新井直之先生は、1970年代から90年代にかけて、日本のマス・コミュニケーション研究、ジャーナリズム研究を引っ張ってこられた、硬派の論客でした。
山田は、制度上の生徒として先生の教えを受けたことはありませんが、学会の研究会などで先生のお話を聞き、少なからぬものを学びました。先生の主張は、いつも<しっかり芯が通った>印象を与えるものであったと思います。特に80年代以降の先生は、マス・コミュニケーション研究の流れが大きく情報社会論的な傾向に傾いていく中で、ジャーナリズムの意義をしっかりと考え続けた数少ない研究者の一人、というか、代表的な存在だったと思います。後に続く世代は、常に現実の世界を直視しながらクリティカル/批判的であり続けることの意義を、先生の実践を通じて学びとるべきなのでしょう。
一つだけ、個人的な思い出を記しておきます。
学会でご挨拶をする程度のおつき合いがあってからしばらくして、大学院の博士課程にいた80年代半ばに、はじめて新井先生とゆっくり話す機会がありました。「お願い事があるのですが」と手紙を出したところ、お電話を頂き、ご自宅に伺うことになりました。久我山のお宅にお邪魔したのは、この時が最初で最後でした。
今思えば、「お願い事」はずいぶんと的外れであったようにも思います。当時、先生は創価大学にお勤めでした。その頃、日刊紙に準じた大規模な機関紙のことを(研究、ではなく)勉強していた私は、「『聖教新聞』に聞き取り調査をしたいので、取り次いでいただけないでしょうか」と先生にお願いしたのです。先生は、「紹介はするけれど、私を通さなくても同じだよ」といったことをおっしゃっていたように思います。そして、いろいろな話題で雑談をし、結果的には午後の随分と長い時間を割いていただきました。私がそれ以前に増して、先生のファンになったことはいうまでもありません。
後になって振り返れば、既に先生は創価大学の中での居心地が随分悪くなっていた時期であったはずです。無邪気な大学院生であったと、己を恥じるよりほかありません。先生のゼミ生だった方から、当時の状況を伺ったのは、ずっと後になってからでした。
ふと気づけば、先生の訃報を知らせてくれたI君は、あの頃の私と同じ年回りです。新井先生の眼に映った当時の私は、I君のように無邪気で元気者の大学院生だったのでしょう。何も判っていない駆け出しの私に丁寧につきあっていただき、その後も折に触れて声を掛けていただいた先生の学恩に、ただただ感謝するのみです。
どうか先生、安らかにお休み下さい。
(1999.05.14.記)
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