(以下、文献表の本体部分は省略。その後の文献の追加/加筆を行った現在の文献表は、研究の道具箱にある。)
本稿は、北米(ハワイを含む)における日系新聞に関する日本語の文献を列挙し、簡単な説明を加えた文献表である。はじめに、この文献表を編むに至った経緯について少々述べておきたい。
1991年8月、米国・ユタ州ソルトレーク市で刊行されていた日英両文の日系新聞『ユタ日報』は、創刊者・寺澤畔夫の妻であり、1939年以来同紙を支えていた寺澤國子の死去とともに、永久に廃刊となった。最終号は、國子が倒れる直前に刊行された平成2(1990)年4月11,876号であった。『ユタ日報』は、発行形態こそ当初の日刊から最後は月刊まで変遷をたどったとはいえ、曲がりなりにも戦前・戦中・戦後を通して発行が継続された唯一の日系新聞であり、バックナンバーの保存状況に恵まれていたこともあって、北米日系新聞の研究上、見落とすことの出来ない重要な事例として知られていた。
寺澤國子は、1958年以来続いている松本市とソルトレーク市の姉妹都市提携の一環として、1965年に松本市名誉市民の称号を贈られていた。そうした縁があり、松本市側からの強い要請もあったため、國子の死後、寺澤家が『ユタ日報』の事業を整理した際に、松本市は『ユタ日報』関係の貴重な資料を譲り受けることになり、1992年10月に寄贈の調印が行われた。寄贈されたのは、
・大正6(1917)年8月1日 813号以降、全号の現物
・本文用活字、見出し用活字
であった。同時に松本市は、『ユタ日報』全号のマイクロ・フィルムを、ユタ大学から購入した。これらの貴重な資料は、1993年7月から松本市中央図書館に展示コーナーを設けられて公開されている。
『ユタ日報』関係資料の受け入れを契機に、この貴重な資料を活用していく一つの方策として、松本市とソルトレーク市の交流に携わってきた市民や地元の研究者を中心に<松本『ユタ日報』研究会>の結成が図られ、筆者も呼びかけ人に名を連ねた。そして、9月からは、松本市中央図書館を事務局として、研究集会の開催など、研究会の実質的な活動が始められている。
本稿は、研究会の今後の活動に資する基礎資料として、北米日系新聞に関する既存の文献をまとめて紹介する目的で編まれた文献表であり、さしあたり採録対象を日本語文献に限っているのも、現段階における研究会の性格を反映したものである。
さて、後出の文献表をよりよく理解するためには、日系新聞に関する研究の概況を把握する必要があろう。ここでは、わが国において近年この分野における研究の中心となっている<日系新聞研究会>の活動、日系新聞研究の基礎文献、『ユタ日報』に関する研究成果、などを紹介していくことで、日系新聞研究の概況を提示したい。
【日系新聞研究会】
元来、日系新聞を対象とした研究は、メディア研究や移民史研究などの文脈において、多様な形で存在してはいた。しかし、長い間、日系新聞の全体像を見通そうとするような包括的・体系的な研究はほとんどなく、個々の研究者の個人的営為として個別的事例に関する報告が散発的に積み重ねられることはあっても、それが大きな研究上の盛り上がりを見せることはなかった。そうした中で、近年、日系新聞研究の組織化を進め、この分野の研究を大きく前進させてきたのが、田村紀雄(東京経済大学)・白水繁彦(武蔵大学)らを中心に運営されてきた<日系新聞研究会>である。1981年から始まったこの研究会の歩みについては、田村・白水・編『米国初期の日本語新聞』(1986)の中で田村が詳しく紹介している。
日系新聞研究会は、メディア研究者や移民史研究者など30名ほどが参加した「共同研究」のための組織である。1980年代前半において日系新聞研究会は、定期的に研究集会を開催し、資料収集や日系新聞への訪問を重ね、その成果を論文として発表する、という活動を続けた。こうした活動を核として、1984年には東京経済大学で、1985年にはロサンゼルスの日米文化会館で、大規模なシンポジウムが開催された。
日系新聞研究会の活発な活動を受けて、1980年代後半には、研究会の参加者による研究成果の公刊や、新たに発掘された新聞資料の復刻事業などが進んだが、その間、研究会としての活動には、徐々に変化が生じていたようである。日系新聞研究会は現在も存続しているが、研究会の最近の関心は「日系新聞」に限らず、広くエスニシティ問題一般に向けられているようであり、最近の研究集会では、オーソドックスな日系新聞に関する研究の報告だけでなく、在日外国人(外国人労働力)についての研究なども取り上げられている。かつての略称JANP(Japanese American Newspaper のことか?)が、最近ではSTEP(Study Team for Ethnic Press のことらしい)になっているのも、この間の事情を反映しているのであろう。
【日系新聞研究の基礎文献】
まず、日系新聞全般について、戦前にまとめられた画期的な先駆的業績として知られているのが、蛯原八郎『海外邦字新聞雑誌史』(1936)であるが、現在では同書の入手は極めて困難である。
上記の日系新聞研究会の成果としては、最初にも挙げた田村・白水・編『米国初期の日本語新聞』(1986)、田村『アメリカの日本語新聞』(1991)、新保・田村・白水『カナダの日本語新聞』(1991)などが、北米のみならず、広く日系新聞研究の現状を知るための基礎的文献である。
また、日系新聞研究会とは別に、独自に行われた調査活動としてとりわけ重要なものが、日本新聞協会が『別冊新聞研究』「聞きとりでつづる新聞史」シリーズの一環として行った、一連のインタビュー収録作業である。その成果は『別冊新聞研究』9(1979)、17(1983)、19(1985)の3冊にまとめられている。
【『ユタ日報』の周辺】
松本中央図書館に関係資料が寄贈された『ユタ日報』については、比較的まとまった形で資料(マイクロ・フィルム)や研究成果が公刊されている。『ユタ日報』と寺澤國子の事績について、一般的に知られるようになったきっかけは、上坂冬子『おばあちゃんのユタ日報』(1985)の発表であった。同書は、当初『信濃毎日新聞』に連載された「信州女のユタ日報」をまとめ、加筆・改題したもので、戦時中までのユタ日報の歴史と紙面内容の紹介が、おもな内容となっている。狭義の研究書ではないが、良質のルポルタージュとして影響力をもった業績である。
しばしば指摘されるように、『ユタ日報』は、戦時中も(一時的中断はあったものの)刊行され続け、戦後も永く存続した唯一の日系新聞であったという点に大きな意義をもっている(戦時中刊行された残りの2紙は戦後永続しなかった)。こうした視点から、戦時期の、『ユタ日報』が広域的に読まれた時期の代表的な紙面を選んだものが、田村の編集によって復刻されている(『復刻「ユタ日報」(一九四〇〜一九四五)』1992)。これに付けられた田村の「解説」は、ユタ日報の通史として最も簡潔に記述されているものであり、『ユタ日報』を知るためには、まず第一に読むべきものである。
研究対象としての『ユタ日報』に最も深く関わった研究者は、ソルトレーク市のブリガム・ヤング大学に留学し、『ユタ日報』の研究で社会学の学位を得た東元春夫(芦屋大学)である。東元は、社会学的関心から『ユタ日報』などの読者調査を行い「移民新聞と同化」をおもなテーマに論文をいくつも発表している。田村・東元(1984)は、特に重要なものである。
なお、その後、「ユタ日報」復刻松本市民委員会によって、『ユタ日報』の戦時中の紙面は全面的に復刻された。
山田は、ユタ日報松本研究会の一員としてこの復刻の企画に関わり、復刻版の第1巻に「概説『ユタ日報』−その歴史と意義−」を寄稿した。
山田晴通研究室にもどる CAMP Projectへゆく