2008:
愛読紙に注ぐまなざし.
市民タイムス(松本市),新聞週間特集,2008/10/15.


愛読紙に注ぐまなざし

                東京経済大学教授   山田 晴通


 麻生太郎首相は、「新聞は極力読まないようにしている」と公言している。「見るけど読まない」そうだ。年中、新聞記者に追い回され、叩かれている政治家は、新聞嫌いになるのだろうか。
 かつて、佐藤栄作首相は、退陣の記者会見で、「僕は国民に直接話したい」「新聞になると、文字になると違うから」と新聞記者に退席を求め、新聞記者がいない会見場でテレビカメラに語りかけた。確かに新聞は、常に百パーセント正しいとは限らない。私も名前や肩書きを間違われた経験があるし、自分が関わった出来事の記事に違和感を覚えたこともある。新聞は、速報性を重視するので、記事内容の時間をかけた検討も、取材対象へのニュアンスの確認も、十分にはなされない。また、批判的な記事を書く場合もあり、取材される側には不本意な記事も少なくない。「新聞になると、文字になると違うから」と思う瞬間は、多くの人が経験している。
 読者は、新聞記事は間違いを含み得ると承知しつつも、記事を事実とした上で、自分の世界認識を修正したり、再確認しながら、新聞を読んでいる。また、後年に歴史が綴られるとき、歴史家は、史料として新聞を導きの糸とする。そこで、あり得べき記事の誤りや偏りを防ぐ方法として、複数の新聞や、他メディアの報道などを比較参照することが必要になる。例えば、内閣支持率など世論調査の結果が新聞によってばらつくことがあるように、複数の新聞を比較することで見えてくる事実も多い。
 こう考えると、『市民タイムス』の責任は二つの意味で非常に重要だ。一つには、『市民タイムス』が、松本平の地域メディアとして圧倒的な存在であり、多くの読者がもっぱら『市民タイムス』から地域情報を得ているという状況がある。松本平には、他にも地域紙や無代紙、タウン誌、ケーブルテレビのニュースなどがあるが、県紙や全国紙が取り上げない地域の出来事について、『市民タイムス』の報道に誤りや偏りがあっても、読者が気づくことは難しい。地域情報を独占的に提供する地域紙は、小さな記事ほど、「新聞になると、文字になると違うから」という批判に、より敏感でなければならない。
 もう一つは、松本平に根ざした『市民タイムス』には、地域独自の立場から、県紙や全国紙とは異なる観点を提示できる可能性がある、という点である。新聞報道の誤りや偏りは、全くなくすことはできない。特に、「偏り」は、記事を読む者の受け取り方の多様性があり、誰から見ても偏りがないということはあり得ない。そうであればこそ、様々な問題について多数の異なる視点からの見解が求められる。その意味では、『市民タイムス』が、時おり大きな全国・国際ニュースを地域の視点から取り上げていることは、読者に大変有益なことである。他の新聞を読んでも、テレビのニュースを見ても、遠い国の事件、雲の上の出来事としか感じられなかった大ニュースが、実は自分にも身近であることを『市民タイムス』の記事が気づかせてくれることはよくある。
 新聞週間は、業界関係者にとっても、また読者にとっても、新聞の存在意義を捉え直す機会である。『市民タイムス』の報道の質を高めるものは、記者・編集者諸子の努力だけではなく、事業に関わるすべての人々の精進であり、何よりも私たち読者が紙面に向ける真摯なまなざしであろう。紙面から誤りや偏りをできる限り排しながら、地域という「偏り」を武器にユニークな論点を提示する新聞として、『市民タイムス』が一層成長することを期待して、これからも真摯なまなざしを紙面に注いでいきたい。それが「愛読」ということだと思う。
 ちなみに、麻生首相は、祖父・吉田茂と似ている点を問われて、「新聞を読まないところ」と答えているが、吉田茂は外交官時代から終生、『ロンドン・タイムズ』(『ザ・タイムズ』)の愛読者であった。「愛読」紙があることは、人生においてささやかな幸せの一つであろう。
 (松本大学非常勤講師兼任 安曇野市在住)


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