私は渡辺先生とは、わずか2年間あまり、考えようによっては1年足らずの短いおつきあいでした。しかも、もっぱらキャンパス・セクシュアル・ハラスメントをめぐるネットワークという限られた場面だけで、お話をさせて頂くだけでした。考えてみれば、ご専門のアメリカ文学のお話をゆっくりうかがう機会は、遂にめぐってきませんでした。
ところで、干支で一回り以上も年長の大学教員、しかも故人には、「先生」という敬称が相応しいとは思うのですが、以下の文章を途中まで書いて、どうしても「先生」が馴染まない気がしてしまいました。以下では、敢えて渡辺「さん」で通します。
渡辺さんにはじめてお会いしたのは、1998年1月24日、名古屋で開催されていた日本私大教連の春闘フォーラムの会場でした。フォーラムの内容は、労働法の「改悪」についての勉強会だったように記憶しています。その席に、渡辺さんも聴衆の一人として参加されていました。渡辺さんはその日の夜に行われるという集会のビラを、春闘フォーラムの会場で配っていらっしゃいました。キャンパス・セクシュアル・ハラスメント・全国ネットワークの集会です。
たまたま1997年秋に東京経済大学では学生間のセクシュアル・ハラスメント事件があり、大学は「セクシャル・ハラスメント防止ガイドライン」設定などの取り組みを始めていました。細かいことは忘れてしまいましたが、渡辺さんからビラを受け取った私は、そのことを立ち話ししたように思います。そのときの渡辺さんは、なかなか印象的でした。初対面だったはずなのですが、話し始めるといきなり古い知り合いのような感じでお喋りが進んだのです。渡辺さんの、人なつっこく、情熱的で、どこか夢みるような雰囲気は、最初にお会いしたときから最後まで変わることはありませんでした。
私はその夜の集会に出かけ、以降、全国ネットワークに細々と関わるようになりました。
ちなみに、『女学者丁々発止!』学陽書房(1990年)に渡辺さんが載っていたことに気づいたのはずっと後になってからでした。
渡辺さんは、ある意味では親分肌というか、求心力のあるキャラクターを持った方だったのだと思います。個別に活動していたいくつかの運動体を緩やかに結びつけて全国ネットワークが形成されていく上で、渡辺さんが果たされた役割は重要でした。
私が出会った頃の渡辺さんは、あちこちにキャンパス・セクシュアル・ハラスメントについての講演や討論の場を求め、積極的に動いていました。1998年8月、松江市での日本私大教連の教研集会でもキャンパス・セクシュアル・ハラスメントについて報告をしていただきました。そして、1998年11月には、高松市でシンポジウムの報告者として同席させていただきました。渡辺さんといろいろお話しできた最後の機会でした。
その後、渡辺さんとはお目に掛かった記憶がありません。どこかの集会で同席していたとしても、ほとんどお話しすることもなかったのだと思います。しかし、メールのやりとりは、メーリングリストでも、直接のメールでも続いていました。今、改めて記録を確認して、渡辺さんと直接対面する機会があった時期が、1998年の1年にも満たない期間だけだったことを知り、人との出会い、縁の不思議さを噛みしめています。まだまだ、これから長いおつき合いになるとばかりに思っていました。
あの日、渡辺さんが組合の集会で配っていたチラシを受け取ったことで、私は全国ネットワークにつながりを持ち、いろいろな方々と知り合うことができました。その一事だけでも、渡辺さんには大いに感謝しなければなりません。
ほんの短い間だけのおつき合いだった私に、これだけの恩恵をもたらしてくれた渡辺さんは、もっともっと多くの人たちに、もっともっとたくさんのものを与えてきたはずです。渡辺さんのまわりには、渡辺さんに暖かい敬愛の情を寄せる仲間がたくさん集まっていました。
渡辺さんは病に倒れ、まだ50代半ばで旅立たれました。しかし、良い仲間に恵まれ、存分に仕事をした、幸せな生涯だったのかもしれません。私の記憶にある渡辺さんは、いつも前向きで、良い意味のオプティミストでした。渡辺さんの姿は、私に、そして渡辺さんを知る多くの人たちに、勇気と元気を与えてくれました。これからも渡辺さんは、たくさんの人々の記憶の中で、みんなを励ましてくれることでしょう。
渡辺さん、これからもよろしく。
(2000.12.26.記)
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