私が栄光学園に在籍した1971年から1977年までの間、富田先生は、生活指導部長、副校長として、グスタフ・フォス先生を支えられていました。授業では、確か中学校のときに倫理を、高校では国語を担当していただいたように記憶しています。少なくとも、授業を受ける生徒としての私は、富田先生の授業を楽しみにはしていませんでした。その基盤には、中学校の間に徐々に形成された、キリスト教、特にカトリックの教義に対する反発が、神父である先生方に向かっていたということがあります。もちろん、成績は芳しくありませんでした。
私は結局カトリックの信仰には背を向けて学園を卒業しましたが、私の在校中に家族ぐるみのご縁があり、母や妹は信者となりました。また、家が学校に近かったこともあって、わが家には神父の先生たちがよく散歩がてらに立ち寄られました。富田先生も何度かお出でになりました。
1983年に私と家内が結婚したときには、私たちが二人とも信者ではなかったにもかかわらず、学園の聖堂(現在のものの前にあった旧聖堂)での挙式をお認めいただき、司式をして頂きました。その後も、折りに触れて、いろいろな形でお世話になっておりました。
私が、最初の就職をして松本に単身赴任していた1987年のころ、先生はよく長野まで山歩きにお出でになっていました。たまたま他のお母様方と一緒に、私の母が富田先生に同行した山行きがあったのですが、その少し後に先生は最初の発作でお倒れになりました。先生はその後、リハビリに取り組まれ、半身がご不自由になりながら、ミサに参加されるようになりました。しかし、2000年春、二度目にお倒れになってからは、私はお目にかかる機会をもてませんでした。お見舞いに行った母と妹から、もはや私のような者が伺うべき段階ではないことを知らされたからでした。
信仰の人であった先生は、不信心者の俗人である私とは遠いところにおいでだったように思います。この世においてご縁がありながら、先生の世界観と価値観を私は遂に共有できませんでした。しかし、先生はそれをお許しになっていました。不信心者としては、とりあえずこの世における御厚情にひたすら感謝するのみです。
(2001.01.05.記:2001.01.10.追記)
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