書籍の分担執筆(項目,コラムなど,論文形式以外のもの):1990:

ビデオ・クリップとダンス−「見せる」戦略と肉体−.

キーワード事典編集部,編(1990)『キーワード事典・ポップの現在形』洋泉社,pp152〜153.


 上記の書籍は、この文章を含め山田のコラムを4本収録していますが、既に絶版となっております。
ビデオ・クリップとダンス−「見せる」戦略と肉体−.

 音楽がそれ自体で、「聴く」ものとして享受される状況は、ビデオの普及によって急速に失われてきた。今日では、ビデオ・クリップのアイデアや、ライヴ・ステージの演出をめぐって、程度の差こそあれ、ジャンルを問わずあらゆるアーティストが「いかに見せるか」という問題に直面している。
 こうした状況の下、1980年代を通じて急激に台頭したのが、踊れる歌い手であった。マイケル・ジャクソンジャネット・ジャクソンポーラ・アブドゥルマドンナプリンスや、ボビー・ブラウンといった1980年代のスターたちにとって、ダンスは成功の大きな要因として働いた。1970年代のディスコ音楽のスターたち、例えば、ビージーズアバがどれくらい踊ったかを考えれば、1980年代におけるダンスの意義が容易に理解されよう。「見せる」戦略において、ダンスは大きな武器であり、今や「絵になる」歌い手であるためには、踊れなければいけない。YMOだってビデオ・クリップでは踊っていた、というのは冗談としても、ダンスは映像時代の脅迫観念と化しているのである。
 初期のビデオ・クリップにも、トニー・バジルのようにダンスものは存在した。しかし、ダンスがビデオ・クリップの魅力の目玉になることをはっきりと証明したのは「ビリー・ジーン」、「ビート・イット」、「スリラー」(1983)を立て続けに発表したマイケル・ジャクソンだった。
 元々アメリカには、「見る娯楽」としてのダンスの歴史がある。マイケル自身、しばしば往年の名ダンサー、フレッド・アステアへの敬意を語り、自分とアステアのイメージを重ねようと演出している節がある。「ダンスもの」ビデオ・クリップの出現は、ミュージカル映画の楽しみの再現といえるのかもしれない。
 しかし、アステアとマイケルの「ダンス・シーン」は、時代が異なる分だけ中味も大きく異なっている。アステアの時代には、彼に限らず誰もが、ダンス・シーンは極力長いカットで撮り、その技量を観客に見せつけたものである。このため、彼らが踊る空間は固定された現実的空間であった。これに対して、今日のアーティストたちのダンス・シーンは、様々なアングルから捉えた短いカットを緻密に編集して構成するのが普通である。例えば、「スリラー」でマイケルたちがゾンビに出会う場面などでも、さほど違和感を与えずに空間設定が転換されていく。
 さらに編集を前提とする今日のビデオ・クリップのダンス・シーンには、ダンサーの技量不足を編集技術で補えるという利点がある。しかし、こうした編集技術は、「失敗を取り繕う」という消極的な方向ではなく、「不可能を可能にする」という積極的な方向での活用を評価すべきであろう。ジャネット・ジャクソンの「プレジャー・プリンシプル」(1987)や、短期間で活動を休止したメル&キムの一連のビデオ・クリップは、精緻な編集によって魅力的な映像が構成された好例である。
 ビデオ・クリップで見るマイケルやジャネットの動きは実に軽やかで、ある意味ではアクロバティックでもある。しかし、現実に重力のある中で重力を感じさせない動きは、筋肉に大きな負担をかける無理の多い動きにほかならない。視覚的に「脱=肉体」を表現するとき、生身の「肉体」には大きな負担がかかるのだ。ビデオ・クリップで展開される彼らの動きは、カット単位の個々の動きとしては可能であっても、一連の動きとして完璧を期すことは難しい。実際に、ステージ上で一連の動きを再現しようとすれば、仮に一通り実演できたとしても、軽やかさは少なからず犠牲にされることであろう。
 軽やかな動きは、視覚的娯楽の重要な要素である。例えば、跳躍を繰り返すだけでも、ポリスの「ラップト・アラウンド・ユア・フィンガー」(1983)のように、スローモーション再生されてリズムにのると、重力の束縛から解放されたような、優雅で軽やかな動きとなる。スティングの跳躍がダンスかどうかは別として、再生速度の変更や、その他の特殊処理を含めて、編集によって魅力を生むダンス・シーンづくりは一つの路線を形成している。
 その行き着く先には、マイケルの『キャプテン・イオ』(1987)や映画『ムーン・ウォーカー』(1988)で見られるような、SFXを駆使した実演不可能な「ありえない」ダンス・シーンがある。重力の束縛と生身の肉体を超えた自由な「動き」、脱=肉体の映像化が、SFXダンスなのであろう。
 これに対して、あくまでもステージでの実演を念頭に置いてダンスの振付けをするという方向もある。マドンナなどは、こうした傾向が強く、ビデオ・クリップではさほど派手な印象は与えないものの、ステージでの動きには迫力がある。マイケルやジャネットとは対称的に、マドンナの動きは決して軽やかではなく、むしろ力強さを感じさせる。「軽やか」な「動き」ではなく、マドンナのダンスは「力強い」「肉体」を見せようとしているのだ。
 マドンナのダンスには、性的挑発に加え、ヒップ・ホップ感覚に満ちたダイナミックさが魅力のポイントになっている。肉体の誇示は性的挑発と親和性をもっているが、ダンスの動きよりもセクシーな肉体を見せるという戦略は、彼女のビデオ・クリップに一貫するものである。とりわけ「ボーグ」(1990)の中盤で男性ダンサーと掛け合いで踊るシーンなどは、躍動感に溢れ、マッチョな印象を強く与える。そこに感じられる躍動感は、汗を感じさせないマイケルの「軽やか」な「動き」とは異質の、筋肉の躍動感にほかならない。そこで表現されるのは、「動き」の美しさや驚異ではなく、熱気と汗を感じさせ、セックスを連想させる、生身の「肉体」の質量とエネルギーである。マドンナのセクシュアリティの本質は、肌の露出にではなく、ボディ・スーツに包まれた肉体の存在感にある。
 マドンナに近い路線をとっているアーティストとしては、ポーラ・アブドゥルや、ボビー・ブラウンの名を上げることができる。プリンスも、こちらに近いのではないだろうか。
 いずれにせよ、今後、視覚的娯楽要素が一層強く要求されるようになるにつれ、ダンスは急速に「当り前」の要素になっていくだろう。はたしてダンスは、ビジュアル時代の歌い手にどんな変化を強いるのだろう。


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