書評:1987:

吉見俊哉『都市のドラマトゥルギー』.

図書新聞,1987/9/5.



 掲出に際して、明らかな誤字は訂正し、その部分を青字としました。

吉見俊哉 著  都市のドラマトゥルギー
7・10刊、四六判360頁、2300円   弘文堂

近・現代都市の 都市大衆精神史 「上演論的」視角から分析

山田 晴通

 明治以降の近代都市としての東京で、時代の流れの中でそれぞれに盛衰・変化してきた代表的な盛り場、浅草・銀座・新宿・渋谷などの意味を、そこに集った都市生活者の心情に焦点を当てつつ「上演論的」視から分析した本書は、盛り場論・都市論である以上に近現代日本の都市大衆精神史である。
 吉見自身がのべるように、上演論的都市論自体は独創的な発想ではない。それにもかかわらず本書が魅力的なのは、吉見がまさに上演論的な戦略に基づいた実践を、本書の随所で展開しているからである。
 理論的枠組を述べる序章と、権田保之助・今和次郎・磯村英一らを論じるI章は、秀才のマジメな仕事であり、教科書的記述として有用なだけでなく、今後の論者にとって越えるべきハードルとなるだろう。その議論の明晰さは師である見田宗介ゆずりであり、また、幅広く周到な引用に象徴される貪欲な呼吸の姿勢(とそれに伴う一種の強引さ)は東京大学教養学部というアカデミーの性格と無縁ではないはずだ。そして、演劇青年としての吉見の実績は上演論という視を魅力あるものとして際立たせている。見田の緒言に続けてこれらの章を読むとき、読者は吉見の履歴を行間に読む思いがするであろう。
 盛り場の原型としての博覧会(上演Iと称されている)の分析から開化・外国・未来へ向かうベクトルと伝統・異界・他界へと向かうベクトルを抽出するII章、浅草(上演II)と「銀座」(上演III)という戦前の二つの盛り場にベクトルのバランスの差異ないし変化を探り、都市における非日常性のあり方としての<家郷>と<未来>の対立を示したIII章は、最近の研究成果を巧みに取り込みつつ、丁寧に構築された都市文化論となっている。ここでも、前段にみられた明晰さ周到さは健在であり、吉見のアカデミシャンとしての腕の確かさを見せつけると同時に、随所に示される文学的感性や抑揚の効いたユーモアは、本書の中核であるこれらの章を「読み物」としても魅力あるものとしている。(二〇五頁の下図のミスも「若さ」を演出しているかのようである。)
 ところが、「新宿」(上演IV)と「渋谷」(上演V)を取り上げて、戦後の高度成長期以降における<家郷/未来>構造の再現と変質を捉えたIV章は、基本的な手法・スタイルに違いがないのに、それ以前の論述に比べて見劣りする印象を与えるのだ。実はこの辺に本書の限界がありそうなのである。
 評者は「『戦後的なるもの』を消失した時代状況」下の「平凡すぎるほど平凡な」生い立ちを吉見と共有する者として、次のように感じる。一九五七年生まれの吉見の議論は、都市生活のみを原体験とし、経済成長の恩恵を目の当りにした世代、そして自らが大人になると国家的・社会的目標が見失われた世代の感性に裏打ちされており、IV章で論じられる内容は同世代には強い説得力を内包している。しかし、より上の(あるいは下の)世代の感性は吉見の議論のノリに困惑することもあろう。そこでは、余りにも多くのテーマが吉見の視界から(外される)からである。
 要するに吉見は 同世代の大多数と同様に自らの視点を本能的に<未来>に置いているのである。このため吉見が遠い過去について語るとき、つまりわれわれ全てがその時代に対して<未来>に身を置かざるを得ない場合には議論の説得性が保障されるものの、まさに<現在>として関与した(する)人間が現存する問題についての議論の説得性は限られてくるのである。

(松商学園短期大学・社会地理学)



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