年ほど経った1922年(大正11年)に、また起こります。資料の2枚目めくって頂き、先ほどと同じ『松本市史』の734ページを見て下さい。
と書いてあります。東京の新聞が進出してきた、という話なのです。『東京日日新聞』と『東京朝日新聞』が支局を出した翌年、1922年(大正11年)には、警察署長・小林嘉三郎が「小新聞退治」に乗り出します。この場合「こしんぶん」と読むと、さっき説明しました花柳界のことを扱う新聞になってしまいますので、「しょうしんぶん」と読んでいきます。まあ、「こしんぶん」としても意味は通るのですが。
云々とあります。その数行後には、要するに「朦朧新聞」とか「小新聞」とかは廃止すべきだとかけ声だけはかかったが、実はあまり効果がなかった、という話が続くわけです。効果がないというのは、そうした新聞が存続したというよりも、ある新聞が潰れても、それに携わっていた人たちが別の形でどんどん新聞を出す、といったことが繰り返されていたということのようです。
 この時期の新聞でどういうものが出されていたか、次の資料は、1928年(昭和3年)の『長野縣統計書』からのものです。『長野縣統計書』は戦前からずっと出ていたもので、中央図書館にも、大正時代の途中から、多少連続していないところもあるのですが、保管されています。統計書のフォーマット、つまり体裁や構成は、いろいろ変わっていくのですが、ここでは1928年(昭和3年)の例を挙げました。このような形式で、具体的に何という新聞がどういう形で出ていたのかが分かるのは、1925(大正14年)から1929年(昭和4年)までの5年間で、その後は紙名を列挙することはなくなり、地域ごとの新聞の数が示されるだけになります。当時は、新聞を取り締まる諸法令に基づいて、新聞を刊行するためには警察に届け出なければならなかったので、『長野縣統計書』の警察編にこのような資料が入っています。『長野縣統計書』に紙名の載っている5年間以外の時期でも、もし統計の元データに当たる警察の資料が残っていれば、他の年代に関してもどの新聞が、少なくとも届け出上は、存在していたを調べることができるはずです。
 『長野縣統計書』を見ると、当時、松本市で出ていた新聞の数は、長野市よりもはるかに多く、異様といってもよいくらいです。資料の表の見方ですが、『信濃日報』、『信濃民報』以下、諸々の新聞が列挙されていますが、題号の隣に「保證有無」と書いてあります。当時は、保証金制度というのがあって、時事に関する報道を行う新聞は保証金を積むことが義務づけられていました。つまり、いわゆる時事一般ではなく、特定の宗教関係のことであるとか、あるいは、特定の教育団体の関係であるとかいう内容の新聞に関しては、保証金はいらないが、時事報道をする場合は保証金を積まなければいけない、積んでいない新聞はそういったことを報道してはいけないというルールがあったので、普通の新聞というか、一般紙は保証金が「有」となっているはずです。発行所の所在する市町村、発行者、持主、それから発行時期とあるところが刊行形態です。例えば、『信濃日報』を見てみますと、日曜は休刊、祭日の翌日は休刊の日刊である、という意味です。『信濃民報』の場合は、表現がちょっと違っていますが、意味は同じです。以下、『信濃新報』等々がありまして、日刊や、それに準じる新聞を拾っていくことができます。ただし、先ほども申しましたように、日刊と届け出ているからといって、必ずしも日刊で出ているとは限らない。実態としては週に3回刊というか、ほぼ隔日刊というものもかなり含まれていたはずです。また、ここでは基本的に届け出順に新聞名が並んでいますが、これで見ますと、最初の新聞疑獄(1904年:明治37年)の前から存続しているのは、『信濃日報』と『信濃民報』の二つだけです。これは、週刊紙、月刊紙を含めてのことです。こうしてみると、小新聞というのは、いかに短期間しか存続しないものだったかがわかるわけです。何度か繰り返された小新聞退治によって、小新聞は潰されたり、また出てきたりということを繰り返している状況の中で、地元の大新聞として、『信濃日報』と『信濃民報』が残ったということになります。
 それでは、こうした小新聞がどんな新聞だったのか。次の資料は、『東筑摩郡・松本市・塩尻市誌』という、現在の『松本市史』よりずっと前の1960年代のものですが、ここに、大体こんな状態だったという説明があります。
山田晩華という人は、『信濃日報』だったか、随分長く携わった新聞人であったようですが、詳しいことは確認しておりません。ここでは日刊16紙があったと書いてありますが、そのうち2紙が『信濃日報』と『信濃民報』で、その他、先ほど見た1928年(昭和3年)の『長野縣統計書』にある日刊紙で1939年(昭和14年)にも存続していたのは、題号でみる限り4紙ほどですから、この間の11年間で、日刊紙が新たに10紙も、雨後の筍のように出現していたことになります。その上、日刊紙以外にも「四〇余の新聞雑誌」がありました。
要するに、新聞が、自分たちが書いているわけではないですが、これは読者の投書ですよ、という形でいろんな商店の評判記を書く、悪口を書く。すると書いて欲しくないから広告を出さざるを得ないという形でお金を出すということです。
 実は、『大高原』のどの号に、この引用された論評が載っているのかは確認していません。『大高原』は週刊の新聞ですが、評論新聞として重要なものです。この中島瓢堂という人が中心になって出されていたのですが、おそらくすべての号が残っていたはずで、合本・復刻されたものが出ています。『大高原』は、当時の堅い、真面目な新聞の代表格ですが、日刊新聞ではありません。復刻版が、中央図書館でも読めるので、当時の社会の世相を知る上で、いろいろ役に経つ新聞の一つです。
 さて、こうした形で松本には、背景には生糸を中心としたいい時期があって、人々が群がってくる。そして第一次世界大戦の特需景気の後の不況に、いち早く日本は入ります。世界恐慌は1930年代のはじめからですが、その前の1920年代半ばから日本は不況に陥りますけれど、その段階でも不況になったら不況になったで、そういう言論自由の社会の中で、強請、集りみたいなことをやるようになった、そういう新聞が増え続けたというような事態になった。何回かにわたって行政がそれを退治に乗り出すけれども、結局元の木阿弥になって十年もすれば新聞はまた増える。しかも、今度は他の地域の、例えば長野や中央の新聞も入るし、地域内でも多くの日刊新聞が、あるいは政党党派の新聞などが刊行されるようなことになる。松本は、そうした土地柄だったわけです。
 『志な野』という新聞の話は、時間の余裕もないので割愛いたします。これは、政友会の分裂をきっかけに、松本では初めて8ページ建ての新聞が出たという話なのですが、私自身はよく把握しておりません。当時、『信濃日報』、『信濃民報』は、4ページ建てでした。『信濃日報』、『信濃民報』を、『志な野』が追いかける形でしたから、『志な野』は無理をしてまで、いろいろ設備を整え、短期間ですが有力三紙が鼎立する時期があったわけです。

■小新聞の記事の実態

 ここで、当時の実際の記事を見て行くことにしたいと思います。使わせて頂くものの多くは、今日も現物を御持参いただいておりますが、川舩一さんが所蔵されている当時の新聞です。川舩さんがお持ちの新聞のリストは、資料でも一覧表にしてありますが、昭和はじめの松本で出ていた、比較的小さな新聞ばかりで、十紙余りが1部ずつあります。なお、『信濃日報』の方は、中央図書館にマイクロフィルム閲覧の便宜をはかっていただきました。

 まず、先ほど説明しました、ハガキ集の例を、1928年(昭和3年)7月の『松本新聞』と『信州報知新聞』で、ご覧下さい。芸者衆の評判や、商店の評判など、ほめているものもありますが、当事者、関係者には迷惑なものもちらほらあります。これが、小さな一段だけの広告と取り混ぜるように配置されているわけです。「男一人で不足な藝者屋の女将がある」とか「北町○○事務所の女事務員達はラヴを競争してゐる」といったゴシップ、「天神通り分蛇の目より近々美人がお披露目する」とか「客が云はぬに二本で泊ると云ふ御安いわかりの早い藝者が北検にある」といった花柳界がらみの情報、料理店、病院、祈祷師の評判に混じって、「宮淵の問題の御家騒動はどうなりました」などと、思わせぶりなことが書いてあります。もちろん、見るからに本当に投書されたものばかりでないことは、察せられると思います。
 さて、やはり先ほどご紹介した話の中で、記事を使い回しているという話がありました。その実例を見てみることにしましょう。これも1928年(昭和3年)7月の新聞ですが、まず18日付の『信州報知新聞』を見て下さい。2段目に「質素になった今年の登山者」という見出しの記事があります。
次に、翌19日付、といってもこれは18日の夕刊ということのようですが、その『信濃新報』の1段目左隅を見て下さい。「登山者にも不景氣風」という記事があります。
これは、明らかに『信州報知新聞』の記事を『信濃新報』が、引き写しているわけです。これは、単に日付の問題ではありません。18日付の『信州報知新聞』は、この記事の他にも営林署に取材した上高地関係の記事を数本載せています。これは、おそらく一人の記者が一挙に書いたものと思われます。『信濃新報』の記者か編集者が、その中から面白味のある記事だけを取り上げたということなのでしょう。しかし、この話は、さらに『信濃日報』にも出てきます。さらに翌日、20日付です。3段目の「不景氣風が山の上まで吹く/チップも少く案内人や強力の嘆聲」という記事です。
表現を比較してみると分かると思いますが、『信濃日報』は、『信州報知新聞』ではなく、『信濃新報』の方を見て、引き写しているわけです。しかも、こちらの方が、ほとんど丸写しに近い形です。地元の代表紙といえども、こういうことを日常的にしていたのだと思います。
 もう一つ、さっきと同じ『信州報知新聞』で、さっきの記事の下に、女性が貨物列車に飛び込み自殺をしたという記事があります。
以下は略しますが、同じ事件を『信濃日報』で見てみましょう。これは、同じ日の新聞に載っているので、引き写しではなく、同じ事件を別々に取材した記事ということになります。
これも書き出しの部分だけにしておきますが、両紙の記事を比べてみると、単純な事実関係の部分で、親の名前と年齢が食い違っています。これはどちらかが間違っているわけです。全体として、どうも『信濃日報』の方がまだまともだとして、こちらを信じれば、貨物列車はぶつかったことに気づかないで行っちゃったということになります。死体があったのを通行人が見つけて届け出た、と『信濃日報』には書いてある。そうすると『信州報知新聞』の「一見二十才前後の美人が列車目がけて」飛び込んだというのは誰が見ていたのか、ということになるわけです。別に難癖をつけているわけではありません。おそらく、この辺りに『信州報知新聞』のある種の文体というかスタイルがあるのでしょう。こうしたニュアンスの違いが、紙面の中からかなり感じとれるわけで、いわゆるまともな新聞とか、まともでない新聞とは言いたくありませんが、『信濃日報』や『信濃民報』と、その次のクラスの新聞では、ズレがかなりあったのかなあ、という感じがしています。
 資料で、その次を見て頂きますと、先ほどと同じ日の『信濃新報』に「コン棒をたずさへ金銭を強要して亂暴/以前も數回に亘って脅迫」という記事が載っています。
同じ19日付の『信濃日報』には、こういう記事が出ています。上から5段目の「裁判審理中の[A:氏名省略]又暴れる/今度は棍棒で脅迫/松本署で厳重取調べ」という記事です。
さっきは「百二十圓」だったのが「二百圓」に跳ね上がってますね。もう一枚見てみましょう。字が潰れて読みにくいですが『信濃時報』という新聞です。この『信濃時報』は、けっこう柔らかい、というか、危なそうな新聞なのですが、「米屋の[A:名省略]審理中暴れる」と見出しをつけています。
これは、見出しと、最後の「取調べ」の送りがな以外は『信濃日報』とまったく同文です。引き写しかもしれませんが、同じ日付ですので、記事の文章そのままの形で情報が同時に流れたのかもしれません。いずれにせよ、複数の新聞がこれを取り上げたのです。その次をめくって頂けますか。これは、各紙が記事にした二日後、21日付の三面の下の方に小さく載っていたものです。「新聞取消申込」とありますが、これは手紙です。
他の新聞が、記事が出た日の分しかないので、どうなったのか顛末は薮の中ですが、マイクロフィルムで追いかけられる『信濃日報』に関しては、この取り消しを紙面に掲載せざるを得ないことろまで追い込まれた。もっとも、これは謝っていないですね、全然。新聞社として公的には。こういう風に申し出てきた人がいます、と手紙を紹介しているだけですから。その後数日分を見てみたのですが、今でいうお詫びと訂正に当たるもの出ていません。差し当たり、この手紙の紹介で当時としては、記事をなかったことにしたわけです。ということは、全く事実関係がないにもかかわらず、複数の新聞社に何か情報を流して、ばさばさと報道させることが可能であった。そういう状態であって、先ほど『信濃日報』、『信濃民報』だけは確かに格が違うのだけれども、と言いましたが、実は、『信濃日報』や『信濃民報』も巻き込んだ形で、こういうことが頻繁に行われていたということになります。
 こうして、言ってみれば様々なてんやわんやをやりながら多くの新聞が存在していた状況が、やがて新聞統制によってすべて押しつぶされていくことになるわけです。資料の一番最後に添付しましたのは、『信濃民報』の最終号の「終刊の辞」です。実は、『信濃日報』と『信濃民報』が統合されて『信州日々新聞』になるのは、1940年(昭和15年)7月1日からなのですが、その数日前、『信濃日報』は24日に、『信濃民報』は25日にそれぞれ終刊号が出ています。終刊について、『信濃日報』の方はごくあっさりとした社告を載せただけです。読み上げてみます。
こういう小さな「謹告」が、紙面の左下に小さく出ているだけです。これに対し、『信濃民報』の方は、一面トップに堂々たる「終刊の辞」を載せているわけです。マイクロフィルムから写したものを読むのは目によくないので、『東筑摩郡・松本市・塩尻市誌』の宮下氏の記述を踏まえて、この「終刊の辞」の概要をご紹介しますと、『信濃民報』というのは元々政友会の機関紙として出発したのだが、自由主義的なことを言っていくのはこの時局柄非常に困難になってきた、ここで自分たちとしても聖戦遂行に協力することはやぶさかではないので、大局、大乗の見地から、要するに自分たちは『信濃日報』に乗るのだ、ということが綴られています。言葉としては政策に順応しますよという表現を選びながら、その中で断腸の思いでこの文章を綴ったのだなあということが、分かるような文章になっています。詳しいことは、「終刊の辞」の主な部分を書き下したものが『東筑摩郡・松本市・塩尻市誌』に収録されていますので、そちらを見て頂ければと思います。しかし、「一市一社主義」の『信州日々新聞』も、二年も経たないうちに全県一紙の『信濃毎日新聞』に統合されてしまい、松本の地元紙は姿を消してしまいました。

■おわりに

 一番最後に、今日こういう話をなぜしたのかということを、もう一回申し上げるのですが、松本の戦前の新聞というのは、今日、例えば、公的な場所で読める範囲が非常に限られています。先ほど申し上げましたように、中央図書館にある『信濃日報』と『信濃民報』はマイクロフィルムだけですし、それも大正の初め以降だけで、明治時代の分はありません。それから、『信濃日報』と『信濃民報』の時代の諸新聞に関しては、一時期存在した『信濃』が、例外的に現物で中央図書館に所蔵されていますし、先ほど紹介した週刊の評論紙だった『大高原』を合本・復刻したものも中央図書館にあります。しかし、それ以外の日刊紙については、公的なところで紙面を読むこともできない。つまり、考えてみれば、現在でいえば、図書館が『朝日新聞』とか、『読売新聞』とか、『日本経済新聞』とか、『信濃毎日新聞』とかはきちんと保存しておくけれど、『日刊ゲンダイ』とか、『ナイト・タイムス』、あるいは『中日新聞松本ホームサービス』といったものとなると、何かどうでもよいもの、怪しげなものとして保存はあまりされないだろうと思います。実際には、中央図書館は『ホームサービス』は確か保存していたと思いますが、それは措いておきまして、やはり、確かに多くの人々の目に触れる形で刊行されていたものが無くなってしまうというのは非常に残念です。
 かといって微妙なのは、じゃあ無くさないで保存しておけば骨董的な価値があるのかというと、実は価値はほとんど無いのです。三年前、川舩さんに「実は家にこういうものがあるんだけど、これは価値があるのかどうか見てくれないか」と言われて、はじめて今日ご紹介している新聞を見せて頂きました。その時、松本市内の骨董屋さんとか古書店さんで、「実はこういうものを持っている人がいるのだけれど、これはどういうものか、価値があるのか」と聞いて回ったのです。そしたら、皆さん一様に「価値はない」と言うのです。なぜかというと「こんなもの、そこら辺の土蔵にいくらでもありますよ。出てきても大した値段はつかない。」のだそうです。価値がないなら、持っていかないで捨てるでしょう。そうすると、物理的に失われていきます。
 川舩さんのものも、実は、先代の方が、なぜか各新聞を1枚ずつは残しておこうと思われたのか、そういう形で取り分けられておかれたもののようです。ですから、基本的にはすべての新聞が1号分ずつしかないわけです。それでも、全く現物がない状態よりは、その雰囲気だけでも伝わりますし、ある程度同じ時期に近いものが集まっていれば、記事の比較対照もできます。もちろん、それ以上のことはできないのですが、それでも、私にとっては川舩さんに見せて頂いた資料は非常に貴重なものです。本当に、皆さんの旧家の土蔵に残っている、あるいは、古いもの、蔵の中に残っているものを開けてみたら、その中に何か詰めてある新聞で見慣れないものがあったら、そういうものでも残っていたら、本来はそれがもっと公にされる、あるいは、郷土史家の方々の間で資料として共有されることが望ましいのです。戦前期というのは、まだその時代に活躍された方が生きていらっしゃるぎりぎりの範囲ですから、そういった意味で、逆にいうと、その当時の新聞の有難みはまだ少ないのかもしれませんが、今の段階である程度そういったものにも目を向けて資料を集める、整理する、あるいは、そういったものから何かを読み解いていくということは、重要なことだと思います。そういう作業をしていくことが、戦前の、あるいは大正から昭和にかけての時期の新聞はどういうものであったか、そのとき松本の人たちはどういう生活をしていたのかへの理解につながると思いますし、そういう理解に立った上で、やはり同時代の『ユタ日報』を考えなければ、本当に我々が実感をもって『ユタ日報』なりを理解するのは難しいのではないかと考えるわけです。
 実際、今日は紹介しませんでしたが、当時の松本の新聞を読んでいましても、アメリカで日系人の排斥が行われているのだということが報じられている例もあります。逆に、その時代の『ユタ日報』には、日本の記事が載っている中で、長野県のことが話題になっている場合もあるわけです。寺澤夫妻のみならず、『ユタ日報』を読んでいた日系人社会には長野県出身者も少なくなかったからです。ですから、そういったものを、相互で見比べていくような地道な作業が必要ですが、これはなかなか難しくて、マイクロフィルム、あるいは、古い新聞を見る作業に時間を掛けなければできない。そうであれば、私のような専門の研究者も、もちろん力を尽くさなければならないわけですが、むしろ、言葉は悪いかもしれませんが、アマチュアで、あるいは、お好きな方が、時間を丁寧に掛ければ、プロも脱帽するような良い仕事ができる分野なのではないかと私は考えております。この研究会に関心をお持ちの皆さんには、ぜひ『ユタ日報』本紙にしても、もちろん考えて頂きたいことだと思いますが、同時に、同じ時代の松本の新聞のことも、少し思い至って頂ければ、またいろいろと新しいこと、新しい問題が提起できるのではないかと考えて、今日はこういうお話をさせて頂きました。途中で、昔の文章の読み方など、正確に読めず恥をかきましたが、むしろ私の方も教えて頂くということも含めて研究会だと思っておりますので、こういう形で会が持てたことをありがたく思っています。少々時間を超過し、申し訳ございませんでした。ご清聴ありがとうございました。



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