1995.5.10 発行
※6、劇団どくんご寄稿(松本健太) は、手書き原稿のためホームページ上には載せていません。 尚、ご覧になりたい方は放射性れんこんVol.19をご覧ください。
1、はじめに
地獄をもたらした杉花粉も消え、新緑の風かおる5月、みなさまいかがおすごしでしょうか。私は、窓を全開にして、スルメイカをかじりながらボーッとすごしていると、もう他には何もいらない思いです。
ちなみに日本人が食する水産物の中で、圧倒的に多いものがイカで、これほど日本全国いたるところで愛されている食べ物もないそうです。その割には、イカはタコほど強い自己主張もなく、エビのように熱帯地域のマングローブ破壊の原因となるような罪深さもありません。縁の下の力持ち的存在で日本人の食生活を支えてくれているようです。
結局このイカ的実体こそが鍵なんであります。そういうものがない団体、組織、宗教、等々は衰退あるのみです。(社会党なんて、「イカ」を次々捨ててしまったのだから、ああなって当然です。)
「イカ」のない「れんこん」というのも、いかんともしがたいのです。
「『れんこん』にとっての『イカ』、それは『れんこんプロジェクト』ではなかったのか!」
とおっしゃるあなた。
よくぞ覚えていてくださいました。「れんこんプロジェクト」というのが、「れんこん」にはあったのです。
2、れんこんプロジェクトって何?
放射性れんこん創刊号は、今から4年半前に出たのですが、すでにそこで「れんこんプロジェクト」のことが説明されています。
それもそのはずで、そもそも、れんこんネットは「れんこんプロジェクト」から生まれて来たネットなのでした。
「ガイガーカウター付きモデムを配布して、その放射線データ自動集計して原発事故を監視していこう」というのがそもそも「れんこんプロジェクト」の出発点としてあったわけです。そして、その「ガイガーカウター付きモデム」を「れんこん」と名付け、「RENCON」という文字を当てて、「Radioactive Emergency Never Closed On Network」という意味にとらせることにしました。
「測定結果を自動通報するパソコン通信ネットは当然自分達の自前のネットでなければならないだろう」というところから生まれたのが「れんこんネット」でした。
そういう意味で、出発当初から運動的色彩を持っていた「れんこんネット」に、パソコン通信独特のおしゃべりの世界が融合して、そこに従来にはない新しい世界ができてくることに私達は大いに期待していたわけです。
ところが、肝心のガイガーカウター付きモデム「れんこん」が、最初に5台ばかり出荷したものの少しもデータが自動通報されて来ず、作り直しを迫られている状態のままズルズルと4年以上も過ぎて、今日に至ってしまったわけです。
昔を知っている多くの人達は、あのプロジェクトはすでに完全に挫折したと思ってしまったことでしょう。また、最近「れんこんネット」に入った人は、そもそも「れんこんプロジェクト」とは何なのかということを一切知らないままでいることでしょう。
そして、ガイガーカウター付きモデムは忘れ去られて、単に「れんこん」と言えばパソコン通信の「れんこんネット」のことを指すようになってしまいました。
3、「イカレン」登場
この死にかかっていた「れんこんプロジェクト」が今年になって突如として復活して来ました。新たに「イカレン」という名前を付けられたガイガーカウター付きモデムが、レジN&OZAによって製作されたのです。
さる3月18日の「れんこんネット大パーチィー」においてスライドを使って大々的に発表されたこの「イカレン」はすでに4ヵ所に設置が完了して放射線データの通報を開始しています。
「イカレン」とは、冒頭に書きました「れんこん」にとっての「イカ」ということなんですが、他にもいろいろと由来があってつけられている名前です。
中国・四国地方に行くと、「イカレン」と言うと、「行ったらダメ」という意味になります。「イカレン」には「原子力社会に行ったらダメ」という意味も込められているのです。
「イカレン」を作るにあたっては数十万円の開発費が必要となりました。今まで長い間「れんこんプロジェクト」が復活できなかったのも、この金銭的な面をどうするのかという問題があったわけです。しかし、まぁー、あきらめずにじっと時期を待てばチャンスというのは到来するものでして、この度うまくそのチャンスの船に乗ることができて「イカレン」を製作できました。詳しい事情は、ちょっとここには書けないのですが、まぁー要するに、「大阪に出張するついでに大阪の友達の家を訪ねれば、大阪の友達の家に行く交通費は浮く」というような感じだと思っていただければいいかと思います。
4、「イカレン」の機能
「イカレン」は120mm(巾) × 40mm(高さ) × 85mm(奥行)の小さな箱に1200bpsのモデムとガイガーカウンタが入っています。そして、さらにそれが自動的に「れんこんネット」に放射線データを通報するようにプログラムされています。
上の図のように、今まで家で使っていた電話線の途中に挟むように「イカレン」を設置してもらって、後は電源をいれて置いておくだけ、それだけで後は何もしなくても日々放射線データを測定して、「れんこんネット」に通報してくれます。
ガイガーカウンタというと、計測プローブのようなものを放射能を帯びた物質に近づけるとビビビビと鳴ってメータが振れるというようなイメージのものを考えられる方が多いことと思います。
「イカレン」には、計測プローブやメータのようなものは一切ありません。ガイガーミュラー管という計測用のセンサーは小型のものが内蔵されています。放射線を検知する度に「ピッ」という音は出してくれますが計測データは内蔵のマイコンによって処理されて内部に蓄積されています。
「イカレン」は特定の物質が出す放射線を測定するということよりも、ある地点の日々の放射線レベルを監視することを目的にしています。ですから「ちょいとプローブを近づけて放射線レベルを測定するというような事はできなくてもいい」という考えで作っています。
ある場所に「イカレン」を設置したら、そこでずっと電源を入れっぱなしにしておいてもらいます。(電力の消費はほんのわずかです。)それだけで、その地点の放射線レベルが劇的に増えることがないかどうかを「れんこんネット」を通して知ることができます。
「イカレン」から「れんこんネット」への通報は、緊急通報、定期通報の2種類があります。日々の測定データは「れんこんネット」上に定期通報のデータとして送られます。異常なレベルの放射線データを検知した時は、直ちに緊急通報データが「れんこんネット」に送られます。「れんこんネット」上では大勢の人達が毎日ネット上のデータを見ていますから、すぐに「何かがあった!」という事がその人達に伝わります。設置者の連絡先がわかっていれば、すぐに電話をかけて何が起こったのかを確認することができるはずです。
パソコンを持っていて通信ソフトを使える人は、パソコンと「イカレン」を付属のケーブルを使って接続することによって、「イカレン」が内部に蓄積しているデータをパソコン上で参照することができます。
5、「れんこんプロジェクト」で情報の作り手に
社会の情報化とネットワーク化は、私達に自宅にいながらにして様々な情報を入手させてくれることを可能にしつつあるようです。しかし、その一方で、情報を引き出すことに疲れ、一種のむなしささえも覚えて来ます。
「インターネットで誰もがワールドワイドに情報を送れる時代に・・・」と言われて、何かマスメディアからの決別が叫ばれていますが、企業の中の情報エリートと一般大衆が差別化されているだけのように感じてしまいます。
そもそも、普通の人は電子メディアに乗せるべきデータというものをさほど持っているものではありません。
そんな中で「れんこんプロジェクト」は、「イカレン」を購入して設置するだけで、情報の作り手になる機会を与えることができます。官公庁や大企業の提供する情報の中で泳ぐしかないようなネットワーク化の進行の中で、こういう試みはけっこう重要なことではないかという気がします。
「イカレン」で測定した放射線データを「れんこんネット」上に集結させていくことにいかほどの意味があるというのか、仮にそれで原発事故を早期に知り得たとしてもそれで何ができるというのか、そういうような問いに対して一つ一つ明解な解答が出せるわけではないのですが、世の中「行け行けどんどん」で進んでいるネットワーク化とはちょっと違ったことを試みている意義は大きいでしょう。
「れんこんネット」の様な草の根ネットと言われるパソコン通信ネットが、巨大ネットワークの末端機構に成り果てないようにするためには、この「情報の作り手に回るための敷居の低さ」みたいなものを延ばしていかないと駄目なんだろうと思います。
そういう意味で、「イカレン」は開発するにも金がかかったし、設置するにもそれなりに金がかかるからまだまだだなぁー、という気がします。官制のネットワークをひっくり返して行くには、もっともっと誰もが情報の作り手になれる活動が必要なのだろうと思います。
「れんこんプロジェクト」がやっとスタートしたということが、できたら第2、第3の「れんこんプロジェクト」が生まれ出る土壌作りにスタートしたということにつながればいいと、そんなことを私は考えています。
6、「イカレン」を買って下さい
「イカレン」は、株式会社シリ(れんこんネット八王子のホストを置かせてもらっている会社)で代理販売します。販売後のサポートも株式会社シリで行ってもらいます。
いろんなところに設置してもらって、たくさんのデータが集まるようにしていきたいと思っていますので、是非購入をご検討下さい。
価格は1台
30,000円(消費税、送料別)
となっています。
昔の「れんこん」を購入された方は、本体を返却していただければ20,000円で「イカレン」にアップグレードさせてもらいます。
購入の申し込みは、次の内容を記入して、郵送またはFAXで送って下さい。折り返し納期、振込指定口座等の連絡が行きます。
・住所
・氏名
・電話番号
・設置場所
・接続する電話回線の種類(トーンダイヤル / パルスダイヤル のどちらか)
・れんこんネットのIDを持っている場合、れんこんネットのID
・その他希望すること
申し込み書送り先
東京都八王子市子安町4-20-8森田ビル3F
株式会社シリ 「イカレン」係
TEL 0426-20-7720 FAX 0426-20-7719
さらに詳しい内容を知りたい方は、連絡していただければ「イカレン取り扱い説明書」をお送りします。
大変長らくお待たせしました。「イカレン」の登場でこのコーナーが復活することが出来ました。
イカレンがこれまでにれんこんネットに通報してきたデータを、簡単に分析してみたいと思います(本当に簡単ですが)。
95年5月1日現在で集められた、各地の正式な観測データは以下の通りです。
東京都八王子市上野町レジN邸 95年2月27日から 1,485
東京都八王子市北野駅付近 95年3月06日から 1,314
東京都八王子市(株)シリ 95年3月27日から 662
埼玉県浦和市常盤 95年3月26日から 840
三重県度会郡度会町注連指 95年4月01日から 246
(後ろの数字は、観測できたデータの総数です)
三重県のデータは、誤ってコンセントを外してしまったまましばらく気がつかなかったために、観測できなかった期間があるので、データが少なくなっています。
イカレンは以下のようなデータを、決められたある時間にれんこんネットに電話をして、観測したデータをれんこんネットに自動的に報告します。
★★ れんこんデータルーム ★★
れんこん放射能情報 定期通報
八王子市上野町レジN邸 95年04月16日
0時 1時 2時 3時 4時 5時 6時 7時 8時 9時 10時 11時
AM 158 132 125 136 121 130 150 130 120 126 114 105
PM 129 110 119 109 133 111 126 125 119 128 120 136
(ここでは、実際にれんこんネットに報告されたデータを、手で加工しています)
この値は、イカレンが観測した放射線の数を一時間ごとに並べたものです。私達が普通に暮らしている状態で観測される放射線をあらわしていると考えて下さい。当然、チェルノブイリ級の原発事故が発生しようものならば、全体の値が目にみえて値が上昇するはずです。また、観測データが実際に原子力発電所に近い場所ならば、冷却水漏れなどの原発事故も、電力会社の報告より事前に知る事ができるかもしれません。
さて、この中での最低値は、AM11:00の105、最高値はAM3:00とPM11:00のの136となっています。ばらつきがだいぶありますね。
このように集められた、'95年2月28日〜'95年4月19日の間に観測された1,485個のデータを、まず何も考えずにこのままグラフにしてみましょう。縦軸が観測値、横軸が時間です。すると・・・
予想したとおり、値の大小の差が激しいために、何が起こっているのかさっぱり分かりません。
単純グラフにしてみただけだと、何が起こっているのかあまり良く分からないことがわかりました。これはある程度データを加工して見る必要がありそうです。
さて、どのように目にみえるかたちにしたら良いでしょうか?
この値、一見ばらばらですが、原則的に設置場所を同じところに置きっぱなしにしておけば、ある一定の平均値を中心に値が出て来るはずなのです。ですから、どの値がどれくらいの回数観測されたかをグラフにしてみるとよさそうです。
例えば、
というようになります。これは、横軸が観測したデータ、縦軸が観測された回数となっています。横軸は、「80〜83の観測データが2個、84〜87の観測データが0個・・・」と、いったようになっています。観測したデータが約二ヶ月間で1,485個のデータと数が多いために、きれいなグラフになっています。同じ観測データでも、まだ246個の観測データしかない三重県のデータで同じグラフを描くと、
と、あまりきれいな山型はできずに、頂上の3つある山の形になっています。
では、他の観測地についてのグラフもここで紹介してみましょう。
このグラフを見ると気がつくことがあります。なだらかなこの山の頂上の横軸の位置が観測地によって違うということです。現在イカレンは八王子に3個設置されていますが、それぞれ距離的には数キロメートル程度しか離れていない場所に設置されています。それでもこれだけの違いが出るということは、どういった意味があるのでしょうか?
通常観測される自然放射能は、宇宙から地球に降り注ぐ宇宙線を示しますが、身の回りのものにも微量な放射線を出すものがあり、それからも放射線が観測されます。陶器の上薬に鉛やカリウムの放射性同位元素が含まれているためのようです。蛍光塗料も放射性同位体を微量に持っていると聞いたことがあるので、こういったもののそばだと平均値が上昇する可能性があります。また、建築材料の中にもラドンやトリウムなどの放射性同位体が含まれているようなので、建物によっても値が変化するのでしょう。試しに、トイレの便器の脇に十日ほど観測したところ、20〜30程平均値が上がったという観測結果があります。
このように、設置場所の環境によって観測値が変化するので、ある程度観測データをためておき、平均観測値を把握しておき、そこから大きく外れたときには、「何かがある」と言えるでしょう。また、観測データの信頼性についても、比較的同じ地域の数台のイカレンが同時に値が上昇したときには、もう疑いようもありません。
イカレンの特徴として、「24時間休まずに連続して観測する」ということがあります。そして、設置場所・イカレン自体の固体差による観測値のバラつきを把握してさえおけば、かなり信頼できるデータを得ることができるはずです。
今回は、それ程多くのデータがまだ集まっていない段階なので、イカレンがとのようなデータを観測しているかという程度の報告になってしまいました。更に観測値が増えれば、もっといろいろな方向から検討できるでしょう。また、私自身あまり統計の知識が無いのでたいしたことも書けませんでしたが、統計の知識があればさらに面白い結果が得られるかもしれません・・・(と、次の人にふっておこう)。
1.ハノイ篇
ハノイの街はテレビで見た中国のような風景だった。ホンダ、スズキ、ヤマハのバイクの波、自転車、人をかきわけながら、私たちをのせたトヨタワゴンはハノイ市中心部へ進む。ワゴンの終着点であるベトナム航空国際線オフィスはハノイの日本人街中心部にあり、そばにはホァンキエム湖という湖がある。市街地のどまん中にあるこの湖のまわりには散歩をする市民も多く、どんよりと曇った空の下、旧宗主国であるフランスを思わせる建築が並ぶ通りは、アジア的というより東欧の街にいるような印象を与えてくれる。私たちがその夜泊まったホテルも、香港あたりの裏道にでもありそうな雰囲気のホテルだった。
ベトナムは社会主義国であるが、とくにそのことが街に如実に表れているわけでもない。しかし制服の役人の数が多いことは確かで、信号のある交差点では警官が必ずといっていいほどいるし、軍服を着ている人も多い。また、役人でなくともサファリ帽やシャツ、ズボンなどにカーキ色のものがたくさんあるので、街の印象はどちらかといえば地味である。ガイドブックではこのことについて、社会主義体制が長く続いていること、中越紛争の影響を挙げている。
しかし、1987年からのドイモイ(刷新政策)の成果は着実に表れているようで、手直しされたビルなどが増えているというし、工事中のビルもかなり多い。ただし、きれいになっているのは例えば、外国人相手のホテルであったり、外資系企業のオフィスであったりするので、真にベトナム人民にドイモイの成果がもたらされるには、もう少し時間がかかるのではないかという気がした。
先号のれんこん(本誌)でレジスターN氏が紹介しているように、ベトナムの物価は日本に比べて大変安い。フォーと呼ばれるベトナム式うどんは4〜5000ドン(50円)、シクロ(自転車のような3輪タクシー)は1km走って3000ドン(30円)といった所である。また、濃厚な味のベトナム式コーヒーは2〜3000ドンである。ただし外国人向けにできているものは別で、ホテルは安い所でもツインルームで$10以下のものはほとんどない。また、外国人が多く利用するレストランも一人$5以上である。$5といっても500円だから、安く感じるかもしれないが、労働者の年収が$400〜$500程度のこの国では決して安くはない。いったいホンダやスズキのバイクを買う人たちの財布はどのようになっているのかと思う。
ハノイの街は政治都市らしく、いくつもの博物館や記念碑的なものがある。その最たるものは、やはりホーチミン廟であろうか。1969年に亡くなったホーチミン師はベトナム人民の英雄であり、200,500,1000,2000,5000,10000,20000,50000というすべての紙幣の肖像にもなっている。ホーチミン廟はハノイの市街地から少しの所にあり、廟の前はベトナムの独立宣言が行なわれたところ。私たちはハノイに来て4日目の朝にここを訪れた。廟には欧米からの観光客から修学旅行のような子どもたちの一行までいたが、少し違うのは国家的シンボルという緊張感か。参拝客は衛兵の誘導に従って廟の中を立ち止まることなく話すこともなく通り過ぎる。暗い部屋の中でスポットライトを浴びてホーチミンは静かに眠っていた。
シクロは便利な乗物だが私たちには使いこなすのがやや難しい側面もあるようだ。その1は料金交渉である。ガイドブックには米1kgの値段でシクロ1kmという説明があったが、ハノイの米相場は1kgが3600ドン〜6400ドンで、シクロは1kmが3〜4000ドンということになる。ただし、私たちは基本的には値切りまくったので、3〜4km走って$1というかわいそうな運ちゃんもいた。
その2は地理について。ハノイの道は一方通行が多く少し離れた所から中心部へ行った時に慣れない運ちゃんが一方通行を逆走、警察につかまる一幕があった。私たちは約束どおりの額を払い、その場を離れたが、彼はもう街の中心部へは入らないに違いない。
その3、運ちゃんは若いやつをつかまえる。一度1km位を5000ドンという額で少し年寄りの運ちゃんに頼んだ。彼は調子よく引き受けてくれたのだが、こちらは大人2人で乗っているものだから、なかなか重い。少し走ると彼は息をはずませ、数百メートルでついに自転車を降り、歩いてシクロをこぎ始めた。それもなんだかかわいそうなので、私たちは7〜800メートル移動しただけでシクロを止め、約束通りのドンを支払った。しかしこれが彼のプライドを傷つけてしまったようで、彼は5000ドンを受け取ってくれない。結局頼み込んで5000ドンを受け取らせたが、なんとも後味の悪い経験になった。全くむずかしいものだが、シクロで移動するのはとても気持ちよく、ゆったりと流れていく街並の落ちつきにふさわしく思えた。
2.統一鉄道篇
S3列車は定刻の10時41分、フエ駅にやってきた。ハノイを昨日の夕刻17時40分に発った列車は、夜行列車特有の人々のけだるさを乗せて、ゆっくりと走り出す。サイゴンまで1000km余りを25時間かけての旅が、いま始まった。5号車16番のハードベッドが私の城となる。ハードベッドというのは木の柵にゴザを敷いたもので、マクラと毛布がついている。運賃は605,000ドンと高いが、これは外国人料金のためで、ベトナム人の場合は1/2から1/3程度であろう。
発車するとすぐ昼食となった。11時すぎ、サイゴンまで1000km。先は長いのだ。外国人料金には文句がなくもないが、食事が違っているので恩恵はなくもない。しかし、寝台は3段式を2つずつ向い合わせたコンパートメントで、下段寝台を座席がわりに、皆でテーブルを囲む。1人だけ食事が違うのは、なんとも居心地が悪いような気もする。同行の志は私と同じ列が上段から、おじいさん、私、おばさんの順、向いの列はおニイさん、おばさん、お母さんと赤ちゃんであった。向いの列の中段にいたMrs.ティーは英語の先生で、下段のお母さんは教え子。これからサイゴンまで行くとのことであった。
6人でテーブルを囲んでしまえば、あとは家族同然。外国人メニューについてきたビール「333」で、おじいさんと乾杯だ。しかし、このおじいさんだけはビールがついている。どういうメニューなんだろう?
ベトナム人メニューと外国人メニューは、ごはんとスープが共通である。ただし外国人スープにはニワトリの頭が入っている分、豪華だ。おかずは味付けが異なり、少しずつ交換したところ、ベトナム人メニューの肉は高菜の漬け物を煮たような味であった。外国人メニューの肉は牛の煮付け。生野菜のサラダがついてくる。さらにビスケットが5〜6枚ついていて、これはビールのつまみのようである。このビスケットは皆で分けあって食べたのだが、外国人が他の乗客と仲良くなれるように、こうしたオマケをつけているのなら、ベトナム国鉄の配慮、心ニクイといわねばなるまい。
私の下の寝台のおばさんには娘が2人いて、2人とも流暢な英語を話した。もちろん私の英語はひどいブロークンだが、なんとかコミュニケーションできた。下の娘はリンといい、大学では英語を学んでいるとのことだった。上の娘とはあまり話さなかったが、私がベトナム人は心優しいと言うと、「Yes, but poor.」と答えたのが印象的だった。ドイモイに期待していると彼女は言った。Mrs.ティーも、この国は数年前よりずっと自由になったと言った。そういえばハノイのホテルにも日本企業のビジネスマンたちがたくさんいた。この国が豊かになることに私も異論はない。社会主義のいい面を残しながらの自由化がうまくいけばいいと思う。
列車はとろとろと走る。フエからダナンまでは海ぞいを走り、とても美しい車窓だ。この国にはるばるやって来て戦争をしかけるとは、アメリカはなんて狂った国なんだと思わずにはいられない。14時04分、定刻どおり列車はダナンに着いた。ダナンはベトナム戦争当時、アメリカ軍の基地が置かれたところで、ベトナム中部最大の街。30分ほど停車して、列車は向きを換え出発した。
ダナンから南下する道のりは平坦で風景も単調だ。何の変哲もない水田と畑と林とが現れては消える。しかしリンよ、この「何の変哲もない」風景こそが豊かなのだと思うようになるのだ。リンはホーチミンシティの近くに住んでいて、フエで仕事をしている父と会ってきたそうだ。姉と同じく、ベトナムについて話すと "but poor" と言った。「I believe success of ドイモイ. But success must be done by not only HONDA, TOYOTA, SONY. But your own companies.」私のひどい英語がきちんと伝わったかどうかわからないが、リンは苦笑していた。
列車はとろとろと、それでも着実に南下してゆく。16時、ごはんと肉とスープで夕食。外国人用メニューには、やはりビスケットとジュースが添えられていた。食事のあとですることもないので、外を見たりして席に戻ると、上段のおじいさんがテーブルを指さしてニコニコしている。食事の際は折りたたみ式のテーブルをコンパートメントの上にある柵から出して使うのだが、彼らよりも大柄な私が先ほどテーブルを出し入れしたので、これが「私の仕事」となったようだ。じいちゃんちゃっかりしてるぜ!! でも彼らの輪の中に私が組み込まれた証しでもあり、うれしくてOKした。
6時を過ぎると、もう外は暗く、コンパートメントに1つずつの白熱灯の明りがぼんやりと灯る。風は涼しいが室内はむし暑く、天井の扇風機がむなしく空気をかき回す。Mrs.ティーが話しかけてきてくれた。大学では何を学んでいるの、フエではいくつ王の墓を見たか、日本語はむずかしいetc. 彼女は英語教師らしく、私の英語教育について中学の3年間と高校の3年間だと言うと、"written English" だろうと言いあてた。"Our exam. is very toricky ..." 大学では中国語を学んだと言うと、彼女は、そう、でも中国はあまり好きではないと言った。歴史上、中国のさまざまな国家にほんろうされた経験が彼女の骨にまでしみているのだろう。下手くそな英語でなんとかコミュニケーションし、コンパートメントは静かに揺れている。短いレールの継ぎ音は単調に黙々と流れてゆく。下段の寝台には白熱灯のやわらかな光に照らされてリンが眠っていた。
午前5時45分、各コンパートメントに用意されているお湯を乗務員が交換してくれる。皆、モゾモゾと動き出し、ベトナムの早い朝が始まった。昨夜8時にクイニョンに近いDIEUTRIを出てから3つほど駅に停まったはずだが、ぐっすり眠りこけていて何も覚えていない。それにしても乗務員のおばさんはよく働く。食事の配膳、片付け、朝のふとんの回収... 私たちの車両のおばさんにカメラを向けると、どうしてもダメとのことで、私もしつこく食い下がったが断わられてしまった。男性乗務員は主に運転関係のようだが、きっぷの確認の時しか現れなかった。
朝食のメニューはインスタントらしいヌードル。外国人にはフランスパンも用意されていたが、ヌードルにしてもらった。
午前6時45分ムォンマイ着。チェン(おじいさん)がコンパートメントの扉を閉めた。子どもたちが物乞いに入ってきた。客室乗務員が彼らをせかし、順番に扉の前で手を出すと、彼らは出て行った。しかし私たちは北部ではほとんど物乞いの姿は見なかったので、豊かなはずの南部でのこの光景は意外であった。7時15分、列車は静かに動き出す。サイゴンへ向けてのラストスパートの始まりである。外はプランテーションと低木の林。朝の空気が窓を流れてゆく。
午前10時、乗務員が各コンパートメントの茶器を回収にやってきた。サイゴン到着は11時40分である。南部に入り空気もじっとりと暑い。列車はタイフォンを鳴らしながら、時折村落の中を低速でくぐり抜ける他は、ほぼ一直線に突っ走る。フエから25時間の長旅だが、時間も疲れもあまり感じない。車内は相変わらずのベトナム語の波。車内放送は先ほどからベトナムの演歌が流れているし、Mrs.ティーに「Singing Vietnamese heart ?」ときいたら、そうだと言っていた。11時すぎ、列車は町はずれのサイゴン駅に着いた。
3.HCMC篇
汽笛が長く鳴った。また静かになった。クラクションとホンダのエンジンと隣家の話し声と遠くの工事現場の槌音。夕方の風が窓ガラスに当たって、蚊取り線香の火が明るく光る。隣は玉ねぎを炒めているようだ。天井のファンがまた音を立てている。また汽笛が鳴った。クラクションがうるさくなってきた。
ホーチミン市に来て6日目になる。乾期の今は毎日晴れ。夕方の風も心地よい。きのうはベトナム人の妻を持つというドイツ人と飲みすぎて、午前中は頭がくらくらしていた。が、午後ひと眠りしたのでもう大丈夫だ。気の抜けたコーラがまずい。
フエからの列車でサイゴン入りした時は、なんて汚い街なんだろうと思った。活気があるのは確かだ。ハノイとは比べものにならないくらい、車も新しいし多い。看板も、きれいな店も、街じゅうの建設ラッシュも、経済発展めざましいことがよくわかる。でも、物売りも物乞いも、ハノイではこれほど目立たなかったのではないか?道端でカードを囲む人がそんなに目立ったか?どうも退廃した街というのが私の第一印象だった。
日曜日の夕方、サイゴン川に近い裏道の道端でコーヒーを飲んでいた。お湯が切れていたので、おばちゃんがススで真っ黒のヤカンでわかしている。目の前を少年が竹をたたきながら歩いてゆく。別に物乞いでもないのだが、街のあちこちを少年が竹や木や茶わんをリズミカルにたたきながら歩いてゆくのだ。あれが何なのか意味不明であるが、その音色が好きだ。コーヒーが来た。高さ5〜6cmのガラスの小さなコップに、金属のフィルターから一滴ずつコーヒーが落ちてゆく。砂糖はスプーン山盛り2杯。濃厚な味のベトナム式コーヒーはスプーン1杯くらいの砂糖では飲めないのである。
「アイ!!」またか、と思った。私の汚れた革靴を彼は指さした。無言で首を振るつもりだったが、彼はもう私のそばに座り込んでいる。3週間の旅の間、時々拭いているだけの私の靴は靴墨もはげ落ちて無惨な姿だった。サイゴンに来てからもう何度も靴みがきの少年たちが嬉々として近づいてきた。これだけ汚れていればOKするに違いないと思われているのだろう。「バオニュウ(いくら)?」人の良さそうな笑顔に訊ねると、「ナムギン」との答えだった。外国人とみるとすぐ「ワンダラー」と言われるのが少しシャクだったので、5000ドン(0.5$)という彼の答えに素直にOKした。
そういえば、東京では靴みがきはいくらぐらいなのだろう。そもそも靴など磨いてもらうような身分でもないので、その辺のところはよくわからない。靴みがきをしてもらうのは初めてで私には新鮮な体験でもあった。彼は自分がはいていたサンダルを私に与え靴を脱がせる。彼ははだしでしゃがみ込み口笛を吹きながら歯ブラシで靴墨を塗りつける。靴の中に手を入れて、布で靴墨をのばす。仕上げに両ひざで靴をはさみ両手で長い布をキュッキュッと鳴らしながら磨きをかける。私の靴は嘘みたいにぴかぴかになる。
同行のコウジ君のぶんと合わせ彼に1ドル札を渡しながら英語とベトナム語で名前を聞いてみたが、私の発音が悪いらしく笑って握手することしかできなかった。1ドルは相場を考えると高い筈である。うれしそうに彼は去っていった。たぶん私とたいして年の変わらないであろう彼は激変するこの国の経済の中でいったいどのように生きてゆくのだろう。
私はたまたま非常な豊かさの中にある日本に生まれ、16年もの教育を受けた。英語もろくにしゃべれずに列車の中やバーで飲んだ欧米人たちにしてみれば、日本の学生はいったいどのような教育を受けているのかと思うことだろう。また英語を基準にした能力評価でも、日本人が例えば他のアジアの中で抜きんでているとも思えない。勤勉な国民性というものも、まず仕事にありつけてこそ成り立つものではないか。日本の経済成長の原動力にしても朝鮮特需などの外在的なものが要因だったではないか。
けれども日本の繁栄を否定してみたところで、例えばアジアの繁栄にそれが直結するわけでもない。もちろん経済的な条件の公平性やシェアリングは考えなければならないが、あの靴みがきの彼も、ベトナムの経済も、ぜひのし上がってほしいと思う。周囲の条件も時代も全く違うが、50年前の日本で靴みがきからのし上がった元少年たちがたくさんいたはずなのだから。いま、物質的には豊かになった日本が、彼らのお手本になるかどうかはわからないけど、彼らは彼らの流儀で必ずのし上がるだろう。握手をした手の力強さに、そんなことを思った。
芦浜に漁業権を持つ古和浦・錦両漁協が海洋調査受け入れを可決し、原発が迫ってきた状況ですが、南島町は3月の町議会で「原発建設に伴う環境調査の是非を住民に問う町民投票条例」を制定しました。「環境調査を実施するには町民投票を行い有効投票数の3分の2以上の賛成が必要」という内容で、全国で初めての条例です。さらに、一昨年(93年)2月に制定された原発建設の賛否を問う町民投票条例についても、現行の「原発建設には過半数の賛成が必要」から「3分の2以上の賛成が必要」に変える1部改正案を可決しました。
法的には中電は事前に通知するだけで町の同意は必要なく環境調査を行うことが出来ることになっています。しかし「地元住民の理解を得て」という大義名分がある以上、条例への対応を苦慮することになるのは間違いありません。原発建設計画に対する強力な防波堤ができました。
4月9日、三重県知事選挙が行われました。三重県南部では圧倒的に元副知事の尾崎候補、北部では圧倒的に元新進党代議士の北川候補の支持が多かったのでこの知事選は南北戦争と呼ばれました。おおざっぱに三重県南部は農業・漁業地帯、北部は商工業地帯と言ってよく、原発に関しては、南部では反対色、北部は推進色が濃い傾向です。尾崎さんは票集めのため「南島町が反対する限り芦浜に原発は立てさせない」と口約束をしたので南島町は尾崎さんを押していました。
選挙は開票率97%になるまでどちらが当選するか分からない伯仲した大接戦でしたが、結果は北川氏の勝利でした。
北川さんは公約の中で「三重新幹線構想」を唱えているし、新進党の推薦を受け小沢幹事長が応援に来ているし、田中角栄みたいな人かなと思える怖いところがあります。田川県政・官僚主義に毒されない新鮮さはありますが。
4月も中旬に入り、芦浜では地面のあちこちにスミレ、タンポポなど小さな春の花が咲き、モンシロチョウなど可愛い蝶がひらひら舞ってほのぼのとしています。ハマエンドウやカラタチの花もそろそろ咲き始めています。
浜辺にびっしり生えているハマゴウは、今はまだ枯れ枝のような姿で、全体に殺風景です。芦浜池をぐるりと囲むハマナツメの群落もまだトゲだらけの白い幹のままですが、よく見るとトゲの間にところどころ小さな新芽が顔を出しています。
芦浜のハマナツメは池の周囲を中心に約1000本あり、芦浜を歩いていると当たり前のように目に入るのですが、実は限られた場所にしかない希少植物なのです。
ハマナツメはクロウメモドキ科の落葉低木ですが、暖かい地方の海跡湖周辺にしか生えないという棲息条件の限られた植物で、その群落は三重県内に数か所、日本全国でも十数か所にしか残っていません。国外では台湾や中国南部に分布していますが開発や埋立のため全滅した地域もあります。ハマナツメの棲息の北限は南島町の塩竃浜(芦浜より少し北にある)で、塩竃浜のハマナツメ群落は県の天然記念物に指定されています。
芦浜のハマナツメも、天然記念物級の貴重なものであるわけですが、原発建設予定地となってしまっている今危機にさらされています。ハマナツメが保護の必要な貴重な植物であることを指摘された中部電力は、昨年の5月頃、池の周辺7か所に「ハマナツメ増殖試験地」なるものを設けました。株分けしたハマナツメの苗を移植して育つかどうかという実験ですが、1年後の今、どうやら根づいているようです。これで、中部電力は「ハマナツメの移植実験は成功した。貴重な植物は守った。」というわけでしょうが、何万年もかけてできた自然を再現できるわけがありません。
4月下旬からいっせいに植物の新芽が吹き出し芦浜は燃えるような新緑に包まれていきます。ことにハマナツメの新緑は目に鮮やかです。日に日に緑が成長していくそのスピードたるやすさまじいものです。5月初中旬は新緑の美しさやツツジの花の鮮やかさもさることながら、いも虫が多いことにびっくりします。どこを歩いていても目前にスーっと糸が下がってきて、いも虫君が顔面すぐ前でブランブラン踊っているのです。うっかりしていると顔にペタンとつくし、いつの間にか背中や肩をうようよはっています。いも虫君達は5月下旬にはまったくいなくなるのですがそれは華麗なる変身と言っていいでしょう。
5月下旬の芦浜は蝶の乱舞する南国の楽園です。紀伊半島南部の特徴だそうですが、黒アゲハの類が多く、輝く新緑の茂みの中を大きな黒いアゲハ蝶がひらりとひらりといくつも通り過ぎていく様は幻想的でもあります。
芦浜でもっとも多く見られる蝶は本州最大級の大きさを誇るモンキアゲハです。この蝶は大きな黒い羽の白い紋が特徴で、「紋付きアゲハ」がなまって「モンキアゲハ」になったのかな?と想像します。モンキアゲハの他、ジャコウアゲハ、クロアゲハ、カラスアゲハなどの蝶はいたるところに沢山飛んでいます。他アサギマダラ、スミナガシなどとにかく蝶はいっぱいいるのなんのって、芦浜は正に蝶の天国です。南国育ちのイシガケチョウやツマグロヒョウモンなど、関東地方では見ることのできない蝶もいます。
5月下旬から大輪の黄色いハンカイソウの花が咲き始めますが、この目立つ花は夏中芦浜のいたる所で見られ、蝶が次々と蜜を吸いに集まってきます。最も典型的な芦浜の風物は何?と聞かれたら私は「ハマナツメの下でハンカイソウに集まるモンキアゲハ」と答えるでしょう。
そして、5月中旬から9月にかけてアカウミガメが産卵のため芦浜に上陸します。次回は夏の芦浜です。
あなたは、熱帯魚というものをご覧になったことがありますか?
きれいなものやらおもしろい動きのもの、はたまたちょっとおっかないものまで、いろんな魚がおられるのですよ。
私ももちろん飼っているわけですが、水槽を買ったのはほとんど突発的にして無計画、かつエコロジカルなことからでした(意味不明)。我が家にはもう1つ水槽があります。一応弟の所有物ですが、やつはろくに世話もしてない模様です。そこに私はとってもラヴリーなオトシンクルスという魚を入れることを試みたわけです。これは、彼氏の家の水槽で発見し、熱烈にほれてしまった魚なのですが、普通の人は苔取り用に入れているものです。さて、その後わが家のオトシンクルスちゃんがどうなったかと言うと、他界しました・・。嗚呼何という悲劇でしょう。弟の水槽はあまりにも環境が悪く、彼らは生きのびることができなかったのです。そこで私は、「お前のかたきは打ってやる!」などとわけの分からんことを思いつつ、水槽購入に踏み切ったわけでした。
さて、まあ買ったはいいのですが、いろいろうまくいかないこともございます。苔があまりにも生えるので苔取り剤を入れたらそれもろとも苔に飲まれたり、巻き貝が勝手に大量発生したり、かと思えば事故で魚が全滅の危機に陥ったりと、様々な苦労もございます。しかしやっぱり魚はかわいいです。猫の方がかわいいですが。ちなみにどっちも飼ってます。
ところで、熱帯魚とパソコンは少々共通するところがあるようです。どちらも男の所有者の方が圧倒的に多いのです。パソコン屋も熱帯魚屋も、若い娘はほとんどいないでしょう。パソコンを持っている人は熱帯魚好きが多い気もします。パソコン通信で熱帯魚の話題がよく交わされていることからの推測ですが。パソコンゲームで、熱帯魚飼育をシミュレーションして楽しむ物もありますし。うーんしかし、熱帯魚の方はもっと女の人がいるかと思ってました。なんで受けないんでしょうね。熱帯魚屋の雰囲気でしょうか。確かに、街の小さい熱帯魚屋は入りづらしい、入ったら入ったでじめじめするわ、マニアが居座って小難しいこと言ってるわで、男の人ですらなかなか馴染めたもんじゃないと思いますが。でも大きいところだったら水族館みたいできれいですよ。
水槽を持っている人のことを「アクアリスト」と言いますが、私はアクアリストになってまだ半年ちょっとのひよっこでございます。しかし世の中にはマニアと言われるアクアリストがうぢゃうぢゃいるわけです。この辺もパソコンの世界と変わりませんね。マニアは貴重な物を欲しがります。滅多に輸入されない魚とか、珍しい水草を求めているようです。そして自慢が入ります。パソコン持ってる人でもこういう人いるでしょ?
さて、ここまで読んでこられて、あなたも水槽が欲しくなりましたね。え、ならないですか。うーむ、確かに魅力的なことをほとんど書いてない気がする。困りました。ではまず、水槽ってじゃまだし、手入れが面倒だと思っているあなたを勧誘することにします。最近は一体型と言って、水槽に必要なろ過装置や照明やヒーターなどが全てひとつに組み込まれて収まっている物があります。それだととてもすっきりしているし、30センチくらいの小さい物からそろっています。小さい水槽はいろいろ難しいのでほんとはあまりお薦めできないんですが、少ないスペースに置くならこれです。あなたは餌をやって、週に1度水を換えればOKです。次に、水槽のことなんてなんにもわかんないし、どうしたもんだかなあ、というあなた。そこら辺にいる熱帯魚好きを捕まえて、根掘り葉掘り質問しましょう。彼らも仲間が増えるのはうれしいので、嫌な顔はしないはずです。そういう人を知らない?大丈夫、私がいます。そして次に、魚なんてきらーい、水に手突っ込むのもやだ、というあなた。しかたない、私もあきらめます。他のものでも飼って下さい。
れんこんネットの所在地である、(株)シリに私がメンテしてる水槽があります。熱帯魚水槽ってどんなもんだろうと興味を抱かれた方は、一度見にきていただくことをお薦めします。水草もぼちぼち育ってますし、きれいな魚も泳いでます。それを見て少しでも、熱帯魚っていいもんだなあ、と思っていただければ私は喜ばしく存じますね。
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表紙のことば(笑)
放射性れんこんの表紙は、とくに決まりはないけれども、「時事ネタ」か「季節ネタ」が多いという感じになっているようです。今回もやはり「時事ネタ」になってしまいました。ちょっと殺伐としていてすいませんです(苦笑)
前号の表紙で直下型激震にあって崩壊してしまった「輪切りれんこん」君ですが、今回は「頭ん中ゴシゴシ洗われちゃったご様子」で、PSI(何の略だっけ?)を着用して激安DOS/Vマシンの中から怪電波を発信してます。最近世間を騒がせている「事件」の評価はいろいろでしょうが、この高度資本主義社会の中での「出家修行者」という存在を、どう見るのかということについては、あまり深く論じた人はまだいないようです。もっともこれも時事ネタというだけあって鮮度が勝負、半年後、一年後に見たらどう感じられるのでしょうか。
さて、謎のキャラクターである「輪切りれんこん」君の歴史をちょっと振り返ってみました。そうしたら、19号のうち、14回登場していることがわかりました。初登場は第2号で、途中の13〜16号の4号(1993秋-94夏)が休場です。
輪切りにしたれんこんという形は、ほとんどの人になんらかの馴染みがあると思いますが、それをそのままキャラクター化した例はあまり見たことがないように思います。なかなか味のあるキャラクターですね。擬人化されている例はあまり多くない(8号の国会前をデモするれんこんが代表的)ですが、なんらかの用途に使われていることもあるみたいです。(浮き輪、迎撃用武器、など。)前回と今回は、少しかわいそうなことをしてしまいましたが、これにめげずに今後も活躍してもらいたいものです。
・鼻炎のこと
ども!今年の花粉は凄いみたいですねぇ〜。去年のン十倍だとかン百倍だとか。僕のまわりの花粉症の人もとても辛そうにしています。読者の方にも鼻をすすりながらこれを読んでいる人もいることでしょう。おだいじに〜。
と、こんなふうに書いているという事は、僕は花粉症ではないと言うことですが、今みたいにスッキリと鼻が通っている状態になったのは、ごく最近のことなんです。
去年の年末に2週間入院して鼻の手術をいたしまして、病名は肥厚性鼻炎と鼻中隔湾曲症とアレルギー性鼻炎の三つ。そうです、三つなんです(;_;)。とりあえず簡単にこれらの説明をしますね。
肥厚性鼻炎 鼻の粘膜が厚ぼったくなって鼻腔(鼻の穴)をふさいじゃう鼻炎。僕は小さいときからこれが相当ひどかったらしくて、小中学生の水泳の授業が始まる頃にはいつも「医者の許可をもらってこい」と言われていました。
鼻中隔湾曲症 二つの鼻の穴の境目の鼻中隔というのが大きくゆがんでいて片方の穴が狭くなっている症状。成長期に頭蓋骨の成長が部分的にスピードが違うから誰でも少しはゆがんでいるそうです。そのゆがみがひどい場合は軟骨を削って鼻腔を確保する必要があるそうです。
アレルギー性鼻炎 花粉症もこれですね。僕の場合はハウスダスト。2週間に一度注射で抗体をいれて免疫療法で治すそうです。
それで手術では肥厚性鼻炎はまわりの肉を切除して、鼻中隔湾曲症は曲がって出っ張ってしまった部分を削り取りました。アレルギー性鼻炎はこれからじっくり時間をかけて治療していくそうです。
これらの手術って難しくてあまり行われていないそうです。たしかに昔から通っていた耳鼻科では「治らない」なんて言われまして、今回は手術をすれば治ると聞いて高校のうちに治しておこうと思ったので、聖跡桜ヶ丘の深水耳鼻咽喉科というところに行ったわけです。
・手術のこと
去年の12月11日に墨田区にある病院まで両親に送られていきました。僕の家は八王子なので結構遠いですね。そこならきちんとした手術が出来るという紹介で行きました。
ちょっと余談。東京に住んでいる方は覚えているでしょうか。12月10日の夜は災難でしたのを。JR新宿変電所の火災事故と多摩地区大停電が重なって起きた日です。10日はれんこんネットの小岩OFF会がありまして夕方からジュースなどを飲みながら(笑)楽しんでいたわけですが、小岩からの帰りにJR新宿変電所の火災事故によるトラブルに巻き込まれてしまって、四ッ谷で足止めを食らってしまって結局家についたのはお日様よりも後になってしまいました。入院前に話のネタになることが起きてしまったので入院中はこの事を話したくてしょうがなかったです(笑)。
で、手術の日です。朝起きると診察室に呼ばれました。この時点から手術終了まで1時間ほど。まず診察台に座らされ麻酔のしみたガーゼのような物を鼻の奥までつっこまれました。粘膜だから吸い込むのかな、麻酔はこれだけです。最初はこれが麻酔だとも知らずにいました。
しかし僕の鼻は腫れきっているのでこれだけで涙が出てきまして、どうしても涙だけは止められないんですね。そんなに痛くないんだけど、鼻をいぢられるとどうしても涙が出てきます。
そのまま手術台へ歩いていき心電図をとり、その間に麻酔が効いてくるのがわかりました。そして先生登場!ピチピチの手袋をはめるのです。あの手の甲を外に向けて両手を顔の横前あたりにかざすポーズです(;_;)。そのポーズはやめてくれ〜。
手術は鼻の穴を器具でひろげてそこからメスやらをつっこんで行われました。先生と助手の人3・4人。出てくる血はホースの付いた機械で吸い取りながらの作業なのですが、上を向いて寝ている状態なので出血が喉の方に流れて、飲んでいましたが気持ち悪かったです。途中で先生は助手の人に「こういう場合はどうしたらいい」とか説明をしていましたので、僕もどんなことをやっているのかわかって良かったのですが、それ以外に「わぁこりゃすごいなぁ」とか「全部はれてるから全然見えないよ」など恐い感想を口に出すのです。「そんなにひどいんですか」と聞いたら「ええ、ひどいというか、よくこれで平気でしたね」と言っていました。
しかし痛かった。全身汗でびっしょりになってしまいました。ジョリジョリとかガリガリと言う音はまだいいんですが、ミシミシと骨が鳴ったりするので手術中はとても心配。しかも鼻の奥の作業なので音が耳に直接くるような迫力の大音量(笑)でとてもヤでした。
「はいノミ行きます」と言って一人が固定してもう一人がトンカチ(?)でたたいてきました。これはあまり痛くなかったけど、鼻の穴からノミで骨を削られるときの衝撃は恐怖でした〜。
そんなに強烈な痛みではなかったけど手術中涙が止まりませんでした。鼻の奥をいじられると涙が出るんですね。
そんなこんなで数十分。鼻の中のため縫い合わせることは出来ないからか、握り拳ぶんぐらいのガーゼとタンポンを鼻の奥の方までぱんぱんにつめられました。タンポンというのは女性の生理用品としてしか聞いたことがなかったのですが、血を吸うものみたいですね。おかげで鼻の穴が大きくなった気がします。
手術が終わると看護婦さんに支えられて部屋のベットまで行きました。ふらふらで一人では歩けませんでした。これは血が出すぎたせいなのかな。
それから4日間、毎日2回の点滴とおかゆごはんの生活でした。まず涙が止まりませんでした。泣いてるというわけじゃなくて、鼻の奥に刺激が伝わって涙が出てくるようです。ベットから起きあがるだけで、鼻から血が滴るし涙は出るしで、しゃべるのもおっくうでした。しかも、ぱんぱんにつめたガーゼにしみこんだ血液が凝固し体積を増していくので、鼻の穴は10円玉でもつめたかのように広がっていました。これがまたぶさいくで人には見せられません(笑)。
4日後にガーゼを取り出しました。同じ日に手術を受けた同室の人は3日目で取り出していたのできっと僕のは切り取った部分が多かったんだろうなぁ。取り出しかたですが、これが強引に引き抜くだけなんです。鼻の中の10cmぐらい奥まで詰まっているんですよ。しかも、血が固まってこびりついているし。これを診察台で頭を押しつけるように踏ん張ってペンチで引き出して行くわけです。片方の穴に5・6枚ぐらいガーゼやタンポンが入っていました。全部抜き終わると「がんばれ!」とかけ声をかけられ、すぐに長い椅子に横にされました。ここでもだいぶ血が出るのでくらくらします。同じようなことをした人はみんな涙を流してこらえていました。
ま、手術についてはこんな所ですね。思い出すと・・・いたいなぁ。しかし、おかげで今では鼻がつまることはありません。
さて、これで「鼻づまりだから集中力がない」という自分に対するいいわけが出来なくなってしまいました(笑)。これからは頑張らなくちゃ。
け〜た
「マコトノミチの国賊野郎。ただちに死ね。この人殺し」またこんなメールが届いた。私のアクセスしている某大手BBSのメールボックスはこのごろこんなメールでいっぱいになる。仕事上メールを頻繁に使用する私にとっては迷惑この上ない事態だ。最近は未読メールであってもこのてのだとはっきりしている場合は即座に消しているが、いろんなIDから届くのでチェックがたいへんだ。
こんなメールが急に来るようになったのは、ある民放テレビのニュースショーで、偶然私のIDと発言が大写しにされてからである。
最近はどこに行っても「マコトノミチ」教団の話題ばかりだ。犯罪史上稀に見るといわれる無差別テロ事件以降、その元凶と目された新興宗教教団「マコトノミチ」とその信者に対する捜査は熾烈を極めている。教団も相当怪しいのは確かだが、事件とは直接関係なさそうな末端信者や、「シンパ」と目された人々に対する別件逮捕や「微罪」による検挙が話題になり、BBSの会議室でも、その是非をめぐって活発な議論が繰り広げられていた。その中には、少しでもそういった捜査のやり方に疑問を呈する立場の発言には、「マコトノミチ別働隊」「隠れ信者」といった罵倒を投げつけることに血道をあげる連中があり、私はそれに対して思わず、感情的になって再反論することもあった。マコトノミチのシンパ的発言をしたことはなかったが、私はある一派からは完全に「マコトノミチ派」というレッテルが貼られた。
そんな中で、「マコトノミチのニューメディア戦略」と題されたニュースがレポートされたのである。BBSの会議室には、明らかな信者も投稿していたのだが、そのニュースでは、「一般人を装ったと見られる投稿もするなど、マコトノミチのしたたかな戦略がみられます」というコメントとともに、はっきりと私のIDが写ったモニタの画面が放映された。悪いことに、テレビ局にとってはこれはなぜかスクープだったらしく、何度もこの画面が放送されたのであった。
翌週出された、この放送局と同系列の出版社の週刊誌にも、関連した記事が載っていた。驚いたことに、「マコトノミチと過激派との関係」というタイトルで、私が数年前に偶然参加したある市民集会のことが述べられていた。「この集会を主催したと見られる過激派」のメンバーであり「現・隠れ信者の工作員」として、私のハンドルネームが名指されていたのである。
私はテレビ局と出版社に抗議の電話をかけたが、編集セクションに取り次いでもくれず、たらい回しにされた挙句にでてきた「苦情承り係」の担当者は、別に違法なことはしてませんという言い訳と、言論報道の自由というお題目を繰り返すばかりだった。
報道被害に対抗する暇もなく、私に対するいやがらせは単なる「電脳空間」の枠を超えてきた。どこで私の住所を知ったのか、差出人不明の脅迫状も届くようになった。また、日中深夜を問わず、30分おきくらいに「マコトノミチ死ね」という押し殺したような一言や、無言なだけの電話がかかるようになった。同居の母もノイローゼ気味となってきたので、やむなく夜間は音を止めて留守電にした。
幸いなことに、私の職場にまでは嫌がらせは及んでこなかった。まだ勤務歴が浅く、そこまで嫌がらせ屋たちにも情報が得られなかったのだろう。私がいままで名刺を渡した先からも情報は漏れていないようで、せめてもの救いに感じられた。いや、そう思いたかった。
嫌がらせ電話や脅迫状の数も、始まってから半月をピークに激減した。電子メールも届かなくなった。会議室で私を「別働隊」と呼んで非難する連中は相変わらずだが、それに同調する者もそうは多くないようだ。まあ、こういうこともあるか、一過性の騒ぎだったってことかな、と、私は、マスコミに対する不信感をいだきつつも、一方で胸をなでおろしつつあった。
ここ数日ほど、私が夜帰宅するとき、家につく前の路上で不審な人物に出くわすようになった。いや、不審と言えば不審に思えるだけで、取り越し苦労かもしれないとすら思えるほど、そいつは別に私に注意を払っているようには見えなかった。家の近くではあっても、近所のたばこ屋の前で人を待っているかのようにも見えるし、電話をかけていることもあった。時間をつぶしているだけのようにも、また誰かと待ち合わせをしているようにも見える。2日として同じ人物がいたわけではないので、こちらの考え過ごしかもしれない。ただ、そいつがいつも一瞬だけ、こちらに視線を向けるような気がするのである。
金曜日の晩、私は仕事に疲れて夜遅く帰宅した。怪しい人影もなく、明日は休みということもあり、私は安心してビールを空けると、ひさしぶりに熟睡した。母に起こされた私は「今日は休みだから、もう少し寝かせて」と寝ぼけ眼で答えた。「警視庁っていう方が来ているんだよ」という母の上ずった声に私は眠気もふっとんで飛び起きた。午前7時だった。着替えもそこそこに玄関にでると、3人の男がいた。
「○○さんですね。警視庁のものですが、家宅捜索を行います。あなたのお部屋はどこですか」と名刺をつきつけつつ言うやいなや、3人の男は無遠慮に入ってきた。なんと私はいつの間にか公安警察に目をつけられていたらしい。私は懸命に、「ちょっと待って。令状はありますか。見せてください」と言った。「令状? ほら、これだよ!」と最初に踏み込んできた男が紙切れを突き出してみせた。それは確かに東京地方裁判所が発行した捜索令状であった。次のような文字が見えた。
< 件名 :地下鉄事件に関する殺人およびサリン法違反容疑。
捜索対象:マコトノミチ信者および教団関係者と思料される者の家宅>
「ちょっと待ってください。私は信者でもないし、知り合いにも信者はいない。何かの間違いでしょう」と私は必死になって捜査官たちに訴えたが、2人目の男が「おまえは信者だって調べはついてるんだよ」というだけで、私の部屋に入った彼等は机の中、押入等を片っ端からひっくり返し始めた。もう一人の男は、やたらにバシャバシャとフラッシュを焚いて私の部屋の中の写真を撮った。
「はい、ちょっと来て」と1人目の男が私を呼んだ。「これは何だ」と指すものを見ると、それは私が数日前に街頭で受け取った、マコトノミチ信者と見られる人が配っていた「宗教弾圧に反対し人権尊重を訴える会」のビラ、それに、BBSからダウンロードしてプリントアウトしておいた、市民団体の声明文だった。「これは押収したいな」と男はニタニタしながら言った。
結局、数点のビラ類を押収して彼等は帰った。母のうろたえぶりはかなりのものだった。「あんた信者だったの」などと言うので冗談じゃない、とどなったがまあ無理もないことだろうなと内心は思った。母はそのまま寝込んでしまった。
奇妙に静かな - 内も外も - 状態が続いた数日後、何気なく朝のニュースを見ているとアナウンサーが急に興奮しながら新しいニュースを伝え始めた。
「ただいま入った情報によりますと、政府はマコトノミチ事件に関して、刑法の内乱罪を適用する方針を正式に決定し、捜査当局に指示しました。これにより、マコトノミチ教団とその信者は、国家の統治機構を根本的に破壊することを目的に活動する集団として、徹底的な取締りと根絶の対象となりました」続いてテレビは緊急声明を発表する首相を写し出した。「マコトノミチ教祖は、内乱の首謀者として訴追されます。一般信者は、すぐに最寄りの警察に出頭し自首するように。そうすれば刑罰は免除されるが、この警告を無視するものは重罪である」
私は刑法第77条違反容疑者として、その30分後に逮捕された。裁判は内乱罪のため東京高裁を第一審として行われ、BBS でのメッセージが「群衆を指揮した」と認定された私は、全面否認による情状の悪さも手伝って、スピード審理によって無期(終身)禁固刑を宣告された。
...私が拘禁されてもう35年になる。世間は事件のことも私のこともすっかり忘れてしまったようだ。マコトノミチ教団とそれに関するものごとは、ある時点からすっかり「なかったもの」とされるようになったのだった。
「ハルマゲドン」はやってこなかった。「マコトノミチ事件」と似たような宗教と社会運動がらみの公安事件は何回か起こったが、そのたびに多くの「反対派」たちが摘発され、「市民社会」から消されていった。その間、首都圏の巨大地震が2回、原発の大事故が3回起こったが、死者が合計200万人出ただけで、何ら対策をなし得ない政府を批判する声は、ついに出なかった。結局、「マコトノミチ事件」とは、「世紀末」の騒ぎのひとつに過ぎなかったらしい。
ここ数年、夏場には耐え難いほど世界中の平均気温が上昇し、刑務所にもついにクーラーが入った。そのせいでかえって住みやすくなった。味のしない野菜の煮物だけの食事と、たまに行われる狭い部屋への拘禁と思想改造ビデオ学習さえがまんすれば、ここ刑務所は安全でいいところだ。このまま平和なままで死にたい、というのがいま私のただひとつの希望である。