翻訳:2006:
リチャード・ピーターソン(川島 漸 ・山田晴通 訳)
なぜ,1955年だったのか?:ロック音楽の出現を解き明かす.
人文・自然科学論集(東京経済大学),122,pp.135-176.
原著 Peterson, Richard (1990): Why 1955? : Explaining the advent of rock music , Popular Music (Cambridge University Press), 9-1, pp97-116.


 翻訳については,著作権等に配慮し訳文は掲出しておりません。
 ここでは,訳者=山田=による解題と,訳注を公開します。
 掲出に際して,誤字は訂正し,その部分を青字としました。
 (2006.11.09./2009.01.04.)

なぜ,1955年だったのか?:ロック音楽の出現を解き明かす

リチャード・ピーターソン      

(川島 漸 ・山田 晴通 訳)    


訳者解題

 ここに訳出したのは,ポピュラー音楽産業について「文化の生産」という観点から実証的な研究を重ねているリチャード・ピーターソン(Richard A. Peterson)が1990年に発表した,1950年代半ばの米国でロックンロール誕生の背景となった状況についての論考である。詳しい書誌は以下の通りである。

Peterson, Richard (1990): Why 1955? : Explaining the advent of rock music , Popular Music, Vol.9 No.1, Cambridge: Cambridge University Press, pp97-116.

 この論文は,「文化の生産」という観点をポピュラー音楽研究の分野に普及させた重要な論文であり,例えば,ピーター・マーティン(Peter J. Martin)は,『世界ポピュラー音楽百科』所収の「社会学」におけるポピュラー音楽研究についての解説で,この論文の内容を詳しく紹介している(マーティン 2003=2005, pp16-18)。ロックンロールという,ひとつの文化が生み出された経緯を,法制度の変化やメディアの競合状況,あるいはレコード産業の構造といった側面から検討したこの論文の手法は,ピーターソンによるその後のカントリー音楽の研究(Peterson 1997)などにも受け継がれていくものであり,また,カルチュラル・スタディーズ的観点を盛り込んだ論考として,広く1990年代以降のポピュラー音楽研究に影響を与えている。
 ピーターソンは社会学者であり,米国における文化社会学の定着に一定の役割を果たし,米国社会学会(the American Sociological Association)の文化部門の代表なども務めた。現在は,テネシー州ナッシュヴィルのヴァンダービルト大学(Vanderbilt University)の名誉教授であり,連絡先は同大学の社会学教室となっている。

 訳出に際しては,原論文にあった数カ所の遺漏や誤記などを原著者と連絡をとって補訂し,さらに必要と思われる語句には訳注を追記した。訳注は,学部の演習で講読する場合を想定して用意したので,不必要な記述を多く含むような印象を与えるかもしれない。また,煩瑣を避けるため,訳注作成のための参考文献や参考盤,参考にしたウェブサイト,その他の記述の根拠はいちいち明記していない。読者のご海容を乞う次第である。
 訳出作業は,まず川島が少しずつ一次稿を用意し,それに基づいて共訳者二人で議論を重ね,決定稿を作成する,という一連の作業を繰り返しながら進めた。訳注については,翻訳が完成してから分担して一次稿を作成し,以降は本文と同様の方法で行った。この翻訳全体(訳注の作成を含む)について,共訳者は等しく責任を負うものと理解されたい。
 上記のマーティンの記述は,既に三井徹(金沢大学名誉教授)によって訳出されている。三井訳では,著者名は「ピータスン」と表記され,重要な中心的概念も,例えば「constraints」が「拘束」とされるなど,本稿とは異なる訳語が用いられているが,ここでは,こうした三井による表記・訳語との整合性はとっていない。

マーティン, ピーター (2003=2005): 社会学.三井徹・編訳『ポピュラー・ミュージック・スタディズ』東京: 音楽之友社.Sociology. Continuum Encyclopedia of Popular Music of the World, Volume 1: Media, Industry and Society.
Peterson, Richard (1997): Creating Country Music: Fabricating Authenticity. Chicago: Chicago University Press.

 訳稿の発表に際し,翻訳許可を頂戴し,諸々の便宜を図っていただいた原著者,ならびに原論文版権所有者である Cambridge University Press に,感謝の意を表する。
 この翻訳作業には,山田が受給した2005年度および2006年度の東京経済大学個人研究費の一部を用いた。

(山田 晴通)  




訳注

1)1929年は大恐慌によって米国経済が1920年代の好景気から一転して大不況に陥った年,1939年と1945年は第二次世界大戦の勃発と終戦の年である。1968年は,ベトナム戦争(この年にテト攻勢があり,パリ和平会談が始まった)を巡って米国の国論が揺れ,学園紛争が激化した年(「プラハの春」,フランスの「五月革命」,日本の「新宿騒乱」も同年)である一方,キング牧師の暗殺と1968年公民権法(1964年法を改定)の制定により,公民権運動の高揚に区切りがついた年である。
2)Dwight David Eisenhower(1890-1969)は,第34代合衆国大統領(1953-1961)。もともと政治への関心が薄い軍人だったが,第二次世界大戦の指揮官として国民的人気を博し,民主・共和両党から1952年大統領選への出馬を要請された。当初は固辞したものの,共和党の大統領が久しく出ていなかったことを考慮して共和党から出馬し当選。こうした経緯もあり,左右に偏らない中道的政策をとった。極端に進歩的な政策も,保守的な政策も採らなかったため,後年,(実際には,様々な大きな政策に取り組んでいたのに)「何もしなかった」と揶揄されることにもなった。
3)この訳稿では aesthetic を一貫して「美学」と訳出している。査読者からは「この言葉では筆者の意図するものが伝わりません」という指摘があり,「芸術」などへの置き換えが求められた。しかし,「美学」と「芸術」は異なる概念である。当初,この語の訳出に際しては,「美学」「審美観」「美意識」などの訳語が検討され,個別の文脈においてはそれぞれ異なる訳出をする方が好ましいと思われる箇所もあったが,ここでは原文における用語の一貫性を尊重して,全てを「美学」で統一した。
4)Frank Sinatra(1915-1998)は,1939年にハリー・ジェイムズ(Harry James)楽団の専属歌手としてデビュー。翌1940年,トミー・ドーシー楽団に移り,アイドル的な人気を博す。1942年にはソロとなり,その後は一時人気が低迷した。1952年にコロムビアからキャピトルへ移籍し,ジミー・ヴァン・ヒューゼン(Jimmy Van Heusen)作曲,サミー・カーン(Sammy Cahn)作詞の楽曲でヒットを連発し,最盛期を迎えた。
1940年代から映画にも出演したが,『地上(ここ)より永遠(とわ)に From Here to Eternity』(1953)のイタリア兵士役でアカデミー賞助演男優賞を獲得し,人気復活のきっかけとなった。その後も,『上流社会 High Society』(1956),『オーシャンと11人の仲間 Ocean's Eleven』(1960)等多数の作品に出演した。
1960年には,個人レーベル「リプリーズ Reprise」を設立したが,その支配権は,1963年にワーナーへ売却された。1971年に引退を表明するが,その後も様々な形で芸能活動を行い,晩年までアメリカ芸能界の大御所として君臨した。
 Tommy Dorsey(1905-1956)は,楽団のリーダーでトロンボーン奏者。1934年,兄のジミー(Jimmy Dorsey, 1904-1957)と共にドーシー・ブラザーズ・オーケストラを結成。翌年,ジミーと口論になり,楽団を脱退。以後,ジョー・ハイムス(Joe Hyams)の楽団を引継ぎ,1935年から1953年にかけて,ピー・ウィー・アーウィン(Pee Wee Erwin)などのソロイストや,フランク・シナトラらの歌手を見出し,おおよそ20年にわたって200曲近いシングル・ヒットを出した。1937年にジミーと和解し,1939年にはそれぞれの楽団を率いて共演した。その後,兄弟の伝記映画『ドーシー兄弟物語 Fabulous Dorseys』(1947)が制作された。1953年からはジミーを自らの楽団に迎え,亡くなるまで演奏活動を続けた。
 Patti Page(本名Clara Ann Fowler, b. 1927)は,1950年代の人気女性歌手。18歳でラジオ局専属の歌手として「ペイジ・ミルク会社」の放送を担当し,以降パティ・ペイジ名義で活動する。当初はカントリー歌手であったが,やがてポピュラー曲の人気歌手となる。1948年にマーキュリー(Mercury)からレコード・デビュー。1952年には「テネシー・ワルツ Tennessee Waltz」が世界的な大ヒット曲となる。後にレーベルを移り,コロンビアなどを渡り歩くが,1990年代には自らのレーベルCAFレコーズを創設した。
 Perry Como(1912-2001)は,フランク・シナトラなどと共に,米国芸能界で一時代を築いた歌手。1936年,トロンボーン奏者のテッド・ウィームス(Ted Weems)のバンドへ参加。1942年,同バンド解散を経て,翌年,RCAと契約。1945年,ショパン(Frederic Francois Chopin)の「ポロネーズ 変イ長調」を基調とした「時の終わりまで Till the End of Time」を発表し,全米1位を記録する。また,1953年にスタートしたTV番組「ペリー・コモ・ショー The Perry Como Show」は,コモのソフトで愛嬌のあるキャラクターが人気を呼び,16年に及ぶ長寿番組となった。
 Nat King Cole(1919-1965)は,トリオを率いるジャズ・ピアニスト兼歌手として頭角を表し,後にはもっぱらポピュラー曲の歌手として人気を博した黒人ミュージシャン。1940年代後半から徐々にポップスに活動の場を移し,「ルート66 Route 66」(1946),「ネイチャー・ボーイ Nature Boy」(1948),「モナ・リザ Mona Lisa」(1950),「アンフォーゲッタブル Unforgettable」(1951),「ホエン・アイ・フォール・イン・ラヴ When I Fall in Love」(1957)等,ヒットを連発した。TVにおける黒人の活躍の場がまだ限られていた1956年からTV番組「ナット・キング・コール・ショー The Nat King Cole Show」のホストを務めたが,番組は翌年打切りとなった。
 Tony Bennett(b.1926)は,ジャズ歌手とポップ歌手の境界線を越えて活躍した歌手。第二次世界大戦中に軍務のバンド活動から歌手を志し,復員後に本格的に声楽を学んだ。1950年にコロムビアと契約,ミッチ・ミラー(Mitch Miller, b.1911)のプロデュースで「ビコーズ・オヴ・ユー Because of You」(1951),「コールド・コールド・ハート Cold, Cold Heart」(1951)等のヒット曲を連発する。1950年代後半には,カウント・ベイシー(William "Count" Basie, 1904-1984),デューク・エリントン(Edward Kennedy "Duke" Ellington, 1899-1974),ウディ・ハーマン(Woody Herman, 本名Woodrow Charles Herman, 1913-1987)といった著名ジャズ・ミュージシャンのビッグ・バンドと共演した。1962年には「霧のサンフランシスコ I Left My Heart in San Francisco」が大ヒットし,ベネットの代表曲になるとともに,その後も歌い継がれるスタンダード曲となった。
 Kay Starr(本名Katherine Lavarne Starke, b.1922)は,ネイティブ・アメリカンの血を引く女性歌手。ラジオ局のタレント・オーディションをきっかけに7歳で歌手デビュー。名前のスペルを間違えたファンの手紙から,ケイ・スターと名乗るようになる。ビッグ・バンドの歌手として経験を積み,1939年にはグレン・ミラー(Glenn Miller, 1904-c1944)の楽団で初レコーディング。1947年にソロ・シンガーとしてキャピトルと契約するが,すぐには機会に恵まれず,ようやく1950年に,フィドルの曲として知られていた「ボナパルツ・リトリート Bonaparte's Retreat」をロイ・エイカフ(Roy Acuff, 1903-1992)による新たな詞で歌い,ヒットさせた。その後,「ウィール・オブ・フォーチュン Wheel of Fortune」(1952),「サイド・バイ・サイド Side By Side」(1953)などをヒットさせた。1955年,RCAに移籍し,「ザ・ロック・アンド・ロール・ワルツ The Rock And Roll Waltz」(1956)がゴールド・レコードを獲得するヒットとなった。1959年にはキャピトルに復帰し,ヒット曲には 恵まれなかったが,息長く歌手活動を続けた。
 Les Paul(b.1915)は,ポピュラー音楽の分野で演奏技術や録音技術に大きな影響を与えたギタリスト。子供の頃から楽器の演奏に熱中する傍ら,ラジオ受信機等の機械いじりを好んだといわれ,1928年にはギター用ピック・アップを自作したという逸話もある。1936年,ヒルビリー音楽のギタリストとしてレコード・デビュー。1940年代にはジャズに転身し,注目された。この頃から初期の多重録音技術の開発に積極的に関わったことも重要である。1949年にカントリー歌手のメリー・フォード(Mary Ford)と結婚し,1950年代にはレス&メリー(Les & Mary)名義でポップス界へも活動の場を広げ,「ハウ・ハイ・ザ・ムーン How High the Moon」(1951),「世界は日の出を待っている The World is Waiting for the Sunrise」(1951)等のヒット曲を生んだ。早くから独自にエレクトリック・ギターの改良・開発に取り組んでいたが,1952年にギブソン社から発表されたシグネチャー・モデル「レスポール」は,1960年代以降,ロック音楽に適した名器として定着した。
 Eddie Fisher(b. 1928)は,歌手で俳優。子供の頃は,コンテスト荒らしの豆歌手だった。1946年,バディ・モロー(Buddy Morrow)やチャーリー・ヴェンチュラ(Charlie Ventura)の楽団で歌手として活動を始めた。1949年のエディ・カンター(Eddie Cantor, 1892-1964)のラジオ番組に出演して好評だったのを受けて,RCAと契約を結び,1950年代には多数のヒット曲を送り出すとともに,テレビやラジオで大活躍した。1960年,RCAと解約後,一時的に自らのレーベルのラムロッド・レコーズで録音活動を行う。その後,ドット・レコーズでも活動し,ミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き Fiddler on the Roof』の「サンライズ,サンセット Sunrise, Sunset」(1965)をレコーディングした。女優エリザベス・テイラー(Elizabeth Taylor, b.1932)の四番目の夫(1959-1964)でもある。
 Jo Stafford(b.1917)は,1940年代から1950年代にかけて活躍した女性歌手。1937年にコーラス・グループ,パイド・パイパーズ(The Pied Pipers)に加入,トミー・ドーシー楽団やフランク・シナトラの公演や録音に参加した後,1944年にグループを離れ,USO(米軍慰問協会)の専属歌手として,海外に駐屯する部隊への慰問などで活躍した。戦後は,ゴードン・マクレア(Gordon MacRae, 1921-1986)とのデュエット「セイ・サムシング・スウィート・トゥ・ユア・スウィートハート Say Something Sweet to your Sweetheart」(1948)やフランキー・レイン(下記)とのデュエット「ヘイ・グッドルッキン Hey Good Lookin'」(1951),そしてソロでも「ユー・ビロング・トゥ・ミー You Belong to Me」(1953)などの大ヒットを連発した。1950年代に所属していたコロンビアでは,のべ2500万枚以上のレコードを売ったとされる。1950年代半ばから,夫ポール・ウェストン(Paul Weston, 1912-1996)と変名(ジョナサン&ダーリン・エドワーズ Jonathan and Darlene Edwards)でコメディを演じてヒット曲のパロディなどで人気を博し,1970年代まで活動を続けた。1990年代には,過去の録音に関する権利を,訴訟を経て確保し,その再発のためにコリンシアン(Corinthian)レコーズを創設した。
 Frankie Laine(本名Frankie Paul LoVecchio, b.1913)は,非常にキャリアの長い歌手。十代から舞台に立ち,ジャズ・バンドの歌手として長い下積みを経験する。1943年にカリフォルニアへ移り,映画関係の歌の吹き込みなどをしながら,クラブで歌っていたが,1946年にホーギー・カーマイケル(Hoagy Carmichael, 1899-1981)に見いだされ,新設されたマーキュリーと契約,多数のジャズ曲を吹き込む。1951年には,前年にコロンビアへ移籍したミッチ・ミラーの招きに乗ってコロンビアへ移り,ジョー・スタッフォードとのデュエットを含む多数のヒットを出した。1950年代のレインは映画やテレビでも活躍し,バラエティ番組のホストも務めた。また,レインは,まだ公民権運動が高揚する前だった当時から人種差別に反対する行動で知られ,率先して公民権運動を支援した。1963年以降はコロンビアを離れ,レコード会社を移りながら近年までレコーディングを続けている。
 Johnnie Ray(1927-1990)は,白人のR&B歌手。オーケー(Okeh)レコーズから発売した「ウィスキー・アンド・ジン Whiskey and Gin」(1951)がマイナー・ヒット,続いて「クライ Cry」(1951)が大ヒットした。以降「プリーズ・ミスター・サン Please Mr. Sun」(1952),「ジャスト・ウォーキング・イン・ザ・レイン Just Walking in the Rain」(1956)などがヒットした。米国での知名度は今ひとつだったが,英国やオーストラリアでは熱心な固定ファンを獲得した。ピアノを強く叩いて弾いたり,床にのたうち回り,泣きじゃくる派手なパフォーマンスで人気を博し,「ジ・アトミック・レイ The Atomic Ray」,「ミスター・エモーション Mr. Emotion」,「むせび泣きの王様 The Nabob of Sob」,「ザ・クライ・ガイ The Cry Guy」,「嘆き悲しむプリンス The Prince of Wails」など様々なニックネームで呼ばれたという。
 Doris Day(本名Doris Mary Ann von Keppelhoff, b.1924)は,女優としても活躍した歌手。1936年,12歳でダンサーを志しハリウッドへ行くが,翌年,脚を怪我して歌手に転身。ソロ歌手になる1940年代後半までに,バーニィ・ラップ(Barney Rapp)やボブ・クロスビー(Bob Crosby, 1913-1993),レス・ブラウン(Les Brown, 1912-2001)の楽団で歌った。当時は第二次世界大戦中だったため,バーニィ・ラップの勧めでドイツ系の本名を避け,レパートリーの一つ「デイ・バイ・デイ Day By Day」から,ドリス・デイと名乗った。レス・ブラウン楽団時代には,同名映画の主題歌「センチメンタル・ジャーニー Sentimental Journey」(1945)が大ヒットする。女優としては,映画『洋上のロマンス Romance on the High Seas』(1948)でデビュー。『知りすぎていた男 The Man Who Knew Too Much』(1956)で歌った主題歌「ケ・セラ・セラ Que Sera Sera」は大ヒットし,アカデミー歌曲賞を受賞した。1960年代後半には芸能活動から徐々に身を引き,その後は動物愛護活動に力を注いでいる
 Elvis Presley(1935-1977)は,数々のヒット曲を世に送り出し,「キング・オブ・ロックンロール」と称された歌手。1953年以降,自分の歌を収めたアセテート盤を制作するためスタジオを訪れていたプレスリーは,サン・レコーズの創業者サム・フィリップス(Sam Phillips, 1923-2003)に才能を認められ,「ザッツ・オールライト That's All Right」(1954)でレコード・デビューし,R&BやC&Wのカヴァー曲など5枚のシングルをサンから発表した。1955年,RCAに引き抜かれ,以降「ハートブレイク・ホテル Heartbreak Hotel」(1956)等の大ヒットを連発した。
 Chuck Berry(b.1926)は黒人のギタリストで,ロックンロールを創り上げたオリジネーターの一人。当時のブルース界の重鎮マディ・ウォータース(Muddy Waters, 本名McKinley Morganfield, 1913[1915?]-1983)に見出され,チェス・レコーズから,「メイベリーン Maybelline」(1955)でレコード・デビュー。以降,「ロール・オーヴァー・ベートーベン Roll Over Beethoven」(1956),「ロック・アンド・ロール・ミュージック Rock And Roll Music」(1957),「ジョニー・B・グッド Johnny B Good」(1958)等のヒット曲を生み出し,派手なステージ・パフォーマンスや,斬新な自作の歌詞でも注目を集めた。その後,スキャンダルに巻き込まれて投獄されるなどしたため,人気が凋落したが,1960年代には,ビートルズやローリング・ストーンズ(The Rolling Stones)を筆頭とする英国のロック・バンド群に楽曲を大量にカヴァーされたことから,人気が再浮上し,以後,ロック界でその地位を不動のものとした。
 The Platters は,1953年,ハーブ・リード(Herb Reed)が中心となり結成されたドゥ・ワップ・グループ。1954年,メンバーのトニー・ウィリアムス(Tony Williams)が作詞作曲兼プロデューサーのバック・ラム(Buck Ram)と出会い,レコード会社への売り込みを始め,結局,女性シンガーのゾラ・テイラー(Zola Taylor)をメンバーに加えて,マーキュリーと契約した。翌年,ラムが制作した「オンリー・ユー Only You」(1955)が150万枚の大ヒットとなった。1960年代以降は,メンバーの入れ替わりや,元メンバーが同名儀の別グループで活動して訴訟合戦が起こるといった事態が頻発した。現在は,オリジナルのグループと多少なりとも人的関係がある複数の類似名義のグループが活動している
 Bill Haley(1925-1981)は,最初のロックンロール曲とされることが多い「ロック・アラウンド・ザ・クロック Rock Around the Clock」のヒットで知られる歌手。元々はカントリーを歌っており,ビル・ヘイリー&ヒズ・サドルメン(Bill Haley & His Saddlemen)名義で「クレイジーマン・クレイジー Crazy Man, Crazy」(1953)をマイナー・ヒットさせると,同年にバンド名を「ザ・コメッツ(The Comets)」と改め,大手のデッカへと移籍する。1954年に「ロック・アラウンド・ザ・クロック」を録音するがヒットには至らず,同年,次のビッグ・ジョー・ターナー(Big Joe Turner, 1911-1985)のカヴァー「シェイク・ラトル・アンド・ロール Shake, Rattle and Roll」が英国のシングル・チャート入りを果たす。1955年,映画「暴力教室 The Blackboard Jungle」のテーマ曲に「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が使われ,映画とともにこの曲も大ヒットした。ヘイリーは,ロックンロールの爆発的な流行の起点に位置していたが,その後の展開にはついていけず,その後の活動はオールディーズとしての枠から出ることはなかった。
 Buddy Holly(本名Charles Hardin Holley, 1936-1959)は,「しゃっくり」を意味するヒーカップ(hiccup)唱法と称された特徴的な歌い方で人気を博した白人ロックンローラー。デビュー曲の「ザットル・ビー・ザ・デイ That'll Be The Day」(1957)をはじめ,「ペギー・スー Peggy Sue」(1957),「イッツ・ソー・イージー It's So Easy」(1958)などのヒット曲がある。初期のロックンローラーには珍しく,スーツに黒縁眼鏡という一見優等生風の格好で,女性の人気を集めた。後のエルヴィス・コステロ(Elvis Costello, 本名Declan Patrick MacManus, b.1954)のビジュアルはホリーを真似たものである。また,後にビートルズをはじめ,ロック・バンドの基本形となるギター2本,ベース,ドラムという編成は,ホリーとそのバンド「クリケッツ(The Crickets)」の影響が大きい。ビートルズ(「甲虫」と同音)の名も,クリケッツ(「こうろぎ」の意がある)にあやかったものとされている。
 ホリーは,いち早くソリッド・ギター(フェンダー社のストラトキャスター)を用いたり,ダブル・トラック・レコーディングを試みるなど,積極的に先駆的な取り組みをしていたが,1959年2月3日に,ツアーの移動中に飛行機事故で死去した。この事故を境に,ロックンロールは下火となり,代わってティーン・アイドルの時代になったとされ,事故の日は「ロックンロールが死んだ日」,あるいはDon McLean(b.1945)の「アメリカン・パイ American Pie」(1971)の詞におけるように「音楽が死んだ日」と称されるようになった。
 Little Richard(本名Richard Wayne Penniman, b.1932)は黒人のピアニストで,ロックンロールを創り上げたオリジネーターの一人。聖歌隊で培った歌唱とピアノの腕を生かして,1947年から音楽活動に入り,翌年,ラジオのタレント・オーディション優勝をきっかけにレコード・デビューを果たすが,しばらくヒット曲を生み出せなかった。1955年,スペシャルティー・レコーズに見出され「トゥッティ・フルッティ Tutti Frutti」を発表するが,歌詞の奇妙なフレーズが話題となり,ヒット曲となった。以降,「のっぽのサリー Long Tall Sally」(1956),「スリッピン・アンド・スライディン Slippin' & Slidin'」(1956),「ジェニ・ジェニ Jenny, Jenny」(1957)等,後に数々の白人バンドにカヴァーされるようなスタンダード曲を多数生み出した。女言葉を使ったり,人気絶頂時に突然一時的に引退して神学校に入ったりと,数多くの奇行でも知られる。
 Carl Perkins(1932-1998)は初期の白人ロックンローラー,あるいはロカビリー歌手。プレスリーと同じように,幼少の頃から黒人労働者と共に過ごす機会が多く,自然に黒人音楽を吸収していたという。1954年,兄や弟とザ・パーキンス・ブラザーズ(The Perkins Brothers)として音楽活動を始める。1955年,サン・レコーズからソロ歌手としてレコード・デビュー。翌1956年,「ブルー・スウェード・シューズ Blue Suede Shoes」が大ヒットする。1960年代にはヒット曲に恵まれなかったが,後のロック・バンド,特にビートルズが「みんないい娘 Everybody's Trying To Be My baby」(1958),「ハニー・ドント Honey Don't」(1956)等をカヴァーしたことから再評価される。特にジョージ・ハリスン(George Harrison, 1943-2001)は,ギターの演奏面で彼からの影響が強く,英国ツアーの追っかけをするほどのファンであったという。また,1980年代にストレイ・キャッツ(Stray Cats)をはじめとした英国のネオ・ロカビリー・ムーヴメントにも大きな影響を与えた。同じサン所属のプレスリーが「キング」と称されるのに対し,パーキンスは「プリンス」として親しまれた。
5)Jerry Lee Lewis(b.1935)は白人のピアニストで,ロックンロールを創り上げたオリジネーターの一人。神学校で教育を受けたが,度重なる非行から退学処分となり,酒場のピアニストとして生計を立てるようになった。1957年,サン・レコーズからデビューし,同年に発表した「火の玉ロック Great Balls Of Fire」が大ヒットとなる。立ったままピアノを弾き,唄い,さらに,ピアノに火をつけるなど,リトル・リチャードとともにピアノによるロックンロールのパフォーマンスの典型を作り上げ,「キラー」という愛称で親しまれた。私生活も奇行とスキャンダルに満ちた伝説的なものであり,その後の音楽活動にも浮沈があった。
6)T-Bone Walker(本名Aaron Thibeaux Walker, 1910-1975)は,ブルース歌手・ギタリスト。ブルースマンでは最初にアンプを使った人物とされる。子供の頃に ブラインド・レモン・ジェファーソン("Blind" Lemon Jefferson, 1893-1929)と家族ぐるみで親しかったことから,13歳の時にギターを手にし始めたという。1929年にオーク・クリフ・T・ボーン(Oak Cliff T-Bone)の名でレコード・デビュー。1930年代にはジャズ楽団で演奏するなど,音楽活動の幅を広げた。1940年代以降,エレクトリック・ギターを用いるブルース・ギタリストとして頭角を表し,1950年代前半まで数多くの録音を残した。
 Louis Jordan(1908-1975)は,1940年代から1950年代の初めにかけて人気を博した黒人ミュージシャン。自らのバンド「ティンパニー・ファイヴ(Tympany Five)」を率いて,クラリネットやサックスを演奏し,歌った。1940年代にはレイス・レコーズ(Race Records)チャートの常連で,ときどきポップ・チャートにも顔を出した。「G.I.ジャイヴ G.I. Jive」(1944)は,ポップ・チャートでも1位となった。チャック・ベリーら,初期のロックンローラーにも影響を与えた先駆的な存在だったが,ロックンロール時代に入ると急速に人気が衰えた。最盛期の録音はデッカ(1938年から1954年に所属)に残されている。
7)Hank Williams (Sr.)(1923-1953)は,1940年代後半に人気を博し,若くして死んだことで伝説的な存在となったカントリー歌手。高校在学中だった1938年頃から,ラジオで活躍し,中退後はバンド「ドリフティング・カウボーイズ Drifting Cowboys」を率いて活動するが,酒癖が悪く,しばしばそれが原因で仕事を失った。1944年にオードリー・シェパード(Audrey Sheppard) と結婚し,妻がマネージャーとなってから私生活が立ち直り,1946年以降はヒットに恵まれるようになった。1950年以降は,Luke the Drifter という変名で宗教的,道徳的なテーマの曲を発表した。人気の絶頂にあって,再び飲酒で身を持ち崩して私生活も荒れ,1953年に移動途中のキャデラックの車中で頓死した。死後には宗教的なテーマの曲の再評価も進み,1948年に書いた「アイ・ソー・ザ・ライト I Saw The Light」は(発表時にはさして高く評価されなかったにも関わらず)彼の代表曲と見なされるようになった。
8)米国では,統計上,1946年から1964年の間に生まれた世代を指して「ベビーブーム」と称している。ピークとなっているのは1954年から1964年の期間で,毎年四百万人以上の出生が記録された(ただし,1957年以降は出生率は低下に転じた)。
9)「制約 constraints」について,「この用語はここでは避けることにする …this word will be avoided here because…」とあり,以降の論述では代わりに「要因 factor」が用いられている。しかし,後段では再び constraints が用いられており,結論部分の見出しにもこの語が採られている。「ここ」がこの稿全体ではなく,当面の記述だけを指しているという解釈も可能だが,constraints が既に定着した表現であり他の語による置き換えが難しいことの反映と考えるべきであろう。
10)米国の著作権法は1790年に制定されたが,絵画や音楽は保護の対象とされていなかった。なお,現在の米国の著作権法は1976年に制定されたものを基に,その後の部分的修正が加えられたものが機能しているが,1976年法が有効となった1978年以前に発表された作品については,1909年法が適用されることになる。
11)ASCAP: The American Society of Composers, Authors, and Publishers は,1914年にニューヨークで結成された音楽著作権管理団体。自らは歌わない職業的な作詞家や作曲家,伝統的なティンパンアレーの利害を代表する組織と見なされている。現在では23万人以上の会員を擁しているという。
12)Tea for Two は,アーヴィン・シーザーIrving Caeser, 1898-1996)作詞,ヴィンセント・ユーマンス(Vincent Youmans, 1898-1946)作曲で,(1925年のミュージカル「ノー・ノー・ナネット No, No, Nannette」のために用意された)1924年の作品。1950年に同名の映画の主題曲に用いられてリバイバルした。
 Stardust は,ホーギー・カーマイケル作曲の1927年の作品。発表後の1929年にスロー・バラードに改作され,ミッチェル・パリッシュ(Mitchell Parish, 1900-1993)によって詞が付けられたことで,多数のバンドが演奏するようになった。
 Always は同名異曲もあるが,ここで言及されているのは,アーヴィング・バーリン(Irving Berlin, 1888-1989)作詞作曲の1926年の作品。1942年の映画『打撃王 The Pride of the Yankees』の主題曲に用いられてリバイバルした。
13)BMI: The Broadcasting Music Incorporated は,設立直後から,それまでASCAPの組織対象となっていなかった黒人音楽や,カントリー音楽,フォーク音楽などの作詞家,作曲家を取り込んで拡大した。このため,ASCAPとは違う,比較的周縁的な位置づけの音楽のレパートリーを扱う傾向があった。しかし,現在はこうした違いはなくなりつつあり,会員数も30万人以上とされている。
14)SP(Standard Playing)盤のこと(ただし「SP」盤という表現は英語では通常は用いない)。シェラックは,南アジアに生息する虫から採取した天然素材で,これを用いて他の素材を固めるために用いられていた。シェラック盤は割れやすいのが欠点であった。
15)厳密には「CBS とRCA」ではなく「コロンビア・レコーズと RCA ビクター」である。CBS は,複雑な経緯で所有の実権が移動していたコロンビア・レコーズを1938年に完全子会社化した。一方,RCAは,1929年に Victor Talking Machine Company を買収して,RCA Victor と改称した。
16)Columbia Records は,1888年に遡る歴史がある米国で最も古いレコード会社。当初は the Columbia Phonographic Manufacturing Companyと称し,エジソン式の蝋管「フォノグラフ」を扱っていたが,1901年以降は円盤式のレコードも扱うようになった。1908年にはいち早く両面録音のレコード盤を導入した。1938年には,かつてコロンビアが一時的に経営を支配していたこともあったラジオ・ネットワークCBSが,逆にコロンビアの経営権を獲得して,経営が安定し,その後は一貫して米国レコード業界の大手の一角を占めた。しかし,1988年にソニーが経営権を獲得して,コロンビアはソニー・ミュージック・エンターテインメント(SME)傘下に入り,さらにSMEとBMGの統合によって,ソニーBMG傘下という位置づけになった。
 ちなみに日本のコロムビア・ミュージック・エンターテインメント(かつての日本コロムビア)は,昭和初期に米国のコロンビア傘下の外資系会社であったが,その後,経営権の移譲や提携の見直しによって,現在では関係がなくなった。しかし,同社は,かつての米国コロンビアが用いていた音符のマークに由来する商標を現在も使用している。
17)RCAの前身はVictor Talking Machine Companyだが,1929年に,ラジオをはじめ音響機器等のメーカーであるRCAがビクターを買収し,RCAビクターと社名を変える。その後は,資本関係のなくなった英国や日本の「ビクター」関連法人と区別をつけるためか,単にRCAと呼ばれるようになる。
当時のRCAはカントリーを主な得意分野とし,特にチェット・アトキンズ(Chet Atkins)は看板ミュージシャンだった。1956年には,サン・レコーズから売りこまれたエルヴィス・プレスリーの全ての楽曲権利を購入し,プレスリーを世界的な成功へと導いた。また,1966年,コロンビア・ピクチャーズと共同出資でコルジェムスを設立し,モンキーズ(The Monkees)を輩出した。
 1987年,アリスタと共にドイツのベルテルズマンに買収され,BMG(ベルテルズマン・ミュージック・グループ)傘下に入り,さらにBMGとSMEの統合によって,ソニーBMG傘下という位置づけになっている。
18)デヴィッド・サーノフ(David Sarnoff, 1891-1971)は,1919年のRCA(Radio Corporation of America)設立時に総支配人となってから1970年に本人が引退するまで,RCAの経営実権を握った経営者。ロシアの貧しいユダヤ人家庭に生まれ,1900年に米国に移民,マルコーニ無線会社を経て,RCA設立に参加した。第二次世界大戦中は対敵宣伝放送の構築などに活躍し,猟官工作も功を奏して「名誉准将」の称号が与えられて以降は「サーノフ将軍 General Sarnoff」と呼ばれることを好んだ。
19)FCCは,1934年通信法によって,それまでの連邦ラジオ委員会に代わって設立された合衆国政府の独立機関。(連邦政府自身が当事者となる場合を除いて)あらゆる電波の利用(放送を含む)と,州域内にとどまらない広域の通信,国際通信の監理にあたる。
20)NBC(当時は the National Broadcasting Company:現在はNBCが正式名称)はRCA傘下のラジオ・ネットワークとして1926年に24局体制でスタートした。翌1927年には,おもに娯楽番組や音楽を流す「赤」ネットワークと,ニュースや教養番組など,必ずしもスポンサーのつかない素材を流す「青」ネットワークに再編され,1930年代にはこの2系列が並行して運営されていた。その後,1940年のFCCからの勧告によって,「青」ネットワークはNBCから切り離され,ABC(the American Broadcasting Company)となった。
 CBS(当時はthe Columbia Broadcasting System:現在はCBSが正式名称)は,1927年に16局体制で成立した。名称は,コロンビア(当時のthe Columbia Phonographic Manufacturing Company)が一時経営権を握ったことに由来するが,コロンビアはすぐに経営から撤退し,1928年にその株式を引き受けたウィリアム・S・ペイリー(William S. Paley, 1901-1990)の下でCBSは成長し,1930年代後半には,特に欧州情勢など充実した報道で他のネットワークに対して優位に立った。1938年に,聴取者の一部にパニックを引き起こしたオーソン・ウェルズ(Orson Welles, 1915-1985)演出のラジオ・ドラマ『宇宙戦争 The War Of The Worldを放送したのもCBSだったが,CBSの報道への信頼も皮肉な結果を生じさせた一因であった。また,同じ1938年にはコロンビア・レコーズの経営権も獲得している。
 Mutual とは,1929年に4局で構成された Quality network を母体に,1934年に成立した the Mutual Broadcasting System(MBS)のこと。最盛期の1940年代には500局以上をネットワークしていたが,実態としては弱者連合という性格が強かった。1950年代以降は,経営権がしばしば売却されてネットワークは弱体化していった。1994年には親会社の統合によって事実上CBS傘下となり,Mutual 名義の番組は制作され続けたものの,1999年には番組制作の名義も CNN radio になった。
21)1947年にベル研究所がトランジスタを開発し,1954年には米国の数社がトランジスタ・ラジオを発売したが,これはまだ非常に高価であった。ソニーの前身である東京通信工業は,1952年に米国での技術開発を取材して,トランジスタ・ラジオの試作に乗り出し,1955年には東京通信工業トランジスタ式携帯ラジオ「TR-52」の開発に成功した。これは9V電池を用い,片手で持ち運べるものであった。その後,日本の各メーカーが品質改良を重ね,生産体制を拡充した結果,米国へのトランジスタ・ラジオの輸出量は飛躍的に伸びることとなった。
22)slice strategy は,文脈によってまったく異なる意味で用いられる用語であり,注意を要する。ここでは,以降の文脈から,salami-slicing とも称されるような,「小さなシェアの奪い合い」という意味でとった。
23)Bob Hope(本名 Leslie Townes Hope, 1903-2003)は,舞台,映画,ラジオ,テレビ等で広く活躍した米国を代表するコメディアン。英国ロンドン近郊で生まれるが,1907年に一家で米国へ移住し,翌年,米国の市民権を得る。ニューヨークを中心に軽演劇やミュージカルで実績を積み,1938年のミュージカル映画『百万弗大放送 The Big Broadcast Of 1938』で注目された。作品中のシャーリー・ロス(Shirley Ross, 1913-1975)とのデュエット「サンクス・フォア・ザ・メモリー Thanks for the Memory」は大ヒットとなり,アカデミー歌曲賞を獲得した。ホープはその後,この曲の歌詞に手を加えて自分のテーマ・ソングとした。1938年には自分のラジオ番組を持つようになり,これは結局1956年まで続いた。この頃から映画への出演機会が増え,『腰抜け二丁拳銃 The Pale Face』(1948年)でも,彼の歌った「ボタンとリボン Buttons And Bows」がアカデミー歌曲賞を獲得するなど,多数の映画で活躍し,アカデミー賞のプレゼンターもしばしば務めたが,通常のオスカーを受賞することはなかった。それを埋め合わすかのように,映画芸術科学アカデミーはのべ5回にわたってホープを特別に顕彰している。
 ホープは積極的な米軍への慰問活動でも知られ,第二次世界大戦から湾岸戦争まで熱心に戦地慰問に出かけた。ベトナム戦争をテーマとしたビリー・ジョエル(Billy Joel, b.1949)の「グッドナイト・サイゴン Goodnight Saigon」(1982)には「連中は『プレイボーイ』とボブ・ホープを送ってきた」という象徴的な歌詞がある。
 Jack Benny(本名Benjamin Kubelsky, 1894-1974)は,米国のコメディアン。十代から芸人として舞台に立ち,いわゆるスタンダップ(漫談)やシチュエーションコメディのスタイルを作った最初期の人物の一人とされている。彼がホスト役のラジオ番組「ザ・ジャック・ベニー・プログラム The Jack Benny Program」は,NBCでは1932年から1948年まで,CBSでは1948年から1955年まで続き,さらに1950年から1965年にはテレビでも放映された。
24)「Your Hit Parade」は,NBCのラジオで1935年から1955年まで,テレビでは1950年から1959年まで放送されていた,人気音楽番組。1940年頃から,その週のヒット曲をカウントダウン形式で紹介する趣向が加わった。ただし,歌や演奏は,番組のレギュラー出演者によるものだった。ロックンロールの勃興によって,曲そのものより,誰が歌うかが重要となると,人気を失ったといわれている。
 ちなみに,日本のフジテレビが,1959年から1970年まで放送した音楽番組「ザ・ヒット・パレード」は,多くの点で「ユア・ヒットパレード」の様式を取り入れていた。
25)Martin Block (1901-1967) は,ラジオの人気アナウンサーで,1934年にジャーナリストのウォルター・ウィンチェル(Walter Winchell, 1897-1972)が,disc jockey という造語で最初に言及した人物である。1935年に始めた番組「Make Believe Ballroom」は人気番組となり,ブロックは1954年までこの番組を担当した。番組自体は,現在も継続している。
 なお,米国ではラジオ局はステーション・コールで言及されるのが一般的であり,その最初の文字は,ミシシッピ川以東の諸州ではW,以西の諸州ではKとなる。
26)RCAについては,訳注17参照。コロンビア(CBS)については,訳注16参照。
 キャピトル(Capitol)は,1942年設立。1950年代にはナット・キング・コールやフランク・シナトラ等のスターを抱え,先行するコロンビア,RCA,デッカを追ってメジャー・レーベルに並び称される。また,この時期にはカントリー音楽に力を注ぎ,本場ナッシュヴィルに対抗した西海岸系のカントリーを盛り上げる。1955年から英国EMIの傘下となり,米国での配給権を掌握していたことから,1960年代にはビートルズの成功で資本力を伸ばした。
 アメリカン・デッカ(American Decca)は,1934年,英国デッカの米国法人として設立。1952年にユニバーサル・ピクチャーなどを傘下に持つMCA(Music Corporation of America)に買収され,1973年にMCAレコーズに改名。1985年にチェスの原盤権を買収し,1990年代までにはゲフィン(Geffin)等を傘下に収め,1996年,ユニバーサル・ミュージック・グループに改名する。1998年にはポリグラム(PolyGram)と合併し,世界最大のレコード会社となる。
27)Bing Crosby(1903-1977)は,俳優としても活躍したクルーナー歌手。1930年代半ばから1950年代半ばに至る全盛期には,まさしく一世を風靡し,映画やラジオで縦横に活躍するとともに,草創期のテレビにも登場した。一方ではビデオ・テープの開発など,メディア技術の発展にも強い関心を持ち,積極的に投資をするなどその活動は単なる人気スターという範囲に収まるものではなかった。彼の歌う「ホワイトクリスマス White Christmas」(1954)はクリスマスソングの定番となっている。
28)Sun Records は,サム・フィリップス(Sam Phillips, 本名Samuel Cornelius Phillips, 1923-2003)が1950年に開業した,結婚式や贈り物用のレコードを制作するメンフィス・レコーディング・サーヴィスに端を発している。B.B.キング(B.B. King, b.1925)やハウリン・ウルフ(Howlin' Wolf, 本名 Chester Arthur Burnett, 1910-1976)といった黒人ミュージシャンのレコーディングを手がけ,その音源をシカゴのチェスやロサンゼルスのモダン(Modern)等の他社へ提供することで成功し,1952年にサン・レコーズが正式に設立された。1954年にはエルヴィス・プレスリーと契約し,1956年にはその契約と楽曲権利をRCAへ売り払う。プレスリーの世界的成功の契機を生み出した後も,ジェリー・リー・ルイス,カール・パーキンス,ジョニー・キャッシュ(Johnny Cash, 1932-2003)らを世に出した。
 Atlantic Records は,1947年に,アーメット・アーティガン(Ahmet Ertegün, b.1923)とハーブ・エイブラムソン(Herb Abramson, 1916-1999)が設立した。1955年にはアーメットの兄ネスヒ(Nesuhi Ertegün, b.1917-1989)が経営に参加すると,同年,ロサンゼルスのスパークを買収,1960年代に入るとスタックスと提携し,経営を拡大する。ビッグ・ジョー・ターナーやレイ・チャールズ(Ray Charles),オーティス・レディング(Otis Redding, 1941-1967)などのミュージシャンを輩出し,黒人R&Bの大手となった。1967年,ワーナー・ブラザースと共に映画配給会社のセヴンアーツに買収されると,今度は1969年,キニー・コーポレーション(後のワーナー・コミュニケーション)に転売される。1970年にはエレクトラ(Elektra)も加わり,WEA(現ワーナー・ミュージック・グループ)が誕生する。
 Staxは,1957年,創設者のジム・スチュアート(Jim Stewart)とその姉のエステル・ステュワート・アクストン(Estelle Stewart Axton)が,メンフィスで設立したサテライト・レーベルに端を発し,1961年に社名をスタックスへ変更する。アルバート・キング(Albert King, 1923-1992)やオーティス・レディング,サム&デイヴ(Sam & Dave)等を擁したソウル音楽の名門レーベルとされる。同年,大手のアトランティックと原盤賃借権の契約を結び,最盛期を極める。しかし1967年,レーベルの稼ぎ頭だったオーティス・レディングを飛行機事故で失い,また翌年の1968年にアトランティックとの提携が解消され,ステュアートは一時レーベルを手放すが,1970年にはかつて販売責任者だったアル・ベル(Al Bell)と共にレーベルを買い戻し,再建が計られた。1972年には「黒いウッドストック」と称されたコンサートであるワッツタックスを成功させたが,レーベルは結局1975年に破産した。スタックスの社屋の跡地には,2003年にソウル音楽に関する品を展示するスタックス博物館が開設された。
 King は,1943年に,シド・ネイサン(Sydney Nathan, 1904)がシンシナチで創設したレーベルで,まだヒルビリーと称されていた当時のカントリー音楽を専門的に取り上げた。キングは,黒人の「レイス・レコーズ」を扱う姉妹レーベルとしてクイーン(Queen)というレーベルを1945年に立ち上げた。1950年代になると,カントリーよりもR&Bが経営上は重要になり,これに対応してベツレヘム(Bethlehem)やデラックス(Deluxe)など積極的に既存の小レーベルを傘下に収めた。1968年にネイサンが死去した後,レーベルは売却された。
 Chess は,1947年に,ポーランド人移民であるレナード(Leonard Chess)とフィル(Phil Chess)のチェス兄弟が,仲間のイヴリン・アーロン(Evelyn Aaron)とともにアリストクラット(Aristocrat)レコーズを設立。1950年にアーロンを外し,チェス・レコーズと社名を変更。1950年代にかけて,マディ・ウォータースやチャック・ベリー,ジミー・ロジャース(Jimmy Rogers, 1924-1997),ウィリー・ディクソン(Willie Dixon, 1915-1992)等のブルースマンを輩出して成功し,黒人R&Bの最重要レーベルとされる。1960年代には,レナードの息子マーシャル(Marshall Chess)が制作を指揮したが,1969年にテープ会社のGRTに買収される。その後,マーシャルはローリング・ストーンズが1971年に設立したローリング・ストーンズ・レコーズの初代社長として招聘され,1975年,GRT保有のチェスは事実上崩壊した。チェスの原盤権は1985年にMCAが買収している。
 Vee Jay は,レコード店を経営していたジミー・ブラッケン(James C. Bracken)とヴィヴィアン・カーター(Vivian Carter)の黒人夫妻が1953年に設立。黒人のR&Bを専門とし,同じシカゴを拠点としていたチェスと並び称される。ジミー・リード(Jimmy Reed, 1925-1976)らのブルースのみならず,インプレッションズ(Impressions)らのドゥワップ,エディ・ハリス(Eddie Harris 1934-1996)らのジャズ等,黒人音楽を幅広く専門分野として扱った。1962年,ジーン・チャンドラー(Gene Chandler b.1937)の「デューク・オヴ・アール Duke of Earl」が大ヒット,同年フォー・シーズンズ(The Four Seasons)がデビュー,翌年の1963年にはビートルズのレコードを米国で最初に発表するなどしたが,1966年に倒産した。
 Dot は,ランディ・ウッド(Randy Wood)が1950年頃にテネシー州ギャラティンで創業したレーベル。当初はテネシー州の地元のミュージシャンによる音楽を,カントリー音楽やR&Bなど幅広く扱っていたが,1956年に拠点をハリウッドへ移し,全国の小規模レーベルの作品から選んだものを,ドット・レーベルで全国に流通させる形に転換した。1957年にウッドは株式をパラマウント映画に売却したが,なおしばらく経営者としてとどまった。しかし,1968年に所有が変わり,ウッドも経営から去って以降は,カントリー音楽専門レーベルとなった。
 Coral は,デッカの子会社として1940年代にスウィングの録音を多数扱った。ロックンロール期には,バディ・ホリーが在籍していた。1960年代にはMCA傘下に入った。
 Imperial は1947年,ルー・シャッド(Lew Chudd)によって設立。当初はファッツ・ドミノ(Fats Domino b.1928),Tボーン・ウォーカー等,黒人R&Bのアーティストを中心に抱えていた。1958年,リッキー・ネルソン(Ricky Nelson 1940-1985)と契約すると会社の規模が大きく成長するが,1963年,ネルソンがデッカへ,ドミノがABCパラマウント(ABC-Paramount)へ移籍すると,業績は急激に悪化し,翌年,リバティー(Liberty)に買収される。買収後もしばらくレーベル活動は続くが,1968年,リバティーがユナイテッド・アーティスツ(United Artists)と合併するとグループ内のレーベルの整理統合によって1969年に休眠状態となった。2006年に至り,カタログを所有する英国EMIがレーベルを再開して新作を発表し始めた。
29)Warner Brothers Records は,1958年に映画会社のワーナー・ブラザースによって創設され,現在ではワーナー・ミュージック・グループの一員として,傘下にアトランティック,エレクトラ,ノンサッチ(Nonesuch),リプリーズ,サイア(Sire)などのレーベルを収めている。ワーナー・ミュージック・グループ自体は,2003年に売却され,元々の親会社の流れを汲むタイム・ワーナーから切り離された。
30)ジョブ・ショップ型のサービスを提供する事業所は小規模なものが多くなるが,実際の取引においては集積のメリットが大きいため,特定の場所に関係業種が集積することになる。音楽においてもニューヨークとロサンゼルスを別格として,そうした集積が成立している都市は限られている(おそらくナッシュヴィルくらいであろう)。
31)Paisley Park Production Companyは,プリンス(Prince, 本名 Prince Rogers Nelson, b.1958)が,1985年にワーナーとの提携で創設したレーベルの名称であり,同様にプリンスが1987年にミネソタ州ミネアポリス郊外の自宅近くにオープンした録音スタジオを中心とした施設のことでもある。レーベルは,プリンスとワーナーの対立から1994年になくなった。
32)Motownは,1959年に ベリー・ゴーディJr.(Berry Gordy, Jr. ,b.1929)が設立したレーベル。名称は,所在地デトロイトの通称「Motor Town」に由来する。テンプテーションズ(The Temptations),スティーヴィー・ワンダー(Stevie Wonder, b.1950)等を抱えた,ソウル音楽の中心レーベルとされるが,シュープリームス(The Supremes)やジャクソン・ファイブ(Jackson 5)が典型的なように,当初から白人市場を意識した方針がとられており,ポップな側面が強いのも「モータウン・サウンド」の特徴だった。初期のビートルズも,モータウンの曲をよくカヴァーしていた。黒人経営者が作った独立系レーベルが十年ほどで大きく成長したという点でも画期的なレーベルであったが,ゴーディ は1972年にレーベルの拠点をロサンゼルスに移し,さらに1988年にはレーベルをMCAなどに売却した。
 Staxについては訳注28を参照。
 A&Mは,1962年に,トランペット奏者のハーブ・アルパート(Herb Alpert, b.1935)とジェリー・モス(Jerry Moss, b.1935)が設立したレーベル。当初はハーブ・アルパート&ティファナ・ブラス(Herb Alpert & Tijuana Brass)やセルジオ・メンデス&ブラジル66(Sergio Mendes & Brasil 66)等,中南米音楽寄りのミュージシャンを輩出したが,1960年代後半になると方向が変化し,1969年にデビューしたカーペンターズ(Carpenters)などで大きな成功を収めた。創業者の二人は,1989年にレーベルをポリグラムへ売却したが,その後のレーベルの統合過程で契約が守られていないとして,2000年に(ポリグラムを継承した)ユニバーサルを訴えた(後に和解)。
33)Henry Ford(1863-1947)は,もともと技術者として自動車の設計に携わり,数度の起業と失敗を経て,フォード・モーター会社を1903年に創設した。1908年に発売されたT型は,1927年まで実質的なモデルチェンジなしに継続して大量生産されることになった。一般的に,ベルト・コンベアなどを用いた(単一ないし少品種)大量生産方式をフォード・システムと称するが,これは1913年にフォード社で導入されたものが原型と考えられている。計数的な工程管理,部品や作業の標準化,流れ作業による効率化,従業員への賃金インセンティブ,大量生産による価格の引き下げなどは,いずれもフォードの創案ではなく,先行者による実践があったり,フォード社内の従業員たちが作り出していったものであったが,それを統合していくシステム化の過程でフォードが発揮したリーダーシップは,強力なものであった。
34)Max Weber(1864-1920)は,官僚制組織の発展を,近代が脱することができない不可避的な「鉄の檻」ととらえ,そこでは形式的合理性と実質的非合理性との矛盾が浮き彫りになっていくものと考えた。特に,死後に刊行された大著『経済と社会 Wirtschaft und Gesellschaft』に,官僚制に関係する議論が多く収められており,日本では,その部分訳が『支配の諸類型』『法社会学』などの表題で独立した書物として刊行されている。
35)Scott Shannon(生年不詳だが1940年代の生まれと思われる)は,1970年代から1980年代にかけて大活躍し,現在も活動を続けているDJ。徴兵され軍務に就いていた陸軍基地の放送局でDJを務め,退役後,1969年にアラバマ州モービルのWABBを皮切りに,ワシントン,ニューヨーク,ロサンゼルスなど各地のラジオ局を拠点にトップ40形式に準拠した人気番組を連発した。子供の頃に大阪に住んでいた時期があるという。
 Crying time という表現は,1965年のレイ・チャールズのヒット曲「Crying Time」に由来するものと思われる。この曲は,カントリー音楽のバック・オウエンス(Buck Owens, 1929-2006)の作品とされているが,実際にはレイ・チャールズ作,あるいは二人の共作とする説もある。
36)Wolfman Jack の名で1960年代から1970年代にかけて一世を風靡したDJは,本名をロバート・ウェストン・スミス(Robert Weston Smith, 1939-1995)といった。アラン・フリードの下働きから業界に入り,フリードのスタイル(訳注37参照)を真似て,1960年頃から「狼男 Wolfman」と自称し,南部各地やメキシコの放送局を拠点に人気を高めた。 1960年代後半にはロサンゼルスやニューヨークに進出し人気を不動のものとした。映画『アメリカン・グラフィティ American Graffiti』(1973)では「ウルフマン・ジャック」の録音番組を流す地元ラジオ局のDJ役で登場している。
37)Alan Freed(本名 Albert James Freed, 1921-1965)は,Rock and Roll という言葉を音楽のスタイルの名称として定着させた功労者とされるDJ。1942年から地方局でアナウンサーとして働き始め,1949年にテレビ局の職を得てクリーヴランドへ移った。1951年から当地のラジオ局WJWで,「Moondog 月夜に吠える犬」と自称し犬の咆哮の録音をおしゃべりのつなぎに使って,R&Bなど黒人音楽を中心とした番組を始め,大当たりをとる。1954年にニューヨークのWINSへ移り,黒人音楽を「ロックンロール」として紹介するとともに,実演のステージで司会者としても活躍した。
 フリードはいろいろな意味で辣腕であり,活動が広く知られるようになるにつれ,スキャンダルも頻発した。1957年に始まった彼のテレビ番組は,白人女性を黒人と一緒に踊らせたとして打ち切りになり,1958年にはコンサートの司会者として騒動を扇動したとしてボストンの警察当局に逮捕されるなどした。また,チャック・ベリーの「メイベリーン」(1955)の著作権登録上の共作者として,(共作の実態がないのに)フリードとその助手の名前が登録されていたことはよく知られている。
 レコード会社が放送局の関係者に賄賂を贈って自社の特定のレコードを放送で取り上げて貰おうとすることを「ペイオラ payola」という(pay は「支払い」,-ola は当時の代表的なプレーヤー Victrola から連想された語尾)。1959年から1960年にかけてのいわゆるペイオラ事件では,多数のDJや放送関係者がスキャンダルに巻き込まれ,議会下院の委員会で聴聞を受けたが,最終的にはフリードが標的になって罰金を課せられ,彼は重要な放送関係の仕事を失う羽目になった。さらに1962年に,フリードは収賄でも有罪となる。結局,フリードは経済的にも行き詰まり,失意の内に1965年にカリフォルニア州パームスプリングで病死した。
38)ベリーの歌詞は,必ずしもブルースの伝統に沿ったものではなく,ティーンエイジャーの日常生活の実感を反映した,モダンなものであった。ベリーはしばしば「ロックンロールの詩人 Poet of Rock 'n' Roll」と称される。
 初期のロックンローラーには,プレスリーのように作詞作曲をしなかった者もいたが,曲を自作する者も少なくなかった。リトル・リチャード,バディ・ホリーなどはほとんどの曲を自作していた。しかし,「シンガー・ソングライター singer-songwriter」は,本来は1960年代以降のフォーク音楽との関係で「非商業的な」という含意を含んで広まった用語であり,狭義にとらえるなら,こうしたロックンローラーたちを例として挙げるのは不適切であろう。
39)Francis Craig(1900-1966)作曲の「Near You」(1947)は競作となり,オリジナルのバレット盤以外にも,アンドリュー・シスターズ(The Andrew Sisters) による歌入りのもの,ラリー・グリーン(Larry Green),エリオット・ローレンス(Elliot Lawrence),アルヴィノ・レイ(Alvino Ray) 名義の同曲が,ビルボードのチャート上位に登場した。しかし,バレット盤も,ナッシュヴィル録音の曲で最初に百万枚を超えた大ヒットとなり,最終的には三百万枚以上が売れたとされており,ここでの否定的評価は少々行き過ぎのように感じられる。
40)ここで言及されているのは,オマハのKOWHのディレクターだったトッド・ストルツ(Todd Storz, 1924-1964)のエピソードである。彼は1954年には,中西部やグレートプレーンズ地域に広く放送を届けることができたミズーリ州カンサスシティのWHBを買って,これを全面的にヒット曲専門局に改め,ヒット曲をカウントダウンしていく放送形式を「トップ40」と称し,大きな成功を収めた。
41)Randy Wood(本名Randolph C. Wood, b.1918) はドット・レコーズ(訳注28参照)の創業者。
 John R(本名 John Richbourg, c1910-1986)は,1950年代から1960年代にナッシュヴィルのWLACで活躍したDJ。白人であったが,ラジオでは黒人のような話し振りで黒人音楽を多く紹介し,当時は黒人と思い込まれていた。
 R. Murray Nash は,ナッシュヴィルのカントリー音楽の発展に大きく貢献したプロデューサー。いわゆるロカビリーの確立に功績が大きかった。
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