書評:2006:

三井 徹・編著『ポピュラー音楽とアカデミズム』

ポピュラー音楽研究(日本ポピュラー音楽学会)9,pp29-36



三井 徹=監修
ポピュラー音楽とアカデミズム
音楽之友社,2005年

山田 晴通

 改めて述べるまでもないことだが,三井徹は,ポピュラー音楽がアカデミズムの研究対象として広く認知される以前から,アカデミズムの側に身を置きつつ,ポピュラー音楽研究の第一線で奮闘し続けてきた研究者であり,日本ポピュラー音楽学会の初代会長(1990-1994年,後に2002-2004年に再度会長となる)を務めたことにも象徴されるように,日本におけるアカデミックなポピュラー音楽研究にとって the Founding Father と位置づけられるべき人物である。三井以前に,あるいは小泉文夫という巨人がいて,あるいは見田宗介のような先駆的な研究例があったとしても,自らの研究の最も重要なテーマとして一貫してポピュラー音楽研究を掲げ,必ずしもアカデミズムの中でそのテーマが認知されない時代から,アカデミズムの一角にそれが制度化されていく過程を自らの研究歴の中で体現してきたという意味で,三井徹は,正しくone and onlyの存在である。
 その三井は2005年3月に65歳を迎え、金沢大学を定年退職した(国立大学は2004年4月に国の行政機関から国立大学法人へと移行したので「退官」ではない)。本書はその記念出版として,関係者の寄稿を集めた論文集である。目次は以下の通りである。

はじめに(三井徹)
I 三井徹 企画流行歌の誕生 ―<アラビアの唄>/<青空>再考
II 中村とうよう ジャーナリズムから見たポピュラー音楽研究
III 五十嵐正 米英に見るロック・ジャーナリズムの現状と展望
IV 細川周平 ジャズ研究の最近の動向
V 小川博司 「ノリ」の誕生 −「ノリ」の音楽・社会理論に向けて
VI エドガー・ポープ エキゾチズムと日本ポピュラー音楽のダイナミズム
           −大陸メロディを中心に
VII 東谷護 戦後日本ポピュラー音楽史の構築へむけて 
       ―真正性とメロディを手がかりとして
VIII 小泉恭子 ポピュラー音楽と少女のジェンダー・アイデンティティ
   ―ヴィジュアル・ロックバンドのヴィデオ・クリップに表象される小女像
IX 増田聡 「パクリ」再考 ―美学的分析の試み
X 大山昌彦 若者下位文化におけるポピュラー音楽の消費・再生産・変容
       ―茨城県A市における「ロックンロール」の実践を中心に
三井徹研究評論年譜+ポピュラー音楽研究四十一年史
あとがき(大山昌彦)

 三井自身を除く9人の寄稿者のうち,もっぱら音楽ジャーナリズムの場に身を置く者は中村と五十嵐の2人だけで,7人は大学などアカデミズムの場に身を置く研究者である。後者のうち,細川と小川は,三井をいわば「担いで」学会を立ち上げるなど,ポピュラー音楽研究の制度化に貢献してきた世代であり,三井とは師弟関係というよりも,学問上の先輩後輩といった関係にあると見てよいだろう。残りの5人は,比較的年齢も若く,三井と直接間接に師弟関係がある,いわば「お弟子さん」たちである。また,ジャーナリズムの立場にいる2人のうち,中村が寄稿者の中で唯一三井より年長者で,三井とは永年の同志的関係にあるのに対し,五十嵐は学部時代に三井の薫陶を受けてこの世界に入り,また後に大学院に戻って三井の指導も受けた,やはり「お弟子さん」の一人である。音楽ジャーナリズムとアカデミズムという二つの世界に股をかけて活躍した三井徹の業績を振り返ることを契機として企画された本書には,その両方の世界から,またそれぞれにおける同志的立場の関係者からの寄稿と,弟子的立場の関係者からの寄稿が集められているのである。

 それでは,寄稿された論考は,どのような内容なのであろうか。ここでは,各論文を網羅的に詳しく紹介することは避け,若干の強弱をつけながら概要を把握しておきたい。三井自身の論考であるI章は後回しにして,II章以下の内容を先に見ていこう。
 中村は,永く音楽ジャーナリズムの世界に身を置き,『(ニュー)ミュージック・マガジン』における実践を通して,音楽ジャーナリズムのあり方自体を問い続けてきたこれまた並ぶ者のない論客である。中村は,創刊間もない時期から『(ニュー)ミュージック・マガジン』に寄稿を続けた三井とは,単なる寄稿者と編集者という関係を超えた永年の同志といってよい関係にあり,同時に,アカデミズム側からのポピュラー音楽研究に対しては,一貫して真摯な批判を重ねてきている。
 中村はII章の冒頭4ページ分に「三井先生との四十年」と小見出しをつけ,「研究者とジャーナリストという並行する道を,それぞれ進んできた」三井との関係を振り返っている(こうした三井との交流に関する記述は他の寄稿には見られない)。この部分の的確な記述は,本書末の「年譜」と照合しながら眺めてみると,なかなか興味深い。次に中村の記述は,三井との関わりの中から浮上したグリール・マーカスのことに移り,「学者・研究者」と「評論家・ジャーナリスト」のスタンスの違いへと進んでいく。以下,小見出しを拾ってくと,「グリール・マーカスは評論家か」,「アドルノ依存症はかなり重症だ」,「ポピュラー音楽の歴史認識における欠落」,「歴史の歪曲を主導した業界メイジャー」,「抹殺された初期ポピュラー歌手の再発見」,「市場を二重構造化した業界戦略」という具合に議論は展開していく。中村は,リチャード・ハムなどを俎上に載せながらアカデミズムの怠慢に批判の矢を放ち,一方ではアカデミズムとは無縁のアマチュアリズムに裏打ちされた取り組みへの期待を語っている。中村は,細川の『レコードの美学』(1990年)におけるアドルノ批判の一節を引用する形で,「美的経験の枠をこえて何かを論じるときに破綻をきたす」ことを強調し,アカデミズムに向けて警鐘を打ち鳴らしているのである。
 五十嵐によるIII章は,1960年代以来の英米のロック評論,ロック・ジャーナリズムについての包括的な展望であり,ロック・ジャーナリズムの変質について断片的な理解しかなかった評者には,正直なところ大変勉強になった。ジャーナリズムのあり方を史的に展望する作業に,自ら評論の現場に身を置く五十嵐が取り組んでいることの意義は決して小さくない。五十嵐が,ロック音楽について語ることに自覚的であり,また,オンライン社会におけるロック評論に積極的な展望を持っていることは,評論を読む立場の一人として心強く感じられる。
 細川のIV章は,幅広く多彩に展開されてきた細川の研究対象の中ではアウトプットの量としては目立たないものでありながら,細川個人にとって本質的な部分,いわばアイデンティティの核心部分に近い位置にあると思われるジャズについての,水準が極めて高い読書ノートである。取り上げられているのは,大半が1990年代後半以降に刊行された浩瀚な書籍であり,巻末の参考文献一覧で4ページに及ぶ文献目録自体が,圧倒的なものである。
 以上,II章からIV章までの3つの章は,それぞれ,独立した文章として読むべきものであろう。これに対して,以降の5つの章は,それぞれの執筆者が粘り強く続けている一連の研究の一環として,各人の他の研究成果との関連の中で読まれるべき論述だという印象を強く持たせる。
 小川のV章は,「ノリ」をめぐる実証的研究の一環として,情報誌『ぴあ』の投稿欄の内容分析を行った報告であり,ポープのVI章は,戦前を中心に日本のポピュラー音楽に現れたエキゾチズムについて検討した,既発表稿のテーマと密接に関係した議論である。東谷のVII章は,『進駐軍クラブから歌謡曲へ』(2005年)に結実した地道な調査の蓄積を踏まえながら,戦後日本のポピュラー音楽史へのアプローチとして,メディア史的な立場を取り込んだ研究視座を再確認するといった趣きの論述である。小泉のVIII章におけるビジュアル系バンドのジェンダー論的分析,増田のIX章における「パクリ」を入り口とした作品概念の検討,大山のX章における暴走族文化の中の「ロックンロール」についてのフィールド報告は,いずれも,それぞれの主要な研究テーマの流れの中でのモノグラフとなっている。
 本書の実質的な編者であり,自らも寄稿している大山は,あとがきで,本書が「単に退職記念論文集ということだけではなく」,「多様に展開する日本の音楽文化をこれまでとは異なった視点で理解するヒントとなる内容を目指し」たことを述べ,「少なくとも本書で示された今日の日本のポピュラー音楽研究の多様な現状は,いうまでもなく三井先生が研究というフィールドを耕してまいた種が花開き,様々な方向に展開していることを示している」と,編集の意図を説明している。各章の内容を概観して明らかなように,この狙いは十分に果たされているといえるだろう。

 こうした本書の構成を踏まえた上で,冒頭に戻って,三井自身によるI章の内容を見ていこう。標題の副題には「再考」とあるが,これは三井自身が「かつてこのテーマで論考を発表し,それを再検討する」という意味ではないようだ。章末の但し書きによると,I章は,2004年に『Popular Music History』誌創刊号へ寄稿された英文論文の内容に大幅な増補改訂を加えたものであるという。
 言うまでもなく,ポピュラー音楽の歴史にとって,レコード(録音物)による音の固着と大量複製は決定的な意味があった。レコードは当初から音楽の録音を主眼として開発されたわけではなかったが,程なくして音楽の固着はレコードの主要な役割となっていく。やがて,流行していた音楽をレコードに収める当初の段階から,レコードによって音楽の流行が生まれるという段階への移行が起こり,文化商品としてのポピュラー音楽が確立されていくことになる。
 日本の場合,この移行は,昭和初期に外資系レコード会社の進出を契機として,いわゆる五社体制が成立した時期に起こった。そして,その移行期の先駆けとなったのが,I章の主題となっている二村定一の一連のヒット曲(副題に示された2曲のほか,『君戀し』など)だったことは,既に定説として確立されている。I章の副題にある「再考」は,この既に定説となっている「企画流行歌の誕生」の経緯を,再検討し,検証していこうという意味である。
 結論を先に述べれば,三井の検証作業からは,あっと驚くような新解釈,定説を覆すような新説が提起されるわけではない。しかし,I章の議論は,様々な角度からの検討を通じて定説に具体的な肉付けを行い,厚みのある記述として再提起する作業であり,読み応えがある。これまでにもこの移行期についての定説を論じた文献は少なからず存在するが,ほとんどがアカデミズムとは異なる地平から著わされたものであり,記述に問題をはらんでいた。例えば,各社の公的な社史類においても年次等についての矛盾が含まれているし,森本敏克『音盤歌謡史』(1975年)などに典型的なように,貴重な事実の報告が盛り込まれながら,典拠の表示を欠くために内容の検証が困難な記述も少なくない。I章における三井の作業は,ある意味ではナイーフに記述されてきた定説の内容を,文献的にさかのぼり同時代資料や回想録の類にあたって点検していくという地道なものである。結果として,I章の記述は,評者の知る限り三井の論文の中では行論中の出典表示が最も多いものとなっている。
 しかし,評者には,このような論述の仕方が,アカデミズムを演じてみせている結果であるようにも思われる。つまり,I章のスタイルは,三井の本来のスタイルではなく,アカデミズムという様式に合わせて,そのように書くこともできるという力量を示すために,紡がれたものであるように思われるのである。いわば,ベニー・グッドマンの演奏するモーツァルトのクラリネット協奏曲のようなものである。
 また,I章が,国際的な学術雑誌に英文で寄稿されたものを下敷きにしている,という点も,評者には象徴的であるように感じられる。英語教師を生業としていたのであるから英語に長けているというのは当然なのだろうが,三井が,そうした常識的な水準を遥かに超えた,驚異的なまでの英文読書家であることは,『新着洋書紹介』(2003年)を一読すればよく分かる。三井は国際ポピュラー音楽学会の会誌の書評欄を担当していたこともある。英書の紹介を英文で行う,という作業を国際学会から任されていたのであるから,その語学力は推して知るべしであるが,このような三井の一面は,三井が国際的なネットワークの一員であることにアイデンティティの大きな部分があることを示しているように評者には思われる。三井の研究者としての出発点は,巻末の「年譜」にも明らかなように,英米の伝承バラッド研究にあった。中村は「三井先生は英文学の学徒としてその領域のなかでバラッドに対象を絞り,研究を深めていくうちに,ポピュラー音楽研究という新しい分野の開拓者となられた」(45ページ)と述べているが,三井が大学を離れる区切りの仕事の一つとして,母国のポピュラー音楽の出発点について,国際的な読者コミュニティに向けて,また,極めてアカデミックなスタイルで報告することを選んだことは,三井の研究者としての経歴を踏まえると,いろいろと深読みをしたくなる示唆にとんだ実践であり,その日本語バージョンの本書への収録は,実に適切なものであったのだろう。

 そのような観点に立てば,本書で最も重要な部分は,50ページに及ぶ「三井徹研究評論年譜+ポピュラー音楽研究四十一年史」である。わざわざ「作成:三井徹」と扉のページに明記されているように,その記述は多くの記念論文集に見られるような第三者が編集したものではなく,三井自身が重要と考える事項を列挙していった,研究者としての「自伝」にも近いものである。この「年譜」を眺めていくと,そこに記載された事項の内容に驚かされることも多々あるが,同時に,第三者にとっては重要と思えること(例えば,金沢大学への転任など)がきれいに欠落していたりして,三井自身の価値観が垣間みられる部分もあり,非常に興味深い。
 この「年譜」は,24歳で愛知大学に専任講師として就職し,研究者として歩み出した時点から後だけが取り上げられている。それ以前の経歴については,三井の著書の著者紹介などでもほとんど言及がない。評者の手元にある三井の著書のなかでは,『黒人ブルースの現代』(1977年)がその例外であり,その裏表紙には「レノンより数カ月,ディランより一年ほど早い一九四〇年三月生まれ。十代後半にロックンロールに熱中,そのうちにさかのぼってアメリカ南部の白人民俗音楽,さらにそのもとのイギリス民謡(とくに伝承バラッド)に興味をもって研究を志す」とあり,「九州大学大学院で英文学を,インディアナ大学大学院で民俗学を専攻」とも記されている。この著者紹介の上には中村による推薦文があり,そこでは三井について「少年時代からギターを弾いてプレスリーのマネをやっていたという」とも述べられている。
 「年譜」の扉には,18歳の(大学の学部1年生であったはずの)三井の姿を捉えた写真が掲げられており次のようにキャプションがついている。
「1958年11月30日,福岡市内のナイトクラブ「リスボン」の専属バンドを伴奏に<ロック・アラウンド・ザ・クロック>を歌う三井徹。その頃,リヴァプールではレノン,マッカートニー,ハリスンたちがクォリ・メン[ママ]を組んでおり,ミネソタ州ヒビングでは,後にディランを名乗るロバート・ジママンがロックンロール・バンドに参加していた。」
これは,上述の「十代後半にロックンロールに熱中」という記述を裏付ける貴重な写真である。同時にこのキャプションは,三井が,レノンたちやディランと同じ,ロックンロールの誕生に立ち会った世代の一員であるという自意識を強く持ってきたことを示している。
 「年譜」の1960年代の欄には,「アパラチアン・ダルシマー」や「フレットレス・バンジョウ」の演奏についての記述が散見される。これは,『黒人ブルースの現代』著者紹介に,「忙しくて手にする時間はほとんどないながら,ギター,フレットなし五弦バンジョウの他に,アパラチアン・ダルシマー,オートハープなどを弾くのも楽しみ」とあることと照らし合わせると,三井の音楽への関心が,ただ聴くばかりでなく,自ら演奏者となって音楽を享受する経験を出発点としていることが分かる。中村がII章で重ねて引用した細川の警句「美的経験の枠をこえて何かを論じるときに破綻をきたす」に照らして述べるなら,三井は,ロックンロールを入り口とした青春期から「美的経験の枠」をルーツ・ミュージックまで遡って広げて,アメリカのフォーク音楽からイギリスの民謡へと至っており,そのことが研究者としての蓄積の過程においても大きな財産となっていったわけである。
 ロックンロールに夢中になったティーンエージャーだった三井は,既に(もっぱら歌詞の分析が)英米文学の対象として公認されていた白人系ルーツ・ミュージックを研究対象とすることで学究の道に進み,幸運にも若くして大学に職を得てからは,当時珍しかったはずの様々な楽器を演奏してルーツ・ミュージックの普及に当たるとともに,これを研究対象として研究業績を積み上げていった。その過程で,中村らとの出会いがあり,ジャーナリズムの世界における評論の場にも活動拠点をもったことから,著述の対象は,アカデミズムの制約から少しずつ逸脱したものにも及ぶようになっていった。1970年代に入ると,三井は『(ニュー)ミュージック・マガジン』を中心に,ロック関係の記事や翻訳紹介を次々と発表するようになり,執筆テーマの範囲は一挙に広がっていった。「新着洋書紹介」の連載(1971-2002年)が始まったのもこの頃である。その後しばらく,三井の仕事の中心にあったのは,アカデミックな研究でも,ジャーナリズムに近い著作でも,一貫して英米を中心とする海外のポピュラー音楽そのものや,それについての議論に,批判的な検討を加えつつ紹介するという作業であった。海外の研究動向の紹介などは,得てして「ヨコタテ」と蔑まれ,軽視されることもあるが,三井が膨大な量の文献情報を消化し,そのエッセンスを自らの血肉として海外のポピュラー音楽とポピュラー音楽研究について語り続けたことは,まさしく「フィールドを耕して」種をまく実践であった。
 「年譜」から読み取れる限りで判断すると,三井の研究上の関心が洋楽一辺倒から転回をみせ,日本に(も)向けられるようになったのは,1990年代に入ってからのことである。これには,2つの契機があったようだ。まず,1990年の日本ポピュラー音楽学会設立大会(準備会から数えての第2回大会)のいわゆる「カラオケ」シンポジウムで,三井は「カラオケ発生とその社会的背景」と題して報告をしている。これは小川らとの共同研究の一環だったが,ここを起点とするカラオケ研究は,最終的には細川との共編著『Karaoke Around the World』(1998年)に至る大きな流れとなり,日本発の世界的音楽文化商品となったカラオケについての,日本発の研究成果を世界に発信することとなった。「年譜」に記載されたもう一つの契機は,1995年にダートマス大学客員教授として「日本のポピュラー音楽」を講じた際に,「自分が戦前の主要流行歌を記憶に留めている最後の世代であることに思い当たる」という経験をしたことである。2000年には日本音楽学会のシンポジウム「戦時日本の政治と音楽」で「音楽と政治―1930-1945」を報告するなど,戦前・戦中の日本の音楽についての研究は,確実に三井の研究テーマの一つとして確立されていくこととなった。I章の論述も,当然のこの流れの中に位置づくものである。
 三井が永年にわたって,国際的なネットワークの一員として海外の研究動向を敏感にとらえ,日本に紹介し続けたことは,日本におけるポピュラー音楽研究のアカデミズムにおける制度化に大きく貢献した。三井自身が,金沢大学において教養部の語学教員という位置から,博士課程で音楽学を担当する大学院教員へと転身していったことは,その具体的な現れでもあった。そして,研究者としての円熟を迎えた時期に,日本人として自らのルーツとなっている自文化の音楽(戦前の流行歌)を再認識し,その研究に真摯に取り組んだ三井の姿勢は,「美的経験の枠」を踏まえてアカデミックな研究を目指すという意味で,ロックンロールへの熱狂を経てそのルーツ・ミュージックへと向かった若き日々と何ら変わらず,一本の線でつながっているのである。I章で三井が,ことさらにアカデミズムを演じているのも,本書の表題が『ポピュラー音楽とアカデミズム』となっているのも,先駆者としての三井が到達した地点を確認するものなのであろう。

 65歳という年齢は,文学系の学問をする者にとってはまだまだ老け込む年齢ではないので,現時点で三井の仕事を総括するのは必ずしも適切ではないとも思う。しかし,大学という組織を離れたことを一区切りの機会として回顧してみることが許されるならば,三井の研究者としての「四十一年」は,総体として実に痛快なものであったことだろう。少なくとも,この「年譜」を読む限りはそういう印象が強い。この間,三井自身の尽力が功を奏した部分も含め,ポピュラー音楽研究は確実にアカデミズムの一角に食い込み,制度化が進められてきた。
 しかし,評者のようにその後に続く世代から見れば,ポピュラー音楽とアカデミズムの緊張関係はまだまだ永く大きな課題として残るものである。ポピュラー音楽を論じ,教育する場は,様々な大学に設けられるようになった。しかし,制度的にポピュラー音楽研究がポストの根拠となる例は,まだ日本のどの大学にもないといってよい。つまり,非常勤講師としての需要は生まれてきているが,専任教員としてのポストは用意されていないのである。アカデミズムにおける制度化といっても,その前途はまだまだ多難なのである。
 また,三井の奮闘してきた時代は,ポピュラー音楽がもっぱら音楽雑誌などジャーナリスティックな評論空間で論じられており,そこにアカデミズムを持ち込むこと自体が差異化の戦略として有効であった。しかし,今日では,一方で音楽ジャーナリズムが量的にも質的にもやせ細り,他方ではアカデミズム内の制度化が徐々に進んでいるために,真剣にアカデミックな立場からポピュラー音楽を研究することは,凡庸で日常的な営為になりつつある。アカデミズムというフィルターを通してポピュラー音楽を考えることの意義自体が変質を遂げてきているのだ。そうであればこそ,三井の後に続く世代が,三井の足跡から学び取るべきものは多いはずだ。少なくとも,アカデミックな研究としてポピュラー音楽に関する論考を世に問おうとしている者は,本書を通じて,いくつもの自問自答をしなければいけない。自分はなぜ,何のために,ことさらアカデミズムという形式を通じてポピュラー音楽を語ろうとしているのか,そして,自分の議論は「美的経験の枠」をどう踏まえているのか,あるいは,確信犯的にその外へ出ているのか,等々。ポスト三井世代のポピュラー音楽研究は,その答えを求める呻吟から可能性の翼を広げていくことになるのだろう。

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