雑誌論文(その他):2001:

<幻のコミューン>が形成される −「デジタル時代」の地域社会.

新聞研究(日本新聞協会),595,pp63-66.


<幻のコミューン>が形成される −「デジタル時代」の地域社会

デジタル化は何をもたらすのか
コミュニティーは崩壊したのか
地域社会の再編へ
新たなコミュニケーションを喚起


[デジタル文化の諸相/地域]

<幻のコミューン>が形成される

−「デジタル時代」の地域社会


東京経済大学 助教授 山田 晴通

 このところ「デジタル」という言葉を目にすることが多い。注目を集めている「放送のデジタル化」をめぐる議論ばかりでなく、様々な局面で「デジタル時代」や「デジタル社会」が論じられている。もともと「デジタル」という言葉は、厳密な意味を吟味されることなく、漠然と用いられていることも多い。例えば、「デジタル化」という言葉は、文脈によって異なった含意を持つし、「情報化」とか「コンピューター化」、さらには「IT」といった、やはりあいまいな言葉と絡み合うことで、具体的な意味内容は希薄になり、言葉だけが上滑りしがちである。
 本来、「デジタル」とは、変化量を非連続的に数値の集合として捉える見方である。例えば『広辞苑』は、「デジタル」を、「ある量またはデータを、有限桁の数字列(例えば二進法)として表現すること」と説明している。以下では、この語義にしたがう狭義であることを前提に、括弧を外した「デジタル」を用いていく。

デジタル化は何をもたらすのか

 従来もっぱらアナログ的に処理されていた情報なりデータがデジタル化されるのは、デジタル系の技術に新しい展開の可能性が開けているからである。個々の技術体系におけるデジタル技術の優位性には多様な現れ方がある。多くの場合、デジタル化によって情報の再現性が向上し、圧縮伝送なり保存が容易になる。放送のデジタル化が、高画質や多チャンネル供給を可能にするというのは、その一例である。
 しかし、デジタル化によってもたらされる最も重要な利点は、異なる媒体、異なる技術系の間のデータ変換が容易になる、というところにある。音声も静止画も動画も、デジタル化してしまえば、インターネットを介してデータを自由にやりとりできるし、様々な原理の記録媒体に保存し、複製することができる。
 もともと別々の技術系として発展してきた、電話、テレビ、オーディオ機器、写真、等々の機能は、デジタル化によって、コンピューターを軸に再編成され、一元化されたり、相互に浸透していくことになる。一般家庭のコンピューターは、多様な情報処理を行うマルチメディア端末としての機能する。さらに、テレビやオーディオのみならず、冷蔵庫や炊飯器にも通信機能も含めた情報処理機能が組み込まれていくことによって、デジタル化はほとんどの家庭電化製品をネットワーク化する可能性をもっている。
 デジタル化は、これまで個別に発展してきた技術系の間の壁を崩し、既存の技術系における秩序性を撹拌する、ポストモダンな性格をもった動きである。インターネット上でも、メディア企業の情報発信量は、一個人の発信量よりも多い。しかし、その比率を考えれば、既存のメディアよりもインターネットの方が発信量の格差は劇的に縮小している。例えば、一九九九年に注目を集めたビデオ修理クレーム事件などを想起すれば明らかなように、インターネットの成立による個人の情報発信力は、大企業に対抗する新たな手段にさえなり得るのである。
 デジタル化はまた、一般家庭の隅々にまで浸透し、日常生活を根本的に変えていく可能性をもっているという意味では、新たなパラダイムでもある。百年ほど前、電力が家庭へ導入されて以来、もともと異なる技術体系の上に存在していた様々な道具が、電化製品に置き換わってきた。ランプは電灯となり、火鉢や炬燵は電気ヒーターや電気コタツに、食品貯蔵庫は冷蔵庫となった。さらに電気以前にはなかったラジオやテレビも家庭に入ってきた。エジソンをはじめとして多数の発明家が活躍した十九世紀末から二十世紀初頭の時期は、電気が動力、熱源、信号伝達手段として、新しい可能性を切り開いた電気時代の幕開けであった。当初、電気とは関係ない技術としてスタートした蓄音機や映画も、やがて電気技術と融合することで大きな発展を遂げた。
 今、私たちの前にあるデジタル化の動きは、百年前の電化の動きと軌を一にしている。今、起こりつつあるのは、新たなパラダイムの確立と浸透、そして全面的な展開である。今、目の前にあるパソコンやインターネットや諸々のデジタル機器は、発展の初期段階のごくごく稚拙なものに過ぎない。これからもデジタル技術の上に乗った画期的な機器やシステムが出現してくるのだという視点がなければ、デジタル化の今後についても、また技術の先にある「時代」や「社会」を語ることもできないだろう。

コミュニティーは崩壊したのか

 私たちのコミュニケーション行動は、それに動員されるメディアという「下部構造」の上に乗っている。メディアの機能的発達や普及は、コミュニケーションのあり方を必然的に変えていく。そして、メディアはさらにその「下部構造」である技術体系の上に乗っている。技術的な前提が変化していけば、メディア体系もまた変化する。新技術を踏まえた新しいメディアが登場すれば、新たな競合、共存、連携等の関係の中で、既存のメディアの役割や意義づけは変質していく。結局のところ、基礎を支える技術が変われば、メディアも変わり、コミュニケーション行動も変わっていくのである。
 それでは、コミュニケーション行動が変われば、何が変わるのだろうか。この問いには答え方がいろいろあるが、「コミュニティー」は間違いなく答えの一つである。そもそも、英語における「コミュニケーション」は、「コミューン的なものにしていくこと」あるいは「コミューン化」を含意している。ここで「コミューン」とは、人々に共有された領域のことであり、「コミュニティー」と同義である。多少の勇み足を承知の上で敷延すれば、コミュニケーションとは「コミュニティー化」あるいは「コミュニティー形成への行動」にほかならない。
 日本語での議論に立ち戻って考えてみれば、「コミュニティー」は、さほど範囲が広くない地域社会を指す言葉として用いられていることが多い。また、コミュニティーといえば、非都市的な農村部などの伝統的な(あるいは封建的な)社会習慣がある程度まで機能している地域社会や、大都市の下町のような住商工が混在した場所での地域社会のあり方が、まっさきに想起される。その意味では、コミュニティーとしてのオフィス街が語られることはほとんどないし、郊外住宅地は、コミュニティーの不在、ないしは機能不全、さらには崩壊といったイメージと結びつけられて語られることが多い。
 しかし、村落での共同作業を前提とした農業に従事する農民が日本の「常民」であった時代ならともかく、農村部も含めてこれだけ都市的生活習慣が浸透し、生産活動と消費生活が分離され、男女を問わず俸給生活者こそが「常民」となっている現代に、懐古趣味的な観点からコミュニティーを論じても、あまり意味はない。近隣の人々が、家族の延長のように相互の生活に浸透し、共同作業や相互支援を展開する、というコミュニティーのイメージは、監視と干渉、逸脱への社会的制裁といった否定的要素を後景に回すことで構成された虚構に過ぎない。「かつては人間的な暖かみのあるコミュニティーが存在したが、都市化の進行とともにコミュニティーは崩壊し、地域社会は殺伐とした非人間的な雰囲気の中、社会関係が希薄なまま匿名的に集住する人々から構成されるようになっている、今こそコミュニティーを再建しなければ」といった紋切り型で後ろ向きの理解からは、非現実的で復古主義的な議論しか生まれてこない。
 コミュニティーは崩壊したのではなく、変化しているのである。コミュニティーは、人々がとり結んでゆく人間関係、社会関係の束にほかならない。コミュニティーの変化は、それを構成する人々の関係性の変化によってもたらされるものであり、人間関係のあり方が変化してきた背景には、広い意味でのコミュニケーション行動の変化が深く関わっている。
 二十年ほど前、中野収は、諸々のメディアが発達し、情報端末が家具化して生活空間に浸透していく過程を「情報の環境化」ととらえ、その帰結として生み出される「カプセル型人間」という新たな受け手像を描き出した。メディアを介さない生身のコミュニケーションを避け、孤独に傾斜し、他者と距離を置くことで自我を守りながら、メディアによって他者との連帯を感じとる「カプセル型人間」のモチーフは、その後「おたく」を軸とする諸々の議論へと引き継がれていった。中野の議論は、メディアの発達と普及が人々のコミュニケーション行動に変化を生じさせる筋道を、一つの仮説として論理的に描き出したところに大きな意義があった。
 中野の『現代人の情報行動』(日本放送出版協会、一九八〇年)刊行から二十年を経て、私たちの前には、この間に爆発的な発展を見せた視聴覚機器、通信機器、コンピューターが存在し、情報端末は家具から進んで、携帯する道具や装身具にまでなってきている。その背景には、技術体系間の壁を尽き崩して、大きな流れを作り上げてきたデジタル化の動きがある。そして、この間、人々のコミュニケーション行動は若い世代を中心に大きく変化し続けているし、それに引っ張られる形でコミュニティーのあり方も変化を余儀なくされつつある。

地域社会の再編へ

 「遠い親せきより近くの他人」という言葉が生まれたのは、通信手段や交通手段が、今とは比べものにならないほど貧弱な時代であったはずだ。困難な状況に陥った人は、「近くの他人」と直接コミュニケーションをとって支援を求める以外に、行動の選択肢は乏しかったものと思われる。しかし、現代ならば、「遠くの親せき」の支援を求めることもさほど困難ではないかも知れないし、実際には「ちょっと離れた知人」のネットワークに支援を求めるというのが、現実的な解決策になるかもしれない。
 デジタル化が進展して行けば、情報のやりとりで間に合う相互支援は、どんどん容易になっていく。また、実際に現場にやってきてサービスを行う支援についても、貨幣を支払って解決できるなら問題は生じない。「近くのプロ」にお金で依頼できるのであれば、「近くの他人」に依存する必要はなくなる。電子決済が浸透すれば、この傾向には拍車がかかるだろう。介護という大きな問題が、まさにこうした方向で進んでいることは、改めて述べるまでもない。
 個人のコミュニケーション行動の中で、近隣や地域社会における社交などが占める比重は、マスメディアの発達により圧縮され、さらにはインターネットや携帯電話などデジタル化された諸メディアの普及によって、ますます小さくなっている。地域との関係のみならず、家庭内のコミュニケーションも、メディアの浸透によって変質しつつある。テレビや電話が一家に一台しかなかった時代と現代とでは、状況は当然違っている。個人のコミュニケーション行動に占めるメディアの比重が高まることで、個人間の社会関係の様式は家庭内であれ、地域であれ、必然的に変化していく。
 メディア・コミュニケーションの中でも、従来とさほど変わらないマスメディアへの接触以上に重要なのが、マス・コミュニケーションとパーソナル・コミュニケーションの中間領域を大きく変貌させつつあるデジタル化された諸メディアである。中野が「カプセル型人間」を論じたときに代表的な連帯のメディアとして想定していたのはラジオの深夜放送であった。しかし、デジタル・ネットワークの上では、ウェブサイト、メーリングリスト、掲示板、チャット、そして頻繁な携帯電話での通話やメールのやりとりによって、多様な形態と性格をもった<幻のコミューン>が無数に形成されている。そこでは(デジタル・ディバイドの議論をとりあえず棚上げにすれば)、地理的障壁を含め、従来型のコミュニケーションにとっての障壁のほとんどが超克されている。
 若い世代をはじめ多くの人々にとっては、趣味や関心を軸としたバーチャルなコミュニティーに没入することの方が、地域の社交よりも有益で楽しい。また、常に新しい社交範囲を広げていくことよりも、既に身近な存在である友人たちと、不断に接触を維持する方が安心していられると感じる人々も多い。そうだとすれば、近隣にいることを理由に人々を結びつける在来のコミュニティー原理は、いよいよ衰退せざるを得ない。人々は地域社会から身を引いて、情報端末へと関心の向きを変えていくことになる。
 しかし、どんなに身を引こうとしても、人間は生活行動の基盤としての地域から完全に逃れることはできない。個人の生活の中で、地域社会とのコミュニケーションの比重が激減したとしても、それはゼロにはできない。例えば「ゴミ出しのルール」が、そのギリギリの所に立ち現れる。また、男性に比べ、子供の育児、教育という、生身の経験に根ざした領域を抱え込んでいる女性、特に若い母親たちは、公園デビューからPTAまで、同じ様な立場に置かれた「近くの他人」との関係を構築する努力を余儀なくされる。
 さらに重要なのは、デジタル化されたメディアのネットワークが、特定の地域社会に関心を寄せる人々の<幻のコミューン>を可能にするという点である。他の話題を語る場合と同じように、自分の関心ある地域について意見を表明し、議論する場は、デジタル・ネットワークの成立によって確保しやすくなっている。

新たなコミュニケーションを喚起

 古典としての『ピープルズ・チョイス』(有吉広介監訳、芦書房、一九八七年)にはじまる一連の議論の積み重ねの中で、マスメディア研究は、メディアのメッセージが、個人間の直接コミュニケーションに乗って増幅されることを明らかにしてきた。デジタル・ネットワークもそれ自体が完結するネットワークであること以上に、新たなコミュニケーションを喚起する契機となることが重要なのである。ネットワークにオフ会はつきものだが、ネットワーク上での地域社会への関心から、地域における具体的な生身の実践へと展開する筋道は、今後いよいよ重要になってくる。個人が「近くの他人」ばかりに思える地域社会に踏み出すときは、まず「ネットの知り合い」を作ることが大切になってくるだろう。
 地域に積極的にかかわる姿勢を持った人々が情報を共有できる有力なメディアは、これまではマスメディア的な性格を帯びた地域メディアしか存在していなかった。インターネットに代表されるデジタル化されたメディアのネットワークは、メッセージの送り手と受け手の障壁を取り除き、新しいコミュニケーションの場を成立させていく。人々のコミュニケーション行動が、新たなコミュニティーとしての地域社会を再構築していくとき、デジタル化されたネットワークが重要なインフラストラクチャーとして機能していることは間違いないだろう。
 現状を見る限り、地域に根ざしたメディアとして定着し、成熟してきた地域紙、タウン誌、ケーブルテレビ等々の既存の地域メディアは、一部の例外を除いて、こうしたデジタル化の動きに敏感には反応していない。デジタル化がもたらす個人レベルのコミュニケーション環境の変化をどのように把握し、どのような形で自らの事業に反映させていくかは、大多数の地域メディアにとって、今後の大きな課題である。

(やまだ・はるみち)



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