学会発表(発表要旨):2003

オーストラリアの地方都市アーミデールにおける小規模ラジオ放送局の現状.

日本地理学会・2003年度春季学術大会(東京大学:2000.03.30.).



オーストラリアの地方都市アーミデールにおける小規模ラジオ放送局の現状
Community broadcasting and narrowcasting radio stations in Armidale, New South Wales, Australia

山田 晴通 (東京経済大学)
Harumichi YAMADA (Tokyo Keizai Univ.)

キーワード: ラジオ コミュニティ放送 ナローキャスティング オーストラリア
KEYWORDS: radio, community broadcasting, narrowcasting, Australia
 アーミデールは、ニューサウスウェールズ州北部のニューイングランド地方の街である。人口は 2万人ほどに過ぎないが、ニューイングランド大学(UNE)のキャンパスがあり、4千人ほどの学生が学んでいる。(なお、2000年の合併で、現在では自治体の正式名称はアーミデール・デュメリック市となっている。)
 アーミデールには、全国ネットの放送局以外にもラジオ局がいくつかある。まず、地元の商業局として2ADと100.3FMがあり、さらに事実上1976年に開局したコミュニティ・ラジオ局2ARMと、1970年に起源がさかのぼり、現在はナローキャスティングとなっている、UNEの放送局TUNE! FMがある。

 TUNE! FM の起源は1968年にさかのぼる。この年、UNEの学生グループと 2ADの間に対立が生じたのを契機に、学生たちは自主的なラジオの運営を模索するようになった。同じ頃、物理学教室の教授が米国で見聞した大学内のラジオ局についてUNEの学生たちに紹介し、広く関心を集めていた。
 やがて1970年4月には、当時の無線通信法(the Wireless Telegraphy Act)に基づいて、放送ではなく、通信施設として免許が大学に与えられ、1970年4月27日午後7時から、正式な「放送」(法律上は通信)が開始された。周波数は、通常の中波放送用の周波数帯からわずかに外れた電波を使用し、ラジオの中波帯域の一番上にダイヤルを合わせると聞こえるようになっていた。出力の微弱な送信機が、学寮を中心にキャンパス内の主要な建物に分散配置され、スタジオはミルトン・ビルディング(Milton Building)に置かれた。局としての名称は、ラジオUNE、略してRUNEと名乗った。

 1970年代半ばになると、後に「コミュニティ放送」として法律上再定義される「公共放送 public broadcasting」のラジオ局設置を目指す動きが、オーストラリア各地に現れ始める。アーミデールにおいても、RUNEを発展させて、公共放送局を開局しようという動きが、大学の内外から出てきた。公共局としての免許を受けるため、新たに地域の人々も参加した法人が組織され、1974年には、予備免許を受けて、開局準備が本格化し、1976年には2ARMの放送が始まった。その後、1977年3月に、2ARMは24時間放送の体制に移行した。
 当初、2ARMはRUNEのスタジオ施設の一部を使っていたが、1979年頃、2ARMは市庁舎の中に専用の仮設スタジオを得た。RUNEのスタジオを出た 2ARMは、以降、TUNE! FM とは、別々の道を行くことになる。

 1981年に、2ARMは公共放送として正式に本免許を与えられた。1989年には、旧市議会庁舎の一部が2ARMに無償で提供され、ボランティアの手で大幅な改装が行われた。これによって2ARMは、放送スタジオ、制作スタジオ、レコード・ライブラリ、事務所が一体となった放送施設を確保した。市庁舎裏の駐車場に面した場所に事務所を設け看板を出すことによって、2ARMは一般市民にとってもその存在が目に見えるものとなり、本格的なラジオ局として認められるようになった。
 1980年代には、公共放送局が全国的にもまだ少なく、2ARMは比較的恵まれた補助金を連邦政府から得ることができた。財政状況のよかった1988年には常勤職員 2人と、歩合制の営業担当者 2人を雇用していた。1990年代に入ると、2ARMの経営状態は急速に悪化した。経営悪化の背景には、不況が色濃く陰を落としているが、直接の原因は、連邦政府からの助成金の減少と、競争相手となる放送局の増加であった。
 経営の悪化を受けて、1990年代はじめに、まず有給職員が削減され、常勤職員は、早朝時間帯を担当するアナウンサー1人だけになり、非常勤者も、管理責任者1人となった。さらに1990年代半ばには、常勤職員がゼロになり、1996年には、運営委員会が廃局を検討するという事態に立ち至った。具体的な数字ははっきりしないが、当時の赤字額は数万ドルにのぼっていたという。しかし、ボランティアとして局の運営に携わってきた人々の一部が強く存続を主張したため、結果的に運営委員は全面的に交代し、新たな執行体制が敷かれた。新体制が動き出した1997年以降、イベントを通じた資金集めや、新たな広告の開拓が模索されている。

 一方RUNE は、受信状況を改善するため、1986年に FM波による通信の免許を得て FM「放送」を始め、局の名称もTUNE! FMとなった。1992年の放送法の改正によって、コミュニティ放送が改めて注目され、ナローキャスティングというカテゴリーが新設されると、TUNE! FMは、まずコミュニティ放送免許の獲得を模索し始めた。しかし、人口 2万人ながら公共放送からコミュニティ放送へ自動的に移行した2ARMが既に存在するアーミデールで、新たに 2局目のコミュニティ放送の免許が得られる見通しは立たなかった。結局、1994年から1995年にかけて、TUNE! FMは、ナローキャスティングとして認定され、当初はわずか 1W、やがて10Wの出力で、大学外へ向けても「放送」をするようになり、現在に至っている。
  


関連論文:山田晴通(2005)

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