私的ページ:山田晴通
韓国の旅〜組合学校の前と後
掲出に際して、個人名のうち、職員の方のお名前は伏せることにしました。
東経大教職組機関紙「輪」原稿(2007)
韓国の旅〜組合学校の前と後
山田晴通
今回の組合学校自体のことは、別の方の寄稿でも詳しく書かれると思うので、少し視点を変え、それ以前のこと、その後のことも含めて、文を綴ることにしたい。
組合学校がソウルを中心とした韓国旅行に決まった直後から、是非参加したいと思っていた。理由は単純だ。橋谷先生のような専門家や、●●さんのような若い韓国通の方に、普通の観光旅行や、いつも自分がやっている行き当たりばったりの旅では経験できないような、一歩先へ踏み込んだソウルを案内してもらえると思ったからである。
私の初渡韓は一九八三年、全斗煥大統領の時代だった。金浦空港へ降り立ち、入国手続きの際に東大の某先生から託されたソウル大の先生への寄贈品の本の表題に「共産主義」の文字があったことが引っかかって足止めを食った。ソウルの街頭には、今よりも多く軍服の姿を見かけたし、店や事務所に入ると、大統領の肖像写真が額入りで飾られていた。数通の紹介状を頼りに、ソウル大や大邱の慶北大を訪れ、事前に宿も手配せずに、ソウル、仁川、大邱、釜山、馬山などを回って、大学や新聞社に飛び込んだ。板門店にも行った。ろくに言葉もできないのに、良くやったものだ。帰路のノースウェスト機で、買い込んだ古書類が重すぎて超過手荷物料金をしこたま取られたことも、今では良い思い出だ。
以来、一昨年まで、学会などで合わせて八回、韓国を訪れた。今回は、九回目の訪韓になる。二十年以上の時が流れる間に、ソウルは訪れるたびに大胆に姿を変え、国立博物館だった旧朝鮮総督府は完全に解体され、高速道路になっていた清渓路は河川の流れが復活した。この間、私も少しずつ各地を歩き、慶州、光州、済州島を訪れ、江原道の農村にも足を伸ばした。もっとも、不勉強の報いで、今も韓国語はさっぱり分からないままだ。
これまでの私の韓国旅行は、単独か、自分より韓国を知らない家族や身内を引き連れての旅だった。それはそれで良いのだが、一参加者として大船に乗った気で気楽になれる団体旅行には、それとはまた別の魅力がある。今回の渡韓では、連れあいと二人で大阪から船で釜山へ渡り、高速バスでソウルに移動して、金浦空港で他の参加者一行と合流したのだが、現地で合流してからホテルで帰国する一行を見送ったときまでは、ふだんの海外旅行とは違う気分を大いに楽しんだ。
組合学校の団体行動の間の食生活は、これまでの韓国の旅の中でも最も贅沢だった。また、最初の訪韓以来二十四年ぶりに訪れた水原城や韓国民俗村は実に懐かしく、一観光客として素直に楽しむことができた。景福宮や水原でのガイドの金さんの解説も丁寧だったし、培材大の林[イム]先生の車中講義も随分勉強になった。橋谷先生の随所での解説もありがたかったし、自由行動で●●さんたちと出かけた「占い師村」も貴重な経験だった。
今回の企画は、単なる建前としてではなく「組合学校=学習の機会」という観点から見ても、なかなか充実していたと思う。日韓の歴史的な関係、日本の帝国主義的植民地支配の歴史は、日常的な生活の場面に見える景観の中にも、様々な影を落としている。歴史教育を通じて経験を語り継ぎ、国民性の一部に組み込んでいる韓国人の意識と、過去にはなかなか目を向けない平均的な日本人の意識のギャップはかなり深刻だ。今回の組合学校の参加者は、日韓の文化的な近さと遠さを、様々な場面で、様々な形で実感できたのではないだろうか。それには、事前の学習と、現地における橋谷先生をはじめとする方々の適切なガイダンスが、役に立ったように思う。
団体行動中滞在していたキャピタル・ホテルで帰国する一行を見送った後、連れあいと二人になってからは、定宿にしている仁寺洞の安宿に移り、ソウルにさらに二泊した。さらに夜行バスで釜山に戻り、釜山に一泊し、船で大阪に戻るまで、ソウルや釜山の市場で買い物し、古書店で資料を買い込む旅になった。帰国時の荷物は、飛行機なら確実に超過料金を取られそうなほど、はち切れていた。よい旅をしたと思う。
(追記:今回の旅の日記をネット上で公開しています。「まるっきりの観光旅行」をキーワードにして検索してみてください。)
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