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「放射性れんこん」の紹介
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放射性れんこんVol.18

1995.1.26 発行


目次
  1. 芦浜の四季 Vol.2 (Foo)
  2. 激動の12時間 〜パソコン通信はどう活用されたか〜 (KJ)
  3. ネットワーク・「出会いの場」・旅公演 --- 私想 (時折 旬)
  4. 地球を覆う核汚染、その実態と背景 (pen)
  5. ベトナム旅行記 (レジN)


芦浜の四季 Vol.2 「冬の芦浜」

 [FOO]

池の辺りのハマナツメは葉を落とし、芦浜は冬へ入っていきます。(ハマナツメについて詳しく語るのは、記事のつごうで次号にします。)
海岸に立つと、北風の吹きすさむ季節と言えど明るい日差しがまぶしく、海は輝いています。砕ける波しぶきが宝石となって舞い上がり瞬時に砂に吸い込まれていく様に見とれていると、いつ来たのか波打ち際でシロチドリが数羽たわむれていました。
芦浜の海は、原発建設計画をよそに、幾億年の昔から変わりない悠久の潮の満ち引きを繰り返しています。人類の自滅を導く放射能生産工場を建設しようとする、欲望うず巻く権力の世界と、海の幸に育まれて生きてきた漁民たちのその人生をかけた必死の闘いは今その真っ只中なのです。誰もいない午後の芦浜の、白波立つ波涛の上を冬の風が吹き抜けていきます。芦浜原発をめぐる状況は、この秋から冬にかけて激動が続きました。

昨年、1994年11月30日の昼頃のことです。自宅でテレビのスイッチを入れたとたん、画面にふいにあの見慣れた芦浜海岸の波打ちぎわが映りました。はっとした瞬間、ニュース解説者の語りが流れました。 「芦浜原子力発電所建設計画は31年目にして大きな転期を迎えました。」
ついに、計画発端から31年目にして中部電力は紀勢町錦漁協と南島町古和浦漁協に原発建設のための海洋調査の申し入れをしたのです。
11月30日は31年前の1963年、中電と三重県が芦浜を候補地のひとつとする熊野灘の原発建設計画を公表した日です。同じ日を選んだのは偶然なのか意図的だったのか、それは分かりません。

海洋調査が行われる事に対しなぜ恐怖するのか、それは法律上の問題で、いったん海洋調査が行われてしまったら、もう原発建設をとめることができなくなってしまうからです。正確に言うと、海洋調査と陸の調査を合わせた環境影響調査が行われたら原発をとめることができなくなる、ということなのですが、陸の環境影響調査は知事や関係市町村長への通知だけでできるので簡単です。海洋調査は漁業権の問題があるので通知だけでなく漁協の同意を必要とし、環境影響調査実施の鍵となり、原発計画において大きな焦点となるのです。
原発建設のためには、法的に地元住民の同意が必要とされます。(ただし、どこまでが地元と見なされるか、住民の同意を得るためにどんな手段を使うか、は別問題です。)原発建設の前に、その土地や海に原発が立ったらどんな影響を受けるかを調べる環境影響調査を行うことも法的に定められています。しかし、調査を行うのは原発を立てる電力会社なのですから、「調査の結果ここは原発建設に適さない」というデータを出すはずがありません。まったく意味のない形式的な調査です。これは原発に限らず、すべての開発において言えることですが、開発をする企業が環境調査を行うのはナンセンスです。第三者が公正な環境調査を行うシステムをつくらなければ意味がありません。 いったん調査が行われてしまったら最後、公表された調査の結果を吟味し建設に同意するか否かを決定する権限は、県知事だけにゆだねられてしまいます。県知事の同意だけが「地元の同意」となってしまい、漁協にも誰にも発言権がないのです。そして、県知事の同意を得た後、原発建設計画は単なる一企業の事業ではなくなり、国家の電源開発事業として認められる事になります。

今回の中電の海洋調査申し入れは関係市町村に何の通知も無い唐突なものでした。原発の温廃水が海へ及ぼすの影響の範囲を考えたら、紀伊長島町・紀勢町錦・南島町古和浦・南島町方座浦の4つの漁協の漁業権海域が調査海域にふくまれることになります。4つの漁協の中で、原発賛成派は芦浜に近い紀勢町錦と南島町古和浦だけで、中電の申し入れはこの2つの漁協に対してだけおこなわれました。残る2つの漁協はどうするつもりなのでしょう。
古和浦漁協を金力と暴力でじりじりと推進派に転じさせたように、いずれは紀伊長島も方座浦も攻め落とすつもりなのでしょうか。しかし、もし、温廃水の放流方式の変更が通産省に認められると調査海域がぐっと狭められるとも言われています。それなら2つの漁協を攻め落とす必要もなくなるかもしれません。今のところ中電は、「これは原発建設に直結する海洋調査ではなく漁業振興のためのもので部分的なものである。」と不可解な説明をしています。

少しさかのぼって、海洋調査申し入れに至る迄の経過をかいつまんで説明する事にします。おととし、93年の12月に中電は古和浦漁協に2億円のお金を提供し、海洋調査の補償金の前渡しとして希望する組合員に百万円づつ配ったのです。それは、1年以内に海洋調査の受け入れが決まらなかったら返す、という約束のものでした。
古和浦漁協としては何としても期限の94年12月中に海洋調査を受け入れなければまずいことになりました。半数以上の組合員が百万円をもらっていったからです。もらわなかった人の分のお金は残ったはずですが、接待旅行などに全部使われてしまったと聞きます。
これは「お金、先にあげるよ〜。」という甘い声につられてついお金を貸してもらった後、そんなお金はすぐ使ってしまいますから返せなくて借金のカタに漁業権をとりあげられるような話です。原発反対を貫く人は一円ももらうことができません。先に払った補償金の分は、後で払う金額から引かれるわけですから中電としては出費は同じでどうてことありません。胸がムカムカするような話です。
この補償金前渡しを、違法行為だとつき上げる声は当然ありましたが、三重県はこれを「漁協支援のためのお金」として違法性を認めませんでした。(どこが漁協支援なの?)

94年、2億円の返還期限の12月が迫ってくる9月、南島町の人々は町議会に、「海洋調査に反対する決議を求める」請願を出しました。これは古和浦漁協を除く南島町のほかの6つの漁協の組合長の名前で提出されました。町内の有権者の75%にあたる署名が添えられていました。9月21日の議会で請願は12対2の圧倒的多数で採択されました。 南島町議会の議決は心強く、一時「ひょっとしたら94年のうちに海洋調査の受け入れは決まらないかもしれない。」という希望をもつ人もいました。しかし楽観は許されませんでした。
古和浦漁協の推進派たちは2億円のこともあるし、やっきになっていて、海洋調査反対の議決について「遺憾」の文書を提出しました。それをなだめるかのように南島町の稲葉町長は、古和浦漁協に対し「内政干渉はしない。」と発言しました。これは「海洋調査の邪魔はしないよ。」と言っているようなものです。この人は、本音は原発推進なのです。
そして古和浦漁協の推進派役員たちは11月18日に中電本社を訪れ、海洋調査を促す要望書を手渡してきました。11月22日、中電の安部社長は記者会見で「古和浦と錦で早いうちに海洋調査を行いたい」と衝撃的な発言をしました。 これに驚いた南島町の人々は決起しました。南島町民の大いなる実力阻止が始まったのです。「海洋調査は絶対にさせない!」

まず、あいまいな態度の稲葉町長をはっきり「原発反対」の立場に立たせる事、そのために11月24日、千人もの南島町民が町役場を取り囲み原発反対の宣言文を町長につきつけました。大勢の町民に囲まれた稲葉町長は、しぶしぶですが宣言文にサインし読み上げました。原発反対の会の代表の小西さんは「これで町長も全面に立って海洋調査をはねつけてくれるだろう。」と語りました。しかし、本心から原発反対ではない人をいくらつきあげて反対派にさせても、結局頼りにはならないのです。それはその後はっきり現れてくる事でした。
11月26日、南島町は町内の原発反対の組織を一本化して 統一的な組織を結成し稲葉町長の「反原発宣言」を支えていくことに決めました。そして代表に稲葉町長を就任させることにしました。
11月28日、県知事が記者会見で「海洋調査の段階的な実施を」、と中電の調査方針を容認する発言をしました。29日、南島町の代表団百人が県庁を訪れ、知事の発言に対する抗議書を提出しました。
そして11月30日、ついに中電は海洋調査の申し入れを行ったのです。南島町内は騒然となりました。「南島町芦浜原発反対闘争本部」が結成され、本部長に町長が据えられました。(以後「闘争本部」と略)
12月1日、田川三重県知事は近いうちに引退することをを表明したあと(田川知事は高齢のため半病人のような状態が続いていて少し前から引退は近いと言われていた)、「社会党でも原発を容認する時代なのに原発反対するのは『井の中の蛙』」と、発言しました。もうすぐ引退するからと気を許し、包み隠していた本音が出たのでしょう。南島町では闘争本部の幹事会が開かれ、県と中電に抗議するため、7日に津市内で3000人規模のデモを行う事に決めました。
12月7日、南島町民約2800人が約60台のバスに分乗して津市に入りました。午前11時、お城公園は大漁旗やプラカードであふれかえり、田川知事の「井の中の蛙」発言を皮肉って田川知事の人形も登場しました。「海は渡さない」「たいがいにせい!中電」など様々なプラカードに書かれた言葉は、31年間の南島町の人々の思いを集約したものでした。決起集会には、県知事の言う原発を容認したはずの社会党からも反原発のメッセージが届いていて、その場で読み上げられました。デモ隊は稲葉町長を先頭に立てて、反原発のかけ声を高らかに市内約3キロを行進しました。デモ隊の長さは1キロ近くありました。途中、中電三重支店の前にさしかかったデモ隊は「南島町から出ていけ」と罵声を浴びせかけました。目的地の県庁前では、デモ隊の先頭が庁内になだれ込もうとし一時警察官ともみあう場面もありました。闘争本部の代表らは県や中電に抗議文を提出し、「計画断念」を訴えました。

12月15日の古和浦漁協総会は、海洋調査受け入れの議決をするためのものでした。この総会が大荒れになることは分かりきっていて、「逮捕者がでるのではないか」という危惧もありました。緊張は前日の夜から始まりました。
南島町の人々は、漁協総会を行わせないために組合員たちを一歩も漁協に入れないよう漁協前に座り込みをはじめたのです。総会が行われる予定時刻は15日の午前10時からですが、深夜の漁協前はすでに荒れ始めました。何十人かの南島町民が座り込む所へすでに機動隊が現れ、ごぼう抜きをはじめたのです。引きずられていく仲間を見て、ショックで老女が倒れる、という事件も起きました。数で勝負するしかないのですから、あわてて電話をかけまくり、座り込む仲間を呼び集めました。
午前6時にはもう組合員が漁協に近づく事ができないほどの人数が集まっていました。この日集まった南島町民の数は千人を越えていました。警官隊の数は2百人ほどだったようですが、数の勝負でした。
7時ごろ、上村組合長が漁協に近づこうとしましたが押し戻されました。誰も近づかせないよう南島町民の座り込み状態で総会の始まる時刻が近づいてきます。9時すぎに闘争本部の代表が、上村組合長に対し総会中止を提案しましたが、組合長は拒否しました。
組合員たちがやってきて、どよめきが大きくなります。組合員たちは通ろうとしますが漁協にまったく近づけません。10時ごろになって警官隊が無理やりにも道をかき分けてつくり、組合員たちを通そうとしましたが、すぐ押し戻されます。おしあいへしあいの中、「帰れ!帰れ!」という罵声が飛びます。
組合員たちは漁協に近づけないので、仕方なくぐるりと遠巻きに港の堤防の方にかたまって、待機しはじめました。それを取り囲む南島町民から一斉に罵声が浴びせられます。「帰れ!帰れ!」「乞食!乞食!」「働きなさい!働けばなんとかなります!」これだけの大勢の人々にこんなに罵声を浴びせられて・・・それでも平気なのかしらと思うのですが、この日の総会に出席することの報酬として、推進派の組合員たちは中電からひとり50 万円もらっていたとも聞きます。
11時すぎて、やがて警官隊が整列して歩き出しました。港の方へ回って、帰って行くようです。組合員達もその後を追って帰り始めました。どうやら流会になるようです。しかしまだ安心できる状態ではありません。南島町の人々は依然座り込んだままで誰も帰る気配ありません。
稲葉町長は、「前日に中電と話し合った。中電は古和浦漁協の総会で海洋調査が承認されても、地元に混乱が続く限り調査は実施しないと約束した。だから、みなさん、帰って下さい。」と南島町の人々に解散するよう訴えていました。最後は土座下して「どうか帰って下さい。」と頼み込んでいました。しかし、ここで奇妙な光景に思えることがたくさんあります。
第一に警察が古和浦漁協の総会に介入する事です。これは南島町の自治と民主主義の侵害です。稲葉町長は町民を説得するのに、ほとんど警察のサイドに立っていて、説得につかうメガホンも警察のを貸してもらっていました。「帰って下さい。」と土下座して頼む相手は南島町民なのでしょうか。警察と推進派組合員の人の方に向かって「帰ってくれ」言うべきだったのではないでしょうか。どちらの味方なのかわからない町長です。
「きょう流会になったって、次いつ総会が開かれるんだ。明日にでもまた開かれるんじゃないか。そういうことがはっきりするまで帰れない。」「常識的に考えて一週間以内にはありえません。」「今までに常識が通用したことがあったか!」たしかに、このまま帰ったら何にもなりません。次の総会が開かれたらもとのもくあみです。 しかし、ここで各漁協の組合長たちも、南島町民に対し解散するよう説得を始めました。この人達はもちろん原発反対派です。どこからか圧力がかかっているようです。おそらく、「けが人がでたり何かあったら責任をとれ」というような脅しがあるのでしょう。こうして漁協総会は流会になり、昼頃には集まった南島町の人々も解散しはじめました。一方、同じ日に紀勢町錦漁協総会では海洋調査受け入れがあっさり承認されました。

この、南島町民の実力阻止による古和浦漁協総会流会の記事は、中部地区の新聞では夕刊のトップに大きく載りました。中電は「予想を越えた事態にショック」と反応しましたし、成果はあったと言ってもいいのですが、千人もの南島町民のパワーを動員したにかかわらずツメの甘い結果となりました。ただ流会にさせただけで、確実な収穫がなかったからです。
あの、千人の力を集結した頂点の時、上村組合長をつるしあげて「海洋調査をさせない宣言」をさせるとか、確かな約束を勝ち取れたら良かったのです。案の定、一両日おいて事態は悪化しました。
稲葉町長が、闘争本部の本部長を降りると言い出したのです。「公正であるべき町長がどちらかの側に着く事はできない。」というのが理由です。
嫌がらせもあります。推進派の人は、15日の実力阻止に参加した南島町の人々の写真を撮っていて、後でその人あてに写真といっしょに「よく来てくれたな、殺してやる」などという脅迫状を送りつけたり、家までどなり込みに来たりしたそうです。しかし古和浦漁協周辺を除く南島町の人々の、反対派と推進派の人口比は反対派の圧勝です。南島町の人々は「そんな脅しは何も怖く無い、どなり込みに来たら近所の人達が集まって追い返すから。」と言っていました。
私は一応写真を愛好するものの一人として、写真をこのような嫌がらせに使う話を聞くと非常に嫌な気分になります。

南島町の人々の行動力が、中電や県にとって脅威となったことは確かです。総会が流会になったあと、12月20日、稲葉町長は副知事の立ち会いのもと、中電と会談を行い「中電はむこう一年間原発立地工作を凍結する。」という約束の覚書をとりつけたのです。これは、中電が南島町の人々の反原発パワーに脅威を感じ、このまま混乱が続くと自分たちの損失になると判断して考えた策だと思います。
同時に、1・町長は漁協総会ができるよう混乱を回避する事、2・中電は古和浦漁協が海洋調査を受け入れても南島町長と各漁協の同意を得る迄は調査を実施しない事、3・南島町と中電は冷静な話し合いの場を持つ事、の3項目の確認書も作成されました。しかしこのことを喜んで言いのか悲しんでいいのかわかりません。
実は全然喜べません。中電が一年立地工作を凍結する約束はいいですし、第2項の約束もいいです。でも、漁協総会を実力阻止することはできなくなりました。南島町の人々のパワーがおさえつけられることになったのです。
奇妙な事に、1年間の立地工作凍結の約束があるにかかわらず、中電は現地の工作員を引きあげる気配がないのです。「残務整理があるから」とか言ってたそうですが、1年もかかる残務整理なんてあると思いますか?工作凍結の約束は真っ赤なウソなのではないでしょうか。

そして、94年12月28日、古和浦漁協臨時総会が再び行われ、この席でとうとう海洋調査受け入れが決まってしまいました。前日、南島町の人々は前回のように総会の阻止に臨むかどうかたいへん悩んだようです。気持ちとしては、前回よりもっと熱くなっていて絶対阻止したい人が多かったのですが、町長が中電と交わした覚書と確認書が南島町の人々を縛りつけるのです。もし混乱がおこったら、1年間立地工作を凍結する約束を御破算にする、と言うのですから。
原発を建てたくてやっきになっている中電が、ただであんな約束をするはずがありません。あの約束は南島町の人々の実力阻止を封じ込めるための策略だったのではないでしょうか。
結局、28日の古和浦漁協総会には一人の南島町民も姿を見せず、総会はまったく滞りなく行われました。15日とは対照的です。推進派の組合員達は、万全を期して、前日の晩から漁協の建物に泊まりこんでいました。夜は飲み会となっていたそうです。反対派が誰も来ないので、11時頃には寝てしまい、朝は朝食が運び込まれていました。早朝からやって来たのはテレビ局などの報道陣だけで、総会が行われている間も漁協の前は報道陣と警察だけがたむろしていました。警察の数の多さにはびっくりしました。新聞には現場には報道陣50名、 警察20名がいたと書いてありましたが、実際警察の数はもっと多かったと思います。推進派組合員が漁協に泊まりこんだ作戦も、警察の指導だったそうです。 古和浦の反対派の人々は、漁協の近所に住む人だけが数名、近くの家の玄関にすわって沈痛な表情で議会を見守っていました。賛成112、反対96で海洋調査受入の承認が決まりました。議事が終わった後も警察が周囲をゾロゾロたむろしています。
反対派の組合員の人がひとり、たまりかねて警察に向かって言いました。「わしらは、いつも推進派から『殺したる』とか『次はおまえの番だ』とか言われとる。これは脅迫と違うんか。あんたらはそういう者を取り締まるのが仕事なんと違うんか。推進派は、『わしらには大きいバックがついとるで何も怖く無いんだ』と言うとる。あんたらは何をしに南島町へ来るんや。あんたらが来るからかえって混乱するんや。」
この日の警察の多さには、正直言って私もぞっとしました。改めて、国家権力と警察の癒着と、警察の介入を恐ろしく思いました。今、目の前に立ちはだかっているのは、本当にとてつもなく大きなバケモノなのです。「こんなものと勝負して勝てるのか」という気にもなりました。
凍結期間と言えど95年のこの1年間、まだ何が起こるのかわかりません。約束の1年が過ぎた後、中電がどう出てくるのかもわかりません。芦浜原発闘争の出口は、まだ光が見えず暗黒のトンネルが続くのです。
Foo(vol.3に続く)

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激動の12時間 〜パソコン通信はどう活用されたか〜

 [KJ]

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 南島町=原発阻止闘争本部の懸命の今回の海洋調査臨時総会の中止または延期の
申し入れにも関わらず、いま現在予定通り古和浦漁協,錦漁協で海洋調査臨時総会が
開催されそうです。

(中略)

 15日現地に来られる人は、15日8時半に南島小方竃の「団結小屋」に集合して下さい。
(後略)
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 1994年12月14日の夜から翌15日の昼にかけて、私たちは漁協総会が強行されようとしている南島町古和浦の様子を、固唾を飲んで見守っていた。見守ったといっても頼りは、zipp さんが電話で流してくれる断片的な情報だけだったと言ってもよい。
 真夜中にレジNさんから私の自宅に電話が入った。その趣旨は以下のメッセージにあるような、今の古和浦の状況をマスコミに注目してもらうよう働きかけてほしいということであった。
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Note 438 ★★ 雑記帳 ★★ (ZAKKI)
[ RESPONSE: 43 of 94 ]
Title: 南島にビラを送ろう
Subject: 機動隊が来た模様
Date : 2:02am 12/15/94 Author: レジスターN (レジN)

 AM1:48、zippさんから電話。
 「機動隊が来た」ということを連絡してくれて、「何とかマスコミにこの状況を訴えてもらうことはできないか」という話をし始めたところで、「機動隊が来た、ゴメン」と残して電話は切れてしまいました。
 相当緊迫した事態のようです。

 zippさんが途中まで言いかけていたことは、「現在の古和浦の状況に関してマスコミに注目させることはできないか。そのためにパソコン通信等を使って何とかならないものかトライして欲しい」というようなことだったのだろうと思います。

 とりあえず私は今から、今日聞いた情報をまとめてメッセージをつくり、れんこんの八王子、浦和、小岩、ならびにPCVANの第三にUPしようと思います。

 マスコミ関係に訴えかけられるルートを持っている人は、何とか努力してみてください。お願いします。

 今後もzippさんから連絡が入り次第、通信で流すようにします。
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 私は新聞記者の知人が4人ほどいるが、残念ながらすぐに連絡のとれそうな人で、この種の話題にふさわしそうな人はひとりくらいしかいなかった。とりあえず、その人には連絡を入れたが、もっとほかにできることはないものか。。。そこで、私が次に思いついたのが、大手パソコン通信ネットワークであるNIFTY-Serveに、情報を流すことであった。NIFTYには、上記の「第三」と似た、市民運動系のフォーラムがあり、私もそこに登録しているが、ほとんどアクセスしていなかった。しかし、そこに流さない手はないと思い、以後なるべくリアルタイムでのアップロードを続けたのである。

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Note 438 ★★ 雑記帳 ★★ (ZAKKI)
[ RESPONSE: 44 of 94 ]
Title: 南島にビラを送ろう
Subject: 【緊急】南島町は緊迫している模様
Date : 2:36am 12/15/94 Author: レジスターN (レジN)

 zippさんの書き込みにあった
> 南島町=原発阻止闘争本部の懸命の今回の海洋
>調査臨時総会の中止または延期の申し入れにも関
>わらず、いま現在予定通り古和浦漁協,錦漁協で海
>洋調査臨時総会が開催されそうです。

 ということをめぐって、すでに南島町の古和浦漁協前はかなり緊迫した情勢になっているようです。

 今日の午後9時ころにzippさんから電話で、すでに古和浦漁協前では座りこみが始めている模様で、zippさん自身も今から古和浦漁協前に向かうといういうことを聞きました。

 その後午前0時前に、「40人くらいの人が集まっていて、南島のかあちゃん達の炊き出しが始まっている。明日はかなりの人が集まりそうだ。」という電話をもらいました。

 そして、先ほどAM1:48の電話で、「機動隊が来た」ということを連絡してくれて、「何とかマスコミにこの状況を訴えてもらうことはできないか」という話をし始めたところで、「機動隊が来た、ゴメン」と残して電話は切れてしまいました。
 相当緊迫した事態のようです。

 zippさんが途中まで言いかけていたことは、「現在の古和浦の状況に関してマスコミに注目させることはできないか。そのためにパソコン通信等を使って何とかならないものかトライして欲しい」というようなことだったのだろうと思います。

 このメッセージを読んだ人でマスコミ関係に訴えかけられるルートを持っている人は、何とか努力してみてください。お願いします。

 中電と結託した権力の弾圧を絶対に許してはならないと思います。
 明朝以降の情報にもみなさん注目してください。

 今後もzippさんから連絡が入り次第、通信で流すようにします。
                           (レジN)
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 このメッセージを以下のようにNIFTYのFSHIMINに転載し、翌日昼の「流会」速報に至るまで4つのメッセージを転載した。また、NIFTYにアップロードされた、現地レポートも4本れんこんに転載した。

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988/999 HFB03337 KJ RE:芦浜12・15午前10時<daisan
(15) 94/12/15 02:38 987へのコメント コメント数:1

古和浦漁協前では、現在機動隊が導入され、大変な状況になっているようです。
zipp さんかられんこんネットのレジNさん宛に連絡があったようですが詳しいことがわかったらまたupします。
古和浦での事態に注目し、とくにマスコミが報道するよう、報道関係に知人のいる方はできれば連絡をお願いします。

989/999 HFB03337 KJ RE:芦浜12・15午前10時<daisan
(15) 94/12/15 02:47 988へのコメント コメント数:1

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|Note 438 ★★ 雑記帳 ★★ (arama.zakki)
|[ RESPONSE: 44 of 44 ]
|Title: 南島にビラを送ろう
|Subject: 【緊急】南島町は緊迫している模様
Date : 2:36am 12/15/94 Author: レジスターN (レジN)

 zippさんの書き込みにあった
> 南島町=原発阻止闘争本部の懸命の今回の海洋
>調査臨時総会の中止または延期の申し入れにも関
>わらず、いま現在予定通り古和浦漁協,錦漁協で海
>洋調査臨時総会が開催されそうです。
(中略)
 今後もzippさんから連絡が入り次第、通信で流すようにします。
                           (レジN)
----------------------------------------------------------------------------
(れんこんネットより転載)
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 レジNさんの呼びかけへの反応としては、「鳩」さんによる次のような活動があった。

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990/999 CXJ05516 鳩 RE:芦浜12・15午前10時<daisan
(15) 94/12/15 07:59 989へのコメント コメント数:1

                     (up by 鳩 from DAISAN)
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#3093/3093 国内線
★タイトル (DVN56468) 94/12/15 4:56 ( 8)
芦浜>報道機関へ          鳩
★内容

 レジNさんの報告された、zippさんの要請を見て、とりあえず私がHEIWAの「博物館」に転載した#479,498-9,501-2を、朝日新聞社東京本社社会部と津支局のFAXに「取材、報道お願いします」と打ち込んでおきました。東京社会部の人に大阪のFAXを聞いたら、津のほうを教えてくれました。

 関西方面の方、各種報道機関にFAXしてはいかがでしょうか。

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 FSHIMIN でも14日夜には古和浦に注目しての、第三からのzippさんのメッセージが転載されており、さながら14日から15日にかけては、大手・草の根ネットワーク入り乱れての転載合戦となった。その状況について、「鳩」さんによる以下の評価がわかりやすいであろう。

============================================================================
Note 19 ★★Daily DAISAN From PC-VAN★★
[ RESPONSE: 146 of 146 ]
Title: 7◆国内線 94/6/17〜
Subject: zippさん、とーちさん、ご苦労様<HEIWAよ
Date : 5:01am 12/17/94 Author: TENSOD (第三転送屋)

★タイトル (DVN56468) 94/12/17 3:21 ( 93)
zippさん,とーちさん、ご苦労様<HEIWAより転載 by鳩
★内容
                        (up by 鳩 from HEIWA)
----------------------------------------------------------------------

*#1497/1497 喫茶「ピース・センター」
★タイトル (DVN56468) 94/12/17 2:37 ( 91)
zippさん芦浜で奮闘中          鳩
★内容

 芦浜は大変なようです。
 15日の深夜に、パソ通をのぞいてから寝ようと思ったら、DAISANとFSHIMINで芦浜が緊迫しているという、「博物館」に急遽転載したMSGを読み、さて寝られなくなって、次のようなことをしていました。

---------------------------------------------
*#3093/3096 国内線
★タイトル (DVN56468) 94/12/15 4:56 ( 8)
芦浜>報道機関へ          鳩
★内容

--------------------------------------------
            (FSHIMIN#15にも掲載)

結局、この日は心配したようなことは起こらず、とーちさんがDAISANで報告してくれているように反原発側の「辛勝」で終ったわけなのですが、どうなることかとハラハラさせられました。

 15日に思ったことは、「民衆のメディア」としてのパソ通の有効性です。東京のマスコミは芦浜のことをほとんど報道せず、マスコミだけでは全く様子がわかりません。15日のことも、大阪朝日には3段抜きの記事が夕刊に出たようですが、東京朝日はゼロでした。TBSが昼間のワイドショーで少し伝えたようですが、23ではもっぱらイジメでした(ニュースステーションも同じ)。芦浜の状況をリアルタイムで詳しく全国に伝えたのはひとりパソ通のみでありました。

 芦浜のことは、zippさんやとーちさんなどDAISANが中心になっているわけですが、FSHIMINや「れんこんネット」などが転載や書き込みで連携して、いかにもパソ通らしい動きを展開しています。(HEIWAと私もほんのちょっとこの連携に関わったわけです)。

 おぐさんがFSHIMINで

> FSHIMINでは歴史的に、DAISANと共に、情報の
>共有化のために自由転載規定を作っていますがほ
>んとにこういう時のためのものです。

 と述べていますが、この間の「れんこん」を含めた3ネットワークの連携は見事なものでした。FSHIMINのSYSOPの福島さんは自らDAISANからの転載もなさり、FSHIMINの入り口横断幕には芦浜関係の短報を掲げています。FSHIMINも「情報交流」を主目的として設立されたフォーラムですが、面目躍如というところです。

(後略)
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 やはりマスコミ対策というのはそんなに容易ではない。NIFTYでは、いくつかの新聞社や通信社が掲載・配信した記事をオンラインで読むことができるが、古和浦漁協前で起こった事態を報じた社は、毎日新聞を例外として全国紙では発見できなかった。はっきり言って、ほとんどどうでもいいような記事がいくらもあるのにもかかわらずである。
 今回の事態は、パソコン通信というメディアの特性を生かすことのできた貴重な機会となったと思う。情報はだれかに与えられるものではなく、自分たちで作り出して交換するものだ、という、忘れがちな事実を再認識させてくれた。パソコン・モデムと電話回線さえあれば、そういったことがしかもリアルタイムで易々とできてしまう。そして、さまざまな事情で「現場」に居ることのできない人も、ネットワークを通じて活動を担うことができる。レジNさんも私も、当日なんとかして現場に行きたいと歯ぎしりしていたが、ある意味で、情報伝達のノードになれたということは単に現場にいるよりも有意義なところもあるのではなかったか。
 芦浜の闘いに完全勝利するまでは、このような相対的に小さな「成果」に満足していてはならないだろう。でも、通信に「よいところ」があるとすれば、こんなのじゃないかな、と確かに感じたことだけは、記録しておきたい。で、これから考えたいのは、こういう情報の発信・受信者をもっともっと広げるにはどうしたらいいかということと、そのために、ネットワークのいろんな意味での「使い勝手」をよくしていくことだ。
 最後にパソコン通信の将来像ということで、ちょっと思ったことをひとつ。
 internet というものが "はやり" になりかけているが、その能力をどうやって、現在のパソコン通信のメリットに組み込んでいくか、が評価のポイントになってくるのではないだろうか。WWW などを中心にパーソナルなinternet活用が注目されているが、単に個人的な自己満足に陥ってしまわず、本来の「情報の共有化」にとってどう使えるか、という方向でともに考えていくことを提案したい。

(了)

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ネットワーク・「出会いの場」・旅公演 --- 私想

 [時折 旬]

 去年のから今年の始めにかけて、れんこんネットではボード(書いたり読んだりする場所を大まかなジャンルに分けるもの)の改変計画がネット上やワーキンググループ会議(れんこんネットの運営会議)で話し合われて来た。その改変案の決め方について数人が意見を出したのだが、そのなかでも「ある提案」は、僕にとって実に印象深いものであった。それは「まず、具体的な改変案を募集し、それぞれで改良点等の意見を集約して全体として数案の案にまとめる。そしてその案をネット上で一人一票の多数決投票で決める。ただし、れんこんネットは誰でもやろうと思えば一人で複数のID(アクセスする人一人に一つの登録番号)が取れるので、一人一票を保証するため、これまでワーキンググループ会議やoff会(どこぞで実際にネット参加者が集まること)でお互いの実在が確認された人に投票権を限る。」というものであった。
 この「投票権の限り方」は、確かに実際に「パソコンネット上で投票で物事を決めよう」とした場合、(特にれんこんネットのように各種の制限がほとんど無い場合)厳密にやろうとすればするほど「個人の情報を誰かが管理する」という方向に向いていくだろう。それは、誰もがその思想・人種・性別・年齢・職種等々と無関係にコミュニケーションできる可能性(あくまで現時点では可能性だが)を持つパソ通の方向性とは真っ向から対立する方向性を含むものだ。そうした「におい」を感じてか、この提案はワーキングで却下された。
 しかし、もしこの提案の「投票権の限り方」を一切無くしてしまったらどうだっただろうか? 投票資格に一切の制限をもうけず、れんこんネットにアクセスできる人ならばGUEST(個人のIDを取得せずにアクセスできる)も含め誰でも投票権があるとしたら...。もし「ネット上での投票」ということをするのならば、僕はこの方法しかないと思う。すこし大袈裟に言えば、それは「投票を公正なものとして成立させよう」という全ての個々人の「良心」あるいは「良識」に一切を任せようという試みでもある。それに果たしてれんこんネットは耐えられるのだろうか?  そうした想像をしてみた時、僕が初めてれんこんネットにアクセスした時(それは初めてのパソ通でもあった)のある驚きを思い出した。それはつまり、「ネットワーク自体がそれを成立させようという参加者の「良心」によってのみ成り立っている」ということだ。れんこんネットはGUESTへの制限も少なく、IDの取得にも本人の住所はおろか電話番号も氏名すらも登録を強要されない。ひるがえせば、ちょっとパソ通の知識があれば、誰でも何の証拠も残さず個人やネットへの妨害、果てはシステムの破壊までもがヤル気になればできてしまう。こんなにセキュリティーのしっかりしないおめでたいネットワークってあり? という「おとな」の驚き。さらに「おとな」として逆説的に言ってみるならば、この「成熟」した社会の中で、れんこんネットは「未成熟」なネットワークだと言えるかもしれない。
 僕はその「未成熟」さ、「おめでたさ」を愛する。

 さて、ここらで劇団どくんごの旅公演の話を、書いておかねばなるまい(^^;。
 僕らはこれまでの7年間に5回の旅公演をして来たのだが、一度旅に出れば各地各地で複数の人達の協力にすがって全国10数ヶ所で公演を打つ。当然旅公演前に各地で協力してくれる人を訪ねていく訳だが、これを地図上でなぞってみると、まあたしかに「全国的なネットワーク」みたいに見えなくも無い。しかし各公演地どうしの人達の関係はと言えば、数ヶ所の例外を除いてほとんど無いと言ってもいい。これじゃあとてもカッコよく「ネットワーク」とは言えないなぁ。実に自己中心的だ。
 各地各地での様々な問題を、公演をするわずか数日の間に背負えるはずもなく、一度公演を打ってもその後疎遠になってしまう所もある。ある意味で僕らは実に無責任に公演を打って回っている。じゃあなんで旅公演などというリスクの大きいことをまたやりたくなっちゃうのだろう。
 芝居の空間設定という方から考えてみれば、「芝居を劇場という一つの空間に限定せず様々な場所に置いてみたい」という思いもある。「劇場に人を呼ぶ」というより「人の場所に劇場が踏み込む」というイメージか。だが、それもなぜそう思うのかと言えば、「芝居ということを契機とした、人の出会う場」を創りたい、またそこに自分も身を置きたいということだろうか。「出会いの場」というとちょっとクサイ感じもするが、あえてそう言っておこう。
 僕らの芝居は「人と人の関係」の芝居であるが、ひっくるめて「予感の芝居」でもある。芝居も場も何事かの契機としての「予感」にすぎない。公演は「劇団どくんごの発表会」自体がメインなのではない。それを前後して体験してしまった時間を(自分も含め)どう人が、人と人が自分の中に納めるのか、納めようとするのか、それを想像するだけでわくわくする。(なんか嫌なヤツだな(^^;)

 僕はともかくも「芝居」というフィールドに身を置いてしまった。どうせ置いてしまったからにはそれをもってして自分が楽しまなければならない。旅公演をしなければ、たずね出会わなかったかもしれない人、知らなかったかもしれないこと、その場。客観的には「ネットワーク」とは呼べなくとも、「あそこにはこういう人がいる」と僕の中には「自分勝手なネットワーク」がある。

 '95は旅をします。テントです。よろしく。
                          劇団どくんご 時折 旬

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■地球を覆う核汚染、その実態と背景

 [pen]

核の時代よ、呪われるがいい。
古来人間が続けて来た人生からの旅立ちに
おいてさえ、
  何千年の伝統が破壊されている。
  死者を葬るに際して、
  遺体を土にゆだねることも許されないのだ。

(グレゴリー・メドベージェフ)

 モスクワ郊外にあるミティンスコ墓地に眠るチェルノブイリ事故で殉職した27名の遺体、この27の遺体は汚染を食い止めるため鉛でパッケージされている。元原発技師のメドベージェフは「内部告発」という本の中で殉職した者の憤りを代弁している。
 24歳の消防隊長ウラジミール・プラヴィークはその英雄的な行為によって全身が膨れ上がり、やがて放射線によって日増しに体は縮み、最後には黒いミイラになって死んで行ったという。

●チェルノブイリ事故の犠牲者拡大の恐れ

 今年2月、マサチューセッツ工科大学の原子力技術者アレクサンダー・シッチ氏は「86年のチェルノブイリ事故で放出された放射能はこれまで言われてきた量の4から5倍に達していた」と伝えた。それによると、チェルノブイリの原子炉は炉心溶解により防護壁を突き破っており、事故発生から10日後には炉心が完全に溶けてしまったという。床に穴が開いていれば地下水に到達し、さらに大規模な水蒸気爆発を引き起こしていたと言われる。
 その3ヶ月後、今度はドイツからショッキングな報告がもたらされる。
今年5月10日、ドイツのラジオ放送でロシアの科学者チェルセンコ氏は「チェルノブイリ事故の放射能汚染のため、ロシア諸国で向こう10年間で1500万人が死亡するだろう」と語った。
 日本のテレビ報道でも、これまで何度かチェルノブイリ事故後の現状が伝えられ、数十万人の子供達が甲状腺異常に苦しんでいるとしてきた。奇形もまず牛などの動物に現れ、眼球の無い眼底が露出した牛が続出、ある日本の商店主はそれら奇形動物の剥製を買い取って看板にするといったことまで起きた。それらの無気味な兆候は子供達の染色体異常となっていく。ある少女の染色体は真ん中から二つに分断され、その写真を見せられた少女が「私は子供が産めない!」と泣き叫ぶ。「徹子の部屋」というテレビ番組ではロシアの頭の異様に大きい水頭症の赤ちゃんが写真放映され、出産後母親が逃げ出したというコメントが付け加えられた。
 今度の1500万人という数字はチェルノブイリ事故の深刻さを再認識させるものであろう。第二次世界大戦の戦争死亡者は分かっているだけでも2200万人と言われている。チェルノブイリ事故ではその半数以上が犠牲になるということであり、その犠牲者が更に子孫末代まで延々と続くことを考えれば、これは人類生存の危機でもある。

●チェルノブイリ原発、再運転か?

 チェルノブイリの事故の深刻さが伝えられている最中、あろうことか今度はそのチェルノブイリ原発を運転するという信じられないような話が浮上する。10年間で1500万人もの人命が失われると報じられた17日後、ウクライナのクラフチュク政権は「閉鎖と代替発電設備の建設に140億ドル必要な為、チェルノブイリ原発を続行する」と伝えた。
 6月26日にはウクライナ大統領選挙が行われる予定だったが、クラフチュク大統領は選挙の延期を提案し延命を謀っている。しかしこれはウクライナ最高会議によって否決、26日の大統領選ではクラフチュクが大敗し、ロシアとCIS寄りのクチマ新大統領が誕生する。
 これを契機にG7(日米欧、先進7ヶ国)はチェルノブイリ原発の封鎖を支援するため調査団を派遣することを決定、ひとまずチェルノブイリ原発の再運転は回避される。

●第2のチェルノブイリ、北極圏の汚染

 イギリスWTNの「ロービング」というテレビ番組で、ノバヤゼムリャ島の核汚染の実態が放映されたことがある。島の関係者や核の専門家などがロシア北部のアルハンゲリスク港から島に渡ろうとして、ロシア軍から拒否されるところから取材が進められる。「軍縮」93年3月号にはさらに詳しい「ロシア北極圏の深刻な核被害」と題した記事が44頁に載っている。
 1954年、ノバヤゼムリャ島は、カザフ共和国のセミパラチンスク核実験場(注1)に次いで旧ソ連第2の主要核実験場となる。このバナナのような形をした島にはネネツ族と言われる先住民がいた。旧ソ連政府はそのネネツ人を強制退去させ、アルハンゲリスク州にネネツ(Nenetu)の民族管区を作って押し込めてしまう。現在ここにはネネツ人、ロシア人、コミ人など4万5000人程が住んでいる。
 今、当時を知る者はたった二人のネネツ人しかいない。汚染のため平均寿命が40歳と極端に低く、みな死んでしまったのだ。二人は語る。

  ある日、役人が突然島にやってきて「この島には住んではいけない」と言った。
  ここでは魚も、鴨も、トナカイもいくらでも取れたのに・・・

  実験の様子は遠く離れていても感じられた。
  外出は禁止され、水を飲まないように言われた。
  まず義父が死に、子供達全員が病気になった。
  そしてみんな死んでしまった。

 1955年、島の西部沖のバレンツ海では3回の水中核実験が行われた。
 1957年9月から、90年10月まで、島で129回の核実験が行われた。内、大気圏内実験は87回。
 1963年から86年まで、島の周辺の海に大量の核廃棄物が捨てられる。島の東海岸カラ海に、鉄製の容器に詰められた固形核廃棄物1万1千個投棄。16個の原子炉が投棄。島の西海岸バレンツ海に、液体核廃棄物1万6千立方メートル投棄。
 1989年4月、原潜コムソモーレッツ号がノルウェー沖で火災沈没。核魚雷2基搭載、後に放射性物質漏れ確認。

(注1)1991年に封鎖されたセミパラチンスク核実験場では598回もの核実験が行われた。

 これら海へ投棄された核廃棄物によってアザラシの白血病が増大、死の灰はヤゲリという苔を汚染、それを食べるトナカイをネネツ人やコミ人が食べ、癌での死亡者が続出している。ネネツ人等の異常出産も多発し、奇形児などは病院でホルマリン漬けにして保存してある。
 核専門家は「5年後には第2のチェルノブイリになる」と警鐘を鳴らすが、すでに汚染の被害は拡大し、すでにチェルノブイリ並みの悲劇は始まっている。チェルノブイリ事故だけで1500万人の死亡者が予想されている現在、北極圏の汚染を加えれば更に犠牲者の数は増えることになる。

 1993年初頭、バレンツ海においてロシア新鋭原潜アクラ型に、アメリカの新鋭原潜ロサンゼルス型が衝突した。3秒遅れて衝突すれば大惨事になったと言われている。
 同年3月、カナダのバンクーバーでの米ロ首脳会談の席上、エリツィン大統領は「このままでは核兵器の事故が頻発し、核戦争の危険もある」とクリントン大統領につめよった。ロシアはバレンツ海を中心に世界最大級の原潜を配備、これを監視するアメリカの原潜が入り交じり「バレンツ海は水槽の中の金魚のように原潜が泳いでいる」と皮肉られた。
 それから間もなく、今度はグレミハ基地で核ミサイルの起爆装置が発火して火災が起きる。SSN20核ミサイルをタイフーン型原潜に収納しようとしていたところ、突然クレーンのロープが切れて核ミサイルが落下、司令塔を直撃して起爆装置が発火したというもの。大惨事には至らなかったものの、北半球を壊滅させかねない重大事故に結び付く恐ろしい事故である。
 同年11月初め、グラチョフ国防相は26ページに渡る核戦略報告書をアメリカのホワイトハウスに送っている。その中でロシアは「核兵器使用を前提とした核戦略を再編し、核拡散防止協定に批准していない国には核攻撃を行なう権利を要する」と明記した。これをクリントン大統領が承認、ここに米ロ両大国の軍事同盟が暗黙の内に提携されたことを暗示させてくれる。

●極東の放射能汚染

 これまでロシアは日本海に核廃棄物を投棄して問題となっていたが、今年4月4日、ミハイロフ・ロシア原子力相は「国際管理の下で日本海への液体放射性廃棄物の投棄を実施する用意がある」として日本を慌てさせている。
 同時にロシアは「日本が適切な時期に財政、技術支援を行い、我々が沿岸に臨時貯蔵施設を建設できるなら、海洋投棄は回避できるかも知れない」と渡辺駐ロ大使に語っている。ロシアの真意はここにあると言えよう。
 その2日後、日本はこれを受けて1億ドルの無償支援を約束するのだが、ロシア側は「海洋投棄の可能性を排除することはできないが、投棄が行われないよう努力する」と述べている。日本の弱腰外交ここに極まれり、としか言い様があるまい。ロシア側は「カネは受け取るが、海洋投棄はするかも知れない」と言っているのであり、海洋投棄はしないという確約はしていない。国民の血税から1億ドルものカネを出しながら、核廃棄の回避という確約すらとれない外交とは何なのだろう。

 今年10月27日グリーンピースは、極東の防衛にあたる旧ソ連の原子力潜水艦が過去、少なくとも4件の重大な原子炉事故を起こしていたと報じた。
 79年、エコーT級原潜の炉心が人為的ミスで溶解。
 86年、エコーU級原潜の原子炉冷却水の調整ミスで艦内の放射能濃度が急上昇。またバブロフスキー港の放射能廃棄物貯蔵船TNT5は沈没寸前と言われる。報告書は、2000年までに退役するロシア軍の原潜解体によっても深刻な事態を招くと指摘している。
 ロシアは6隻の戦略原潜を退役、72基の大陸間誘導ミサイル(ICBM)を廃棄したとしているが、一方ではSS25移動式ICBM54基を再配備している。
 アメリカもまたC4トライデント弾道ミサイルを搭載する戦略原潜6隻を退役させる一方で、最新型D5トライデント・ミサイル搭載のオハイオ級戦略原潜を配備させている。
ロシアの核兵器開発に貢献して来た人物にクラウス・フックスという理論物理学者がいる。フックスは1946年にイギリスのハーウェル原子力研究所で理論物理学部長として迎えられ、原水爆に関する極秘資料をせっせと旧ソ連政府に送り続けていた。その4年後の2月にフックスはスパイ容疑で逮捕、懲役14年の判決を受けた。
 フックスが渡した資料は旧ソ連において原爆第1号を完成させている。フックスの父はドイツの神学教授としてナチスに対抗、強制収容所に入れられ、そのために家族に自殺者も出た。家族の悲劇を目の当たりにしたフックスは、ナチスへの激しい怒りを抱いてソ連の情報機関と接触、イギリスで物理学者として出世していく。
 そのイギリスからフックスは優秀な物理学者としてアメリカのロスアラモス原爆センターへと派遣され、悪名高い「マンハッタン計画」に参加する。

●アメリカのプルトニウム人体実験

 この「マンハッタン計画」で最近プルトニウム注射などの人体実験が行われていたことが公表され、少なくとも1400件、2万3000人もの市民が被害にあっていたというショッキングな報告が出されている。
 原爆開発プロジェクトを目的とする「マンハッタン計画」には、医学班で構成されるもう1つの部門があった。一瞬にして大量破壊を目論む原水爆とは別に、人間の中からじわじわと放射能汚染が広がる人体実験が計画されていたのである。
 ニューヨーク・メキシコ州の地方紙「アルバカーキー・トリビューン」の女性記者アイリーン・ウィルサムは7年前、カートランド空軍基地で動物実験に関する機密報告書を読んでいた。ところがその報告書にはあろうことか動物ばかりではなく、人間に対してプルトニウムを注射したという記述があり、彼女は自分の目を疑う。
 アイリーン記者の追跡が開始された。ありとあらゆる記録文書を調査する過程で暗号化された18人の患者番号をつきとめると、その所在を確認するため50年もの昔への追跡調査が行われる。そして7年後、一人を除く17人の所在を確認、この報告書によって世界の関心がプルトニウム人体実験に集まり、アイリーン記者はその功績を称えられて94年度のピューリッツァー賞を受賞するに至った。

 今年の6月27日、オレアリー米エネルギー長官はあらたに95回の秘密核実験を行われていたことと、それに関連して数百人が人体実験されていたことを明らかにしている。その中でもショッキングなのは妊婦への放射性物質の投与であろう。それによると、妊娠した女性に放射性よう素131を注射して胎児への影響を調査、中絶させた胎児を今度は放射性実験に使っていたというもの。他の資料から胎児に関するものを拾ってみる。
 1942年から7年間、テネシー州のヴァンダービルト大学で妊娠中の女性819人に放射性物質の鉄59を投与、胎児がどれだけ吸収するかが調査された。
 1953年から4年間、甲状腺の影響を調査するため新生児7人に放射性よう素が注入される。
 アメリカのプルトニウム人体実験が暴露されている最中、日本では動燃(動力炉・核燃料事業団)が「プルトニウムを飲んでも安全」とする子供向けのビデオアニメを配布して問題となっている。これにオレアリー米長官は「御微量で摂取すれば危険、一般人に誤解を招く宣伝はやめるよう」指摘、動燃側は当初「吟味して作ってビデオ、回収するつもりはない」としていた。

 さらにアメリカにおける子供への人体実験だけを拾う。
 アイリーン記者が追跡した18人の暗号化された患者の中に4歳11ヶ月の少年がいる。暗号名CAL−2、実名、シメオン・ショー。1946年4月26日、カリフォルニア大学病院において0.169マイクロキュリーのプルトニウム239を注射される。翌年1月6日に死亡。
 時期は不明だが、中国少年を含む7人がカリフォルニア大学でプルトニウムが注射される。
 これも時期不明、同病院で黒人少年リチャード・リースが放射性物質を注射される。1940年から10年間、ロスアラモス研究所の労働者家族50人以上が人体実験される。4歳から10歳までの子供8人も含まれ、放射性よう素0.01マイクロキュリーを飲まされる。むろん本人の同意はない。
 1940年代、ハーヴァード大学とマサチューセッツ工科大学で放射性物質入りのミルクなどを知能障害児に与える。ここでは原子力委員会(AEC)と国立保険研究所(NIH)がスポンサーとなっていた。
 1950年から10年間、合衆国全域で分かっているだけで200人以上の幼児に放射性よう素が注射または飲まされた。
 1960年から14年間、オークリッジ核兵器研究所の付属病院で89名の患者がネズミと共に放射性照射を受け、その中に8歳で死んだ幼児も含まれていた。

●米英原子力産業の利権構図

 マンハッタン計画の総指揮官はレスリー・グローブス准将だが、終戦後に退役してレミントン・ランド社という兵器会社を母体とする会社の副社長となった。その10年前のレミントン・ランド社の会長はGHQ総司令官のダグラス・マッカーサーであった。そしてこの会社はロックフェラー・ファミリーの系列下に属している。
 1968年2月25日、ディーン・ラスク国務長官が日本で「日米原子力新協定」に調印したが、このラスク国務長官のもう一つの顔はロックフェラー財団の理事長というものであった。そしてロックフェラー・ファミリーが管理する「ウェスティングハウス社」の製品が日本の関西方面の原発建設に使用されたのである。
 原子力新協定が調印されてから3年後、日本への原発誘致プロジェクトを推進させるための「日米経済諮問協議会」が設立、その代表団がアメリカからやってきた。その顔ぶれからも巨大な原子力産業の利権構造が浮かび上がってくる。  ロックフェラー・ファミリーの当主ディヴィット・ロックフェラーは、ロックフェラー財団の理事、W・マイケル・ブルメンソールを率い、そのブルメンソールは水爆メーカーのベンディックス社の社長でもあった。さらにそのメンバーの中に「カー・マギー社」のジョージ・マギーの名がある。

 MOX燃料を製造するこのカー・マギー社にはカレン・シルクウッドという若い女性が働いていたことがある。1974年11月13日に謎の交通事故で死亡したが、その現場から彼女がニューヨーク・タイムズの記者に手渡そうとしていた書類が忽然と消えていた。カー・マギー社はネガを修正して不正な合格品を出荷、彼女はその証拠書類を手に車を走らせて事故にあった。証人とされた人間が相次いで死体となり、シルクウッドの死体も家族の同意を得ずロスアラモス研究所に空輸され、放射能汚染の検査のために焼かれていた。
 そのロスアラモス研究所では原爆製造のために、当時はアフリカのコンゴ(現ザイール)からウランを調達していた。この時の監督官がイギリス人チャールズ・ハンブローで、CIAの前身OSSという諜報機関を設立、後に「ハンブローズ銀行」の会長となる。このハンブローと同名の祖父を通じて、イギリスのロスチャイルド・ファミリーとは遠い親戚になる。さらに遡ればオッペンハイマー・ファミリーとつながり、原爆の父にしてロスアラモス研究所所長ロバート・オッペンハイマーが登場する。
イギリスのロスチャイルド・ファミリーは金融王ネイサン・ロスチャイルドに源を発する一族だが、ちょうどその5世代ファミリーにハンブロー、オッペンハイマー、ロスチャイルド直系当主ヴィクター男爵が同じ血族として記録されている。
 またヴィクター・ロスチャイルド男爵の再従妹にナオミ・ロスチャイルドがいるが、その夫はベルトラン・ゴールドシュミットというフランス人だった。後に国際原子力機関IAEAの議長となるのだが、この男はマンハッタン計画の指導的立場にいた。そのマンハッタン計画に物理学者として参加していた前述のクラウス・フックスがおり、そのフックスが旧ソ連へ極秘情報を流し、旧ソ連の原爆第1号が製造される。そのフックスを操っていたのがイギリス内部に深く根差した「ケンブリッジ・サークル」という組織だった。共にケンブリッジ大学出身のイギリス諜報機関MI5、MI6の最高幹部4人が、この組織を通じてソ連に核ミサイルに関する極秘情報を流していたのだった。そしてその中にMI5のソ連担当官アンソニー・ブラントという人物がいた。ブラントは女王陛下の美術鑑定家としても名高くナイトの称号を与えられていたが、実はソ連の二重スパイとして女王陛下を裏切っていたのだった。そしてこのブラントはアーサー・ブラントという父を持ち、その血縁者エディス・ボンソワを通じてハンブロー・ファミリーと結ばれている。

 前述したプルトニウム人体実験コード番号「CAL−2」の4歳の少年、シメオン・ショーは5歳の誕生日を待たずに死亡した。プルトニウム239を注射されたシメオン少年が臨終の間際にあっても、家族は人体実験のことは何も知らないでいた。

 私は本当のことを知らず、何がシメオンに起こっているかも知らなかった。部屋に入ると灰色になった顔のシメオンが痛くて叫んでいました。子供の人生が残り少ないなら、できるだけのことをして楽しくさせてあげたかった。シメオンにプルトニウムを注射した医師は心というものがない人間です。何の感情ももたない人間が、この小さな命に苦しみを与えて殺したのです。

 1947年1月6日、シメオン・ショー4歳11ヶ月、オーストラリアで死亡。彼らにプルトニウムを注射した者たち・・・

サミュエル・バセット
医師、マンハッタン計画の後、原子力委員会AECの核実験に関与。新陳代謝の権威。

バートラム・ロー=ビーア
医師、人体実験に関与しながら放射能汚染の危険をも訴えていた。

ジョゼフ・ハミルトン
世界で最初にプルトニウムを人体に注射した医師。

参考資料
「軍縮」92年7月号、特集・核に汚染された地球
「SAPIO」94年3月10日号、悪魔のプルトニウム人体実験
国内の各新聞より
国内の各TV局の番組より
「赤い楯」上下・広瀬隆著
「プルトニウム人体実験」アルバカーキー・トリビューン編
「富国強兵論」日高義樹著

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ベトナム旅行記

 レジN

 私は、去年の暮れから今年の正月にかけてベトナムを旅行してきました。以下の文章は、旅行中に暇を見ては書いた手記による旅行記の一部をまとめたものです。
 旅行記全体は大変長いので断片的に切り抜いたような文章になってしまっています。もし、この記事を読んで「全文を読んでみたい」という気になった人がいましたら、れんこんネットの「れんこんネットOldies2、ホイホイ通り、乗っ取りボード」に全文が書かれていますので、そちらを参照して下さい。パソコン通信をしてない方はハガキでれんこんネット事務局に連絡していただければ、全文を印刷したものを私から郵送させてもらいます。

1、ホーチミンの第一印象
 ホーチミン市郊外のタンソンニャット空港を出て、通りに出た瞬間に全ての日本人はカルチャーショックを受けずにはいられないだろう。ここの雑踏というのは、とにかくすごい。ものすごい数のバイクに自転車、シクロ(*)、車、人、すべてがごちゃごちゃになって動いている。無秩序の中の秩序というものの究極形態を見る思いだ。全体としての流れのスピードは遅いということはあるだろうが、渋滞も起こさずにそれなりに交通が流れているというのには驚いてしまう。信号なんかあまりなくて、ほとんどみんなが強引に突っ込んで、そしてたくみに避けるということで交通の流れが維持されているのだ。
 このものすごい有り様の道路の両側には人々の生活がそのものが存在している。椅子を出して座ってくつろいでいる人(こんな空気が悪くて騒々しい中でよくくつろげるなぁー、と思う)、敷物を敷いてトランプをしている人達、黙々と本を読んでいる人、テーブルを出してご飯を食べている一家、お化粧をしている女の人、等々様々の人達がいる。そして、あらゆるところに椅子をならべた路上食堂が存在している。彼らにとって家というのは寝るところと、ちょっとした倉庫というような感じで、生活は家の外にあるのが当然のようだ。これは熱帯地域に住む人達には当然のことなのかもしれない。半分は路上で生活していると聞くと我々の感覚では「貧しい」という言葉に直結してしまうが、特別に貧しいというような感じはどこからも受けない。
 とにかく、交通の有り様から路上での人々の暮らしぶりなど、日本では絶対にお目にかかれない光景がここにはある。

 私のベトナムでの第一歩は、この路上に目を見張りながらホテルに向かうことで始まった。そして、ホテルを出て自分の足でその路上を歩き始めた時、自分自身がその路上の人になることが始まった。

 「まずは、そのへんをブラブラと歩いてみよう」と思って歩き始めたものの、ホーチミンの路上は、私の様なツーリストを決して放っておきはしない。  すぐにシクロのアンちゃんが寄ってくる。「あっちこっち全部おれが案内する、1時間1$でどうだ」というようなことを変な英語でしきりに話しかけてくる。100mくらいは平気でついてくるので、振り切るのが大変で、とても街の様子をのんびり眺めるという具合にはいかない。やっとのことで振り切ってサイゴン川の川縁まで来てそこの売店でコーラを買って飲むと、今度はおばちゃんが来て「遊覧船はどうだ」とひつこく迫ってくる。結局、そのおばちゃんはコーラを飲み終わるまでずっとそばにいて離れなかった。全く落ちつかないと言ったらありゃしないところだ。
 どの辺を歩いているのか地図を開いて調べようと思ってもすぐにシクロのアンちゃんが寄って来るので、もうとにかく適当に歩き回ることにする。
 しかし、他にも大変なことがあって、それは道路を渡ることだ。日本人の交通感覚ではいつまでたっても道路は渡れない。ちょっと途切れを見つけたら強引に突っ込んでいって、車やバイクに自分を避けさせるという感じで動かないといけない。だから、道路を横断している途中に急に走り出したり、急に立ち止まったりすることの方が危険なようだ。少し慣れてきてようやくなんとか道路を渡れるようになったが、それでも大きな道路を渡る時にはけっこう大変な思いをする。

2、ホーチミンの市場
 ホーチミンの市場はどのように形容していいのかわからない位スゴイ。ものすごい数の店がいたるところにビッシリ並んでいる。ベンタン市場のようにはっきり市場と言われているところは、大きな倉庫のような建物の中に店がギッシリ詰まっている。秋葉原のラジオセンターのような感じで規模を何十倍にもして、中に衣類や日曜品の店が詰まっていると思えばいいかもしれない。人の数もスゴイくて、人の間をすり抜けるように歩かないといけない。スリが多いと言われているが、日本でもこういう場所があればかなりのスリ犯罪は発生するだろうと思う。
 市場とか言われている建物だけで市場は終わらなくて、その回りを取り囲むように食品店などがどこまでも続く。私はベンタン市場からウロウロ歩いているうちに、食品を並べたお店が続く市場に踏み込んでしまい、そのうちどこにいるのかわからなくなってしまった。
 東京のような街では、デパートのようなビルの形で綺麗な小売店が無数にあるが、あれが全部小さな屋台のような店になって歩いて回れるような範囲にビッシリ詰まったら、いかなる事態になるかを考えてみれば多少は想像がつくかもしれないだろう。とにかく言葉ではなかなか表現しきれないものがある。

 市場の中を歩いていると、乞食をやっている障害者にけっこう出くわす。両手がない人とか、両足なくて台車のようなものに乗って移動しながら空き缶を持って回っている人とか、かなり重度の障害を持つ人が多い。中に一人、その人は乞食をやっていたのかどうかわからないが、枯れ葉剤被害の人なのだろうか、骨がグニャグニャ曲がっていて、下半身が異常に小さいとても直視していられないような人が街角に立っているのを見かけた。数分後にその人はシクロに乗ってどっかに移動して行ったようだった。
 ホーチミンの様な街で、老人や障害者はどうやって過ごしているのか、ちょっとその辺はよくわからなかった。街を観察する限りでは、かなり健康体の人でないと、街を自由に歩き回ることはできないように思えたが、どうなんだろう。

3、バス旅行
 ホーチミン周辺観光をしている時に、ユンという名のシクロの運転手と知り合い、彼の故郷であるカントーというメコンデルタ地域の都市郊外の田舎に連れて行ってもらうことになった。
 カントー方面に向かうバスの乗り場は、ホーチミンの中心部からシクロで40〜50分行ったところにあった。
 バス乗り場は大勢の乗客に物売りの人が混じり合っていてすごい活気であった。私たちが乗り込んだバスもすぐに満員になった。バスははっきり言ってオンボロだ。マイクロバスを一回り大きめにしたようなサイズで、ベトナム人の体格に合わせて座席がびっしり並んでいる。身長170センチ以上もある人は、立った時に天井に頭がつかえるだろう。もちろん、体の大きな人も通路とか一番前の席とかに車掌が席を用意してくれると思うから乗れないわけではない。
 私たちが乗ったバスもすぐに満席になって、午前8:00にホーチミン市はずれのバス乗り場を出発した。これから長いバスの旅が始まった。
 ひっきりなしに鳴るクラクションと車掌の叫び声を聞きながら私は窓際の席で外の景色を眺めていた。この車掌というのは、けっこう大活躍する人で、乗客を見つけて乗せたり、降りるべき人がいるところでバスを止めさせて乗客を下ろすのはもちろんのこと、バスの天井に上って荷物を積んだり下ろしたりとか、実際に若い男の人がやっていたが、パワフルな若者でないと務まりそうにない激務に見えた。

 ホーチミン市を出てからは、田園風景の中にたまに町があるという感じになってくる。ちょっと大きな町でバスが止まるとすぐに物売りの人達が寄ってくる。いろんな物を目の前に差し出されて、じっと大きな目で見つめられるので断るのが大変だ。特に10才位の女の子にジーッと物を差し出されて動かずに待っていられると、相当つらいものがあった。
 パイナップルの実をくり貫いたようなやつを買ったら500ドン(5円)しかしなかったが、とてもおいしかった。

 メコンデルタの地域に入ってくるにつれ、川を渡る回数が増えてくる。
 カントーまで行くには、メコンの本流を2回渡らなければならないが、そこはフェリーで渡る。
 バスの中は走っている時は風が入ってくるのでいいが、止まっている時は相当に暑くなる。それもあってか、フェリーに乗る時、わざわざ降りて船に乗り込んだ。ユンはフェリーにバスが乗り込む時の安全性を疑っているのか、「失敗したら、落ちて死ぬ」というようなことをしきりに言っていた。でも、満員のバスから一旦降りてまた乗るというのは大変で、再度乗り込んだ時は、他の人が我々の席に座っていたのを、どかしてまた座ったりした。この辺は、前に座っていた人に席の権利があることになっているのか、どく方の人も何の文句も言わずに席を開けてくれた。
 メコンの本流はさすがにでかい。川幅はさほどでもない(と言っても相当ある)が、そこを流れる水の量がすごい。日本人の感覚では、まるで海という感じがしてしまう。中国の黄河や長江になると、もっともっとでかいのだろうが。
 2度目のメコン本流を渡ったら、そこはカントー市だった。メコンデルタ地域最大の都市だけあって大きな町だ。

4、忘れられない田舎での体験
 カントーから、今度はセ・ラムという乗り物に乗った。
 私たちが乗ったセ・ラムの車掌みたいな仕事をやっていたのは15才位の女の子だったが、彼女の仕事ぶりもなかなか見事なものだった。乗客が道端にいるのを見つけると、トラックの屋根をバンバンと叩いて運転手に知らせて車を止めて、乗客が乗り込むのを手伝い、乗っている間に運賃を集めて回ったりする。普段はトラックの後ろにぶらさがるように乗っているのであるが、振り落とされることはないのかと心配になってしまう。
 セ・ラムに乗って1時間近く走っただろうか、もう相当の田舎に来た雰囲気の小さな市場の前で車を降りた、「ここがユンの実家なのかぁー」と思っていると、彼は「ここからまだ、2キロはある」という。ちょっと歩いて船着き場みたいなところに来て、そこから10人乗り位の船外機付きのボートに乗り込んだ。

 その船で、約20分位乗っただろうか、30m位の川幅のところから途中で15m位の細い川幅の方に入って行ってしばらく行ったところで、船を下りた。このくらいの川はこのあたりではもう網の目の様になっているのだろう、とにかく川沿いに人々の生活があることがわかる。交通機関は完全にボート中心の地域のようだ。このボートの上で、メコンデルタの田舎にどんどん入ってきているのがわかり、大変興奮してくる思いであたりをキョロキョロ見回していた。
 船を下りたら、今まで来た川にすぐ並行してもう一本の川があった。それはさっき途中で分かれた30m幅の川の続きになったいたということは後で知った。その並行する川の川縁に私たちは歩き始めた。途中にある小さな川を丸木橋でいくつも越えていく。一カ所だけ直径15センチ位しかない丸木で3、4メートル渡らないといけないところがあって、ちょっと緊張したが、何とか無事に渡り終えた。
 15分位歩いたところにユンの母方の祖父母の家があり、ユンはまずじいちゃん、ばあちゃんに帰郷の挨拶をした。私も紹介してもらって、そこでお茶を呼ばれた。突然孫と一緒に現れた日本人をニコニコしながらとても暖かく迎えてくれたので、このユンの故郷の村にはとてもいい印象で入ることができた。
 それから、すぐ近くにある父方のじいちゃん、ばあちゃんの墓に線香を上げに行った。両親に会う前にじいちゃんばあちゃんへの挨拶や墓参りをする点など、やはり年寄りを敬う儒教道徳の影響が強いのかもしれない。日本での私たちの風習より、もっと厳格にきっちりやっているという感じを受けた。
 ユンはそのような厳格な風習に縛られるのは少しめんどくさそうな表情でもあった。

 このじいちゃん、ばあちゃんの家から30m幅の川を対岸に渡ったところがユンの両親のいる実家だった。ユンのお姉さんかもしれない女性がボートをこいでこっちにやってきて、私たちはそのボートに乗った。ベトナムの写真でよく見るクロスする櫂のボートで、ユンが「こいで見ろ」と言うので私はトライしてみたが、初めてなのでなかなかうまくこげない。なんとか苦労して対岸にたどりついた。
 そこでは、ユンの両親を始め親戚一同が大歓迎で私を迎えてくれた。電気は当然のごとくないし、番地もないので郵便も届かないというようなところだけに、日本人が来たなどというのは一大事件であったのだろう、いろんな人が集まってきていた。ユンとは変な英語を使いながらも何とかコミュニケーションできるのだが村の人達とは全く話ができない。ユンがいない時は、目が合えばニコニコするしかコミュニケーションの手段はなかった。

 ユンのお父さんは45才ということだが、とてもそんな年には見えない位に若々しい青年の雰囲気が残っている人だった。ベトナム人にしては大柄で身長は170センチ位はありそうだった。それに、けっこうハンサムでかっこいい。残念ながらユンは、このかっこいいお父さんには似なかったようだ。
 実際の行動もまず日本人には真似ができないほどたくましい。私を歓迎してヤシの実ジュースを作るために、20mはあろうかと思われるヤシの木にするすると上ってヤシの実を数個取ってくれた。「それから、夕食にニワトリはどうだ」ということで生きているニワトリを抱えてきた。私が気づかないうちに、そのニワトリをしめて皮をはいで、家の前の川で洗っていた。こんな野飼いのニワトリのしめたばかりのやつを食べさせてもらえるのかと思うと、それだけで夕食がとても楽しみになってきてしまった。
 私は、この土地と、このようなユンの家族の大歓迎に、とても感激してしまって、ここに来れただけで今回のベトナム旅行は後は何もなくても十分だなぁーと思ってしまった。

 ニワトリの他にブタも飼っているし、そこいらに果物はとても豊富にありそうだった。米も3期作、4期作で作れるらしい。正にメコンの恵みで人々が生活しているという感じの地域だ。かつては日本の農村でもそうだったのだろうが、現金収入などほとんどなくてもやっていける生活がここにはあるようだった。
 それでもユンは、両親や大勢いる子ども達のために実家に金を入れないといけないので大変だと言っていた。この地にも少しずつではあるが都市化波が来始めているのだろうか。都市化の波によって、こののどかでやさしい人達の環境が破壊されないことを祈るばかりだ。私の様なツーリストが踏み込むこと自体、あまりよくない事なのかもしれない。

 ユンのお父さんは「泊まって行ったらどうだ」みたいな事を言ってくれていたみたいだった。ベトナム人の民家に外国人が無許可で宿泊することは法律で禁じられているはずだが、この村では、そんなことは関係ないのだろうか。実際私としては、ここに2、3泊してこの村の生活をもう少し堪能して行きたい気分だった。
 今日はとにかくカントーのホテルまでは戻ることにして、ユンと、カントーまで行くと言うユンの友人、それにちょっと市場まで一緒に行くというユンのお父さん、お母さんが私と一緒にボートに乗り込んだ。ボートをこぐのはユンのお父さんだが、来る時は船外機付きのボートで来たから20、30分で来れたが今度は手こぎなので1時間近くかかる。それを全く疲れた表情も見せずにこぎ続けるのだから、ユンのお父さんは本当にタフだ。「こんなおじさんが一杯いてベトナムゲリラになれば、それは強いはずだわなぁー」、と変に納得してしまう。
 途中で一回岸につけて、岸に上がったと思うと、別の親戚の仏壇に線香を上げに行っただけだった。敬虔な仏教徒の習慣が根付いているようだ。

 ユンのお父さんのこぐボートの上で、私は生まれて初めて見る数の星を見た。空は快晴で、月は出ていない。そして電気なんか来ていないメコンデルタの小さな川の上から見上げる星空なのであるから、生まれて初めて見る星の数は当然のことだろう。「空には、こんなに星があったのだなぁー」と改めて思いながら、いつまでも眺めていたいような気分だった。
 木々の回りに数十匹の数で群れるように飛ぶホタル(でないかもしれないが、とにかくホタルの様に光る虫)も初めて見た。
 「これは金をいくら積んでもそう簡単に味わえるものではない幸福な時間を送っているのだなぁー」としみじみ思った。

 船を下りて、来るときにセ・ラムを降りた場所にある小さな市場で私たち5人はビールを飲んだ。ユンのお父さんが知っている一番の都会はここらしい。
 私が一日に100$は稼ぐという話を聞いて、ユンのお父さんはとてもびっくりしていたようだった。彼が得る現金収入は1年でせいぜい200$くらいらしい。私は日本ではものすごい物価が高いことも一生懸命説明しておいた。
 分かれる時に「今度来る時は、もっとゆっくりして行け」というようなことを言ってくれたので、私は「是非そうしたい」というようなことを言って、なごりおしみながら、ユンとユンの友人の3人でセ・ロイに乗ってユンの両親に別れを告げた。
 帰りは夜だったので、道に人どうりがないから少し早かっただろうか、40、50分くらいで私たちはカントーに戻ってきた。

5、最後の夜
 カントーからさらにベンチェを経由してホーチミンに戻って来たのだが、紙面の都合で、この間の出来事は省略する。

 ベトナムでの最後の夜だから、もう一度街角の路上でビールを飲みながら時をすごしたくなってホテルの近くの路上飲み屋にやってきた。ホーチミンの街には、こういう場所は無数にあるので全く探す努力はいらない。注文の仕方も分かってきたので、あまりビクビクしないで客席につけるようになってきた。せっかく慣れてきたのに、今夜で最後というのは大変残念だ。

 こうやって、9時になっても一向に絶える気配のないホーチミンのバイク、車、自転車のごちゃまぜの交通を見ていると、ベトナムという所は、田舎と都会のギャップがものすごい激しいとこであることを実感する。都会と一般的に言うより、このホーチミンが全く異常な世界であるというのが正しいのかもしれない。
 ユンの実家のようなところに住んでいる人にとっては、ホーチミンは想像もつかないところだろう。カントーにすら行ったことがないユンのお父さんは、ここは一歩も歩けそうにない世界に見えるのではないだろうか。
 農業国のベトナムは、こういうギャップをこれからどうしようとしていくのだろうか。

 あれだけ豊かな土地に故郷を持つユンですら、都市に出稼ぎに来ている。この事実は何を物語っているのだろうか。日本の地方都市から東京に出て来ている私が何か言えたものでもないが、ベトナムの農村が都市の食い物にされていくことがないのを祈るばかりだ。

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